09/11/25 16:45:10
ドンこい909さんへ
勿論想像ですよ。でもね、六年に詔はあったが黄幢は届いていない。八年以降、黄幢、詔書の移動はあるが詔が出たとは書いてない。
六年と八年以降の黄幢、同じものと考えるのが自然でしょ?ところが「訟相攻撃状」は八年。なら六年詔はそれに起因したものではない。
では黄幢を下賜するという行為が何を意味するか?旗を渡すという行為…
呉志周ほう伝「乞請幢キ数十以為表織使山兵吏民」曹休を欺く為に書いた手紙の第七です。
兵を集めるので旗を数十授けて欲しいと。 つまり旗を下賜するというのは渡す側の集兵作戦であるという事です。
又「檄告諭」と出てきます。檄…「檄書 急いで軍隊や同志を集める為のふれぶみ(類)檄文」 (藤堂明保編漢和大字典)
「檄文 兵隊を召集する回状 めしぶみ」(阿部吉雄編漢和辞典) 上記「集兵作戦」と同意と考えるのが自然だと思いますがね。
倭人伝に於いては唐突な感じがしますが、前条である韓伝に韓地における戦いの様子を書いており、前条から続けて読む読者には決して唐突ではないでしょう。
しかし、この出兵要請の詔に対し、倭兵が動いた記述無し。八年の新太守に出兵しない理由として「国内の緊張状態」を述べているのです。
外交上のエクスキューズと捉えれば、狗奴国との戦争なんてなかったと考えて不自然じゃないでしょ?
しかし、郡としては、既出の詔の施行を粛々と実施した…という流れだと思います。