09/11/22 22:24:35
箸中山古墳という名称こそが邪馬台国畿内説を否定する決定的な証拠です。
畿内勢力は魏ではなく、魏と対立する蜀の劉備玄徳(前漢の中山靖王の末裔)の封柵を受けていたということです。
魏が蜀と関係のある中山というの名称を使うわけがないのです。
ちなみに、吉備に呉(くれ)があることでわかるように呉と関係が深かった。
つまり、三国志時代の魏・蜀・呉は日本で代理戦争をしていたということです。
魏の封柵を受けていたのは、ほかでもない、九州の筑紫だったということが理解できましたでしょうか?
これですべての謎が解けた!!