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■「大和国」の由来は韓国 (新羅のおかげ)
◎大化の改新も新羅人のクーデターだった
南朝鮮、韓国の歴史学者文定昌氏の「日本上古史」の中に書かれた「大化の改新」に関する部分を、韓国における状況の反映として紹介している。
◎「日本上古史」文定昌
孝徳王朝はこれよりただちに、日本有史以来はじめての年号を定めて大化とし、法制・官制、その他の文物制度を新羅、唐の
それを再販的に移植したのであるが、この事実は「日本書紀」にも記録されているので、日本の史家たちはこれを大化の改新と言っている。
(注:新羅は法興王七年( 520)に律令を制定して公服を定めたが、これは中国が唐となる98年前の事であった、)
このころ新羅は善徳女王が死んで、真徳女王が立ち、真徳女王はその年号を「大和」とした。
そして、金春秋がその実権を握ることになった。
このとき、金春秋は倭(やまと)から来ていた高向玄理(たかむくのくろまろ)を帯同して倭国に乗り込み、進行中の大化の改新に
拍車をかけて、倭国の名を新羅の年号「大和」としたものであるが、これが日本列島内に「大和国」というものの生まれたはじめであった。
大化の改新そのものは、土着していた新羅系渡来人が中心になって引き起こしたもので、母国の新羅がそれを後押ししたものであろうとする。
そして、金春秋も実際その目的で日本へ来ていたであろうとし、大化の改新は高向玄理ら渡来人が青写真を引いたクーデターだったと結論づけるのである。
今となっては、果たして真相は奈辺にあるのか誰にもわかりはしない。それこそタイムマシンで過去へでも行かない限り、実際の所は確かめようもない。
しかしこの時期、渡来人達が日本の形成に多大の貢献と指導力を発揮したであろう事は容易に想像しうる。
現代日本人のDNA調査で、韓国人に一番近い人々は近畿圏に集中しているという事実を見ても、多くの渡来人達が
日本の古代国家の成立に大きく関わっていたのは間違いない。
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