09/10/03 09:37:09
>>639
この時代(4世紀後半)の百済や伽耶は領土も大きく高句麗は勢いが増してる時期
新羅だけがひ弱という構造の中で果たして大和朝廷が海を越えて百済や新羅を
臣下にしたなんてことが本当にあったんだろうか?
ましてや伽耶も全盛期(新羅に降伏するのは532年、滅ぼされるのは562年)
普通に考えて伽耶や百済の要請で高句麗と戦うために備兵として雇われたと考えるほうが
当時の東アジアの力関係から見て妥当な考えだと思うが
倭人は人口が多く兵力の代償に伽耶から鉄資源、百済からは先進技術などを
取り入れた、そのための機関こそが大和のミコトモチといい半島南部に設置した
そこに駐在していた大和からの倭人達(6世紀中頃まで)の墓が安羅などで見られる墓
であり新羅に伽耶が滅ぼされる562年前後までその機関はあり伽耶滅亡後は
倭人達は大和に帰還した
その後、蘇我馬子や聖徳太子がミコトモチのあった伽耶の鉄資源を再び取り戻すべく
新羅征伐を敢行するが新羅出兵は中止される
つまり新羅や百済を臣下にして朝鮮半島南部をを支配してたわけではなく
鉄鉱石や先進文物を入手するための外交施設のようなものであり、それが
日本書記編纂で「任那日本府」などと書かれたために今日まで物議を醸している
百済や伽耶の要請で海を渡って戦いに参加した倭人が余りにもたくさんいたため
高句麗は倭が海を渡って百済や新羅を臣下にしたと勘違いしたんではないだろうか
実際は百済や伽耶の備兵として戦っただけなのに百済、伽耶以外に大和の倭
まで参加してきた連合軍を我々は打ち果たしたと誇張したかったんではないだろうか