09/10/03 00:21:06
>>626-627
丁度、『広開土大王碑文』や『三国史記』で百済・新羅が人質を倭に送る時期にあたる4世紀末から5世紀始めごろから、日本で鉄製甲冑・武器・馬具といった軍事的な遺物が全国的に激増する。
この遺物変化は九州や吉備に限定されるものではない。
この全国的な遺物変化が何を意味するかと言うと、この時期日本列島の大部分から兵員が朝鮮半島へ派遣される状況にあったことを意味する。
こうしたことは大和の王権による号令がなければ起こりえないこと。
また、大和の王権は本拠を内陸の奈良盆地から、海に面した大阪平野に移している。これは半島の軍事状況に対応した処置と考えるのが妥当である。
そしてこの時期、大阪平野に築かれた前方後円墳は最大級に達している。これはこの時期に大和王権の勢力が最大化していることを意味する。
これらを考え合わせると大和の王権が全国的に号令を発して軍勢を動員し、朝鮮半島に派兵し、当地に何らかの勢力圏を確立していたことは明確である。