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●任那日本府の真実
広開土大王碑文には百済を服属させたのは、倭つまり日本でなく高句麗であったと言える。当時倭は倭寇等で呼ばれていた
少数分散的略奪集団で、百済と新羅を審問にする程の大規模な軍事集団を持っていなかった。
従って広開土大王碑には新羅を侵略した倭を高句麗が退けたという内容がいくつも出てくるのである。
日本初期に日本府は"大和の御事持"であると記録していることから、日本府は総督府のような軍事統治の支配組織ではなく、
王の使臣を称するものであったことが確認できた。
日本が伽耶出身で、主に吉備、河内地域にいた伽耶系日本人を外交使節として安羅に派遣し、鉄器や土器の輸入を
担当させていたと考えられる部分である。
大阪にある辛国神社は、伽耶人たちが交流の多かった日本に移住したした6世紀頃、故郷を偲びながら祖先を祀っていたのが
始まりであると伝えられている。特に安羅国が滅亡する6世紀末、多くの伽耶人が日本に移住し定着していたという。
従って日本が伽耶の鉄器文化に影響されたのは、北九州博物館や奈良の橿原博物館に展示されている鉄製の鎧や兜から
確認できるが、これらは大抵5世紀頃作られたもので、伽耶のものより100年も後れて伽耶の鉄と技術で作られたものである。
この他にも伽耶の鉄と先進文物が、日本の古代国家形成に決定的な役割をしたということは、様々なところから推定することが出来るであろう。
また日本で伽耶土器と知られている須恵器の大量出土は、伽耶の須恵器製造集団の日本移民を意味するものであろう。
こういう関係から考えて古代日本が古代韓国を支配したということは、考えにくいのではないだろうか。
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