09/09/25 22:27:10
>>584
『日本書紀』をみてみると、天智天皇4年(麟徳2年、665年)条の
「是歳、遣小錦守君大石等於大唐、云々。等謂小山坂合部連石積・
大乙吉士岐彌・吉士針間。蓋送唐使人乎」が対応するようです。
「唐使人」というのはこの年に来航した劉徳高、百済禰軍、郭務悰
を主とする254人で、守君大石、坂合部連石積らはその送使となり
ました。岩波『日本書紀』の補注によると、守君大石の官位が小錦
と送使にしては高いこと、劉徳高が泰山に近い山東省沂州の司馬
であったことから、劉徳高の来航および守君大石の遣唐の目的は
封禅の儀への参加であった可能性が高く、また実際に封禅の儀が
執り行われたのは麟徳3年正月で、おそらく彼らは封禅の儀には
間に合わなかったろうが、遅れて参加したのだろうとしています。