任那と加羅と日本府と【10ヶ国め】at HISTORY
任那と加羅と日本府と【10ヶ国め】 - 暇つぶし2ch466:日本@名無史さん
09/09/19 10:03:14
■好太王碑の謎「百残新羅旧属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡海破百残□□新羅以為臣民」

●倭が百済や新羅を支配下においてしまうほどの軍事大国だったのか?

碑文の中でも常に論争の的となってきたのは、第一面の8行目後半から9行目にある。

「百残新羅旧属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡海破百残□□新羅以為臣民」の節です。
この文の意味は「百残(百済)と新羅はもともと高句麗の属民であり、高句麗に朝貢していた。
ところが倭が辛卯年(391年)より以来、海を渡って百残を破り、新羅を□□して、臣民にしてしまった」と解釈されてきました。
 
そこからは、百済、新羅を臣民にして、高句麗と対抗するほどの軍事大国だった倭のイメージが思い描かれます。
はたして、倭の実態はそのようなものだったのでしょうか。
戦後、韓国と朝鮮民主主義人民共和国の研究者から異論がいくつか提出されました。鄭寅普(ちょんいんぽ)さんは
「百残と新羅は(好)太王のともに属民であった。しかるに、倭がかつて高句麗に来り侵し、高句麗もまたかつて海を渡って往きて
(倭を)侵し、相互に攻めあった。そして、百残は倭と通じて新羅に不利をはたらいた。(好)太王は、吾が臣民がなぜこのような
有様なのかと思った」と解釈しました。

朴時亨(ぱくしひよん)さんは「倭が辛卯年に侵入してきたために、高句麗は海をこえて彼らを撃破した。
百済は(倭をひき入れ)新羅を侵略し、それを臣民とした」とし、また、金錫亨(きむそくひょん)さんは
「倭が辛卯年に来たので(高句麗は)海を渡って百済を破った。そして新羅をもあわせて高句麗の臣民とした」とする解釈を下したのです。

また、碑文に記された倭が日本列島のヤマト政権のことを指しているのかということも問題です、西日本各地の豪族が率いた
海賊集団を意味するという説や九州北部におかれた百済の分国だとする説もあります。
少なくとも、4世紀後半の日本では、百済や新羅、はては高句麗まで攻め入るほどの軍事力を持っていたのかは大いに疑問です。
碑文に記された倭の文字は中国の王健群(わんぢぇんちゅん)さんによれば、周辺国中最多の11箇所にのぼります。
好太王の好敵手のように扱われていた倭の実態はいまだ多くの謎に包まれているのです。



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