09/07/03 02:14:14
幕府の撒兵組とはなんなの?
3:日本@名無史さん
09/07/03 03:01:47
撒兵隊でしょ
造築兵(工兵)だよ
4:日本@名無史さん
09/07/03 07:33:36
黒鍬組?
5:日本@名無史さん
09/07/03 14:35:58
へええ
6:日本@名無史さん
09/07/03 18:06:08
幕末のヘタレぶりのせいでイメージが悪い。
旗本、御家人共に惰弱過ぎる。
一部を除いて二本差しの資格すらない。
7:日本@名無史さん
09/07/03 20:53:05
なんとまあ
8:日本@名無史さん
09/07/03 23:24:32
末期の旗本と満州八旗どっちがヘタレ?
9:日本@名無史さん
09/07/04 00:41:08
旗本にも旗人にも優秀な人とヘタレと両方いる
10:日本@名無史さん
09/07/04 01:06:08
>>8
イエニチェリ
11:日本@名無史さん
09/07/04 02:41:30
勝海舟を初め旗本出身で歴史に残る人は結構いたけど満州で有名な人っていたの?
12:日本@名無史さん
09/07/04 11:30:38
火盗改 森山孝盛
13:sage
09/07/04 12:49:05
>>11
その勝海舟も、ほんとうのご先祖が大金持ちで、(勝家という)
ご家人の身分を分割相続財産として父の小吉が買ってもらった。
勝海舟と同様事情の親族に剣豪男谷信友がいる。
維新で活躍した下級武士には、三代前の先祖が上記類似もそうとう存在。
14:日本@名無史さん
09/07/04 12:49:57
>>11
太平天国軍を撃破しまくって恐れられた人がいなかったっけ
結局最後は戦死したけど
15:日本@名無史さん
09/07/04 12:55:46
幕末の旗本だと、小栗はよく知られた名門の出だね。
徳川氏の本宗家である松平本家の分家。
山岡鉄舟も、勝みたいな成り上り旗本ではないよね確か。
あと大久保一翁とかもいる。
16:日本@名無史さん
09/07/04 13:17:39
旗本男谷家の株を買ったのは小吉の祖父米山検校
小吉の父は勘定組頭を務めた男谷平蔵
小吉は勝家の婿養子
17:日本@名無史さん
09/07/04 13:47:38
勝家の相続は怪しいんだよね
末期養子は認められないと思うんだが
小吉の養父甚三郎は縁組の時点でもう死んでたっぽい
18:日本@名無史さん
09/07/04 13:53:29
旗本なのに拝領屋敷持ってなかったの?
19:日本@名無史さん
09/07/04 15:12:56
>>11
栄禄とかセンゲリンチンぐらいかな
20:日本@名無史さん
09/07/04 18:25:46
幕府神道方の吉川氏も旗本ですか?
21:日本@名無史さん
09/07/04 18:35:51
>>20
旗本
22:日本@名無史さん
09/07/04 18:38:33
宣雄
30才 西ノ丸書院番
40才 小十人頭 →布衣
47才 先手頭
54才 京都町奉行 →備中守
55才 没
宣以
29才 西ノ丸書院番
39才 西ノ丸徒頭 →布衣
41才 先手頭
42才 火付盗賊改
50才 没
宣義
26才 書院番
27才 小納戸 →布衣
23:日本@名無史さん
09/07/04 19:12:45
岡村寧次閣下も旗本の子孫
24:日本@名無史さん
09/07/04 21:46:50
男子をは八歳以降は常袴 行儀作法を教え育てよ
手習と読書の道を急ぐべし 無筆無学はならぬ役人
十五歳前の武術は無益なり 腕かよはくて術もかなはず
部屋住に五倫の道を守りつつ 弓馬のほかに槍と剣術
25:日本@名無史さん
09/07/05 21:29:10
御小姓組 御書院 新御番 大番 小十人 これ五番方
御奉公願の内は稽古する 御番入りして止る不届
布衣以上役々の子は芸術を 若年寄衆御見分あり
布衣以下の子は番頭立合に 弓馬改め書上をする
跡継の小普請組は御奉公 願書とて支配衆へ出す
26:日本@名無史さん
09/07/06 17:11:49
指で穴 さぐりながら 口寄せて
なめて吹きだす 尺八の笛
27:日本@名無史さん
09/07/06 22:56:18
御小姓組は元来御近所の 流を汲みて至り気の在
御書院は先祖奉行の子孫にて 何れ気体も律に在
新御番御代治りて出来御番 何共なしに物静なり
大御番昔諸国の召出し どこともなしに気体たくまし
小十人大御番士の末子より 召出だされて気体こまやか
28:日本@名無史さん
09/07/11 18:51:07
>>13 榎本の先祖もそうだよな?
家康時代からの旗本で活躍したのは小栗ぐらいか
29:日本@名無史さん
09/07/11 21:44:40
備中福山藩の庄屋の三男に生まれた箱田良介真与は神童の誉れ高く
江戸に出て高橋景保や伊能忠敬に師事して伊能の九州測量にも同行
榎本武兵衛武由の娘とみの婿になって榎本円兵衛武規と名乗り天文方に出仕
とみが娘らくを残して早世したため林代次郎正利の娘ことを後妻に入れ
長男鍋太郎武与、次男釜次郎武揚を得た
従って武揚には本来の榎本家の血は流れていない
武規は小録の御家人だったが伊能没後日本地図を完成させたり
目付を歴任、また紅葉山御霊屋敷の修繕に従事するなどしてたびたび
褒賞を下され、武揚8歳の時に御目見となって旗本に列した
幕臣になったのは御家人株を買ったからだが出世は本人の才覚による
家督を継いだのは兄なので武揚もまた本人の才により取り立てられた
30:日本@名無史さん
09/07/11 21:59:23
山鹿素行 『武教小学』
URLリンク(www.nicovideo.jp)
URLリンク(www.youtube.com)
武教小学は山鹿素行の講義などを基に門人達が簡潔にまとめたもの。
大石内蔵助、吉田松陰、乃木希典大将へと大き な影響を及ぼした兵学者・儒学者が示した
江戸時代の泰平の世の武 士の日常生活規範がここにあります。
31:日本@名無史さん
09/07/12 00:11:06
>>28
お前が小栗しか知らないだけだ
32:日本@名無史さん
09/07/12 01:57:13
>>28
曝しage
33:日本@名無史さん
09/07/30 22:53:51
江戸時代に詳しそうなみなさんに質問させてください。
幕臣というのは江戸のどの辺に住んでるものなんですか?
産まれるのは自宅ですか?
34:日本@名無史さん
09/07/31 08:43:00
>>33
神田とかあのへんじゃない?
高家今川家の屋敷もあったとか。
35:日本@名無史さん
09/07/31 08:45:49
>>33山手
36:日本@名無史さん
09/07/31 09:06:52
>>33
URLリンク(map.goo.ne.jp)
こういう地図があるよ
37:33
09/08/01 17:30:40
みなさんありがとうございます!
今ファンタジーの江戸が舞台のお話を書いてて、実際の江戸とまったく同じじゃなくて
いいんだけどある程度は本物の江戸っぽくしたかったんです。
地図も教えていただいてありがとうございました。
すごい助かります。
38:日本@名無史さん
09/08/02 03:41:19
>>36 の古地図を見るとこの一角が「黒鍬組」となっていますね。
URLリンク(www.google.co.jp)
こんな狭い所に黒鍬組が全員住んでいたとは思えませんから詰所でしょう。
周囲には「小役人」と書かれた区画がたくさんありますから、そのあたりに
黒鍬組の人たちが住んだんでしょう。個々の屋敷じゃなくて長屋ですかね。
39:日本@名無史さん
09/08/26 06:27:36
質問
低家禄の旗本Aさんが勤め優秀で足高を受けて布衣役⇒諸太夫の高職についた
場合、鈴木○○守×× などと○○守と名乗ることができたが、その者が役を
降りて隠居した場合、その者は死ぬまでその○○守を名乗ることができたので
しょうか。
低家禄の高職者が役を降りた場合は、属人的に小普請入りせず、寄合入り
(役寄合)したらしいですが・・・
40:日本@名無史さん
09/08/26 07:02:24
隠居したものは、○翁など隠居号を名乗る例だから(≒出家も同然)
官名とかは無関係になるよ
でも墓石には、前×州太守○翁居士とか書くよ
41:日本@名無史さん
09/08/26 22:17:49
>>13
勝家は御家人でなく旗本とここにくわしく書いてある。
URLリンク(dokugen.web.fc2.com)
この一連のどこかに男谷信友のこともあったが探すの面倒。
>>16
逆に男谷平蔵は初め御家人だったと。
URLリンク(dokugen.web.fc2.com)
>>17
末期養子の判元見届とかを受けたらしい。
URLリンク(dokugen.web.fc2.com)
42:日本@名無史さん
09/08/28 06:09:05
>>40
Thank you
43:日本@名無史さん
09/08/28 07:32:58
>>39>>40
武家が隠居後に号を名乗るのはケース・バイ・ケースで、
隠居後も守名乗りを続けている場合もある。
守は官名とはいいつつ、江戸時代の武家では名前みたいな扱いだし。
44:日本@名無史さん
09/08/28 15:41:21
質問なんだけど旗本が別の旗本の領地に住むってありえる?
45:日本@名無史さん
09/08/28 17:34:56
旗本は原則、江戸居住を義務づけられてるから、それはない。
ただし、別の旗本の屋敷の中に住んでるやつはいた。
46:日本@名無史さん
09/08/28 20:18:04
>>41
モノホンの旗本がこんな自伝を書いたのか それも勝海舟のオヤジで江戸弁
あと御家人とか旗本とか実名でワンサカ出てきてこのスレにピッタシ
47:日本@名無史さん
09/08/28 21:39:19
>>41
意外だな
末期養子が認められなかったのは大名だけの話か
48:日本@名無史さん
09/08/28 21:57:16
それと系図を見て思ったんだが男谷家の
新次郎と平蔵は兄弟で平蔵の息子彦四朗と新次郎の娘遊が結婚(いとこ同士)
その2人の間に生まれた娘の鶴はかなり血が濃いと思うが
鶴は新次郎の息子忠之丞の息子である精一郎と結婚(これもいとこ同士)
それでちゃんと4人の男子が生まれてるんだねえ
49:日本@名無史さん
09/08/29 00:48:14
百人町鉄炮祭り行くやついる?
50:日本@名無史さん
09/08/29 10:42:38
>>48
精一郎って男谷下総守信友のことですよね。
Wikiなんかには男谷新次郎信連の子って書いてあるけど違うの?
見た系図ってどこにありますか、教えてください。
51:日本@名無史さん
09/08/29 10:48:52
>>45
㌧クス
52:日本@名無史さん
09/08/29 14:35:08
>>50
このスレの >>17 をクリックして8行目の先頭の「系図」をクリック
53:日本@名無史さん
09/08/29 22:28:38
>>50 おれは52でないが、ほれこれっ!
URLリンク(dokugen.web.fc2.com)
んで頭は
URLリンク(dokugen.web.fc2.com)
54:豚松 ◆4FfyOtW0fiF5
09/08/30 01:14:44
御家人斬九郎って西尾松平氏の家系らしいのに
旗本じゃなく御家人なんだ?
フィクションだけどさ
55:名無しさん@そうだ選挙に行こう
09/08/30 09:01:29
フィクションはさておき,松平姓の御家人っていなかったのかな?
56:名無しさん@そうだ選挙に行こう
09/08/30 10:28:51
江戸時代の旗本や御家人が役に就くには、現代日本の公務員みたいに採用試験をしていたのですか?
57:名無しさん@そうだ選挙に行こう
09/08/30 10:42:02
旗本は何故幕末に幕府を守れなかったのですか?
旗本=幕府警備員は、今で言う自宅警備員と共通する無駄飯し食い最終消耗品だったのでしょうか。
58:50です
09/08/30 18:47:39
>>52
41の>>17だったんですね。
>>53
ありがとう。この系図すごい細かいので、男谷下総守信友は忠之丞の息子が正しそう。
Wikiの新次郎息子説は間違いなんでしょうね、多分。
59:日本@名無史さん
09/08/31 20:17:58
御家人って 徳川家康が石田三成と、関が原の戦いで天下を争った時には
弓、槍、鉄砲を扱って実際に戦闘していた、足軽でしょ。
その後、徳川が天下を取って、しだいに戦闘がなくなっていったので
身分としては御家人と名称を変え、職名としては与力、同心になったのでは
ないだろうか。
( 足軽の小頭が与力、足軽が同心 )
60:日本@名無史さん
09/08/31 20:21:29
>>59
ちがうよ
足軽は諸藩が率いてましたよ
61:日本@名無史さん
09/08/31 20:37:30
>>60 足軽は諸藩が率いてましたよ
徳川家には、足軽はいなかったの?
関が原の時は、江戸幕府はまだなかったから、形の上では徳川は豊臣家の
家臣で、「 諸藩 」の一つ。
62:日本@名無史さん
09/08/31 20:37:41
>>60
だから~
関ヶ原の時点の徳川家は諸侯だろがw
63:日本@名無史さん
09/08/31 20:45:20
>>59
御家人の地位を低く見過ぎ
64:日本@名無史さん
09/08/31 20:46:37
親玉が出世すれば下賎な身分の者共も分不相応に処遇される。
65:日本@名無史さん
09/08/31 20:53:51
四天王、譜代藩は家老・侍大将クラスで旗本は馬廻衆か侍衆クラスで与力・同心は徒士以下の足軽クラスでしょ?
66:日本@名無史さん
09/08/31 21:00:52
実際、毛利家・上杉家の家老クラスは諸侯並の実力を持ってた訳だし。
67:日本@名無史さん
09/08/31 21:19:06
>>65
足軽は徳川家中の陪臣だよ
68:日本@名無史さん
09/08/31 21:25:28
関が原当時の徳川家の軍役はそのまま幕府の軍役になってるよ
69:日本@名無史さん
09/08/31 22:09:24
>>57
よく言われるように、清朝の旗人同様に貴族化・高等遊民化してたのが大きいな。
「貴族」と言ったらオーバーかもしれんが、江戸のような大消費都市で遊惰な生活送ってたら、
いまさら戦国時代の三河武士みたいな心境や生活にはもどれんだろ。
70:日本@名無史さん
09/08/31 22:21:36
>>57
岡っ引き は 町人だよ
岡っ引き=警備員は非武士だから
刀を持つことができない。
従って 十手と先又などしかもてない。
現代の警備員もサービス業会だし
町人ですから
71:日本@名無史さん
09/08/31 23:10:18
御家人斬九郎みたいな人ってほんとにいたの? 親類なのに御目見え以下って…
72:日本@名無史さん
09/08/31 23:45:06
この話に出てくる大久保本家って御家人なのかな?
江戸時代の中頃に、三河から出てきた大久保氏という武士が三百戸以上あった。
その中には小田原の殿様烏山の殿様など、大名になった大久保家も数家あって、
其本家はたつた二百石取りの、大久保新八郎とかいう御家人であったが、
しかもこの一門は珍しく律儀で、始終交際して本家を敬つて居た。
たとえば大名の大久保で代替りの跡目相を立てるにも、
必ず本家に申し出て承認を受けた上でないと、外部には披露しなかったと伝えられる。
柳田邦男 家閑談
73:日本@名無史さん
09/08/31 23:49:55
訂正 国男
74:日本@名無史さん
09/09/01 00:16:52
200石あるのに知行ないのか。
75:日本@名無史さん
09/09/01 00:34:32
すまん勘違いした
76:日本@名無史さん
09/09/01 01:34:56
目見以上・目見以下すべての幕士の総称として御家人と呼ぶ場合多いよ
77:日本@名無史さん
09/09/01 12:15:37
>>67 足軽は徳川家中の陪臣だよ
ソースはあるの? それとも、自分の思い込みなのかな。
陪臣というと例えばどっかの旗本の家臣なのかな。
なにか、足軽と 中間や小者をいっしょくたにしてないかな?
78:日本@名無史さん
09/09/01 13:01:33
旗本は軍役に応じた人数の押し足軽、鉄炮足軽などを抱えているからね
もちろん中間小者も雇ってるし侍、徒士や若党もいるけど
79:日本@名無史さん
09/09/01 16:16:57
伊賀やら甲賀の鉄砲組やら同心あたりが幕府の足軽なんかねぇ
80:日本@名無史さん
09/09/01 19:56:53
鉄炮組同心とかは将軍家の直参だから足軽とは違うね
幕府の御家人に足軽はいないし、足軽といえば大名や旗本が抱えてるその名も足軽だよ
なんか映画やドラマの合戦シーンでよくある足軽主体の集団戦のイメージが強いのかな?
呼称こそ同心だが実際に足軽扱いだったのは八王子千人同心くらいだね
八王子千人同心は御家人じゃないけどな
81:日本@名無史さん
09/09/01 20:54:27
>>80 幕府の御家人に足軽はいないし
徳川家康が抱えていた足軽は、関ヶ原で石田三成方と戦った以後
つまり、幕府を開いた以後はどうなったの?
82:日本@名無史さん
09/09/01 21:01:38
徳川家康って直接足軽を召抱えていたの?
83:日本@名無史さん
09/09/01 22:45:52
>>80八王子千人同心はいわゆる郷士みたいなもんだろ。
同心あたりはまさに足軽じゃないのか。
84:日本@名無史さん
09/09/01 23:52:43
足軽スレでなく旗本、御家人スレに戻してくれ。
親馬鹿小泉のおかげで年収がとんでもない事になったが、
旗本、御家人で最低家禄だった貧乏幕臣チャンプは誰?
さあ、みんなで探してみよう。
85:日本@名無史さん
09/09/02 01:44:17
>>81
徴兵されてた農民は、農民に戻り、
専業戦闘員だった人員は武士階級の下のほうへ。
86:ねこ
09/09/02 01:44:44
東京は「日本の東の都」という意味ではない
URLリンク(akiba.geocities.jp)
「東京」とは、「東洋」の都、つまり、「大東亜共栄圏」の都という意味だった。
すでに江戸時代の国粋主義者が「東京」という呼び名を使っていた。
87:日本@名無史さん
09/09/02 07:07:32
元紀州藩士
御庭番家筋17家(のち22家)について
村垣、梶野、川村など幕末の優秀な官僚(諸太夫役など)が輩出されたが
あくまで、御庭番家筋の家として維新にいたった・・・
88:日本@名無史さん
09/09/02 07:14:25
『大坂町奉行所異聞』では、与力は200石の家来を常備する義務を持った侍身分で、一人でなく一騎と数えられたとある。
ただし、出身は旗本常備軍に編成される足軽。
与力という名前は、直臣であることを示しているけど。地方支配が進むに従って、例えば小泉藩片桐氏についていた与力
同心が問題を起こして懲罰的に陪臣にされたなどのケースがあり、足軽にも直臣のものがいたことがわかる。
89:日本@名無史さん
09/09/02 07:59:39
>>88
足軽じゃないよ
90:日本@名無史さん
09/09/02 08:20:14
>>89
与力の出身は足軽で、江戸幕府ができたことでそれまで陪臣だった家臣が譜代大名になったのと
同じように騎馬の侍身分になった。
91:日本@名無史さん
09/09/02 10:50:34
>>90
幕府の与力は足軽出身じゃないよ
92:日本@名無史さん
09/09/02 11:11:14
>>91
こっちは一応論文に提示されている具体例を述べているんで、反論するなら
もう少し客観的な話をしてくれたまえ。
93:日本@名無史さん
09/09/02 11:43:33
その論文の与力が足軽出身である事を示した箇所の抜粋とその根拠になる史料を書いてくれ~
94:日本@名無史さん
09/09/02 12:04:43
大阪町奉行所与力といえば大塩だけど大塩家は小田原合戦当時すでに足軽じゃないよね
95:日本@名無史さん
09/09/02 13:17:28
江戸期以後の足軽
安土桃山から慶長の末にかけて爆発的に増加した足軽組織は、平和な時代の到来と
ともに再編成への道をたどった。
軍夫・夫丸などの戦闘補助員は、もともと徴用された百姓身分であったからスムー
ズに帰農するケースが多かったが、問題は純戦闘員であり鉄砲・長柄・弓といった専
門職の足軽だった。
徳川家では彼らを「御先手」などと称し、各種の役職の下に附属させた。平時の行
政機関に組み入れて、その雑用をまかせたのである。
彼らは組頭・小頭・組下という名称から、与力・同心といった役名に変化した。こ
れは古く武田家や後北条氏でも行われていた呼び名で、与力は「与騎」と書く場合も
ある。室町期の「寄親・寄子」制の名残りとも言うべきものだった。
96:日本@名無史さん
09/09/02 13:37:25
寄親である与力が騎乗を許され、配下の同心が徒歩であるところも似ている。彼ら
は、武具の各奉行、江戸城や駿府・大坂の定番、船手や町奉行所、留守居など約五十
近くの役所に詰めて、その下役と化したのである。
幕府では通常、将軍に御目見できる者を旗本。それ以下の者は御家人として、百石
以下の蔵米を俸給にしていた。各役所の与力は通常八十石(御切米約二百俵から百三
十俵)、同心は三十俵二人扶持から十五俵二人扶持を貰うので、まさにこの中にあて
はまる。しかし何事にも例外はあり、将軍直属の足軽である「御徒士」の一部と「御
小十人組」は、最下級の御目見格を有していた。
97:日本@名無史さん
09/09/02 14:03:38
彼らは軍陣に揃いの軍装で出陣する。それらは自弁ではなく、普段は武具専門の奉
行が保管している。御徒士は派手な金箔押軍配団扇の合印をつけた緋羅紗陣羽織に朱
の具足。御小十人組も金の輪貫の前立をつけた兜に、朱の胴をつけ、袖と脛当だけ装
着しない。合戦が始まると、将軍の近辺を警護し、時には命じられて物見にも出るか
ら、腕自慢の者も多く、前者は七十俵五人扶持、後者は平均百俵の切米を貰っていた。
士分としてはぎりぎりの収入で、しかも、御小十人組の場合、この下に足軽である
与力・同心が附属する。
なお、御徒士でも、先祖代々仕えた御譜代席の者以外は、「御抱え席」と言い、
一代限りの臨時抱えが決まりであった。もっとも、この制度は一人が役職を離れる時、
その子か縁者が跡目推挙を受けるので、事実上は世襲と変わりがない。しかし、表
向き一代限りの臨時職というあたり、下級の与力・同心は、戦国期のお雇い雑兵と
まるで同じ扱いであった。
雑兵足軽たちの戦い 東郷 隆 講談社文庫
98:日本@名無史さん
09/09/03 20:29:10
>>58
遅レスだが、Wikiやnetを鵜呑みしては駄目。系図が詳細と正確は異なる。なのだが、
>>53のサイトを見ていくと、「明治19年の大日本人名辞典が、男谷精一郎は新次郎の子と誤記」
したことが誤りの発端だと記述されている。次の中の11行目のリンク「彦四郎」。
URLリンク(dokugen.web.fc2.com)
99:日本@名無史さん
09/09/03 20:47:06
>>96>>97
突っ込みどころ満載だなw
Wikipediaとか一般刊行書籍を疑いもなく検証もなしに真に受けて鵜呑みにするというのは恐ろしいことだね。
まあ検証するほどの知恵も知識もないんだろうな。
100:日本@名無史さん
09/09/03 21:22:42
旗本の最高職は御側御用取次と大留守居のどっちですか?
101:日本@名無史さん
09/09/04 06:23:09
大概順では
1高家 職禄1500石高 雁間詰め
2御側衆 職禄5000石高 -
3駿府御城代 持高,御役地2000石 雁間詰め
4伏見奉行 持高,御役料3000俵 芙蓉間詰め
5御留守居 職禄5000石高 芙蓉間詰め
6大御番頭
7御書院番頭
8御小姓組番頭
9林大学頭
10田安殿家老
・
・
・
102:日本@名無史さん
09/09/04 06:45:04
ウザい奴がいると思ったら>>99はただのブヨか。
103:日本@名無史さん
09/09/04 07:35:41
>>99おみゃーの頭の中にはCPという発想は無いのか?ネットっていうのはCPを突き詰めた結果信頼性が等閑にされてる
104:日本@名無史さん
09/09/04 08:05:19
当時の記録が重要なんじゃないか?
105:58
09/09/04 19:33:16
>>98
ありがとう。幕末の剣聖といわれた男谷下総守に興味あったので、教えてもらったサイトで
忠之丞の子と判明しスッキリした。
"男谷" "精一郎" "忠之丞" で検索すると20件強しか出ないが、「忠之丞の子」と正しい。
"男谷" "精一郎" "新次郎" で検索すると100件以上出るが、「新次郎の子」としていて、
明治19年の人名辞書の誤記を120年以上も引きずってるんだ。
106:日本@名無史さん
09/09/04 20:57:08
ネットとか検索とかうんざりだわ
一次史料っていうので語れよ
107:日本@名無史さん
09/09/04 21:25:30
失せろブヨ。
108:日本@名無史さん
09/09/04 21:35:29
与力が足軽とは飛躍しすぎだわな
109:日本@名無史さん
09/09/05 08:16:59
>>106素人が一次資料に当たれる沸けないだろうに。本字点で2次3次でまたまた編纂側の勘違い誤植等キリがない
110:日本@名無史さん
09/09/05 13:55:17
で、結局徳川家の足軽はどうなったの
111:日本@名無史さん
09/09/05 14:42:25
明治になってキリスト教伝道者となった原胤昭という人は若い時、南町奉行所与力で
あった頃の事を振り返り、こう語っている。
「与力は南北(奉行所)互いに二十五人ずつ。その下に同心百三十人ずつ。(中略)
何しろ江戸八百八街をわずかこれだけの人間で取り鎮めて行くのだからえらい権力が
あった。『与力、相撲に火消しの頭』と江戸三男の筆頭に唄われた。」(『戊辰物語』)
こうした治安担当の下級役人にも軍役がちゃんと割り振られている。
「俗にいう『八丁堀の旦那衆』の勢いは大したものだが(中略)いざ戦争という時に
は馬へのって出陣する役向きでありながら、幕末にはもう満足に馬へ乗れる与力さえ
少なくなって、具足を着て馬へのったら一歩も出ぬ中にすべり落ちたなどという話が
残っている。」(同右)
これがその昔、多くの敵を震えあがらせた太田道灌以来の騎馬足軽の系譜につながる
人々とは思えぬ、堕落ぶりであった。普段、町で威張り返っている与力がこんな
風だから、同心も似たようなものだ。
112:日本@名無史さん
09/09/05 15:06:43
幕府が長州征伐に出陣した折、町奉行所にも動員がかかった。ある女性が、顔馴染みの
同心も出陣すると聞き、見送りに出たが、行列の中に一向その姿が見つからない。
よく観察していると、同心はみすぼらしい足軽の姿で従っている。その時になって
彼女は、日頃、旦那と呼ばれ羽織に着流し、粋でかためた御役人の本当の身分を
知って、がっかりしたという。
『新東鑑』等の軍器詳細図には、奉行所与力は兜付の御貸具足に二幅の背旗。
同心は陣笠に足軽胴、帯の背へ一幅巾の腰旗を斜めに差し、槍または銃器を持っている。
前述の原胤昭が記念に撮った写真の中にも、奉行所の旗印が写っていて、ひとつは
乳の付いた「ぎぼし」の旗。もうひとつは縫含で、「南」の一字を書いた、
ともに大型の四半旗であることがわかる。
雑兵足軽たちの戦い 東郷 隆 講談社文庫
113:日本@名無史さん
09/09/06 07:21:50
>>101
4伏見奉行
と
6大御番頭
は譜代大名からも選任された重職ですね。
114:日本@名無史さん
09/09/06 08:33:04
秋葉原周辺を歩いていたら茶坊主の屋敷跡みたいな標識があったが茶坊主は旗本?御家人?軍役はあるの?
115:日本@名無史さん
09/09/07 11:38:36
旗本用水奉行小泉次大夫吉次の子孫は東京都北区西ヶ原に住んでいます。
千葉市花見川区検見川町の小泉さんも。
116:日本@名無史さん
09/09/07 15:42:01
>>115
アボーン
117:日本@名無史さん
09/09/07 17:10:44
交代寄合ですが田舎の豪族が多いと聞きますがどの程度の豪族から採用なんでしょうか?
某中部地方ですが郡下一の名門家は天領であったため只の庄屋へ。隣の国では在地代官へ
118:日本@名無史さん
09/09/07 18:01:51
交代寄合でも表御礼衆は織豊政権時代の大名や江戸幕府の大名の分家などが主だから、四衆のことを言ってるんだろうな。
那須・美濃・伊那・三河の4箇所で、家康が特別の格式を認めたそれぞれ数家ずつだけが選ばれている。小笠原一族の中でも
名族とされる伊豆木小笠原氏とか、美濃の水行奉行を仰せつかった高木氏の三家とか。
郡下一程度なら、庄屋か惣代庄屋程度が相応だろう。
旗本と村方役人の庄屋は待遇に天と地ほどの開きがある。とは言っても、家康が幕府を開いた段階で知行をニ、三百石ほども
認められていれば旗本、どれだけ知行があろうと帰農して領主を頂くほうを選択すれば庄屋だった。大庄屋は天領にもあったが
のち廃止されて惣代庄屋が置かれている。在地代官は天領では皆無、というか幕初に旗本として取り立てられて代官業務を
行っている。旗本知行地では在地代官の実例が多い。
119:日本@名無史さん
09/09/07 20:39:06
庄屋そのまま先祖も農民です。
役人ではなく農村の町内会会長ぐらい
120:日本@名無史さん
09/09/09 06:09:05
◇交代寄合表御礼衆20家
松平家の一門・譜代
○三河新城7000石 菅沼家
○下総飯笹6000石 松平(久松)家
○三河西郡4500石 松平(竹谷)家
○駿河久能1800石 榊原家
○遠江気賀3459石 近藤家
旧織田・豊臣系
○出羽矢島8000石 生駒家
○備中撫川5000石 戸川家
○美濃岩手5000石 竹中家
○大和田原本5000石 平野家
中世以来の豪族
○常陸志筑8000石 本堂家
○近江朽木4770石 朽木家
旧守護大名系
○但馬村岡6700石 山名家
○近江大森5000石 最上家
大名の分家・一族
○越前白崎3000石 金森家
○陸奥横田5000石 溝口家
○豊後立石5000石 木下家
○備中成羽5000石 山崎家
○肥前富江3000石 五島家
○日向飫肥2000石 伊東家
○播磨福本6000石 松平(池田)家
121:日本@名無史さん
09/09/09 09:12:02
>>119
庄屋は村方役人。帰農した武士がかつての家臣団を従えたまま土着するケースも多い。
江戸期には基本的に村方の自治を領主が村方役人に一任する傾向が強いために、
もと在地土豪の館は堀を巡らし、蔵や塀などで堀べりを固めた重厚なつくりであることも
珍しくない。屋敷のつくりは領主が命じた格式に則るが、比較的高い格式が認められることも
ままある。
武士ではないから藩政機構には組み入れられず、江戸後期以降には財政改革などの際に
下士から中士程度の待遇で召抱えられてことに当たる場合があった。
大庄屋は領主の方針にもよるが置いていた領主も多い。天領では中途で廃止。10か村から
数十か村程度を束ねる立場で、あくまで村方役人ながら村方における権勢は最上級。
領主によっては、旗本領や藩飛地領などの領主在所からの遠隔地域の場合には、大庄屋や
有力庄屋を在地代官に任命して藩政機構に組み込み年貢取立てなどを行うことがあった。
122:日本@名無史さん
09/09/09 11:53:11
関西系は庄屋はずーと庄屋で分家が武士になるパターンが多い気が(ソースは無い)この場合は大規模農家って感じ
関東系は農家自体が武装化傾向が強い(江戸期も含めて)、まあ鎌倉幕府成立の傾向のごとく武士でしょ(侍ではない)
中部系東海系九州系は土地持ちはほぼ武士。戦国期戦の多い地域だったから当然。ただ東海系は商人のイメージも
異論は多いと思う
江戸期の武士なんてほとんど三河美濃の農民上がりだろ?
123:日本@名無史さん
09/09/09 13:45:21
畿内でも帰農した武士は多い。土豪クラスの小競り合いで大勢力が出来にくいから柳生程度の勢力が乱立していた。
奈良県域なら大和武士と呼ばれているけどね。また、機内では商品経済の浸透のために経済的影響で旧家は
他地域と比べて零落しやすかった。近畿で江戸初期と中期以降で村方役人層が大幅に入れ替わっているのはこのため。
124:日本@名無史さん
09/09/09 16:08:12
>>123なるほど、そういうのって地元じゃないと分かりにくいからね。畿内の人ですか?
長野だと武田旧臣(人によっては小さな同盟者と言う人もいるが)が元禄にかけて新田開発をして名主になっている。田舎だからほぼ固定
≫117にあるけど。長野にも信濃源氏の血統を確実に持った家があるけど名主だね。旗本になるってのはよっぽどの格式が無いとだめなのか?
125:日本@名無史さん
09/09/09 16:10:02
格式でなく徳川家との縁。徳川が家臣に取り立てたかどうかが大きい。
126:日本@名無史さん
09/09/09 17:17:49
信州の場合は、家康と度重なる攻防を繰り広げた地域だから、敵対の度合いが低く、
家臣として取り立ててメリットのある軍事力を持っていたかどうかが分かれ目だろう。
127:日本@名無史さん
09/09/09 17:56:14
>>118
あなたは詳しそうですね。
私が調べている某村は幕府と旗本領の相給で、名主が数人いる状態だった。
それで天領を管理する人は名主ではなく旗本だった?みたいで、在地領主的旗本のようなものだとか。
最初聞いたときは本当かよとおもいましたが、なんかありえそうな感じですね・・
こういうことはありえますか?
128:日本@名無史さん
09/09/09 18:44:31
世襲在地代官が自家の知行地とは別に代官業務で近隣の天領のいくつかの村を支配していたのであれば
そのケースに近い。近江国の多羅尾氏や、京代官の小堀氏、角倉氏、木村氏、韮山代官江川氏などが
これに相当する。幕初に多かった世襲代官も、幕政改革で腐敗を追及されて多数が処分されて一部のみが
残った。
ただし、村は領主と村方役人の二重支配構造になっているため、名主の代わりに旗本ということは、異なる
階層のため考えられない。たとえば旗本知行地に地方役人を昇格させて在地代官として取り立てる場合で
さえ、別途庄屋・名主が指定されて業務分担を行った。ましてや幕藩体制では幕府代官は旗本、旗本領の
在地代官はようやく士分として認められている陪臣だから、格が違う。
「天領を管理」の実際が不明瞭のため、この程度の一般論でしか返答不能。
129:日本@名無史さん
09/09/09 19:00:08
補足。
領主:幕府、大名、旗本、天皇・皇族・公家、寺院・神社など
村方役人:庄屋(名主)・年寄・百姓代の村方三役。地域や領主により大庄屋・中庄屋が置かれるケースあり。各役の呼称は
地域性の影響が強い。
領主が幕府の場合、地方支配は代官所の代官が行う場合と、預かり地として大名に支配を任せる場合があった。また、多くの藩や
旗本知行地では、代官(大藩では通常郡奉行などの指揮に従い、手代数人を指揮下に置く)が派遣されるか、村方有力者から
抜擢されて、大庄屋や庄屋に対して直接の命令を下す。数百石程度の小領の場合には代官が数か村を束ねる必要がないため、
村方役人に直接年貢献納等の業務をさせる場合も多かった。
130:日本@名無史さん
09/09/09 19:48:03
>>121庄屋屋敷の格式ってのはどういうもんですか?土地の広さや長屋門?
旗本屋敷ってのも細かく規定されてたの?
131:日本@名無史さん
09/09/09 20:24:46
庄屋て町人です。
132:日本@名無史さん
09/09/09 20:29:49
>>131
町に住んでいないのに町人のわけがない。町方と在方は江戸時代には区別されていた。
133:日本@名無史さん
09/09/09 20:45:14
>>130
領主によって違うし、領主からどの程度の格式を認められた庄屋かによっても違う。
実例を色々と見てきたところでは、長屋門がある場合も多いようだ。門構えが格式の一番の要素だとはよく聞くね。
旗本屋敷は江戸の拝領屋敷だから広さは決まっているけど、大名以下、やはり門構えなども細かく決まっていた。
ただ、格式というのも厄介なもので、百姓個人の家を支配する領主からの格式と、他領や幕府から与えられた
格式が食い違う場合がある。百姓個人は場合場合でそれぞれの格式にふさわしい服装や振る舞いをしなくてはならない。
幕府からは士分待遇を受け、領主である藩からは大庄屋(すなわち百姓身分、ただし苗字帯刀)筆頭の待遇を受けた
家という実例もある。
134:日本@名無史さん
09/09/09 21:03:37
庄屋は豪勢に農村部地区に住んでいた。
庄屋農民だよ
135:日本@名無史さん
09/09/09 23:02:16
大本の身分の括りでは,庄屋も百姓身分。
人別帳で管理される被支配階級。
格式云々って言っても,所詮は被支配階級内での序列。
それも支配する側が,懐柔するための手段として与えたもの。
136:日本@名無史さん
09/09/09 23:49:09
大都市だが近所に史跡に指定されている長屋門がある
母屋は古民家を保存展示してる施設に移築された
この家は名主だったそうで当主は県会議員(衆議院2度立候補)
近くの古刹の副住職が経営する不動産屋が傾いて寺地の一部を売った時
寄進した寺地は檀家のものだと裁判を起こして勝訴した
137:日本@名無史さん
09/09/10 00:50:15
寺地は檀家のものだろ。
住職個人のもののわけがない。
居住分だけが主張できる。
寺は村落の公共地だよ。
宗教法人には檀家総代が役員として名を連ねているはず。
ちなみに宗教法人は寺の数だけ存在する。本山だけではない。
繋がりとしては檀家の方が強い。
138:日本@名無史さん
09/09/10 01:47:10
知人の、やはり裕福な寺の奥さんだけど
一応は「寺はお預かりしているもの」って言ってるもんなー。
139:日本@名無史さん
09/09/10 02:46:46
歴史が好きで九州のそれなりの由緒ある神社に行った時
宮司が不在で奥さんと少し話したけど
東京から来たと言ったら大喜びで昔話とかしてくれたな
大神社の宮司家ってやっぱりそれなりの格同士で結婚するみたいで
そこの奥さんは東京から仕方なく九州の田舎に行ったような
140:豚松 ◆4FfyOtW0fiF5
09/09/10 03:12:31
今レスを見て話をぶり返してしまうが、徳川幕府の与力の
先祖が足軽というのはトンデモ話だよ。
その家によっては先祖が足軽だったところもあっただろうが、
大半の先祖は徒以上。徒は最下級とはいえ足軽と違い侍だったから、
その末裔たる与力は更に騎乗身分になれたわけ。
同心の先祖は先手組だったかもしれんが、それは俺にはわからん。
141:日本@名無史さん
09/09/10 08:28:27
火付け盗賊改め方長官って御先手組頭って聞いたけどそう?
142:日本@名無史さん
09/09/10 08:41:12
御先手組の出役だよ
143:日本@名無史さん
09/09/10 09:26:15
>>140
町奉行所与力だと小田原北条氏の遺臣や那須衆が多い
もちろん足軽などではない
144:日本@名無史さん
09/09/10 13:51:29
北条の遺臣は領知を取り上げられている以上、再仕官で元の待遇を受けられるはずがない。
恐らく、与力が足軽か否かという話は、例えば足軽組頭を士分と見るか、カシラといえど足軽の代表に
過ぎないと見るかといった、主観的判断で人によって分類が異なる事例を水掛け論的に応酬しているに
過ぎないのではないか。
145:日本@名無史さん
09/09/10 14:41:55
元の待遇?何言ってんだ?
足軽は足軽で与力は与力だよ
146:日本@名無史さん
09/09/10 14:43:57
>>144
君は与力の待遇わかってる?
147:日本@名無史さん
09/09/10 14:53:21
大坂町奉行所与力なら200石高。軍役一騎五人。
つーかスレで語られたことすら把握せずに突っ込んできてる奴がいるんじゃないのか。
148:日本@名無史さん
09/09/10 15:06:21
もしかして、織田信長など戦国大名が行っていた与力・寄騎と混同して「柴田勝家の寄騎の前田利家や
佐々成政が足軽って常識以前のアホだろ」とか思ってるようなアホまで混じってたりはしないかね。
149:豚松 ◆4FfyOtW0fiF5
09/09/10 15:20:36
>>143
サンクス。
>>144
後北条旧臣たちは分相応に召し抱えられた者が多いと聞くよ?
特に小田原よりも多かった江戸城詰めの江戸衆。
150:日本@名無史さん
09/09/10 15:24:40
>>149
上の>>95-97の感想をどうぞ。
151:日本@名無史さん
09/09/10 20:42:07
一騎二騎と騎で数えられる足軽がいるかよw
町奉行所には同心とは別に足軽がいるんだし
152:日本@名無史さん
09/09/10 21:21:01
大体このあたりが一般的な認識。
URLリンク(detail.chiebukuro.yahoo.co.jp)
153:日本@名無史さん
09/09/10 21:29:16
足軽小頭がのちの与力。その上の足軽大将までいけば明らかに士分なんだけどね。
グレーゾーンだから、時代の遷移を無視して無造作に語るのも齟齬が生じる元になるだろう。
154:日本@名無史さん
09/09/10 21:47:51
ちなみに小十人番士は旗本ながら騎乗は許されず、禄高も低い。御家人の与力同心などとともに
グレーゾーンに位置した直臣が、時代の変化とともに御目見得と知行禄高との待遇でそれぞれ
倒錯してしまった例だ。
騎乗すれば足軽でないという基準なら、与力は与力として扱われている時点で足軽ではないのだろう。
与力が出自そのままの待遇でないことは、上で、もと徒士だったと言っている人もいるから異論はないの
だろう。だからこそ、その線引きがどの程度一般性を持つかは一筋縄では行かない問題なんだけどね。
『大坂町奉行所異聞』では、下のように書いている。この箇所に引用文献はついてないけど。
与力は騎馬同心とも称されるが、知行高二〇〇石の家来を常に常備しなければならない
侍身分である。出身は旗本常備軍に編成される歩兵・足軽であった。(以下略)
155:日本@名無史さん
09/09/10 22:36:05
>>154
小十人がグレーゾーン?
156:日本@名無史さん
09/09/10 22:46:44
>>153
>足軽小頭がのちの与力
これのソースあります?徳川氏関係の史料で見たこと無いんだが?
157:日本@名無史さん
09/09/10 22:47:20
>>139
宮司とか元武家とか貴族とか縁者多いよな。元武家子孫とか住職とか多いし。
豊臣秀吉のブレイン黒田勘兵衛後々出家し黒田如水と名乗り関ヶ原で抜けた間に九州攻めてたし島津氏の領地行く寸前に家康から書状が届き九州攻め失敗。徳川家康のブレイン住職だったしな。
関ヶ原でも家康の横に甲冑をきて武装した住職が座って采配していたよな。
家康の親戚や縁者住職多い。
会津藩主の松平容保は日光東照宮の宮司になったし
158:日本@名無史さん
09/09/10 22:51:31
江戸時代以前から公家やら武家やら身分なら政略結婚多い。
幕末以前から朝廷やら公家やら武家やら婚儀されていたからな。
身分高い人達は縁者が多いよ。
159:日本@名無史さん
09/09/10 22:55:41
>>157
住職ってこいつ馬鹿だな
160:日本@名無史さん
09/09/10 23:00:34
山内一豊と千代か
菩提寺が妙心寺だよ~ん
161:豚松 ◆4FfyOtW0fiF5
09/09/10 23:01:27
>>150
読んだけど幕府の御徒組って足軽なの?
普通の藩では徒は足軽より上で明確に区別されていたのだが。
小十人組にしても他藩の扈従組(小姓組)に該当するはずで
他藩では上士下位ないし中士のはずなのだが、幕府のそれらは
身分と職制が(少なくとも俺の頭ん中で)こんがらがって
複雑・・・
162:日本@名無史さん
09/09/10 23:02:18
キモオタ系の危険な方向へと迷走中の鷲宮神社だが
ここの旧神主家は旗本との姻戚関係が深い
163:日本@名無史さん
09/09/10 23:03:03
住職wwwww
164:豚松 ◆4FfyOtW0fiF5
09/09/10 23:09:10
土佐藩の武士身分序列
家老
中老
馬廻
扈従組
留守居組(職制の留守居役とは全く別で他藩の中扈従組に相当)
白札
郷士御用人
郷士
用人
徒
足軽
大庄屋
庄屋
地下浪人
土佐の事情から大庄屋や庄屋も山内家来・藩士という点は
特殊だが、他はいたってシンプル。
彦根藩や加賀藩の身分制度もシンプル。
長州藩はかなり複雑。
165:日本@名無史さん
09/09/10 23:24:18
長州って複雑なの?
毛利家臣団の基本格ってこんな感じだよな?
一門六家
永代家老二家
寄組
大組
船手組
遠近附
寺社組
鷹匠・鵜匠
無給通
船頭
膳夫
江戸徒士
地徒士
三十人通
陣僧
大坂船頭
士雇
足軽
166:日本@名無史さん
09/09/10 23:29:17
各地 藩体制によって身分は様々だよね。
土佐藩は身分に1番厳しい藩だったからね。
何故かって
よそ者の山内家配下になり
身分が厳しいさを増した。
167:日本@名無史さん
09/09/10 23:34:48
>
土佐藩は身分に1番厳しい藩だったからね。
168:日本@名無史さん
09/09/10 23:35:34
>土佐藩は身分に1番厳しい藩だったからね。
一番?どこも似たり寄ったりだと思うけど?
169:日本@名無史さん
09/09/10 23:37:06
一番厳しかったのは薩摩じゃない?
鎌倉以降ずっと島津だけど、薩摩ほど侍が威張り散らしていた藩もない。
侍の中でも城下士と郷士の間の階級差別は凄まじかったらしい。
170:日本@名無史さん
09/09/10 23:39:51
各藩体制だよ地方分権とかわらない。
序列や身分様々です。学位とか世襲とか藩により
171:日本@名無史さん
09/09/10 23:40:13
今の高校生に、昔 日本とアメリカは戦争したことが有った というと
え うそ! それで どっちが勝ったんですか と
とてもビックリする人が 結構居ると聞いたことがある。
64年前のことでこれだから、141年前のことでは、判らなくても 当然か。
それぞれが 自分の思い込み 刷り込みで色々なことを言っている。
断片的な知識ではなくて、いま少し系統だった史実を語ってくれる、
神の降臨を 待ち望んでいます。
172:日本@名無史さん
09/09/10 23:42:41
土佐藩は城近くに住む上士や郷士
と土佐は身分差が厳しいよ。
173:日本@名無史さん
09/09/10 23:43:37
今の高校生にとってこの前の戦争というと、イラク戦争か湾岸戦争のことです。
ただ、京都では応仁の乱らしいです。
174:日本@名無史さん
09/09/11 00:38:52
>>173
誰が、面白いことを言えと
175:日本@名無史さん
09/09/11 00:58:16
>>173
大津では「この前の戦争」って壬申の乱のことだって知ってた?
176:豚松 ◆4FfyOtW0fiF5
09/09/11 01:10:34
>>172
事実、土佐の郷士は高知城下町にも多く住んでいたよ。
ただし、郷士御用人から下は酷い差別を受けていたのは事実。
薩摩も相当酷かったらしいが。
まっ、それを言えば、長州も会津も阿波も差別が厳しかったけど。
だけど、俺は差別のことを言っているわけじゃなくて、
身分が長州藩みたいに細かかったり、(少なくとも俺の頭では)
幕臣身分みたいに他藩のそれと比較し難いとややっこしい。
177:豚松 ◆4FfyOtW0fiF5
09/09/11 01:19:32
事実、土佐の郷士は高知城下にもって言い方は間違い。
実際は、だな。
178:豚松 ◆4FfyOtW0fiF5
09/09/11 02:01:00
>>165
うん、そんなところだし、それでも俺には十分細かく思えるが、
俺が萩・山口で調べた時には更に細かく分類されていた。
時代にもよるのだろうけどね。
細かさよりかも見慣れぬ名称が多くて驚いた。
さらに驚いたのは会津。
中士(寄合)身分がやたらと多いのだけど、それがまた細かいは、
聞いたこともない名称だはでわけがわからんかったよ。
179:日本@名無史さん
09/09/11 02:34:25
なんで下級武士論的な話題になると決まって土佐山内家の話になるんだろう
ここは旗本御家人だのに
180:豚松 ◆4FfyOtW0fiF5
09/09/11 02:42:11
>>179
済まん。少なくとも今回は俺が(自分ではわかりやすいと
思っている)土佐藩の身分制度を持ち出したことが原因。
181:日本@名無史さん
09/09/11 02:49:01
ヒント
司馬遼太郎の悪影響
182:日本@名無史さん
09/09/11 06:26:18
>>169
劇画の薩摩義士伝は必読だな。冒頭のひえもんとりは薩摩武士の残忍さを遺憾なく表現しきっている。
中途打ち切りなのが残念でならない。
183:日本@名無史さん
09/09/11 06:48:14
>>161
幕府は急速に膨張した組織だから、逆に圧縮を受けた大藩と比較しても意味がない。
だから時期による変化が重要だと言ってる。
幕府の扈従組は、大身旗本でさえ襖の開け閉め程度の仕事だったりするからな。側用人も
小姓のようなものだし。
小十人は扈従人の文字を変えただけの言葉だけど、将軍親衛隊の歩兵、すなわち足軽。
ただし御目見得資格がないと側についていられないから旗本ということらしい。
184:日本@名無史さん
09/09/11 06:55:47
尿筒を扱う公人朝夕人やらは御家人だったとかいう小説を見たことがあるけど、wikiでは中間とある。
襖の開け閉めとそれほど違いがあるのやら。御殿に上がって業務を行うか否かが分かれ目か?
185:日本@名無史さん
09/09/11 07:55:42
歩兵=足軽?
なんでこうなるんだろ?
186:日本@名無史さん
09/09/11 08:06:58
グレーゾーンだから、各個で実態にあたらなきゃならない。
wikiには徳川家で徒士組を編成したのは慶長八年とあるけど、それ以前はどうだったのやら。
187:日本@名無史さん
09/09/11 09:07:17
なんでWikipedia?
188:日本@名無史さん
09/09/11 09:31:26
徒士と足軽は明確に違うだろ
徳川氏の足軽は大名や旗本の家来なんだから
189:日本@名無史さん
09/09/11 10:18:35
>>188
どうかお願いだから引っ掻き回さないで欲しい。
多分ここでは、同心が足軽ってことに今のところ異論が出てなさそうだし。
190:日本@名無史さん
09/09/11 11:00:29
徒士は同心じゃないよ
同心と足軽も違うよ
騎馬ではない徒武者や歩行を足軽だと思ってるの?
191:日本@名無史さん
09/09/11 11:55:57
女郎屋の若い者が旗本
URLリンク(homepage3.nifty.com)
192:日本@名無史さん
09/09/11 18:46:30
徒士は仮に足軽ではないとしても、武士(侍)とは言えないのは確かだな。
193:日本@名無史さん
09/09/11 19:25:41
この種の問題は、時代による扱いの変化やら組織による違いやらを抜きにしては話ができないのに。
194:日本@名無史さん
09/09/11 20:47:02
>>183
小十人まで足軽にすんなよw
195:日本@名無史さん
09/09/11 21:56:36
>>192
どこの家中でも徒士と諸足軽は別物
戦国時代だって徒士と足軽はちがう
戦国大名の家中では騎乗ではない小侍も給人として着到の義務などの軍役を課せられていた
徒士立ちの家来に宛てた「早く馬を飼えるだけの分限になれ」と励ます北条氏邦の書状は有名
196:日本@名無史さん
09/09/11 22:23:58
>>195
北条の馬上足軽ね
197:日本@名無史さん
09/09/11 22:26:53
江戸期の庄屋っ戦国期武士だった家多いといわれてるが、地侍は一応騎乗身分なの?
戦国期に足軽大将から感状貰ってるけど・・・
198:日本@名無史さん
09/09/11 23:01:48
戦国時代なら、なおさら徒士は武士ではなかっただろ。
199:日本@名無史さん
09/09/11 23:03:13
地侍のような武士の最下位でも「騎乗身分」。
地侍に雇われていた歩卒は武士ではないよ。
200:日本@名無史さん
09/09/11 23:07:00
地侍幻想w
給地を与えられない地侍は大名の家臣ではない
201:日本@名無史さん
09/09/11 23:15:42
ところで騎馬足軽ってなんだよw?
202:日本@名無史さん
09/09/12 01:33:42
江戸では「ばかやろう」の上をいく罵倒語がある。「タコ」である。(中略)
子どもは辛辣だ。旗本の子どもたちは御家人の子どもたちをからかって「以下」という。
「お前たちは上様に謁見を許されない、御目見得以下の身分だ」ということだ。
御家人の子どもたちも黙っていない。学問所や剣術の道場の行き帰りに待ち伏せして、旗本の
子どもを「このタコ」と言い返すのである。「イカ」と言われれば「タコ」と言い返すしか
ないではないか。
それが転じて、身分の上の人をあざけって「タコ」「タコ野郎」というように
なり、江戸一般の罵倒語になっていったのである。
知って合点 江戸言葉 大野 敏明 文春新書
203:日本@名無史さん
09/09/12 04:53:15
幕初から幕末まで累代ずっと無役・小普請だった家ってあるのかな?
代々御役に就いた家は結構多そうだけど・・・
204:日本@名無史さん
09/09/12 06:42:59
>>203
寛政期の文書に、
御番入りに14-15年かかるようになって、一度御番入りに漏れると次回
には多年の年数がかかるようになった。芸術(武術)格別の人や、父の格別
の勤労のある倅は、4-5年くらいで御番入りできるようにする。
とあります。よほどの病弱者や問題のある人でない限り、中年までには番入り
するので、幕末まで病弱者や問題ある人が相続で続いていない限り、そのよう
な家はなかったのでは。
曖昧な答えですが・・
205:日本@名無史さん
09/09/12 08:31:57
お役に就きたければ甲府勤番支配があるからな。
206:日本@名無史さん
09/09/12 17:29:10
>>205
意味がわからないが甲府勤番支配は諸太夫(従五位下)の重職者
甲府勤番支配に擦り寄っても、御番入りは不可
小普請組支配(布衣)に賄賂等贈って懇願すれば推薦により御番入りも
かなったかもしれない。
1高家 職禄1500石高 雁間詰め
2御側衆 職禄5000石高 -
3駿府御城代 持高,御役地2000石 雁間詰め
4伏見奉行 持高,御役料3000俵 芙蓉間詰め
5御留守居 職禄5000石高 芙蓉間詰め
6大御番頭
7御書院番頭
8御小姓組番頭
9林大学頭
10田安殿家老
11一橋殿家老
12清水殿家老
13大目付
14(江戸)町奉行
15御勘定奉行
16御旗奉行
17御作事奉行
18御普請奉行
19小普請奉行
20甲府勤番支配 持高,御役地1000石 芙蓉間詰め
・
・
・
37小普請組支配 職禄3000石高 中之間詰め
207:日本@名無史さん
09/09/12 19:11:37
すまん。甲府勤番の間違い。マムシの飼育係じゃなくてマムシのほう。
208:日本@名無史さん
09/09/12 20:28:45
質問です。
江戸時代の武士もオナニーしてたのでしょうか。
それとも夢精の繰り返しだったのでしょうか。
池波正太郎「男振」で20歳になる主人公(童貞)が女の夢見てモンモンしてたんで気になりました。
もっとも遊び歩いてる武士もいたわけで、
自分でするより手頃な店か相手を捜す方が多いのでしょうが、
真面目な人やそれなりの家の次男三男は女を知らずに死ぬ場合もあるかと思います。
209:日本@名無史さん
09/09/15 07:05:17
>>206
1高家・9林大学頭は世襲の家
別に他意はないけど
210:日本@名無史さん
09/09/15 07:32:07
高家は世襲ではないだろ
211:日本@名無史さん
09/09/15 08:05:27
家格としての高家と職制としての高家が別にあるということ?
212:日本@名無史さん
09/09/15 08:28:52
非役の表高家のまま一生を終えた高家もたくさんいたからね
高家は林大学頭や半井・今大路の典薬頭のような世襲とは違うよ
213:日本@名無史さん
09/09/15 14:00:37
旗本とかに仕えてる若衆って町人?
214:日本@名無史さん
09/09/15 23:06:21
武家です
215:日本@名無史さん
09/09/15 23:41:50
>>213
若党?
216:日本@名無史さん
09/09/16 00:47:53
若党って一本差しじゃなかったっけ?
217:日本@名無史さん
09/09/16 21:25:06
御家人の最下層は、帯刀不可の御六尺や御下男でしょうか。
218:日本@名無史さん
09/09/16 21:30:19
若党でも二本指し
219:日本@名無史さん
09/09/17 08:13:01
>>217
御家人と呼ばれていれば武士だろ。
似た業務でも、帯刀不可なら御家人扱いされないだろうに。
220:日本@名無史さん
09/09/17 08:28:18
観世大夫や金春大夫のような能役者のトップは、御目見えを当然許されていただろうけど、
身分はどうなっていたのだろう。旗本ではなかったようだけど。
医師は旗本になっている家もあるのに役者は違ったのか。金春家なんて、柳生の新陰流
武術や宝蔵院流槍術の印可を受けた人間やら、将軍の家康秀忠に知行を受けたあとに
大坂方について城に入ってのち許された人もいるくらいなのに。
221:日本@名無史さん
09/09/18 17:56:43
176 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2009/08/03(月) 22:40:19
高禄の旗本の家の娘でも「お姫さま」とよぶこともあるのだが。
何でも画一的には断じられないよな。
177 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2009/08/04(火) 18:56:07
kwsk >>176
222:日本@名無史さん
09/09/18 22:11:55
>>221
大身旗本の娘だね<お姫様
他にはおひい様、お嬢様
店の商家の娘もお嬢様と呼んだ
223:日本@名無史さん
09/09/19 06:10:25
>>219
大概順の御目身以下(所謂御家人)の部の最後に「御六尺」「御下男」があり
将軍家の家臣ではあるものの、すべてが武士(姓名と帯刀?)とは限らない。
224:日本@名無史さん
09/09/19 07:18:11
そのような細部の話をするのに、当時の「御目身以下」の用例と現在の「御家人」の用例とを
同一とみなしてよいものだろうか。
225:日本@名無史さん
09/09/19 08:11:53
>>224
当時の「御目見以下」の用例とは?
現在の「御家人」の用例とは?
同一かどうか以前に意味がわからない
226:日本@名無史さん
09/09/19 08:17:14
用語の定義上の問題。今「御家人」と呼んでいる対象は、当時「御目見以下」と呼ばれていた対象と
そっくり一致するか否かという話。
227:日本@名無史さん
09/09/19 08:38:58
自己解決しますた。
228:日本@名無史さん
09/09/19 08:54:27
>>226
それを言っちゃうと旗本の定義も広義、狭義とあるしぃ
御家人もそうかもしれない。
このスレタイトルの説明での、「幕臣」も 将軍家の家臣のこと?
と、いろいろ解釈がありそう。
まっ、2chなんだから、ざぁーといきませう
229:日本@名無史さん
09/09/19 12:38:14
連歌衆は?
230:日本@名無史さん
09/09/19 13:30:50
河原者扱いとか?
やっぱ能役者とかもかな。旗本のリストには観世も金春その他も入っていない。金春には
知行も与えられているのに。
231:日本@名無史さん
09/09/19 13:46:52
連歌師筆頭は京都の里村氏百石二十人扶持(武鑑)や
下谷五條天神別当瀬川氏
根岸の住人阪氏
亀戸天神神主大鳥居氏
他に近国在住の神官僧侶らを連衆と呼び基本的に無禄
232:日本@名無史さん
09/09/19 14:21:35
幕府主催の学問吟味で好成績を納めた武士は役人として採用されると聞いたのですが、この制度を利用すれば旗本・御家人の次男以下や浪人でも役に就けたのでしょうか?
それとも、役職に就けるのはあくまで幕臣の当主と嫡男だったのでしょうか?
233:日本@名無史さん
09/09/19 18:23:30
間宮林蔵
234:日本@名無史さん
09/09/19 19:05:00
福澤諭吉は旗本になったの?お雇いみたいなもの?
235:日本@名無史さん
09/09/19 22:28:44
御雇いだよ
236:日本@名無史さん
09/09/20 13:18:48
塙保次郎は旗本?
237:日本@名無史さん
09/09/21 22:48:21
松平(徳川)家の代々の附属の直参家臣のうち一部の有能な者は重臣の附属与力
として江戸期以降は陪臣化した例もある。また、豊臣系の外様大名にも目付け
役として派遣されそのまま、何代も経た後には他の家臣同様に陪臣化していっ
た者も多かったらしい。あの大久保彦左衛門も同属の本家の家臣として扱われ
ていたが本家の改易時に減封のうえ直参化が確定した。
御三家の附属家老と同様、苦渋をなめた家が多く存在していたのだろう。
238:日本@名無史さん
09/09/21 23:24:07
聖子最強
928 名前:昔の名無しで出ています[sage] 投稿日:2009/09/21(月) 17:06:07 ID:???
岩崎家は東京で輸入材の社長やってる裕福な家庭
九州の片田舎の中流家庭を捨て娘の稼ぎ目立てにホイホイ出てきた爺婆とちがいます(娘のデビューに反対してたくせにね)
944 名前:昔の名無しで出ています[sage] 投稿日:2009/09/21(月) 18:06:06 ID:???
>>928
ああ、身分不要の成り上がり商人の家庭だから言動が卑しいのかw
952 名前:昔の名無しで出ています[age] 投稿日:2009/09/21(月) 20:22:01 ID:???
>>946
江戸どころか鎌倉時代まで遡る筑後屈指の大名の血筋。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
世が世なら本物の聖子姫(^^)
で、聖子はそれをただの一度も自慢したことがない。←ココ大事
973 名前:昔の名無しで出ています[sage] 投稿日:2009/09/21(月) 23:05:13 ID:???
聖子ガマはコンプの塊だからねw
974 名前:昔の名無しで出ています[age] 投稿日:2009/09/21(月) 23:18:28 ID:???
>>972-3
アンチが自分のコンプを隠すのにガマだのレッテル貼って必死だなw
日本人なら出身や家系にはそれなりの敬意を払うよ。
アンチのおまいらって、本当に日本人なの?www
239:日本@名無史さん
09/09/22 07:50:55
≪旗本に成りきれなかった者達≫
桶狭間の戦いも終わり武田信玄との対立が始まった1570年頃に、家康直臣
武功の士90家が、徳川20将の一人である大須賀康高に与力として附属され、
徳川軍団を強固なものとして編成されていった。
その後、同じく古参の安藤直次に36家余りが附属替えとなり関が原を終え
江戸期に至っても附属のままで家臣化してしまう。
安藤家も徳川古参の家臣であり、通常では譜代大名となり幕政にかかわる家柄
にあったが、紀州徳川家の附家老として陪臣の家となってしまう。
ましてや、その安藤家の附属与力となった、36家は他の安藤家の家臣とは別格
を主張し「横須賀組与力」と名乗り尊大で威張った存在であったものの、陪々
臣であった。(幕末に運動をおこし紀州徳川家の家臣(陪臣)となる。)
240:日本@名無史さん
09/09/22 08:33:28
>>236
旗本
241:日本@名無史さん
09/09/23 18:49:54
>>239
榊原家にも旗本に成りきれなかった家があった。「原田」「中根」「村上」がそれ
であり、幕初以前から附属与力として付けられ、いつの間にか陪臣化してしまった
が、特にこの三家は幕府より1000石、別途榊原家から2000石が給されていて、1月3日
には御目見が許された特殊な家でした。
242:日本@名無史さん
09/09/26 21:23:00
幕政に深く関与(文官)した重職(旗本役)とは
評定所の構成員となっていた、(老中・寺社奉行)「江戸町奉行」「勘定奉行」
「大目付」「目付」など
あと、武官の重職者としては、「駿府御城代」「三番頭」などがあった。
243:日本@名無史さん
09/09/26 21:37:05
奥向きの御側御用取次や御側が旗本役では最重要ポストだと思うけどな
奥祐筆組頭、奥祐筆あたりの影響力も絶大だったと聞く
244:日本@名無史さん
09/09/26 22:32:26
江戸時代の武家奉公人の生活について語ろう
スレリンク(history板)
245:日本@名無史さん
09/09/27 00:15:32
何が最重要かは時々の政策で変化する
246:日本@名無史さん
09/09/27 03:06:44
>>239
千葉氏ってすごいよな。千葉六党のうち三つが江戸期まで大名で存続してるし、旗本・御三家臣になってるのもたくさん。
大須賀は幕初断絶しちゃったけど。
247:日本@名無史さん
09/09/27 03:19:04
普通に大概順的にも、職務内容・待遇的にも御側衆が旗本役では最重要ポストだけどな。
幕政に深く関与という意味では、御側御用取次は未決案件について直接将軍に自分の意見も具申できる
わけだから、その影響力の大きさは計り知れない。時々の政策とは関係なく、将軍第一の側近という点が大きい。
駿府城代や大目付のような名誉職を挙げて、奥を取り仕切る御側衆を挙げないのは不自然。
248:日本@名無史さん
09/09/27 07:19:17
101 :日本@名無史さん:2009/09/04(金) 06:23:09
大概順では
1高家 職禄1500石高 雁間詰め
2御側衆 職禄5000石高 -
3駿府御城代 持高,御役地2000石 雁間詰め
4伏見奉行 持高,御役料3000俵 芙蓉間詰め
5御留守居 職禄5000石高 芙蓉間詰め
6大御番頭
7御書院番頭
8御小姓組番頭
9林大学頭
10田安殿家老
・
・
・
249:日本@名無史さん
09/09/27 10:26:03
格式は低いかもしれないが、祐筆や茶坊主に対する諸大名からの付け届けはかなりの額になった。
祐筆は内閣官房秘書官団みたいな集団だから、手伝い普請を逃れたい諸大名の留守居役から
すれば、老中に音物を贈るよりも、機密書類を毎日扱う祐筆や、噂を直ぐに聞きつける御坊主
から情報収集したほうが、早いし安上がりであった。
250:日本@名無史さん
09/09/27 12:59:39
>>249
奥右筆や表坊主の他に、長崎奉行は別として、「町与力」「町同心」「広敷(大奥)」
「賄」「細工」「台所」「納戸」が付け届けや役得のあった職のようだった。
251:日本@名無史さん
09/09/27 13:15:14
一番の役得ある職は浜御殿奉行だろう
広い御殿内で薬草栽培し放題、魚は獲り放題
千両箱がうなるほどある大金持ちで
咸臨丸も木村摂津守のポケットマネーで渡航したようなもの
252:日本@名無史さん
09/09/27 16:51:07
なるほど、そういうことか。
木村は咸臨丸渡米を軍役・合戦と同じと考え、
ならば代々の御禄から出すのが当然と私財を投げ打ったという美談として語るむきもあるが。
253:日本@名無史さん
09/09/27 19:41:53
役に立つことにお金を使う人がいるのは良いことだ。
254:日本@名無史さん
09/09/27 20:28:07
木村摂津守は福澤諭吉も私的な従者として連れていったんだな。
これものちの世のためになった。
255:日本@名無史さん
09/09/27 20:34:54
なるほど、福沢諭吉は福翁自伝を読んでも木村摂津守に頼み込んで咸臨丸に乗せてもらい
帰国後は中津藩士から幕府召抱えになったという。
256:日本@名無史さん
09/09/27 20:36:08
>>254
すまん、かぶった。おぬしも塾員か
257:日本@名無史さん
09/09/27 20:43:21
川路左衛門尉聖
258:日本@名無史さん
09/09/27 22:06:49
誰か幕臣日下数馬について御教授願います。
小栗家から養子に入ったくらいしかわからないんですが
259:日本@名無史さん
09/09/28 22:30:11
>>254
その前段として、将軍家慶のお声がかりで、芥舟の姉が桂川甫周に嫁いだ
という話があるね。
桂川家は当時貧乏で有名で、「あそこに娘をやる奴はおらん」と言われていた
そうだけれども、浜御殿で将軍家から「そちの娘を嫁がせよ。余が仲立ちじゃ」
と言われれば、木村家としても平伏して「有難き幸せ」と言う外ないし。
260:日本@名無史さん
09/09/29 18:34:21
伊勢伊勢守って室町幕府に仕えていた家の系統?
261:日本@名無史さん
09/09/29 18:54:06
>>259
そのお嬢様は片手で碁盤を持ち上げるほどの力持ち
しかも二段の腕前と書かれてるね
当時はプロとアマの違いなんかないし九段のインフレもなくて
八段以上がいない時もあったし家元で四段なんてこともあった時代
二段は今ならプロ六段、アマ名人級と言ってもいいだろう
262:日本@名無史さん
09/09/30 06:47:11
旗本屋敷は江戸府内の武家地全域に配されていたが、麹町・牛込・小石川・巣鴨・駒込・本所あたりに密集していたらしい。
大名小路といわれた大手前の一角にも林大学頭家の屋敷があった。
263:日本@名無史さん
09/10/03 06:42:08
>>250
奥右筆の職務には、「勝手掛」「仕置掛」「隠居家督掛」「縁組官位補任掛」「寺社掛」「証文掛」「外国掛」などに分かれていたらしく、特に「隠居家督掛」「縁組官位補任掛」なんかは、諸大名や旗本などから相当付け届けがあったそうな。
264:日本@名無史さん
09/10/03 13:11:10
八丁堀の七不思議に「奥様あって殿様無し」というのがある。
町奉行所の与力は旗本のように殿様とは呼ばれず、御家人並みに旦那と呼ばれる。
一方、与力の妻は旗本並みに奥様と呼ばれる。
町奉行所与力の微妙な身分を表してるね。
265:日本@名無史さん
09/10/03 18:51:01
旗本でも大身になると呼び方も違ってくるらしい
御前、御前様、殿様
>>222興味深い
266:日本@名無史さん
09/10/03 19:53:41
旗本は殿様じゃないの?
御前ってのは殿様よりも上?
交代寄合の最上氏は御屋形様だっけ。
267:日本@名無史さん
09/10/03 20:28:34
旗本は殿様
大名は御前と呼ばれたそうだが
旗本も大身になると『御前様』と呼ぶ事もあるらしい
268:日本@名無史さん
09/10/03 20:36:48
福翁自伝の中にも、福沢諭吉が幕府の外国方に雇われて幕臣になったとき、
家の人間が福沢を「殿様」と呼ぼうとしたので、やめさせたという話があったな。
269:日本@名無史さん
09/10/03 21:02:19
>>264
与力よりもその妻の方が格上w
270:日本@名無史さん
09/10/03 21:21:06
殿さまといいましょうかと女房いい
271:日本@名無史さん
09/10/03 21:29:34
殿様と呼ばれたかった大田南畝
272:日本@名無史さん
09/10/03 22:24:52
南畝は徒組から脱した後も普通以上に勤功がありやがて旗本になると噂されながらも支配勘定百俵五十人扶持(本高 七拾俵五人扶持 御足高 三拾俵)のままだったから
甥の吉見儀助や門人の井上作左衛門は同じ神尾市左衛門組の御徒から支配勘定となり評定所留役御勘定高百五十俵廿人扶持になってるのにね
273:日本@名無史さん
09/10/03 22:38:31
NHK教育テレビ『知る楽 歴史は眠らない ニッポン借金事情』
URLリンク(www.nhk.or.jp)
に出演する井原今朝男氏について、
この番組でも紹介される氏の著書
『中世の借金事情』歴史文化ライブラリー、吉川弘文館、2009.1
を名古屋大学准教授の大屋雄裕氏が
「買ったり読んだりする価値のまったくない本」
と徹底的に批判しています。
興味深い内容ですので、
よろしければご覧ください。
大屋雄裕ブログ「おおやにき」
URLリンク(www.axis-cafe.net)
大屋雄裕公式HP
URLリンク(www.nomolog.nagoya-u.ac.jp)
274:日本@名無史さん
09/10/03 22:55:50
>>272
学問吟味主席で白銀拾枚賜たのに
坂銅座や長崎出役勤めても支配勘定のままはかわいそうだな
275:日本@名無史さん
09/10/03 23:17:17
評定所留役御勘定ってどんな仕事?
276:日本@名無史さん
09/10/04 00:05:22
最高裁判所書記官兼財務事務官?
277:日本@名無史さん
09/10/04 05:02:10
3千石以上の大身旗本が就いた御役の(上限は御側衆や駿府御城代、大番頭だとして)下限は
どのあたりの職なのかな?
3千石未満と違って寄合は御番入りはしないんだよね?
278:日本@名無史さん
09/10/04 10:57:18
中川船番所の「中川番」が寄合の無役の役職。
279:日本@名無史さん
09/10/04 11:33:13
>>278
レスありがとう。中川番や駿府加番は寄合クラスの旗本が任されてたみたいだね。
3千石以上の旗本は、普通の御役(目付け、奉行とか)ではどのあたりの役職からスタートして
どういう昇進ルートをたどったんだろう?
280:日本@名無史さん
09/10/04 17:58:19
>>279
御書院番とか多いな
281:日本@名無史さん
09/10/04 18:51:30
>>280
レスありがとう。
書院番は千石、2千石台の旗本も多いけど、寄合クラスの3千石以上も平の番衆で御番入りしてたの?
書院番頭とかじゃなくて?
282:日本@名無史さん
09/10/04 19:16:56
寄合⇒中奥小姓のコースは
283:日本@名無史さん
09/10/04 21:09:20
見目美しき若衆のみ辿れるコース。
284:日本@名無史さん
09/10/04 22:01:18
三千石以上の旗本なんて幕臣中のほんの一握りだったと思うけど
旗本全体に三千石以上知行って何パーセントいたの?
285:日本@名無史さん
09/10/05 00:26:13
奥で仕えたのは御小姓・御小納戸で、中奥御小姓の「中奥」は表の黒書院あたり
のことを指すらしいね。
286:日本@名無史さん
09/10/05 01:49:25
>>284
2%くらいじゃね?
>>285
中奥小姓は近習にあらずっていうね
典儀要員かな
当初は万石以上の嫡子や駿府城代、伏見奉行、大番頭の如き大官の嫡子を奉仕せしと
287:日本@名無史さん
09/10/05 06:36:35
3000石以上の所謂、「高の人」と尊称される高禄旗本は約250家、旗本全体をおよそ5200家
とすると約5%ということでしょうか。
また、3000石以上の非役家は小普請ではなく原則寄合にはいり、江戸城門番・火事場見廻・
駿府加番・中川御番などのお役を勤め、小普請組支配、三番頭、留守居、御側衆や駿府城代
などの重職への就職に備えていました。
288:日本@名無史さん
09/10/05 08:36:32
定火消とかもだっけ
289:日本@名無史さん
09/10/05 08:42:12
門番で3000石ってすげーな
290:日本@名無史さん
09/10/05 12:20:34
家士を多数出さなきゃならない
291:日本@名無史さん
09/10/05 12:36:35
あぁぁなるほど
警備隊長みたいなもんなんですか
292:日本@名無史さん
09/10/05 15:53:57
小普請ったって殿様自身がドカタや左官をやるわけじゃないし
293:日本@名無史さん
09/10/05 18:20:51
小普請組って賃金と材料費を出すだけで現場監督しないんだろ。
294:日本@名無史さん
09/10/05 18:27:35
殿中坊主は武士なのか?軍役はあるのかい?
295:日本@名無史さん
09/10/05 18:37:56
奥のほうは軍役なしだろ。
296:日本@名無史さん
09/10/05 20:25:03
諸門警備の大名旗本は徒、足軽、中間を出した
297:日本@名無史さん
09/10/05 20:28:36
そりゃ大番の宿直のようなことはないよなw
5千石の旗本が自ら門番してたら笑える
298:日本@名無史さん
09/10/05 20:37:38
ももだち取った麻裃姿で六尺棒もった大身旗本w
299:日本@名無史さん
09/10/05 20:54:29
でも何日かに一度ふすまを開け閉めするだけで何百石か貰ってるのもいたんでしょ
300:日本@名無史さん
09/10/05 22:12:00
>>293
駿府城の番士には、当初は大御番士が1年間の交代で派遣されていたが、1639年からは
書院番士が派遣されることとなり、1790年まで約150年間も続き、駿府城下も人・物
金の流動がなされ一定の繁栄がみられたが、1790年以降は常駐の駿府勤番士が派遣
され駿府城下の経済にも陰りが見え始めてきた。
その駿府勤番士には、かの有名な甲府勤番士からと小普請組から選抜され派遣された。
第二の甲府勤番(山流し)のごとしであった。
301:日本@名無史さん
09/10/06 14:23:52
ふすまの開け閉めにも同役がいて交代勤務
302:日本@名無史さん
09/10/07 06:23:19
交代寄合1800石の久能榊原家って久能山東照宮の守りを世襲してたみたいだけど、
何か実務はあったんだろうか?実質無役と同じ?
303:日本@名無史さん
09/10/07 06:40:16
>>289
江戸城門番・火事場見廻・駿府加番・中川御番などは、旗本寄合(3000石以上の無役待命組)
がノルマで課せられたお勤めの一つ
このボランティアを上手く勤めて認めてもらえれば、小普請組支配、三番頭、留守居、
御側衆や駿府城代などの重職につくことができたということです。
304:日本@名無史さん
09/10/07 07:19:13
松平総本家と言う旗本がいる。徳川宗家より偉いのか?
305:日本@名無史さん
09/10/07 22:49:54
公方総本舗とくがわと、元祖公方郷まつだいらの不毛な戦い
306:日本@名無史さん
09/10/08 00:33:44
今でも本家OOとかあると何か揉めてるのだろうなと・・・基本的に長子相続だが墓守とかしてると色気が出てくるらしい
307:日本@名無史さん
09/10/09 01:34:40
>>302
久能山の管理しているだけで1800石。
これは安泰で美味しいなぁ。出世もないけどさ。
ドキドキしたのって、
由比正雪の乱の時と、
忠長が猿を乱獲した時くらいじゃね?
308:嵯峨源氏の後裔
09/10/09 01:52:24
松平総本家って筆頭のことかなぁ...
松平 春嶽...?上から4番目くらい
1、将軍家
2、尾張家、紀州家...ここまでが、御三家
4、松平家筆頭(越前)、松平津山家、前田家、島津家、他2~3家
いずれも、1800年初、中期
309:日本@名無史さん
09/10/09 02:15:20
>>308
そういう話じゃなくて、
家康を出した松平氏の「本家」に当る、松平郷松平氏のことだr
>>304の言ってるのは
310:日本@名無史さん
09/10/09 06:42:48
>>309
そういう話じゃなくて、・・のことだr
⇒304本人としての会話内容
なのに
>>304の言ってるのは
⇒304とは別人のような他人事の会話内容
この短い文章のなかで、304本人と304別人28号が同居している
311:日本@名無史さん
09/10/09 07:29:05
なんだこいつ?
312:日本@名無史さん
09/10/09 08:16:40
松平本家の分家が家康の実家。だから松平本家は旗本とは言え特別の格式があったらしいよ。
313:嵯峨源氏の後裔
09/10/09 11:14:15
この時代に家門筆頭以外にも本家を名乗れたのか?
それとも、名乗れないが優遇されたってこと?
教えてください...
314:久松勝俊
09/10/09 11:27:55
要は、奥三河の豪族連合・松平党の中で一つ頭抜けたのが家康の家系であったが、
松平家内では本家ではなかった。血筋から言えば、家康よりも筋目の高い松平家はあったのである。
しかし、力はないため、名誉だけ保有させ、松平党顧問のような形で迎えていたのだうろ。
これは、藤原鎌足の中臣氏や、足利尊氏の源氏との関係、織田信長と他の尾張領内の織田氏との関係にも該当する。
その後、松平党のリーダー格である松平家康は徳川家康と名乗り、源氏の関係者だ自称し始めたので
今度は源氏の総本家・喜連川分譲住宅を厚遇する必要があったのです。
315:日本@名無史さん
09/10/09 12:02:48
徳川将軍家は氏の長者だからね
316:日本@名無史さん
09/10/09 13:58:33
松平郷松平家。交代寄合。参勤交代の義務あり。
317:日本@名無史さん
09/10/09 15:09:49
松平太郎左衛門
318:日本@名無史さん
09/10/09 15:25:01
たった440石で遠路三河より江戸参府か・・・よく財政持ったなw
319:日本@名無史さん
09/10/09 17:18:32
徳川、得川の遠祖新田の後裔岩松家は250石。この薄給では格式の見栄も張れない。慰めは明治維新で南朝忠臣と顕彰され華族に列せられたくらいか。
320:嵯峨源氏の後裔
09/10/09 18:00:07
はぁ~久松、その他の方々忝のうございました...
本家は別にあって、分家が源氏の長者、
その内、御三家と水戸藩が徳川姓で松平姓(分家の)の筆頭が
越前っことですかね
321:日本@名無史さん
09/10/09 18:33:27
>>318
それをいうなら無石の交代寄合・米良氏はどうやって肥後・日向国境の山深い所から江戸まで・・・
322:日本@名無史さん
09/10/09 18:46:30
どこでもドアでも使ったんじゃないか?w
まあ実際は無高といっても米が取れないだけで、収入源は他にあったんだろうけど・・・
それにしても米良家は特殊な家だよな
323:日本@名無史さん
09/10/09 18:56:24
岩松は120石だろ
猫絵の殿様として絵の頒布収入があったはず
324:日本@名無史さん
09/10/09 19:00:46
岩松は平堂上の生活に近い気がするな
格は高いが御家人並みの家禄で内職に励んだあたり
325:日本@名無史さん
09/10/09 19:03:06
米良は十万石相等の収入とか言われてたからな。実際にはそこまではいかないようだけど。
今はダムが出来て道路も出来ているけど、大変な田舎だった。
326:日本@名無史さん
09/10/09 19:06:05
米良氏の場合、土地柄木材収入があったのではないかと推測。
肥後人吉の相良氏に従属のような関係だったようで、
道中も相良氏の船に便乗、行列に同行、江戸屋敷に逗留だったのか。
327:日本@名無史さん
09/10/09 19:39:29
米良は収入源として茶・楮・椎茸などが並んでいたけど、木材はなかったな。
将軍家の鷹巣山に指定されていたというけど、木材は手をつけられなかったのかもしれない。
相良には一族が家臣となっていたりして密接な関係だったようだ。
幕末には米良が勤皇の活動を盛んに行って、七卿落ちでは当主が連座して相良に幽閉されたり、
薩英戦争では薩摩に援軍に出ようとして進軍する途中に戦闘が終わって引き返したり。
328:日本@名無史さん
09/10/09 19:41:39
やたらと詳しいな
ビビったw
329:日本@名無史さん
09/10/09 19:49:37
あくまで本に載ってたレベルの話しか知らないけどね。バスを乗り継いで館跡には行ったことがあるけど。
330:嵯峨源氏の後裔
09/10/09 20:43:13
ここって皆こんな研究者レベルなのか...
331:日本@名無史さん
09/10/09 20:49:39
今日は詳しいのが二人いるぜw
332:日本@名無史さん
09/10/09 21:11:33
どこが研究者レベルなんだかな?
自演じゃなけりゃいいけど
333:日本@名無史さん
09/10/09 22:01:56
御三卿って石高は蔵米支給?家来も旗本、御家人の出向。大名より徳川家臣だね。
334:日本@名無史さん
09/10/09 23:04:30
>>318
松平郷を出るときは行列を仕立てていたけど、途中は数人で
普通の旅をしていたらしいね。
で、江戸の手前で人を雇って体裁を整えた上で江戸に入った
と。
335:日本@名無史さん
09/10/10 03:05:16
尾張家の行列に混じっていったんじゃなかった?
336:日本@名無史さん
09/10/10 03:15:57
うちの殿様の城中での御役が襖の開け閉めだけだと知ったら家臣はショック受けるだろうなw
337:日本@名無史さん
09/10/10 03:18:26
>>335
それはないでしょう
江戸では大給松平家に寄宿していたので
338:日本@名無史さん
09/10/10 07:38:39
岩松なんて架空の系図つながりで無関係なんだろうが血縁の松平郷松平家の待遇のひどさには驚くな。徳川のルーツが卑しい土豪だと言う事実を隠すために目立たなくさせてたのか?
339:日本@名無史さん
09/10/10 08:58:12
>>330
研究者レベルってw
340:日本@名無史さん
09/10/10 10:48:35
十八松平は譜代扱いだからね、血縁とか関係ないっぽい
341:日本@名無史さん
09/10/10 12:21:14
しかし200石とかって
その位の極小領主から松平氏が始まって、
家康が出るまでには三河一円に勢力をもつまでに進展していた
っていう歴史がよくわかるね。
342:嵯峨源氏の後裔
09/10/10 15:42:00
じゃあ、三河統一前は?松平、大窪、石川、とか細かくわかれてた?
わかる人、教えてください...
343:日本@名無史さん
09/10/10 16:44:13
つーか徳川含め十八松平の系統は岩津あたりの土豪で
曲がりなりにも貴種に結びつけるために松平の名を利用したんでしょ
松平郷松平家と血縁はないと思う
344:日本@名無史さん
09/10/10 23:05:35
「親藩」ってのは、清康広康家康に近しい一族のこと。
345:嵯峨源氏の後裔
09/10/11 02:18:06
つまり、松平家は清康が統一、それ以前は、みんな万石どころか、何百石程度の地侍ばかり?
346:日本@名無史さん
09/10/11 02:49:22
譜代筆頭は井伊家
御三家筆頭は尾張家
旗本筆頭って無かったんですかね?
347:日本@名無史さん
09/10/11 03:15:47
旗本筆頭って大名になれない残念賞だから相撲の東十両筆頭みたいに有難みが少ないとか
348:日本@名無史さん
09/10/11 06:27:26
田沼の側近であった「横田筑後守準松」は御側御用取次として権勢を振るい、
飛ぶ鳥も落ちると言われ3000石の加増をうけ家禄計9500石となり、禄高と権勢
では正に旗本筆頭であった。しかし、松平定信が老中首座に就くや即罷免され
たが・・
349:日本@名無史さん
09/10/11 07:17:26
でも旗本筆頭ってそんなに羨ましくないな、井伊家みたいに他とは格が違うわけでもないし。
5千石でも9500石でもそこに家格の差があるわけじゃないから、どうせならあと500石加増して
大名にしてくれよ、とw
350:日本@名無史さん
09/10/11 07:59:33
旗本筆頭
◇大概順では
高家
◇家禄では
横田筑後守準松9500石
◇官位官職では
大沢基宿(高家)の官位官職は正四位下左近衛中将
◇権勢では
御側御用取次
351:日本@名無史さん
09/10/11 08:12:21
田沼「そろそろ大名にしてやるけど、どうよ」
横田「大名なったら参勤交代しないといけないし、家臣も増やさないといけないしな・・・」
田沼「じゃあ、500石足りない9500石で旗本筆頭ってことでいいな」
352:日本@名無史さん
09/10/11 08:57:17
駿府城代歴代氏名と在任期間
URLリンク(www.asahi-net.or.jp)
駿府定番歴代氏名と在任期間
URLリンク(www.asahi-net.or.jp)
駿府町奉行歴代氏名と在任期間
URLリンク(www.asahi-net.or.jp)
駿府代官歴代氏名と代官手下(各諸役)歴代氏名と在任期間
URLリンク(www.asahi-net.or.jp)
353:日本@名無史さん
09/10/11 09:12:18
>>349
だけど経済的には9500石の方が全然楽。
どの身分でもぎりぎり最低限の家は格式だけ高くて苦しい。
加増なしで身分だけ旗本になった家とかで、さらに小普請とか最悪。
他人には絶対に言えないだろうけど内心はどうだろうね。
おそらくうっかり旗本になってしまった先祖を恨む子孫もいただろう。
プライドとはまた別の問題でね。
354:日本@名無史さん
09/10/11 09:37:26
まあ経済力ではそうだろうけど、大名と旗本では身分違いだから雲泥の差だと思うけどね
大岡越前が同輩から虐められたって話もあがってるけど、当時は今と違って金よりそういう格の
差異の方が遥かに重要な意味を持った時代なわけだし・・・
355:日本@名無史さん
09/10/11 11:55:57
人間って金よりはプライドで生きてるものだからね。
特に江戸時代の武士なんて、今よりももっとそうだっただろう。
9500か10000かって言われたら大抵はやはり10000を選びそうだ
356:日本@名無史さん
09/10/11 12:42:55
維新後は10000石なら子爵、9500石なら士族
但し実高で
357:嵯峨源氏の後裔
09/10/11 14:52:16
346さんの所で、出た御三家ですが...
将軍家、尾張家、紀州家、
水戸家は、入らない説は本当ですか?
358:日本@名無史さん
09/10/11 15:24:55
横田なんか新田開発で1万石超えていても良さそうだけどな
大沢なんか5000石で1万石申請して華族になったんだから
359:日本@名無史さん
09/10/11 16:04:37
華族になれたらハッピーかどうかわからないし
360:日本@名無史さん
09/10/11 16:07:04
基本的に華族になれたらハッピー。
学習院→官庁・大企業→貴族院というエリートコースに乗れる。
361:日本@名無史さん
09/10/11 17:03:19
しかも戦前の貴族院は公選制じゃないから、
一般大衆の田舎のジジババ相手に泣き落とししたり土下座する必要もないし。
いまのクソみたいな土下座選挙に時間と労力を無駄に使わされる議員とちがって、
余裕を持って本来の政務に専念できる。
362:日本@名無史さん
09/10/11 17:40:12
大身旗本の場合、並みの御役じゃ役不足で番頭とか駿府城代とか、名誉だけど宿直とか
地方勤番があって大変な御役が多いからな。御側衆になれれば最高だけど。
中川番や駿府加番とかは持ち出しも多かっただろうし定火消や甲府勤番支配は大変そうだし・・・
363:日本@名無史さん
09/10/11 18:13:59
足利氏(喜連川)とか菊池氏(米良)とか、10000石未満から華族になった人って
じみちにキャリアを積んで頑張っている人がおおいね。
それに大して「華族の体面が保てない」という理由で爵位返上した人って
一代では使い切れないほど財産があるわけでないのに働かなかった。
364:日本@名無史さん
09/10/11 18:19:29
>>363
確かに菊池武夫は陸軍中将まで出世したから、地道に頑張った人なんだろうが、
貴族院議員になってからの活動は美濃部達吉を非難したりして・・・
365:日本@名無史さん
09/10/11 18:32:42
昭和の国難の一因だしなぁ・・・。
366:日本@名無史さん
09/10/11 18:48:34
>>358
大沢は過大申告がバレて禁固刑、士族に格下げ
>>361
伯爵・子爵・男爵議員は同爵者で互選
勅撰議員は実質その時の政府に忠実な高級官僚
367:日本@名無史さん
09/10/11 18:50:06
>>357
尾張あたりが言い出した負け惜しみ。
そもそも、「御三家」という呼び方は綱吉のころからなんで、将軍家と他の
二家が同等というような主張を許すはずが無い。
368:日本@名無史さん
09/10/11 19:53:31
男爵がやたらと多すぎるんだよな
高家や大身旗本、万石の家老、地下の若江・摂家諸大夫・出納平田、勲功男爵あたりは
特権を伴わない准華族(准男爵・勲功爵)にでもすればスッキリしたのにw
奈良華族や神職あたりも准華族で十分だろ
369:日本@名無史さん
09/10/11 22:46:08
>>364
美濃部亮吉を非難したのなら大いに評価するが達吉の時代まだ生まれてなかったので知らん。
370:日本@名無史さん
09/10/11 23:52:47
お目見え以上というけど、どういうときに将軍への謁見が許されるの?
371:日本@名無史さん
09/10/12 02:00:12
元服や相続、代々の役職就任。
372:日本@名無史さん
09/10/12 02:03:51
>>350
旨味が大きい筆頭は、長崎奉行?
373:日本@名無史さん
09/10/12 02:29:58
俺の先祖は長崎奉行だが、毎晩とっかえひっかえ色んな女と寝てたそうだ。
色々と問題も出たので、それ以降うちの家訓に「女遊びは控える」が追加された。
俺のじいちゃんの口癖は「武士は女遊びするからダメ」であった。
凄い決め付けだ。そんなじいちゃんは堅物で女はもちろん酒ギャンブル等も
一切やらない人だったが、こういう人生もつまらないと思う。
374:日本@名無史さん
09/10/12 06:38:16
ばあちゃんは処女でオヤジは養子か。
375:日本@名無史さん
09/10/12 11:20:59
岡村寧次って御家人出身?
376:日本@名無史さん
09/10/12 12:18:22
王政復古の大号令のあと、京都町奉行所の与力・同心などの役人はどうなったの?
377:日本@名無史さん
09/10/12 12:30:18
岡村家は旗本じゃない?
378:日本@名無史さん
09/10/12 13:40:15
御家人だと
海軍中将小倉鋲一(黒鍬)
海軍中将諸岡頼之(町奉行同心)
海軍機関少将横山正恭(町奉行与力)
海軍少将安原金次(小人)
警視総監岡喜七郎(火盗改同心)
海軍中将尾本知道(作事方)
陸軍少将深谷又三郎(作事方)
海軍少将山田英之助(坊主)
379:日本@名無史さん
09/10/12 13:44:06
山田英之助は海軍機関中将か
380:日本@名無史さん
09/10/12 13:51:32
幕府の役に就いている人はそのまま明治政府・地方の役人になった人が多いのかな
381:日本@名無史さん
09/10/12 13:58:44
遠国奉行や郡代代官所の下僚はそうだろうね
382:日本@名無史さん
09/10/12 14:21:31
ていうことは、公方様や老中、所司代、町奉行が大挙して大坂に退去していっても、
京都町奉行所の与力・同心は何事もなかったかのようにそのまま市中の行政を行ってたと?
公方様が家臣を見捨てて遁走したあとの大坂でも、町方役人はそのまま市政を担当したと?
383:日本@名無史さん
09/10/12 15:04:16
>>382
そうだよ
京都府の役人になった者が多い
384:日本@名無史さん
09/10/12 15:12:11
町奉行与力同心も市政裁判所赦帳撰要下役とか東京府貫属卒として東京府権少属を拝命したりしている
385:日本@名無史さん
09/10/12 15:30:19
大政奉還によって幕府本体は無くなり、江戸城内などの役の者は失業
町奉行等の役ならはそのまま市役所、警察などに移行ということか。
長崎奉行は一部外務省かもしれん。
386:日本@名無史さん
09/10/12 16:52:57
小さな政府だったから実際に使える奴がのこされたみたいだな。
387:日本@名無史さん
09/10/12 19:39:07
旗本が勤めていたような上級職は藩閥や公家らに取って変わられた
388:日本@名無史さん
09/10/12 20:06:38
残りは駿府へ行って茶畑の開墾か
389:日本@名無史さん
09/10/12 20:20:42
または北海道
390:日本@名無史さん
09/10/12 20:26:17
実は江戸に残って人力車夫というのもけっこういた。
391:ごりら
09/10/12 20:37:52
ペリー来航から明治維新そしてスエズ運河
URLリンク(pwvx.hp.infoseek.co.jp)
幕末の混乱とスエズ運河の建設は期せずして一致する。
これは偶然ではない。今日まで、スエズ運河と日本の陰謀は密接に関連する。
392:日本@名無史さん
09/10/12 21:02:21
明治維新で新政府にスライド式に奉職がかなったのは
町奉行所与力同心
郡代代官手付手代
御勘定支配勘定
牢屋同心
このあたりか?
393:日本@名無史さん
09/10/12 21:10:51
いきなり徴兵制になったわけではわけではないので、
当座は東京府付属の士族になった人もかなりいたはず。
予備役みたいなもんかな?
394:日本@名無史さん
09/10/12 23:05:55
ためらいなく内職を本職にした者も多数いた
395:日本@名無史さん
09/10/12 23:07:37
>>394
だろうな。
その後、再開発や関東大震災で散り散りになりましたとさ。
396:日本@名無史さん
09/10/12 23:10:21
ためらいもなく妻や娘を妾や女郎に売った者も多数いた。
397:日本@名無史さん
09/10/12 23:13:48
>>396
娘はともかく妻は売れるのか?
実家が黙ってないんじゃないか
398:日本@名無史さん
09/10/12 23:17:32
年増だし
399:日本@名無史さん
09/10/12 23:36:59
樋口一葉の「にごり絵」に客が銘酒屋の女に「士族か?」と聞く場面があるから
困窮士族の娘がそういうところにいるのも珍しいことではなかったのだろう
400:日本@名無史さん
09/10/12 23:42:56
娘は吉原へ
妻は岡場所へ
401:日本@名無史さん
09/10/12 23:47:35
維新前だけど娘を売った御家人が切腹させられてる
402:日本@名無史さん
09/10/12 23:54:17
青山百人町の組屋敷では材料を一括で仕入れて分業で傘を作る
内職をしていたから、明治になっても職人で暮らせただろうな
403:日本@名無史さん
09/10/13 00:10:39
組屋敷は立ち退きだろうけど、そのまま上野か下谷の長屋に集団移転して傘作りか
404:日本@名無史さん
09/10/13 04:24:20
伊賀の鉄砲組とかは園芸で食ってそうだな。
405:日本@名無史さん
09/10/13 12:16:34
ふと思ったんだが、こういう明治になって職人専業になった元御家人って、
ふだんの服装も袴とかやめて、仕事人の秀みたいな町人の職人スタイルになったのかね?
言葉使いも完全に町人風にしたのかね?
406:日本@名無史さん
09/10/13 13:09:31
鉄道の車掌は士族が多くて頭ごなしに怒鳴りつける偉そうなのが多かったって
学研の漫画に描いてあったの思い出した
407:日本@名無史さん
09/10/13 13:14:07
車掌は制服着て権限もある。
職人は原則制服なし、権限もなし
元御家人でも同化するのは早かったと推測。
408:日本@名無史さん
09/10/13 13:29:58
警官も士族が多かったけど
警官の代名詞になってた「オイコラ」ってのは
「もしもしあなた」くらいの意味らしいね
409:日本@名無史さん
09/10/13 16:10:30
士族でも羽織袴にヒゲなんぞのばして、ステッキ片手に威張ってるような奴はいたのかな?
410:日本@名無史さん
09/10/13 16:58:27
廃刀令以後も断髪せず帯刀し続けたのもいた
411:日本@名無史さん
09/10/13 18:37:57
警察官を意味する俗語「まっぽ」
は薩摩っぽからきたんだっけ。
抜刀隊は警視庁のお巡りの選抜隊だったし
警察官はかなり士族多いみたいだな。
412:日本@名無史さん
09/10/14 01:03:22
まっぽはマッドポリスの略では?
413:日本@名無史さん
09/10/14 02:24:51
抜刀隊って会津とか幕臣とかの、
旧幕府方の武士じゃない?
414:日本@名無史さん
09/10/14 05:56:47
西南戦争では会津士族の報復やら薩摩士族の同士討ちやらが各地で繰り広げられた。
415:花
09/10/14 07:06:26
江戸時代の老中とフランス革命
URLリンク(akiba.geocities.jp)
松平定信がその当時の老中だった。
416:日本@名無史さん
09/10/14 09:44:42
>>413
軍中からポリスになってた士族を選抜して作った
皇國の風と武士の 其身を護る霊の
維新このかた廃れたる 日本刀の今更に
又世に出ずる身の譽 敵も身方も諸共に
刃の下に死ぬべきぞ 大和魂ある者の
死ぬべき時は今なるぞ 人に後れて恥かくな
敵の亡ぶる夫迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜き聯れて 死ぬる覺悟で進むべし
417:日本@名無史さん
09/10/14 12:20:58
>>413
抜刀隊の主力は他藩よりも再就職有利だった薩摩下級藩士だよ
会津や幕臣もいるにはいたと思うけど
418:日本@名無史さん
09/10/14 12:51:22
主力は徴兵制から成る兵隊だけどな
419:日本@名無史さん
09/10/14 18:23:20
御小姓や御小納戸は将軍近侍の御役の割に、そんなに大幅加増されたりはしてない?
中野碩翁みたいなのは別だけど。
420:日本@名無史さん
09/10/14 18:35:33
西ノ丸御小性 田沼龍助
421:日本@名無史さん
09/10/14 21:43:41
家斉の近臣だった林忠英は3000石旗本から累進して15000石の大名に取り立てられましたが何か
422:日本@名無史さん
09/10/14 21:56:19
そういう有名どころは分かるんだけど、
小姓・小納戸の人数の多さの割りには少なそうな気がするな
多少の加増の例は結構あったんだろうか
例えば五百石の近臣が百石とか二百石加増されるような
423:日本@名無史さん
09/10/15 01:29:05
中野って、なんで出世したの?
マイナー人物だよね。
424:日本@名無史さん
09/10/15 07:46:55
娘だろ
425:日本@名無史さん
09/10/15 09:30:49
江戸時代の御家人百科みたいなのないの?
426:日本@名無史さん
09/10/15 10:03:46
林の家は忠臣だな。戊辰の役では最期まで戦い抜いて昭和初期まで生きて最後の殿様と言われた人物まで出たぞ。
427:日本@名無史さん
09/10/15 10:09:41
>>425
江戸幕府旗本人名事典 第1巻
著者名 小川 恭一/編著
著者名ヨミ オガワ キョウイチ
出版者 原書房
出版年月 1989.6
ページ数 685p
大きさ 27cm
ISBN 4-562-02038-5
他全5巻
かなりの大著
428:日本@名無史さん
09/10/15 10:10:35
すまん、旗本だった
429:日本@名無史さん
09/10/15 10:18:11
>>399
一葉の父は元百姓の同心、それも同心株を維新の年に買ってギリギリで武士になったから士族を凄く意識してたようだな。
小説のなかにまでそれが現れている。
430:日本@名無史さん
09/10/15 11:30:41
慶應4年ごろの同心株っていくらぐらいなんだろう
431:日本@名無史さん
09/10/15 11:42:14
>>426
藩主が自ら脱藩して官軍と戦ったんだね
432:日本@名無史さん
09/10/15 12:25:11
>>426
すげぇな。うちの祖父さんが22の頃ってまだ大名がいたのか…
433:日本@名無史さん
09/10/15 12:39:07
>>426
「小大名だから逆に張り切っちゃって」
「若気の至り」
とも言う。
それと、”最後まで戦った”のは榎本や大鳥たちであり、林の殿様は仙台で投降。
なぜならその頃、徳川家存続が決まったらしく、「お家存続」という大儀は達成したので。
なのに静岡徳川家ったら、その後の林になんの支援もしてくれないんでやんの。
カワイソス。
434:日本@名無史さん
09/10/15 14:16:48
仙台から蝦夷地へは4隻の軍艦で渡ったわけで
どの船もギューギュー詰め
旧幕府軍もかなりの人数を仙台で脱落させてる
つーか御家存続がなったのにまだ戦おうって基地外じゃね?
435:日本@名無史さん
09/10/15 14:36:43
>>434
武士なんて元々基地集団
436:日本@名無史さん
09/10/15 15:00:11
その基地害要素をほんのりとでも260年保ったってのはすごい話だと思うわ
437:日本@名無史さん
09/10/15 15:05:35
吉良は断絶したかと思ったら義央の弟の東条が吉宗に復姓を許され旗本吉良氏は復活したんだな。浅野大学も許されて旗本の列に復したから仇の弟同士殿中で行き会ったらどうしたのかね?
438:日本@名無史さん
09/10/15 19:57:09
浅野大学は500石だっけ
百分の一でも御家再興と言えるのかね