09/07/12 19:56:52
話ぶったぎるようだが、報告だけ。
---
図書館行って『弾左衛門由緒書』確認してきた。
『弾左衛門由緒書』享保4年ver、享保10年ver、ともに秦に関する記述なし。
(網野全集にはなく、高柳金芳『江戸時代 部落民の生活』に掲載されてた)
また、秦武虎の記述は『江戸 官鑰秘鑑』にあるって書いてあった(同、高柳氏)。
秦と弾左衛門が今日まで語り継がれる原因はおそらくこれだ↓
■薩摩から、弾左衛門が秦氏指定をうけた。
偶然、>>213 で江戸薩摩藩邸の焼討事件(1868)の名前を出したが、
そのとき、薩摩藩の工作員が江戸で狼藉を働く際、弾左衛門を味方に引き込もうと、
「おはんと、島津はもともと同族でごわす!」みたいなことを言ったそうな。
(『徳川制度』<明治25年4月~翌年7月まで「朝野新聞」にて連載>より)
その裏付けとして、
松本良順蘭疇が↓のようなことを語っているらしい。
上記薩摩の勧誘について今戸の門弟から報告を受けたこと、
弾左衛門の離反を防ごうと、松本自身が弾左衛門と会談したこと、
その後、弾左衛門を幕府側に引き止めるよう、小栗上野介や徳川慶喜に進言したこと、など。
※『同方会報告』(明治30年7月発行)より。
(これも『江戸時代 部落民の生活』に書かれてた)