09/07/11 08:05:47
あと、もっと単純な可能性も思いついた。
(1) 享保頃、秦氏という出自にブランドがあった原因(仮定)
④とにかく出自が古けりゃ、何でもよかった。古いのがブランド
弾左衛門は支配体制が確立するまで、
どんどん配下が訴訟を起こしてその支配から離れている。
とくに非人との関係は微妙で、関西などではエタと非人に
上下関係はなく、弾左衛門の立場も微妙だった。
その中で、
「非人なんかより弾左衛門は由緒があるんですよ、ほら、こんなに」と
とにかく古い出自を語る必要があったかもしれない。
ブレーン:「神話にまでさかのぼれる一族がありますぜ、秦ってね」
弾左衛門:「それ、いただき!」
◆由緒書提出前後の年表
↓
宝永6年(1709)◎宝永年間(1703~1710)。座頭が弾左衛門の支
配から脱却しようとして町奉行に訴え、岩松検校が申し立
てのため奉行所に出坐。
享保4年(1719)◎『弾左衛門由緒書』を幕府に提出。(六代目集村)
亨保7年(1722)◎この年、浅草非人頭車善七と争う。(六代目集村)
享保10年(1725)◎『弾左衛門由緒書』を幕府に提出。(六代目集村)
(出典不明 ↓スレより抜粋)
スレリンク(rights板:76番)