09/12/02 21:11:51
短期作戦に対するまともな反論はないようだな。
威力偵察説も短期作戦説も、鎌倉武士マンセーに対するアンチテーゼ
なんだが。
955:日本@名無史さん
09/12/02 21:14:37
>>954
短期決戦の目論見が外れて目標に全く届かず逃げ出したことが
なんでアンチテーゼになるんだか?
956:955
09/12/02 21:15:21
キミがいうように短期作戦だったとしても、ね。
957:日本@名無史さん
09/12/02 21:16:31
>951
は?死ねば?
いいから自分がスルーしてきた質問に答えろよ。答えないって事は
「答えられない」って事でいいな。
あと、他の質問はともかく「掩護部隊とやら」って鼻につく言い方してる
が、これは既に答えている「掩護部隊の持つ任務の一つに威力偵察が
ある」ってのを全然読んでいないor覚えていない無能者がお前だとだけ
言っておくわ。
958:日本@名無史さん
09/12/02 21:19:11
『日本 太宰府等ノ処ノ下船ノ地、倶ニ下岸シテ約二三万ヲ用フベシ』
耽羅人の進言により用意された人数を投入したのにも関わらず、
大宰府にも攻め込めずに撤退したのが成功?短期作戦ならば目標に
かすりもしなくていいのか?
959:日本@名無史さん
09/12/02 21:21:17
馬鹿の壁って本当に存在するんだな・・・
960:日本@名無史さん
09/12/02 21:45:48
短期作戦、短期作戦って何を目的とした短期作戦なんだよw
略奪しながら敵地に上陸したら一日で逃げるのが作戦目的なのかよ。
短期が作戦目的って一体なんだ?
何日から何日までは短期とするってフビライが決めて
なおかつフビライが指定した場所でサバイバルしてその期間生き抜いて帰ってくるのが目的なのかよw
まったくもって意味不明なんだが。
961:日本@名無史さん
09/12/02 22:24:57
短期作戦だったらなおさら対馬壱岐で寄り道してちゃダメだろwww
なにがアンチテーゼなんだかww
962:日本@名無史さん
09/12/02 23:05:05
>>933
いや、三年くらい前に文庫化した『モンゴルが世界史を覆す』とかでもそれっぽいことを
言っていたけど、その前後から「混一疆理歴代国都之図」とか「カタルーニャ世界地図」
とかモンゴル帝国時代あたりの地図関係や、遼・契丹あたりに感心が完全にシフトしちゃって、
文永・弘安の役とかには今現在は著作で言及する程の感心が向いていないってだけのように感じる。
『モンゴルが世界史を覆す』の雰囲気からすると、杉山先生的にはそういう認識のままで
今も変わりないの知れないけど。
>>934
例えば、西方のアルメニア王国とかグルジア王国とかはモンケの時代にモンゴル帝国に
降服しているけど、これらの政権がモンゴル帝国軍と最初に戦闘したのはジェベとスベエデイが
ホラズム・シャー朝のスルターン・アラーウッディーン・ムハンマドを追撃にイラン高原に
侵攻した1220年からで、イラン高原に駐留した鎮戍軍との何度かの交戦の末に最初の戦闘から
30年ほど掛って正式に降服し、最終的にはモンゴル帝国の西南アジア政権であるイルハン朝の
旗下に加わっている。
高麗などの例が典型的だけど、相手政権の降服という目標が達成されるまで、場合によっては数十年に
わたり数年置きに数万単位の軍でもって相手領域を何度も侵攻する、ということはモンゴル帝国の
軍事作戦の様式としては(外交的手段でもあるが)極々普通なため、チンギス・カンからモンケの
時代の頃のような、シリギの乱みたいなモンゴル高原周辺に内部対立みたいな事態が全く懸念されない
ような情勢だったら、あるいは同様な数年置きに文永の役規模の侵攻が波状的に続いたかも知れない。
963:日本@名無史さん
09/12/02 23:07:14
>>961の続き。
弘安の役の場合は、南宋遠征で江南諸軍を獲得出来たために一度に10万単位の兵力で遠征に
向かわせることが出来たが、この都度の遠征は失敗し、それを挽回出来る機会もナヤンの乱とかも
あってクビライの治世中は不可能になった。
文永の役からクビライの晩年まではシリギの乱や皇太子チンキムによるクーデター事件、ナヤンの乱
というクビライ政権を揺るがす内部崩壊の危機が続発し、それらが無ければどうなったか知れない。
クビライの晩年にはチャンパーやベトナムの陳朝、ジャワなんかもクビライのいわゆる「南海招諭」
に応じて大元朝との服属関係の修復や朝貢関係を取結んで海洋交易が活発化していたので、もはや
海洋地域への軍事遠征などはしなくても良いような雰囲気になっていた。
クビライを継いだ成宗テムルが遠征計画を中止するような発言をし、実質この時代を最後に
大元朝側では日本遠征が議論されることがほぼ無くなったが、一応、国書の伝達はしていて、
成宗テムルの命を受けてやって来たのが、例の一山一寧だ。
一山一寧は一旦幕府に拘留されたが、国師号を持つ高僧だったこともあり、彼を釈放の嘆願も多く
あって赦免された。日本ではその後厚遇され、後宇多上皇の懇請に応じ勅願寺である南禅寺の
第三代住持となった。一山一寧は結局大元朝へは戻らず、日本で亡くなったが、彼が来た後にも
日本の商船は寧波あたりにちょくちょく来航しているので、成宗テムル以降の皇帝たちはそれで
良かったのかもしれない。
964:日本@名無史さん
09/12/02 23:28:56
第2次の日本遠征で元は宋から接収した海軍力をほとんど失ったため、
海防の弛緩を招来し、元王朝の命取りの一因にもなった
14世紀の初頭から、広州、泉州、慶元の
市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、
沿海地域の防衛問題が深刻になりつつある証拠である
元朝は日本商戦の武装化および日本の復讐を恐れて初期の中日貿易奨励方針から、
しだいに消極的な閉関主義への軌道修正を余儀なくされる
中国の歴史12 第5章 王勇
965:日本@名無史さん
09/12/02 23:31:48
時間をかけても最終的に相手を屈服させるのが目的であるなら
軍事と外交の両輪密接に関わるんだから、単純に相手に恐怖心を植えつけ弱らせていき
なおかつ外交も効果が上がるよう出来る略奪目的の遠征を繰り返そうとしたんでないかい?
文永の役は略奪目的の遠征だった
これが一番しっくり来るだろう。
略奪が見込めるところまでは進攻して行くが
自分より強い敵とぶつかって略奪出来なくなったら(自分達が略奪される側になるからな)さっさと逃げる。
これで説明つくと思うが。
外交では屈服するまで略奪と本格的進攻を続けると言えばいい。
966:日本@名無史さん
09/12/02 23:48:48
>>936
冒頭の二段目まではそのとおりだと同意できるのだが、
> 官軍不整
これについては、今までの蒙古襲来関係の研究ではそのような見方はされていない。
「官軍不整」という状況についてだが、『元史』日本伝などにある弘安の役の出発直前に、
クビライが遠征軍の指揮官たちに勅を下しているが、
「(至元十八年)二月、諸將陛辭、帝敕曰:「始因彼國使來、故朝廷亦遣使往、
彼遂留我使不還、故使卿輩為此行。朕聞漢人言、『取人家國、欲得百姓土地』。
若盡殺百姓、徒得地何用。又有一事、朕實憂之、恐卿輩不和耳。假若彼國人至、
與卿輩有所議、當同心協謀、如出一口答之。」
(至元十八年二月、諸将(江南軍司令で日本行省右丞相の阿剌罕、同右丞相の范文虎、
東路軍の忻都、洪茶丘)は陛辞(天子にいとまを告げるため都門を出ること)した。
皇帝クビライが勅して言うには、
「はじめ彼の国(日本)の使者が来たので(恐らく弥二郎たちのことか)、朝廷もまた
使者を派遣して往かせた。ところが彼は、ついに我が使者を留めて返還しない。故に、
卿の輩に、その征討をさせるのである。朕は聞いている、漢人の言に、
『人の家国を取るには、百姓(民衆)・土地を得ること欲する』と。もしことごとく、
百姓を殺したら、いたずらに土地を得ても何の用があろう。また一事がある、朕は
じつにこれを憂えている、恐らくは卿の輩は不和になるのではあるまいかと。仮にもし、
彼の国人が至り、卿の輩と議するところあれば、まさに同心協謀し、一口から出るように、
これを答えよ」)
とある。
967:日本@名無史さん
09/12/02 23:54:37
>>966の続き。
弘安の役の軍の派遣直前に、クビライは指揮官たちにわざわざ「又有一事(また一事がある)」と
前置きして、「恐卿輩不和耳(恐らくは卿の輩は不和になるのではあるまいか)」と
「朕實憂之(朕はじつにこれを憂えている)」と言うのだ。さらに遠征中に日本側から使者が来ても、
指揮官たち(とやって来た使者)に、互いに協議しても「當同心協謀、如出一口答之(同心協謀し、
一口から出るように)」と述べる。
つまり軍の派遣直前にわざわざ指揮官同士に「不和」が起きないかと懸念を述べ、何か問題があっても
一致するよう、皇帝クビライ自らがわざわざ促している。ということは、以前の遠征では軍の指揮に
「不和」や「同心」せざる事態が出来していたことを伺わせており、同じ『元史』日本伝の文永の役の
時の件に出て来る「官軍不整」という文言も、研究者の間ではこのクビライの発言との関係が推測
されている。
というのも、『高麗史』に載る話だが、文永の役前年の耽羅島遠征のおり、遠征軍司令の
忻都(ヒンドゥ)と洪茶丘、高麗軍の指揮官・金方慶との間で作戦中に対立があったらしい。
遠征軍が開城に凱旋し、耽羅島制圧を祝して諸将を労うため高麗国王元宗が宴席を催したのだが、
耽羅島遠征でのことで不満を抱いていたと思われる忻都は、開城の手前で高麗国王から
饗応のために派遣された使者から酒杯を振舞われた時、「酒が薄い!」と怒って開城には入らず、
そのままクビライのもとへ帰還してしまったという。
968:日本@名無史さん
09/12/02 23:57:16
>>967の続き。
忻都と洪茶丘、金方慶の確執は、文永の役の後にも尾を引き、1276年に洪茶丘によって
金方慶を誣告する事件にまで発展する。忠烈王もクビライや新妻である公主クトゥルケルミシュを
巫女を使って呪詛したなど根拠のない密告を受け、金方慶に至っては高麗の王族を擁して他の
高麗の朝臣らと共謀して大元朝に反乱を企てたとの容疑を掛けられ、拷問まで受けている。
これらの事件は事実無根だったため、忠烈王や大元朝から高麗に派遣された代官(ダルガチ)らの
詮議によっても無実との証明を得たが、これらの事態を釈明するために忠烈王はクビライからの
召喚を受けるなど大都と高麗を往還し、クビライの面前でこれらの密告をクビライのもとに
報告した洪茶丘に対して、金方慶など高麗の朝臣らを擁護しつつ喧々と反駁するなど、大変な
目にあっている。
弘安の役の時は、忻都も東路軍四万の司令として来ているが、文永の役には忻都は遠征軍を
指揮しておらず、実際に遠征軍を指揮して博多まで来たのは『高麗史』などによると
「忽敦」という別の人物だった。
翻って、文永の役の時の遠征について、『元史』や『高麗史』で一番情報量が多いのは
『高麗史』の金方慶伝だが、後に『元史』日本伝のなかでクビライが懸念したという
軍中での「不和」に類する事態は、特には無いようにも見える。
969:日本@名無史さん
09/12/03 00:00:51
>>968の続き。
ただ、金方慶伝にある、博多周辺での戦闘の後、船中での軍議の中で金方慶が「兵法にあるように
敵地に入ってむしろ意気軒高で、今は故事にある韓信の『背水の陣』とか孟明の『焚船』みたいな
奮戦すべき時だから、さらに奥地へ進撃したい」云々なことを言って、遠征軍司令(征東都元帥)の
忽敦に「孫子の兵法にあるように、少数の兵がそれを顧みずに頑強に戦っても、多数の兵力の前には
結局は捕虜にしかならんものだ。疲弊した兵士を用いても、日増しに敵軍が増えている状況で相対
させるのは、完璧な策とは言えない。撤退すべきだ」と論駁されている。
高麗軍の指揮官である金方慶の意見を、遠征軍の司令である忽敦が退けた訳だが、文永の役前後で
色々と金方慶と対立していた洪茶丘が出て来ないのは状況的に不自然な感じだ。洪茶丘は遠征軍では
司令の忽敦の次席である右副元帥の地位にあり、『高麗史』の同じ箇所で矢傷を受けたことが
書かれている左副元帥の劉復亨よりも位が上だ。
劉復亨は負傷しているため、軍議に参加出来なかった可能性は十分考えられるが、洪茶丘は健在
らしいので何も発言していないとはまず考えられない。金方慶が典拠不詳の「兵法」を根拠に
故事の状況に沿うとまくしたてて戦闘続行を上申し、司令の忽敦がちゃんと『孫子』の文言を
引用してこれを退ける、という展開にも妙なものを感じるのだが、文永の役前後の金方慶や
洪茶丘、高麗王家などの状況から考えて、クビライが懸念した軍中での「不和」や「まさに同心
協謀し、一口から出るように、これを答え」ざるような事態とは、やはりこの金方慶伝に記録されて
いる金方慶と忽敦とのやり取りの裏に潜んでいるのかも知れない。
970:日本@名無史さん
09/12/03 00:04:36
>>969の続き。
>>936
> なぜなら太宰府 を攻略できれば食糧が手に入るから、中期作戦に転換することが
> できるからだ。
残念ながら重大な勘違いをしているようだが、基本的にはモンゴル帝国の軍は
糧秣を現地調達してそれを遠征軍の糧食に当てるような様式は採用していない。
基本的問題として、モンゴル帝国軍が遠征する場合、前線の軍は自ら携帯する分と、
「アウルク(a'uruq)」と呼ばれる後方兵站基地から配給される糧食で戦闘を継続し、
戦利品は獲得するとただちに後方のアウルクまでに輸送させて、それらは前線では
消費や分配はしない。
モンゴル皇帝の最重要の特権のひとつに、遠征などでの戦利品の分配権があり、モンゴル皇帝や
その委任を受けた遠征軍の司令は、部将や兵士の武功に応じて獲得した戦利品を恩賞(ソユルガル)
として彼らに授け、分配する、という方式をとっており、これがモンゴル皇帝と旗下の諸軍・
服属諸集団との主従関係を構築する、いわばモンゴル帝国の支配体制の根本だった。
(これは遊牧民の政権の特徴のようなもので、この方式にしないと、前線で戦利品を得た途端、
遊牧民からなる部隊~部族単位で前線から軍が逃亡しかねないからだ。 この大原則を破って
勝手に戦利品を私的に隠匿すると、叛逆とみなされて部隊単位で連帯責任で処刑される)
だから、例え大宰府を攻略したとしても、戦利品は前線の遠征軍で即行で使われるという
事態は想定され得ず、もし、大宰府周辺の「富み」が遠征軍に還元される場合は、派遣軍の
拠点である高麗などへ帰還した後、論功行賞で恩賞として皇帝クビライの命のもと下賜を受けるか、
遠征軍が現地に屯田軍として配備され、大宰府周辺を開拓してその収益を得でもしない限り、
遠征軍のものにはならない。
971:日本@名無史さん
09/12/03 03:17:45
そうはいっても食いもんは現地調達するしかなかろう
972:日本@名無史さん
09/12/03 04:16:25
>>936
>>767で論破済み
>威力偵察とは短期作戦の言い換えなのだ。
ハァ?
973:日本@名無史さん
09/12/03 04:32:09
ついに威力偵察が短期決戦になってしまったよ
さすが威力偵察厨www
974:日本@名無史さん
09/12/03 06:17:18
>>971
モンゴル帝国軍の兵站の様式からすると、配属された現地に屯田をするとかあるいは遊牧する
とかでもしない限り、前線で糧食(食いもん)を現地調達するという例は記録にない。
外征先の場合は、後方のアウルクから配給される糧食や部隊で持っている糧食が続く限り
何らかの撤退命令が下りでもしないかぎり作戦を続けるのが基本だった。
勿論、何らかの理由で帝国の政情が不安定になってアウルクと前線との配給が滞り、前線や
駐留地域まで届かなくなった場合は、前線の部隊や駐留部隊は駐留する領域内での糧秣の徴収や
駐留地域外部への掠奪遠征などを敢行して糧食を確保する場合が見られるが、こと、文永の役の
場合はこれらのケースには当てはまらない。
なぜなら、遠征軍が出発するまで高麗領の内外で遠征軍に供するためのアウルクとなる村落、
穀倉地域が選定され、軍糧や馬料が1000碩単位で部隊ごとに配給されるように整備されて
いたことが『高麗史』に記録されているからだ。
さて、文永の役の派遣軍の軍艦九百艘のうち、三百艘は「千料船」と呼ばれる大型の輸送船舶
だった。明代などの海運でも「千料船」は活躍しているが、その当時 1 料=522.6リットルほどで
1000料だと500キロリットル以上になり、人員だと200~300人ほど運送できたそうだ。
そこで「千料船」一艘につき200人と単純計算すると「千料船」が三百艘で、六万人は運べる
ことになるが、文永の役の派遣軍は操船要員などである「梢工・水手・引海」などを含めても
四万人弱くらいだった。
派遣軍の全要員に加え、糧食や戦利品を積載するにも全体の三分の一も余裕があったと見て良いだろう。
『高麗史』の弘安の役の前年の記事に、「正軍一万名の1ヵ月分の糧食は、およそ三千漢石と
算出される」という文言がある。宋代以降の度量衡だと、1料=5石=10斛だそうなので、
「千料船」三百艘のうち、余裕分は10万料=50万漢石くらいになる。
「梢工・水手・引海」を含む四万人を一ヶ月分養える糧食が1万2000石としても、これらを
載せるだけの余裕は十分あったと考える事が出来るだろう。
ただし、『高麗史』などでは文永の役の時の派遣軍が使う糧食を実際にどれだけこれらの軍艦に
載せたかとか記述がないので、そこは何とも言えないが。