09/05/09 22:01:35
>>814
>ちょうど、この頃、半島南部に前方後円墳が出現します。
>倭国王としては、半島南部を軍事的に統制することを、
>中国皇帝から信任を得たので、堂々としだしたのでしょう。
確かにそうなのだが、前方後円墳が出現したのは、いわゆる伽耶地域では少なく無く、
大半は馬韓南部(今の全羅道)地域なんだよね。
そして、その地域の土器様式と北部の百済様式は四世紀後半ごろまで差異が認められ、
つまり、そのころまで、百済による馬韓の統合は達成されておらず、小さな在地勢力が割拠
するような状態だったように見える。
前方後円墳の分布からは、実際に倭人の出稼ぎ集団が根拠地としていたのはこの領域で、
本国とは政治的に別個の存在だったのではないか?
5世紀になると百済の南下により、その根拠地は奪われ、倭へ戻ったり、
逆に百済北部、新羅・伽耶へ移動したりし、一時的には高句麗とも接触する半ゲリラ活動を
続けながらも衰退消滅、一部は倭寇化して生き残ったかもしれない。
また、いわゆる任那の日本府と言うのは、この馬韓南部の倭人集団とは別の存在で、
こちらは、本国の正規の出先機関ではあるが、初めは金官加羅に、金官衰退後は新羅に依存して
いた存在だと思う。