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だから、最初の4人の倭国王については、中国皇帝は、
その要求を却下しました。
そうしたら、5人目の倭国王である武(雄略天皇)が、
半島南部への軍事的支配権を認めないのなら、
自分は中国との臣下の関係を止めるかもしれないと脅迫してきた。
それが倭王武の上奏文にある「治天下大王」という発言なわけです。
倭国の世界は、中国の世界とは別だと宣言した。
だから、中国王朝は、倭国王に対して、百済という国名は出さずに、
馬韓という、あのあたりの旧名を出すことで、お茶を濁しました。
つまり、中国王朝は、倭国に対して、
朝鮮半島南部の軍事的支配権を認めたが、
倭国が百済王朝を直接的に支配することは認めないという、
かなり矛盾した苦肉の策をとった。
中国王朝の建前と倭国王の要求の中間を取ったわけです。
ちょうど、この頃、半島南部に前方後円墳が出現します。
倭国王としては、半島南部を軍事的に統制することを、
中国皇帝から信任を得たので、堂々としだしたのでしょう。
そのあと、任那倭府の組織ですが、長官、副官あたりは、
倭国からの豪族がついていましたが、それ以下は現地の伽耶人がついていた。
あくまでも、倭国の目的は、伽耶の鉄資源を独占することであり、
伽耶の軍事的に統制するのが目的だった。
伽耶の内政は伽耶人がやるわけです。現在の在韓米軍みたいなものです。
しかし、この組織も、西暦6世紀前半になると、
伽耶の隣国の百済系の人物を採用しだすようになる。
それから、時期がたたずに、倭国は伽耶を百済に割譲したと、
日本書紀には記載されている。