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>>789
韓と倭の接点
韓伝の最後に辰韓・弁辰の二十四国の中に弁辰涜廬(とくろ)国という国があり倭
と界を接している、と記されています。「東西海をもって限りとなし、南は倭と接す」か
ら始まって最後の段で、「弁辰涜廬国、倭と界を接す」となっているので、三韓(馬
韓、辰韓、弁韓=弁辰)とは別のものとして倭があり、その倭と接しているのは弁辰
涜廬国である、という理解になると思います。
一方、倭人伝では行程上最初に出てくる倭地が狗邪韓国です。ということを素直
に読めば弁辰涜廬国と狗邪韓国が界を接しているということになると思います。この
両国がどの辺りであったかということですが、涜廬は韓国読みではトンノとなるよう
で、釜山の少し北方にある東莱(トンネー)が発音も近く、有力候補と考えられます。
一方、釜山からは縄文土器が沢山見つかっており、縄文時代から日本列島の人々
と交流があったことを示しております。また、その中心部には「カヤドン」と呼ばれて
いる場所があります。以上はわずかな痕跡ですが、狗邪韓国は洛東江の左岸(東
側)の釜山付近が最有力と考えられます。
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また、半島南部の海岸地帯の中央部付近には浦上八国と言われた倭人の国々
があったと考えられます。位置的には弁辰の西南になると思われます。卑弥呼が魏
に使者を遣わした時代の少し前になりますが、三国史記の新羅本紀によれば、奈解
王14年(209)に浦上八国が伽耶を攻めるので伽耶が新羅(辰韓)に助けを求め、新
羅が兵を派遣して浦上八国の軍勢を破ったという記録があります。このことから考え
て半島南部の倭人の国々はかなりの勢力を持っていたと考えられます。
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第232回 魏志倭人伝を読む その3
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