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皮田村へ行きましょう。
関西方面では、皮屋の本格的な農業進出が見られた。農地を拡大し、小作人の百姓を迎え入れ、皮田村を形成していった。
江戸中期以降の人口増加、人口流入により村の内外に軋轢をつくる傾向も一部見られた。
しかし、明治維新期まで経済状態は良い村が少なくなかった。
逆に言えば、皮屋は儲かる商売で経済状態が良いから、皮屋の本家は分家を認め、小作人を雇い入れ、流民さえも受け入れたのだ。また、町人から正式に身分変更した事例も史料上確認できる。
皮田村とは、皮(皮屋)と田(百姓)の混在村である。
関東では、頭‐小頭の職人制を堅持したが、関西の皮田村では、村庄屋制をとった。
皮田村は、年貢を納めていたため、皮屋は役人としての仕事はしなかった。
経済状態は良かったが、小作人をはじめ、無産労働者的階層が多かったため、貧富の格差は色濃く持っていた。
普通の百姓村と、それほど変わらない。皮屋の地主が庄屋であることを除けば。
関西が被差別部落問題のメッカだが、この旧かわた村がその中心の一つとなる。
あくまでも、被差別化、部落問題は、近代以降の物語であるが。