09/08/22 22:11:50
>>801 これで良いか。
『続日本紀』によると、子孫である左大史・正六位上の文忌寸(ふみのいみき)最弟(もおと)らが
先祖の王仁は漢の皇帝の末裔と桓武天皇に奏上したという記述がある。このことから王仁は
楽浪郡出身で百済にやってきた漢人の家系に連なり、漢高帝の末裔であるとされる。この記述が
真実であれば、王仁は313年の楽浪郡滅亡の際に百済へと亡命した楽浪王氏の一員ではないかと考えられる。
楽浪の時代を通じて強力な勢力をもった楽浪王氏は斉(中国山東省)の出自といわれ、前一七〇年代に
斉の内乱を逃れて楽浪の山中に入植したものという。おそらく、3世紀前半の楽浪郡の滅亡後に百済へ亡命、
その後、3世紀後半には日本へ移民したのであろう。
朝鮮半島の人間が中国風の一字姓を名乗りはじめるのは統一新羅以降の風習で、当時の百済の人間が
王姓を名乗っているとは考えにくく、この点から考えても楽浪王氏であるという説は説得力を持っている。