09/07/03 12:40:26
半月型石包丁(桂葉形雙孔石刀)は遼寧を経由している。
中国遼寧省羊頭窪遺跡. 黒陶系土器 石器(石包丁 磨製石鏃) 紡錐車 骨角器 卜骨
URLリンク(www.museum.kyoto-u.ac.jp)
紅山文化は北方地区の新石器文化の中で重要な文化です。ここでいう北方地区とは、
東北3省(遼寧、吉林、黒龍江)、内蒙古自治区および新彊維吾爾(ウイグル)自治区を指します。
大型石器の中で特徴的なものに、土掘具(耜あるいは犁とも呼ばれる)、桂葉形の双孔石刀があります。
URLリンク(kohkosai.web.infoseek.co.jp)
中国北部の文化が東北部の遼西まで及んでいるいることを知りえた。それに、石包丁が出土していた
のには目を見張った。日本に石包丁が伝わったのはそれから3千年もたった弥生時代になってからなのだ。
URLリンク(kyohiro.blog.ocn.ne.jp)
◆遼寧の石包丁
URLリンク(kyohiro.blog.ocn.ne.jp)
667:日本@名無史さん
09/07/04 00:08:38
>>666
現在、中国遼寧省といわれるユーラシア大陸のある地域で何かが見つかった
というだけの話。人間が住んでいたら何か痕跡が残るってことだろう。
その頃、中国って国もなければ日本という国もない。まして・・・・・。
そういうことだ。
668:日本@名無史さん
09/07/04 18:35:49
「呉服」は百済経由で伝わっている。
また百済国に、「若(モ)し賢(サカ)しき人あらば貢上(タテマツ)れ」
とおほせたまひき。かれ、命(ミコト)を受けて貢上(タテマツ)りし人、
名は和邇吉師(ワニキシ)、すなはち論語十巻・千字文一巻、并(アハ)
せて十一巻(トヲアマリヒトマキ)をこの人に付けてすなはち貢進
(タテマツ)りき。この和邇吉師(ワニキシ)は文首(フミノオビト)等(ラ)の
祖(オヤ)。また手人(テヒト)韓鍛(カラカヌチ)名は卓素(タクソ)、
また呉服(クレハトリ)の西素(サイソ)二人を貢上(タテマツ)り、
また秦造(ハタノミヤツコ)の祖(オヤ)、漢直(アヤノアタヒ)の祖(オヤ)、
また酒を醸(カ)むことを知れる人、名は仁番(ニホ)亦(マタ)の名は
須須許理(ススコリ)等(ラ)参(マヰ)渡り来つ。
URLリンク(kamnavi.jp)
669:日本@名無史さん
09/07/04 18:40:28
>>668 また百済国に、「若(モ)し賢(サカ)しき人あらば貢上(タテマツ)れ」
とおほせたまひき。かれ、命(ミコト)を受けて貢上(タテマツ)りし人、
名は和邇吉師(ワニキシ)、すなはち論語十巻・千字文一巻、并(アハ)
せて十一巻(トヲアマリヒトマキ)をこの人に付けてすなはち貢進
(タテマツ)りき。
・・・百済が日本の朝貢国だったことがよく分かる文章だな。
670:日本@名無史さん
09/07/05 16:19:36
朝鮮半島に稲作が伝わったのは4~5000年くらい前。
1990年金浦佳■(山と見)里泥炭層から採取された稲籾は4,010+-25BPと
報告されており、問題もあるがもし報告が正しいとすれば韓国での稲の
出現は新石器時代中期段階にまでさかのぼる可能性がある。
URLリンク(inoues.net)
最近は紀元前2000年ころ(?)とみられる種籾が、漢江の河口に面
する金浦(キムポ)と一山(イルサン)で発見されました(注)。
URLリンク(www2s.biglobe.ne.jp)
然し1992年には、それよりも早い時期の粳米を韓国の清州市における
家瓦遺跡から大量に発見された。今から4721年(+-50)年前と
推測されているが、同時に出土された樹木年輪測定からすると、
今から5020年前のものだと修正がなされた。
URLリンク(sakura-nokishita.spaces.live.com)
671:日本@名無史さん
09/07/05 16:20:22
朝鮮半島で最古の水田遺跡は前11世紀のオクキョン遺跡で日本よりも古い。
弥生時代の始まりと深く関連している韓国南部だが、最古の水田は
慶尚南道蔚山・オクキョン遺跡で見つかっており、孔列文~突帯文土器が
伴っているところから、前11 世紀頃と考えられている。
URLリンク(www.rekihaku.ac.jp)
672:日本@名無史さん
09/07/05 16:23:42
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。
かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。
佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。
考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。
それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
URLリンク(www.athome-academy.jp)
673:日本@名無史さん
09/07/06 00:26:30
>>671
弥生時代の始まりと深く関連しているのは中国南部。
674:日本@名無史さん
09/07/07 22:42:59
見よ!
これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。
(※色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!これらの要素が弥生土器には一切ない。)
鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(www.shtong.gov.cn)
675:日本@名無史さん
09/07/07 22:44:01
小麦作も約6000年前からやってたんだけど何か?(ゲラゲラ爆笑
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
URLリンク(www.local.co.jp)
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
676:日本@名無史さん
09/07/07 22:47:14
小麦作も約6000年前からやってたんだけど何か?(ゲラゲラ大爆笑
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
URLリンク(osaka.yomiuri.co.jp)
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
677:日本@名無史さん
09/07/08 20:43:57
高床式「倉庫」は北方アジアから直伝している。
高床式建物はシベリアやアムールにもあるけど何か?
スレリンク(archeology板)
678:日本@名無史さん
09/07/09 14:19:08
このコピペキチガイなんなんだろうな?
679:日本@名無史さん
09/07/09 22:24:58
入れ墨は日本では旧石器時代からおこなわれている。
タトゥーは少なくともオセアニア大陸で新石器時代からおこなわれていました。
タトゥーをしたミイラが発見されています。日本では旧石器時代から
おこなわれていたと考えられています。その他の多くの文明でも、
それぞれ独特のタトゥーの様式がありました。
URLリンク(blog.livedoor.jp)
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
680:日本@名無史さん
09/07/09 22:25:58
日本には7000年前の世界最古の入れ墨の証拠遺物がある。
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?
日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として記録
されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。
URLリンク(www.ta2.com)
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの
681:日本@名無史さん
09/07/09 22:26:59
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
紀元前5,000年の縄文時代の土器から、入れ墨をほどこした人面器が
発見されているんだ。
URLリンク(www.tnc.ne.jp)
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
682:日本@名無史さん
09/07/10 12:16:05
「歌垣」は百済の帰化人から伝わっている。
翌宝亀元年(770年)3月には、男女230人が歌垣(うたがき)
には百済から河内の地に渡来した王仁(わに)の末孫たちが奉仕した
との記録が残されています。(続日本紀)
URLリンク(www18.ocn.ne.jp)
弓削の道鏡の出身地で称徳天皇がこの地に遊行されて、百済の人々が
歌垣をして慰めたという
URLリンク(www.shiga-miidera.or.jp)
歌垣を行った葛井氏ら六氏は百済からの渡来人を先祖としており
URLリンク(www.furutasigaku.jp)
683:日本@名無史さん
09/07/10 12:17:01
「歌垣」は現在でも朝鮮半島に見られる。
先生は「韓の国紀行『歌垣』」のなかで、「朝鮮民族には凄味がある、
と、ほとほと思ったのは、この仏国寺の松林で野遊びを見、歌垣の
歌声をきき、そして杖鼓(チャング)のリズムをきいたときであった。
URLリンク(homepage2.nifty.com)
日本にも野遊びはあった。万葉のころ歌垣は絶えた。韓国ではいまも
生活の中にある。
URLリンク(www.ric.hi-ho.ne.jp)
韓国の山野では野遊びをする人々に出会うという。司馬さんは
「人々は強烈なリズムにのって群舞しており、さながら万葉時代の
歌垣や踏歌を現(うつつ)に見る思い」がすると書いていた。
URLリンク(www1.coralnet.or.jp)
684:日本@名無史さん
09/07/10 12:17:47
次に、歌垣(かがい・歌會)について語ろう。七七〇年三月、河内の弓削の称徳離宮で歌垣が
行われた。万代にわたる帝と離宮の存続を祈り、周囲六ヶ村男女二百三十人の渡来人が夜を
通して歌い踊った。歌垣は若い男女にとって、他の部落との間の通婚の機会設定に大きな役割を
果たしていた。このころは、山麓の景勝地まで人々が出かけて、賑やかに野外舞踏会を開いた
ものであった。というよりは、日のあるうちは野に遊び、日が暮れると篝火が灯され、酒が
入って宴は佳境に入る。日野の朝鮮坊山では、毎年歌垣が行われていた。
お月見の習慣と併せて、韓半島からの伝来の風習であった。いまも扶餘や慶州あたりの野原では、
夏の夕べに月見の宴を張る。これを野遊とよんでいる。大和の民衆もこの楽しみをまねて、
農業神事に取り入れた。慶州の仏国寺の松林で、水色・桃色・緑・赤など色とりどりの袴・上衣を
着た老若男女が楽しそうに踊るのを見ることができる。杖鼓を膝の前において鞭のようなバチで
打つ。このリズムに合わせて踊る。韓国ではいまでも一般の家庭で使われている楽器である。
日本舞楽の羯鼓に似た楽器である。筑波山麓の歌會や常陸国風土記にある童子女松原の歌會が
知られている。筑波嶺の歌會で詠んだ歌一首と短歌が万葉集巻九にある。この伝統が盆踊りの形で
現在の日本に引き継がれた。
URLリンク(www.tmd.ac.jp)
685:日本@名無史さん
09/07/10 12:30:02
歌垣の事なら、
URLリンク(ja.wikipedia.org)
よく読むと、何か分かるよ。
686:日本@名無史さん
09/07/10 15:18:26
>>685
歌垣と日本との関係でいえばやはり中国雲南省でしょう。
これはもう定説になっている。半島に日本から伝わったか
どうか今の段階ではなんとも言いがたい。
687:日本@名無史さん
09/07/10 18:34:00
朝鮮の歌垣はエベンキ、ギリヤークと同じらしいな。
688:日本@名無史さん
09/07/11 16:52:07
「貫頭衣」は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中に見られる。
●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
URLリンク(www.frontstyle.com)
人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
URLリンク(homepage1.nifty.com)
人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
URLリンク(www.h6.dion.ne.jp)
689:日本@名無史さん
09/07/11 16:53:13
古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
URLリンク(home.att.ne.jp)
古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
URLリンク(www.lcv.ne.jp)
ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
URLリンク(www.psats.or.jp)
690:日本@名無史さん
09/07/17 12:45:26
「鳥居」の登場は8C。
鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
691:日本@名無史さん
09/07/18 00:47:19
彦ホホデミという人物は語順から見て日本語としてはおかしいな。
これは南方系、ベトナムかインドネシア系としか思えない語順だ。
カム・ヤマト・イワレヒコもややおかしいと思う。やはり倭人は南方系か?
692:日本@名無史さん
09/07/18 11:45:41
彦ホホデミという語順は「帝舜」、「帝堯」と同じく古代シナ、ベトナム、インドネシア語と同じ語順で日本語の語順ではない。
カム・ヤマト・イワレヒコも同じだ。これは倭人が呉の末裔という伝承と一致する。
693:日本@名無史さん
09/07/18 18:19:50
魏志倭人伝には倭人が「断髪」をしていたなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。
男子皆露紒 以木緜招頭
URLリンク(www.g-hopper.ne.jp)
URLリンク(boat.zero.ad.jp)
URLリンク(members3.jcom.home.ne.jp)
694:日本@名無史さん
09/07/19 16:30:45
「糸引き納豆」の登場は室町時代頃、「なれずし」は7C頃に朝鮮経由で伝わる。
平安時代の文献にも塩辛納豆の名は残っているが、一般に広まったのは
室町時代以降でこの頃から糸引き納豆も登場しており区別するために
塩辛納豆を久喜と呼び糸引き納豆を単に納豆と呼ぶようになった。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
日本最古のすしといわれる「鮒ずし」は、7世紀、近江大津宮に天智天皇が
遷都した以前からこの地にあったといいます。フナずしは、すしといっても
現在の握りずしとは違い、すしの原型といわれる「なれずし」の一種です。
なれずしは、米作民族が考え出した動物性タンパク質の原始的な保存法で、
そのルーツは東南アジアとされ、中国、朝鮮をへて日本へも伝えられました。
URLリンク(asamiya.sakura.ne.jp)
695:日本@名無史さん
09/07/20 22:26:30
「鵜飼」は満州や朝鮮半島にも見られる。
満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
URLリンク(www.jiyuu-shikan.org)
日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
URLリンク(www.han.org)
696:日本@名無史さん
09/07/20 22:27:28
しかも日本の「鵜飼」は中国よりも古い。
鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』神武天皇の条に鵜養部のことが見え、
『古事記』にも鵜養のことを歌った歌謡が載っている。また中国の史書
『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった
漁法として紹介されている。
隋書の書かれた時代には鵜飼いは中国人にとって珍しい漁法だったが、
その後中国においても鵜飼い漁法が定着した。
確実な記録として最古の物は、10世紀の文人・陶穀が残した『清異録』
(965年)において、当塗(安徽省太平府の都市)の漁民が「魚を捕らえる
のに非常に機敏な鵜を使う」と記述されているのが最初である。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
697:日本@名無史さん
09/07/21 04:31:18
もう孤独なコピペ豚しかいなくなったな…
698:日本@名無史さん
09/07/21 19:53:20
半月型石包丁(桂葉形雙孔石刀)は遼寧を経由している。
中国遼寧省羊頭窪遺跡. 黒陶系土器 石器(石包丁 磨製石鏃) 紡錐車 骨角器 卜骨
URLリンク(www.museum.kyoto-u.ac.jp)
紅山文化は北方地区の新石器文化の中で重要な文化です。ここでいう北方地区とは、
東北3省(遼寧、吉林、黒龍江)、内蒙古自治区および新彊維吾爾(ウイグル)自治区を指します。
大型石器の中で特徴的なものに、土掘具(耜あるいは犁とも呼ばれる)、桂葉形の双孔石刀があります。
URLリンク(kohkosai.web.infoseek.co.jp)
中国北部の文化が東北部の遼西まで及んでいるいることを知りえた。それに、石包丁が出土していた
のには目を見張った。日本に石包丁が伝わったのはそれから3千年もたった弥生時代になってからなのだ。
URLリンク(kyohiro.blog.ocn.ne.jp)
◆遼寧の石包丁
URLリンク(kyohiro.blog.ocn.ne.jp)
699:日本@名無史さん
09/07/21 21:54:40
なんだこのスレw
感想:朝鮮人の魂は汚れている
700:日本@名無史さん
09/07/23 21:11:18
「呉服」は百済経由で伝わっている。
また百済国に、「若(モ)し賢(サカ)しき人あらば貢上(タテマツ)れ」
とおほせたまひき。かれ、命(ミコト)を受けて貢上(タテマツ)りし人、
名は和邇吉師(ワニキシ)、すなはち論語十巻・千字文一巻、并(アハ)
せて十一巻(トヲアマリヒトマキ)をこの人に付けてすなはち貢進
(タテマツ)りき。この和邇吉師(ワニキシ)は文首(フミノオビト)等(ラ)の
祖(オヤ)。また手人(テヒト)韓鍛(カラカヌチ)名は卓素(タクソ)、
また呉服(クレハトリ)の西素(サイソ)二人を貢上(タテマツ)り、
また秦造(ハタノミヤツコ)の祖(オヤ)、漢直(アヤノアタヒ)の祖(オヤ)、
また酒を醸(カ)むことを知れる人、名は仁番(ニホ)亦(マタ)の名は
須須許理(ススコリ)等(ラ)参(マヰ)渡り来つ。
URLリンク(kamnavi.jp)
701:日本@名無史さん
09/07/23 21:33:01
日本書紀に言う「呉」は「クレ」と読み、高句麗の「クリ」の事なんだがや。
百済は高句麗人が作ったし。呉服は高麗服だろ。
702:日本@名無史さん
09/07/23 22:53:55
和邇吉師(ワニキシ)、卓素(タクソ)、西素(サイソ)、仁番(ニホ)亦(マタ)の名は須須許理(ススコリ)
・・・これらの名は日本人と全然違う異民族と分かる証拠だな。
703:日本@名無史さん
09/07/23 23:19:23
>>701
呉は呉音でクレと発音するんだろう。
百済を高句麗人が作ったというのは珍説だな。
高句麗と高麗を混同しているのも痛いな。
704:日本@名無史さん
09/07/23 23:20:08
中国語は、(上古において)それぞれ別の言語を話していた商人が中原地帯で取り引きを行う片言(かたこと)から生まれた人工的な言語。
しかも、漢末期からの混乱期に、本来の漢族は実質的に絶滅。
その後の歴史で、大量に流入した北方民族が改めて中国語を形成した。
つまり、古代中国語と現代中国語には断絶がある。
古くから続く漢文(文章中国語)は本来、片言を記録するための記号列であり、そのため品詞の区別や時制など文法の本質的要件を備えていない。
当初から言語(話し言葉)とは別の、通信・記録の手段。現代中国語の古語ではない.
ようするに純粋な古語を今なお承継しているのは日本人の日本語のみであり、春秋戦国時代に呉が滅亡した後に日本に移り住んだ人々の子孫として古語を今に伝えているわけである。
705:日本@名無史さん
09/07/23 23:24:49
>>703 呉は呉音ではゴngoなんだがな。
高句麗と百済は夫余族という同族だ。
706:日本@名無史さん
09/07/24 04:33:51
また珍説登場か
707:日本@名無史さん
09/07/24 12:14:41
朝鮮半島に稲作が伝わったのは4~5000年くらい前。
1990年金浦佳■(山と見)里泥炭層から採取された稲籾は4,010+-25BPと
報告されており、問題もあるがもし報告が正しいとすれば韓国での稲の
出現は新石器時代中期段階にまでさかのぼる可能性がある。
URLリンク(inoues.net)
最近は紀元前2000年ころ(?)とみられる種籾が、漢江の河口に面
する金浦(キムポ)と一山(イルサン)で発見されました(注)。
URLリンク(www2s.biglobe.ne.jp)
然し1992年には、それよりも早い時期の粳米を韓国の清州市における
家瓦遺跡から大量に発見された。今から4721年(+-50)年前と
推測されているが、同時に出土された樹木年輪測定からすると、
今から5020年前のものだと修正がなされた。
URLリンク(sakura-nokishita.spaces.live.com)
708:日本@名無史さん
09/07/24 12:16:50
朝鮮半島で最古の水田遺跡は前11世紀のオクキョン遺跡で日本よりも古い。
弥生時代の始まりと深く関連している韓国南部だが、最古の水田は
慶尚南道蔚山・オクキョン遺跡で見つかっており、孔列文~突帯文土器が
伴っているところから、前11 世紀頃と考えられている。
URLリンク(www.rekihaku.ac.jp)
709:日本@名無史さん
09/07/24 12:19:14
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。
かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。
佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。
考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。
それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
URLリンク(www.athome-academy.jp)
710:日本@名無史さん
09/07/25 02:27:09
>>703
>>705
呉音とは呉人によってもたらされた漢字仏教経典の音読発音のこと
のようだから、クレは呉語音というべきだろうな。
百済は日本の勢力圏だったから、支配層が日本語つかって
いた可能性は否定しないが。
711:日本@名無史さん
09/07/25 10:05:21
>>710 シナ語は呉音だろうが漢音だろうが、古代から単音節語でクレなどという2音節語は無い。
鎌klem、風plang、楽glakという単音節語はあったがな。
712:日本@名無史さん
09/07/25 16:33:06
>>711
それをどうやって証明するんだ。
713:日本@名無史さん
09/07/25 20:48:19
>>712
卑弥呼の使者が通訳無しで魏国の人々と会話していた事実が物語ってる。
714:日本@名無史さん
09/07/26 00:25:22
呉音は経文の発音であって、呉人の日常語ではない。
クレビトの話しことばの手がかりは日本古語にしかないのでは。
呉語はシナ語と別系統ではないのか。
古代にクレという言葉があり、クレハは呉服という漢字をあてた。
呉の服とか呉人服とかの意味じゃないのか。古代日本人は中国の江南
あたりやもっと南遠のことを呉と意識し、総称していたかも。黒潮に乗っ
て交易にやってきたひとびとをクレビトと呼んでいたかも知れないし、
勿論仏教文物なども彼等が関与して漸次もたらしたのだろう。
王仁とか和邇とかの名もクレビトの名なのだろうと推測する。
715:日本@名無史さん
09/07/27 02:04:58
王仁楽浪郡官吏の末裔だろ
716:日本@名無史さん
09/07/30 16:35:49
>>714 クレというのは高句麗の句麗だろう。意味はたしか「金」GOLDだった。
717:日本@名無史さん
09/07/30 22:38:07
見よ!
これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。
(※色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!これらの要素が弥生土器には一切ない。)
鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(www.shtong.gov.cn)
718:日本@名無史さん
09/07/30 22:38:52
小麦作も約6000年前からやってたんだけど何か?(ゲラゲラ爆笑
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
URLリンク(www.local.co.jp)
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
719:日本@名無史さん
09/07/30 22:40:08
小麦作も約6000年前からやってたんだけど何か?(ゲラゲラ大爆笑
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
URLリンク(osaka.yomiuri.co.jp)
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
720:日本@名無史さん
09/07/31 01:04:06
>>716
高句麗自身は高麗って名乗ってるがな。
721:日本@名無史さん
09/07/31 12:12:09
高床式「倉庫」は北方アジアから直伝している。
高床式建物はシベリアやアムールにもあるけど何か?
スレリンク(archeology板)
722:日本@名無史さん
09/07/31 22:12:11
表5
O・プロコプ,W・ゲーラー著.石山昱夫訳:『遺伝血清学』(学会出版センター)より
民族 被検査数 頻度(%) 頻度(%)
O A B AB σm p q r
日本 301千 30.5 38.2 21.9 9.4 0.1 27.6 17.1 55.2
朝鮮 9,434 27.7 31.5 30.7 10.0 0.5 23.9 23.4 52.6
アイヌ 509 17.0 31.8 32.4 18.4 2.2 29.7 30.1 41.2
蒙古 32.1 23.4 36.3 8.2
東胡 30.1 28.3 32.7 8.9
広東 1,000 45.5 22.6 25.0 6.1 1.6 16.0 17.4 67.4
日本人はA 38% B 22% O 30% AB 9% とA型が多くB型が少ない。
朝鮮、モンゴル、ツングースはA型よりB型の方が多い、またはほぼ同じ比率。
日本人のようにA型が多い民族は東亜にはいない。
渡来人が来たのなら西日本にB型が多いはずだが、実際は東日本の方が多い。
・・・これから見ると日本に大量の渡来人が来たとは考えられない、という説がある。(水野祐「王朝はひとつだったか」)
723:日本@名無史さん
09/08/04 20:29:17
こういう話は好きだなマロンがあって。
ルーツ系のスレでたまに天皇家は姫姓っていう書き込みみるんだけど
それは何の話だか文献だかが元なの?
ぐぐったけどよく分からんかった。
724:日本@名無史さん
09/08/04 23:45:38
>>674
シナ殷墟出土の青銅人面「禾皿」と日本縄文土器の人面注口器は、ほとんど同じものだ。
こんなものが別々に独立して作られるわけがない。
725:日本@名無史さん
09/08/05 02:47:11
>>723
「日本書紀私記」という書物に天皇の姓が「姫」であるとの記載がある。
日本書紀私記は、平安期の学者が日本書紀の講義をする際のコメンタール。
国史大系 日本書紀私記・釈日本紀・日本逸史 (新訂増補 新装版) 吉川弘文館
URLリンク(www.amazon.co.jp)
726:日本@名無史さん
09/08/05 09:30:35
>>725 !
727:日本@名無史さん
09/08/05 09:53:22
姫姓である天皇家には、正当な中国支配権があるのだなw
728:日本@名無史さん
09/08/05 11:30:30
その「姫」というのは、呉の太伯の子孫云々というのが根拠なのかな。
それとも皇祖神が天照大神だから?
729:日本@名無史さん
09/08/05 12:59:40
287 名前:出土地不明 :2009/08/05(水) 12:26:36 ID:gOAKrwB8
じゃあ何で「カ」(禾の下に皿)という器種自体が伝わっていない?
足を見てみろ。
何で「環足」が伝わっていない?
何でその青銅人面の体を飾っている「雷文」が伝わっていない?
人面土器は世界中から出ていて、それだけでは全く証拠にならん。
730:日本@名無史さん
09/08/05 15:55:39
正に至徳日本国天皇。
位を譲り東方に移る。
天皇の徳により日本は栄える。
姫氏の栄光は昔の話し。
今は氏なき天皇。
731:日本@名無史さん
09/08/05 20:06:38
呉の太伯か
wikiにも書いてあるな
URLリンク(ja.wikipedia.org)
732:日本@名無史さん
09/08/05 20:08:17
倭人が言ったとあるんだからなんかはあるんだろ
733:日本@名無史さん
09/08/05 20:42:20
入れ墨は日本では旧石器時代からおこなわれている。
タトゥーは少なくともオセアニア大陸で新石器時代からおこなわれていました。
タトゥーをしたミイラが発見されています。日本では旧石器時代から
おこなわれていたと考えられています。その他の多くの文明でも、
それぞれ独特のタトゥーの様式がありました。
URLリンク(blog.livedoor.jp)
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
734:日本@名無史さん
09/08/05 20:43:20
日本には7000年前の世界最古の入れ墨の証拠遺物がある。
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?
日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として記録
されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。
URLリンク(www.ta2.com)
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの
735:日本@名無史さん
09/08/05 20:44:35
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
紀元前5,000年の縄文時代の土器から、入れ墨をほどこした人面器が
発見されているんだ。
URLリンク(www.tnc.ne.jp)
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
736:日本@名無史さん
09/08/05 21:42:51
>>725
サンクスコ
こういう研究おもしろそうだな。
もし本当に周の末裔だったりしたら姓をなくしたのは正解だったね。
易姓革命を逃れることになったのだから。
737:日本@名無史さん
09/08/05 23:07:15
>>736
いや、今でも天皇家の姓は「姫」。名乗らないだけ。
日本書紀私記では姓が姫の理由は、アマテラスが女だったからだと記している。
春秋呉の系譜だなどとの記述はどこにもない。
じゃあ、関係ないだろ、ということになるが、
祖神が女の神なんてのは、世界的に珍しくもない事例なのに、
これが理由じゃ根拠薄弱でいかにも苦し紛れの回答に見える。
ってんで>>1の可能性は如何?だが、
「姫」姓を名乗ることで何らかの権威上もしくは実利的なメリットがあった時期が
日本書紀私記が書かれた時代以前のどこかの時点であったんだろう。
そのメリットの中身が文字通り呉王の血筋を誇るためだったかどうか、
となると、信じている人間はごく少数となる。
そもそも日本書紀私記の記述などほとんどの人間など知りはしないし。
738:日本@名無史さん
09/08/06 20:08:40
「歌垣」は百済の帰化人から伝わっている。
翌宝亀元年(770年)3月には、男女230人が歌垣(うたがき)
には百済から河内の地に渡来した王仁(わに)の末孫たちが奉仕した
との記録が残されています。(続日本紀)
URLリンク(www18.ocn.ne.jp)
弓削の道鏡の出身地で称徳天皇がこの地に遊行されて、百済の人々が
歌垣をして慰めたという
URLリンク(www.shiga-miidera.or.jp)
歌垣を行った葛井氏ら六氏は百済からの渡来人を先祖としており
URLリンク(www.furutasigaku.jp)
739:日本@名無史さん
09/08/06 20:09:25
「歌垣」は現在でも朝鮮半島に見られる。
先生は「韓の国紀行『歌垣』」のなかで、「朝鮮民族には凄味がある、
と、ほとほと思ったのは、この仏国寺の松林で野遊びを見、歌垣の
歌声をきき、そして杖鼓(チャング)のリズムをきいたときであった。
URLリンク(homepage2.nifty.com)
日本にも野遊びはあった。万葉のころ歌垣は絶えた。韓国ではいまも
生活の中にある。
URLリンク(www.ric.hi-ho.ne.jp)
韓国の山野では野遊びをする人々に出会うという。司馬さんは
「人々は強烈なリズムにのって群舞しており、さながら万葉時代の
歌垣や踏歌を現(うつつ)に見る思い」がすると書いていた。
URLリンク(www1.coralnet.or.jp)
740:日本@名無史さん
09/08/06 20:10:11
次に、歌垣(かがい・歌會)について語ろう。七七〇年三月、河内の弓削の称徳離宮で歌垣が
行われた。万代にわたる帝と離宮の存続を祈り、周囲六ヶ村男女二百三十人の渡来人が夜を
通して歌い踊った。歌垣は若い男女にとって、他の部落との間の通婚の機会設定に大きな役割を
果たしていた。このころは、山麓の景勝地まで人々が出かけて、賑やかに野外舞踏会を開いた
ものであった。というよりは、日のあるうちは野に遊び、日が暮れると篝火が灯され、酒が
入って宴は佳境に入る。日野の朝鮮坊山では、毎年歌垣が行われていた。
お月見の習慣と併せて、韓半島からの伝来の風習であった。いまも扶餘や慶州あたりの野原では、
夏の夕べに月見の宴を張る。これを野遊とよんでいる。大和の民衆もこの楽しみをまねて、
農業神事に取り入れた。慶州の仏国寺の松林で、水色・桃色・緑・赤など色とりどりの袴・上衣を
着た老若男女が楽しそうに踊るのを見ることができる。杖鼓を膝の前において鞭のようなバチで
打つ。このリズムに合わせて踊る。韓国ではいまでも一般の家庭で使われている楽器である。
日本舞楽の羯鼓に似た楽器である。筑波山麓の歌會や常陸国風土記にある童子女松原の歌會が
知られている。筑波嶺の歌會で詠んだ歌一首と短歌が万葉集巻九にある。この伝統が盆踊りの形で
現在の日本に引き継がれた。
URLリンク(www.tmd.ac.jp)
741:日本@名無史さん
09/08/06 21:54:50
>>738 しかし日本には朝鮮人の心の故郷アリランが伝わっていない。
742:日本@名無史さん
09/08/07 00:05:56
魏志東夷伝 邑婁(ユウロウ) >>古代韓民族成りすまし邑婁人(現在韓国人)発見<<
穴居生活、豚の飼育、住民は不潔で家の真ん中に便所を作りそれを囲むように暮らしている。
・・・、これは明治時代の日本人の朝鮮観察とほとんど同じだ。
射撃が上手・・・これも同じだ。
漢の時代から夫余の家来となっていた。夫余が重い税を課したので黄初年間(220年~226年)には反乱を起こした。
掟や習わしにはもっともルールが欠けている民族である。
・・・これは朝鮮人の先祖に間違いない。
>>204 『晋書』粛真・邑婁伝には下記も載ってるよ!
坐るときは両脚を投げ出して座り、足を脇に挟んで(猿が坐って物を食べる姿勢)肉を食べる
風俗は皆、髪を編み(女官の髪型)、布で丈の短い上着(チョゴリの事か?)を作る。
586 :天之御名無主:2009/08/02(日) 16:33:28
晋書 『粛慎、邑婁伝』
井戸も釜戸もない、?(むしき)を作り、四、五升は食べる。坐るときは両脚を投げ出して座り、
足を脇に挟んで(猿が坐って物を食べる姿勢)肉を食べる。凍った肉はその上に坐って暖める。
土には塩も鉄もない(前漢代の塩鉄なら専売制度を意味するが)。木を焼いて灰を作り、その灰汁
を注いで、これを食す(意味不明)。
風俗は皆、髪を編み(女官の髪型)、布で丈の短い上着(チョゴリの事か?)を作る、径は尺余、これで前後
を覆う。嫁を娶るときは、男が毛羽を女性の頭に挿し、女性を連れて帰る。その後に婚礼をする。
妻は貞淑だが(未婚)女性は淫乱、若尊老卑。死者はその日に野原で葬儀を行ない、木組みの小さな
槨(ひつぎ)を作り、豚を殺して、その上に積み、死者の糧(かて)となす。
743:日本@名無史さん
09/08/07 23:08:42
「貫頭衣」は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中に見られる。
●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
URLリンク(www.frontstyle.com)
人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
URLリンク(homepage1.nifty.com)
人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
URLリンク(www.h6.dion.ne.jp)
744:日本@名無史さん
09/08/07 23:09:22
古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
URLリンク(home.att.ne.jp)
古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
URLリンク(www.lcv.ne.jp)
ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
URLリンク(www.psats.or.jp)
745:日本@名無史さん
09/08/08 16:22:30
「鳥居」の登場は8C。
鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
746:日本@名無史さん
09/08/09 10:14:24
本来の漢民族は黄巾の乱あたりの
五コの移住で絶滅していると
聞きますが本当でしょうか?
747:日本@名無史さん
09/08/09 21:27:40
魏志倭人伝には倭人が「断髪」をしていたなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。
男子皆露紒 以木緜招頭
URLリンク(www.g-hopper.ne.jp)
URLリンク(boat.zero.ad.jp)
URLリンク(members3.jcom.home.ne.jp)
748:日本@名無史さん
09/08/10 09:07:01
>>747 沖縄の民族衣装で頭を布で巻いているのが倭人の原型か。
749:日本@名無史さん
09/08/10 23:57:21
「糸引き納豆」の登場は室町時代頃、「なれずし」は7C頃に朝鮮経由で伝わる。
平安時代の文献にも塩辛納豆の名は残っているが、一般に広まったのは
室町時代以降でこの頃から糸引き納豆も登場しており区別するために
塩辛納豆を久喜と呼び糸引き納豆を単に納豆と呼ぶようになった。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
日本最古のすしといわれる「鮒ずし」は、7世紀、近江大津宮に天智天皇が
遷都した以前からこの地にあったといいます。フナずしは、すしといっても
現在の握りずしとは違い、すしの原型といわれる「なれずし」の一種です。
なれずしは、米作民族が考え出した動物性タンパク質の原始的な保存法で、
そのルーツは東南アジアとされ、中国、朝鮮をへて日本へも伝えられました。
URLリンク(asamiya.sakura.ne.jp)
750:日本@名無史さん
09/08/12 00:06:16
韓国の遺跡から土笛が出たって聞かないね不思議?後世雅楽の楽器としては有るが。
日本では縄文、弥生遺跡から数多く出土している。
【土笛の歴史】URLリンク(images.china.cn)
URLリンク(www2.wind.ne.jp)
中国の殷や長江の河姆渡(かぼと)遺跡から約6千年前?(けん)と呼ばれる土笛が発見
され、これが最も古い ...土笛の役割 陶?(とうけん)である土笛は、中国の朝廷の
儀式で使われたものですし、貴族がたしなむ楽器の一部でした........
弥生時代前期の土笛URLリンク(www2.wind.ne.jp)
URLリンク(www.hi-ho.ne.jp)
URLリンク(www.hi-ho.ne.jp)
綾羅木郷遺跡(下関市)から弥生土器とともに出土した弥生笛のレプリカ
これも「けん」と同様の方法で音を出します。
縄文時代中期URLリンク(www.hi-ho.ne.jp)
縄文笛URLリンク(blog.kodai-bunmei.net)
751:日本@名無史さん
09/08/12 04:11:47
日本起源だから
752:日本@名無史さん
09/08/12 21:16:35
● 殷・周の貝貨.....宝貝は中国の沿岸では採れず、もっとも近くても琉球諸島かベトナムです。
URLリンク(homepage3.nifty.com)
貝貨 15-21mm 0.5-2.0g
中国では新石器時代の晩期の紀元前30世紀ころから、墓地に宝貝が埋葬されています。
宝貝は中国の沿岸では採れず、もっとも近くても琉球諸島かベトナムです。はるか海上
の道を伝って運ばれたものです。宝貝の裏面は丁寧に削り取っています。
殷王朝[下の地図①]の末期から西周王朝の末期にかけて、王や王族が家臣に宝貝を
下賜した記録が残されています。
西周第5代の天子穆公は、治世13年(紀元前989年)6月6日、西域の赤烏の王に、
墨車4輌、黄金40鎰(800両)、貝帯50、朱薬300嚢
を下賜したとの言い伝えがあります。
柳田国男さんは『海上の道』の中で、琉球諸島の宝貝が殷王朝に供給された可能性を
強調されています。
753:日本@名無史さん
09/08/12 21:17:37
URLリンク(www6.ocn.ne.jp)
これは福岡県のスダレ遺跡から出土した弥生時代の壺です(高さ約40cm)。
その形状から子持ち壺と呼ばれているものですが、用途は不明とされているそうです。
URLリンク(www6.ocn.ne.jp)
これは古代の南インドの墓から出土したもので、楽器を模した土器です。
副葬品として墓に埋めていたものらしい。大きさはおよそ40cmで、
上の福岡県から出土したものとほぼ同じ大きさです。
URLリンク(www6.ocn.ne.jp)
これは南インドで今でも実際に祭りで使われている楽器(太鼓の一種)で、
大きさは高さが110cmあるということです。この楽器の存在がなければ、
上に挙げた日本の子持ち壺が楽器か、あるいはそれを模したものであろうと
いうことは判明しなかったと云えます。
754:日本@名無史さん
09/08/12 21:20:03
>>殷王朝は縄文人王朝で有る!!!!!かな?<<
人面付注口器のフタの部分が人面に成ってる処など、偶然とは思えぬ精神性の同一で有る。
ワシントンにあるフリア美術館にある殷の青銅器。「人面?(カ)」
URLリンク(honyaku.yahoofs.jp)
『人面注口土器』福田貝塚出土
URLリンク(business2.plala.or.jp)
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
『人面付注口土器』埼玉県埋蔵文化財調査事業団
URLリンク(www.museum.spec.ed.jp)
755:日本@名無史さん
09/08/12 21:21:50
.....殷の青銅器。「人面禾皿(カ)」と同じ髪型だよ。
URLリンク(honyaku.yahoofs.jp)
URLリンク(kouko.bird-mus.abiko.chiba.jp)
URLリンク(www.ne.jp)
URLリンク(matsuoshika.img.jugem.jp)
756:日本@名無史さん
09/08/12 21:24:41
>>754
「ののの」の字状の模様が両方に有る。!!!
(おまけ)
URLリンク(www.geocities.jp)
757:日本@名無史さん
09/08/12 21:26:53
>此れが学問的に検証され公開されれば確実だね。勇気ある考古学者出て来イヤー!!
一九七〇年、大分県の国東半島にある重藤遺跡から鉄製の剣が木炭とともに出土した。
これをC14年代測定法で分析したところ「紀元前六九五年プラスマイナス四〇年」
という結果が出た。しかし考古学界はこれをほとんど黙殺。「鉄は弥生時代」との通説
と合わなかったからだ。
縄文式とも弥生式とも異なっていて、中国大陸最古の王朝「殷(いん)」のものと
よく似たトウテツ紋様の土器片が数多く出土している。
伊木力遺跡からは、瀬戸内海沿岸特有の船元 Ⅱ 式土器が出土した。 それによって、
そこの住民が瀬戸内海沿岸まで交易に出かけたありさまが伝わってくる。
大分県豊後大野市「秋葉遺跡」で、中国の青銅器そっくりによく似た三足土器が出土し ...
758:源勝正朝臣
09/08/13 00:10:11
お。オレの先祖は、呉太伯だったのか。。。了解
759:日本@名無史さん
09/08/16 09:34:35
>>757
遂に真実があきらかに!
760:サガミハラハラ
09/08/16 10:13:24
木炭の年代がBC695年だったということです。
大木の芯の部分が偶然測定されたのでしょう。
761:日本@名無史さん
09/08/17 04:49:36
ただの交易品
762:日本@名無史さん
09/08/19 11:14:26
287 名前:出土地不明 :2009/08/05(水) 12:26:36 ID:gOAKrwB8
じゃあ何で「カ」(禾の下に皿)という器種自体が伝わっていない?
足を見てみろ。
何で「環足」が伝わっていない?
体を見てみろ。
何でその青銅人面の体を飾っている「雷文」が伝わっていない?
人面土器は世界中から出ていて、それだけでは全く証拠にならん。
763:日本@名無史さん
09/08/19 12:23:25
土笛は弥生遺構でも数点しか発見されていない搬入物。
他の古代中国楽器が伝わっていないところを見るとやはり朝鮮経由。
だいたい土笛を作っておいて何で江南名物「鼎」の一つも伝えないのか。
子持ち壺ももちろん半島経由の搬入物。
子持ち壺は古墳期の加羅、安羅の半島帰化人が持ち込んだ朝鮮陶質土器、
つまり須恵器の器種によく見られる。
だいたいインド土器を伝える前に江南系中国土器が何で伝わってないのか。
鉄器が伝わるのは弥生早期。
弥生前期のBC7Cに鉄器が出土するのは当たり前。
764:日本@名無史さん
09/08/19 12:25:36
トウテツ紋様の土器の正体は瓦。
弥生期の燕(今の河北省)は瓦のメッカ。
他の中国土器が一緒に見られないから、やはり朝鮮経由で宝器として搬入された物。
大分の中国鬲とは製法の異なる単発の鬲型土器も遼寧あたりの半島経由の搬入物。
江南は鼎のメッカで鬲は珍しい。
何で鼎が伝わらんのか。
765:日本@名無史さん
09/08/19 21:06:24
「鵜飼」は満州や朝鮮半島にも見られる。
満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
URLリンク(www.jiyuu-shikan.org)
日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
URLリンク(www.han.org)
766:日本@名無史さん
09/08/19 21:07:20
しかも日本の「鵜飼」は中国よりも古い。
鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』神武天皇の条に鵜養部のことが見え、
『古事記』にも鵜養のことを歌った歌謡が載っている。また中国の史書
『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった
漁法として紹介されている。
隋書の書かれた時代には鵜飼いは中国人にとって珍しい漁法だったが、
その後中国においても鵜飼い漁法が定着した。
確実な記録として最古の物は、10世紀の文人・陶穀が残した『清異録』
(965年)において、当塗(安徽省太平府の都市)の漁民が「魚を捕らえる
のに非常に機敏な鵜を使う」と記述されているのが最初である。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
767:日本@名無史さん
09/08/19 21:17:53
>>763 捏造ウソはダメだぞ
島根県 : 土笛土笛は弥生時代前期から中期前葉(紀元前6世紀から紀元前3世紀)
にかけて作られました。福岡県北東部から京都府北部の丹後半島にかけてこれまで
約100点、約100点、約100点、約100点、出土しています。そのうちの約半分が
島根県で発見されており、なかでも松江市西川津町の西川津遺跡 ...縄文笛も有るぞ。
www.pref.shimane.lg.jp/.../syuzohin/tsuchibue.html - キャッシュ - 類似ページ
URLリンク(www.pref.shimane.lg.jp)
768:日本@名無史さん
09/08/19 21:22:27
韓国の遺跡から土笛が出たって聞かないね不思議?後世雅楽の楽器としては有るが。
日本では縄文、弥生遺跡から約100点以上出土している。
【土笛の歴史】URLリンク(images.china.cn)
URLリンク(www2.wind.ne.jp)
中国の殷や長江の河姆渡(かぼと)遺跡から約6千年前?(けん)と呼ばれる土笛が発見
され、これが最も古い ...土笛の役割 陶?(とうけん)である土笛は、中国の朝廷の
儀式で使われたものですし、貴族がたしなむ楽器の一部でした........
弥生時代前期の土笛URLリンク(www2.wind.ne.jp)
URLリンク(www.hi-ho.ne.jp)
URLリンク(www.hi-ho.ne.jp)
綾羅木郷遺跡(下関市)から弥生土器とともに出土した弥生笛のレプリカ
これも「けん」と同様の方法で音を出します。
縄文時代中期URLリンク(www.hi-ho.ne.jp)
縄文笛URLリンク(blog.kodai-bunmei.net)
769:日本@名無史さん
09/08/19 21:24:10
● 殷・周の貝貨.....宝貝は中国の沿岸では採れず、もっとも近くても琉球諸島かベトナムです。
URLリンク(homepage3.nifty.com)
貝貨 15-21mm 0.5-2.0g
中国では新石器時代の晩期の紀元前30世紀ころから、墓地に宝貝が埋葬されています。
宝貝は中国の沿岸では採れず、もっとも近くても琉球諸島かベトナムです。はるか海上
の道を伝って運ばれたものです。宝貝の裏面は丁寧に削り取っています。
殷王朝[下の地図①]の末期から西周王朝の末期にかけて、王や王族が家臣に宝貝を
下賜した記録が残されています。
西周第5代の天子穆公は、治世13年(紀元前989年)6月6日、西域の赤烏の王に、
墨車4輌、黄金40鎰(800両)、貝帯50、朱薬300嚢
を下賜したとの言い伝えがあります。
柳田国男さんは『海上の道』の中で、琉球諸島の宝貝が殷王朝に供給された可能性を
強調されています。
770:日本@名無史さん
09/08/19 21:25:48
URLリンク(www6.ocn.ne.jp)
これは福岡県のスダレ遺跡から出土した弥生時代の壺です(高さ約40cm)。
その形状から子持ち壺と呼ばれているものですが、用途は不明とされているそうです。
URLリンク(www6.ocn.ne.jp)
これは古代の南インドの墓から出土したもので、楽器を模した土器です。
副葬品として墓に埋めていたものらしい。大きさはおよそ40cmで、
上の福岡県から出土したものとほぼ同じ大きさです。
URLリンク(www6.ocn.ne.jp)
これは南インドで今でも実際に祭りで使われている楽器(太鼓の一種)で、
大きさは高さが110cmあるということです。この楽器の存在がなければ、
上に挙げた日本の子持ち壺が楽器か、あるいはそれを模したものであろうと
いうことは判明しなかったと云えます。
771:日本@名無史さん
09/08/19 21:26:59
>>殷王朝は縄文人王朝で有る!!!!!かな?<<
人面付注口器のフタの部分が人面に成ってる処など、偶然とは思えぬ精神性の同一で有る。
ワシントンにあるフリア美術館にある殷の青銅器。「人面?(カ)」
URLリンク(honyaku.yahoofs.jp)
『人面注口土器』福田貝塚出土
URLリンク(business2.plala.or.jp)
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
『人面付注口土器』埼玉県埋蔵文化財調査事業団
URLリンク(www.museum.spec.ed.jp)
772:日本@名無史さん
09/08/19 21:29:27
.....殷の青銅器。「人面禾皿(カ)」と同じ髪型だよ。
URLリンク(honyaku.yahoofs.jp)
URLリンク(kouko.bird-mus.abiko.chiba.jp)
URLリンク(www.ne.jp)
URLリンク(matsuoshika.img.jugem.jp)
773:日本@名無史さん
09/08/19 21:30:33
>>767
ほう、それは知らなかったな。
ただ捏造ウソはおまえら江南渡民の台湾人の足元にも及ばんがな(嘲笑
だいたい土笛を作るためにその手で土をこねてだ、何で江南の中国土器を作らんの?
何でついでに「鼎」のメッカ江南の「鼎」を作らんのだ?
ちゃんちゃらおかしい。
774:日本@名無史さん
09/08/19 21:30:46
>>754
「ののの」の字状の模様が両方に有る。!!!
(おまけ)
URLリンク(www.geocities.jp)
775:日本@名無史さん
09/08/19 21:33:03
>>773
お前はウソ捏造でしか反論出来ない只の糞キムチ!!!!
776:日本@名無史さん
09/08/19 21:34:18
他の古代中国楽器が伝わっていないところを見ると土笛はやはり朝鮮経由の伝来物。
だいたい土笛を作っておいて何で江南名物「鼎」の一つも伝えんのか。
子持ち壺ももちろん半島経由の搬入物。
子持ち壺は古墳期の加羅、安羅あたりの半島帰化人が持ち込んだ朝鮮陶質土器、
つまり須恵器によく見られる。
だいたいインド土器を伝える前に何で江南系中国土器が全く伝わってないのか。
777:日本@名無史さん
09/08/19 21:34:53
>>773 捏造ウソはダメだぞ
島根県 : 土笛土笛は弥生時代前期から中期前葉(紀元前6世紀から紀元前3世紀)
にかけて作られました。福岡県北東部から京都府北部の丹後半島にかけてこれまで
約100点、約100点、約100点、約100点、出土しています。そのうちの約半分が
島根県で発見されており、なかでも松江市西川津町の西川津遺跡 ...縄文笛も有るぞ。
www.pref.shimane.lg.jp/.../syuzohin/tsuchibue.html - キャッシュ - 類似ページ
URLリンク(www.pref.shimane.lg.jp)
778:日本@名無史さん
09/08/19 21:37:49
今日はだいぶレス出来たから寝よ。
779:日本@名無史さん
09/08/19 21:40:13
鉄器が伝わるのは弥生早期。
弥生前期のBC7Cに鉄器が出土するのは当たり前。
トウテツ紋様の土器の正体は瓦。
弥生期の燕(今の河北省)は瓦のメッカ。
他の中国土器が一緒に見られないから、やはり朝鮮経由で宝器として搬入された物。
大分の単発の鬲型土器も遼寧や沿海州南部あたりから搬入された半島経由の搬入物。
江南は鼎のメッカ。
何で江南第一の器種、「鼎」が伝わらんのか。
780:日本@名無史さん
09/08/19 21:42:04
「鵜飼」は満州や朝鮮半島にも見られる。
満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
URLリンク(www.jiyuu-shikan.org)
日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
URLリンク(www.han.org)
781:日本@名無史さん
09/08/19 21:42:55
しかも日本の「鵜飼」は中国よりも古い。
鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』神武天皇の条に鵜養部のことが見え、
『古事記』にも鵜養のことを歌った歌謡が載っている。また中国の史書
『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった
漁法として紹介されている。
隋書の書かれた時代には鵜飼いは中国人にとって珍しい漁法だったが、
その後中国においても鵜飼い漁法が定着した。
確実な記録として最古の物は、10世紀の文人・陶穀が残した『清異録』
(965年)において、当塗(安徽省太平府の都市)の漁民が「魚を捕らえる
のに非常に機敏な鵜を使う」と記述されているのが最初である。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
782:日本@名無史さん
09/08/19 23:03:59
他の古代中国楽器が伝わっていないところを見ると土笛はやはり朝鮮経由の伝来物。
だいたい土笛を作るために土をこねておいて何で江南名物「鼎」の一つも作らんのか?
子持ち壺ももちろん半島経由の搬入物。
子持ち壺は古墳期の加羅、安羅あたりの半島帰化人が持ち込んだ朝鮮陶質土器、
つまり須恵器によく見られる。
だいたいインド土器を伝える前に何で江南系中国土器が全く伝わってないのか。
半島経由で鉄器が伝わるのは弥生早期。
弥生前期のBC7Cに鉄器が出土するのは当たり前。
トウテツ紋様の土器の正体は瓦。
弥生期の燕(今の河北省)は瓦のメッカ。
他の中国土器が一緒に見られないから、やはり朝鮮経由で宝器として搬入された物。
大分の単発の鬲型土器も遼寧や沿海州南部あたりから搬入された半島経由の搬入物。
そもそも江南は鼎のメッカで鬲は珍しい。
よりによって何で江南第一の器種、「鼎」が伝わらんのか。
783:日本@名無史さん
09/08/20 04:36:25
このコピペ豚って金もらってやってんだろうな
784:日本@名無史さん
09/08/20 08:21:15
史記には、太伯に子供がいないと書いている。
でも実際は、句呉は弟の李歴にまかせて、縄文末期の日本に来た可能性はあると思う。
今でも、戦争で戦死したと言われた人が、現地で家族をつくって生き延びているという報道は聞く。
785:日本@名無史さん
09/08/20 08:55:37
太伯の弟の名前を間違えてしまった。
786:日本@名無史さん
09/08/20 14:10:33
>>782 >日朝間には縄文頃より交流は有るが、木の曲げ物(杓子、樽作りの技術が無いので
甕を多く使う)水車等は明治に入るまで無かった。つまり幾ら交流が有っても興味が無い、必要性
(宗教上含)が無い、技術が無い、唐の様に絹の製法を国家管理してる場合などは伝達しにくい。
>朝鮮人が水車の技術を導入しようと苦慮していたことに関しては、1880年代になっても
金弘集が「朝鮮には灌漑設備がない。水車もない」と未開性を嘆いていた。つまり、朝鮮人は、
朴端生が1429年に日本に来た後、500年近くかけても水車を実用化できなかったということだ。
787:日本@名無史さん
09/08/20 22:56:47
半月型石包丁(桂葉形雙孔石刀)は遼寧を経由している。
中国遼寧省羊頭窪遺跡. 黒陶系土器 石器(石包丁 磨製石鏃) 紡錐車 骨角器 卜骨
URLリンク(www.museum.kyoto-u.ac.jp)
紅山文化は北方地区の新石器文化の中で重要な文化です。ここでいう北方地区とは、
東北3省(遼寧、吉林、黒龍江)、内蒙古自治区および新彊維吾爾(ウイグル)自治区を指します。
大型石器の中で特徴的なものに、土掘具(耜あるいは犁とも呼ばれる)、桂葉形の双孔石刀があります。
URLリンク(kohkosai.web.infoseek.co.jp)
中国北部の文化が東北部の遼西まで及んでいるいることを知りえた。それに、石包丁が出土していた
のには目を見張った。日本に石包丁が伝わったのはそれから3千年もたった弥生時代になってからなのだ。
URLリンク(kyohiro.blog.ocn.ne.jp)
◆遼寧の石包丁
URLリンク(kyohiro.blog.ocn.ne.jp)
788:日本@名無史さん
09/08/21 12:15:50
「呉服」は百済経由で伝わっている。
また百済国に、「若(モ)し賢(サカ)しき人あらば貢上(タテマツ)れ」
とおほせたまひき。かれ、命(ミコト)を受けて貢上(タテマツ)りし人、
名は和邇吉師(ワニキシ)、すなはち論語十巻・千字文一巻、并(アハ)
せて十一巻(トヲアマリヒトマキ)をこの人に付けてすなはち貢進
(タテマツ)りき。この和邇吉師(ワニキシ)は文首(フミノオビト)等(ラ)の
祖(オヤ)。また手人(テヒト)韓鍛(カラカヌチ)名は卓素(タクソ)、
また呉服(クレハトリ)の西素(サイソ)二人を貢上(タテマツ)り、
また秦造(ハタノミヤツコ)の祖(オヤ)、漢直(アヤノアタヒ)の祖(オヤ)、
また酒を醸(カ)むことを知れる人、名は仁番(ニホ)亦(マタ)の名は
須須許理(ススコリ)等(ラ)参(マヰ)渡り来つ。
URLリンク(kamnavi.jp)
789:日本@名無史さん
09/08/21 19:31:49
>>788
「呉服」は百済経由で伝わっている。
↑
勘違いしてるよ
また百済国に…
また呉服(ク…
また秦造(ハ…
また酒を醸(…
と、なっていて、全部別になっているんだよ
790:日本@名無史さん
09/08/21 21:55:33
同じコピペばかり繰り返し繰り返し貼られてるけど、
よほどこのスレで普通のやりとりが進行するのが気に入らない粘着偏執狂がいるようだな。
倭人が呉の末裔とか語られたら、よほど都合がわるいのかw
791:日本@名無史さん
09/08/22 17:44:19
朝鮮半島に稲作が伝わったのは4~5000年くらい前。
1990年金浦佳■(山と見)里泥炭層から採取された稲籾は4,010+-25BPと
報告されており、問題もあるがもし報告が正しいとすれば韓国での稲の
出現は新石器時代中期段階にまでさかのぼる可能性がある。
URLリンク(inoues.net)
最近は紀元前2000年ころ(?)とみられる種籾が、漢江の河口に面
する金浦(キムポ)と一山(イルサン)で発見されました(注)。
URLリンク(www2s.biglobe.ne.jp)
然し1992年には、それよりも早い時期の粳米を韓国の清州市における
家瓦遺跡から大量に発見された。今から4721年(+-50)年前と
推測されているが、同時に出土された樹木年輪測定からすると、
今から5020年前のものだと修正がなされた。
URLリンク(sakura-nokishita.spaces.live.com)
792:日本@名無史さん
09/08/22 17:45:11
朝鮮半島で最古の水田遺跡は前11世紀のオクキョン遺跡で日本よりも古い。
弥生時代の始まりと深く関連している韓国南部だが、最古の水田は
慶尚南道蔚山・オクキョン遺跡で見つかっており、孔列文~突帯文土器が
伴っているところから、前11世紀頃と考えられている。
URLリンク(www.rekihaku.ac.jp)
793:日本@名無史さん
09/08/22 17:46:12
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。
かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。
佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。
考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。
それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
URLリンク(www.athome-academy.jp)
794:日本@名無史さん
09/08/22 20:27:20
朝鮮半島の米は測定の結果、紀元前約2千年(約4千年前)が最古だよ。
795:日本@名無史さん
09/08/22 20:52:35
>>788
また百済国に、「若(モ)し賢(サカ)しき人あらば貢上(タテマツ)れ」
とおほせたまひき。かれ、命(ミコト)を受けて貢上(タテマツ)りし人、
名は和邇吉師(ワニキシ)……
つまり、百済の王は天皇に命令されて、和邇(あとで王仁に訂正される)と言う学者を差し出しただけです。
ちなみに、王仁さん本人の申告だと中国の人で戦乱を避けて百済に来ていたそうです。
796:日本@名無史さん
09/08/22 20:59:44
ソースが一切出ない、流石は台湾政府諜報員(ゲラ爆
797:日本@名無史さん
09/08/22 21:02:58
このスレがコピペキチガイに乗っ取られてるのはなんで?
よほどこのスレで普通のやりとりが進行するのが気に入らない粘着偏執狂がいるんだな。
798:日本@名無史さん
09/08/22 21:25:00
>>796
ソースって?
王仁さんのこと?
日本書紀に、もっと詳しく書いてあるよ!
799:日本@名無史さん
09/08/22 21:25:41
と、涙目で怒り狂う台湾政府情報工作員なのであった(ゲラゲラ大爆笑
台湾人 ← クサイ、キショイ、キモイ、ベトナム顔した醜悪な汚物wwwwww
800:日本@名無史さん
09/08/22 21:30:43
続日本紀にも書いてある
801:日本@名無史さん
09/08/22 21:31:41
>>798
だから、日本書紀なんかネット上にゴロゴロあるんだから、
その部分をここに出してみろよw
カンボシア顔のクーッサイクッサイ台湾汚物wwww
遺伝子がうんこクサイねw
802:日本@名無史さん
09/08/22 21:51:04
台湾汚物で遺伝子がうんこクサイ…
って言ったら韓国人のこと?
ダメだよ!いくらトンスルーでも遺伝子までうんこクサイとはかぎらないでしょう!
803:日本@名無史さん
09/08/22 22:03:27
韓国の中学の教科書にも載っている。王仁の名前でくぐれ
804:日本@名無史さん
09/08/22 22:11:50
>>801 これで良いか。
『続日本紀』によると、子孫である左大史・正六位上の文忌寸(ふみのいみき)最弟(もおと)らが
先祖の王仁は漢の皇帝の末裔と桓武天皇に奏上したという記述がある。このことから王仁は
楽浪郡出身で百済にやってきた漢人の家系に連なり、漢高帝の末裔であるとされる。この記述が
真実であれば、王仁は313年の楽浪郡滅亡の際に百済へと亡命した楽浪王氏の一員ではないかと考えられる。
楽浪の時代を通じて強力な勢力をもった楽浪王氏は斉(中国山東省)の出自といわれ、前一七〇年代に
斉の内乱を逃れて楽浪の山中に入植したものという。おそらく、3世紀前半の楽浪郡の滅亡後に百済へ亡命、
その後、3世紀後半には日本へ移民したのであろう。
朝鮮半島の人間が中国風の一字姓を名乗りはじめるのは統一新羅以降の風習で、当時の百済の人間が
王姓を名乗っているとは考えにくく、この点から考えても楽浪王氏であるという説は説得力を持っている。
805:日本@名無史さん
09/08/22 22:14:23
だからはやくその部分をここに出してみろよこの台湾人がw
このウソしかつかねえガンメン東南アジア丸出しのウンコ台湾政府工作部隊がw
806:日本@名無史さん
09/08/22 22:19:44
>>804
で、それのどこに「王仁さん本人の申告だと中国の人」と書いてあんだよ?w
807:日本@名無史さん
09/08/22 22:29:49
朝鮮半島に稲作が伝わったのは4~5000年くらい前。
1990年金浦佳■(山と見)里泥炭層から採取された稲籾は4,010+-25BPと
報告されており、問題もあるがもし報告が正しいとすれば韓国での稲の
出現は新石器時代中期段階にまでさかのぼる可能性がある。
URLリンク(inoues.net)
最近は紀元前2000年ころ(?)とみられる種籾が、漢江の河口に面
する金浦(キムポ)と一山(イルサン)で発見されました(注)。
URLリンク(www2s.biglobe.ne.jp)
然し1992年には、それよりも早い時期の粳米を韓国の清州市における
家瓦遺跡から大量に発見された。今から4721年(+-50)年前と
推測されているが、同時に出土された樹木年輪測定からすると、
今から5020年前のものだと修正がなされた。
URLリンク(sakura-nokishita.spaces.live.com)
808:日本@名無史さん
09/08/22 22:30:37
朝鮮半島で最古の水田遺跡は前11世紀のオクキョン遺跡で日本よりも古い。
弥生時代の始まりと深く関連している韓国南部だが、最古の水田は
慶尚南道蔚山・オクキョン遺跡で見つかっており、孔列文~突帯文土器が
伴っているところから、前11世紀頃と考えられている。
URLリンク(www.rekihaku.ac.jp)
809:日本@名無史さん
09/08/22 22:31:16
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。
かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。
佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。
考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。
それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
URLリンク(www.athome-academy.jp)
810:日本@名無史さん
09/08/22 22:45:49
>>806
数百年後の子孫が先祖王仁は漢、項羽の子孫ですと自己申告してるんだから
千六百年後のあんたが違うっていっても話に成らんけえのう
私は中国人ですとは書いて無いが、百済人だとも書いて無いのう残念です。
811:日本@名無史さん
09/08/22 22:50:19
>>801 これで良いか。
『続日本紀』によると、子孫である左大史・正六位上の文忌寸(ふみのいみき)最弟(もおと)らが
先祖の王仁は漢の皇帝の末裔と桓武天皇に奏上したという記述がある。このことから王仁は
楽浪郡出身で百済にやってきた漢人の家系に連なり、漢高帝の末裔であるとされる。この記述が
真実であれば、王仁は313年の楽浪郡滅亡の際に百済へと亡命した楽浪王氏の一員ではないかと考えられる。
楽浪の時代を通じて強力な勢力をもった楽浪王氏は斉(中国山東省)の出自といわれ、前一七〇年代に
斉の内乱を逃れて楽浪の山中に入植したものという。おそらく、3世紀前半の楽浪郡の滅亡後に百済へ亡命、
その後、3世紀後半には日本へ移民したのであろう。
朝鮮半島の人間が中国風の一字姓を名乗りはじめるのは統一新羅以降の風習で、当時の百済の人間が
王姓を名乗っているとは考えにくく、この点から考えても楽浪王氏であるという説は説得力を持っている。
812:日本@名無史さん
09/08/22 23:13:48
王仁さん百済からのをなんで否定したいの?
韓国人を台湾汚物呼ばわりしたり、最低な人ですね!
813:日本@名無史さん
09/08/22 23:15:37
何が中国の人だよw
単に楽浪人なだけだろがこの悪の帝王、台湾政府部隊が。
まるでチンクランドから直接渡来したかのような工作はやめましょう。
日本における悪の頂点、侵略者「台湾政府」部隊は。
814:日本@名無史さん
09/08/22 23:45:25
楽浪郡が高句麗の領土になる前の話だが?
ひょっとして、楽浪郡の人なのに、中国人と言っているので怒っているのか?
815:日本@名無史さん
09/08/22 23:59:46
楽浪郡から逃げ、百済に住んでいる時に日本に招き入れられた。
つまり、百済が関わっている。
台湾は関係ないんだが?被害妄想?
病院で見てもらったほうがいいぞ。
816:日本@名無史さん
09/08/23 00:15:34
元々の文章が
[また百済国に、「若(モ)し賢(サカ)しき人あらば貢上(タテマツ)れ」
とおほせたまひき。かれ、命(ミコト)を受けて貢上(タテマツ)りし人、
名は和邇吉師(ワニキシ)…]…だから
誰も直接日本に来たなんて言ってないのに。
「まるでチンクランドから直接渡来したかのような工作はやめましょう。」
だもん。
よほどのバカでなければ頭の中の病気だね!
817:日本@名無史さん
09/08/23 04:26:12
支那豚の工作ウゼーなここ
818:日本@名無史さん
09/08/23 06:46:44
>ダメだよ!いくらトンスルーでも遺伝子までうんこクサイとはかぎらないでしょう!
「トンスルー」が、わからないです。教えて下さい。
819:日本@名無史さん
09/08/23 14:01:04
もし北方騎馬民族が大和を征服したのなら、なぜ北方騎馬民族の誇り高き武器、
彎弓(中国・朝鮮の弓はみなこの形式である)、短弓が広がらず日本古来の和弓、
長弓のままなのかね?
URLリンク(yamatai.cside.com)
URLリンク(yamatai.cside.com)
日本では弥生から現代まで長弓を下3/1(唯一倭人だけ)の所で射るやり方だよ。
騎馬戦法でも短弓の方が便利なのに、無理して長弓を使うどうしてかな?倭人の誇りだから。
『魏志倭人伝』に「木弓は下が短く、上が長い」と記されているのも、この弓のこと。
URLリンク(yamatai.cside.com)
それに、誇り高き北方騎馬民族が、征服者なのに名前が倭人系の名になるはずが無いだろ。
先祖や神の名も倭人系なのを消すはずだろ。朱蒙や檀君の神話は一切無いね。!!!!
820:日本@名無史さん
09/08/23 15:59:51
見よ!
これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。
(※色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!これらの要素が弥生土器には一切ない。)
鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(www.shtong.gov.cn)
821:日本@名無史さん
09/08/23 16:01:42
小麦作も約6000年前からやってたんだけど何か?(ゲラゲラ爆笑
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
URLリンク(www.local.co.jp)
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
822:日本@名無史さん
09/08/23 16:02:48
小麦作も約6000年前からやってたんだけど何か?(ゲラゲラ大爆笑
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
URLリンク(osaka.yomiuri.co.jp)
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
823:日本@名無史さん
09/08/25 23:14:25
**これは縄文なのか弥生なのか分から無く成ってきたぞ。
桜町遺跡と河姆渡遺跡・・「高床の道は米の道、河姆渡遺跡と桜町遺跡はつながっている」
縄文中期末葉から後期初頭(約4.000年前)の「高床建物」の柱材が100本以上も出てきた。
貫穴(ぬきあな)や桟穴(えつりあい)、ほぞ穴などといつた二つの部材を組み合わせる
加工技術があり、「渡腮(わたりあご)仕口」(木材を凹凸に削って組み合わせる)といった
高度な技法も見られた。渡腮仕口は、法隆寺の金堂(7世紀後半)に使われていたのが最古と
されていた。その加工技術が約4.000年前の桜町で既に存在していることが明らかとなった。
URLリンク(bunarinn.fc2web.com)
824:日本@名無史さん
09/08/28 01:05:08
高床式「倉庫」は北方アジアから直伝している。
高床式建物はシベリアやアムールにもあるけど何か?
スレリンク(archeology板)
825:日本@名無史さん
09/08/28 02:08:17
>>823 アクセス不良なのでコチラへ
**これは縄文なのか弥生なのか分から無く成ってきたぞ。
桜町遺跡と河姆渡遺跡・・「高床の道は米の道、河姆渡遺跡と桜町遺跡はつながっている」
縄文中期末葉から後期初頭(約4.000年前)の「高床建物」の柱材が100本以上も出てきた。
貫穴(ぬきあな)や桟穴(えつりあい)、ほぞ穴などといつた二つの部材を組み合わせる
加工技術があり、「渡腮(わたりあご)仕口」(木材を凹凸に削って組み合わせる)といった
高度な技法も見られた。渡腮仕口は、法隆寺の金堂(7世紀後半)に使われていたのが最古と
されていた。その加工技術が約4.000年前の桜町で既に存在していることが明らかとなった。
URLリンク(siyasin.ninja-x.jp)
826:日本@名無史さん
09/08/28 02:23:51
>>824
その北方アジアの高床式「倉庫」はどこから伝わったんだよ。
827:日本@名無史さん
09/08/28 04:43:27
つまり縄文起源
828:日本@名無史さん
09/08/28 08:09:02
なるほど、日本からシベリアに伝わって、シベリアから韓国に伝わった。韓国人はロシア人に感謝すべきですね(笑)
829:日本@名無史さん
09/08/28 12:18:56
その頃から、シベリアにはロシア人(スラブ民族)が住んでいたのですか。
土着の人たちでは?
アジア系とか。。。
830:日本@名無史さん
09/08/28 12:22:36
入れ墨は日本では旧石器時代からおこなわれている。
タトゥーは少なくともオセアニア大陸で新石器時代からおこなわれていました。
タトゥーをしたミイラが発見されています。日本では旧石器時代から
おこなわれていたと考えられています。その他の多くの文明でも、
それぞれ独特のタトゥーの様式がありました。
URLリンク(blog.livedoor.jp)
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
831:日本@名無史さん
09/08/28 12:23:37
日本には7000年前の世界最古の入れ墨の証拠遺物がある。
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?
日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として記録
されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。
URLリンク(www.ta2.com)
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの
832:日本@名無史さん
09/08/28 12:24:48
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
紀元前5,000年の縄文時代の土器から、入れ墨をほどこした人面器が
発見されているんだ。
URLリンク(www.tnc.ne.jp)
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
833:日本@名無史さん
09/08/28 13:11:09
>>531 アクセス不良なのでコチラへ
*下記のアクセス先も潰されました。
*余程都合の悪い情報なんだな?民潭工作隊!必死さが目に浮かぶぜ。
**これは縄文なのか弥生なのか分から無く成ってきたぞ。
桜町遺跡と河姆渡遺跡・・「高床の道は米の道、河姆渡遺跡と桜町遺跡はつながっている」
縄文中期末葉から後期初頭(約4.000年前)の「高床建物」の柱材が100本以上も出てきた。
貫穴(ぬきあな)や桟穴(えつりあい)、ほぞ穴などといつた二つの部材を組み合わせる
加工技術があり、「渡腮(わたりあご)仕口」(木材を凹凸に削って組み合わせる)といった
高度な技法も見られた。渡腮仕口は、法隆寺の金堂(7世紀後半)に使われていたのが最古と
されていた。その加工技術が約4.000年前の桜町で既に存在していることが明らかとなった。
URLリンク(siyasin.ninja-x.jp)
834:日本@名無史さん
09/08/28 18:03:21
>>世紀の大発見!!縄文時代土器の常識が覆すかも。櫛目文土器より曽畑式土器の方が可なり古い<<
この遺跡では10層・11層から櫛目文土器が現れ、さらに深い(さらに古い)13層から曽畑式土器。
発掘調査が待たれる茂の脇遺跡
案内板のある茂の脇遺跡は、八幡神社の周辺一帯をさすらしいが、縄文前期から古墳時代に至る
複合遺跡で、本によっては夫婦石遺跡とも呼ばれている。韓国新石器時代の土器、縄文前期・中期
の土器、石鏃、石斧、古墳時代の須恵器などが出土。考古学的には非常に重要な遺跡らしい。
今までは朝鮮半島の櫛目文土器に影響されて、九州の曽畑式土器が生まれたというのが学会の常識
であったが、この遺跡では10層・11層から櫛目文土器が現れ、さらに深い(さらに古い)13層から
曽畑式土器が見つかった。つまり、曽畑式が櫛目文に影響を与えたのかも知れないということに
なってしまう。
835:日本@名無史さん
09/08/28 19:51:45
>>829
その頃から、シベリアにはロシア人(スラブ民族)が住んでいたのですか。
土着の人たちでは?
アジア系とか。。。
半島の南(つまり今の韓国)に住んでいたのも倭人とされているのですが。
韓国の人には理解出来ないので、ちょうどいいです(笑)
836:日本@名無史さん
09/08/29 18:37:31
「歌垣」は百済の帰化人から伝わっている。
翌宝亀元年(770年)3月には、男女230人が歌垣(うたがき)
には百済から河内の地に渡来した王仁(わに)の末孫たちが奉仕した
との記録が残されています。(続日本紀)
URLリンク(www18.ocn.ne.jp)
弓削の道鏡の出身地で称徳天皇がこの地に遊行されて、百済の人々が
歌垣をして慰めたという
URLリンク(www.shiga-miidera.or.jp)
歌垣を行った葛井氏ら六氏は百済からの渡来人を先祖としており
URLリンク(www.furutasigaku.jp)
837:日本@名無史さん
09/08/29 18:38:16
「歌垣」は現在でも朝鮮半島に見られる。
先生は「韓の国紀行『歌垣』」のなかで、「朝鮮民族には凄味がある、
と、ほとほと思ったのは、この仏国寺の松林で野遊びを見、歌垣の
歌声をきき、そして杖鼓(チャング)のリズムをきいたときであった。
URLリンク(homepage2.nifty.com)
日本にも野遊びはあった。万葉のころ歌垣は絶えた。韓国ではいまも
生活の中にある。
URLリンク(www.ric.hi-ho.ne.jp)
韓国の山野では野遊びをする人々に出会うという。司馬さんは
「人々は強烈なリズムにのって群舞しており、さながら万葉時代の
歌垣や踏歌を現(うつつ)に見る思い」がすると書いていた。
URLリンク(www1.coralnet.or.jp)
838:日本@名無史さん
09/08/29 18:39:04
次に、歌垣(かがい・歌會)について語ろう。七七〇年三月、河内の弓削の称徳離宮で歌垣が
行われた。万代にわたる帝と離宮の存続を祈り、周囲六ヶ村男女二百三十人の渡来人が夜を
通して歌い踊った。歌垣は若い男女にとって、他の部落との間の通婚の機会設定に大きな役割を
果たしていた。このころは、山麓の景勝地まで人々が出かけて、賑やかに野外舞踏会を開いた
ものであった。というよりは、日のあるうちは野に遊び、日が暮れると篝火が灯され、酒が
入って宴は佳境に入る。日野の朝鮮坊山では、毎年歌垣が行われていた。
お月見の習慣と併せて、韓半島からの伝来の風習であった。いまも扶餘や慶州あたりの野原では、
夏の夕べに月見の宴を張る。これを野遊とよんでいる。大和の民衆もこの楽しみをまねて、
農業神事に取り入れた。慶州の仏国寺の松林で、水色・桃色・緑・赤など色とりどりの袴・上衣を
着た老若男女が楽しそうに踊るのを見ることができる。杖鼓を膝の前において鞭のようなバチで
打つ。このリズムに合わせて踊る。韓国ではいまでも一般の家庭で使われている楽器である。
日本舞楽の羯鼓に似た楽器である。筑波山麓の歌會や常陸国風土記にある童子女松原の歌會が
知られている。筑波嶺の歌會で詠んだ歌一首と短歌が万葉集巻九にある。この伝統が盆踊りの形で
現在の日本に引き継がれた。
URLリンク(www.tmd.ac.jp)
839:日本@名無史さん
09/08/29 19:04:30
王仁吉師は漢人だそうだな。
つまり、歌垣は中国が起源?
840:日本@名無史さん
09/08/30 03:07:19
>>839 苗族とかイ族、ペー族というのがまだやっているらしいな。
841:名無しさん@そうだ選挙に行こう
09/08/30 08:41:05
>>839-840 たった3行で起源捏造、失敗…
なんか、かわいそう(笑)
842:名無しさん@そうだ選挙に行こう
09/08/30 11:33:35
>>833
よう!
日本人のルーツを台湾人の祖郷江南に誘導する事がミッションの
侵略者チャイニーズタイペイ工作員くんw
馬鹿と低脳しかダマせない欺罔ネタはそれでもう終わりか?w
では、神の俺様から下々に向かってご神託をしてやろうw
その中で縄文高床式倉庫の証拠として使えるのは、数百以上の跡がある
三内丸山遺跡と高床式倉庫を構成する大部分の部材が出土している桜町遺跡だけだな。
跡や建材の一部だけだと、旧石器時代からある竪穴式住居のものだと言えてしまうからな。
で、肝心のその高床式倉庫の伝来先だが、三内丸山遺跡と桜町遺跡がある青森と富山に
当時登場してきた土器を見れば一目瞭然だな。
843:名無しさん@そうだ選挙に行こう
09/08/30 11:34:44
「円筒土器」は、東北地方北半部から北海道南西部にかけてと、不思議な事に
東北地方南部を飛び越えて北陸の富山から出土している。
で、この円筒土器、当時の遼寧から沿海州南部にいたる北東アジアに広がっていた
「平底筒形罐」と器形が全く一致している。
つまり、日本海を縦断した青森や富山から一番近い大陸だった「沿海州南部」との
交流を通じて、縄文高床式倉庫も円筒土器も玉ケツ(ケツ状耳飾)も伝わっただけなのである。
ただし縄文高床式倉庫と弥生高床式倉庫は連続していない。
西日本での縄文期の高床式倉庫の確証遺構が全く無いからである。
弥生高床式倉庫は弥生開始期と同時に九州北部に突如として登場するのである。
844:名無しさん@そうだ選挙に行こう
09/08/30 12:54:44
>>世紀の大発見!!縄文時代土器の常識が覆すかも。櫛目文土器より曽畑式土器の方が可なり古い<<
この遺跡では10層・11層から櫛目文土器が現れ、さらに深い(さらに古い)13層から曽畑式土器。
発掘調査が待たれる茂の脇遺跡
案内板のある茂の脇遺跡は、八幡神社の周辺一帯をさすらしいが、縄文前期から古墳時代に至る
複合遺跡で、本によっては夫婦石遺跡とも呼ばれている。韓国新石器時代の土器、縄文前期・中期
の土器、石鏃、石斧、古墳時代の須恵器などが出土。考古学的には非常に重要な遺跡らしい。
今までは朝鮮半島の櫛目文土器に影響されて、九州の曽畑式土器が生まれたというのが学会の常識
であったが、この遺跡では10層・11層から櫛目文土器が現れ、さらに深い(さらに古い)13層から
曽畑式土器が見つかった。つまり、曽畑式が櫛目文に影響を与えたのかも知れないということに
なってしまう。
845:名無しさん@そうだ選挙に行こう
09/08/30 18:42:16
朝鮮半島の櫛目文土器はBC40C頃から登場するんだから、
単に13層がBC4OCよりも新しいだけだろうが
で、10層・11層の時代になって半島から櫛目文土器が輸入されただけだろうが。
しかし、URLも出典先も無い、怪しさバツグンだな台湾政府w
846:日本@名無史さん
09/08/30 21:42:16
「貫頭衣」は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中に見られる。
●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
URLリンク(www.frontstyle.com)
人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
URLリンク(homepage1.nifty.com)
人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
URLリンク(www.h6.dion.ne.jp)
847:日本@名無史さん
09/08/30 21:43:12
古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
URLリンク(home.att.ne.jp)
古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
URLリンク(www.lcv.ne.jp)
ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
URLリンク(www.psats.or.jp)
848:日本@名無史さん
09/08/31 22:29:34
「鳥居」の登場は8C。
鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
849:日本@名無史さん
09/08/31 23:21:14
鳥居の起源はチベット系部族の「精霊の門」だよ
これは4000年位の歴史があるね
URLリンク(upload.wikimedia.org)
羌族の鳥居