復興!周王室(天子)!倭人は呉の末裔か!?vol.3at HISTORY
復興!周王室(天子)!倭人は呉の末裔か!?vol.3 - 暇つぶし2ch516:日本@名無史さん
09/04/20 20:27:42
>>515 たしかアイスマンも入れ墨をしていたがアイスマンより古かったかな?


517:日本@名無史さん
09/04/21 23:47:54
歌垣は百済の帰化人から伝わっている。


翌宝亀元年(770年)3月には、男女230人が歌垣(うたがき)
には百済から河内の地に渡来した王仁(わに)の末孫たちが奉仕した
との記録が残されています。(続日本紀)
URLリンク(www18.ocn.ne.jp)

弓削の道鏡の出身地で称徳天皇がこの地に遊行されて、百済の人々が
歌垣をして慰めたという
URLリンク(www.shiga-miidera.or.jp)

歌垣を行った葛井氏ら六氏は百済からの渡来人を先祖としており
URLリンク(www.furutasigaku.jp)

518:日本@名無史さん
09/04/21 23:49:53
歌垣は現在でも朝鮮半島に見られる。


先生は「韓の国紀行『歌垣』」のなかで、「朝鮮民族には凄味がある、
と、ほとほと思ったのは、この仏国寺の松林で野遊びを見、歌垣の
歌声をきき、そして杖鼓(チャング)のリズムをきいたときであった。
URLリンク(homepage2.nifty.com)

日本にも野遊びはあった。万葉のころ歌垣は絶えた。韓国ではいまも
生活の中にある。
URLリンク(www.ric.hi-ho.ne.jp)
 
韓国の山野では野遊びをする人々に出会うという。司馬さんは
「人々は強烈なリズムにのって群舞しており、さながら万葉時代の
歌垣や踏歌を現(うつつ)に見る思い」がすると書いていた。
URLリンク(www1.coralnet.or.jp)

519:日本@名無史さん
09/04/21 23:50:43
次に、歌垣(かがい・歌會)について語ろう。七七〇年三月、河内の弓削の称徳離宮で歌垣が
行われた。万代にわたる帝と離宮の存続を祈り、周囲六ヶ村男女二百三十人の渡来人が夜を
通して歌い踊った。歌垣は若い男女にとって、他の部落との間の通婚の機会設定に大きな役割を
果たしていた。このころは、山麓の景勝地まで人々が出かけて、賑やかに野外舞踏会を開いた
ものであった。というよりは、日のあるうちは野に遊び、日が暮れると篝火が灯され、酒が
入って宴は佳境に入る。日野の朝鮮坊山では、毎年歌垣が行われていた。
お月見の習慣と併せて、韓半島からの伝来の風習であった。いまも扶餘や慶州あたりの野原では、
夏の夕べに月見の宴を張る。これを野遊とよんでいる。大和の民衆もこの楽しみをまねて、
農業神事に取り入れた。慶州の仏国寺の松林で、水色・桃色・緑・赤など色とりどりの袴・上衣を
着た老若男女が楽しそうに踊るのを見ることができる。杖鼓を膝の前において鞭のようなバチで
打つ。このリズムに合わせて踊る。韓国ではいまでも一般の家庭で使われている楽器である。
日本舞楽の羯鼓に似た楽器である。筑波山麓の歌會や常陸国風土記にある童子女松原の歌會が
知られている。筑波嶺の歌會で詠んだ歌一首と短歌が万葉集巻九にある。この伝統が盆踊りの形で
現在の日本に引き継がれた。
URLリンク(www.tmd.ac.jp)

520:日本@名無史さん
09/04/22 09:12:49
歌垣を根拠に朝鮮起源説を主張するとは間抜けなやつだなあ。

歌垣こそ雲南~江南の先漢民族群のメルクマールなのに。

521:日本@名無史さん
09/04/22 10:23:08
>>519 司馬さんは「人々は強烈なリズムにのって群舞しており、さながら万葉時代の
歌垣や踏歌を現(うつつ)に見る思い」がすると書いていた。

・・・歌垣がチャングのリズムにのって肩を揺すりながら踊り狂うものとは思えないがな。




522:日本@名無史さん
09/04/22 19:22:40
貫頭衣は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中に見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
URLリンク(www.frontstyle.com)

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
URLリンク(homepage1.nifty.com)

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
URLリンク(www.h6.dion.ne.jp)

523:日本@名無史さん
09/04/22 19:23:24
古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
URLリンク(home.att.ne.jp)

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
URLリンク(www.lcv.ne.jp)

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
URLリンク(www.psats.or.jp)

524:日本@名無史さん
09/04/23 22:05:16
鳥居の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している

525:日本@名無史さん
09/04/24 09:54:24
>>524 鳥居のようなものは銅鐸にも描かれていて、東南アジア、シナの雲南地方にもあっただろう。


526:日本@名無史さん
09/04/24 12:18:48
じゃあ、何で飛鳥時代の鳥居もその跡も遺物もない?

鳥居の登場は奈良時代以降。

527:日本@名無史さん
09/04/24 20:36:09
魏志倭人伝には倭人が断髪をしていたなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




男子皆露紒 以木緜招頭

URLリンク(www.g-hopper.ne.jp)
URLリンク(boat.zero.ad.jp)
URLリンク(members3.jcom.home.ne.jp)





528:日本@名無史さん
09/04/25 17:29:02
糸引き納豆の登場は室町時代頃、なれずしは3C頃に朝鮮経由で伝わる。


平安時代の文献にも塩辛納豆の名は残っているが、一般に広まったのは
室町時代以降でこの頃から糸引き納豆も登場しており区別するために
塩辛納豆を久喜と呼び糸引き納豆を単に納豆と呼ぶようになった。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

なれずしの歴史は古くて、紀元前には中国で食べられていたらしいんだ。
それが三世紀頃に日本にも伝わって、奈良時代には文献にも登場する。
URLリンク(www.kouryu.or.jp)

「すし」のルーツは遠く東南アジア、メコン川の地域と言われております。
メコン川周辺地域から中国へ、そして朝鮮半島から稲作の伝播とともに
日本へ伝わってきたと考えられているようです。 
URLリンク(www3.ocn.ne.jp)

529:日本@名無史さん
09/04/25 17:32:34
>>528 朝鮮半島経由といっても半島倭人から列島倭人へ伝えただけだろう。


530:日本@名無史さん
09/04/25 17:39:18
違う。

ほとんどものが朝鮮経由で伝わってきたが、単に九州北部と半島南部の
交易や交流を通じて伝わってきただけの話。

渡来人なんか関係ないの。

531:日本@名無史さん
09/04/26 14:49:36
鵜飼は満州や朝鮮半島にも見られる。


満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
URLリンク(www.jiyuu-shikan.org)

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
URLリンク(www.han.org)

532:日本@名無史さん
09/04/26 14:51:08
しかも日本の鵜飼は中国よりも古い。


鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』神武天皇の条に鵜養部のことが見え、
『古事記』にも鵜養のことを歌った歌謡が載っている。また中国の史書
『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった
漁法として紹介されている。

隋書の書かれた時代には鵜飼いは中国人にとって珍しい漁法だったが、
その後中国においても鵜飼い漁法が定着した。

確実な記録として最古の物は、10世紀の文人・陶穀が残した『清異録』
(965年)において、当塗(安徽省太平府の都市)の漁民が「魚を捕らえる
のに非常に機敏な鵜を使う」と記述されているのが最初である。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

533:日本@名無史さん
09/04/28 23:24:31
>>502百済の支配層は扶余では?

で、天皇家が周王室の末裔であるという根拠は?

534:日本@名無史さん
09/04/29 13:58:33
中国人なんか全然日本人と似てないだろ・・・

535:日本@名無史さん
09/04/29 20:28:55
半月型石包丁(桂葉形雙孔石刀)は遼寧を経由している。


中国遼寧省羊頭窪遺跡.  黒陶系土器 石器(石包丁 磨製石鏃) 紡錐車 骨角器 卜骨
URLリンク(www.museum.kyoto-u.ac.jp)

紅山文化は北方地区の新石器文化の中で重要な文化です。ここでいう北方地区とは、
東北3省(遼寧、吉林、黒龍江)、内蒙古自治区および新彊維吾爾(ウイグル)自治区を指します。
大型石器の中で特徴的なものに、土掘具(耜あるいは犁とも呼ばれる)、桂葉形の双孔石刀があります。
URLリンク(kohkosai.web.infoseek.co.jp)

中国北部の文化が東北部の遼西まで及んでいるいることを知りえた。それに、石包丁が出土していた
のには目を見張った。日本に石包丁が伝わったのはそれから3千年もたった弥生時代になってからなのだ。
URLリンク(kyohiro.blog.ocn.ne.jp)
◆遼寧の石包丁
URLリンク(kyohiro.blog.ocn.ne.jp)

536:日本@名無史さん
09/04/30 14:21:17
>>533
魏略逸文
「自謂太伯之後」

537:日本@名無史さん
09/04/30 17:21:03
なんだただの自称か

538:日本@名無史さん
09/04/30 18:28:33
少なくとも倭人は呉という国や太伯という人物を知っていたんだな。

 東シナ海を往来していなかったら知るはずがないんではないか。


539:日本@名無史さん
09/04/30 18:52:17
『大夫』:周王室および諸侯に仕える小領主

57年
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱『大夫』

238年
景初2年6月 倭女王遣『大夫』難升米等詣郡 求詣天子朝献

540:日本@名無史さん
09/04/30 20:31:34
>>538
倭人が東シナ海を往復していると天皇家は周王室の末裔だったことになるんだ、へーw
>>539
単に中国人が自分たちの位を倭人に当てはめただけじゃね?

541:日本@名無史さん
09/04/30 20:49:34
>>540
建武中元二年    建武中元二年(57年)
倭奴國奉貢朝賀 倭奴国は貢物を奉じて朝賀した。
使人自稱大夫   使人は自ら大夫と称した。

542:日本@名無史さん
09/04/30 21:27:39
じゃあ倭人が中国の位を真似したんでは

543:日本@名無史さん
09/04/30 22:21:15
呉服は百済経由で伝わっている。


また百済国に、「若(モ)し賢(サカ)しき人あらば貢上(タテマツ)れ」
とおほせたまひき。かれ、命(ミコト)を受けて貢上(タテマツ)りし人、
名は和邇吉師(ワニキシ)、すなはち論語十巻・千字文一巻、并(アハ)
せて十一巻(トヲアマリヒトマキ)をこの人に付けてすなはち貢進
(タテマツ)りき。この和邇吉師(ワニキシ)は文首(フミノオビト)等(ラ)の
祖(オヤ)。また手人(テヒト)韓鍛(カラカヌチ)名は卓素(タクソ)、
また呉服(クレハトリ)の西素(サイソ)二人を貢上(タテマツ)り、
また秦造(ハタノミヤツコ)の祖(オヤ)、漢直(アヤノアタヒ)の祖(オヤ)、
また酒を醸(カ)むことを知れる人、名は仁番(ニホ)亦(マタ)の名は
須須許理(ススコリ)等(ラ)参(マヰ)渡り来つ。
URLリンク(kamnavi.jp)

544:日本@名無史さん
09/04/30 23:45:43
>>543
また池沼くんか。

呉服の呉は、三国時代の孫権やらの呉。このスレで云々されている呉は呉越同舟の呉。
何度言われても、同じようなことを繰り返すんだな。

545:日本@名無史さん
09/05/01 00:35:58
>>542
倭人が古の大夫を自称したから訝しがってわざわざ記録した

546:日本@名無史さん
09/05/01 00:40:45
天皇家ってチョン顔か縄文顔ばっかで
全然中国人ぽいのいないけどな

547:日本@名無史さん
09/05/01 00:58:39
>>546
東シナ海沿岸全域に広がっていた倭人は、大和政権の担い手にはならなかったってことかな。

朝鮮・縄文連合政権=大和ってのは、けっこうおもしろいかも。

548:日本@名無史さん
09/05/01 01:53:16
東シナ海沿岸全域に広がっていた倭人 ← こっからウソじゃねえかよw中華誘導サギw

549:日本@名無史さん
09/05/01 02:02:03
国立民族学博物館やらがさんざん言ってきた説に対して単にウソと言われても。

550:日本@名無史さん
09/05/01 04:52:30
コピペしてるやつ
倭人とかに関係あるスレの至る所に張ってるな
気持ち悪いんだけど。

551:日本@名無史さん
09/05/01 17:23:48
コピペ貼るやつに気持ち悪くない奴なんているのか?w

552:日本@名無史さん
09/05/01 20:04:25
朝鮮半島に稲作が伝わったのは4~5000年くらい前。


1990年金浦佳■(山と見)里泥炭層から採取された稲籾は4,010+-25BPと
報告されており、問題もあるがもし報告が正しいとすれば韓国での稲の
出現は新石器時代中期段階にまでさかのぼる可能性がある。
URLリンク(inoues.net)

最近は紀元前2000年ころ(?)とみられる種籾が、漢江の河口に面
する金浦(キムポ)と一山(イルサン)で発見されました(注)。
URLリンク(www2s.biglobe.ne.jp)

然し1992年には、それよりも早い時期の粳米を韓国の清州市における
家瓦遺跡から大量に発見された。今から4721年(+-50)年前と
推測されているが、同時に出土された樹木年輪測定からすると、
今から5020年前のものだと修正がなされた。
URLリンク(sakura-nokishita.spaces.live.com)

553:日本@名無史さん
09/05/01 20:05:47
朝鮮半島で最古の水田遺跡は前11世紀のオクキョン遺跡で日本よりも古い。



弥生時代の始まりと深く関連している韓国南部だが、最古の水田は
慶尚南道蔚山・オクキョン遺跡で見つかっており、孔列文~突帯文土器が
伴っているところから、前11 世紀頃と考えられている。
URLリンク(www.rekihaku.ac.jp)





554:日本@名無史さん
09/05/01 20:06:49



中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が朝鮮半島の古代遺跡から出土した炭化米でなされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

URLリンク(www.athome-academy.jp)




555:日本@名無史さん
09/05/02 21:40:42
朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦のプラントオパールも稲と同時に
検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から栽培されていた事に
なってしまい、改めてプラントオパールの調査自体の精度が極めて
疑わしいものであると言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
URLリンク(www.local.co.jp)

556:日本@名無史さん
09/05/02 21:41:45
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(※色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!これらの要素が弥生土器には一切ない。)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(www.shtong.gov.cn)

557:日本@名無史さん
09/05/03 04:14:11
>>554
推測ですか。
実証しましょう。

558:日本@名無史さん
09/05/03 13:59:15
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。

考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。

それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。

URLリンク(www.athome-academy.jp)

559:日本@名無史さん
09/05/03 18:21:21
どっちにしろ、起源でも何でもない水稲導入の微妙な先後関係になんでそんなにこだわる?

560:日本@名無史さん
09/05/03 20:23:01
高床式『倉庫』は北方アジアから直伝している。




高床式建物はシベリアやアムールにもあるけど何か?

スレリンク(archeology板)





561:日本@名無史さん
09/05/03 20:38:02
普通に呉からも越・楚からも、朝鮮半島経由(黄河文明系や満州系)もそれぞれ全部渡ってきてそれぞれの部族(部落)小国家を形成したんじゃないの
どれが大和王朝を作ったのかは分からんけど

562:日本@名無史さん
09/05/03 20:46:26
普通に呉からも越・楚からも黄河文明系も文物が一切伝わっていない
から来てなんかおりません。

563:日本@名無史さん
09/05/04 02:27:13
弥生時代の環壕集落と環濠集落の関係ってどうなんですかね?
壕の方は北方で、濠の方は南方で系統が違うという。

564:日本@名無史さん
09/05/04 22:08:09
入れ墨は日本では旧石器時代からおこなわれている。


タトゥーは少なくともオセアニア大陸で新石器時代からおこなわれていました。
タトゥーをしたミイラが発見されています。日本では旧石器時代から
おこなわれていたと考えられています。その他の多くの文明でも、
それぞれ独特のタトゥーの様式がありました。
URLリンク(blog.livedoor.jp)
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた



565:日本@名無史さん
09/05/04 22:09:28
日本には世界最古の7000年前の入れ墨の証拠遺物がある。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として記録
されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。
URLリンク(www.ta2.com)
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの

566:日本@名無史さん
09/05/04 22:10:14



世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!

紀元前5,000年の縄文時代の土器から、入れ墨をほどこした人面器が
発見されているんだ。
URLリンク(www.tnc.ne.jp)
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!



567:日本@名無史さん
09/05/04 22:49:55
日本初の高度炉技術による 須恵器ってあるでしょ
これだれか解説してくんないかなー
ウィキによると高度炉技術は、本来は呉越の技術なんだろ。
ほかは、日本が支配していた地域の伽耶から出土してんだろ。
それなのに、なんで朝鮮から伝わる技術ってウィキにあるんだ?
倭が開発したか呉越から伝わった技術でよくね?

568:日本@名無史さん
09/05/05 01:38:06
何でもかんでも半島で都合の良い部分もあったろうが
これからは、そのつけを払う時代だなw

569:日本@名無史さん
09/05/05 20:15:57
歌垣は百済の帰化人から伝わっている。


翌宝亀元年(770年)3月には、男女230人が歌垣(うたがき)
には百済から河内の地に渡来した王仁(わに)の末孫たちが奉仕した
との記録が残されています。(続日本紀)
URLリンク(www18.ocn.ne.jp)

弓削の道鏡の出身地で称徳天皇がこの地に遊行されて、百済の人々が
歌垣をして慰めたという
URLリンク(www.shiga-miidera.or.jp)

歌垣を行った葛井氏ら六氏は百済からの渡来人を先祖としており
URLリンク(www.furutasigaku.jp)

570:日本@名無史さん
09/05/05 20:16:49
歌垣は現在でも朝鮮半島に見られる。


先生は「韓の国紀行『歌垣』」のなかで、「朝鮮民族には凄味がある、
と、ほとほと思ったのは、この仏国寺の松林で野遊びを見、歌垣の
歌声をきき、そして杖鼓(チャング)のリズムをきいたときであった。
URLリンク(homepage2.nifty.com)

日本にも野遊びはあった。万葉のころ歌垣は絶えた。韓国ではいまも
生活の中にある。
URLリンク(www.ric.hi-ho.ne.jp)
 
韓国の山野では野遊びをする人々に出会うという。司馬さんは
「人々は強烈なリズムにのって群舞しており、さながら万葉時代の
歌垣や踏歌を現(うつつ)に見る思い」がすると書いていた。
URLリンク(www1.coralnet.or.jp)

571:日本@名無史さん
09/05/05 20:17:41
次に、歌垣(かがい・歌會)について語ろう。七七〇年三月、河内の弓削の称徳離宮で歌垣が
行われた。万代にわたる帝と離宮の存続を祈り、周囲六ヶ村男女二百三十人の渡来人が夜を
通して歌い踊った。歌垣は若い男女にとって、他の部落との間の通婚の機会設定に大きな役割を
果たしていた。このころは、山麓の景勝地まで人々が出かけて、賑やかに野外舞踏会を開いた
ものであった。というよりは、日のあるうちは野に遊び、日が暮れると篝火が灯され、酒が
入って宴は佳境に入る。日野の朝鮮坊山では、毎年歌垣が行われていた。
お月見の習慣と併せて、韓半島からの伝来の風習であった。いまも扶餘や慶州あたりの野原では、
夏の夕べに月見の宴を張る。これを野遊とよんでいる。大和の民衆もこの楽しみをまねて、
農業神事に取り入れた。慶州の仏国寺の松林で、水色・桃色・緑・赤など色とりどりの袴・上衣を
着た老若男女が楽しそうに踊るのを見ることができる。杖鼓を膝の前において鞭のようなバチで
打つ。このリズムに合わせて踊る。韓国ではいまでも一般の家庭で使われている楽器である。
日本舞楽の羯鼓に似た楽器である。筑波山麓の歌會や常陸国風土記にある童子女松原の歌會が
知られている。筑波嶺の歌會で詠んだ歌一首と短歌が万葉集巻九にある。この伝統が盆踊りの形で
現在の日本に引き継がれた。
URLリンク(www.tmd.ac.jp)

572:日本@名無史さん
09/05/06 22:30:09
貫頭衣は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中に見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
URLリンク(www.frontstyle.com)

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
URLリンク(homepage1.nifty.com)

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
URLリンク(www.h6.dion.ne.jp)

573:日本@名無史さん
09/05/06 22:31:03
古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
URLリンク(home.att.ne.jp)

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
URLリンク(www.lcv.ne.jp)

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
URLリンク(www.psats.or.jp)

574:日本@名無史さん
09/05/07 20:21:11
鳥居の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している

575:日本@名無史さん
09/05/08 22:20:48
魏志倭人伝には倭人が断髪をしていたなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




男子皆露紒 以木緜招頭

URLリンク(www.g-hopper.ne.jp)
URLリンク(boat.zero.ad.jp)
URLリンク(members3.jcom.home.ne.jp)





576:日本@名無史さん
09/05/09 15:31:24
「糸引き納豆」の登場は室町時代頃、「なれずし」は3C頃に朝鮮経由で伝わる。


平安時代の文献にも塩辛納豆の名は残っているが、一般に広まったのは
室町時代以降でこの頃から糸引き納豆も登場しており区別するために
塩辛納豆を久喜と呼び糸引き納豆を単に納豆と呼ぶようになった。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

なれずしの歴史は古くて、紀元前には中国で食べられていたらしいんだ。
それが三世紀頃に日本にも伝わって、奈良時代には文献にも登場する。
URLリンク(www.kouryu.or.jp)

「すし」のルーツは遠く東南アジア、メコン川の地域と言われております。
メコン川周辺地域から中国へ、そして朝鮮半島から稲作の伝播とともに
日本へ伝わってきたと考えられているようです。 
URLリンク(www3.ocn.ne.jp)

577:國學院大學卒
09/05/09 22:01:56
子いわく、泰伯はそれ至徳というべきのみ。

578:日本@名無史さん
09/05/10 18:30:20
鵜飼は満州や朝鮮半島にも見られる。


満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
URLリンク(www.jiyuu-shikan.org)

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
URLリンク(www.han.org)

579:日本@名無史さん
09/05/10 18:31:05
しかも日本の鵜飼は中国よりも古い。


鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』神武天皇の条に鵜養部のことが見え、
『古事記』にも鵜養のことを歌った歌謡が載っている。また中国の史書
『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった
漁法として紹介されている。

隋書の書かれた時代には鵜飼いは中国人にとって珍しい漁法だったが、
その後中国においても鵜飼い漁法が定着した。

確実な記録として最古の物は、10世紀の文人・陶穀が残した『清異録』
(965年)において、当塗(安徽省太平府の都市)の漁民が「魚を捕らえる
のに非常に機敏な鵜を使う」と記述されているのが最初である。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

580:日本@名無史さん
09/05/11 02:31:19
魏志東夷伝 邑婁    >>朝鮮人の先祖発見<<

穴居生活、豚の飼育、住民は不潔で家の真ん中に便所を作りそれを囲むように暮らしている。
・・・、これは明治時代の日本人の朝鮮観察とほとんど同じだ。

射撃が上手・・・これも同じだ。
漢の時代から夫余の家来となっていた。夫余が重い税を課したので黄初年間(220年~226年)には反乱を起こした。

掟や習わしにはもっともルールが欠けている民族である。
・・・これは朝鮮人の先祖に間違いない。

>>204 『晋書』粛真・邑婁伝には下記も載ってるよ!

坐るときは両脚を投げ出して座り、足を脇に挟んで(猿が坐って物を食べる姿勢)
風俗は皆、髪を編み、布で丈の短い上着(チョゴリの事か?)を作る。


581:日本@名無史さん
09/05/11 13:02:37
コピペ厨消えてよ

582:日本@名無史さん
09/05/11 20:22:40
半月型石包丁(桂葉形雙孔石刀)は遼寧を経由している。


中国遼寧省羊頭窪遺跡.  黒陶系土器 石器(石包丁 磨製石鏃) 紡錐車 骨角器 卜骨
URLリンク(www.museum.kyoto-u.ac.jp)

紅山文化は北方地区の新石器文化の中で重要な文化です。ここでいう北方地区とは、
東北3省(遼寧、吉林、黒龍江)、内蒙古自治区および新彊維吾爾(ウイグル)自治区を指します。
大型石器の中で特徴的なものに、土掘具(耜あるいは犁とも呼ばれる)、桂葉形の双孔石刀があります。
URLリンク(kohkosai.web.infoseek.co.jp)

中国北部の文化が東北部の遼西まで及んでいるいることを知りえた。それに、石包丁が出土していた
のには目を見張った。日本に石包丁が伝わったのはそれから3千年もたった弥生時代になってからなのだ。
URLリンク(kyohiro.blog.ocn.ne.jp)
◆遼寧の石包丁
URLリンク(kyohiro.blog.ocn.ne.jp)

583:日本@名無史さん
09/05/12 06:44:26
俺の先祖は始皇帝と劉邦だから皆さんとは違うね

584:日本@名無史さん
09/05/12 11:26:48
>>567 ウィキによると高度炉技術は、本来は呉越の技術なんだろ。
ほかは、日本が支配していた地域の伽耶から出土してんだろ。
それなのに、なんで朝鮮から伝わる技術ってウィキにあるんだ?

・・・「朝鮮から」といっても半島倭人から列島倭人へ伝わった文化も多いだろうな。
それなら倭人同士の交流にすぎないんだが。


585:日本@名無史さん
09/05/12 12:00:42
おまえリアルな馬鹿か?

当時の呉越江南は青磁のメッカだぞ。

そこに磁器も中国陶磁器の器形もないからに決まっとろうが。



須恵器=加羅の朝鮮陶質土器



こんなもの常識。

586:日本@名無史さん
09/05/12 22:25:09
呉服は百済経由で伝わっている。


また百済国に、「若(モ)し賢(サカ)しき人あらば貢上(タテマツ)れ」
とおほせたまひき。かれ、命(ミコト)を受けて貢上(タテマツ)りし人、
名は和邇吉師(ワニキシ)、すなはち論語十巻・千字文一巻、并(アハ)
せて十一巻(トヲアマリヒトマキ)をこの人に付けてすなはち貢進
(タテマツ)りき。この和邇吉師(ワニキシ)は文首(フミノオビト)等(ラ)の
祖(オヤ)。また手人(テヒト)韓鍛(カラカヌチ)名は卓素(タクソ)、
また呉服(クレハトリ)の西素(サイソ)二人を貢上(タテマツ)り、
また秦造(ハタノミヤツコ)の祖(オヤ)、漢直(アヤノアタヒ)の祖(オヤ)、
また酒を醸(カ)むことを知れる人、名は仁番(ニホ)亦(マタ)の名は
須須許理(ススコリ)等(ラ)参(マヰ)渡り来つ。
URLリンク(kamnavi.jp)

587:日本@名無史さん
09/05/13 21:09:59
朝鮮半島に稲作が伝わったのは4~5000年くらい前。


1990年金浦佳■(山と見)里泥炭層から採取された稲籾は4,010+-25BPと
報告されており、問題もあるがもし報告が正しいとすれば韓国での稲の
出現は新石器時代中期段階にまでさかのぼる可能性がある。
URLリンク(inoues.net)
最近は紀元前2000年ころ(?)とみられる種籾が、漢江の河口に面
する金浦(キムポ)と一山(イルサン)で発見されました(注)。
URLリンク(www2s.biglobe.ne.jp)
然し1992年には、それよりも早い時期の粳米を韓国の清州市における
家瓦遺跡から大量に発見された。今から4721年(+-50)年前と
推測されているが、同時に出土された樹木年輪測定からすると、
今から5020年前のものだと修正がなされた。
URLリンク(sakura-nokishita.spaces.live.com)

588:日本@名無史さん
09/05/13 21:11:10
朝鮮半島で最古の水田遺跡は前11世紀のオクキョン遺跡で日本よりも古い。




弥生時代の始まりと深く関連している韓国南部だが、最古の水田は
慶尚南道蔚山・オクキョン遺跡で見つかっており、孔列文~突帯文土器が
伴っているところから、前11 世紀頃と考えられている。
URLリンク(www.rekihaku.ac.jp)





589:日本@名無史さん
09/05/13 21:12:13
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。

考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。

それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
URLリンク(www.athome-academy.jp)

590:日本@名無史さん
09/05/13 21:40:37
遺伝子レベルでは、稲の伝来については、解明されているのに、
どんなに貼り付けても変わらないよ、最後のあがきだな。


591:日本@名無史さん
09/05/13 23:37:19
鑑定技術は公開されてるんだから、地元の学者が鑑定してるだろ。
んで、今のところ結果は×だから、記事にならんのだろ。

寒冷地用栽培に向いた変種の水稲が朝鮮半島から、古墳時代あたりに
入ってきた可能性は高いが、導入時の水稲品種の栽培は、朝鮮より日本の
方が向いている。

592:日本@名無史さん
09/05/14 20:20:55
日本最古の稲作遺跡から出てきたプラントオパールからは
耐寒遺伝子がみつからなかったが、朝鮮最古の稲作遺跡から
出てきたものからは耐寒遺伝子が見付かっている。

もし、朝鮮半島から稲がやってきたのなら、こんな現象ありえない。
要するに、日本と朝鮮半島では恐らく稲の伝わったルートそのもの
が違う。

ちなみに稲作=水稲ね。
陸稲は縄文時代から栽培されていたから。




593:日本@名無史さん
09/05/14 22:47:55
日本では、小麦作は約6000年前からですが、何か問題でも?(嘲笑)


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
URLリンク(www.local.co.jp)
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった

594:日本@名無史さん
09/05/14 22:49:37
日本では、小麦作は約6000年前からですが、何か問題でも?(嘲笑&嘲笑)


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。

URLリンク(osaka.yomiuri.co.jp)
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり

595:日本@名無史さん
09/05/14 22:51:25
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(※色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!これらの要素が弥生土器には一切ない。)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(www.shtong.gov.cn)

596:日本@名無史さん
09/05/14 23:26:13

朝鮮半島に稲作が伝わったのは4~5000年くらい前ですか、
日本では、稲作や麦作は約6000年前からですが、何か問題でも?

真実は、
日本が韓国に稲作文化や麦作を伝えた。
でしょうね。



597:日本@名無史さん
09/05/15 00:48:17
>>596
別のアホウか?
つーか、いつも>>595他をコピペしてるやつの偽装レスか。
いいかげんにしろよ、ゴミ。

598:日本@名無史さん
09/05/16 18:31:27
高床式『倉庫』は北方アジアから直伝している。




高床式建物はシベリアやアムールにもあるけど何か?

スレリンク(archeology板)






599:日本@名無史さん
09/05/17 00:12:16
至徳と言われた太伯の
子孫が生きていると
したらなば、シナ大陸の
真の継承者は彼と彼の子孫だろう。
しかし、太伯がそんなことを望むはずがない。
そこで「天から来た」という神話にして、自らの出自を隠したのでしょう。

600:日本@名無史さん
09/05/17 19:10:44
入れ墨は日本では旧石器時代からおこなわれている。


タトゥーは少なくともオセアニア大陸で新石器時代からおこなわれていました。
タトゥーをしたミイラが発見されています。日本では旧石器時代から
おこなわれていたと考えられています。その他の多くの文明でも、
それぞれ独特のタトゥーの様式がありました。
URLリンク(blog.livedoor.jp)
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた

601:日本@名無史さん
09/05/17 19:11:44
日本には7000年前の世界最古の入れ墨の証拠遺物がある。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として記録
されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。
URLリンク(www.ta2.com)
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの

602:日本@名無史さん
09/05/17 19:13:04



世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!

紀元前5,000年の縄文時代の土器から、入れ墨をほどこした人面器が
発見されているんだ。
URLリンク(www.tnc.ne.jp)
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!




603:日本@名無史さん
09/05/18 21:54:56
歌垣は百済の帰化人から伝わっている。


翌宝亀元年(770年)3月には、男女230人が歌垣(うたがき)
には百済から河内の地に渡来した王仁(わに)の末孫たちが奉仕した
との記録が残されています。(続日本紀)
URLリンク(www18.ocn.ne.jp)

弓削の道鏡の出身地で称徳天皇がこの地に遊行されて、百済の人々が
歌垣をして慰めたという
URLリンク(www.shiga-miidera.or.jp)

歌垣を行った葛井氏ら六氏は百済からの渡来人を先祖としており
URLリンク(www.furutasigaku.jp)

604:日本@名無史さん
09/05/18 21:56:05
「歌垣」は現在でも朝鮮半島に見られる。


先生は「韓の国紀行『歌垣』」のなかで、「朝鮮民族には凄味がある、
と、ほとほと思ったのは、この仏国寺の松林で野遊びを見、歌垣の
歌声をきき、そして杖鼓(チャング)のリズムをきいたときであった。
URLリンク(homepage2.nifty.com)

日本にも野遊びはあった。万葉のころ歌垣は絶えた。韓国ではいまも
生活の中にある。
URLリンク(www.ric.hi-ho.ne.jp)
 
韓国の山野では野遊びをする人々に出会うという。司馬さんは
「人々は強烈なリズムにのって群舞しており、さながら万葉時代の
歌垣や踏歌を現(うつつ)に見る思い」がすると書いていた。
URLリンク(www1.coralnet.or.jp)

605:日本@名無史さん
09/05/18 21:56:44
次に、歌垣(かがい・歌會)について語ろう。七七〇年三月、河内の弓削の称徳離宮で歌垣が
行われた。万代にわたる帝と離宮の存続を祈り、周囲六ヶ村男女二百三十人の渡来人が夜を
通して歌い踊った。歌垣は若い男女にとって、他の部落との間の通婚の機会設定に大きな役割を
果たしていた。このころは、山麓の景勝地まで人々が出かけて、賑やかに野外舞踏会を開いた
ものであった。というよりは、日のあるうちは野に遊び、日が暮れると篝火が灯され、酒が
入って宴は佳境に入る。日野の朝鮮坊山では、毎年歌垣が行われていた。
お月見の習慣と併せて、韓半島からの伝来の風習であった。いまも扶餘や慶州あたりの野原では、
夏の夕べに月見の宴を張る。これを野遊とよんでいる。大和の民衆もこの楽しみをまねて、
農業神事に取り入れた。慶州の仏国寺の松林で、水色・桃色・緑・赤など色とりどりの袴・上衣を
着た老若男女が楽しそうに踊るのを見ることができる。杖鼓を膝の前において鞭のようなバチで
打つ。このリズムに合わせて踊る。韓国ではいまでも一般の家庭で使われている楽器である。
日本舞楽の羯鼓に似た楽器である。筑波山麓の歌會や常陸国風土記にある童子女松原の歌會が
知られている。筑波嶺の歌會で詠んだ歌一首と短歌が万葉集巻九にある。この伝統が盆踊りの形で
現在の日本に引き継がれた。
URLリンク(www.tmd.ac.jp)

606:日本@名無史さん
09/05/18 23:01:57

歌垣
URLリンク(ja.wikipedia.org)

古代の朝鮮半島に歌垣の記録はあるの?
朝鮮半島の地名が載っていないのだけど。



607:日本@名無史さん
09/05/19 20:07:47
すごい執着心だな。
金でも貰ってコピペしてるのか?

608:日本@名無史さん
09/05/19 21:03:36
倭人は、呉の太伯の子孫と言ったが、太伯の弟の子孫とは言っていないようだ。
つまり、句呉の国を弟に譲って、自ら日本列島へ渡って来たという事か?
本当に倭人が太伯の子孫なら、いわゆる万世一系の思想にも通じそう。
九州の方には、太伯関連の伝承の有無はどうなのだろうか?



609:日本@名無史さん
09/05/19 23:11:14
貫頭衣は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中に見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
URLリンク(www.frontstyle.com)

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
URLリンク(homepage1.nifty.com)

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
URLリンク(www.h6.dion.ne.jp)

610:日本@名無史さん
09/05/19 23:12:06
古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
URLリンク(home.att.ne.jp)

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
URLリンク(www.lcv.ne.jp)

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
URLリンク(www.psats.or.jp)

611:日本@名無史さん
09/05/20 20:52:54
日下   まさに当時は「弱肉強食」の時代でした。戦争が終わって秩序が崩壊したときは、
「自分のものは自分のもの、他人のものも自分のもの」とばかりに、平気で破廉恥なことをした人が儲かった
んです。敗戦直後のイラクみたいなものですがそうは思っていても、やらない人はやらなかった。日本人が
そうです。
露骨にやったのが、韓国人、それから台湾人。破廉恥な行為を正当化するために「我々は日本人ではなく、
連合国民だ」と言ったんです。

「戦勝国民」だから、税務署に税金は払わない、警察の命令には従わない。それで闇市の堀って小屋みたい
な店に「戦勝国民の店」と書いた札を張って、税務署と警察を遮断しましたから、かなり儲かったことでしょう。
売るものをどこから調達してきたかというと、彼らは、「陸海軍が潰れたときに倉庫にあったものを持って来た」と
言っていました。
早く言えば盗んできたものです。それからアメリカ軍にも物資の横流しをする人がたくさんいました。それで韓
国人、台湾人に成金がたくさん出ました。

日下公人 
その上、不動産泥棒をする。都会は丸焼けになったものだから、元の地主が分りません。持ち主が焼死せず疎
開先の田舎から戻って来たら、自分の土地が占領されている。白昼堂々、不動産を囲って、ここは私の土地だ
と主張している。法律は、不動産に泥棒はないということを前堤にできていますから、法律に訴えても無駄でし
た。
それから十数年たって、ようやく不動産を元の持ち主に返せという判決が出ました。それが有名な「大阪駅前訴
訟」です。
それまで、十数年間は、土地を囲んでしまえは、自分のものにしてしまえたわけです。そうした不動産泥棒が日
本中いたるところにいました。
上野の駅前でも、新宿でもいたるところでそれと同じことが起きました。そういうふうに、不動産泥棒をしてビル
を建てて成金になっていきました。
URLリンク(korea-log-01.hp.infoseek.co.jp)


612:日本@名無史さん
09/05/20 23:04:38
「鳥居」の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している

613:日本@名無史さん
09/05/21 06:30:52
おならぷひ~

614:日本@名無史さん
09/05/21 10:41:08
倭人は呉越戦争で滅ぼされた呉の戦争難民だ。
呉の太伯云々はそれを指している。
しかるにその後にやってきた朝鮮人に滅ぼされたニダ。
呉人は海を祭るが、朝鮮人は天を崇める。
推して知るべきだろう。

615:日本@名無史さん
09/05/21 12:58:45
古代半島人は呉越戦争で滅ぼされた呉の戦争難民だ。
中国青銅器や陶器・磁器はそれを指している。
しかるにその後にやってきた北方遊牧民に滅ぼされたニダ。
呉人は海を祭るが、遊牧民は天を崇める。
推して知るべきだろう。

>614 のパロディー


616:日本@名無史さん
09/05/21 13:36:34
古代半島南部人は倭国の戦争で滅ぼされた列島の小国の難民だ。
前方後円墳はそれを指している。
しかるにその後にやってきた北方遊牧民に滅ぼされたニダ。
半島南部人は海を祭るが、遊牧民は天を崇める。
推して知るべきだろう。

>614 のパロディー2


617:日本@名無史さん
09/06/06 10:27:23
言い伝えによると、新羅以前に辰の国が存在していた。
そのしんの国は、秦の始皇帝の圧政から逃げてきた大陸からの農民たちの国で
彼らが日本列島に大陸の技術と文化を持ってたくさんやって来た。
その彼らが、一重まぶたのノッペリ顔の遺伝子を日本人に広めた。

俗にチョン顔といわれるエラの張った民族とは違う民族なのである。


618:日本@名無史さん
09/06/06 15:31:12
魏志倭人伝には倭人が『断髪』をしていたなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




男子皆露紒 以木緜招頭

URLリンク(www.g-hopper.ne.jp)
URLリンク(boat.zero.ad.jp)
URLリンク(members3.jcom.home.ne.jp)





619:日本@名無史さん
09/06/07 16:53:55
「糸引き納豆」の登場は室町時代頃、「なれずし」は7C頃に朝鮮経由で伝わる。


平安時代の文献にも塩辛納豆の名は残っているが、一般に広まったのは
室町時代以降でこの頃から糸引き納豆も登場しており区別するために
塩辛納豆を久喜と呼び糸引き納豆を単に納豆と呼ぶようになった。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

日本最古のすしといわれる「鮒ずし」は、7世紀、近江大津宮に天智天皇が
遷都した以前からこの地にあったといいます。フナずしは、すしといっても
現在の握りずしとは違い、すしの原型といわれる「なれずし」の一種です。
なれずしは、米作民族が考え出した動物性タンパク質の原始的な保存法で、
そのルーツは東南アジアとされ、中国、朝鮮をへて日本へも伝えられました。
URLリンク(asamiya.sakura.ne.jp)

620:日本@名無史さん
09/06/08 20:58:08
「鵜飼」は満州や朝鮮半島にも見られる。


満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
URLリンク(www.jiyuu-shikan.org)

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
URLリンク(www.han.org)

621:日本@名無史さん
09/06/08 20:59:20
しかも日本の「鵜飼」は中国よりも古い。


鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』神武天皇の条に鵜養部のことが見え、
『古事記』にも鵜養のことを歌った歌謡が載っている。また中国の史書
『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった
漁法として紹介されている。

隋書の書かれた時代には鵜飼いは中国人にとって珍しい漁法だったが、
その後中国においても鵜飼い漁法が定着した。

確実な記録として最古の物は、10世紀の文人・陶穀が残した『清異録』
(965年)において、当塗(安徽省太平府の都市)の漁民が「魚を捕らえる
のに非常に機敏な鵜を使う」と記述されているのが最初である。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

622:日本@名無史さん
09/06/08 21:14:38
南インド方面の交易海民に注目しては中国内陸文化は無視出来るよ、マドロスさんの文化だからね!

南インドには突帯文式甕棺墓、支石墓、箱式石棺、子持ち壷(楽器)、金属器(カネ)、
BC1000年頃より鉄器、青銅器を使用。北部はナンだが南部は稲作、弥生前期の北部九州人?
[PDF]URLリンク(jomon.sakura.ne.jp)ファイルタイプ:
PDF/Adobe Acrobat - HTMLバージョン
⑧クダイッカル―ドーム状の石を地上に置いて、甕棺を納めた地下の墓室を閉じたもの。
⑨掘抜式墓室(ロックカット=ケイブ)―石窟墓とも呼ばれ、ラテライト岩盤中に墓室を
掘りこんだもの。 南インドの巨石文化においては、ストーンサークル(環状列石) ...
jomon.sakura.ne.jp/kiyou2-fukao.pdf - 類似ページ

台湾の海底遺跡と巨石遺跡
URLリンク(www.kitombo.com)
ストーンサークル,支石墓(ドルメン),
製鉄跡がある国東半島の重藤遺跡は紀元前695年±40年
URLリンク(homepage3.nifty.com)


623:日本@名無史さん
09/06/08 21:16:00

南インドの文化と弥生文化の同質性
URLリンク(www.geocities.jp)

URLリンク(ja.wikipedia.org)
支石墓 - Wikipediaまた、屈葬の採用や甕棺を伴うことなど、一定の独自性も認められる。
日本の支石墓は、弥生時代前期が終わる頃に、ほぼ終焉を ... インドには古代の巨石遺跡
が約4000箇所ほどあるが、明確に支石墓と見られるものは、紀元前1000年頃の南インドに
出現した。 ...
ja.wikipedia.org/wiki/支石墓 - 36k - キャッシュ - 類似ページ


624:日本@名無史さん
09/06/08 23:51:59
大野晋も日本語はドラビダ系起源だと主張してたね。
ただDNA上の脈絡があまり見いだされていないように思う。

日本語の古層になった以上、相当の人数が日本列島に入ってきたはずだが、
どういう理由かほぼその血が絶えてしまったってことになる。

縄文期の陸稲の起源は、長江流域とは異なり東南アジアだと言われているから、
誰が持ってきたのか?という問いには符合するけど。


625:日本@名無史さん
09/06/08 23:59:08
中国がまともじゃないからなw
D2が絡む民族集団だろ。

626:日本@名無史さん
09/06/09 00:24:52
>>625
たしかベンガル湾に居る海洋少数民族に、D祖型の遺伝子が多いと聞いたが!
私はO2bの様な気がするな、インドネシア、ベトナム、タイ山岳部、
沖縄八重山群島、韓国南部、日本、に多い遺伝子。
O2bは古代交易海洋民族かもしれんな。

627:日本@名無史さん
09/06/09 22:23:16
半月型石包丁(桂葉形雙孔石刀)は遼寧を経由している。


中国遼寧省羊頭窪遺跡.  黒陶系土器 石器(石包丁 磨製石鏃) 紡錐車 骨角器 卜骨
URLリンク(www.museum.kyoto-u.ac.jp)

紅山文化は北方地区の新石器文化の中で重要な文化です。ここでいう北方地区とは、
東北3省(遼寧、吉林、黒龍江)、内蒙古自治区および新彊維吾爾(ウイグル)自治区を指します。
大型石器の中で特徴的なものに、土掘具(耜あるいは犁とも呼ばれる)、桂葉形の双孔石刀があります。
URLリンク(kohkosai.web.infoseek.co.jp)

中国北部の文化が東北部の遼西まで及んでいるいることを知りえた。それに、石包丁が出土していた
のには目を見張った。日本に石包丁が伝わったのはそれから3千年もたった弥生時代になってからなのだ。
URLリンク(kyohiro.blog.ocn.ne.jp)
◆遼寧の石包丁
URLリンク(kyohiro.blog.ocn.ne.jp)

628:日本@名無史さん
09/06/10 20:15:12
呉服は百済経由で伝わっている。


また百済国に、「若(モ)し賢(サカ)しき人あらば貢上(タテマツ)れ」
とおほせたまひき。かれ、命(ミコト)を受けて貢上(タテマツ)りし人、
名は和邇吉師(ワニキシ)、すなはち論語十巻・千字文一巻、并(アハ)
せて十一巻(トヲアマリヒトマキ)をこの人に付けてすなはち貢進
(タテマツ)りき。この和邇吉師(ワニキシ)は文首(フミノオビト)等(ラ)の
祖(オヤ)。また手人(テヒト)韓鍛(カラカヌチ)名は卓素(タクソ)、
また呉服(クレハトリ)の西素(サイソ)二人を貢上(タテマツ)り、
また秦造(ハタノミヤツコ)の祖(オヤ)、漢直(アヤノアタヒ)の祖(オヤ)、
また酒を醸(カ)むことを知れる人、名は仁番(ニホ)亦(マタ)の名は
須須許理(ススコリ)等(ラ)参(マヰ)渡り来つ。
URLリンク(kamnavi.jp)

629:日本@名無史さん
09/06/11 19:43:15
朝鮮半島に稲作が伝わったのは4~5000年くらい前。


1990年金浦佳■(山と見)里泥炭層から採取された稲籾は4,010+-25BPと
報告されており、問題もあるがもし報告が正しいとすれば韓国での稲の
出現は新石器時代中期段階にまでさかのぼる可能性がある。
URLリンク(inoues.net)
最近は紀元前2000年ころ(?)とみられる種籾が、漢江の河口に面
する金浦(キムポ)と一山(イルサン)で発見されました(注)。
URLリンク(www2s.biglobe.ne.jp)
然し1992年には、それよりも早い時期の粳米を韓国の清州市における
家瓦遺跡から大量に発見された。今から4721年(+-50)年前と
推測されているが、同時に出土された樹木年輪測定からすると、
今から5020年前のものだと修正がなされた。
URLリンク(sakura-nokishita.spaces.live.com)

630:日本@名無史さん
09/06/11 19:44:42
朝鮮半島で最古の水田遺跡は前11世紀のオクキョン遺跡で日本よりも古い。




弥生時代の始まりと深く関連している韓国南部だが、最古の水田は
慶尚南道蔚山・オクキョン遺跡で見つかっており、孔列文~突帯文土器が
伴っているところから、前11 世紀頃と考えられている。
URLリンク(www.rekihaku.ac.jp)





631:日本@名無史さん
09/06/11 19:46:31
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。

考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。

それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
URLリンク(www.athome-academy.jp)

632:日本@名無史さん
09/06/12 19:28:51
小麦作も約6000年前からやってたんだけど何か?(ゲラゲラ爆笑


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
URLリンク(www.local.co.jp)
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった

633:日本@名無史さん
09/06/12 19:30:29
小麦作も約6000年前からやってたんだけど何か?(ゲラゲラ大爆笑


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。

URLリンク(osaka.yomiuri.co.jp)
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり

634:日本@名無史さん
09/06/12 19:31:28
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(※色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!これらの要素が弥生土器には一切ない。)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(www.shtong.gov.cn)

635:國學院大學卒
09/06/13 22:10:13
皇室が最後の東洋正統王家という証拠は残っている。
「群書治要」は中国では
すでに失われており、
我が国にのみ伝わっていた。
中国には清朝道光年間に
我が国から逆輸入された。。

636:日本@名無史さん
09/06/13 22:57:32
高床式「倉庫」は北方アジアから直伝している。




高床式建物はシベリアやアムールにもあるけど何か?

スレリンク(archeology板)






637:日本@名無史さん
09/06/14 20:34:31
入れ墨は日本では旧石器時代からおこなわれている。


タトゥーは少なくともオセアニア大陸で新石器時代からおこなわれていました。
タトゥーをしたミイラが発見されています。日本では旧石器時代から
おこなわれていたと考えられています。その他の多くの文明でも、
それぞれ独特のタトゥーの様式がありました。
URLリンク(blog.livedoor.jp)
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた

638:日本@名無史さん
09/06/14 20:35:17
日本には7000年前の世界最古の入れ墨の証拠遺物がある。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として記録
されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。
URLリンク(www.ta2.com)
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの

639:日本@名無史さん
09/06/14 20:36:07



世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!

紀元前5,000年の縄文時代の土器から、入れ墨をほどこした人面器が
発見されているんだ。
URLリンク(www.tnc.ne.jp)
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!




640:日本@名無史さん
09/06/15 23:37:13
「歌垣」は百済の帰化人から伝わっている。


翌宝亀元年(770年)3月には、男女230人が歌垣(うたがき)
には百済から河内の地に渡来した王仁(わに)の末孫たちが奉仕した
との記録が残されています。(続日本紀)
URLリンク(www18.ocn.ne.jp)

弓削の道鏡の出身地で称徳天皇がこの地に遊行されて、百済の人々が
歌垣をして慰めたという
URLリンク(www.shiga-miidera.or.jp)

歌垣を行った葛井氏ら六氏は百済からの渡来人を先祖としており
URLリンク(www.furutasigaku.jp)

641:日本@名無史さん
09/06/15 23:38:16
「歌垣」は現在でも朝鮮半島に見られる。


先生は「韓の国紀行『歌垣』」のなかで、「朝鮮民族には凄味がある、
と、ほとほと思ったのは、この仏国寺の松林で野遊びを見、歌垣の
歌声をきき、そして杖鼓(チャング)のリズムをきいたときであった。
URLリンク(homepage2.nifty.com)

日本にも野遊びはあった。万葉のころ歌垣は絶えた。韓国ではいまも
生活の中にある。
URLリンク(www.ric.hi-ho.ne.jp)
 
韓国の山野では野遊びをする人々に出会うという。司馬さんは
「人々は強烈なリズムにのって群舞しており、さながら万葉時代の
歌垣や踏歌を現(うつつ)に見る思い」がすると書いていた。
URLリンク(www1.coralnet.or.jp)

642:日本@名無史さん
09/06/15 23:39:18
次に、歌垣(かがい・歌會)について語ろう。七七〇年三月、河内の弓削の称徳離宮で歌垣が
行われた。万代にわたる帝と離宮の存続を祈り、周囲六ヶ村男女二百三十人の渡来人が夜を
通して歌い踊った。歌垣は若い男女にとって、他の部落との間の通婚の機会設定に大きな役割を
果たしていた。このころは、山麓の景勝地まで人々が出かけて、賑やかに野外舞踏会を開いた
ものであった。というよりは、日のあるうちは野に遊び、日が暮れると篝火が灯され、酒が
入って宴は佳境に入る。日野の朝鮮坊山では、毎年歌垣が行われていた。
お月見の習慣と併せて、韓半島からの伝来の風習であった。いまも扶餘や慶州あたりの野原では、
夏の夕べに月見の宴を張る。これを野遊とよんでいる。大和の民衆もこの楽しみをまねて、
農業神事に取り入れた。慶州の仏国寺の松林で、水色・桃色・緑・赤など色とりどりの袴・上衣を
着た老若男女が楽しそうに踊るのを見ることができる。杖鼓を膝の前において鞭のようなバチで
打つ。このリズムに合わせて踊る。韓国ではいまでも一般の家庭で使われている楽器である。
日本舞楽の羯鼓に似た楽器である。筑波山麓の歌會や常陸国風土記にある童子女松原の歌會が
知られている。筑波嶺の歌會で詠んだ歌一首と短歌が万葉集巻九にある。この伝統が盆踊りの形で
現在の日本に引き継がれた。
URLリンク(www.tmd.ac.jp)

643:日本@名無史さん
09/06/16 20:39:45
「貫頭衣」は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中に見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
URLリンク(www.frontstyle.com)

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
URLリンク(homepage1.nifty.com)

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
URLリンク(www.h6.dion.ne.jp)

644:日本@名無史さん
09/06/16 20:40:34
古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
URLリンク(home.att.ne.jp)

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
URLリンク(www.lcv.ne.jp)

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
URLリンク(www.psats.or.jp)

645:日本@名無史さん
09/06/18 08:50:27
三足土器は鼎の日本版だろ

646:日本@名無史さん
09/06/18 18:41:06
倭人が呉の太伯の子孫と言っても、太伯の弟の李歴の子孫とは言っていない事には、だれも触れないな。

647:日本@名無史さん
09/06/18 19:14:19
>>646
詳細希望

648:日本@名無史さん
09/06/18 21:47:26
>>三足土器人ちゃん

植物は種子が伝来すれば(気候・生育環境さえ適切なら)そのまま伝わる。商人が運ぶだけでよい。
最低限でも継代栽培の基礎知識だけ伝われば(≒百姓が何人か移住すれば)よい。

農具、工具などの技術的加工製品は根本素材(石器の原石、土器の胎土、金属の鉱石等)が
継続的に流入するか、伝来先で新たに産出源が発見されない限り、安定的に伝承されない。
さらに採掘、中間加工、最終加工の技術もまとめて伝わらないと(≒技術者が集団的に移住しないと)
伝承不可能。


649:日本@名無史さん
09/06/18 21:49:05

稲作が朝鮮半島から伝わったのなら、日本列島になぜ古代朝鮮半島の
農機具も伝わっていないのだ?

弓山里遺跡から石鍬、角鍬、猪牙鎌などの農耕具が出土してるのに、
日本列島は木製農機具ばかりだぞ。

また、朝鮮半島では、石犂、石鎌も智塔里遺跡から出土している。
農機具で、稲作の伝わり方を説明するのには、江南、朝鮮半島どちらも
矛盾が出てくるんだが、三足土器人どう反論する。


650:日本@名無史さん
09/06/18 21:53:51
まず稲作が来て、遅れて青銅器や鉄器が入った。
来たルートが違うと考えるのが自然だ。
半島ではBC10世紀に既に青銅器時代に入っている。

稲作を持ち込んだのが半島人なら、青銅器だって持ってきただろう。

鉄器は半島でもBC3世紀。日本では青銅器と鉄器が同時だ。


651:日本@名無史さん
09/06/24 21:51:09
>>この関連性はなんだ?

歴代君主―(春秋.呉クレ、句麗に音が近い)司馬遷の史記「呉太伯世家」
1,寿夢―(第19代、寿夢じゅぼう王、扶余系、高句麗、始祖,朱蒙に音が近い)
2,諸樊
3,余祭―(百済の王姓余と関連か?王子.余豊璋)
4,余昧―(百済の王姓余と関連か?)
5,僚
6,闔閭―(コウリョ、高麗、句麗、に音が近い)
闔閭の弟、夫概の後裔夫余を氏の説有り
風俗通に[呉公子夫概奔楚、余子在呉者、因以為氏焉]
7,夫差―(夫概、夫余氏と関連か?)



652:日本@名無史さん
09/06/24 21:52:23
司馬遷の史記「呉太伯世家」(紀元前585年頃 - 紀元前473年)【天皇紀2600年に近い?】
[魏略]の逸文注1)の【その旧語を聞くに、自ら太伯のすえという】
晋朝注2)の史書[晋書][梁書]の倭人伝中の【自ら太伯の後と謂う】

呉は西暦前473年に滅亡。越は呉の後を追い都を山東半島の根本の琅邪(徐福の出地)
に移します。しかしこの越も西暦前334年に楚に滅ぼされます。
*この頃より九州北部「吉武高木遺跡」に三種の神器を持った王が現る。

*始皇帝本紀には「楚国、越国を滅ぼす」、始皇帝の『越絶書』には
「外越と内越がある」と書いてある。内越とは中国大陸にいる越で、
外越は会稽の東海の彼方にいる越で、交流を絶つべしと命ずる。


653:日本@名無史さん
09/06/29 22:51:02
「鳥居」の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している

654:日本@名無史さん
09/06/29 23:41:20
日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土 [02/09]
URLリンク(sawyer.exblog.jp)

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したと
いうのが定説だが、張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性
があると指摘し模様の表現方法も類似している。なお青銅製楽器も磁器製で出土。

朝鮮半島のは遊牧系の模様の無い鐸で、北方ルートで渡来した物と思われる。
半島からは日本,江南の模様付銅鐸の出土例が無い為、直接伝わった可能性がある。

稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、発掘結果を
めぐる今後の議論が注目される。


655:日本@名無史さん
09/06/29 23:53:45
>銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の鐸がこのほど出土
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性がある




青磁どころか灰陶もなけりゃ印文陶もないし、弥生土器に鐸という器種もない。
だいたい江南名物の鼎の一つくらい伝えろや、このウソコキ南京虫が(ゲラゲラ嘲笑






656:日本@名無史さん
09/06/30 01:02:11
>>655  少し読解力の勉強してからおいでね。

>なお青銅製楽器も磁器製で出土。
って書いてるだろ、
数種類の現物は青銅製でも埋葬用は磁器製で出土してる。
腐食防止の為と思われる、見てきなさい。


657:日本@名無史さん
09/06/30 01:12:25
>>646
それ前から凄く気になってる。
太伯は子が無くて弟の系統が継いでるんだよね。
尚氏の為朝落胤説と近いものを感じる。

658:日本@名無史さん
09/06/30 01:21:04
で、日本のどこから、いつ磁器や磁器製楽器が出たんだ馬鹿ワンコロ?w

で、江南の銅鐸は?(ゲラゲラ嘲笑

おまえ爆笑させるるのも大概にせえよw

659:日本@名無史さん
09/06/30 01:42:58
>>655,658

お馬鹿ちゃん相手じゃ時間の無駄だから、もう寝るわ「オヤスミ」

660:日本@名無史さん
09/06/30 21:04:21
魏志倭人伝には倭人が「断髪」をしていたなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




男子皆露紒 以木緜招頭

URLリンク(www.g-hopper.ne.jp)
URLリンク(boat.zero.ad.jp)
URLリンク(members3.jcom.home.ne.jp)





661:國學院大學卒
09/06/30 21:11:32
古代中国以来、正しく
天を祭ってきたのは
日本の天皇だけです。

662:日本@名無史さん
09/07/01 22:59:35
「糸引き納豆」の登場は室町時代頃、「なれずし」は7C頃に朝鮮経由で伝わる。


平安時代の文献にも塩辛納豆の名は残っているが、一般に広まったのは
室町時代以降でこの頃から糸引き納豆も登場しており区別するために
塩辛納豆を久喜と呼び糸引き納豆を単に納豆と呼ぶようになった。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

日本最古のすしといわれる「鮒ずし」は、7世紀、近江大津宮に天智天皇が
遷都した以前からこの地にあったといいます。フナずしは、すしといっても
現在の握りずしとは違い、すしの原型といわれる「なれずし」の一種です。
なれずしは、米作民族が考え出した動物性タンパク質の原始的な保存法で、
そのルーツは東南アジアとされ、中国、朝鮮をへて日本へも伝えられました。
URLリンク(asamiya.sakura.ne.jp)

663:日本@名無史さん
09/07/01 23:38:40
>>相変わらずのニダー人の妄想。

7C頃に朝鮮経由で伝わる。

中国、朝鮮をへて


664:日本@名無史さん
09/07/02 20:13:26
「鵜飼」は満州や朝鮮半島にも見られる。


満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
URLリンク(www.jiyuu-shikan.org)

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
URLリンク(www.han.org)

665:日本@名無史さん
09/07/02 20:14:22
しかも日本の「鵜飼」は中国よりも古い。


鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』神武天皇の条に鵜養部のことが見え、
『古事記』にも鵜養のことを歌った歌謡が載っている。また中国の史書
『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった
漁法として紹介されている。

隋書の書かれた時代には鵜飼いは中国人にとって珍しい漁法だったが、
その後中国においても鵜飼い漁法が定着した。

確実な記録として最古の物は、10世紀の文人・陶穀が残した『清異録』
(965年)において、当塗(安徽省太平府の都市)の漁民が「魚を捕らえる
のに非常に機敏な鵜を使う」と記述されているのが最初である。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

666:日本@名無史さん
09/07/03 12:40:26
半月型石包丁(桂葉形雙孔石刀)は遼寧を経由している。


中国遼寧省羊頭窪遺跡.  黒陶系土器 石器(石包丁 磨製石鏃) 紡錐車 骨角器 卜骨
URLリンク(www.museum.kyoto-u.ac.jp)

紅山文化は北方地区の新石器文化の中で重要な文化です。ここでいう北方地区とは、
東北3省(遼寧、吉林、黒龍江)、内蒙古自治区および新彊維吾爾(ウイグル)自治区を指します。
大型石器の中で特徴的なものに、土掘具(耜あるいは犁とも呼ばれる)、桂葉形の双孔石刀があります。
URLリンク(kohkosai.web.infoseek.co.jp)

中国北部の文化が東北部の遼西まで及んでいるいることを知りえた。それに、石包丁が出土していた
のには目を見張った。日本に石包丁が伝わったのはそれから3千年もたった弥生時代になってからなのだ。
URLリンク(kyohiro.blog.ocn.ne.jp)
◆遼寧の石包丁
URLリンク(kyohiro.blog.ocn.ne.jp)

667:日本@名無史さん
09/07/04 00:08:38
>>666
現在、中国遼寧省といわれるユーラシア大陸のある地域で何かが見つかった
というだけの話。人間が住んでいたら何か痕跡が残るってことだろう。
その頃、中国って国もなければ日本という国もない。まして・・・・・。
そういうことだ。

668:日本@名無史さん
09/07/04 18:35:49
「呉服」は百済経由で伝わっている。


また百済国に、「若(モ)し賢(サカ)しき人あらば貢上(タテマツ)れ」
とおほせたまひき。かれ、命(ミコト)を受けて貢上(タテマツ)りし人、
名は和邇吉師(ワニキシ)、すなはち論語十巻・千字文一巻、并(アハ)
せて十一巻(トヲアマリヒトマキ)をこの人に付けてすなはち貢進
(タテマツ)りき。この和邇吉師(ワニキシ)は文首(フミノオビト)等(ラ)の
祖(オヤ)。また手人(テヒト)韓鍛(カラカヌチ)名は卓素(タクソ)、
また呉服(クレハトリ)の西素(サイソ)二人を貢上(タテマツ)り、
また秦造(ハタノミヤツコ)の祖(オヤ)、漢直(アヤノアタヒ)の祖(オヤ)、
また酒を醸(カ)むことを知れる人、名は仁番(ニホ)亦(マタ)の名は
須須許理(ススコリ)等(ラ)参(マヰ)渡り来つ。
URLリンク(kamnavi.jp)

669:日本@名無史さん
09/07/04 18:40:28
>>668 また百済国に、「若(モ)し賢(サカ)しき人あらば貢上(タテマツ)れ」
とおほせたまひき。かれ、命(ミコト)を受けて貢上(タテマツ)りし人、
名は和邇吉師(ワニキシ)、すなはち論語十巻・千字文一巻、并(アハ)
せて十一巻(トヲアマリヒトマキ)をこの人に付けてすなはち貢進
(タテマツ)りき。

・・・百済が日本の朝貢国だったことがよく分かる文章だな。


670:日本@名無史さん
09/07/05 16:19:36
朝鮮半島に稲作が伝わったのは4~5000年くらい前。


1990年金浦佳■(山と見)里泥炭層から採取された稲籾は4,010+-25BPと
報告されており、問題もあるがもし報告が正しいとすれば韓国での稲の
出現は新石器時代中期段階にまでさかのぼる可能性がある。
URLリンク(inoues.net)
最近は紀元前2000年ころ(?)とみられる種籾が、漢江の河口に面
する金浦(キムポ)と一山(イルサン)で発見されました(注)。
URLリンク(www2s.biglobe.ne.jp)
然し1992年には、それよりも早い時期の粳米を韓国の清州市における
家瓦遺跡から大量に発見された。今から4721年(+-50)年前と
推測されているが、同時に出土された樹木年輪測定からすると、
今から5020年前のものだと修正がなされた。
URLリンク(sakura-nokishita.spaces.live.com)

671:日本@名無史さん
09/07/05 16:20:22
朝鮮半島で最古の水田遺跡は前11世紀のオクキョン遺跡で日本よりも古い。




弥生時代の始まりと深く関連している韓国南部だが、最古の水田は
慶尚南道蔚山・オクキョン遺跡で見つかっており、孔列文~突帯文土器が
伴っているところから、前11 世紀頃と考えられている。
URLリンク(www.rekihaku.ac.jp)





672:日本@名無史さん
09/07/05 16:23:42
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。

考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。

それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
URLリンク(www.athome-academy.jp)

673:日本@名無史さん
09/07/06 00:26:30
>>671
弥生時代の始まりと深く関連しているのは中国南部。

674:日本@名無史さん
09/07/07 22:42:59
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(※色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!これらの要素が弥生土器には一切ない。)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(www.shtong.gov.cn)

675:日本@名無史さん
09/07/07 22:44:01
小麦作も約6000年前からやってたんだけど何か?(ゲラゲラ爆笑


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
URLリンク(www.local.co.jp)
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった

676:日本@名無史さん
09/07/07 22:47:14
小麦作も約6000年前からやってたんだけど何か?(ゲラゲラ大爆笑


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。

URLリンク(osaka.yomiuri.co.jp)
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり

677:日本@名無史さん
09/07/08 20:43:57
高床式「倉庫」は北方アジアから直伝している。




高床式建物はシベリアやアムールにもあるけど何か?

スレリンク(archeology板)






678:日本@名無史さん
09/07/09 14:19:08
このコピペキチガイなんなんだろうな?

679:日本@名無史さん
09/07/09 22:24:58
入れ墨は日本では旧石器時代からおこなわれている。


タトゥーは少なくともオセアニア大陸で新石器時代からおこなわれていました。
タトゥーをしたミイラが発見されています。日本では旧石器時代から
おこなわれていたと考えられています。その他の多くの文明でも、
それぞれ独特のタトゥーの様式がありました。
URLリンク(blog.livedoor.jp)
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた

680:日本@名無史さん
09/07/09 22:25:58
日本には7000年前の世界最古の入れ墨の証拠遺物がある。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として記録
されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。
URLリンク(www.ta2.com)
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの

681:日本@名無史さん
09/07/09 22:26:59



世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!

紀元前5,000年の縄文時代の土器から、入れ墨をほどこした人面器が
発見されているんだ。
URLリンク(www.tnc.ne.jp)
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!




682:日本@名無史さん
09/07/10 12:16:05
「歌垣」は百済の帰化人から伝わっている。


翌宝亀元年(770年)3月には、男女230人が歌垣(うたがき)
には百済から河内の地に渡来した王仁(わに)の末孫たちが奉仕した
との記録が残されています。(続日本紀)
URLリンク(www18.ocn.ne.jp)

弓削の道鏡の出身地で称徳天皇がこの地に遊行されて、百済の人々が
歌垣をして慰めたという
URLリンク(www.shiga-miidera.or.jp)

歌垣を行った葛井氏ら六氏は百済からの渡来人を先祖としており
URLリンク(www.furutasigaku.jp)

683:日本@名無史さん
09/07/10 12:17:01
「歌垣」は現在でも朝鮮半島に見られる。


先生は「韓の国紀行『歌垣』」のなかで、「朝鮮民族には凄味がある、
と、ほとほと思ったのは、この仏国寺の松林で野遊びを見、歌垣の
歌声をきき、そして杖鼓(チャング)のリズムをきいたときであった。
URLリンク(homepage2.nifty.com)

日本にも野遊びはあった。万葉のころ歌垣は絶えた。韓国ではいまも
生活の中にある。
URLリンク(www.ric.hi-ho.ne.jp)
 
韓国の山野では野遊びをする人々に出会うという。司馬さんは
「人々は強烈なリズムにのって群舞しており、さながら万葉時代の
歌垣や踏歌を現(うつつ)に見る思い」がすると書いていた。
URLリンク(www1.coralnet.or.jp)

684:日本@名無史さん
09/07/10 12:17:47
次に、歌垣(かがい・歌會)について語ろう。七七〇年三月、河内の弓削の称徳離宮で歌垣が
行われた。万代にわたる帝と離宮の存続を祈り、周囲六ヶ村男女二百三十人の渡来人が夜を
通して歌い踊った。歌垣は若い男女にとって、他の部落との間の通婚の機会設定に大きな役割を
果たしていた。このころは、山麓の景勝地まで人々が出かけて、賑やかに野外舞踏会を開いた
ものであった。というよりは、日のあるうちは野に遊び、日が暮れると篝火が灯され、酒が
入って宴は佳境に入る。日野の朝鮮坊山では、毎年歌垣が行われていた。
お月見の習慣と併せて、韓半島からの伝来の風習であった。いまも扶餘や慶州あたりの野原では、
夏の夕べに月見の宴を張る。これを野遊とよんでいる。大和の民衆もこの楽しみをまねて、
農業神事に取り入れた。慶州の仏国寺の松林で、水色・桃色・緑・赤など色とりどりの袴・上衣を
着た老若男女が楽しそうに踊るのを見ることができる。杖鼓を膝の前において鞭のようなバチで
打つ。このリズムに合わせて踊る。韓国ではいまでも一般の家庭で使われている楽器である。
日本舞楽の羯鼓に似た楽器である。筑波山麓の歌會や常陸国風土記にある童子女松原の歌會が
知られている。筑波嶺の歌會で詠んだ歌一首と短歌が万葉集巻九にある。この伝統が盆踊りの形で
現在の日本に引き継がれた。
URLリンク(www.tmd.ac.jp)

685:日本@名無史さん
09/07/10 12:30:02
歌垣の事なら、
URLリンク(ja.wikipedia.org)
よく読むと、何か分かるよ。


686:日本@名無史さん
09/07/10 15:18:26
>>685
歌垣と日本との関係でいえばやはり中国雲南省でしょう。
これはもう定説になっている。半島に日本から伝わったか
どうか今の段階ではなんとも言いがたい。

687:日本@名無史さん
09/07/10 18:34:00
朝鮮の歌垣はエベンキ、ギリヤークと同じらしいな。


688:日本@名無史さん
09/07/11 16:52:07
「貫頭衣」は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中に見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
URLリンク(www.frontstyle.com)

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
URLリンク(homepage1.nifty.com)

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
URLリンク(www.h6.dion.ne.jp)

689:日本@名無史さん
09/07/11 16:53:13
古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
URLリンク(home.att.ne.jp)

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
URLリンク(www.lcv.ne.jp)

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
URLリンク(www.psats.or.jp)

690:日本@名無史さん
09/07/17 12:45:26
「鳥居」の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している

691:日本@名無史さん
09/07/18 00:47:19
彦ホホデミという人物は語順から見て日本語としてはおかしいな。

 これは南方系、ベトナムかインドネシア系としか思えない語順だ。

 カム・ヤマト・イワレヒコもややおかしいと思う。やはり倭人は南方系か?


692:日本@名無史さん
09/07/18 11:45:41
彦ホホデミという語順は「帝舜」、「帝堯」と同じく古代シナ、ベトナム、インドネシア語と同じ語順で日本語の語順ではない。

 カム・ヤマト・イワレヒコも同じだ。これは倭人が呉の末裔という伝承と一致する。


693:日本@名無史さん
09/07/18 18:19:50
魏志倭人伝には倭人が「断髪」をしていたなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




男子皆露紒 以木緜招頭

URLリンク(www.g-hopper.ne.jp)
URLリンク(boat.zero.ad.jp)
URLリンク(members3.jcom.home.ne.jp)





694:日本@名無史さん
09/07/19 16:30:45
「糸引き納豆」の登場は室町時代頃、「なれずし」は7C頃に朝鮮経由で伝わる。


平安時代の文献にも塩辛納豆の名は残っているが、一般に広まったのは
室町時代以降でこの頃から糸引き納豆も登場しており区別するために
塩辛納豆を久喜と呼び糸引き納豆を単に納豆と呼ぶようになった。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

日本最古のすしといわれる「鮒ずし」は、7世紀、近江大津宮に天智天皇が
遷都した以前からこの地にあったといいます。フナずしは、すしといっても
現在の握りずしとは違い、すしの原型といわれる「なれずし」の一種です。
なれずしは、米作民族が考え出した動物性タンパク質の原始的な保存法で、
そのルーツは東南アジアとされ、中国、朝鮮をへて日本へも伝えられました。
URLリンク(asamiya.sakura.ne.jp)


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