復興!周王室(天子)!倭人は呉の末裔か!?vol.3at HISTORY
復興!周王室(天子)!倭人は呉の末裔か!?vol.3 - 暇つぶし2ch400:日本@名無史さん
09/03/06 12:00:37
そんなウンコ色の肌、ハオハオ潰れ広鼻、ハオハオ突き出た口元、ハオハオギョロ目の台湾人の祖先を

日本人の祖先に仕立てて何かルンルンした気分になるか?


401:日本@名無史さん
09/03/06 23:58:57
そんなプノンペン顔した東南アジアの醜悪な江南類人猿の台湾人の祖先を

日本人の祖先に仕立てて何かうっとりとした気持ちになるか?

402:日本@名無史さん
09/03/07 23:26:54
そんなハッカクくせえ豚くせえプノンペンくせえ茶色い生き物の台湾人の祖先を

日本人の祖先に仕立てて何か心のより所になるか?

403:日本@名無史さん
09/03/08 15:28:24
そんな顔面からくっさいハッカク臭とベトナム臭を放つヨゴレの台湾人の祖先を

日本人の祖先に仕立てて何か清々しい気分なるか?

404:日本@名無史さん
09/03/08 22:24:49
そんな中国語を話す茶色広鼻のベトナム人みたいな顔つきをした台湾人の祖先を

日本人の祖先に仕立てて何か微笑ましいか?

405:日本@名無史さん
09/03/09 19:31:17
そんな中国に住む臭く醜く汚らしいただの東南アジア人の台湾人の祖先を

日本人の祖先に仕立てて何かエキサイトするか?

406:日本@名無史さん
09/03/10 19:20:00
そんなハッカクくせえベトナム顔した汚らしい茶色豚の台湾人の祖先を

日本人の祖先に仕立てて何か気分爽快になるか?


407:日本@名無史さん
09/03/11 19:29:40



OH!ベトナーム!

そのまんま江南!

台湾人そっくりそっくり!

URLリンク(www.f3.dion.ne.jp)
URLリンク(www.snafkin.net)
URLリンク(park10.wakwak.com)
URLリンク(my.reset.jp)




408:日本@名無史さん
09/03/11 23:04:19
九州と半島南部で同系統の民族が分家して
住んでいた可能性も考慮せねばな

というか、そうであって当然だと思う。

ちなみに、縄文・弥生の二重構造説そのものも疑問視されてはいるが、
縄文=南方系 弥生=北方系というのは
「未開な南洋の土人を進んだ大陸の人間が駆逐した」という思い込みが多分に影響していて、
考古学的、言語学的なデータからは、むしろ縄文文化がシベリアと共通性があり、
水稲耕作や記紀をも含め、いわゆる弥生文化には東南アジアの色彩が濃かったりもするのだw




409:日本@名無史さん
09/03/11 23:05:39
ちなみに弥生=いわゆる渡来人ではないので、そこんとこよろすくw

もちろん、領域国家成立前には断続的に色んな人間が流入したことであろうが
ウリは大きく分けて三波の移民を想定している。

第一波=シベリア系(いわゆる縄文系)
第二波=南方系(いわゆる弥生系)
第三波=三国時代の動乱や百済滅亡に伴う渡来人系




410:日本@名無史さん
09/03/11 23:10:21

YAP+ は日本ではアイヌや琉球に多く分布するんすが、
DNAデータは所詮共時的な分布しか示せないので通時的な移動を調べるにはチョト弱い。

さらに免疫グロブリンのデータでは、アイヌ東北の人間がバイカル周辺にちかいとか
ま、色々、南方北方の二元論では語れない話もでてきちゃってる

やはり考古学的なものをメインにすえて、集団遺伝学はそれをサポートする目的に使うが吉かとw


倭人というのは長江流域からベトナムにかけての刺青をして髪を剃る民族のことを
漢民族から呼んだ蔑称。
春秋時代の呉などは倭人とされる。
後には日本人を倭人というようになる。




411:日本@名無史さん
09/03/11 23:16:46
百済の故地に、さしたる文化、文明の遺跡、遺構、遺物がないのだよ。
せいぜい、寺院の礎石が少し、あるだけ。じつに、お寒い現状。
そもそも、半島には日本みたいに、古代の大きな都市の遺構がないの。
それどころか、灌漑の跡すらない。
かの地は、当時の日本から比べると、はるかに遅れていたアジアの辺境なんだよ。

「支那と地続きだから、文化的に進んでいたはすだ」というのは、華北や満州の荒野
を念頭に入れていない、愚かな思い込み。
かの楽浪郡も、結局は維持できず、戸数五千戸の寒村にすぎなかったのが史実。




412:日本@名無史さん
09/03/11 23:27:39
葬送儀礼、豊饒儀礼(新嘗祭・大嘗祭)三種の神器(航行の護符がルーツ)
等からみて、皇室の発祥地は南方海洋漁撈稲作文化圏以外にありえない。

かたや、半島は北方大陸牧畜畑作文化圏であり、真逆の異文化地帯である。
完全に文化の異なる民族が、なぜか、日本に文化を教えたと言い張り、
しつこく恩に着せてくる。そして、威張り、誇る。
大変に異常で、かつ醜い行為である。
しかも、その半島には、他国に教えるほどの文化の遺跡、遺物が存在していない。
いくら戦乱が続こうと、石組みや礎石くらいは残るものである。
もはや、あきれて、言うべきこともなし。

そもそも半島に大規模な古墳など無いだろ。
前方後円墳は、日本のほうが古いし。
なぜ朝鮮がでてくるんだ。

それに朝鮮と言う名前を名付けたのは漢だろ。
固有の名じゃない。
ヤマトは日本固有の自分で名乗った名だが。

九州の豪族の勢力範囲は半島南部に及んでいた。
古墳の規模、数を考えれば小学生でも分かる話なんだが・・・

ヒトモドキの知能指数では逆に半島の勢力範囲が日本に・・・という事になるw




413:日本@名無史さん
09/03/12 00:55:25
この世で一番か二番かくらいの凄まじい限りのデムパ乙w

勝手なウソコキ材料で弥生人を南方誘導し、
最後は朝鮮煙幕で総仕上げか台湾人w

そんなでむぱ、食う馬鹿って実際いるの?(ゲラゲラ

414:日本@名無史さん
09/03/12 01:02:00
魏志倭人伝には倭人が断髪をしていたなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




男子皆露? 以木緜招頭

URLリンク(www.g-hopper.ne.jp)
URLリンク(boat.zero.ad.jp)
URLリンク(members3.jcom.home.ne.jp)





415:日本@名無史さん
09/03/12 01:06:25
魏志倭人伝には倭人が断髪をしていたなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




男子皆露紒 以木緜招頭

URLリンク(www.g-hopper.ne.jp)
URLリンク(boat.zero.ad.jp)
URLリンク(members3.jcom.home.ne.jp)





416:日本@名無史さん
09/03/12 02:10:57
分類学的には遡れば黒白何人だろうが
ひとつの系統に収束するはずだが
分類学的・民俗学的にも
いつどこで「分化」したのか?が知りたい。


417:日本@名無史さん
09/03/12 20:18:20
入れ墨は日本では旧石器時代からおこなわれている。


タトゥーは少なくともオセアニア大陸で新石器時代からおこなわれていました。
タトゥーをしたミイラが発見されています。日本では旧石器時代から
おこなわれていたと考えられています。その他の多くの文明でも、
それぞれ独特のタトゥーの様式がありました。
URLリンク(blog.livedoor.jp)
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた



418:日本@名無史さん
09/03/12 20:19:48
日本には世界最古の7000年前の入れ墨の証拠遺物がある。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として記録
されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。
URLリンク(www.ta2.com)
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの

419:日本@名無史さん
09/03/12 20:21:18

その入れ墨の歴史はとても古く、今から10,000万年以上前の旧石器時代の
遺跡から、人骨とともにいれずみをするのに使っていたであろうお皿や
先のとがった棒が発掘されているらしいよ。

そして世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!

紀元前5,000年の縄文時代の土器から、入れ墨をほどこした人面器が
発見されているんだ。
URLリンク(www.tnc.ne.jp)
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!


420:日本@名無史さん
09/03/13 12:08:21
歌垣は百済の帰化人から伝わっている。


翌宝亀元年(770年)3月には、男女230人が歌垣(うたがき)
には百済から河内の地に渡来した王仁(わに)の末孫たちが奉仕した
との記録が残されています。(続日本紀)
URLリンク(www18.ocn.ne.jp)

弓削の道鏡の出身地で称徳天皇がこの地に遊行されて、百済の人々が
歌垣をして慰めたという
URLリンク(www.shiga-miidera.or.jp)

歌垣を行った葛井氏ら六氏は百済からの渡来人を先祖としており
URLリンク(www.furutasigaku.jp)

421:日本@名無史さん
09/03/13 12:10:04
歌垣は現在でも朝鮮半島に見られる。


先生は「韓の国紀行『歌垣』」のなかで、「朝鮮民族には凄味がある、
と、ほとほと思ったのは、この仏国寺の松林で野遊びを見、歌垣の
歌声をきき、そして杖鼓(チャング)のリズムをきいたときであった。
URLリンク(homepage2.nifty.com)

日本にも野遊びはあった。万葉のころ歌垣は絶えた。韓国ではいまも
生活の中にある。
URLリンク(www.ric.hi-ho.ne.jp)
 
韓国の山野では野遊びをする人々に出会うという。司馬さんは
「人々は強烈なリズムにのって群舞しており、さながら万葉時代の
歌垣や踏歌を現(うつつ)に見る思い」がすると書いていた。
URLリンク(www1.coralnet.or.jp)

422:日本@名無史さん
09/03/13 12:12:27
次に、歌垣(かがい・歌會)について語ろう。七七〇年三月、河内の弓削の称徳離宮で歌垣が
行われた。万代にわたる帝と離宮の存続を祈り、周囲六ヶ村男女二百三十人の渡来人が夜を
通して歌い踊った。歌垣は若い男女にとって、他の部落との間の通婚の機会設定に大きな役割を
果たしていた。このころは、山麓の景勝地まで人々が出かけて、賑やかに野外舞踏会を開いた
ものであった。というよりは、日のあるうちは野に遊び、日が暮れると篝火が灯され、酒が
入って宴は佳境に入る。日野の朝鮮坊山では、毎年歌垣が行われていた。
お月見の習慣と併せて、韓半島からの伝来の風習であった。いまも扶餘や慶州あたりの野原では、
夏の夕べに月見の宴を張る。これを野遊とよんでいる。大和の民衆もこの楽しみをまねて、
農業神事に取り入れた。慶州の仏国寺の松林で、水色・桃色・緑・赤など色とりどりの袴・上衣を
着た老若男女が楽しそうに踊るのを見ることができる。杖鼓を膝の前において鞭のようなバチで
打つ。このリズムに合わせて踊る。韓国ではいまでも一般の家庭で使われている楽器である。
日本舞楽の羯鼓に似た楽器である。筑波山麓の歌會や常陸国風土記にある童子女松原の歌會が
知られている。筑波嶺の歌會で詠んだ歌一首と短歌が万葉集巻九にある。この伝統が盆踊りの形で
現在の日本に引き継がれた。
URLリンク(www.tmd.ac.jp)

423:日本@名無史さん
09/03/14 03:44:50
>>420-422
また同じコピペかよキチガイw
とっくの昔に論破されてんだろ
日本のほうが古いし

424:日本@名無史さん
09/03/14 19:01:45
貫頭衣は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中に見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
URLリンク(www.frontstyle.com)

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
URLリンク(homepage1.nifty.com)

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
URLリンク(www.h6.dion.ne.jp)

425:日本@名無史さん
09/03/14 19:02:29
古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
URLリンク(home.att.ne.jp)

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
URLリンク(www.lcv.ne.jp)

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
URLリンク(www.psats.or.jp)

426:日本@名無史さん
09/03/15 18:50:29
鳥居の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している

427:日本@名無史さん
09/03/16 23:36:54
鵜飼は満州や朝鮮半島にも見られる。


満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
URLリンク(www.jiyuu-shikan.org)

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
URLリンク(www.han.org)

428:日本@名無史さん
09/03/16 23:38:31
しかも日本の鵜飼は中国よりも古い。


鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』神武天皇の条に鵜養部のことが見え、
『古事記』にも鵜養のことを歌った歌謡が載っている。また中国の史書
『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった
漁法として紹介されている。

隋書の書かれた時代には鵜飼いは中国人にとって珍しい漁法だったが、
その後中国においても鵜飼い漁法が定着した。

確実な記録として最古の物は、10世紀の文人・陶穀が残した『清異録』
(965年)において、当塗(安徽省太平府の都市)の漁民が「魚を捕らえる
のに非常に機敏な鵜を使う」と記述されているのが最初である。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

429:日本@名無史さん
09/03/17 23:19:04
魏志倭人伝には倭人が断髪をしていたなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




男子皆露紒 以木緜招頭

URLリンク(www.g-hopper.ne.jp)
URLリンク(boat.zero.ad.jp)
URLリンク(members3.jcom.home.ne.jp)





430:日本@名無史さん
09/03/18 23:12:05
糸引き納豆の登場は室町時代頃、なれずしは3C頃に朝鮮経由で伝わる。


平安時代の文献にも塩辛納豆の名は残っているが、一般に広まったのは
室町時代以降でこの頃から糸引き納豆も登場しており区別するために
塩辛納豆を久喜と呼び糸引き納豆を単に納豆と呼ぶようになった。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

なれずしの歴史は古くて、紀元前には中国で食べられていたらしいんだ。
それが三世紀頃に日本にも伝わって、奈良時代には文献にも登場する。
URLリンク(www.kouryu.or.jp)

「すし」のルーツは遠く東南アジア、メコン川の地域と言われております。
メコン川周辺地域から中国へ、そして朝鮮半島から稲作の伝播とともに
日本へ伝わってきたと考えられているようです。 
URLリンク(www3.ocn.ne.jp)

431:日本@名無史さん
09/03/19 20:21:11
呉服は百済経由で伝わっている。


また百済国に、「若(モ)し賢(サカ)しき人あらば貢上(タテマツ)れ」
とおほせたまひき。かれ、命(ミコト)を受けて貢上(タテマツ)りし人、
名は和邇吉師(ワニキシ)、すなはち論語十巻・千字文一巻、并(アハ)
せて十一巻(トヲアマリヒトマキ)をこの人に付けてすなはち貢進
(タテマツ)りき。この和邇吉師(ワニキシ)は文首(フミノオビト)等(ラ)の
祖(オヤ)。また手人(テヒト)韓鍛(カラカヌチ)名は卓素(タクソ)、
また呉服(クレハトリ)の西素(サイソ)二人を貢上(タテマツ)り、
また秦造(ハタノミヤツコ)の祖(オヤ)、漢直(アヤノアタヒ)の祖(オヤ)、
また酒を醸(カ)むことを知れる人、名は仁番(ニホ)亦(マタ)の名は
須須許理(ススコリ)等(ラ)参(マヰ)渡り来つ。
URLリンク(kamnavi.jp)

432:日本@名無史さん
09/03/20 08:58:56
つまり呉から百済を経由して
日本へ

433:日本@名無史さん
09/03/20 21:44:11
半月型石包丁(桂葉形雙孔石刀)は遼寧を経由している。


中国遼寧省羊頭窪遺跡.  黒陶系土器 石器(石包丁 磨製石鏃) 紡錐車 骨角器 卜骨
URLリンク(www.museum.kyoto-u.ac.jp)

紅山文化は北方地区の新石器文化の中で重要な文化です。ここでいう北方地区とは、
東北3省(遼寧、吉林、黒龍江)、内蒙古自治区および新彊維吾爾(ウイグル)自治区を指します。
大型石器の中で特徴的なものに、土掘具(耜あるいは犁とも呼ばれる)、桂葉形の双孔石刀があります。
URLリンク(kohkosai.web.infoseek.co.jp)

中国北部の文化が東北部の遼西まで及んでいるいることを知りえた。それに、石包丁が出土していた
のには目を見張った。日本に石包丁が伝わったのはそれから3千年もたった弥生時代になってからなのだ。
URLリンク(kyohiro.blog.ocn.ne.jp)
◆遼寧の石包丁
URLリンク(kyohiro.blog.ocn.ne.jp)

434:日本@名無史さん
09/03/20 21:50:59
>>430
>朝鮮半島から稲作の伝播とともに

稲作がはたして朝鮮半島から伝播したのかどうかから問題にせにゃならんな。
ヒンツ:ジャポニカ米の存在

435:日本@名無史さん
09/03/21 08:55:08
稗田無礼:2009/03/20(金) 15:07:20 ID:OJy8Gjq8
日本人が
>先住系の縄文人と渡来系の弥生人のブレンド
というのはその通りなんだが、
かつては(といってもここ数年前)
古モンゴロイド=縄文人を新モンゴロイド(なぜそういう区分があるかというと、
新は氷河期にシベリア辺りに閉じこめられ体質変化したモンゴロイドだから)
の弥生系の人々が征服して、混血し、やがて国の成立をみた、と考えられていた。
その弥生系の人々は朝鮮半島から稲作等の先進文化を持っていて、
土着の縄文人を取り込んでいった、というのが定説だったが、
その定説がこの1年ほどで覆ってしまった。
それは稲の最新のDNA鑑定の結果によって、
稲の伝播はむしろ日本から朝鮮半島へという流れが科学的に明らかになったことによる。
そしてまた人体のDNA鑑定により、日本人は現在のシベリア地方のブリアート人に近いという結果が出た。
さらに現代シベリア地方に住んでるビリアート人は新モンゴロイドではなく、
古モンゴロイドの中でも北方モンゴロイドだということがわかった。
だからシベリア=新モンゴロイドという通念からすると、
古モンゴロイドの縄文人のDNAがぬけおちてしまうのだが、これで解けたわけだ。
考古学的な発見の積み重ねもあった。
今まで弥生時代の遺跡の下から縄文の遺跡がかなりでてきていて、
しかもそれは弥生縄文ともにだいたいが縄文人の人骨が多いということもわかった。
それはどういうことかというと、
一部には確かに弥生人と縄文人との争いの痕跡があって、
それが弥生人によるが縄文人の征服の証拠とされたが、
実際は縄文人の多くは稲作を中心にした弥生文明を受け入れて、
(受け入れなかったのが蝦夷=アイヌ人)
少数の渡来の弥生人と混血し、日本人ができ国家が形成されていった。
このことは考古学的科学的な日本の歴史にも合致しているとみなされるようになった。
文献学的にもそう。歴史的な事績云々は置いて、天孫降臨のニニギノミコト以下
稲作を持って渡来してきた(弥生系)天皇家の子孫はほとんど土着の(縄文系)の娘と婚姻して、
子が代々天皇家を継いでいる。


436:日本@名無史さん
09/03/21 21:06:16
URLリンク(www.asahi.com)
>  兵庫県立考古博物館の石野博信館長(考古学)は「3世紀段階で建物が軸を
> そろえて並ぶのは極めて異例だ。建物をきれいに配列する中国の思想を既に受
> けていたのだろうか。ここが邪馬台国とすれば卑弥呼の宮殿の一角なのかもし
> れない」と推測する。

とうとう出ましたね。
邪馬台国ではないにしてもこのように方角で整然と並ぶ建物群が機内に存在したのは事実です。
私が調べた限り朝鮮半島には同時代このように方角で整然と並ぶ建物群は存在していないようです。
大陸の史書に邪馬台国が初めて登場した頃にはすでにこのような建造物が日本列島には存在していたという事です。
大陸と初めて接触したのになぜ大陸の高度な建築様式が存在するのか?
今までの日本史観ならば矛盾しますね。
この疑問は日本人が呉の国から渡ってきた移民だとすればすっきりと解決します。
大陸の史書に邪馬台国が登場したときにはすでに呉の文明を受けついだ日本人の国家が存在したということです。

437:日本@名無史さん
09/03/21 22:00:30
朝鮮半島に稲作が伝わったのは4~5000年くらい前。


1990年金浦佳■(山と見)里泥炭層から採取された稲籾は4,010+-25BPと
報告されており、問題もあるがもし報告が正しいとすれば韓国での稲の
出現は新石器時代中期段階にまでさかのぼる可能性がある。
URLリンク(inoues.net)

最近は紀元前2000年ころ(?)とみられる種籾が、漢江の河口に面
する金浦(キムポ)と一山(イルサン)で発見されました(注)。
URLリンク(www2s.biglobe.ne.jp)

然し1992年には、それよりも早い時期の粳米を韓国の清州市における
家瓦遺跡から大量に発見された。今から4721年(+-50)年前と
推測されているが、同時に出土された樹木年輪測定からすると、
今から5020年前のものだと修正がなされた。
URLリンク(sakura-nokishita.spaces.live.com)

438:日本@名無史さん
09/03/21 22:02:45
朝鮮半島で最古の水田遺跡は今のところ前11世紀。



弥生時代の始まりと深く関連している韓国南部だが、最古の水田は
慶尚南道蔚山・オクキョン遺跡で見つかっており、孔列文~突帯文土器が
伴っているところから、前11 世紀頃と考えられている。
URLリンク(www.rekihaku.ac.jp)





439:日本@名無史さん
09/03/21 22:06:33



中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が朝鮮半島の古代遺跡から出土した炭化米でなされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

URLリンク(www.athome-academy.jp)




440:日本@名無史さん
09/03/22 10:35:31
朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦のプラントオパールも稲と同時に
検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から栽培されていた事に
なってしまい、改めてプラントオパール調査の精度自体が極めて
疑わしいものであると言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
URLリンク(www.local.co.jp)

441:日本@名無史さん
09/03/22 21:14:28
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(※色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!これらの要素が弥生土器には一切ない。)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(www.shtong.gov.cn)

442:日本@名無史さん
09/03/23 19:56:36
高床式『倉庫』は北方アジアから直伝している。




高床式建物はシベリアやアムールにもあるけど何か?

スレリンク(archeology板)





443:日本@名無史さん
09/03/24 18:55:52
入れ墨は日本では旧石器時代からおこなわれている。


タトゥーは少なくともオセアニア大陸で新石器時代からおこなわれていました。
タトゥーをしたミイラが発見されています。日本では旧石器時代から
おこなわれていたと考えられています。その他の多くの文明でも、
それぞれ独特のタトゥーの様式がありました。
URLリンク(blog.livedoor.jp)
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた



444:日本@名無史さん
09/03/24 18:56:42
日本には世界最古の7000年前の入れ墨の証拠遺物がある。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として記録
されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。
URLリンク(www.ta2.com)
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの

445:日本@名無史さん
09/03/24 18:57:43

その入れ墨の歴史はとても古く、今から10,000万年以上前の旧石器時代の
遺跡から、人骨とともにいれずみをするのに使っていたであろうお皿や
先のとがった棒が発掘されているらしいよ。

そして世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!

紀元前5,000年の縄文時代の土器から、入れ墨をほどこした人面器が
発見されているんだ。
URLリンク(www.tnc.ne.jp)
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!


446:日本@名無史さん
09/03/26 09:08:28
前に無くなった高円宮殿下の顔とか見ると
たしかに南方と関係ありそうだな。

447:日本@名無史さん
09/03/27 19:24:11
南方といえば呉の国の風俗もそうでしたよね。

448:日本@名無史さん
09/03/28 00:07:39
青銅器がどうのと貼ってるのが多いが、
日本は鋳潰して大量の銅鐸にしてるよ。
何に使ったのかは不明だが。

449:日本@名無史さん
09/03/28 23:52:08
歌垣は百済の帰化人から伝わっている。


翌宝亀元年(770年)3月には、男女230人が歌垣(うたがき)
には百済から河内の地に渡来した王仁(わに)の末孫たちが奉仕した
との記録が残されています。(続日本紀)
URLリンク(www18.ocn.ne.jp)

弓削の道鏡の出身地で称徳天皇がこの地に遊行されて、百済の人々が
歌垣をして慰めたという
URLリンク(www.shiga-miidera.or.jp)

歌垣を行った葛井氏ら六氏は百済からの渡来人を先祖としており
URLリンク(www.furutasigaku.jp)

450:日本@名無史さん
09/03/28 23:54:54
歌垣は現在でも朝鮮半島に見られる。


先生は「韓の国紀行『歌垣』」のなかで、「朝鮮民族には凄味がある、
と、ほとほと思ったのは、この仏国寺の松林で野遊びを見、歌垣の
歌声をきき、そして杖鼓(チャング)のリズムをきいたときであった。
URLリンク(homepage2.nifty.com)

日本にも野遊びはあった。万葉のころ歌垣は絶えた。韓国ではいまも
生活の中にある。
URLリンク(www.ric.hi-ho.ne.jp)
 
韓国の山野では野遊びをする人々に出会うという。司馬さんは
「人々は強烈なリズムにのって群舞しており、さながら万葉時代の
歌垣や踏歌を現(うつつ)に見る思い」がすると書いていた。
URLリンク(www1.coralnet.or.jp)

451:日本@名無史さん
09/03/28 23:57:33
次に、歌垣(かがい・歌會)について語ろう。七七〇年三月、河内の弓削の称徳離宮で歌垣が
行われた。万代にわたる帝と離宮の存続を祈り、周囲六ヶ村男女二百三十人の渡来人が夜を
通して歌い踊った。歌垣は若い男女にとって、他の部落との間の通婚の機会設定に大きな役割を
果たしていた。このころは、山麓の景勝地まで人々が出かけて、賑やかに野外舞踏会を開いた
ものであった。というよりは、日のあるうちは野に遊び、日が暮れると篝火が灯され、酒が
入って宴は佳境に入る。日野の朝鮮坊山では、毎年歌垣が行われていた。
お月見の習慣と併せて、韓半島からの伝来の風習であった。いまも扶餘や慶州あたりの野原では、
夏の夕べに月見の宴を張る。これを野遊とよんでいる。大和の民衆もこの楽しみをまねて、
農業神事に取り入れた。慶州の仏国寺の松林で、水色・桃色・緑・赤など色とりどりの袴・上衣を
着た老若男女が楽しそうに踊るのを見ることができる。杖鼓を膝の前において鞭のようなバチで
打つ。このリズムに合わせて踊る。韓国ではいまでも一般の家庭で使われている楽器である。
日本舞楽の羯鼓に似た楽器である。筑波山麓の歌會や常陸国風土記にある童子女松原の歌會が
知られている。筑波嶺の歌會で詠んだ歌一首と短歌が万葉集巻九にある。この伝統が盆踊りの形で
現在の日本に引き継がれた。
URLリンク(www.tmd.ac.jp)

452:日本@名無史さん
09/03/29 19:05:34
貫頭衣は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中に見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
URLリンク(www.frontstyle.com)

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
URLリンク(homepage1.nifty.com)

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
URLリンク(www.h6.dion.ne.jp)

453:日本@名無史さん
09/03/29 19:06:15
古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
URLリンク(home.att.ne.jp)

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
URLリンク(www.lcv.ne.jp)

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
URLリンク(www.psats.or.jp)

454:日本@名無史さん
09/03/30 23:57:31
鳥居の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している

455:日本@名無史さん
09/03/31 19:45:52
魏志倭人伝には倭人が断髪をしていたなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




男子皆露紒 以木緜招頭

URLリンク(www.g-hopper.ne.jp)
URLリンク(boat.zero.ad.jp)
URLリンク(members3.jcom.home.ne.jp)





456:日本@名無史さん
09/04/01 21:53:59
糸引き納豆の登場は室町時代頃、なれずしは3C頃に朝鮮経由で伝わる。


平安時代の文献にも塩辛納豆の名は残っているが、一般に広まったのは
室町時代以降でこの頃から糸引き納豆も登場しており区別するために
塩辛納豆を久喜と呼び糸引き納豆を単に納豆と呼ぶようになった。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

なれずしの歴史は古くて、紀元前には中国で食べられていたらしいんだ。
それが三世紀頃に日本にも伝わって、奈良時代には文献にも登場する。
URLリンク(www.kouryu.or.jp)

「すし」のルーツは遠く東南アジア、メコン川の地域と言われております。
メコン川周辺地域から中国へ、そして朝鮮半島から稲作の伝播とともに
日本へ伝わってきたと考えられているようです。 
URLリンク(www3.ocn.ne.jp)

457:日本@名無史さん
09/04/02 22:28:14
鵜飼は満州や朝鮮半島にも見られる。


満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
URLリンク(www.jiyuu-shikan.org)

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
URLリンク(www.han.org)

458:日本@名無史さん
09/04/02 22:30:47
しかも日本の鵜飼は中国よりも古い。


鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』神武天皇の条に鵜養部のことが見え、
『古事記』にも鵜養のことを歌った歌謡が載っている。また中国の史書
『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった
漁法として紹介されている。

隋書の書かれた時代には鵜飼いは中国人にとって珍しい漁法だったが、
その後中国においても鵜飼い漁法が定着した。

確実な記録として最古の物は、10世紀の文人・陶穀が残した『清異録』
(965年)において、当塗(安徽省太平府の都市)の漁民が「魚を捕らえる
のに非常に機敏な鵜を使う」と記述されているのが最初である。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

459:日本@名無史さん
09/04/03 12:16:02
呉服は百済経由で伝わっている。


また百済国に、「若(モ)し賢(サカ)しき人あらば貢上(タテマツ)れ」
とおほせたまひき。かれ、命(ミコト)を受けて貢上(タテマツ)りし人、
名は和邇吉師(ワニキシ)、すなはち論語十巻・千字文一巻、并(アハ)
せて十一巻(トヲアマリヒトマキ)をこの人に付けてすなはち貢進
(タテマツ)りき。この和邇吉師(ワニキシ)は文首(フミノオビト)等(ラ)の
祖(オヤ)。また手人(テヒト)韓鍛(カラカヌチ)名は卓素(タクソ)、
また呉服(クレハトリ)の西素(サイソ)二人を貢上(タテマツ)り、
また秦造(ハタノミヤツコ)の祖(オヤ)、漢直(アヤノアタヒ)の祖(オヤ)、
また酒を醸(カ)むことを知れる人、名は仁番(ニホ)亦(マタ)の名は
須須許理(ススコリ)等(ラ)参(マヰ)渡り来つ。
URLリンク(kamnavi.jp)

460:日本@名無史さん
09/04/04 20:42:38
半月型石包丁(桂葉形雙孔石刀)は遼寧を経由している。


中国遼寧省羊頭窪遺跡.  黒陶系土器 石器(石包丁 磨製石鏃) 紡錐車 骨角器 卜骨
URLリンク(www.museum.kyoto-u.ac.jp)

紅山文化は北方地区の新石器文化の中で重要な文化です。ここでいう北方地区とは、
東北3省(遼寧、吉林、黒龍江)、内蒙古自治区および新彊維吾爾(ウイグル)自治区を指します。
大型石器の中で特徴的なものに、土掘具(耜あるいは犁とも呼ばれる)、桂葉形の双孔石刀があります。
URLリンク(kohkosai.web.infoseek.co.jp)

中国北部の文化が東北部の遼西まで及んでいるいることを知りえた。それに、石包丁が出土していた
のには目を見張った。日本に石包丁が伝わったのはそれから3千年もたった弥生時代になってからなのだ。
URLリンク(kyohiro.blog.ocn.ne.jp)
◆遼寧の石包丁
URLリンク(kyohiro.blog.ocn.ne.jp)

461:日本@名無史さん
09/04/05 17:25:13
神武天皇=太伯

462:日本@名無史さん
09/04/05 20:11:32
朝鮮半島に稲作が伝わったのは4~5000年くらい前。


1990年金浦佳■(山と見)里泥炭層から採取された稲籾は4,010+-25BPと
報告されており、問題もあるがもし報告が正しいとすれば韓国での稲の
出現は新石器時代中期段階にまでさかのぼる可能性がある。
URLリンク(inoues.net)

最近は紀元前2000年ころ(?)とみられる種籾が、漢江の河口に面
する金浦(キムポ)と一山(イルサン)で発見されました(注)。
URLリンク(www2s.biglobe.ne.jp)

然し1992年には、それよりも早い時期の粳米を韓国の清州市における
家瓦遺跡から大量に発見された。今から4721年(+-50)年前と
推測されているが、同時に出土された樹木年輪測定からすると、
今から5020年前のものだと修正がなされた。
URLリンク(sakura-nokishita.spaces.live.com)

463:日本@名無史さん
09/04/05 20:12:27
朝鮮半島で最古の水田遺跡は前11世紀のオクキョン遺跡で日本よりも古い。



弥生時代の始まりと深く関連している韓国南部だが、最古の水田は
慶尚南道蔚山・オクキョン遺跡で見つかっており、孔列文~突帯文土器が
伴っているところから、前11 世紀頃と考えられている。
URLリンク(www.rekihaku.ac.jp)





464:日本@名無史さん
09/04/05 20:13:28



中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が朝鮮半島の古代遺跡から出土した炭化米でなされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

URLリンク(www.athome-academy.jp)




465:敬天老師
09/04/05 22:53:20
伊勢神宮にあると言われた「三譲」の額の真偽やいかに?

466:日本@名無史さん
09/04/06 04:00:09
コピペチョン工作員乙

467:日本@名無史さん
09/04/06 20:41:06
朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦のプラントオパールも稲と同時に
検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から栽培されていた事に
なってしまい、改めてプラントオパールの調査自体の精度が極めて
疑わしいものであると言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
URLリンク(www.local.co.jp)

468:日本@名無史さん
09/04/06 20:41:51
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(※色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!これらの要素が弥生土器には一切ない。)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(www.shtong.gov.cn)

469:日本@名無史さん
09/04/07 22:05:31
高床式『倉庫』は北方アジアから直伝している。




高床式建物はシベリアやアムールにもあるけど何か?

スレリンク(archeology板)





470:日本@名無史さん
09/04/08 20:39:15
入れ墨は日本では旧石器時代からおこなわれている。


タトゥーは少なくともオセアニア大陸で新石器時代からおこなわれていました。
タトゥーをしたミイラが発見されています。日本では旧石器時代から
おこなわれていたと考えられています。その他の多くの文明でも、
それぞれ独特のタトゥーの様式がありました。
URLリンク(blog.livedoor.jp)
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた



471:日本@名無史さん
09/04/08 20:39:55
日本には世界最古の7000年前の入れ墨の証拠遺物がある。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として記録
されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。
URLリンク(www.ta2.com)
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの

472:日本@名無史さん
09/04/08 20:40:42

その入れ墨の歴史はとても古く、今から10,000万年以上前の旧石器時代の
遺跡から、人骨とともにいれずみをするのに使っていたであろうお皿や
先のとがった棒が発掘されているらしいよ。

そして世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!

紀元前5,000年の縄文時代の土器から、入れ墨をほどこした人面器が
発見されているんだ。
URLリンク(www.tnc.ne.jp)
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!

473:日本@名無史さん
09/04/08 20:53:37
この板には、どうして同じ文章をあちこちに何度もコピペする輩が多いのだろうか?
洗脳でもしたいのだろうか?
学問とは客観的でなければ信用できないものだが、
問答無用の連続コピペをすればするほど
反学問的なプロパガンダと堕していく。

474:日本@名無史さん
09/04/09 21:18:03
歌垣は百済の帰化人から伝わっている。


翌宝亀元年(770年)3月には、男女230人が歌垣(うたがき)
には百済から河内の地に渡来した王仁(わに)の末孫たちが奉仕した
との記録が残されています。(続日本紀)
URLリンク(www18.ocn.ne.jp)

弓削の道鏡の出身地で称徳天皇がこの地に遊行されて、百済の人々が
歌垣をして慰めたという
URLリンク(www.shiga-miidera.or.jp)

歌垣を行った葛井氏ら六氏は百済からの渡来人を先祖としており
URLリンク(www.furutasigaku.jp)

475:日本@名無史さん
09/04/09 21:19:04
歌垣は現在でも朝鮮半島に見られる。


先生は「韓の国紀行『歌垣』」のなかで、「朝鮮民族には凄味がある、
と、ほとほと思ったのは、この仏国寺の松林で野遊びを見、歌垣の
歌声をきき、そして杖鼓(チャング)のリズムをきいたときであった。
URLリンク(homepage2.nifty.com)

日本にも野遊びはあった。万葉のころ歌垣は絶えた。韓国ではいまも
生活の中にある。
URLリンク(www.ric.hi-ho.ne.jp)
 
韓国の山野では野遊びをする人々に出会うという。司馬さんは
「人々は強烈なリズムにのって群舞しており、さながら万葉時代の
歌垣や踏歌を現(うつつ)に見る思い」がすると書いていた。
URLリンク(www1.coralnet.or.jp)

476:日本@名無史さん
09/04/09 21:19:57
次に、歌垣(かがい・歌會)について語ろう。七七〇年三月、河内の弓削の称徳離宮で歌垣が
行われた。万代にわたる帝と離宮の存続を祈り、周囲六ヶ村男女二百三十人の渡来人が夜を
通して歌い踊った。歌垣は若い男女にとって、他の部落との間の通婚の機会設定に大きな役割を
果たしていた。このころは、山麓の景勝地まで人々が出かけて、賑やかに野外舞踏会を開いた
ものであった。というよりは、日のあるうちは野に遊び、日が暮れると篝火が灯され、酒が
入って宴は佳境に入る。日野の朝鮮坊山では、毎年歌垣が行われていた。
お月見の習慣と併せて、韓半島からの伝来の風習であった。いまも扶餘や慶州あたりの野原では、
夏の夕べに月見の宴を張る。これを野遊とよんでいる。大和の民衆もこの楽しみをまねて、
農業神事に取り入れた。慶州の仏国寺の松林で、水色・桃色・緑・赤など色とりどりの袴・上衣を
着た老若男女が楽しそうに踊るのを見ることができる。杖鼓を膝の前において鞭のようなバチで
打つ。このリズムに合わせて踊る。韓国ではいまでも一般の家庭で使われている楽器である。
日本舞楽の羯鼓に似た楽器である。筑波山麓の歌會や常陸国風土記にある童子女松原の歌會が
知られている。筑波嶺の歌會で詠んだ歌一首と短歌が万葉集巻九にある。この伝統が盆踊りの形で
現在の日本に引き継がれた。
URLリンク(www.tmd.ac.jp)

477:日本@名無史さん
09/04/10 04:25:09
またチョンの論破済みコピペかw
バカだね~w

478:日本@名無史さん
09/04/10 11:56:46
屁理屈の域を出ない独り善がりな脳内論破な(爆

479:日本@名無史さん
09/04/10 12:38:34
シンクーシンクー

480:日本@名無史さん
09/04/10 23:28:06
貫頭衣は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中に見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
URLリンク(www.frontstyle.com)

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
URLリンク(homepage1.nifty.com)

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
URLリンク(www.h6.dion.ne.jp)

481:日本@名無史さん
09/04/10 23:30:50
古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
URLリンク(home.att.ne.jp)

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
URLリンク(www.lcv.ne.jp)

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
URLリンク(www.psats.or.jp)

482:ビリー・ザ・マッド
09/04/11 02:49:57
スレのテーマは興味深いのに
変ななレスばっかで萎える・・・

過去の栄光(笑)にこだわるのは儒教の最もな害悪なんだろうな。

483:日本@名無史さん
09/04/11 04:51:24
>>478
屁理屈にもなってない独りよがりな脳内電波乙w

484:日本@名無史さん
09/04/11 17:22:01
鳥居の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している

485:日本@名無史さん
09/04/11 18:59:37
おしっこしてはいけません

486:日本@名無史さん
09/04/12 04:28:11
このコピペ豚はコピペすることでなんか主張してるつもりなんだろうか。

487:日本@名無史さん
09/04/12 20:04:00
アク禁してよ

488:日本@名無史さん
09/04/12 22:06:38
魏志倭人伝には倭人が断髪をしていたなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




男子皆露紒 以木緜招頭

URLリンク(www.g-hopper.ne.jp)
URLリンク(boat.zero.ad.jp)
URLリンク(members3.jcom.home.ne.jp)





489:日本@名無史さん
09/04/13 19:12:31
糸引き納豆の登場は室町時代頃、なれずしは3C頃に朝鮮経由で伝わる。


平安時代の文献にも塩辛納豆の名は残っているが、一般に広まったのは
室町時代以降でこの頃から糸引き納豆も登場しており区別するために
塩辛納豆を久喜と呼び糸引き納豆を単に納豆と呼ぶようになった。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

なれずしの歴史は古くて、紀元前には中国で食べられていたらしいんだ。
それが三世紀頃に日本にも伝わって、奈良時代には文献にも登場する。
URLリンク(www.kouryu.or.jp)

「すし」のルーツは遠く東南アジア、メコン川の地域と言われております。
メコン川周辺地域から中国へ、そして朝鮮半島から稲作の伝播とともに
日本へ伝わってきたと考えられているようです。 
URLリンク(www3.ocn.ne.jp)

490:日本@名無史さん
09/04/13 20:36:25
【卑弥呼】倭迹迹日百襲媛命【邪馬台国女王】
スレリンク(history板)

491:日本@名無史さん
09/04/14 04:23:34
朝鮮に寿司なんかねーよw
勝手に経由地に捏造すんな

492:日本@名無史さん
09/04/14 12:10:48
どこに寿司なんて書いてある?

食酢を使う寿司は発酵食品のなれずしとは別の料理ですよ。

493:日本@名無史さん
09/04/14 22:27:43
鵜飼は満州や朝鮮半島にも見られる。


満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
URLリンク(www.jiyuu-shikan.org)

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
URLリンク(www.han.org)

494:日本@名無史さん
09/04/14 22:28:26
しかも日本の鵜飼は中国よりも古い。


鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』神武天皇の条に鵜養部のことが見え、
『古事記』にも鵜養のことを歌った歌謡が載っている。また中国の史書
『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった
漁法として紹介されている。

隋書の書かれた時代には鵜飼いは中国人にとって珍しい漁法だったが、
その後中国においても鵜飼い漁法が定着した。

確実な記録として最古の物は、10世紀の文人・陶穀が残した『清異録』
(965年)において、当塗(安徽省太平府の都市)の漁民が「魚を捕らえる
のに非常に機敏な鵜を使う」と記述されているのが最初である。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

495:日本@名無史さん
09/04/15 04:53:03
>>492
>「すし」のルーツは

って自分でコピペしてんだろうがw
コピペしか能がないのな

496:日本@名無史さん
09/04/15 10:34:29
>>494 北方シナの隋人が南方シナの鵜飼を知らなかっただけだろう。


497:日本@名無史さん
09/04/15 16:52:32
このコピペチョンって別のいろんなスレにも湧いてるけど
あらし行為は止めろよ。

498:日本@名無史さん
09/04/15 20:58:02
半月型石包丁(桂葉形雙孔石刀)は遼寧を経由している。


中国遼寧省羊頭窪遺跡.  黒陶系土器 石器(石包丁 磨製石鏃) 紡錐車 骨角器 卜骨
URLリンク(www.museum.kyoto-u.ac.jp)

紅山文化は北方地区の新石器文化の中で重要な文化です。ここでいう北方地区とは、
東北3省(遼寧、吉林、黒龍江)、内蒙古自治区および新彊維吾爾(ウイグル)自治区を指します。
大型石器の中で特徴的なものに、土掘具(耜あるいは犁とも呼ばれる)、桂葉形の双孔石刀があります。
URLリンク(kohkosai.web.infoseek.co.jp)

中国北部の文化が東北部の遼西まで及んでいるいることを知りえた。それに、石包丁が出土していた
のには目を見張った。日本に石包丁が伝わったのはそれから3千年もたった弥生時代になってからなのだ。
URLリンク(kyohiro.blog.ocn.ne.jp)
◆遼寧の石包丁
URLリンク(kyohiro.blog.ocn.ne.jp)

499:日本@名無史さん
09/04/16 04:42:30
なぜチョンはバカなのか

500:日本@名無史さん
09/04/16 20:41:35
呉服は百済経由で伝わっている。


また百済国に、「若(モ)し賢(サカ)しき人あらば貢上(タテマツ)れ」
とおほせたまひき。かれ、命(ミコト)を受けて貢上(タテマツ)りし人、
名は和邇吉師(ワニキシ)、すなはち論語十巻・千字文一巻、并(アハ)
せて十一巻(トヲアマリヒトマキ)をこの人に付けてすなはち貢進
(タテマツ)りき。この和邇吉師(ワニキシ)は文首(フミノオビト)等(ラ)の
祖(オヤ)。また手人(テヒト)韓鍛(カラカヌチ)名は卓素(タクソ)、
また呉服(クレハトリ)の西素(サイソ)二人を貢上(タテマツ)り、
また秦造(ハタノミヤツコ)の祖(オヤ)、漢直(アヤノアタヒ)の祖(オヤ)、
また酒を醸(カ)むことを知れる人、名は仁番(ニホ)亦(マタ)の名は
須須許理(ススコリ)等(ラ)参(マヰ)渡り来つ。
URLリンク(kamnavi.jp)

501:日本@名無史さん
09/04/17 04:31:07
と、いつもの捏造w

502:日本@名無史さん
09/04/17 20:22:00
まあ百済の支配層は倭人だったからね。

503:日本@名無史さん
09/04/17 23:35:55
朝鮮半島に稲作が伝わったのは4~5000年くらい前。


1990年金浦佳■(山と見)里泥炭層から採取された稲籾は4,010+-25BPと
報告されており、問題もあるがもし報告が正しいとすれば韓国での稲の
出現は新石器時代中期段階にまでさかのぼる可能性がある。
URLリンク(inoues.net)

最近は紀元前2000年ころ(?)とみられる種籾が、漢江の河口に面
する金浦(キムポ)と一山(イルサン)で発見されました(注)。
URLリンク(www2s.biglobe.ne.jp)

然し1992年には、それよりも早い時期の粳米を韓国の清州市における
家瓦遺跡から大量に発見された。今から4721年(+-50)年前と
推測されているが、同時に出土された樹木年輪測定からすると、
今から5020年前のものだと修正がなされた。
URLリンク(sakura-nokishita.spaces.live.com)

504:日本@名無史さん
09/04/17 23:36:36
朝鮮半島で最古の水田遺跡は前11世紀のオクキョン遺跡で日本よりも古い。



弥生時代の始まりと深く関連している韓国南部だが、最古の水田は
慶尚南道蔚山・オクキョン遺跡で見つかっており、孔列文~突帯文土器が
伴っているところから、前11 世紀頃と考えられている。
URLリンク(www.rekihaku.ac.jp)





505:日本@名無史さん
09/04/17 23:37:37



中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が朝鮮半島の古代遺跡から出土した炭化米でなされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

URLリンク(www.athome-academy.jp)




506:日本@名無史さん
09/04/18 04:39:33
コピペ豚は会話の出来ない池沼だな

507:日本@名無史さん
09/04/18 07:25:25
>>505 かつては朝鮮半島にも鵜飼、鳥居、高低アクセント、なれずし、剣道、茶道、歌舞伎、浮世絵の原型、RM1-b遺伝子の稲は存在したが
朝鮮半島の自然環境に適応できずすべて消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。


508:日本@名無史さん
09/04/18 16:07:03
朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦のプラントオパールも稲と同時に
検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から栽培されていた事に
なってしまい、改めてプラントオパールの調査自体の精度が極めて
疑わしいものであると言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
URLリンク(www.local.co.jp)

509:日本@名無史さん
09/04/18 16:07:55
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(※色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!これらの要素が弥生土器には一切ない。)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(www.shtong.gov.cn)

510:日本@名無史さん
09/04/19 04:51:48
>>507
いいギャグだな

511:日本@名無史さん
09/04/19 17:15:27
高床式『倉庫』は北方アジアから直伝している。




高床式建物はシベリアやアムールにもあるけど何か?

スレリンク(archeology板)





512:日本@名無史さん
09/04/20 05:28:19
コピペ豚は自分が何やってるのかもわかってないな

513:日本@名無史さん
09/04/20 19:13:50
入れ墨は日本では旧石器時代からおこなわれている。


タトゥーは少なくともオセアニア大陸で新石器時代からおこなわれていました。
タトゥーをしたミイラが発見されています。日本では旧石器時代から
おこなわれていたと考えられています。その他の多くの文明でも、
それぞれ独特のタトゥーの様式がありました。
URLリンク(blog.livedoor.jp)
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた



514:日本@名無史さん
09/04/20 19:14:43
日本には世界最古の7000年前の入れ墨の証拠遺物がある。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として記録
されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。
URLリンク(www.ta2.com)
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの

515:日本@名無史さん
09/04/20 19:15:29

世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!

紀元前5,000年の縄文時代の土器から、入れ墨をほどこした人面器が
発見されているんだ。
URLリンク(www.tnc.ne.jp)
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!

516:日本@名無史さん
09/04/20 20:27:42
>>515 たしかアイスマンも入れ墨をしていたがアイスマンより古かったかな?


517:日本@名無史さん
09/04/21 23:47:54
歌垣は百済の帰化人から伝わっている。


翌宝亀元年(770年)3月には、男女230人が歌垣(うたがき)
には百済から河内の地に渡来した王仁(わに)の末孫たちが奉仕した
との記録が残されています。(続日本紀)
URLリンク(www18.ocn.ne.jp)

弓削の道鏡の出身地で称徳天皇がこの地に遊行されて、百済の人々が
歌垣をして慰めたという
URLリンク(www.shiga-miidera.or.jp)

歌垣を行った葛井氏ら六氏は百済からの渡来人を先祖としており
URLリンク(www.furutasigaku.jp)

518:日本@名無史さん
09/04/21 23:49:53
歌垣は現在でも朝鮮半島に見られる。


先生は「韓の国紀行『歌垣』」のなかで、「朝鮮民族には凄味がある、
と、ほとほと思ったのは、この仏国寺の松林で野遊びを見、歌垣の
歌声をきき、そして杖鼓(チャング)のリズムをきいたときであった。
URLリンク(homepage2.nifty.com)

日本にも野遊びはあった。万葉のころ歌垣は絶えた。韓国ではいまも
生活の中にある。
URLリンク(www.ric.hi-ho.ne.jp)
 
韓国の山野では野遊びをする人々に出会うという。司馬さんは
「人々は強烈なリズムにのって群舞しており、さながら万葉時代の
歌垣や踏歌を現(うつつ)に見る思い」がすると書いていた。
URLリンク(www1.coralnet.or.jp)

519:日本@名無史さん
09/04/21 23:50:43
次に、歌垣(かがい・歌會)について語ろう。七七〇年三月、河内の弓削の称徳離宮で歌垣が
行われた。万代にわたる帝と離宮の存続を祈り、周囲六ヶ村男女二百三十人の渡来人が夜を
通して歌い踊った。歌垣は若い男女にとって、他の部落との間の通婚の機会設定に大きな役割を
果たしていた。このころは、山麓の景勝地まで人々が出かけて、賑やかに野外舞踏会を開いた
ものであった。というよりは、日のあるうちは野に遊び、日が暮れると篝火が灯され、酒が
入って宴は佳境に入る。日野の朝鮮坊山では、毎年歌垣が行われていた。
お月見の習慣と併せて、韓半島からの伝来の風習であった。いまも扶餘や慶州あたりの野原では、
夏の夕べに月見の宴を張る。これを野遊とよんでいる。大和の民衆もこの楽しみをまねて、
農業神事に取り入れた。慶州の仏国寺の松林で、水色・桃色・緑・赤など色とりどりの袴・上衣を
着た老若男女が楽しそうに踊るのを見ることができる。杖鼓を膝の前において鞭のようなバチで
打つ。このリズムに合わせて踊る。韓国ではいまでも一般の家庭で使われている楽器である。
日本舞楽の羯鼓に似た楽器である。筑波山麓の歌會や常陸国風土記にある童子女松原の歌會が
知られている。筑波嶺の歌會で詠んだ歌一首と短歌が万葉集巻九にある。この伝統が盆踊りの形で
現在の日本に引き継がれた。
URLリンク(www.tmd.ac.jp)

520:日本@名無史さん
09/04/22 09:12:49
歌垣を根拠に朝鮮起源説を主張するとは間抜けなやつだなあ。

歌垣こそ雲南~江南の先漢民族群のメルクマールなのに。

521:日本@名無史さん
09/04/22 10:23:08
>>519 司馬さんは「人々は強烈なリズムにのって群舞しており、さながら万葉時代の
歌垣や踏歌を現(うつつ)に見る思い」がすると書いていた。

・・・歌垣がチャングのリズムにのって肩を揺すりながら踊り狂うものとは思えないがな。




522:日本@名無史さん
09/04/22 19:22:40
貫頭衣は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中に見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
URLリンク(www.frontstyle.com)

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
URLリンク(homepage1.nifty.com)

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
URLリンク(www.h6.dion.ne.jp)

523:日本@名無史さん
09/04/22 19:23:24
古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
URLリンク(home.att.ne.jp)

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
URLリンク(www.lcv.ne.jp)

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
URLリンク(www.psats.or.jp)

524:日本@名無史さん
09/04/23 22:05:16
鳥居の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している

525:日本@名無史さん
09/04/24 09:54:24
>>524 鳥居のようなものは銅鐸にも描かれていて、東南アジア、シナの雲南地方にもあっただろう。


526:日本@名無史さん
09/04/24 12:18:48
じゃあ、何で飛鳥時代の鳥居もその跡も遺物もない?

鳥居の登場は奈良時代以降。

527:日本@名無史さん
09/04/24 20:36:09
魏志倭人伝には倭人が断髪をしていたなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




男子皆露紒 以木緜招頭

URLリンク(www.g-hopper.ne.jp)
URLリンク(boat.zero.ad.jp)
URLリンク(members3.jcom.home.ne.jp)





528:日本@名無史さん
09/04/25 17:29:02
糸引き納豆の登場は室町時代頃、なれずしは3C頃に朝鮮経由で伝わる。


平安時代の文献にも塩辛納豆の名は残っているが、一般に広まったのは
室町時代以降でこの頃から糸引き納豆も登場しており区別するために
塩辛納豆を久喜と呼び糸引き納豆を単に納豆と呼ぶようになった。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

なれずしの歴史は古くて、紀元前には中国で食べられていたらしいんだ。
それが三世紀頃に日本にも伝わって、奈良時代には文献にも登場する。
URLリンク(www.kouryu.or.jp)

「すし」のルーツは遠く東南アジア、メコン川の地域と言われております。
メコン川周辺地域から中国へ、そして朝鮮半島から稲作の伝播とともに
日本へ伝わってきたと考えられているようです。 
URLリンク(www3.ocn.ne.jp)

529:日本@名無史さん
09/04/25 17:32:34
>>528 朝鮮半島経由といっても半島倭人から列島倭人へ伝えただけだろう。


530:日本@名無史さん
09/04/25 17:39:18
違う。

ほとんどものが朝鮮経由で伝わってきたが、単に九州北部と半島南部の
交易や交流を通じて伝わってきただけの話。

渡来人なんか関係ないの。

531:日本@名無史さん
09/04/26 14:49:36
鵜飼は満州や朝鮮半島にも見られる。


満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
URLリンク(www.jiyuu-shikan.org)

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
URLリンク(www.han.org)

532:日本@名無史さん
09/04/26 14:51:08
しかも日本の鵜飼は中国よりも古い。


鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』神武天皇の条に鵜養部のことが見え、
『古事記』にも鵜養のことを歌った歌謡が載っている。また中国の史書
『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった
漁法として紹介されている。

隋書の書かれた時代には鵜飼いは中国人にとって珍しい漁法だったが、
その後中国においても鵜飼い漁法が定着した。

確実な記録として最古の物は、10世紀の文人・陶穀が残した『清異録』
(965年)において、当塗(安徽省太平府の都市)の漁民が「魚を捕らえる
のに非常に機敏な鵜を使う」と記述されているのが最初である。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

533:日本@名無史さん
09/04/28 23:24:31
>>502百済の支配層は扶余では?

で、天皇家が周王室の末裔であるという根拠は?

534:日本@名無史さん
09/04/29 13:58:33
中国人なんか全然日本人と似てないだろ・・・

535:日本@名無史さん
09/04/29 20:28:55
半月型石包丁(桂葉形雙孔石刀)は遼寧を経由している。


中国遼寧省羊頭窪遺跡.  黒陶系土器 石器(石包丁 磨製石鏃) 紡錐車 骨角器 卜骨
URLリンク(www.museum.kyoto-u.ac.jp)

紅山文化は北方地区の新石器文化の中で重要な文化です。ここでいう北方地区とは、
東北3省(遼寧、吉林、黒龍江)、内蒙古自治区および新彊維吾爾(ウイグル)自治区を指します。
大型石器の中で特徴的なものに、土掘具(耜あるいは犁とも呼ばれる)、桂葉形の双孔石刀があります。
URLリンク(kohkosai.web.infoseek.co.jp)

中国北部の文化が東北部の遼西まで及んでいるいることを知りえた。それに、石包丁が出土していた
のには目を見張った。日本に石包丁が伝わったのはそれから3千年もたった弥生時代になってからなのだ。
URLリンク(kyohiro.blog.ocn.ne.jp)
◆遼寧の石包丁
URLリンク(kyohiro.blog.ocn.ne.jp)

536:日本@名無史さん
09/04/30 14:21:17
>>533
魏略逸文
「自謂太伯之後」

537:日本@名無史さん
09/04/30 17:21:03
なんだただの自称か

538:日本@名無史さん
09/04/30 18:28:33
少なくとも倭人は呉という国や太伯という人物を知っていたんだな。

 東シナ海を往来していなかったら知るはずがないんではないか。


539:日本@名無史さん
09/04/30 18:52:17
『大夫』:周王室および諸侯に仕える小領主

57年
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱『大夫』

238年
景初2年6月 倭女王遣『大夫』難升米等詣郡 求詣天子朝献

540:日本@名無史さん
09/04/30 20:31:34
>>538
倭人が東シナ海を往復していると天皇家は周王室の末裔だったことになるんだ、へーw
>>539
単に中国人が自分たちの位を倭人に当てはめただけじゃね?

541:日本@名無史さん
09/04/30 20:49:34
>>540
建武中元二年    建武中元二年(57年)
倭奴國奉貢朝賀 倭奴国は貢物を奉じて朝賀した。
使人自稱大夫   使人は自ら大夫と称した。

542:日本@名無史さん
09/04/30 21:27:39
じゃあ倭人が中国の位を真似したんでは

543:日本@名無史さん
09/04/30 22:21:15
呉服は百済経由で伝わっている。


また百済国に、「若(モ)し賢(サカ)しき人あらば貢上(タテマツ)れ」
とおほせたまひき。かれ、命(ミコト)を受けて貢上(タテマツ)りし人、
名は和邇吉師(ワニキシ)、すなはち論語十巻・千字文一巻、并(アハ)
せて十一巻(トヲアマリヒトマキ)をこの人に付けてすなはち貢進
(タテマツ)りき。この和邇吉師(ワニキシ)は文首(フミノオビト)等(ラ)の
祖(オヤ)。また手人(テヒト)韓鍛(カラカヌチ)名は卓素(タクソ)、
また呉服(クレハトリ)の西素(サイソ)二人を貢上(タテマツ)り、
また秦造(ハタノミヤツコ)の祖(オヤ)、漢直(アヤノアタヒ)の祖(オヤ)、
また酒を醸(カ)むことを知れる人、名は仁番(ニホ)亦(マタ)の名は
須須許理(ススコリ)等(ラ)参(マヰ)渡り来つ。
URLリンク(kamnavi.jp)

544:日本@名無史さん
09/04/30 23:45:43
>>543
また池沼くんか。

呉服の呉は、三国時代の孫権やらの呉。このスレで云々されている呉は呉越同舟の呉。
何度言われても、同じようなことを繰り返すんだな。

545:日本@名無史さん
09/05/01 00:35:58
>>542
倭人が古の大夫を自称したから訝しがってわざわざ記録した

546:日本@名無史さん
09/05/01 00:40:45
天皇家ってチョン顔か縄文顔ばっかで
全然中国人ぽいのいないけどな

547:日本@名無史さん
09/05/01 00:58:39
>>546
東シナ海沿岸全域に広がっていた倭人は、大和政権の担い手にはならなかったってことかな。

朝鮮・縄文連合政権=大和ってのは、けっこうおもしろいかも。

548:日本@名無史さん
09/05/01 01:53:16
東シナ海沿岸全域に広がっていた倭人 ← こっからウソじゃねえかよw中華誘導サギw

549:日本@名無史さん
09/05/01 02:02:03
国立民族学博物館やらがさんざん言ってきた説に対して単にウソと言われても。

550:日本@名無史さん
09/05/01 04:52:30
コピペしてるやつ
倭人とかに関係あるスレの至る所に張ってるな
気持ち悪いんだけど。

551:日本@名無史さん
09/05/01 17:23:48
コピペ貼るやつに気持ち悪くない奴なんているのか?w

552:日本@名無史さん
09/05/01 20:04:25
朝鮮半島に稲作が伝わったのは4~5000年くらい前。


1990年金浦佳■(山と見)里泥炭層から採取された稲籾は4,010+-25BPと
報告されており、問題もあるがもし報告が正しいとすれば韓国での稲の
出現は新石器時代中期段階にまでさかのぼる可能性がある。
URLリンク(inoues.net)

最近は紀元前2000年ころ(?)とみられる種籾が、漢江の河口に面
する金浦(キムポ)と一山(イルサン)で発見されました(注)。
URLリンク(www2s.biglobe.ne.jp)

然し1992年には、それよりも早い時期の粳米を韓国の清州市における
家瓦遺跡から大量に発見された。今から4721年(+-50)年前と
推測されているが、同時に出土された樹木年輪測定からすると、
今から5020年前のものだと修正がなされた。
URLリンク(sakura-nokishita.spaces.live.com)

553:日本@名無史さん
09/05/01 20:05:47
朝鮮半島で最古の水田遺跡は前11世紀のオクキョン遺跡で日本よりも古い。



弥生時代の始まりと深く関連している韓国南部だが、最古の水田は
慶尚南道蔚山・オクキョン遺跡で見つかっており、孔列文~突帯文土器が
伴っているところから、前11 世紀頃と考えられている。
URLリンク(www.rekihaku.ac.jp)





554:日本@名無史さん
09/05/01 20:06:49



中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が朝鮮半島の古代遺跡から出土した炭化米でなされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

URLリンク(www.athome-academy.jp)




555:日本@名無史さん
09/05/02 21:40:42
朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦のプラントオパールも稲と同時に
検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から栽培されていた事に
なってしまい、改めてプラントオパールの調査自体の精度が極めて
疑わしいものであると言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
URLリンク(www.local.co.jp)

556:日本@名無史さん
09/05/02 21:41:45
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(※色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!これらの要素が弥生土器には一切ない。)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(www.shtong.gov.cn)

557:日本@名無史さん
09/05/03 04:14:11
>>554
推測ですか。
実証しましょう。

558:日本@名無史さん
09/05/03 13:59:15
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。

考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。

それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。

URLリンク(www.athome-academy.jp)

559:日本@名無史さん
09/05/03 18:21:21
どっちにしろ、起源でも何でもない水稲導入の微妙な先後関係になんでそんなにこだわる?

560:日本@名無史さん
09/05/03 20:23:01
高床式『倉庫』は北方アジアから直伝している。




高床式建物はシベリアやアムールにもあるけど何か?

スレリンク(archeology板)





561:日本@名無史さん
09/05/03 20:38:02
普通に呉からも越・楚からも、朝鮮半島経由(黄河文明系や満州系)もそれぞれ全部渡ってきてそれぞれの部族(部落)小国家を形成したんじゃないの
どれが大和王朝を作ったのかは分からんけど

562:日本@名無史さん
09/05/03 20:46:26
普通に呉からも越・楚からも黄河文明系も文物が一切伝わっていない
から来てなんかおりません。

563:日本@名無史さん
09/05/04 02:27:13
弥生時代の環壕集落と環濠集落の関係ってどうなんですかね?
壕の方は北方で、濠の方は南方で系統が違うという。

564:日本@名無史さん
09/05/04 22:08:09
入れ墨は日本では旧石器時代からおこなわれている。


タトゥーは少なくともオセアニア大陸で新石器時代からおこなわれていました。
タトゥーをしたミイラが発見されています。日本では旧石器時代から
おこなわれていたと考えられています。その他の多くの文明でも、
それぞれ独特のタトゥーの様式がありました。
URLリンク(blog.livedoor.jp)
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた



565:日本@名無史さん
09/05/04 22:09:28
日本には世界最古の7000年前の入れ墨の証拠遺物がある。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として記録
されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。
URLリンク(www.ta2.com)
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの

566:日本@名無史さん
09/05/04 22:10:14



世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!

紀元前5,000年の縄文時代の土器から、入れ墨をほどこした人面器が
発見されているんだ。
URLリンク(www.tnc.ne.jp)
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!



567:日本@名無史さん
09/05/04 22:49:55
日本初の高度炉技術による 須恵器ってあるでしょ
これだれか解説してくんないかなー
ウィキによると高度炉技術は、本来は呉越の技術なんだろ。
ほかは、日本が支配していた地域の伽耶から出土してんだろ。
それなのに、なんで朝鮮から伝わる技術ってウィキにあるんだ?
倭が開発したか呉越から伝わった技術でよくね?

568:日本@名無史さん
09/05/05 01:38:06
何でもかんでも半島で都合の良い部分もあったろうが
これからは、そのつけを払う時代だなw

569:日本@名無史さん
09/05/05 20:15:57
歌垣は百済の帰化人から伝わっている。


翌宝亀元年(770年)3月には、男女230人が歌垣(うたがき)
には百済から河内の地に渡来した王仁(わに)の末孫たちが奉仕した
との記録が残されています。(続日本紀)
URLリンク(www18.ocn.ne.jp)

弓削の道鏡の出身地で称徳天皇がこの地に遊行されて、百済の人々が
歌垣をして慰めたという
URLリンク(www.shiga-miidera.or.jp)

歌垣を行った葛井氏ら六氏は百済からの渡来人を先祖としており
URLリンク(www.furutasigaku.jp)

570:日本@名無史さん
09/05/05 20:16:49
歌垣は現在でも朝鮮半島に見られる。


先生は「韓の国紀行『歌垣』」のなかで、「朝鮮民族には凄味がある、
と、ほとほと思ったのは、この仏国寺の松林で野遊びを見、歌垣の
歌声をきき、そして杖鼓(チャング)のリズムをきいたときであった。
URLリンク(homepage2.nifty.com)

日本にも野遊びはあった。万葉のころ歌垣は絶えた。韓国ではいまも
生活の中にある。
URLリンク(www.ric.hi-ho.ne.jp)
 
韓国の山野では野遊びをする人々に出会うという。司馬さんは
「人々は強烈なリズムにのって群舞しており、さながら万葉時代の
歌垣や踏歌を現(うつつ)に見る思い」がすると書いていた。
URLリンク(www1.coralnet.or.jp)

571:日本@名無史さん
09/05/05 20:17:41
次に、歌垣(かがい・歌會)について語ろう。七七〇年三月、河内の弓削の称徳離宮で歌垣が
行われた。万代にわたる帝と離宮の存続を祈り、周囲六ヶ村男女二百三十人の渡来人が夜を
通して歌い踊った。歌垣は若い男女にとって、他の部落との間の通婚の機会設定に大きな役割を
果たしていた。このころは、山麓の景勝地まで人々が出かけて、賑やかに野外舞踏会を開いた
ものであった。というよりは、日のあるうちは野に遊び、日が暮れると篝火が灯され、酒が
入って宴は佳境に入る。日野の朝鮮坊山では、毎年歌垣が行われていた。
お月見の習慣と併せて、韓半島からの伝来の風習であった。いまも扶餘や慶州あたりの野原では、
夏の夕べに月見の宴を張る。これを野遊とよんでいる。大和の民衆もこの楽しみをまねて、
農業神事に取り入れた。慶州の仏国寺の松林で、水色・桃色・緑・赤など色とりどりの袴・上衣を
着た老若男女が楽しそうに踊るのを見ることができる。杖鼓を膝の前において鞭のようなバチで
打つ。このリズムに合わせて踊る。韓国ではいまでも一般の家庭で使われている楽器である。
日本舞楽の羯鼓に似た楽器である。筑波山麓の歌會や常陸国風土記にある童子女松原の歌會が
知られている。筑波嶺の歌會で詠んだ歌一首と短歌が万葉集巻九にある。この伝統が盆踊りの形で
現在の日本に引き継がれた。
URLリンク(www.tmd.ac.jp)

572:日本@名無史さん
09/05/06 22:30:09
貫頭衣は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中に見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
URLリンク(www.frontstyle.com)

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
URLリンク(homepage1.nifty.com)

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
URLリンク(www.h6.dion.ne.jp)

573:日本@名無史さん
09/05/06 22:31:03
古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
URLリンク(home.att.ne.jp)

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
URLリンク(www.lcv.ne.jp)

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
URLリンク(www.psats.or.jp)

574:日本@名無史さん
09/05/07 20:21:11
鳥居の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している

575:日本@名無史さん
09/05/08 22:20:48
魏志倭人伝には倭人が断髪をしていたなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




男子皆露紒 以木緜招頭

URLリンク(www.g-hopper.ne.jp)
URLリンク(boat.zero.ad.jp)
URLリンク(members3.jcom.home.ne.jp)





576:日本@名無史さん
09/05/09 15:31:24
「糸引き納豆」の登場は室町時代頃、「なれずし」は3C頃に朝鮮経由で伝わる。


平安時代の文献にも塩辛納豆の名は残っているが、一般に広まったのは
室町時代以降でこの頃から糸引き納豆も登場しており区別するために
塩辛納豆を久喜と呼び糸引き納豆を単に納豆と呼ぶようになった。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

なれずしの歴史は古くて、紀元前には中国で食べられていたらしいんだ。
それが三世紀頃に日本にも伝わって、奈良時代には文献にも登場する。
URLリンク(www.kouryu.or.jp)

「すし」のルーツは遠く東南アジア、メコン川の地域と言われております。
メコン川周辺地域から中国へ、そして朝鮮半島から稲作の伝播とともに
日本へ伝わってきたと考えられているようです。 
URLリンク(www3.ocn.ne.jp)

577:國學院大學卒
09/05/09 22:01:56
子いわく、泰伯はそれ至徳というべきのみ。

578:日本@名無史さん
09/05/10 18:30:20
鵜飼は満州や朝鮮半島にも見られる。


満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
URLリンク(www.jiyuu-shikan.org)

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
URLリンク(www.han.org)

579:日本@名無史さん
09/05/10 18:31:05
しかも日本の鵜飼は中国よりも古い。


鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』神武天皇の条に鵜養部のことが見え、
『古事記』にも鵜養のことを歌った歌謡が載っている。また中国の史書
『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった
漁法として紹介されている。

隋書の書かれた時代には鵜飼いは中国人にとって珍しい漁法だったが、
その後中国においても鵜飼い漁法が定着した。

確実な記録として最古の物は、10世紀の文人・陶穀が残した『清異録』
(965年)において、当塗(安徽省太平府の都市)の漁民が「魚を捕らえる
のに非常に機敏な鵜を使う」と記述されているのが最初である。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

580:日本@名無史さん
09/05/11 02:31:19
魏志東夷伝 邑婁    >>朝鮮人の先祖発見<<

穴居生活、豚の飼育、住民は不潔で家の真ん中に便所を作りそれを囲むように暮らしている。
・・・、これは明治時代の日本人の朝鮮観察とほとんど同じだ。

射撃が上手・・・これも同じだ。
漢の時代から夫余の家来となっていた。夫余が重い税を課したので黄初年間(220年~226年)には反乱を起こした。

掟や習わしにはもっともルールが欠けている民族である。
・・・これは朝鮮人の先祖に間違いない。

>>204 『晋書』粛真・邑婁伝には下記も載ってるよ!

坐るときは両脚を投げ出して座り、足を脇に挟んで(猿が坐って物を食べる姿勢)
風俗は皆、髪を編み、布で丈の短い上着(チョゴリの事か?)を作る。


581:日本@名無史さん
09/05/11 13:02:37
コピペ厨消えてよ

582:日本@名無史さん
09/05/11 20:22:40
半月型石包丁(桂葉形雙孔石刀)は遼寧を経由している。


中国遼寧省羊頭窪遺跡.  黒陶系土器 石器(石包丁 磨製石鏃) 紡錐車 骨角器 卜骨
URLリンク(www.museum.kyoto-u.ac.jp)

紅山文化は北方地区の新石器文化の中で重要な文化です。ここでいう北方地区とは、
東北3省(遼寧、吉林、黒龍江)、内蒙古自治区および新彊維吾爾(ウイグル)自治区を指します。
大型石器の中で特徴的なものに、土掘具(耜あるいは犁とも呼ばれる)、桂葉形の双孔石刀があります。
URLリンク(kohkosai.web.infoseek.co.jp)

中国北部の文化が東北部の遼西まで及んでいるいることを知りえた。それに、石包丁が出土していた
のには目を見張った。日本に石包丁が伝わったのはそれから3千年もたった弥生時代になってからなのだ。
URLリンク(kyohiro.blog.ocn.ne.jp)
◆遼寧の石包丁
URLリンク(kyohiro.blog.ocn.ne.jp)

583:日本@名無史さん
09/05/12 06:44:26
俺の先祖は始皇帝と劉邦だから皆さんとは違うね

584:日本@名無史さん
09/05/12 11:26:48
>>567 ウィキによると高度炉技術は、本来は呉越の技術なんだろ。
ほかは、日本が支配していた地域の伽耶から出土してんだろ。
それなのに、なんで朝鮮から伝わる技術ってウィキにあるんだ?

・・・「朝鮮から」といっても半島倭人から列島倭人へ伝わった文化も多いだろうな。
それなら倭人同士の交流にすぎないんだが。



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