【初心者】スレッド立てる前に質問をPart23【歓迎】at HISTORY
【初心者】スレッド立てる前に質問をPart23【歓迎】 - 暇つぶし2ch2:日本@名無史さん
08/09/19 19:41:22
過去スレ
Part1 URLリンク(academy.2ch.net)
Part2 URLリンク(academy2.2ch.net)
Part3 スレリンク(history板)
Part4 スレリンク(history板)
Part5 スレリンク(history板)
Part6 スレリンク(history板)
Part7 スレリンク(history板)
Part8 スレリンク(history板)
Part9 スレリンク(history板)
Part10 スレリンク(history板)
Part11 スレリンク(history板)
Part12 スレリンク(history板)
Part13 スレリンク(history板)
Part14 スレリンク(history板)
Part15 スレリンク(history板)
Part16 スレリンク(history板)
Part17 スレリンク(history板)
Part18 スレリンク(history板)
Part19 スレリンク(history板)
Part20 スレリンク(history板)


3:日本@名無史さん
08/09/19 19:42:57
Part21 スレリンク(history板)
Part22 スレリンク(history板)

4:日本@名無史さん
08/09/19 19:43:58
終了

5:日本@名無史さん
08/09/19 20:17:07
藤原兼通はなぜ「忠義公」という諡を贈られたのですか?
兼通の生前の行動に「忠義」があったとは思えません。

6:日本@名無史さん
08/09/19 20:30:23
一万石ってどのくらい位の広さなの?
そもそもなんの単位?

7:日本@名無史さん
08/09/19 20:38:59
調べてもわからないので教えてください。
1876年茨城、三重、愛知、岐阜県などで発生した農民一揆って何ですか?
国会の早期開設に反対した長州出身の人って井上馨ともう一人誰ですか?
1886年旧自由党の星亨らが唱えたことって何ですか?
教えてください。

8:前スレ993
08/09/19 20:46:47
前スレの993です、宜しくお願いします。
「江戸時代の旅や交通」それも初期のものと、「島原の乱」について調べています。
包括的に学ぶことの出来る本かサイトを教えて下さい。


9:日本@名無史さん
08/09/19 21:14:19
>>6容積.

10:日本@名無史さん
08/09/19 23:05:46
>>6
1石=約180.39リットル

11:日本@名無史さん
08/09/20 00:13:55
>7
誘導
URLリンク(academy6.2ch.net)

12:日本@名無史さん
08/09/20 00:22:26
>>6
「加賀百万石」などの場合は、その大名の領地の生産力。
畑や屋敷も米に換算されて合計される。
面積に単位面積あたりの基準値をかけて算出する。

田と畑の違いや土地の質の高低によって
単位面積あたりの基準値が異なるので、
石高から領地の広さはわからない。

13:武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s
08/09/20 00:26:13
交通史の大辞典がちょっと前に吉川弘文館から出たんでそれで参考文献論文チェックしろ。
そいでをそれらを読破。話はそれからだ。

14:日本@名無史さん
08/09/20 01:59:46
前スレ994
「水菓子」とか言わなかったっけ?

15:日本@名無史さん
08/09/20 04:45:26
>13
オイッちょっと……

 「日本交通史辞典:吉川弘文館」
 URLリンク(www.amazon.co.jp)

……26000円たぁな。

16:日本@名無史さん
08/09/20 12:52:55
そのコテはスルー推奨

17:日本@名無史さん
08/09/20 17:21:59
藤原田麻呂が死んでから藤原冬嗣が左大臣に任命されるまで、
40年間以上も左大臣が置かれなかったのは何故ですか?

18:日本@名無史さん
08/09/20 18:38:23
>>8
初期はよくわからないが
青柳 周一 「近世旅行史研究の成果と課題」(『歴史評論』642,2003)
深井甚三『江戸の旅人たち』(吉川弘文館,1997)
金森敦子『江戸庶民の旅―旅のかたち・関所と女』(平凡社新書,2002)
神崎宣武『江戸の旅文化』(岩波新書,2004)

島原の乱についてはこのへんから参考文献をたどってみては?
神田千里『島原の乱』(中公新書,2005)
大橋幸泰『検証島原天草一揆』(吉川弘文館<歴史文化ライブラリー>,2008)

19:日本@名無史さん
08/09/20 23:34:05
記事入力 : 2007/05/18 18:46:41
「使用後は食べられる徳利?」

18日午後、ソウル江南区三成洞COEX新館で行われた第42回発明の日記念優秀発明品展示会で、
観覧客がヒュデム食品のイカ徳利を見ている。

このイカ徳利とお猪口は使用後に焼いて食べることができる。
URLリンク(www.chosunonline.com)

優秀発明品展示会で…イカ徳利?

20:日本@名無史さん
08/09/21 11:56:54
日本史でいう「総本山」とは
例えば「比叡山」ではなく
「比叡山延暦寺」などの寺のことですか?

21:日本@名無史さん
08/09/21 15:40:14
>>20
そうです。
似たようなものに「五山」がありますが、これも寺を指しますよね。
寺と山とは密接な関係があったことから呼ばれるようになったものです。

22:日本@名無史さん
08/09/21 20:52:51
日本は既に、数十万人規模の人民解放軍特殊工作部隊に占領されているも同然。

日本には「愛国教育」を施された反日思想の固まりの支那人が、公称100万人超、不法入国者を
含めれば200~300万人以上も存在し、日本全国、社会の各階層に散らばってる。
しかも彼らは、まともなのは兵役を通じ人民解放軍、まともでないのは蛇頭を筆頭とする地下犯罪組織と
何らかの接点を持ち、日本人と違って、横のつながりを保っている(これらは正確には入管法違反だが
何故か警察の取り締まりは全くない)。
有事の際に、そのうちのごく一部が「後方撹乱」「サボタージュ工作」しただけで、自衛隊は機能不全
に陥るだろう。そもそも、国内治安を守るべき、公安・警備警察には既に支那政府の「工作資金」
が入っている可能性が高く、支那人の武装蜂起鎮圧に出動する自衛隊を道路交通法違反で妨害する
可能性すら懸念される。

恐怖の統一戦線工作 中国人留学生は10万人
URLリンク(jp.youtube.com)
「支那人1000万世帯移民」は日本滅亡の最終章
1URLリンク(jp.youtube.com)
2URLリンク(jp.youtube.com)
3URLリンク(jp.youtube.com)
4URLリンク(jp.youtube.com)
5URLリンク(jp.youtube.com)
6URLリンク(jp.youtube.com)


23:日本@名無史さん
08/09/22 22:17:14
>>17
藤原氏に有力者がおらず
天皇の政治権限が強い時代だったから
左大臣がいる時代は
藤原氏の影響が強い時代ともいえる

24:日本@名無史さん
08/09/22 23:42:35
質問なんですが、室町時代の惣村っていつごろ衰退したんですか?
また、その衰退するきっかけとなった具体的な出来事などがあったら教えてください。

25:日本@名無史さん
08/09/23 00:19:48
>24
応仁の乱だなw。

26:日本@名無史さん
08/09/23 03:31:04
おいも質問でごいす。

軍記などにある陣形や大会戦は近代戦ではまったく見かけませんが、
いつからどうしてなくなってしまったのでしょうか?
要害としての城もなくなっているように思います。

27:日本@名無史さん
08/09/23 04:16:56
>>26
銃や大砲の射程や精度や連写性能の向上によるんじゃないですかたい。
少なくとも、群がっていたら機関銃で薙ぎ倒されるだけだろうし、城は大砲をぶちこまれたらお仕舞いでごわしょう。

28:日本@名無史さん
08/09/23 14:36:40
>>24
衰退してません。
室町時代の惣村で培われた自治力は、
江戸時代以降にも継承されます。
村請(年貢の納入を村として請け負う)がその例です。
戦国大名も、村落から税を取り立てる一方で、
村の自治の活用や農民の保護に力を入れています。

村落レベルでは室町後期から江戸時代まで連続している、
というのが現在最も有力な見解だと思います。

29:日本@名無史さん
08/09/23 20:59:07
鎖国時代、オランダ語の通訳の仕事があったそうですが、
オランダ側には日本語を覚えて話すことのできた人や通訳は
いなかったのでしょうか?

30:日本@名無史さん
08/09/23 21:24:26
>>24の質問に似ているんですが質問させてください。
室町時代から惣が現れましたが、その惣というシステムの弱点というか、
欠点があったらぜひ教えてください。

31:日本@名無史さん
08/09/23 21:52:06
>>29
オランダ商館長が雇っていたようです。
平戸商館時代にはリーフデ号の元船員も通訳として
雇われていたようです。
日本人も多く雇われています。


32:日本@名無史さん
08/09/23 21:58:24
>>30
一つには惣の利益が最優先されることが挙げられるでしょうか。
時には惣のために個人の利益が無視されることもありました。
また、惣の利益を守るため、他の惣との抗争が激化する可能性
も孕んでいました。水を巡って村同士で殺し合い、なんて話も
当時は珍しくありません。

弱点、と言い切れるかは微妙ですが、惣とは言っても大抵は
内部に富める者と貧しい者、正式な構成員とそれ以外の構成員との
内部対立を含んでいたことも挙げられます。

33:日本@名無史さん
08/09/23 22:43:43
牛頭天王について、質問なのですが
最初、疫病を流行らす神だったのが、
平安時代に、疫病を流行らさないために、祀られ、
慰撫するために、お祭りが行われるようになり、
いつしか、本来とは逆に「除疫神」とされるようになり、
菅原道真が祟り神になったときにおよび、それを抑えるために
天満宮に置かれる事になったと理解しても、間違いではないでしょうか?

34:日本@名無史さん
08/09/23 22:56:23
織田信長は伊勢・長島や越前では降伏を許さず、一向宗の信徒を皆殺しにしましたが、
一向宗の本拠地である石山本願寺は降伏を許しました。この違いは何故でしょうか?

35:日本@名無史さん
08/09/23 23:01:40
両方とも祟り神なのだから、祟り神を祭り上げて福の神とする、という意味で
同一視、または同一グループ内の上司と部下という関係を設定することになる。
だから一緒に祭られたのさ。

ギリシャ神話で、同じ海の神で信仰地域の異なったポセイドンとトリトンが
いつの間にか親子ということになっていた、という例もある。

36:日本@名無史さん
08/09/23 23:11:25
>>33
5行目まで異論ないのですが、
6・7行目との繋がりがわかりません。
牛頭天王が天満宮に祀られている、ということですか?
天満宮の祭神は菅原道真その人=天神で、牛頭天王が必ず
天満宮に祀られているというわけではない(確かに牛はいます)
と思いますが、もしそのようなソースなり根拠があれば
教えてください。
私の不勉強でしたら申し訳ありません。

37:日本@名無史さん
08/09/23 23:27:05
>>34
まず、一向宗=殲滅されるべき対象、という構図に
こだわるべきでない、という神田千里氏の指摘は重要と思います。

伊勢長島や越前の一揆は信長の統治に武力で反抗した者たちで、
彼らの掃討には他の宗徒への見せしめの意味も強かったと思います。
一方で石山本願寺・顕如光佐に関しては、武力による掃討よりも
交渉による決着を信長が選択した、という政治的な意味合いが強い
ように思います。全一向宗を掃討するのは絶大な困難が伴いますので、
教団を利用した統制を狙ったのではないでしょうか。
顕如光佐にしても、秀吉には服従を貫いて宗教統制に協力しています。
また、広大な寺内町も付随していたので、石山本願寺を丸ごと
接収することも狙ったものと思われます。


38:日本@名無史さん
08/09/23 23:28:25
>>34
簡単にぶっちゃけると、石山本願寺は殲滅が出来なかったから。
後、本拠地である要害石山に籠もっていられてこそ、各地で信徒を煽れたわけで、石山を失う以上下手な動きは出来なくなる。
そうすると、殲滅する必要も無くなる。

39:日本@名無史さん
08/09/24 00:10:41
>>34
簡単に言うと、
本拠地以外の一向宗=ゲリラとその支援者
本願寺=本国政府
見たいな関係だったから。

ゲリラを殲滅するには補給を絶てばいいわけだが、ゲリラ本隊とその支援者を両方とも始末できる
信徒の皆殺しはその手っ取り早い手段だった。
一方本国政府たる本願寺相手なら交渉ができるし、下手に相手国を滅ぼしてしまえばその後始末
にまた足を取られるので、皆殺しになどできなかった。

40:日本@名無史さん
08/09/24 00:22:18
一味神水について、
その起源がいまいちわかりません。
なんで紙を燃やして飲んだの? というところがどうもはっきりしません。
どなたかわかる人がいたら教えてください。

41:日本@名無史さん
08/09/24 00:39:33
>>40
疑問にお答えできているかどうかわかりませんけれど。

燃やされるのはただの神ではなく、一同が心を一つにする旨を書き、
それを神に誓った「起請文」です。起請文には神の名が記され、
その神に対して約束を破った際に罰を受けることを誓うのです。
つまり、神の宿った紙なのです。
そして、一味神水には、神に供えられた神聖なが用いられます。
つまり、紙(の灰)を水に混ぜて飲むという行為は、人と神の「共食」を通じて、
人と神とか一体化する行為に他ならないわけです。

飲むのには灰が適していますし、火も神聖なものですから、
燃やすようになったのでしょうか。

詳しく知りたい場合は勝俣鎮夫『一揆』をご参照ください。

42:日本@名無史さん
08/09/24 01:15:00
>30
複数のスレに同時期同種の質問が行われているけど皆別人なのだろうか?
質問文から判断すると高校の宿題なのかな・・・本を一冊書ける分量の説明が必要であることに質問者は気づいていないようだが

(今日的な意味での)女性の権利が認められていないとでも書いておけば?
授業で先生が何か言っていると思うけど
・惣村の意思決定の場に参与できない
・人権財産権がない
自分で書いておいてなんだが、突っ込もうと思えば↑は幾らでも突っ込めるけど(苦笑

43:日本@名無史さん
08/09/24 11:28:12
木綿普及以前の民衆は麻の服で真冬を過ごしたはずですが
かなり大変じゃないですか?
『疫病と世界史』に欧州の1300年代の農民って木材も羊毛も不足していて 
冬は体を寄せ合って耐えるしかなかった、それがペストの感染経路の一つだったとか
書いてあったけど、欧州より気温は高くて木材もあったとしても
野外の活動は制限されそうですよね。寝るときも寒そう。
重ね着しまくったら大丈夫だったりするのかな。


44:日本@名無史さん
08/09/24 13:00:59
年表には何々時代って書いてありますよね 室町時代とか江戸時代とか
あれは後で誰かが決めたものだとおもうのですが今現在は何時代になりそうですか
何か有力候補とかありますか? あと年号の明治とか昭和とかは大政奉還
がおこなわれて天皇ごとに決まるようになったものでそれまでは徳川将軍
ごとに慶応とかなんたらとか決まってたようにイメージしてるのですが
鎌倉以前は天皇ごとに 鎌倉時代は源氏の将軍ごとに 室町時代は足利将軍ごとに
であってますかね それと戦国時代と安土桃山時代はどうなってるのでしょうか
ちょっと気になってるものでどなたかお願いします


45:日本@名無史さん
08/09/24 13:38:39
>>44
「東京時代」でしょうか。
主たる政治拠点の名前を用いられることが多いですので。

江戸時代以前に将軍ごとに元号が決まっていた、というイメージは
残念ながら間違っています。改元は天皇の専権事項であり、
将軍の代替わりとは原則として関係ありません。
(幕府から改元を促すことはありましたけれど。)
例えば飢饉や疫病が流行った時や甲子年(戦乱の起こる年とされる)・
辛酉年(革命の起こる年とされます)など、頻繁に改元が行われていた
時期もありました。

例えば足利義満が征夷大将軍だった時代には、
応安・永和・康暦・永徳・至徳・嘉慶・康応・明徳・応永(北朝のみ)
の9つの元号が使用されています。

46:日本@名無史さん
08/09/24 13:48:50
弘法大師を祀ってるお堂にある紋って何ですか?
五鈷杵がクロス状に交叉したやつです

47:日本@名無史さん
08/09/24 14:20:57
徳川16代将軍で一番ひどいのって誰ですか?
ローマ皇帝でいうネロとかカリギュラみたいに
無茶苦茶やった将軍はいないんですか?

48:44
08/09/24 14:36:30
>>45
なるほど東京時代ですか 確かに鎌倉とか室町とかみんなそうですからそうなりそうですね

元号に関しては将軍とはまったく関係なく天皇ごとでもないということで
まったくの思い違いでしたw 慶喜のときが慶応だったはずとか考えたのが
まずかったようですw

丁寧に書いていただきありがとございました 大変勉強になりました

49:日本@名無史さん
08/09/24 17:24:13
東京時代が終わらないことを祈るよ…

50:日本@名無史さん
08/09/24 17:48:31
>>47
16代目というのは洒落。政権を担うという点では15代までを数える。

それはともかく、徳川幕府将軍で評判悪いのは綱吉(5代目)だろうな。

51:日本@名無史さん
08/09/24 21:57:56
>>36
いえ、「なぜ天満宮に牛が?」の疑問のレスを見たことがあったので、
一応天満宮では、道真の棺を引いた牛が、そこで動かなくなったからという説明でしたが、
それをそのまま信じてよいのだろうかと

御霊信仰の流れで、「すさまじい怨霊」と化した道真を抑えるためには、
祀るだけでは難しいと考え、その当時強く信じられていた、
除疫神の牛頭天王を「牛の像」として(神そのままを送ると、道真がさらに怒る?)
置いたのでは?と自分ながらに解釈しました。

やっぱり、トンデモ説ですよね・・・すいません

52:日本@名無史さん
08/09/24 22:42:52
>43
紙子浪人が貧しさの比喩として用いられることもありますが
厚手の腰の強い和紙を張り合わせて衣服としたものが保温性が良いようです


時代や地域によっては禁止されることもありますが動物の皮を衣服に用いることもあります

53:日本@名無史さん
08/09/24 22:49:30
前スレ>>989

遅くなりましたが、回答ありがとうございます。
wikiの記述はあまり信用できないとの事で避けていたのですが、読んでみました。
そんなに間違ってはいないものと考えていいでしょうか。

なるほど、華族の屋敷が集まったような高級住宅街、という風景は日本にはないわけですか。
考えてみれば、イギリスでもドイツでも、貴族の屋敷が集まった町なんてありませんしね。
屋敷の周囲は、確かに一等地になりそうなので、華族屋敷の位置を調べてみます。

54:45
08/09/25 00:14:40
>>47
遊び呆けて子どもたくさん作って幕府財政を傾けた、
という点では11代の家斉も有名ですね。
ただ、江戸幕府は老中を筆頭に官僚機構がかなり発達して
いましたので、暴君が生まれにくかったのでしょうか、
ネロやら桀紂みたいなわかりやすい暴君はいませんね…。

>>48
恐れ入ります。

>>49
第三新東京時代なんて…怖すぎます

>>51
天満宮の牛に牛頭天王を重ね合わせていなかった、
という確証は全くないのですが、牛そのものが古代から中世に
かけては神聖なものと見なされていたようですので、
特別に牛頭天王に引き付けなくてもよいのかな、と思います。

55:日本@名無史さん
08/09/25 16:51:51
江戸時代の身分制度は士農工商となっていましたが
農民が2番目というのは形だけですよね
それとも何か身分の差がはっきり出るようなことが実際にあったのですか?

56:日本@名無史さん
08/09/25 19:16:46
>>54
天満宮の牛は、「ふつうの牛」と考えるのが、妥当という事ですね

怨霊を封じ込めるためには、一応「祀る」のみで完結していると考えて
いいのでしょうか?

地元民としては、
道真は、内裏に雷を落としたくらいですから、
通常とは違う、封印がかけられているくらいがうれしいのですけど
まあ仕方ないですね

57:日本@名無史さん
08/09/25 21:49:03
>>56
これも確証があるわけでないのですが、
日本の場合は怨霊を封じ込めたり滅したりするよりも、
怨霊をなだめて鎮めて御霊(神)に変えてしまう所に
特徴がありますので、「祀る」ことが最大の「封印」ではないでしょうか。

58:日本@名無史さん
08/09/25 21:51:35
「教えてクン」は、孤高の戦士である。
相手のことを考えるようでは教えてクン失格というものだ。
以下のような行動が、望ましい。
初心者であることを高らかに宣言し、初心者向けの丁寧で分かりやすい説明を強要する。
専門用語の使用を禁じておくとさらに効果的である。
簡潔な説明を禁じられたヲタクどもは、同じ内容を説明するのに、何倍もの労力を強いられる。
自分は努力せず、相手には多大な努力をさせることこそが「教えてクン」の真骨頂である。マルチポストも有効である。
そのBBSを信用していないことを明確に示せる。
「どうせ、お前らじゃ分からんだろう。」という意志表示として高く評価できる。
もちろんマルチポストの非礼をあらかじめ詫びてはならない。
それでは、単なる「急いでいる人」になってしまう。
それは、教えてクンではない。質問のタイトルは、「教えてください。」で良い。
タイトルを読んだだけでは「何に関する質問」か全く分からない。
そういう努力は、答える人間にさせれば良いのだ。
とにかく、答える人間が答えやすいように気を使って質問してはならない。
傲慢で不遜な態度が必須である。「聞きたいことがあります。」など、プロの仕事であろう。

最後に、言うまでも無いことだとは思うが、答えてくれた人達に礼の言葉を返すなど言語道断である。
せっかく「教えてクン」を貫いてきたのに、最後にお礼を言っているようでは、画竜点睛を欠いていると言わざるを得ない。
質問だけしておいて、後はシカトが基本である。
上級テクニックとして、「そんなことは知ってます。バカは黙っててください。」とか、「そこまで初心者じゃありません。」などと言って、回答者の神経を逆なでしておけば完璧である。

以上のことを踏まえて質問すれば、君も立派な「教えてクン」である。
ビバ!教えてクン! 教えてクンに栄光あれ!!

59:日本@名無史さん
08/09/26 16:15:16
江戸時代の農村では、罪(殺人とか強姦とか)を犯した人間に対しては誰が裁いていたんでしょうか
幕府の役人?それとも村の有力者とか?
どなたかご教授願います

60:日本@名無史さん
08/09/26 20:33:21
URLリンク(blogs.yahoo.co.jp)
これを見たんだけど古代の交流ってどんな感じなの?
教えてエロい人

61:日本@名無史さん
08/09/26 20:35:06
世界中の神話で互いに類似性が指摘されているが、確かな証拠は何もない。
ほぼ確実なのは大陸の思想が影響していること。

62:日本@名無史さん
08/09/26 20:47:06
>>60
出土品などから、古代にも海を介して半島・大陸・南洋と
盛んに交流が行われていたことはわかっています。
おそらく神話の成り立ちにも影響を受けているでしょう。

が、そこに書かれているのはサッカー半島起源説くらい強引です…

63:日本@名無史さん
08/09/26 20:48:31
そっか強引なのね

64:日本@名無史さん
08/09/26 21:23:51
>>57
何度もすいません

道真ですが、道真は北野に住んでいたんですよね
で、道真が雷神に祀られるより前に、その地には
火雷大神が祀られていたのですか?

65:日本@名無史さん
08/09/27 00:38:05
790 名前:世界@名無史さん 投稿日:2008/09/26(金) 20:16:37 O
blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara//1554994.html
これを見たんだが日本史いってくる
791 名前:世界@名無史さん 投稿日:2008/09/26(金) 20:18:41 0
カスペルスキーでトロイ反応あり。踏むのは自己責任で

66:日本@名無史さん
08/09/27 01:41:30
何故
桓武天皇の蝦夷討伐は東北地方までで終わったのですか?
その先の北海道にまで行かなかったけど

67:日本@名無史さん
08/09/27 03:10:01
>>66
フェリーも青函トンネルもなかったから、陸軍では海峡を越えた先は手も足も出せないし、
だからといって、大量の渡し船を作って海を渡るほどのメリットも認められなかったから。

68:日本@名無史さん
08/09/27 04:24:14
>>66
北海道どころか、東北地方も全て制圧したわけではありません。
現在の青森や岩手の中・北部までは平定できていません。

その理由は、当時蝦夷征伐と平安京の造成が大きな負担となって
いたため、反対意見が力を増していたためです。
藤原緒嗣が「方今天下の苦しむ所は、軍事と造作なり。」と主張した
徳政論争によって、蝦夷征服は中途でやめられました。

69:日本@名無史さん
08/09/27 04:27:29
>>59
基本的に幕府・藩の役人だったと思います。
強姦などは村内で内済(示談)で済ませ、
表沙汰にされなかったことも多かったようです。
当時の村は一定度の自立性を保っていましたので。

70:日本@名無史さん
08/09/27 07:41:07
>>59
小説だけど、佐藤雅美の桑山十兵衛シリーズを読むと関八州の取り締まりの
様子が分かりやすい。テレビでもやっていたけど。
江戸時代ってのは、徒食する武士を食わせるということでは大きな政府だけ
ど、行政そのものは小さな仕組みだったと思える。

71:日本@名無史さん
08/09/27 15:57:30
多分歴史っていうジャンルで無いと思うんだけど
日本の昔、100年前とか、200年前、500年前、未開時代の風景、ビジュアルの移り変わりを知りたいんだ
写真とか、絵、想像図とか
そういうジャンルを受け付けてくれる板とかサイトとか
ネット外で勉強するにはどこに当たれば良いだろうか

72:59
08/09/27 20:33:28
>>69-70
遅れましたが、ありがとうございました

73:日本@名無史さん
08/09/27 23:53:25
>>71
どういうものをお探しかよく分かりませんので、
とりあえず当たり障りのない有名所を挙げておきます。

東京大学史料編纂所 史料編纂所所蔵荘園絵図摸本データベース
URLリンク(www.hi.u-tokyo.ac.jp)

国立歴史民俗博物館 錦絵データベース
URLリンク(www.rekihaku.ac.jp)

国立国会図書館 写真の中の明治・大正
URLリンク(www.ndl.go.jp)

74:日本@名無史さん
08/09/28 03:18:38
>>69-70
割り込みだけど、名主とか大家とかが行政の責任と権限を持っていて、司法の犯罪の取り扱いも、
ある程度の範囲までは自分の責任で行って、その範囲を超える「手に余る」事柄だけ、江戸なら
奉行所が扱った、とかじゃなかったでしたっけ?

> 当時の村は一定度の自立性を保っていましたので。
というか、中央集権の現代とは全く違って、ムラなどの単位が、行政や司法の権限を与えられると
同時に責任も負わされていて、「自立性」というか「自律性」を保たさせられていた、
とかではなかったでしたっけ?

75:69
08/09/28 03:43:29
>>74

> 割り込みだけど、名主とか大家とかが行政の責任と権限を持っていて、司法の犯罪の取り扱いも、
ある程度の範囲までは自分の責任で行って、その範囲を超える「手に余る」事柄だけ、江戸なら
奉行所が扱った、とかじゃなかったでしたっけ?

今、手元に『日本史講座』6近世社会論(東京大学出版会、2005)
くらいしかないので細かいところまで確認できませんけれど、
殺人はまさに「手に余る」ケースとして幕府が管轄したようですよ。
(もちろん村ぐるみで隠蔽されて発覚しなければどうしようもないですが…)
独自の村掟に従って村内部で処罰されることもありましたが、
基本的に幕府は私的制裁を否定していました。
(実際には行われていたのですが、幕府もある程度の自立性は
認めざるをえず、黙認をしていました。)

> というか、中央集権の現代とは全く違って、ムラなどの単位が、行政や司法の権限を与えられると
同時に責任も負わされていて、「自立性」というか「自律性」を保たさせられていた、
とかではなかったでしたっけ?

詳しく補足していただいてありがとうございます。


76:日本@名無史さん
08/09/28 14:50:58
元亀3年(1572)三方ケ原の一戦で敗れて意気消沈している徳川軍の前に、またもや甲州武田軍が来襲してきた。
家康は、すっかり元気を失くしている所将を見渡して、酒井忠次に海老すくいの踊りをいたせと命じた--という伝承があるそうですが
これはどのくらい真実なんでしょうか?

77:日本@名無史さん
08/09/28 20:31:38
どこに聞けばいいのか分からなかったんですがもしご存知の人居たら教えてください。

おばあちゃんからよく「悪さをすると、えんしれんじ におじいちゃんに落っことされた。」
と聞いたんですがググッても出てきません。自分の聞き間違いなのかおばあちゃんのいい間違いなのか分からないのですが
何の事か判る人いらっしゃいますか?

多分明治から大正期にかけて大きいうちなんかにあった倉庫かなんかじゃないかとは思うのですが・・・

78:日本@名無史さん
08/09/28 21:15:47
>>75
いや、>>74は割り込み質問なんですが、合ってますか。

> 基本的に幕府は私的制裁を否定していました。
これは、ある程度以上の重罪についてのみの話ですよね?

79:日本@名無史さん
08/09/29 21:59:12
盛者必衰は、本当ですか?

80:日本@名無史さん
08/09/30 00:51:51
>>79
そうです。 (ー人ー)なむー

81:日本@名無史さん
08/09/30 21:35:10
>>80
子供の頃から、なぜ?と思ってました

衰退したくないと思って、子孫頑張れ!って言われるはずなのに
それでも衰退・滅亡してしまう

これはなぜなのですか?
これは日本だけの減少ではなく、古今東西、不変の真理のように見えます。

もしそうだとしたら、頑張って子孫繁栄を願う意味はあるのでしょうか?

82:日本@名無しさん
08/09/30 22:51:04
>>81
真理や事実に抗う想い。願いとはそもそも、そういうものなのです。


83:ぴーす ◆TfYI6zaOr.
08/10/01 00:05:13
繁栄の基盤になる財源の損耗や搾取対象からの反発、支配システムの
腐敗とかかな。平家が敗れたのに凶作の他に貴族化してアゴが退化し
たからなんて俗説もある。

84:日本@名無史さん
08/10/01 01:26:12
>>81
スポーツのようなお遊びの世界でさえ、栄枯盛衰はあって、強力だったチームにも衰えはあるし、
強力メンバーの二世ばっかり寄せ集めたって、同じように強いどころか、まともに試合にならない
ほうが普通じゃない。

> もしそうだとしたら、頑張って子孫繁栄を願う意味はあるのでしょうか?
何か意味不明なんだけど、特定の同じ分野で延々と目立つような活躍をし続けることだけが
全てのように勘違いしてない?

85:日本@名無史さん
08/10/01 02:38:15
>>84
多分下のほうは「いつか滅んじゃうんだから、何をやったって意味なくない?」ってことでは?

86:日本@名無史さん
08/10/01 04:03:07
>>85
そうかな?
なら、「やり過ぎたら反動が大きいだけのこと」、と言っておけばいいのかな?

87:日本@名無史さん
08/10/01 06:55:28
繁栄とはなにかということですね

88:日本@名無史さん
08/10/01 20:31:37
競馬の世界では、「血統」というのが重視されますが、
人間の世界でも、「血統」というのは、
その人の能力にどの程度影響出ますか


89:59
08/10/02 00:08:52
>>75
またまた今更ですいませんけどありがとうございます
で、もう一個聞きたいんですけど、その「手に余る」場合以外は村八分みたいな私的制裁が行われていたんですか?

90:日本@名無史さん
08/10/02 00:16:15
>>88
長嶋一茂も野村カツノリも親の七光りがなければ二流選手とすら言われないまま戦力外のレベル。


91:日本@名無史さん
08/10/02 01:04:44
仁徳天皇陵って
なぜ発掘調査させないのですか?


92:日本@名無史さん
08/10/02 01:05:16
>>88
ある種の病気などについては、「血統・遺伝」の影響がある程度明確に把握されているから、
「マイナス面での影響」が出るばあいがあることは、一応確認されているといえる。
しかし、プラス面については、影響は明確には把握されていない。

筋肉には、持久力のある筋と、瞬発力のある筋の別があって、それらの割合が人によって相当に違う。
トップレベルの選手になると、マラソンの選手と短距離の選手では、単に練習内容が違うだけではない、
持って生まれた素質の点で、決定的な差がある。

人間の持久筋と瞬発筋の割合がどの程度遺伝するか知らないけど、ともかく、「特定の割合の人間を
作り出すために、多数の人間についてそういった検査を行って、目的にかなった雌雄を掛け合わせる
のを何世代も繰り返す」なんて乱暴なことはできないから、そういった明確な違いがある部分についても、
血統の影響は不明としか言いようがない。

記憶力なり応用力なりも、何らかの方法で多数の人間について検査を行って、それらが良好に、
もしくは劣悪になるように「掛け合わせる」ことは不可能ではないと思われるが、実際問題として
そういう「交配」は、人間の間では行われてないし、今後に行われる可能性も薄いと思われる。

まして、後天的な事柄の影響も確認するために、同じ傾向と考えられる人間をランダムに
選り出して、半分には教育を施し、もう半分には教育を施さないで、どういった違いが生ずるか
調べるのを何世代にもわたって続ける・・・とかいったことは事実上不可能。

> 人間の世界でも、「血統」というのは、その人の能力にどの程度影響出ますか?

ある程度以上の影響があると考えられているが、生育環境も含めた後天的な事柄の影響も
小さいとは思われないので、影響は不明確としかいいようがない。



93:日本@名無史さん
08/10/02 03:54:05
今時優生学でつのおはなしでつか?

94:日本@名無史さん
08/10/02 03:55:57
スマソw寝ぼけてるは漏れ↑

優生学は今時、はやらんと思われ

95:日本@名無史さん
08/10/02 08:20:01
一茂も、カツノリも、お母さんがスポーツ選手というわけではないからね

もし、結構なスポーツ選手との子供だったら結果は違ったかもしれないけど
長嶋監督野村監督は、両親スポーツ選手ってわけじゃないからなぁ・・

でも、おそらくだけど、ある程度運動神経とかよかったんだと思う
筋力もある両親だったんだろう。

あと、これは「遺伝子同士の相性?」みたいなのも、もしかしたらあるのかもね

96:日本@名無しさん
08/10/02 11:34:33
スポーツ一家の中で育った選手は珍しくありませんが、そうでない人もいっぱいいる。
一茂もカツノリも、一流とは言えなかったにせよ、プロ選手として出られるくらいの実力はあった。
そもそもプロ野球選手なんて、滅多なことでなれるものではないんですよ。
特に一茂は親が偉大でなければ(常時スタメンにはなれたろうに)と惜しむ声が多かった。

97:日本@名無史さん
08/10/02 12:11:56

そういった意味で、子供がいない一流選手は
仕方ないけど、なにか哀しいね・・・

98:日本@名無史さん
08/10/02 20:25:29
稲作は、周の王族が戦乱から逃れるために日本にやってきたから
伝来したと聞きました

99:日本@名無史さん
08/10/03 00:19:25
イチローか・・・

100:日本@名無史さん
08/10/03 00:28:48
長く続いていた徳川時代の間に、多くの藩において慢性的な財政赤字に陥っていったと理解していますが

それは何故だったのでしょう?

(各種政策が取られましたが)結局打開策はなかったのでしょうか?(現代的な経済学的視点でも)

また、赤字に陥らなかった藩はどのようなものがあったのでしょう?

101:日本@名無史さん
08/10/03 00:29:23
>98
周は黄河流域
稲作は長江流域が主

東南アジアからと考えるのが一般的









つーか板違いじゃねぃ?

102:日本@名無史さん
08/10/03 00:30:43
>100
米の価値の相対的下落

103:日本@名無史さん
08/10/03 03:39:32
>>100
>長く続いていた徳川時代の間に、多くの藩において
>慢性的な財政赤字に陥っていったと理解していますが
>それは何故だったのでしょう?

上にも出ているけど、米価の下落。
藩の主な収入は年貢、特に米による年貢だったわけだが、
江戸時代入って新田開発や技術の進歩で米の収穫量が増え、
米価が下がった。そのことが藩の収入を直撃した。

>(各種政策が取られましたが)結局打開策はなかったのでしょうか?(現代的な経済学的視点でも)
藩の特産品を専売制にするというのが一般的な対策だったし、ある程度の効果はあった。

現代経済学の視点から言うなら、商業活動から税を取り立てるようにするのが抜本的対策だったが、
そっちは結局の所実現しなかったと言っていい。

104:日本@名無史さん
08/10/03 03:59:11
>>94
流行廃りなど関係ない。
厳密な意味での実験ができるかできないかなどは、「単なる都合」であって、事実の真否とは何の関係もない。

105:日本@名無史さん
08/10/03 04:09:35
>>95-96
両親がオリンピック級の体操選手の子供で、いい線をいっている人っていなかったっけ?
やっぱり「ある」と考えるのが穏当じゃないかな。
「だから交配させろ」なんて馬鹿げた暴論は、少なくともまともな国なら通らないのは当然だけどね。

106:日本@名無史さん
08/10/03 04:17:31
>>100
軍事組織が、何百年もの平和な時代を通して、赤字にならないで続くほうが異常でしょう。
「役に立たんから解散させろ」という動きを未然に防ぐ程度の存在価値は持ち続けた、ともいえる。

> また、赤字に陥らなかった藩はどのようなものがあったのでしょう?
「借金の踏み倒し」なしで黒字を続けたところは、絶無ではないでしょうか。

107:日本@名無史さん
08/10/03 08:17:03
大和守とか越前守とか、こういう地名のついた官位は名前が重複しないようにどこかで管理されてたのでしょうか?




108:日本@名無史さん
08/10/03 11:27:07
>軍事組織が、何百年もの平和な時代を通して、赤字にならないで続くほうが異常でしょう。

釣り?
天然?

十年前のBBSならともかく、えらく極端な奴が来たなw

109:日本@名無史さん
08/10/03 12:30:55
>>107
そういう官位を与えるのは朝廷(天皇)の仕事。
平安以前なら実質的な職務を伴い、それ以後、特に江戸時代は完全な名誉職。
定数とかがもちろんあった。

が、江戸時代にその定数がどのくらいしっかり守られてたのかは知らない。

110:日本@名無史さん
08/10/03 12:58:22
室町時代は本人が勝手に名乗っていたケースが多いな。

羽柴筑前守は正式な官位名で、むしろ例外だけど。
上司の織田信長が、主要な部下の官位を朝廷から授かってきた。
丹羽長秀は断ってしまったそうだが。

111:107
08/10/03 13:27:14
ありがとうございました

112:日本@名無史さん
08/10/03 21:00:05
鑑真はなぜ何度も渡海に失敗したのですか?

あと、流された場合、海流から言って、北へ流されるのでは?と
子供の頃から疑問に思っていました。

航路としては、プサンあたりから、対馬・壱岐を経由したほうが
安全でなおかつ確実だったと思ってます。
それなのに、何度も何度も、南京?あたりから、一気に目指したような
航路ではなかったかなぁと記憶してます。

113:69
08/10/03 21:01:08
>>107
蛇足ですが、官位は「官職」と「位階」を一緒に呼ぶものです。
「修理大夫」や「上総介」が前者、「従三位」や「正五位上」が後者です。
ちなみに「越後守」など地名の入った国司名は、特に「受領名」とも呼びます。

重複しますが、中世後期(室町とか戦国とか)以降は、大名クラスを除いて
ほとんどが自称か、あるいは大名など上位者から「私的に」貰ったものです。

114:日本@名無史さん
08/10/03 21:26:16
>>112
そもそも当時は海上航行が危険だったのです。
例えば、日本からの遣唐使は、およそ一度に4隻ずつ派遣されるのですが、
全て無事に往復できたのは19回中3回しかありませんでした。

朝鮮半島伝いに中国へ向かう北路は、8世紀半ばには
当時の新羅との外交関係の悪化によって敬遠され、
北九州から直接渡る南海路に切り替えられたと記憶しています。

確かに対馬海流は北東へ流れていますが、鑑真が渡航に失敗したのは
台風(暴風)のせいですし、風などもろもろの影響がありますから、
一概に北東へ流されるとは言えないのではと思います。
実際に東へ流されて沖縄や奄美へ漂着する船もありました。

115:日本@名無史さん
08/10/03 21:47:15
>>112
上にもあるけど、新羅との関係悪化で奈良時代に入ると
朝鮮半島付近を通ることが出来なくなった。

遣唐使は初夏に出発して秋~冬に帰ってくることが多かったので、
行きは南東季節風に乗って中国のどこかに着く。
帰りは北~北西方面の風に乗るので、南西諸島の方に行くことが多かった。
中には運悪く北東の風に吹かれ、マレー半島まで流されたという人もいる。

116:日本@名無史さん
08/10/03 22:25:03
明治のはじめに諸藩を解体そのまま県にして殿様を県知事にと言うのが廃藩置県の第一歩だったそうですが、
この時幕府天領や(あるのか無いのか知らないが)朝廷領なんかは誰が県知事になったんですか?

117:日本@名無史さん
08/10/03 22:39:32
>>116
版籍奉還のことですか?
天領には府・県を設置して知府事・知県事を任じて直轄支配し、
藩領には藩主を知藩事に任じて引き続き統治させました。
大雑把に言ってその藩を解体したのが廃藩置県です。

118:日本@名無史さん
08/10/04 01:57:41
>>108
君がどこかで拾って丸覚えにした文字列と矛盾しているかね?

119:日本@名無史さん
08/10/04 14:18:20
旦那、そいつは釣り針が太すぎるぜ
素人の釣りはこれだからいけねぃや

120:日本@名無史さん
08/10/04 23:17:58
「在日生活保護問題」とは!
URLリンク(jp.youtube.com)

121:日本@名無史さん
08/10/04 23:55:23
>>119
どこかで拾って丸覚えにした文字列を鸚鵡返しにしているだけの能なしは引っ込んでいなさいね。

122:日本@名無史さん
08/10/05 07:53:58
「在日特権を許さない市民の会」とはどのような団体なのか?
活動目的などをご紹介します 。

「在日特権を許さない市民の会」とは!
URLリンク(jp.youtube.com)
「外国人参政権問題」とは!
URLリンク(jp.youtube.com)
「在日生活保護問題」とは!
URLリンク(jp.youtube.com)


123:日本@名無史さん
08/10/05 15:32:17
廃仏毀釈について質問。
廃仏毀釈運動が最も盛んだった地域は鹿児島、隠岐、富山などですが、
逆に最も廃仏毀釈運動の勢いがなかった地域はどの地域ですか?

124:日本@名無史さん
08/10/05 20:43:22
URLリンク(image.blog.livedoor.jp)
この文の、「 所々に書写●刻せし 」の●の漢字、
辞書ソフトの「手書き」でやっても出てこないのですが、
どんな現代漢字に相当するものなのか教えてください。

125:日本@名無史さん
08/10/05 21:03:01
「模」

126:日本@名無史さん
08/10/05 21:05:12
すまん、
手偏に莫だ。

でも、こういった質問は国語板でしような

127:日本@名無史さん
08/10/05 21:15:41
>>126
ありがとうございます。
しかし、辞書ソフトの手書きツールでその通り(手莫)に入力してみても、出てきませんでした。
古いものも大半の漢字はこれで出るので、これに相当する他の漢字があると思うのです。
ちなみに次のような文脈です。
 経文の間に観音三十二相の図をましへ、所々に書写●刻せし人の姓名をも識せり。

128:日本@名無史さん
08/10/05 21:21:29


見つけた。
「も」で出た。
字義的に、は、(手書きで)書き写すという意味だな。
模写とほとんど同じ。

129:日本@名無史さん
08/10/05 23:22:14
>>128
感謝
本当にありがとうございました。

130:日本@名無史さん
08/10/05 23:25:11
熊野水軍についてですが

1本拠地にしてた場所は今の何市になるのでしょうか
2熊野水軍が本拠地に置いた地域は美人が多いといわれ
 その理由が襲撃した地域から美女を連れ帰ったからだと言われてるそうですがホントでしょうか

131:日本@名無史さん
08/10/06 00:57:47
1)
平安期~鎌倉期は今の田辺市・新宮市。
室町期~戦国期は今の志摩市・鳥羽市。

2)
まぁ嘘でしょうね。
ネタ話としてなら有りとは思う。

132:日本@名無史さん
08/10/06 05:31:07
>>124 「ボ、モ」


挙(上の点々なし)

ATOKの手書き文字入力 → 文字パレットで調べると

UNICODE:U+6479 面区点:1-84-88
UTF-8:E6 91 B9

133:日本@名無史さん
08/10/06 05:37:22
>>124
あ、Windows に標準装備のmsime では調べたのかな。
最近は相当に改善されているとはいえ、基本的に帰国子女レベルで、そういう点がタコなので、
ややこしい漢字とかを使う人なら、ATOKを入れておいたほうがいいです。

134:日本@名無史さん
08/10/06 10:50:31
あんま使わない字だしな。
水滸伝のマイナー脇役に「摸着天の杜遷」というキャラがいるが、
他にはこの字の使い途は知らんw

135:日本@名無しさん
08/10/06 11:40:02
自摸(ツモ)

136:日本@名無史さん
08/10/07 13:43:58
吉田松陰は何人兄弟ですか?

137:日本@名無史さん
08/10/07 21:59:37
てす

138:日本@名無史さん
08/10/08 18:43:52
戦国時代に関して質問。
城門をぶち破るために兵士達が丸太を抱えて突っ込みますよね。
あの丸太っていわゆる破城槌に該当するわけですが、当時の日本じゃなんて呼ばれていたんですか?

139:日本@名無史さん
08/10/08 21:52:41
.∧_∧
(´・з・)汁ドゾー旦旦旦
( つ旦O旦旦旦旦旦旦旦旦
と_)_)旦旦旦旦旦旦旦旦

140:日本@名無史さん
08/10/08 22:24:48
>>138
マルタ

141:日本@名無史さん
08/10/09 17:03:01
>>136
「吉田松陰の兄」、「吉田松陰の姉」、「吉田松陰の妹」、「吉田松陰の弟」
で、ぐぐる位はしてね。オイラは算数が苦手で人数は分かんね。

142:日本@名無史さん
08/10/09 22:13:14
江戸幕府の直轄の役職に大名や幕臣でなく、
各藩の家臣が抜擢されることはあったのでしょうか?
もしあったならそういう場合に家禄はそのまま藩から支給されたのですか?

143:日本@名無史さん
08/10/10 16:07:29
江戸にて参勤中のこと。
結構な地位にある(外様藩の家老?)人物が、職務先で重要書類の忘れ物があることに気付いた。
部下(家来?)に、江戸屋敷へ忘れ物を取りに行かせることにし、用件を言った。
そのとき肌寒くなっていることにも気付き、ついでに上着も持ってくるように付け足した。

が、江戸屋敷へ忘れ物を取りに行った部下は上着だけを大事そうに運んできて、
肝心の書類を持ってくるのを忘れてしまった。

用件を言いつけた人物は
「大事な用件に小事を足すべきではなかった。これは自分の失敗である」
といった主旨で反省し、部下に詫びたそうです。


こんな逸話の主が誰であるか、教えてください。
失敗を部下のせいにしない、興味深い人物に思えて気になります。

144:日本@名無史さん
08/10/11 14:00:11
徳川将軍って、亡くなったら寛永寺か増上寺に埋葬されてるけど、
どっちに埋めるかってどういう法則で決まってるの?

145:日本@名無史さん
08/10/12 01:09:28
江戸時代の「帯刀権」に簡単に教えてください。

146:日本@名無史さん
08/10/12 10:53:30
刀を帯びる権利


147:日本@名無史さん
08/10/14 01:45:31
URLリンク(ja.wikipedia.org)
ここでは、江戸以前の武家では元服したか否かしかの区別しかなく
現代の若者や青年といった年齢上の区切りは無かった
ってあるけど、実際の所どうなの?

若い人間は~とか葉隠れでも書かれてるけど
今みたいに「20歳超えたらおっさんだよねー」とかそういうのが無かった程度?

148:日本@名無史さん
08/10/14 23:15:38
若者や青年だってきっちりとした年齢区分ではないわけで。

現在は20で成人10代は少年だけど、江戸以前は元服をすれば年齢に関係なく成人。そういう話。


149:ぴーす ◆TfYI6zaOr.
08/10/15 00:55:46
10歳が幼、20で弱、30で壮みたいな具合

150:日本@名無史さん
08/10/16 21:48:38
>>147
中学校で「立志式」というのがあるでしょ。
あれが数えで15歳(今だと中学2年生)。
昔でいえば成人。
昔は元服の時期に個人差はあったけれども
概ね数え15歳前後で元服が行われるとされ大人だと判断された。
たまに20歳すぎても元服しない者もいたが
「齢長けても童装」というわけで。
それはそれで「おっさんなのに子供の格好して」ってわけ。

151:日本@名無史さん
08/10/17 02:58:51
>>147
そこの説明がおかしいだけ。
「青年に関する厳密な年齢定義はない」にもかかわらず、統計を取る上で便宜的に仕切っただけのものを、牽
強付会的にこじつけて並べているだけ。

> 今みたいに「20歳超えたらおっさんだよねー」とかそういうのが無かった程度?
別に「20歳超えたらおっさんだよねー」なんてことはないけど、強いていうなら、男女ともに初婚の年齢が
上がってきていて、その面で、同じ年の人でも、一般的な認識に違いがあるのは確かだね。
といっても、江戸時代以前でもかなりの地域差があったから、単純一律にはいえないけど。

152:日本@名無史さん
08/10/17 11:16:31
日本語でok


153:日本@名無史さん
08/10/17 20:51:04
>>152
     ナ ゝ /    十_"   \/          |! |!
      cト /^、_ノ  | 、.__    (.__    ̄ ̄ ̄ ̄ ・ ・


154:日本@名無史さん
08/10/18 02:15:31
系図纂要ですが明治時代の発行のようですが地方旧家周って系図写してきたの?

155:日本@名無史さん
08/10/18 18:16:34
質問です。

戦国時代では衆道が一般的に行われていたそうですが、
排泄する器官に生殖器を入れるとなると病気になると思います。
エイズなどはなかったかもしれませんが、
大腸菌など様々な菌が腸内にはいます。

どのように防いでいたのでしょうか?
それとも尿道炎などの病気に、罹りまくっていたのでしょうか?

156:日本@名無史さん
08/10/18 20:20:00
おまいは尿道炎ごときで医者いくのか?

157:日本@名無史さん
08/10/18 20:33:05
>>155
病原に対する抵抗力という言葉を知りませんか?

158:日本@名無史さん
08/10/18 20:57:17
>155
糞便や小便はそれ自体は有害では無い(まったくの無害でもないが)
排便後、空気に触れて腐敗することで有害になる。
質問についてなら、事後に汚れを洗えばそれで終わり。
洗わずに汚れたままにしときゃ病気くらいにはなるかもな。

そもそもおまえは、大腸菌がなんなのか、尿道炎がなんなのかを知らないだろ。

159:日本@名無史さん
08/10/18 23:30:38
そう云えば子供の頃、ミミズには絶対小便かけたらダメと云われたな。
ミミズにかけたらチ○コが腫れるって。尿道炎の意味だったんだろうか。
マジ信じていたわ。


160:日本@名無史さん
08/10/19 00:08:08
質問です。

橘氏ってどうなっちゃったんでしょう?
源平藤橘とまで言われたのに明治初期の華族令の頃には男爵になった家すらありません。
薄家(読み方すらわからない…「うすい」で良いのでしょうか?)というのが宗家だったみたい
ですけど途中で消えちゃってますし、他の橘氏とされる家も明治以後はまるで名前を聞きま
せんし…。

161:日本@名無史さん
08/10/19 01:40:06
橘氏は簡単に言うとあっさり廃れた。
姓を賜るってのはぶっちゃけ初代の功績が大きいという話にすぎず、その後を保証するようなものではない。



162:日本@名無史さん
08/10/19 01:42:11
歴史の中に埋没した。
平安中期には実質没落してる上に、武士化した一族も殆ど無かった為の結果でしょう。
薄家の絶家で、歴史的には橘氏の断絶と認識していいかと思います。
一応、河内の楠木一族他、伊予、壱岐、越前、信濃などの地方豪族で橘氏を名乗った家がありますが出自は曖昧です。
まぁ武家に関しては、源平藤を名乗っていても、殆どの場合いい加減なわけですが。

薄家はススキと読みます。


163:日本@名無史さん
08/10/19 02:02:57
>>155
少し前にオラバつーエロサイトでその話題がでていたな。
素人がゴム無しでいきなりそっちに突っ込むと、次の日は尿道炎の激痛で起き上がれなくなるらしい。
まー書いた奴がその道のベテランなのか、処女願望の強い童貞なのかは知らんがw

風俗に行ってオネーチャンに聞いてくるのが一番確実だと思う。
て、ここ何のスレ?

164:日本@名無史さん
08/10/19 02:33:21
>>160
明治になって南朝方の豪族を探したときにも
名和やら菊池は直系に近いと思われる子孫が見つかって
爵位もらったけど、橘氏を名乗る楠木の直系子孫は見つからなかった。

勿論楠木家の子孫を名乗る家は沢山あったんだけど、
歴史の表舞台から消えて久しかったからな。

やっぱり氏族としての絶えたといっていいと思う。



165:日本@名無史さん
08/10/19 02:38:14
そもそも南朝系の豪族は出自も怪しいけどな…

楠木家が橘氏だったかどうかは不明だし…まあ確かめる手段は無いから否定する必要も無いけど。

166:日本@名無史さん
08/10/19 02:44:56
>>165
まあ、普通に考えたら南朝系の豪族の出自は嘘だろうな。
確かめる手段もないから、
そう名乗っていたぐらいにするしかないけど。

167:160
08/10/19 02:54:33
皆さんありがとうございます。
薄は「すすき」と読むのですか! しかもちゃんと一発で変換できました!

昭和初期を舞台にした小説を書いていまして、そこで架空の華族家(堂上家で子爵)を
出そうとしたのですが、藤原氏や皇別氏族じゃ面白くないな…そういえば橘氏の家って
あんまり聞かないけどどうなんだろう、と思って質問した次第でした。
橘氏にしたのはちょうど暴れん坊少納言を読んだ後だったからです。

薄家の庶家か何かが半家あたりの家格で残っていて、明治維新のときに授爵された、
というような設定は大丈夫でしょうか?家業とかどうなるのか考えかねますが…。

168:日本@名無史さん
08/10/19 04:11:16
創作ってのは見てきたように嘘を言う物なんで、別に良いのではないかと。
あんま羽目はずした設定にすると突っ込まれるけどw

ただ下級貴族って経済的にかなり悲惨なんですよ。
爵位を返上したり、大正期になると財産を処分してしまう家もでたりしてます。
マンガの「はいからさんが通る」でも、伊集院伯爵家は貧乏で借金だらけの設定でしたよね。
薄家の傍流がお情けで爵位もらえてたとして、昭和期に果たしてどんな生活できてたやら。
明治以前からの財産でもあれば少しは楽だったようですが、それもありえないし。

169:160
08/10/19 13:16:28
存じております。
一応資料としてタキエ・スギヤマ氏の「近代日本の上流階級」は読みましたので。
とりあえず明治期の当主(というか家令)が有能で、起業して大成功したとかそんな設定を
考えてました。

どうでもいいですが、この本を読むかぎりだと、最近のサブカルチャーでイメージされている
主人(またはその子息)と使用人の関係って実在の華族のそれに近いものなんですね…。

170:日本@名無史さん
08/10/19 13:48:05
質問です。

縄文時代の竪穴式住居の復元物を見る機会がありますが、
屋根は千木、鰹木のある神社様の形で復元されています。
柱やかまど、溝の類は残るかもしれませんが、
屋根の構造はどうしてあの形に復元されたのでしょう。
空想なのか、根拠を持った推測なのか、明確な証拠があるのか・・・。

171:日本@名無史さん
08/10/19 15:15:20
>>162地方豪族に関しては調査自体して無いらしいよ
某氏が今度薄家と某家の系図を照らし合わせて見るとか言ってたけど

172:日本@名無史さん
08/10/19 16:53:52
 捏造する方だって素人ではないからね

173:日本@名無史さん
08/10/19 23:45:40
江戸時代の商人に関してよく、丁稚奉公からはじめ数十年かけて手代、番頭
になるといいますが、そこまで出世できなかったものはどうしていたのでしょうか?
また、結婚も番頭になるまで出来ないのなら、独身で生涯を終えた商人もたくさんいたのですか?

174:日本@名無史さん
08/10/20 05:18:39
天正の時代に日本人が奴隷として海外に売られたらしいけど、その子孫っていないの?
もしくは売られた先で根づいた日本文化などがあれば教えて欲しいです

175:日本@名無史さん
08/10/20 09:44:02
「信仰における学問や儀式の重要性を主張して、座禅や
加持祈祷によって悟りを開くことができると説いた」

この説明は道元で会っているでしょうか?

176:日本@名無史さん
08/10/20 18:32:55
奥羽越列藩同盟は本来、米沢・会津に寛大な処分を求めるためだったはずなのに
新政府側がこれを敵対視したため軍事同盟に発展したどころか
皇族まで招いて独立政権構想になってしまいましたが本気で独立政権を作るつもりだたんですか?

177:日本@名無史さん
08/10/20 19:33:22
元々仙台藩主戦派は、奥羽越列藩同盟を反明治新政府の軍事同盟にすりかえるために
画策を続けていました。
他藩は仙台藩に騙されて、和平嘆願のつもりが他藩への軍事侵攻承認を行ってしまったのです。

では仙台藩は明治新政府を倒して何がしたかったかといえば、
薩長の替わりに藩閥政治を行いたかったのだろう、という他ありません。

178:日本@名無史さん
08/10/20 19:55:26
>173
奉公先を辞めれば済むことです。結婚もせず、一生奉公人として過ごした人もいたでしょうね。
>174
いるかもね。本人も知らないだろうけど。文化は当然残ってません。
>175
全部間違ってます。
>176
ご自身の質問で書かれてますが、成り行きで決まった独立方針が本気であるはずないでしょ。
皇族は西軍への対抗上、頭に頂く必要があっただけです。

179:日本@名無史さん
08/10/21 00:52:38
なんで幕末の諸藩の政治って、殿様や家老じゃなくて足軽といった下士や、馬廻り役といった中級武士が
担当してたんですか?西郷隆盛とか大久保利通は下級武士なのに薩摩の代表格になってるし…


180:日本@名無しさん
08/10/21 02:10:00
>>179
家老という職は藩政のかなりの部分を担わなくてはならないわけですが、
幕末前半に見られた尊皇攘夷の活動というのはどうでしょう。
藩の仕事としては外交、しかもいわゆる思想活動やテロ活動、
あるいは治安維持行動という類のものです。

怪しげな口調で語るなら

チンピラ同然の者たちに要人を襲わせたり、
逆に要人や野の有識者たちと密書のやりとりや討論をしたり、
裏金を工面したり、
幕府から禁止されている最新兵器を密輸したり、
(藩の正規軍の隷下に置かない)独立部隊っぽいものの監督司令官にさせたり

などなど…

これは家老の仕事ではありませんよね。
常識的に考えても、もっと下位の実力ある者の勤めでしょう。




181:日本@名無史さん
08/10/21 02:40:39
>>170
土器かなんかで絵がなかったっけ?

182:日本@名無史さん
08/10/21 02:45:55
>>173
すぐに逃げ出したのは別として、商店を任されるほどの才覚はないといっても、当時なら、
ある程度の読み書き算盤が出来て、商売のノウハウも持っているなら、それだけで
食えたんじゃないですかね?

183:日本@名無史さん
08/10/21 03:51:44
>>180
ちょっと語弊はあると思いますが、基本的にそういう具合ですよね。

184:日本@名無史さん
08/10/21 03:58:35
>>179
既存の上位スタッフには出来ないようなことが必要になったから、という表現でもいいかな。
かといって武力には無縁の商人とかでは、一番の脅威である外国の武力に対して無能だから、
リードすることなど不可能。
藩の保有している武力をバックにできる武士が中心になったのは必然。




185:日本@名無史さん
08/10/21 04:28:41
善兵衛は(ぜんべい)ですが江戸時代の読み方は?

186:日本@名無史さん
08/10/21 04:39:47
もういっこ、O兵衛尉ってのを時々見るのですが
善兵衛尉これで(ぜんべい)?

187:日本@名無史さん
08/10/21 11:53:39
>>186
善兵衛尉これで(ぜんべい)?

尉はじょうと読んで官位を表す。
戦国時代に○○守とか○○尉などと官位がついている者が多いが
本来天皇が授けるものだが勝手に名乗っている者も多かったらしい。
江戸期に入りこの傾向はなくなり、天皇からの受位された者だけとなった。
例として遠山左衛門尉景元(遠山の金さん)


188:日本@名無史さん
08/10/21 17:55:35
日本史は高校教科書+信長の野望程度の知識です。

藤原氏の地位のはじめは大化の改新の武力クーデターだと思うんですが、そのイメージはいつごろ薄れたんでしょうか
中世や近世に「藤原の貴族も、もとは武人」と指摘する者はいなかったのですか。
逆に源氏等は何故500年経っても貴族化しなかったのですか。

保元の乱では源平はわかれなかったのに平治では源対平となったのは何故ですか

日本史の各時代(特に安定した治世の長い江戸期)において「文官」と「武官」の区別はどのようにあったのでしょうか

189:日本@名無史さん
08/10/21 18:29:10
>>187
>江戸期に入りこの傾向はなくなり、天皇からの受位された者だけとなった。

横レスですみません。
そんなことはありません。
江戸時代にも、ほとんどの武士は○○守や△△尉を勝手に名乗っています。
天皇から与えられたのは藩主レベルだけで、藩士などは藩主から私的に
貰ったりしていました。


190:日本@名無史さん
08/10/21 19:01:56
>>189
スマン! 間違っていた。


191:日本@名無史さん
08/10/21 20:12:11
>>188
3については、武士の間にも文武の区別はあった。
幕府を例にすると、町奉行・勘定奉行のような行政官僚は「役方」で
大番・書院番や先手組のような将軍の常備軍は「番方」と呼ばれた。
大名家の家中でも同様の区分はあった。

192:日本@名無史さん
08/10/21 20:26:30
>>187.189ありがとうございます。
 公式な文書の場合はO兵衛とのという形になるの?

193:日本@名無しさん
08/10/21 20:41:30
>>188
2.
源氏と平氏が対立したから平治の乱が起きたのではないのですよ。
それぞれが、彼らの上役たちの政争(クーデター)に付き合わされただけです…


194:日本@名無史さん
08/10/21 20:45:55
>>192
重複していて恐縮ですが、整理しておくと、
「兵衛尉」というのは元来、「兵衛府」の「尉」を意味します。
「兵衛府」には左右2つがあり、天皇などの警備を行う役所でした。
「尉」はいわゆる四等官制の三番目で、督(かみ)・佐(すけ)に続く順位です。
そして本来は「左兵衛督」「右兵衛尉」などと呼ばれました。
これが律令官職としての「兵衛」です。
おおむね鎌倉時代くらいまでは朝廷から正式に任命されていましたが、
室町時代くらいから勝手に名乗る者も目立ち始めました。

江戸時代に見られる「兵衛」というのは、以上の呼称が略され、
定着して一般的に用いられるようになったものです。
したがって「○兵衛」さんなら公私ともに「○兵衛」さんです。

戦国時代くらいまでは「○兵衛」という簡略された呼称は目立たないように思います。

195:日本@名無史さん
08/10/21 20:48:35
江戸時代の武士は勝手に守名乗りはできない。
ほとんどの武士の通称は○之助とか○兵衛とか○右衛門の類で、
「安芸」とか「豊後」のような国名も家老クラスに限られた。

○○守や△△尉のような受領名や官途名を名乗れるのは諸大夫になっただけ。
大名を除けば、高級旗本や御三家など一部の大藩の家老。

守抜きの国名を通称にできたのは上記のように、大名家の家老クラス。
布衣以下の旗本は国名を通称に用いることはできなかった。

幕府や藩など、武家の公文書での署名は名字と通称。
諸大夫なら大岡越前守とか遠山左衛門尉、家老クラスなら伊達安芸、原田甲斐、
一般の武士なら勝麟太郎とか桂小五郎のまま。

196:日本@名無史さん
08/10/21 20:51:33
>>188
1.
源氏が公家化しなかった、というのは誤りです。
久我家や中院家など、公家化した源氏も多くいます。
幕末に有名な具視を輩出した岩倉家も、村上源氏の一流です。

197:日本@名無史さん
08/10/21 21:02:01
>>188
1について
古代日本においてはもともと豪族が自分で支配する土地と人民を持ち
その親玉が大王(のちの天皇)といった具合でした
豪族は人民を支配し他の豪族に攻め込まれれば土地を守るために
自分で軍隊を持ち自ら甲冑を身にまとって戦もしたわけです
蘇我馬子なども自ら出陣して物部守屋と戦っています
天皇も同様で白村江の戦いなどでは女帝である斉明天皇が
朝軍を率いて九州まで行っています
もっとも律令が施行されると(天智天皇の近江令が初?)
豪族は土地と人民を天皇に差し上げ
代わりに天皇から給料をもらう官僚になりました
甲冑を捨て文官になったわけです
貴族の誕生です
もっとも治安を守るために武官は必要でした
平安時代には貴族は血を嫌ったこともあり
甲冑を身に着け治安を守るのは身分の低い官僚の仕事になりました

源氏や平氏は天皇の子孫ですが
天皇になれなかった皇子たちは臣籍降下させられ
藤原氏らとの出世争いにも負けた皇子の子孫たちは
身分も低くなり地方へ下っていかざるを得なくなりました
武家の平氏や源氏はこうして生まれたのです
つまり平安末期に突如歴史の表舞台に登場した武家の平氏や源氏は
古代豪族がそのまま武具を身にまとって生き延びたのではなく
もともとは甲冑を身に着けていなかったけれども中央から出世争いに脱落した人々が
人が嫌がる殺傷の仕事を引き受けることによって生き延びたものです
現在にも警察というものがあるように治安を守るための武官は
優雅な平安貴族たちの時代にもいたわけです
源頼朝の先祖などは藤原氏に媚を売っていましたしね

198:日本@名無史さん
08/10/21 21:03:59
>>194-5ありがとうございます。実は先祖の戦国期の感状なのですが
最後の宛名が善兵(これは行書)い(ひらがな)との
と成ってるのですが郷土史だと近くの家はO兵衛尉かO右(左)衛門なんですが・・・
多少うちは格が落ちるのかなと?

199:170
08/10/21 21:05:37
>>181
そうなのですか。
私が知ってたのは銅鐸に描かれていた唐古・鍵の奇抜な櫓だけでした。
絵が残ってれば復元も可能ですよね。

200:日本@名無史さん
08/10/21 21:10:55
>>188
> 「藤原の貴族も、もとは武人」
・・・「指摘して、だからどうせよと主張する人がいた・いない」という話???
実力で実質的な支配権をはぎ取られたんだから、主張も何もないんじゃない?

> 源氏等は何故500年経っても貴族化しなかったのですか。
??? 平家は「おごって」貴族化して、すぐに潰されたっしょ。
貴族支配というのが直接的な武力によらないカリスマによる支配という風に把握するなら、
カリスマだけで通用する時代が続いたほうが異常だっただけじゃない。
そのカリスマというのが、要するに、祭り上げておくといいことがあるし、祭り上げておかないと
祟られて酷い目にあうとかいう、いってしまえば「無形の実力」があると思い込まれていた、
ということみたいだし。

201:日本@名無史さん
08/10/21 21:13:44
>>198
宛名そのものではありませんが、
一般的に敬称が「とのへ」とひらがなの場合は、「殿へ」より略式とされます。

202:日本@名無史さん
08/10/21 21:13:59
>>196
じゃなくて、天皇とか藤原とかに完全に取って代わって日本を統括するに到らなかったのは?という意味じゃないかな?

203:日本@名無史さん
08/10/21 21:14:17
>>188
平治の乱は源氏対平氏の戦いではありません。
後白河上皇と二条天皇の親子対立が原因です。
院政をとろうとする後白河上皇と、天皇親政を求める二条天皇はもともと対立しており、
それがそれぞれの近臣によって激化しついに激突したのが平治の乱です。
先の保元の乱では源氏と平氏がそれぞれ内部で争ったことにより、
平氏の棟梁は平清盛、源氏の棟梁は源義朝、ということがほぼ
決定していました。
平治の乱で勝利した清盛はこのとき源氏の棟梁義朝を斬って
権力をもつようになりますが、
平治の乱は清盛と義朝の戦いが主だったわけではありません。

204:196
08/10/21 21:20:50
>>188,202
それならば失礼しました。
色んな事が言われているとは思うのですが、
室町時代以後は天皇や公家はほとんど実権を失っていたので、
わざわざ奪うだけのものはなかった、のではないかと。

205:日本@名無史さん
08/10/21 21:34:16
鎌倉幕府も室町幕府も天皇の子孫であることを宣伝しすぎていたから
本家本元の天皇家を滅ぼせなかったんじゃないかな
源頼朝も足利尊氏も自分はほかの武士どもとは違うと思う根拠が
自分の先祖は天皇だったということだったとしたら
天皇家が滅んでしまったら自分の尊血をも否定することにもなる
徳川家が源氏の血を引いているというのはかなりあやしいが
そういえば他の連中を卓越していて当然という根拠になるのならば
偽の家系図でも作らせて天皇の子孫ということにしちゃうわけだ
結論としては鎌倉幕府も室町幕府も天皇の子孫だったから滅ぼしづらかった
徳川はもうそんな土台の上に面倒だから乗っかっちゃっただけ

206:日本@名無史さん
08/10/21 22:09:36
某大藩の着到帳を参考までに。

江戸初期の着到帳では家臣の95%が衛門、兵衛へ尉がある。
この時代までは戦国の肩書きを使用していたと思われる。
同様に1600年末期の着到帳に衛門、兵衛の名は多いが尉が附いた者は一人も見当たらない。


207:189
08/10/21 22:14:16
>>195,206
江戸初期(慶安とか)のことしか念頭にありませんでした。
勉強になりました、ありがとうございます。

208:日本@名無しさん
08/10/21 22:54:57
>>205
鎌倉には院政、室町には南朝という敵があ(ry


209:188
08/10/22 01:28:13
丁寧な回答有難うございました。ちょっと感動しました。

210:日本@名無史さん
08/10/22 04:53:20
その王「タリシヒコ」って、誰なんですか?
「ヒコ」は男だから、推古帝ではないですよね?

211:日本@名無史さん
08/10/22 20:32:32
大名が城を作り終えた際、大工を殺して秘密保持したという話はどこまで本当なんでしょうか?

212:日本@名無史さん
08/10/23 01:10:57
>>205
「滅ぼす」なんて話はどこにも出てないんじゃない?


213:日本@名無しさん
08/10/23 15:45:18
>>210
推古帝、その代理人の聖徳太子、後見人の蘇我馬子、先代の用明帝という説がありますが…

ここでのアメタリシヒコを特定の人物の呼称、すなわち固有名詞として捉えること自体が
不適切なことではないかと、私は考えます…


214:210
08/10/24 02:30:15
>>213
レス、さんくす。
特定の人物の呼称ではない、
というのは、斬新な考えですね。

古代史の謎がみんな解けちゃうような
4~6世紀の記録が、ごっそりと
どこからかでてこないですかねぇ・・・w

215:日本@名無史さん
08/10/24 07:02:13
4~6世紀って字が書ける人がどれ位いたんだろう。

216:日本@名無しさん
08/10/24 14:51:05
>>214
仰るほど斬新な考え方なのでしょうか。
浅学にして寡聞な私は、このような説が存在しているのかどうか知りませんが、

・(アマ)タリシヒコは、推古帝より前の帝たちに時々用いられている。
 ※それも和風諡号の一部として。
・記紀の一次文献は、少なくともこの推古帝より前に成立したものだろうといわれている。
・意味は「天垂りし彦」。つまり、「高天原から垂下した(地の統治者に相応しい)士」というものらしい。
 ※一説には「天子」を和訳したものではないかと言われている。
・そもそも、推古・用明・聖徳太子・馬子らはいづれもタリシヒコを諱としていないし、諡号にもない。
・だから、この単語自体は本来、天皇の尊称だろう。

などと思ったからです。

『隋書』のこの文以下、登場する阿輩〇彌(アホキミ)や利歌彌多弗利(リカミタフリ)も、
天皇や皇太子を示す一般名詞に過ぎません。全般的に蛮族の伝奇っぽく風俗を
タラタラ書き連ねているわけですが、そういった中、タリシヒコは固有名詞であり誰それ
のことであると論ずるのにどれほどの意味があるのでしょうか。


217:日本@名無しさん
08/10/24 16:03:36
>>216続き
また、この隋書の記載は、ハッタリとバカシアイのステージである外交の場。
それもシナ皇帝が(特に風紀の面で)指導する場でのことだという点にも
注意すべきではないかと思うのです。

当時は(朝鮮問題などで)日本は対等外交を目指している局面のことです。
「女の王なんてやはり蛮族」と軽んじられたら、日本は困るのではないでしょうか。

それに、遣使が安易に主君の諱を言うことができるのでしょうか。
そもそも知っているかどうかすら疑わしい。言えたとしても精々、称号でしょう。
シナへの親書にしても、諱を書くかどうか… 

裴世清が謁見したのは(推古帝の代理人・後見人であった)太子や馬子かも
しれません。


218:日本@名無史さん
08/10/25 15:52:27
戦国時代、戦国大名とその正室は、一緒の部屋で寝ていたんでしょうか?
それとも別の部屋で寝ていて、大名がムラムラしたら
正室や側室の部屋に来ていたりしたんでしょうか。

また、その時代に現代で言う「寝室」は何と言っていたのかも
教えてください。

219:日本@名無史さん
08/10/25 21:52:26
奈良~平安時代の貴族の正装では飾り太刀を帯びるのが基本でしたが
あれって実際に太刀として使えた(刃があった)のでしょうか?

220:日本@名無史さん
08/10/25 22:14:42
>>219
刃はありました。
源氏物語で光源氏は物怪の前で刀を抜いたりしています。
下っ端は自分の主人の敵対する相手と道で会ったりすると
すぐに刀を抜いて刃傷沙汰を起こしたりしています。

221:日本@名無史さん
08/10/25 22:21:04
>>218
一般庶民は勿論妻と同じ部屋で寝ていたでしょうが
(そもそも部屋数もないし)
相応の身分の家では主人のいる「表」と婦人のいる「奥」は分けられ、
主人は普段は表で生活をし、夜は婦人たちの住む奥に渡ってきていました。
江戸時代の大奥などでは事前に将軍が今夜指名したい女性を
大奥の御年寄(という役職です)などに伝えておき、
指名された女性が寝所で大奥に渡ってきた将軍を待っていました。
戦国大名には大奥ほどの制度はありませんでしたが、
それなりに今日は奥に泊まるぞ、などと知らせておき、
正室なり側室なりに準備させておいたんじゃないでしょうか

222:日本@名無史さん
08/10/25 22:27:40
>>217
推古天皇はまだまだ女盛り。
夫の没後は天皇になりたい異母弟に犯されそうになったり、
いろいろ怖い目に逢っている。
異人にあって恐ろしい目にあったらどうしよう?
と思って男に代役を頼んだ可能性は十分あるよね。
女帝の国なんて野蛮だと思われたらどうしよう、という理由からではないでしょう。
隋書倭国伝にも実は卑弥呼のことが引用されてあって、
中国は日本は女王国だ、ということを周知していましたから。
(だからといって女王国の邪馬台国が蛮国で、
男王のいる対立する狗那国が立派だとは一言も言ってない)
日本書紀にも魏志倭人伝が引用されているのをご存じだと思いますが、
日本人も中国が卑弥呼のことを周知しているのは分かっていたので。

223:日本@名無史さん
08/10/26 18:00:44

秀吉は清州会議後、三法師の後見人となったハズなのに、いつのまに三法師の主君になったの?
当時「実力からみてそれが当たり前」ととらえられたとすれば、秀吉の世継も同じ目にあうって予想できただろうに
なんで秀吉は徳川を全力でつぶさないで、半島で遊んでたの?モウロクしてたの?


●●管領と●●探題ってどう違うの?
↑みたいなのと守護の関係はどうなってたの?


日本にも、いちおう「手盾」「持盾」というものはあったらしいけど
画像を探しても見つかりません。どこかにありますか?


江戸時代の出島の貿易ってどれくらいの規模だったの?
鉄砲伝来から普及まですごい早かったっていうけど、
江戸時代には需要のなくなった鉄砲鍛冶があぶれてたはずで、鉄砲輸出すれば儲かったはずじゃね?

224:日本@名無史さん
08/10/26 18:10:44
>>223
秀吉は三法師を擁立して柴田勝家を破った後、
今度は織田信雄(信長次男)を擁した徳川家康との争いになりました。
秀吉はこれを懐柔するために信雄に好条件を示して抱き込もうと考え、
このとき織田家の家督相続者を信雄とすることに同意、
三法師は織田家の家督相続者から外されました。
信雄は織田家の家督は継げたのですが、信雄を天下人として従おうという大名はおらず、
秀吉の世になりました。
成人した三法師は秀吉の養子となり、秀信と名乗り、秀吉の庇護を受けました。
秀吉が三法師の主君になったというより、三法師が成長する過程でいつのまにか
織田家の家督は別人のものとなり、いつしか秀吉が養父として庇護する立場になっていた
ということじゃないでしょうか。

225:日本@名無史さん
08/10/26 18:13:29
>>223
2.
●●管領は、室町幕府が置いた組織。
●●探題は、鎌倉幕府が置いた組織です。

いずれも重要な地域を総括する幕府の出張所などの位置づけで、
長官には将軍や執権の一族の者が就任するなどしました。
守護は原則一国の支配にとどまりますから、
広範囲の地域を統括する探題や管領の支配下に置かれていました。

226:日本@名無史さん
08/10/26 18:26:16
なぜ朝鮮人は嘘をつくのか Why does the Korean tell a lie?
URLリンク(jp.youtube.com)
URLリンク(jp.youtube.com)
URLリンク(jp.youtube.com)

227:日本@名無史さん
08/10/26 18:45:06
(^O^)/韓国経済崩壊特別前夜祭参加者募集中♪

[会場はこちら]ENJOYKorea日韓翻訳掲示板HOT!討論板
URLリンク(bbs.enjoykorea.jp)

※祝賀会の参加者を集めてます♪コピペしてばら撒いてください
韓国支援反対運動も開始しています。


228:日本@名無史さん
08/10/26 19:07:42
>>223,225

室町幕府も奥州探題や九州探題を設置しています。
「管領」は将軍の下で政務を統括する役職と考えると良いと思います。
将軍-管領とか鎌倉公方-関東管領とか。
鎌倉時代の将軍-執権をイメージするとわかりやすいかもしれません。

「探題」は225さんの仰るとおり地方の出先機関で、
九州や東北など一定地域を広域的に管轄しました。

奥州探題の前身が奥州管領だったりと、すっきりとしない部分もあるのですが…。


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