08/12/31 13:34:23
>>197
>不比等の外孫が石川氏の外孫よりも優先するから。
意味不明で根拠に乏しい。
聖武朝まで藤原家出身の正后がいないどころか、藤原氏所生の皇子がかつて皇位に就いた事はない。
光明立后の詔に神話を用いなければならないほどの異常事態だったのは、何故だろうか?
つまりその前の時代は、藤原氏の娘が後宮に入って皇子を産むまでは許容範囲であったが、
それ以上の判断は天皇家の歴代の家長に委ねられていたからである。
藤原氏は不比等の時代では盤石な地位を得た貴族では無く、不比等の努力が花を開いたのは
むしろ彼の子女の時代であると見なされているから、宮子が皇子を産んだ時点では
ようやくその足がかりを得た新興貴族であるという見方が有力だと思われる。
それは大宝律令施行後も、持統・文武は首に親王宣下を認めていないこと、
=続日本紀において「首親王」という表記をされていないことからも伺える。
※後に皇位を継承した氷高内親王のように、天皇の子・兄弟には「親王・内親王」の称号が
既に使用されていた。
元明女帝の時代に、突然理由なく文武帝の後宮にいた石川氏と紀氏を廃して
文武帝の遺児は首皇子だけになったが、彼女達の密通説は正史には記されず、推測に過ぎない。
けれど二人が廃されたために、首皇子が皇位継承者として認知されるようになっていったが、
元明がトラップ(元明の孫である吉備内親王の子が皇孫であるという詔を発した)を用意したため、
首が元明・元正にとって唯一の継承者であるという見方をするのは難しいという見解が、
長屋王家発掘調査後に増えたと思われます。
長文を書いたけれど、つまり197は藤原氏の力を過剰評価しているということで。