【推古】 歴代の女性天皇について 【後桜町】at HISTORY
【推古】 歴代の女性天皇について 【後桜町】 - 暇つぶし2ch150:日本@名無史さん
08/11/18 18:37:49
スイコミ天皇

151:日本@名無史さん
08/11/18 20:03:59
明正即位は朝廷と幕府、というよりは後水尾と秀忠との行き違いのような気がする
尊厳だけは守ろうと必死の後水尾に対し逃げ道まで塞ぐような対応
切れた天皇が開き直って女一宮に譲位(前にも打診してる)
秀忠は激怒したらしいが幕閣としては問題の収拾を第一に
まず非公式に細川三斎を上洛させ情報の収集と内々の解決に当たらせ
それに基づいて既成事実の追認という形で秀忠を説得したと思われる

後桜町の場合はそれに比べはるかにノーマル(天皇家内部の問題として済んでる)
弟桃園の死後幼少でかつ病弱だった甥に替わって中継ぎとして即位
女子ではあるが桜町のいわば嫡妻の子だったので切り札としてリザーブされてたかも
その後甥のみならず血統が移った光格、仁孝までも後見してる

152:日本@名無史さん
08/11/21 22:51:22
後水尾は若いころから譲位、譲位、という天皇だったんだよ
最初はお四津事件での幕府の処置に激怒
徳川の嫁を娶るくらいなら譲位だったか
譲位、譲位、と言っては実際には譲位しないから
幕府もその手には乗らんぞという感じだったんだろう
結果的に後水尾は譲位後、4人の子が天皇に即位して院政を敷き、
徳川和子の計らいで幕府の出費により広大な離宮も完成、
譲位後のほうが楽しんでいた感じがするが。

後桜町が嫡女として天皇になったのがノーマルなら
明正天皇もまた後水尾の嫡女
(和子の男子は育たず和子の産んだ育った子の中では一番年上の皇女だった)
いずれも男子が育たなかったためという紆余曲折はあるにしろ
明正の即位がそれほど予期できないものだったとも思えない
たとえば後水尾が早死になどした場合
幕府はとりあえずその正妃である中宮和子の女子を即位させること
ありえたと思うから。

153:日本@名無史さん
08/11/22 02:26:05
>>152
そこまでいえるかな?
後水尾が何度も譲位をいいだしたのは事実だが
個人的な理由でなくすべて政治的に幕府が自己の朝廷政策を強要した時
いわゆる紫衣問題の後病気を口実に譲位(女一宮=明正へ)の打診も幕府に拒否されてる

当時は家康死後の幕府の制度的確立期で対外的に強行策が目立つ
(些細なことで改易された大名も多い)
事実この後京都所司代などを通じ譲位撤回の工作をしている
追認した後も上皇に御料を献じず翌年になって問い合わせが合ってから実行してる
ぎくしゃくした関係が修復されたのは秀忠死後
その頃には後水尾も明正の後に即位した後光明に幕府との協調を説いたそうな

154:日本@名無史さん
08/11/22 08:02:20
後水尾の譲位の理由は病気治療(鍼灸)のためだと、小槻官務の日記にある。
個人的理由が最も大きな動機だと見る研究者もいるよ。

155:日本@名無史さん
08/11/22 20:27:58
>>153
政治的理由からの退位ならば一切の政務から手を引くべきなのに
後水尾は政治から手を引かず院政を行っていたよね?
そもそもこの時代天皇が退位したからって政治が動くわけがない。
ましてや徳川家の外孫の天皇誕生なら
むしろ幕府にとっては後水尾以上にやりやすいだろう。
後水尾は幕府とは上手くやっていたし、それを裏付けるように
東福門院とも晩年までともに行幸するなどして夫婦円満だった。
幕府の権限が強くなって娘に譲位なら
ますます幕府にとっては願ったりかなったりなのだが。

156:日本@名無史さん
08/11/23 18:44:46
>>155
それだけ書くんだから根拠は有るんだろうな?
反対の史料だらけだけど

157:日本@名無史さん
08/11/25 21:13:44
>>156
史料にないことを書いているのはお前だろ?
お前の言っていることと反対の史料はあるんだが。
お前の書き込みには史料の引用が全くないだろ。
天皇と幕府が対立するのは何も後水尾に限ったことではない。
それで、後水尾が退位して何が変わったのかね?

158:日本@名無史さん
08/11/25 23:09:55
>>157
東山御文庫所蔵記録、大内日記、資勝卿記、本源自性院記、細川三斎の忠利宛書簡他多数
・・・
顔を真っ赤にしてまでデタラメを書き込む理由がわからん

159:日本@名無史さん
08/11/26 21:28:45
>>158
その史料のどこにもお前の主張する内容は載ってないのだが?
顔真っ赤にしてるのはお前だろう。
それとも史料を読むことができないのか。

160:日本@名無史さん
08/11/26 22:33:51
政仁、淋病だったんだろ。
お灸したいから譲位したって聞いたけど。

161:日本@名無史さん
08/11/26 23:53:50
>>159
どうやら真性の粘着き○○いにあたったようだ
気持ち悪いから以降スルー

162:日本@名無史さん
08/11/26 23:59:16
興子は女帝だから、後に徳川の血の入った天皇に繋がらないから、就けたんだろ。
興子の異母弟に伊達の従兄がいて、中継ぎで天皇になったけどな。
興子と智子では、同じ江戸時代の女帝でも、背景がかなり違うな。

163:日本@名無史さん
08/11/27 14:36:22

推古は蘇我だろ!



164:日本@名無史さん
08/11/27 21:24:05
興子の同母妹は結婚したっけ?

165:日本@名無史さん
08/11/27 21:49:59
明正天皇の同母妹

昭子内親王(1625-1651)
 13歳で近衛尚嗣に降嫁。 好君(伏見宮貞致親王室)を産む。27歳で没。

顕子内親王(1629-1675)
 生涯未婚。母東福門院の離宮であった岩倉御所に住み、47歳で死去。

賀子内親王(1632-1696)
 13歳で二条光平に降嫁。隆崇院(甲府藩主徳川綱重室)を産む。65歳で没。

菊宮(1633-1634)
 2歳で夭折。

166:日本@名無史さん
08/12/12 22:33:26
後桜町も明正も嫁がせる気は無かったってことでいいのか?

167:日本@名無史さん
08/12/15 21:31:43
というか、皇族か摂関家、徳川将軍しか選択肢がないとすれば、条件にあう男性がいない可能性がある。

168:日本@名無史さん
08/12/17 23:07:18
>>162
和子の産んだ男子が夭折せずに育てば当然天皇になっていた。
徳川家を外祖父とする男性天皇が立っていたわけだ。
明正天皇は女帝だから帝位につけたというのは正しくない。
幕府は本来和子の産んだ皇子への譲位を求めていたからね。

169:日本@名無史さん
08/12/24 08:54:03
後桜町天皇(智子)は政治的に有能だった気する。
後継者をよく指導していたみたいだし。

ただ明正天皇は完璧中継ぎの名前だけだったけどな。

摂関家以外にも嫁いだ皇女はいなかったっけ?

170:日本@名無史さん
08/12/27 07:58:42
江戸時代の女帝に関しては此迄の書き込みに尽きてると思う・・・
古代の話を聞きたい(出来たら神功、飯豊を含めて)

171:日本@名無史さん
08/12/28 19:11:12
なぜ飯豊のマソコ初体験をわざわざ記述しなければならなかったのか?

172:日本@名無史さん
08/12/28 19:44:30
URLリンク(emperor.seesaa.net)
URLリンク(nurupopopo.seesaa.net)

173:日本@名無史さん
08/12/28 20:54:11
推古~皇極~持統~元明~元正の時代までは、天皇になる為には母親が皇族の女で尚且つ曽我氏の血筋を引くことが条件だった。
ところが文武の妻が曽我氏出身ではなく藤原氏出身であったため、聖武の即位が遅れたのである。
聖武の母親が曽我氏の血筋を引く皇族出身者であったならば、元正即位は無かったであろう。

174:日本@名無史さん
08/12/28 21:04:32
それが絶対条件だったら有間事件も壬申の乱もおこらなかったのに

175:日本@名無史さん
08/12/28 23:02:59
有間はクーデターを未然に阻止するために屠られた牲であっても
有力な皇位継承者とは言い難い。
孝徳天皇在位中に立太子すらされなかったのは、孝徳天皇自身が権力を掌握しきれなかった
ことが大きいから、もし気狂いのフリを続けられたら、殺されずに一生を終えたと思われるよ。

壬申の乱が天下を二分した戦いに発展したのは、天智路線VS反天智路線だったからであって、
大友が仮に蘇我氏縁の皇族であったとしても、止める事は難しいのでは?と思う。

176:日本@名無史さん
08/12/29 19:53:35
>>173
皇極は蘇我の血からかなり遠かったはずだが。
息子の中大兄皇子が蘇我氏を討ったくらいだし。
中大兄皇子は続いて蘇我氏を外戚とする異母兄古人大兄皇子も討っている。
天智による度重なる蘇我氏弾圧のために、
蘇我氏出身の天皇妃は天智天皇の後宮を最後に絶えてしまった。
これでは蘇我氏を母方とする天皇は誕生しようがない。
それほどまでに蘇我氏の血を尊んだのならば、なぜ蘇我氏を失脚させたのか。
文武天皇の後宮では蘇我氏の末裔石川氏出身の嬪が、
身分をはく奪され、その息子は皇族から末梢されている。

177:日本@名無史さん
08/12/29 22:01:40
>>175
孝徳天皇と大后間人皇女の子ならば、明かに最有力な皇位継承者だったと思うよ。
全権を掌握していたと思われる天智天皇ですら、
卑母の息子は帝位を全うできなかった。
天武天皇が彼らと違ったのは皇族出身の皇后との子を後継に据えたこと。
子供が母方の親族に囲まれて育つ当時、
卑母であるということはそれだけで最大の汚点だった。

178:日本@名無史さん
08/12/29 22:20:29
>>176
> 天智による度重なる蘇我氏弾圧のために

蘇我氏が弾圧されたわけではない。
ある意味、蘇我氏内部での主導権争いであったとも言える。
蘇我氏が全員やられたわけではないからな。
その後陰謀好きな藤原氏にしてやられたのは、「その後の話」。


179:日本@名無史さん
08/12/29 22:24:56
>>178
蘇我蝦夷ー入鹿が滅ぼされたときには
その地位を狙う傍系の蘇我石川麻呂の裏切りがあった
しかし石川麻呂が滅ぼされたときほかの蘇我氏が裏から糸を引いてたっけ?
蘇我氏の失脚をもくろんだのはあくまでも蘇我氏と血縁の薄い中大兄皇子であって、
蘇我氏の内部争いだけで滅びるはずもない

180:日本@名無史さん
08/12/29 22:30:53
だから~
それはその後の話だと言ってるだろうが。

181:日本@名無史さん
08/12/29 22:47:43
>>180
173は推古~元正までを蘇我氏外戚の天皇だと規定している。
だけど、実際には違うよね。
君はどこまでが蘇我の息のかかった天皇だと思ってるの?
女帝では推古ぐらいだよね?
その推古も夫の没後天皇の任命権を一手に持つなど
けして蘇我氏の操り人形ではなかった。

182:日本@名無史さん
08/12/30 00:38:56
>>179
蘇我日向が石川麻呂と乙巳変以前から対立していたね。

>>181
蘇我腹の女帝
推古、持統、元明
藤原不比等が台頭したのは蘇我氏の影響力という説もあるが
そのわりには石川氏が振るわず終わっているな。

183:日本@名無史さん
08/12/30 17:37:47
>>182
推古はともかく、持統、元明は外祖父やおじが自害した後で即位している。
母方が蘇我氏であることでどういう得をしたのか正確に書こう。
持統天皇は夫天武天皇の後宮に蘇我系の妃が入ることを許さず、
自ら皇后として全権力を手中に収めていた。
母方が蘇我氏であることが絶対条件なら草壁皇子は立太子できず、
ましてや舒明、皇極、天智、天武、文武らの各天皇が即位できないのだが。

184:日本@名無史さん
08/12/30 17:40:43
推古、持統、元明はいずれも生まれながらの天皇だったわけではない。
両者に共通するのは天皇たる夫を亡くしたあと未亡人としての即位であるということ。
父方が天皇であること、そして夫が天皇であること、その大后(皇后)であったことが
3女帝が即位した絶対条件であって、必ずしも母方が蘇我氏であったためではない。
絶対条件はどれが欠けても3人は女帝になれなかっただろうが、
母方は大した条件ではない。

185:日本@名無史さん
08/12/30 19:52:51
>>183
天武後宮で大人しく過ごした蘇我大蕤娘のことも思い出してやって下さい。
ちなみに文武の後宮にも、石川麻呂系の石川刀子娘がいましたので、
持統が蘇我氏を冷遇しているどころか、「後宮に蘇我氏の女性有り」と
いう不文律は、この時点では踏襲されています。

>>184
その説でいくと、天智崩御後、倭姫皇后が次期天皇になっても良いと
思うのだけど。
父が天皇で無いのに即位できた皇極のような前例があるのだから
おかしいと思わない?

186:日本@名無史さん
08/12/30 20:21:55
>>185
兄に追い詰められた大海人皇子は
倭姫に後継を求めたと伝わっているよね。
倭姫が中継ぎで即位することは十分可能だったけれども
倭姫はこれを固辞したために卑母の大友皇子の出番となった。
そもそも倭姫が中継ぎで即位したところで
倭姫と天智天皇の間には子はなかったから、いずれ必ず皇位継承問題は起こる。
逆に天智天皇とその大后倭姫との間に正統な皇子があったのならば、
諸豪族もみすみす大海人皇子につかなかっただろう。

187:日本@名無史さん
08/12/30 20:25:20
>>185
>文武の後宮にいた石川刀子娘

藤原不比等の娘の宮子が文武天皇の夫人だったのに対し、
石川刀子娘はそれより格下の嬪。
これでは藤原氏出身の宮子の男子が蘇我系よりも優先的に即位するのは自明。
蘇我系を母方に持つことが絶対条件ならば
なぜ石川刀子娘が夫人にすらなれなかったのかを説明してくれないと。

188:日本@名無史さん
08/12/30 20:26:10
>>185
>母方が蘇我氏であることが絶対条件なら草壁皇子は立太子できず、
>ましてや舒明、皇極、天智、天武、文武らの各天皇が即位できないのだが。

母方が蘇我氏ではないこれらの天皇が即位できたのはなぜ?

189:日本@名無史さん
08/12/30 20:47:16
>>187
大宝律令によって、後宮にいる女性達の地位は
父親の地位によって定められた。
これは石川刀子娘の父が大納言・藤原不比等よりも
下風であったことを示すから。
その時、「嬪」という身分を新設し、不比等よりも身分が低い
父親を持つ石川刀子娘と紀竃門娘に宛がわれた。

けれども、文武元年8月から9月に石川刀子娘が妃、
宮子が夫人とされたのは、
前者が名門貴族出身で、後者が新興貴族出身だからとも
言われているからですが。

つまり、二人は不比等も編纂にかかわった大宝律令によって
身分を格下げられたという訳。

190:日本@名無史さん
08/12/30 20:53:13
>>186
たらればは好まないけれども、
・大友皇子が倭姫皇后の子であった
・二人ともに有能だった
・白村江の戦いで大敗しなかった←これが反天智勢力を生んだ最大の原因かと

これらの諸条件が揃えば「もしかすると」という推測で遊べるかも。

191:日本@名無史さん
08/12/30 21:08:13
>>188
何故私にレスするのかな?
私は「後宮に蘇我氏の女性有り」とは書いたけれども、
母方が蘇我氏だからとは一度も書いたことが無い。

舒明天皇→蘇我本家のバックを得て即位。後宮には蘇我法提郎女がいた(子は古人大兄皇子)
皇極天皇→同上。息子が起こした乙巳の変に驚愕して、即退位した。

この時点で最有力皇位継承者と目されたのが古人大兄皇子だが、
蘇我本家滅亡直後に出家するも、謀反をでっち上げられ殺害され、
しばらくの間有力な皇位継承者が不在となる。

天智天皇→敗戦処理責任者として即位。後宮には持統生母(死去)、
     元明生母が蘇我氏出身者としていた。

天武と文武の後宮については>185参照

192:日本@名無史さん
08/12/30 21:31:57
倭姫皇后は、壬申の乱で大海人方に誅殺されたと考えてOK?

193:日本@名無史さん
08/12/31 01:25:10
倭姫の動向は全く不明。万葉集の「中皇命」に比定して即位していたとする説もあるがかなり無理あり。
ただ中継ぎでも即位していたなら、葛野王に皇位継承されていた可能性も(全くの個人的意見です)。
古代の女帝史を語る上で、「即位しなかった皇后」間人と倭姫はその微妙な時期もあって気になる存在。

194:日本@名無史さん
08/12/31 08:00:08
俺が >>173 を書いたのだが・・・
「蘇我氏の血筋を引く者」ということが重要であって、母方が蘇我氏と言った訳ではない。

>>192
壬申の乱の後、大津宮廷の女性たちは皆無事。
例外は大友の生母(伊賀出身)など、大友の血縁者だけに限定。

なぜならば、ほとんど皆大海人皇子の血縁者だから。

195:日本@名無史さん
08/12/31 09:14:41
動向が全く不明ということは誅札の可能性も高いんでは?

もともと倭姫は大化改新の「戦犯」古人大兄皇子の娘だし、
壬申の乱でも「戦犯」近江朝廷の中枢にいたわけだし。
大海人にとっては憎んでも憎み足りない兄天智の嫁さんだし。

196:日本@名無史さん
08/12/31 09:32:22
もし倭姫に有力な後見者がいれば、天武にとって生かしておけない存在になった
だっただろうけれど、立后する前から倭姫は弧女に等しい存在だったから、
戦犯として殺す価値がないと解釈されたのかな?と思った。

それと、皇后を殺すことは当時前代未聞の話だから、バランス感覚に優れた天武が
断行するとは思えない。これが天智ならやりかねないけれども。
また、生き残った近江方の大臣達への処罰の際、倭姫が連座した形跡が無いということは、
歴史書からその後の人生を抹殺されたことを持って、倭姫への処罰が終了したのかも?と思う。

個人的には、大津皇子が「天智の元で養育された時期がある」という記録から、
一時、大津と大伯が何らかの形で倭姫と接触があったかも?という説に惹かれる。
倭姫の挽歌と大伯の挽歌が似ていて、大伯は倭姫の影響を受けている?という説を
読んだからだけど、それがもし事実なら、
一時でも大津姉弟の養育に携わった倭姫を天武は殺せないだろうな、と思う。

197:日本@名無史さん
08/12/31 11:04:12
>>189
石川氏が藤原不比等より下位に置かれたこと自体、
石川氏が後宮に娘を送り込むことに支障をきたす事態。
不比等の外孫が石川氏の外孫よりも優先するから。
そもそも蘇我宗家が滅んだ時点で天皇が蘇我氏の血を引く必要性はなくなっている。
持統天皇、元明天皇は母方で蘇我氏傍系石川麻呂の血を引くが
外戚の一族である蘇我氏の政治介入を認めなければ
蘇我氏の官位を引き上げることもなかったから。

198:日本@名無史さん
08/12/31 11:40:15
>>196
天武は女性を処罰していない
大友皇子の正妃でその間に嫡男すら産み
大友皇子の没後は近江朝廷側に擁立されることもあり得た
わが娘十市皇女すら殺していない
倭姫王はもともと異母兄古人大兄皇子を殺した天智が罪滅ぼしも兼ねて
大后に迎えた女性
父の恨みで天智を殺すどころか天智を支えた大后
天武が殺す必要などどこにもない
そもそも倭姫王を殺すなら倭姫王に一番即位の可能性があった天智没の直前だろう
天智の没後時間のたった壬申の乱のころには全権はすでに天智の子である大友皇子が掌握していた
政権を運営していたのは大友皇子とその正妃である十市皇女
政界を引退をしていた倭姫王には何の責任もない

199:日本@名無史さん
08/12/31 13:34:23
>>197
>不比等の外孫が石川氏の外孫よりも優先するから。

意味不明で根拠に乏しい。
聖武朝まで藤原家出身の正后がいないどころか、藤原氏所生の皇子がかつて皇位に就いた事はない。
光明立后の詔に神話を用いなければならないほどの異常事態だったのは、何故だろうか?
つまりその前の時代は、藤原氏の娘が後宮に入って皇子を産むまでは許容範囲であったが、
それ以上の判断は天皇家の歴代の家長に委ねられていたからである。

藤原氏は不比等の時代では盤石な地位を得た貴族では無く、不比等の努力が花を開いたのは
むしろ彼の子女の時代であると見なされているから、宮子が皇子を産んだ時点では
ようやくその足がかりを得た新興貴族であるという見方が有力だと思われる。
それは大宝律令施行後も、持統・文武は首に親王宣下を認めていないこと、
=続日本紀において「首親王」という表記をされていないことからも伺える。

※後に皇位を継承した氷高内親王のように、天皇の子・兄弟には「親王・内親王」の称号が
既に使用されていた。

元明女帝の時代に、突然理由なく文武帝の後宮にいた石川氏と紀氏を廃して
文武帝の遺児は首皇子だけになったが、彼女達の密通説は正史には記されず、推測に過ぎない。
けれど二人が廃されたために、首皇子が皇位継承者として認知されるようになっていったが、
元明がトラップ(元明の孫である吉備内親王の子が皇孫であるという詔を発した)を用意したため、
首が元明・元正にとって唯一の継承者であるという見方をするのは難しいという見解が、
長屋王家発掘調査後に増えたと思われます。

長文を書いたけれど、つまり197は藤原氏の力を過剰評価しているということで。

200:日本@名無史さん
08/12/31 13:38:27
>>198
倭姫皇后と、大友皇子の生母の死没年が不明で、判明する事はこの先もないであろう。
なので彼女達への処罰と、その後の人生については永遠の謎であるという見方で良いのでは?

201:日本@名無史さん
08/12/31 18:57:07
>>199
文武天皇に皇后がたてられなかったのはなぜ?
だらだらと意味のない長文は結構。
藤原氏を過大評価しているというのならば、
なぜ文武天皇に皇后が存在せず
最も上位である夫人が藤原宮子だったのか。
誰を皇位につけるかは天皇の判断だったとはいえ
皇族を母にも持つ皇子を豪族の娘を母に持つ皇子が押さえて即位したり
中央豪族を母に持つ皇子が地方豪族を母とする皇子に超えられたことがないように
天皇家の意向以上に母親の身分が大宝律令のはるか以前から重視されていたのは明らか。
その上でまだ、文武天皇の後宮で最上位にあった藤原宮子が
石川氏よりも軽んじられていたという理論は通らない。

>大宝律令施行後も、持統・文武は首に親王宣下を認めていないこと

長々と駄文をかく割に間違いの多い人だ。
親王・内親王の称号を使うようにという勅命がいつ発せられたのか、
まずは「続日本紀」を読んでみることから始めよう。

202:日本@名無史さん
09/01/05 19:57:25
>>199
そもそも、石川氏に皇子がいたというのも続日本紀と新撰姓氏録の合成研究じゃなかったっけ?

203:日本@名無史さん
09/01/19 17:38:24
>>199
>聖武朝まで藤原家出身の正后がいないどころか、藤原氏所生の皇子がかつて皇位に就いた事はない。

あの~藤原氏が出来たのって実質的には不比等からなんですが。
それ以前に「藤原氏所生の皇子がかつて皇位についたことがない」のは当然じゃ。

中臣氏が天皇の嫁さんをほとんど出さなかったのはカバネが連だったからでしょ。大伴・物部も同様。
何でかは知りません。誰かおせーて。神別氏族だから?

204:日本@名無史さん
09/01/21 04:14:04
>>203
あまり自信は無いが・・・
大化前代に於いては大王家は祭は別にして政は絶対権力者では無かった
同族、臣姓豪族(君姓を含む)との通婚が多いのは慣習と政治力学の所産
政治的には匹敵してる連姓との通婚がほとんど無いのは彼らの政治基盤が軍事豪族ということに有ったのじゃないか?
たぶんもともとは神の言葉を伝える役割から神と一体化していった者とすれば、婚姻はなじまない(慣習も大いに影響してる)

壬申の乱以降はそういう制約はない
新たな姓を作り出し絶対権力者にまで昇りつめた天皇家にとって何の制約も無い
とはいえ慣習の伝統は根強い
藤原氏の台頭まで変化は無かった

答えにならなくてもカンベン

205:日本@名無史さん
09/01/21 06:02:43
臣姓豪族=五摂家
連姓豪族=将軍家 みたいなもんか。

206:日本@名無史さん
09/01/21 06:21:14
>>204です
読み返しても単なる主観に過ぎません
勿論記紀等を精読した結果の積もりですが・・・
ご意見頂ければ

207:日本@名無史さん
09/01/21 07:25:12
連姓の連中は大王の家来が由来、臣姓の連中は機内の同盟者由来

徳川将軍家が家来の旗本から嫁を貰うより、大名から嫁を貰う感じになるのかな


208:日本@名無史さん
09/01/21 07:29:55
>>206
卓見だと思います。
壬申の乱を経ることによって、天武天皇が絶対的な権力(もしくは権威)を獲得したと考えられます。
「天皇」を称したのは、天武天皇が最初だったはず。
それまでの部族連合のかしらであった“おおきみ”から天皇への変化に注目すべきでしょうね。

209:日本@名無史さん
09/01/21 21:07:08
>>203
「連」を名乗っていたのって、大和王権のもとからの家臣なんじゃなかったっけ?
自分の家来と政略結婚をしなくとも家来が裏切ることはないと思っていたので
連から妃は出なかった。
一方、「臣」は大和王権に匹敵する豪族の一族であり、
大和王権はこれを取り込むために盛んに政略結婚する必要があった。
よって、大王一族内の血族を深めるための大王一族内での婚姻か
「臣」との婚姻が重要だった。
鎌足がこれまでの既成概念をすべて打ち破ったんだろうね。
娘を大海人皇子と大友皇子の両方の妃にし、どっちが勝ってもよいようにした。
でもこの時点ではまだ藤原氏の娘は地方豪族の娘と同程度の扱いしか受けなかったけどね。



210:日本@名無史さん
09/01/21 22:45:17
鎌足じゃあないでしょうな。
やったとすれば不比等。

211:日本@名無史さん
09/01/21 23:04:05
「臣」と「君」の違いがわからん。
吉備氏、出雲氏が「臣」だし、弱そうな氏族が「君」だったりする。
独立性の強さの違いだろうか。しかし、三輪氏は崇神朝の子孫なんじゃないか?

212:日本@名無史さん
09/01/21 23:20:56
>>210
大友皇子は壬申の乱で死亡。
藤原耳面刀自は妃になったのはそれ以前。
耳面刀自の弟にあたる不比等は壬申の乱のときにはまだ14歳。
鎌足が入内させたんじゃないの?

213:日本@名無史さん
09/01/22 00:46:10
基本的かつ大雑把にいうと、
「臣」は崇神以前に分かれたとされる皇別氏族。
「君」は崇神以降に分かれた皇別氏族。
これらは八色の姓で「朝臣」を与えられた(継体系以降の皇別は「真人」)。

三輪君は同族とされる鴨君・胸形君と並んで、神別氏族ながら君姓、朝臣姓を与えられた例外。
私の保守的史観からすれば、三輪君は天皇家がヤマトの中心となる前の磯城地方の邑長。
神武の皇后はこの氏族から出ている。ある意味、天皇家以前のこの地域における一番の有力者(王)。
余談ながら、纏向石塚やホケノ、茅原大墓などのホタテ風の墳墓は、三輪君に帰属するものと私は考えている。
出雲の「臣」はたぶん八色の姓以降の姓。それまでは(与えられていたとすれば)出雲「国造」。

214:日本@名無史さん
09/01/22 00:53:40
>>209
それが通説だと思いますが・・・

私の主観では雄略の死後後継者難から大和政権内部で首長の地位が低下し、一種の空位時代があったと考えます
(紀のこの辺の説話は前後に比べて特異な点がある)
収拾されたのは継体擁立時で
大きな役割を果たした大伴、物部両氏は従来のいわば譜代の立場を越えて臣姓豪族に並ぶ地位を獲得したと考えます
証明は出来ませんが・・・

215:日本@名無史さん
09/01/22 03:22:38
>>213
>三輪君は天皇家がヤマトの中心となる前の磯城地方の邑長
三輪氏が磯城の地に土着したのは6世紀半ばらしい(和田萃)。
これ以前の磯城地方は、磯城県主の拠点と考えたほうがいい。

>>214
>譜代の立場を越えて臣姓豪族に並ぶ地位
連が譜代なら、臣は外様だろ。
臣姓豪族の台頭≒蘇我稲目の台頭と考えて差し支えないと思うよ。

216:日本@名無史さん
09/01/22 10:06:10
蘇我以前の葛城、平群、巨勢は台頭とは言わないのですか

217:日本@名無史さん
09/01/22 21:33:00
平群、巨勢は6世紀後半以降の新興氏族という説が有力。考古学的に見てもそう。

218:日本@名無史さん
09/01/26 04:24:19
>>217
寡聞にしてそんな話は聞いた事も無いが・・・
ソースが有るのなら宜しく

219:日本@名無史さん
09/01/26 05:32:37
直木孝次郎『日本古代の氏族と天皇』
辰巳和弘『地域王権の古代学』
加藤謙吉『大和政権と古代氏族』 etc.

激しくスレ違いだなsage

220:日本@名無史さん
09/01/26 19:37:44
>>216
大和王権のごく初期から婚姻関係を結んでいる葛城氏は
大和王権成立時から勢力を二分するほどの大豪族だったのだろう。
平群氏は応神のあたりから活躍が見えるからやはり
大和王権成立時からの有力氏族じゃないか。
雄略朝に大豪族葛城氏が滅ぼされたことで目の上のたんこぶがなくなり、
大臣として目立った活躍をするようになったが。
巨勢氏は継体朝に突如として現れる氏族。
欽明朝に忽然と現れる蘇我氏同様、この辺りの勢力関係は
継体天皇の出自も含めて不明な点も多い。
武内宿禰とか、存在が曖昧な人物を出してくるのはやめてねw

221:日本@名無史さん
09/01/26 20:48:45
>>219
直木先生の90年以降の論文は尊重はするがお年のせいか実証を欠いてる感じ(蓋然性ばかりが目立つ)
後の二書はいわゆるデムパでは?


222:日本@名無史さん
09/01/26 21:00:00
これがデムパって、普段は古田や小林でも読んでる人か。

223:日本@名無史さん
09/01/26 21:34:40
推古天皇て36年も在位したのかよ昭和明治に次ぐ年数じゃね?これしかも古代でこんな長期なんて
しかも39歳~75歳死ぬまでなんてスゲーなおい
蘇我馬子とか厩戸皇子とかいたのにしかも死んだのそいつらより後だし

224:日本@名無史さん
09/01/26 22:15:47
>推古天皇て36年も在位したのかよ

継体以降では、歴代第6位の在位日数(もちろん1位は昭和天皇な)。

225:日本@名無史さん
09/01/26 23:35:19
推古って新羅の女王をモデルに創作された女帝だろ?

226:日本@名無史さん
09/01/27 00:57:38
持統は天武を殺して自分が天皇になったのかな

227:日本@名無史さん
09/01/28 00:43:57
推古天皇の豊御食炊屋比売命って名前はちょっとあんまりじゃね?

228:日本@名無史さん
09/01/29 13:52:29
諡号にしては異例かもね

229:日本@名無史さん
09/01/30 07:41:13
推古天皇の諡号豊御食炊屋比売命はいつつけられたの?
死後すぐ?それともずいぶん後?

230:日本@名無史さん
09/01/31 01:13:10
天寿国繍帳銘に既に「等巳弥居加斯支移比弥乃弥己等」と
見えているんだが、この銘文の成立時期が問題になるな。

231:日本@名無史さん
09/02/02 21:24:57
>>226
天武が死んでから持統が即位するまで何年空位があると

232:日本@名無史さん
09/02/16 22:44:23
推古天皇の名前かしきやひめっておいしいごはんつくるお姫さまっておいしそうな名前。
最近白い炊き立てのごはんがおいしいよ。

233:日本@名無史さん
09/02/17 14:39:33
命乞いする天武を冷たく見下ろし
「殺っておしまい」 と命じる持統

萌えるね

234:日本@名無史さん
09/02/19 10:33:17
>>232
素朴な名前は諡号とうより本人が生きている間の実名っぽいけどね。
厩戸(馬小屋)なんて名前を皇族につける時代だから。
豊御食はそれに合わせた尊号なのかも。

235:日本@名無史さん
09/02/19 10:39:25
推古天皇の存命中のお名前は「額田部皇女」じゃなかったっけ

236:日本@名無史さん
09/02/19 20:34:21
書紀に「橘豊日皇子」「開別皇子」とあるのも生前の名前とは思えないしね

237:日本@名無史さん
09/02/20 01:21:23
額田部が本名。
氏姓制度が整ってから平安に入るまでは特に皇族は苗字みたいな名前が多い。
臣下でも蘇我倉山田石川麻呂なんてドコまでが苗字だ?とか言いたくなる。

嵯峨天皇の子供から、正良・秀良・基良・・・とか、アキラ・トオル・ヒロシ・ツトム・・・とか急に名前っぽくなる。

238:日本@名無史さん
09/02/20 03:22:26
>皇族は苗字みたいな名前が多い

そりゃそうだ。当時は扶養氏族のウジ名から名付けるのが慣例だもの。

239:日本@名無史さん
09/04/18 20:22:07
age

240:日本@名無史さん
09/04/27 20:41:45
>236

「橘豊日皇子」は「橘」が本名?で豊日は尊称みたいなもの?
「開別」の意味は何だろう

241:日本@名無史さん
09/06/20 21:22:20
持統天皇って性格が親父にそっっくりだな。
ヤだな・・・

242:日本@名無史さん
09/06/29 20:29:12
政治家としては親父以上の切れ者ではないかと>持統

日本で初めて律令の編纂を命じて、自分が生きている間に
完成させて、孫・文武天皇の名で全国に頒布させたのだから。
その前にあった浄御原令は律が無いんだよね。

親父や旦那ですら成し得なかった偉業だから、
良くも悪くも天皇家における女傑だろうね。

243:日本@名無史さん
09/06/29 22:19:18
神功天皇

244:日本@名無史さん
09/06/29 23:03:35
>>242
そして、持統天皇の母方は蘇我氏なんだよな。
夫の天武天皇が記紀編纂を命じた際、
自分の母方をあれほど悪く書かれるって
抗議しなかったんだろうか・・・

245:日本@名無史さん
09/06/29 23:55:36
>>244
持統天皇の気持ちは誰にも推し量れないかと。

でも、母方一族の鎮魂の為の山田寺は、当時規模が大きかったらしいよ。
奈良遷都の時に移転の対象にならなかったことと、妙楽寺の台頭により衰退したけれど、
文武天皇の時代になっても封三百戸を施入したという記録が残っていることから、
「石川麻呂は謀叛の意思は無く、無罪だったよ」という記録はしっかり載せて。
死者への追悼は山田寺で、だったのかも。

246:日本@名無史さん
09/06/29 23:58:29
>>244
石川麻呂は高潔の人に描かれていると思うが?

>>242
しかも「院政」の事実上の始祖だしな。

247:日本@名無史さん
09/06/30 00:08:10

欽明朝と天智朝がほとんどだろ!



248:日本@名無史さん
09/07/01 09:43:47
たしかに

249:日本@名無史さん
09/07/03 21:37:49
>>246
でも石川麻呂の祖父は蘇我馬子だよ?
持統天皇の曾祖父に当たる。
曾祖父の蘇我馬子を悪く書かれるってどうよ?
しかも石川麻呂の父倉麻呂ってあまりにも扱いが低すぎで
ほとんど史書に登場しない。
馬子の嫡子だった蝦夷とは大違い。

250:日本@名無史さん
09/07/03 21:53:46
創作料理

251:日本@名無史さん
09/07/04 01:19:24
>>249
持統天皇の曽祖父が蘇我倉麻呂(雄当)でしょ。
舒明即位前紀に登場している。

252:日本@名無史さん
09/07/04 16:40:33
>>249
母方の蘇我氏を悪くも何も、蘇我氏を悪人にした張本人は実の親父でしょう。
しかも壬申の乱では氏上の赤兄が付いた近江朝廷を見限り、旦那一筋でしょ。
そんなシオらしい玉じゃないですよ。

同母姉の忘れ形見すら、親父譲りの策略で始末しちゃう人ですから。

253:日本@名無史さん
09/07/11 20:20:55
>>252
草壁を皇太子と決めたのは天武天皇。
その意思に逆らう者あらば殺したでしょうね、持統でなくとも。
同母姉の忘れ形見といっても大伯皇女のほうが生き残っているから
別段草壁の帝位を阻まない人間ならば殺さなかったでしょ。
天武のほかの皇子たちともそれなりにやってるし
高市は太政大臣にまでしてあげてるし。

254:日本@名無史さん
09/07/12 00:33:44
<3本目>
ν速+【皇室】天皇陛下の級友が進言「皇太子さまの選択肢は別居治療 離婚 廃太子」★3
スレリンク(newsplus板)

255:日本@名無史さん
09/11/03 20:05:02
アゲ

256:日本@名無史さん
09/11/03 23:31:57
>>253
大津は自由奔放な性格で好かれてたみたいだけど、これから法の基に国家を運営していく天武・持統からみたら、
厄介な人間だから消されたってのも有るみたいよ?
飛鳥時代初期に生まれてたら合ったかもね大津。
皇位は力と武力で奪う時代に・・・。


257:日本@名無史さん
09/12/18 20:46:25
鬼女フェミがこのスレを監視してます

258:日本@名無史さん
10/02/12 23:49:45
なんで

259:日本@名無史さん
10/03/08 22:58:11
a

260:日本@名無史さん
10/03/09 00:10:39
愛子様。

261:日本@名無史さん
10/03/09 00:28:29
>>260
敬宮様と呼べ

262:日本@名無史さん
10/03/09 00:49:07
様なんていらん

263:日本@名無史さん
10/03/09 09:26:23
>>227
ごはん大盛りサービスが売りの定食屋みたいな諡号だな

264:日本@名無史さん
10/03/10 13:53:47
後桜町天皇以降の女帝となる愛子天皇の御世に立ち会えるなんて
なんて幸せなんだろう!!
女皇太子としての活躍も見れるんだなw







265:日本@名無史さん
10/03/10 19:45:17
>>264

ないない、それはないww
都庁あたりのショボイ役人に降嫁して平民になるw


266:日本@名無史さん
10/03/10 20:28:54
飯盛女命

267:日本@名無史さん
10/03/10 21:02:30
>>264
女皇太子じゃなくて皇太女ね。

268:日本@名無史さん
10/03/10 22:24:16
太女 ふとおんな

269:日本@名無史さん
10/03/12 21:45:24
>>267
聖武天皇は娘の安倍内親王を「皇太子」に立てているので(続日本紀等)、
女性であっても皇太子が正しい。
皇太女という言葉が使われた記録はない。

270:日本@名無史さん
10/03/12 22:26:24
安楽公主が皇太女を自称したことはあるな

271:日本@名無史さん
10/03/13 18:43:57
古代社会で女を天皇にするというのは別に
特に抵抗感って言うのはなかったのでしょうか?

古代の皇族の女の位置づけがよくわかりませんが
男から見てもただの子供を産むための道具、男を盛りたてるための存在以上の存在なんでしょうか?

少なくとも政治をする人、指導者たるものは男でなければいけない
っていうある種の雰囲気はありましたよね?

272:日本@名無史さん
10/03/13 19:57:15
>>271
それは武家ルールだからね>男の庇護下にある女達

まず卑弥呼、推古天皇あたりをググってみる事を勧めてみる。

273:日本@名無史さん
10/03/13 20:02:08
>>272
たしかに卑弥呼はともかく
蘇我氏、物部氏、藤原氏で政治の中心になっていたのはほとんど男じゃん


それに卑弥呼は支配者というよりもある種の魔法使い的な位置づけだし
そして推古天皇を天皇にする事に、
これまでの天皇が全員男、今現在政治をやってる人間も全員男だらけの
そういう状況で他の人間は抵抗がなかったのかと

274:日本@名無史さん
10/03/13 21:11:48
>>273の中で答えが出ているじゃないの。
本気で知りたくて質問しているのではなく、
自分の考えに同意が欲しくてレスを求めるんでしょうね。

大学に行って、古代史でも専攻すれば教えてもらえるよ。

275:日本@名無史さん
10/03/14 00:47:13
>>273 皇后や皇女はへたな男性皇族よりも格が上なんだよ。
皇子や皇女だって后腹や皇女腹は一格上とされた。
皇后は天皇を補佐し、若い天皇なら摂政みたいなこともする権限があるから
推古天皇が天皇になることにさほど抵抗は無いと思うよ、蘇我氏にとっては
むしろラッキー。推古天皇は馬子の姪だから、男帝より扱いやすいでしょ、
皇太子の厩戸皇子も蘇我氏は外戚だからなおさら。

推古天皇の時代は生前譲位する慣習はなかったから、
中継ぎでもなんでもなく、ピンポイントで推古天皇の即位が求められたと思ってる。
だって在位36年、皇太子の厩戸に先立たれ、その後も皇太子をたてず、
後継者を指名せずに亡くなってるし、どこが中継ぎなのか理解に苦しむ。
厩戸皇子だってとっくに成人して政治を担うほど立派な大人だったし
中継ぎなんていらんでしょ。

276:日本@名無史さん
10/03/15 10:08:04
女帝が中継ぎだったとしちゃったのは伊藤博文。
『皇室典範義解』で女帝は中継ぎ、摂政みたいなもんで天皇家の伝統ではないと
男系男子のみの皇位継承を正当化した。
その代わり女皇族の摂政は古来の慣習にのっとったと条文化した。
この時伝統を捻じ曲げたわけだな、伊藤が。
男性だけを統率する軍の大元帥に女帝はまずいと判断したんだろう。
古来から摂政は男性皇族もしくは臣籍男子の仕事、
女帝は女帝として男帝と同等の権利と権勢を持ったわけだからとんでもない歪曲。
推古天皇の時代に日本初の憲法が制定され、斉明天皇は自らも出陣して指揮をとり
持統天皇は「倭」から「日本」に国号を変えたり遷都したり大嘗祭を制度化したりと
女帝たちだって天皇としての業績がたくさんある、男帝のそれとなんら変らず。
伊藤博文があんな最期になったのは畏れ多くも女帝の存在そのものを否定した神罰。

277:日本@名無史さん
10/03/15 16:50:23
>>273 欽明天皇は宣化天皇が崩御したあとに、群臣から即位を求められたが
宣化天皇の皇后だった山田皇后が次の天皇に相応しい、といったん辞退してる。
でも山田皇后が辞退し、欽明天皇こそ次の天皇に相応しいと群臣に説いたため
欽明天皇の即位が実現した。この時代だって皇后が天皇になっても
そんなに違和感のないことだったと思う。(でなきゃ推薦しないはず)

278:日本@名無史さん
10/03/15 23:41:14
女帝は天皇家の古来からの伝統で数が少ないにせよ江戸時代まであったわけだし、
ぜひ復活させるべきだと思うがな。どう考えても民間人の元皇族の子孫なんかより
正統性があんだろ。


279:日本@名無史さん
10/03/16 14:22:26
900 :名無しかましてよかですか?:2010/03/14(日) 02:10:40 ID:CaIuDpCU
>>872
URLリンク(www.kantei.go.jp)
「我國ノ女帝ニ皇夫ヲ迎へ其皇夫ハ一タヒ臣籍ニ入リ譬ヘハ源ノ某ト称フル人ナランニ(起草第十三条ニ依ル) 其
皇夫ト女帝トノ間ニ皇子アラハ即チ正統ノ皇太子トシテ御位ヲ継キ玉フヘシ(起草第七条ニ依ル) 然ルニ此ノ皇太
子ハ女系ノ血統コソオハシマセ氏ハ全ク源姓ニシテ源家ノ御方ナルコト即チ我カ国ノ慣習ニ於テモ又欧羅巴ノ風俗
ニテモ同一ナルコトナリ但シ欧羅巴ナラハ源姓ト称ヘナカラ源姓ノ人モ女系ノ縁ニテ皇位ヲ嗣クコト当然ナリト明ラム
ルナリ欧羅巴ノ女系ノ説ヲ採用シテ我カ典憲トセントナラハ序テニ姓ヲ易フルコトヲモ採用アルヘキカ最モ恐キコトニ
思ハルヽナリ (井上毅) 「謹具意見」

「然ルニ此ノ皇太子ハ女系ノ血統コソオハシマセ」

井上毅は、父親が臣籍でも女帝の子に皇位継承資格が生じることについては異議を唱えていない。
「源姓ノ人」が皇位を継ぐのを問題視している。


280:日本@名無史さん
10/03/26 21:54:26
だからなんなんだよ?

281:日本@名無史さん
10/03/26 22:09:17



韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ。
趙現鐘・国立済州博物館長と佐藤洋一郎・静岡大学助教授が
大阪府和泉市のシンポジウムで発表。[共同通信]
URLリンク(www.tt.rim.or.jp)
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ




282:日本@名無史さん
10/03/28 13:06:59
>>280 わからんのか?
旧典範草案において皇室に男子が絶えた時に容認された女帝・女系案だったが、
井上毅によって女帝と皇統に近い臣籍男子との間に生まれた子供は
皇太子として認められん!と臣籍男系男子の血統が否定されたってことだ。

283:名無し
10/04/03 22:39:52
推古天皇について教えちぇ

284:日本@名無しさん
10/04/06 00:41:59
推古天皇で男系皇統は終わった、シナ男系主義の縛りが徐々にとれていき、女系容認の御世となった。
高森氏、小林よしのり氏は、愛子天皇を望んでいる。典範を改正して愛子天皇が実現するだろう。

285:日本@名無史さん
10/04/06 04:08:12
小林よしのりのダメなところは
天皇制と現皇室をイコールで結んじゃってること
天皇が機関だということを理解してない

286:日本@名無史さん
10/04/06 06:33:10
シナ男系主義とか笑うとこですか?
同姓娶らずの大陸流儀なら皇族の推古が天皇に嫁ぐわけがない

特定の氏族が外戚を独占することもない

日本の婚姻制度と根本的に違うのが解っていない

287:日本@名無史さん
10/04/11 12:29:43
愛子天皇万歳!

288:日本@名無史さん
10/04/14 11:23:55
>>286
「推古天皇で男系皇統は終わった」にも突っ込んでやれよw

推古天皇の父は欽明天皇。
仮に推古天皇の子供の竹田皇子が即位したとしても、その父は敏達天皇。
男系どこで終わるんだ?

289:美人は氷高皇女
10/04/19 09:05:38
政治的に「初めて~をした」,国民のファッションリ-ダ-元正で,女系蘇我系譜おわってる(妹の吉備内親王,旦那長屋王一家が滅んだ為)
福井の小浜の木造観音菩薩11面立像で,美人になる様拝むとよい
村上天皇の后,藤原芳子(ホウシ)も美人だけど
古今1000首暗記する学女でもある

290:美人は氷高皇女
10/04/19 12:17:43
蘇我一族の倉山田石川麻呂は天智に娘2人入れてます
その1人の后の子が持統天皇で,もう1人の后の子が元正の母,元明天皇です
藤原系譜の元服したはずの聖武に譲位させたくなく,元正天皇に譲位させる
しかも,遺宣に「皇位は子孫で行く」と
だから藤4子の狙いは長屋王で無く長屋王の蘇我系の吉備姫王と3子だったのです
蘇我系で1人になった元正太上天皇は泣かず誇り高く生き続けます
聖武天皇の方が祟りにビビッタ人生を送った
氷高皇女は美しく,強い女,しかも民の事を思う女帝です

291:美人は氷高皇女
10/04/23 04:04:46
吉備姫王でなく吉備内親王だったm(_ _)m

292:日本@名無史さん
10/04/23 17:40:42
皇后腹の皇女が女帝につくならまったく違和感ないがな。
だから愛子様が皇位に就かれるべきだろう。
実子がいるのに弟だの甥に皇位がいくほうが違和感ある。
男系じゃなくなったら天皇への畏敬の念がなくなるというやつらなら
もともと皇室への畏敬の念なんてないのさ。

293:日本@名無史さん
10/04/24 13:03:05
女帝を排除した旧典範は伝統無視もいいところだよな。
男子優先はいいとして、草案通りに女帝容認してその子に皇位継承を認めるよう
定めたら現行もそう定められていたと思う。
男尊女卑の時代だから女帝が軍のトップに君臨することの違和感はあったろうが、
あれだけ宮家にも男子がいたわけで非現実的な最終手段としての女帝・女系容認は
あっても構わんことだったと思う。
女帝をただの中継ぎだと断定したことが、今日の女帝否定につながってるのだろうが
女帝は祭祀もしたし、政権もとったし、皇太子を後見し、上皇として実権も
もっていたし、これをただの緊急時の中継ぎにすぎず、
天皇家の常套ではないするとは不敬にもほどがある。

294:日本@名無史さん
10/04/25 00:37:06
旧男系皇族を女帝の皇配にしたら、その間に産まれた皇子(皇女)は男系?

295:日本@名無史さん
10/04/27 13:17:20
>>294 血統は男系。

ただし、明治期はその場合の皇子や皇女は皇位継承資格はなしと判断されて
草案から女帝・女系案が削除された経緯がある。
男系なら皇統に属する、旧宮家の子孫ならOKなんていう安易な発想は
平成に入ってから皇族なり隊の某宮家の男が言い出したデタラメ説。

296:日本@名無史さん
10/04/30 12:44:57
>>294
基本的に子供は男系皇族だから天皇に即してもOKと思う。
が、そのためには歴史的に言ってその旧皇族氏は天皇の4世孫以内でなければならないだろう。

今まで王系が傍系にシフトした際、天皇から最も遠い血筋だったのが継体天皇(5世孫)。
継体天皇はその後、王系がシフトする度に先例として引っ張り出された。
今まで(男の)天皇の5世孫を越える遠縁が即位した試しはない。

旧宮家は男系の血筋では何百年も前に分かれたほとんど他人同然の家。
その作戦は無理だなw

297:日本@名無史さん
10/05/01 12:12:52
神国。日本の恥だ!。ρ。ある趣味@JBBS掲示板の管理人は天皇を侮辱した罪は重いぞ!!!!               
         ρ    ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄     
 シコシコ→        mドピュッ
シコ        C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ ←日本一の変態最悪おもらしマニア。豚の糞以下の人間だwww
      /⌒ヽ⌒ヽ___   |  ∴ヽ  3  ) ←こいつのHPに書き込むな。実名やIPを公開する犯罪者。
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