08/08/30 22:38:26
>>273
>永初の朝貢は安帝即位に際してのものなので、倭王側はそれ以前から在位していた可能性が高い。
いつを基準に考えているのですか?共立は180年代ではないと言っているのですが。
後漢書が「桓靈間、倭國大亂」と書いたのは、七八十年+暦年で共立と考えれば、七八十年
の中に、桓靈時代が入ることはまちがいないという判断からにすぎません。
>中国史家に読めないことが、貴方には読めると!
今の我が国の学者だってでたらめな読みばかりしているではありませんか。
中国史家だっていいかげんなのが多いのですよ。
>時代観は、梁書も後漢書も対して違わないと思いますけどね。
姚思廉は范曄の読みはおかしいと思ったのでしょう。そこで、永初元(107)年
を基準として、住七八十年と考え、范曄が「桓靈間」と書いたのを桓と靈の間とで
も解して、霊帝光和中としたのであろうと思います。
しかし、そんな解釈はだめですね。永初元(107)年の倭の遣使について、倭人
伝は何も書いていません。したがって、そんな話を陳寿が基準にするはずはないの
です。なお、姚思廉は共立を霊帝光和中(180年前後)とした、したがって、共
立時には卑弥呼が「年すでに長大」はありえないと思った、だから、彼はその文言
を削ってしまったのです。梁書にはそれがないでしょ?そうゆうことなのですよ。