08/08/29 11:09:10
>>240
当時は国名の冠に「邪馬」という字をつけてる国が少ないながら
複数あったのだ。いい例が伝にある「邪馬国」で、これにも「邪馬」
の名がある。人名も同様の慣行があったようで、弥弥とか弥弥那利
とか、弥馬獲支、弥馬升、あるいは卑弥呼と卑弥弓呼とか、このよう
に名の冠の二字が同字であることからも二冠字が同じなる名前の人が
複数いたということがわかる。だから邪馬臺国がヤマトだとしても、
邪馬壹国という、冠二字が同名の国名が複数あったというのが相当
なのである。だから「邪馬壹国」は誤字ではない。
だいたい邪馬臺国というのはヤマトならば、タイの「臺」よりも
「ト」と読める漢字が他にあるはずだから、例えばトと「都」が
当時の大陸の語で読めるならばそういうハッキリ「ト」と読める漢字
を採用したはずで、「邪馬都国」とか「戸」もそうなら「邪馬戸国」
とかの書き方にするだろう。そうなっておらず「臺」としたのは、
この書きこみをした当時の中国古文献の編者らが女王国がヤマト
だろうと、すでに知悉していたヤマトの国名からそう考えたが、
倭人伝のほうは「邪馬壹国」と書かれてあったので、ヤマトと思いこ
んではいたが、倭人伝のほうが正解やも知れぬと困惑したために、
双方の折衷説的中間語的の「臺」という、獣とも鳥とも取れる字で
誤魔化したと観るのが相当であるのだ。つまり「臺」字は分からん
彼らの逃げ口上から醸成された両者に跨れる蝙蝠的漢字なのである。
244:日本@名無史さん
08/08/29 14:33:35
>>242
通訳ですね。狗邪韓国や対馬あたりで韓国語と倭語の両方に通じた者をみつければ問題なし。
245:日本@名無史さん
08/08/29 20:05:01
昔のバイリンガルかっこよすぎ!
246:日本@名無史さん
08/08/29 20:33:44
単純な疑問だが、卑弥呼の寿命って長すぎないか
死ぬとき90歳を超えてたんじゃないかと思うが
そんな古代にそこまで長生きしたとは到底思えないんだけどな
それなりに長生きした武内宿禰みたいな人もいることはいるが
247:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/08/29 20:44:02
ラメシス2世 92歳
長寿王 98歳
248:日本@名無史さん
08/08/29 21:07:33
さあて、今日のスカトロ趣味のおっさんことウンコマンは?
>>234 >>237 お前だ! 時間から見ると昨日逃げ出したあと
夜中にコソーリと出て来て負け犬のオオボエをやってたみたいだな。www
まるで人がいなくなると冷蔵庫の下からはい出してくるゴキブリのようだな。www
>どうでも良いがガキって 「うんこ」とか「ちんちん」とか好きだよなw
そうか。それは「ウンコマン」という命名が気に入ってるって事だな?www よかったな。
>もうこのスレも末期wwwwww
末期なのはお前の脳味噌。(オー! アナタノウミソアリマスカ?)
>原の辻 ~中略~ せざるを得ないなwww
だから邪馬台国はどこなんだよ。このカス!てめえの妄想ヨタ話以外の証文を示して書けよ。
このゴキブリ野郎!(今夜も夜中に出てきて負け犬のオオボエかな?www)
249:日本@名無史さん
08/08/29 23:24:20
>>246
>単純な疑問だが、卑弥呼の寿命って長すぎないか。死ぬとき90歳を超えてたん
じゃないかと思うが。そんな古代にそこまで長生きしたとは到底思えないんだけどな。
共立を180年代とすれば、確かに極めて不自然ということになるでしょう。
しかし、倭人伝は実はそんなことは書いていません。誤読されているのです。
倭人伝は魏志の一部ですから、その倭人伝が書く卑弥呼の共立は実は魏代の出来事。
共立→叙倭王は一連の出来事、ということは、230年代と考えるべきなのです。
それでこそ、「年すでに長大」が理解できるでしょう。これは共立された時すでに
老婆だったということにほかなりません。
250:日本@名無史さん
08/08/30 00:35:19
>>249
239年の卑弥呼は7代目くらいだろ。
水戸黄門でさえ4,50年で何回も代替わりしている。
251:日本@名無史さん
08/08/30 00:47:16
>>248
うんこ大好きくん
夏休みの宿題・・・
そろそろ追い込みに入った方が良いんじゃないかな?www
252:カミナリ嫌い
08/08/30 10:10:02
>>249
> 共立を180年代とすれば、確かに極めて不自然ということになるでしょう。
> しかし、倭人伝は実はそんなことは書いていません。誤読されているのです。
へー、そうなんですか?参考までに、他の史書と比較して見ましょう。
【魏志】 其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼、~略~
【後漢書】 桓、靈間、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主。有一女子名曰卑彌呼、年長不嫁、事鬼神道、能以妖惑衆、於是共立爲王。
【晉書】 漢末、倭人亂、攻伐不定。乃立女子爲王、名曰卑彌呼。
【南齊書】 漢末以來、立女王。
【梁書】 漢霊帝光和中、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子卑彌呼爲王
> 倭人伝は魏志の一部ですから、その倭人伝が書く卑弥呼の共立は実は魏代の出来事。
そのようなルールは無いと思います。
それでは「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。」も全て魏代の出来事と読まなければなりません。
> 共立→叙倭王は一連の出来事、ということは、230年代と考えるべきなのです。
「乃共立」の「乃(かくて)」とは、「相攻伐歴年」と「共立」の因果関係を結ぶ接続詞で「一連の出来事」を示します。
また、倭の乱が何年続いたかは魏志の記述からは顕かではありませんが、魏志以外の文献を見れば判るように
中国の後世の史家達は魏志等の先行史書を読んで、倭乱・共立は漢末の出来事と判断しています。
これは、永初元(107)年の倭國王を基準として、住七八十年の後に「歴年」の倭乱があったと解釈しているから。
史家達は「歴年」に20~30年間を充てているようです。
つまり、范曄達中国の史家は、「誤読されている」と貴方は主張するわけですね。
253:日本@名無史さん
08/08/30 12:52:39
>>251
おお。負け犬スカトロマニアのウンコマン!
やっぱり夜中に冷蔵庫の下からはい出してたか。www
もはや邪馬台国の事などどうでもいいようだな。www
みじめだな。www 早く仕事探せよ。
254:日本@名無史さん
08/08/30 13:08:15
>>249
ならない
255:愛知県民 ◆/aQLbFNNDU
08/08/30 13:11:28
>>173
改めさん
>どこを見て「南方系の女性」としたのでしょうか?
聞其舊語、自謂太伯之後
「太伯」は春秋時代・呉の国祖です。
>>199
>とうとう邪馬台国の所在が近畿だと決定する時がきましたね。
意味不明。
箸墓は「ハツシラス墓」で、崇神天皇の墓ではないでしょうか。
256:日本@名無史さん
08/08/30 13:12:55
さあ~て
>>249改め君は>>252に対し、どのように回答するかな?
じっくり拝見しましょ。
257:改め ◆PWTcGEfp1s
08/08/30 13:49:04
>>255
>聞其舊語、自謂太伯之後 「太伯」は春秋時代・呉の国祖です。<
ん?よく分からないのですが~、
それと卑彌呼がどのように関係してるのでしょーか?
>>256
>>249はおれじゃないよ。
258:日本@名無史さん
08/08/30 14:14:15
>>253
まあ、はっきり言ってお前みたいな九州説にありがちな珍読なんざあどうでも良いってのが本音ではあるwww
>>161
>東南は東北の間違い
で方角も間違いで
距離(かかった日数)も伝聞の為いいかげん
・・・となればもうやりたい放題だな。
九州で自分のお気に入りの場所に邪馬台国持っていけるって話でwwwwwww
同じ九州説の連中からも突っ込まれて火病を起こし
誰も彼も うんこ に見えて(まあ うんこ が大好きなのは分かるがw)
で、 うんこ大好きちゃん 夏休みも今日入れてあと二日だよ。
宿題大丈夫かな?wwwwwwwwwwwwww
259:愛知県民 ◆/aQLbFNNDU
08/08/30 14:14:42
「邪馬臺國」(後漢書など)と「邪馬壹國」(魏志)の問題。
どちらも間違いかもしれません。
「邪馬壹國」は約二千字の魏志倭人伝に、一回出てくるだけ。
「翰苑」に引く「魏略」には「邪馬臺國」も「邪馬壹國」も出てきません。
「翰苑」に引く「廣志」には「又南至邪馬嘉國」とあります。
ヤマカ国、対等に検討されてもよいのではないでしょうか?
260:唐松山 ◆V0F34EbmQA
08/08/30 14:15:01
箸墓を崇神天皇の墓とした場合、垂仁稜とのギャップは?
垂仁時代は、武器の大量生産、備蓄から 多量の鉄の存在がある。
261:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/08/30 14:18:31
>>257改め君
ここ『自謂太伯之後』は簡単に考えればいいのだよ。何もムズク、太伯の末裔等と考えずに
風俗文と読めばいいだけ。
太伯之後とは
太伯の刺青断髪を述べる語で、後に漁を営む者のスタイルを表した。
断髪は利便性、刺青は威嚇
自=倭人
謂=説明
まるで太伯の後に広まった漁師のスタイルだ
262:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/08/30 14:21:21
だからどの史書も
『倭人曰』『自曰』とはせず、
『謂や云』だよ
263:愛知県民 ◆/aQLbFNNDU
08/08/30 14:23:19
>>257
倭人自身が「先祖は中国江蘇省から来た」と言っているわけですから。
魏略の「聞其舊語、自謂太伯之後」は魏志倭人伝では「自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫」となっていますが、
この文章は前後関係から見て奇妙です。
魏略の「聞其舊語、自謂太伯之後」のほうが前後の続きが自然であり、信用できると思います。
264:愛知県民 ◆/aQLbFNNDU
08/08/30 14:40:12
>>261
河童さん
>太伯の刺青断髪を述べる語で、後に漁を営む者のスタイルを表した。
だから、倭人は太伯からだと言っているが、もっと昔に夏后少康之子が斷髮文身した例があると陳寿は書いていますね。
この「後」は末裔と約してはいけない? もっと調べてみます。
265:愛知県民 ◆/aQLbFNNDU
08/08/30 14:52:08
>>260
唐松山さん
陵墓の比定はかなり見直しが必要でしょう。
あ、「墓標」ですべて解決済みと言われるとちょっと・・・?
266:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/08/30 14:52:24
>>263
夏后少康之子の断髪文身は身体の特長であり、ファッション迄を含めたモノではありません。
しかし、太伯之後は
断髪文身に加え漁師スタイル効果が加わります。
簡単に言えば、
京を訪れる倭人の容姿を、まるで『漁師のオッチャン』と同じだと、述べています。
たしか?そのような容姿の倭人画があったような?
267:愛知県民 ◆/aQLbFNNDU
08/08/30 15:37:09
>>266
梁の職貢図
URLリンク(upload.wikimedia.org)
268:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/08/30 15:53:42
>>267
県民さんサングラス(^O^)/
夏后少康の子(無余)の断髪文身は荒れ地を開墾した陸バージョン。
太伯之後の断髪文身は、海に効果した海バージョン。
倭人は大海之中にある海バージョンのスタイルに属するから、後の史書は全て『太伯之後』と倭地を紹介しました。
269:日本@名無史さん
08/08/30 18:16:27
梅毒サングラス
270:愛知県民 ◆/aQLbFNNDU
08/08/30 18:21:57
北宋の「資治通鑑」には「今日本又云呉太伯之後、蓋呉亡、其支庶入海為倭」とあります。
北畠親房の「神皇正統記」は「異朝ノ一書ノ中ニ、『日本ハ呉ノ太伯ガ後也ト云。』トイヘリ。返々アタラヌコトナリ。」
と否定しました。
林羅山は次のように述べました。
URLリンク(drhnakai.hp.infoseek.co.jp)
余竊かに圓月が意を惟ふに、按ずるに諸書は日本を以て呉の太伯の後と為す。
夫れ太伯は荊蠻に逃れ、髪を断ち身を文きて交龍と共に居る。其の子孫筑紫に来る。想ふに必ず時の人以て神と為ん。
(中略)姫氏の孫子本支百世、万世に至りて君たるべし、亦た盛んならずや。
彼の強大の呉、越に滅ぼさるを見ると雖も、而して我が邦の宝祚天地と窮まり無し。余是に於て愈々太伯の至徳たるを信す。
271:日本@名無史さん
08/08/30 18:51:51
>>252
>それでは「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。」も全て
>魏代の出来事と読まなければなりません。
この記事は、「本~住七八十年」で魏時代より前のことから書き起こしている
ことが示されています。 「倭國亂、相攻伐歴年」は魏代のことでしょう。
>中国の後世の史家達は魏志等の先行史書を読んで、倭乱・共立は漢末の出来
>事と判断しています。
確かにそうでしょう。後漢書の記事に惑わされたものと考えられます。
>これは、永初元(107)年の倭國王を基準として、住七八十年の後に
>「歴年」の倭乱があったと解釈しているから。
これは根拠のない推測ですね。梁書はそのように考えたのかも知れませんが、
少なくとも後漢書の考え方は違います。
>つまり、范曄達中国の史家は「誤読している」と主張するわけですね。
そのとおりです。皆、范曄の誤読に引きずられたのですね。
272:日本@名無史さん
08/08/30 19:14:16
范曄はどこをどのように読み違えたのか?そこが問題ですね。
キーワードは「住七八十年」です。これは男王が続いた期間ですが、范曄はこれを
倭国乱の続いた期間と解釈したのです。そうなると、「相攻伐暦年」は何だという
ことになります。暦年は七八十年もの期間を意味するとは思えません。
そこで、范曄はこれを倭国乱の後の卑弥呼共立に至るまでの期間と考えたのですね。
要するに、倭国の乱は七八十年も続いた、その後、更に相好伐すること暦年を経て
卑弥呼が共立されたとね。范曄は漢の末に卑弥呼共立があったと考えたのでしょう。
それならば、卑弥呼が共立された時、「年長」でも良い、それが范曄の考え方です。
後漢書を読み直して下さい。「桓靈間、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主」とありま
すね。これは、倭人伝の「其國本亦以男子爲王、住七八十年。倭國亂、相攻伐歴年」
を「其國本亦以男子爲王。住七八十年倭國亂。相攻伐歴年」と切ることによって出
てくる読み方です。つまり、范曄は倭人伝の切り方を間違えたんですね。
273:カミナリ嫌い
08/08/30 19:59:50
>>271
> この記事は、「本~住七八十年」で魏時代より前のことから書き起こしている
> ことが示されています。 「倭國亂、相攻伐歴年」は魏代のことでしょう。
えー、本~と書くと前代のことに成るのですか?
で、歴年は同時代のこと。
どこがどう違うのかな?
> >これは、永初元(107)年の倭國王を基準として、住七八十年の後に
> >「歴年」の倭乱があったと解釈しているから。
> これは根拠のない推測ですね。梁書はそのように考えたのかも知れませんが、
> 少なくとも後漢書の考え方は違います。
後漢書は「桓、靈間、倭國大亂」でしょ。
倭の男王治世は70~80年、永初の朝貢は安帝即位に際してののものなので、
倭王側はそれ以前から在位していた可能性が高い。
中元2年では、倭奴國時代、永元(89年)の和帝即位時には朝貢記録が無いことから
男王治世の開始は90年代から100年代前半、終わりは恒帝在位(147~168年)の何時かと見て、
算出されたのが「70~80年」かと思います。
私見では、恒帝即位に際しての朝貢が無いのでこれに近い時期かと思います(70年に満ちませんが)。
そして、「住」と対置される概念が「相攻伐」ですから、「歴年」はその後の期間。
10年と見るか20年と見るか30年と見るかは人それぞれではありますが・・・
時代観は、梁書も後漢書も対して違わないと思いますけどね。
> >つまり、范曄達中国の史家は「誤読している」と主張するわけですね。
> そのとおりです。皆、范曄の誤読に引きずられたのですね。
中国史家に読めないことが、貴方には読めると!
御見それしました。
274:唐松山 ◆V0F34EbmQA
08/08/30 20:00:10
倭国乱
西暦193年 倭国餓えの為、新羅に千余人が渡海する。
日本国内の民が流動化=乱れの始まりでは無いかもしれないが、不安定化
の要素の一つ。
崇神11年国内安寧と書かれている=国内とは、畿内の事である とすれば、
畿内以外に安寧でないところがあると言うこと=九州では、乱れを収束できていない。
西暦239年まで、40~50年、景行の九州遠征は、西暦247年頃より
景行、九州遠征の初期に 卑弥呼の死亡
そして景行は、歌を残す、「ただ皇子思う クの山の 白樫が枝を ウズに挿せその子」
クの山とは 狗奴国であり、熊襲国の山である つまり卑弥呼に対し熊襲国を征服、
服従させることを誓った、誓いの歌なのです。
275:愛知県民 ◆/aQLbFNNDU
08/08/30 20:09:35
>>274
唐松山さん
>西暦193年 倭国餓えの為、新羅に千余人が渡海する。
三国史記・新羅本紀の記事ですが、年代の水増し等、考慮する必要は無いのでしょうか?
276:日本@名無史さん
08/08/30 22:38:26
>>273
>永初の朝貢は安帝即位に際してのものなので、倭王側はそれ以前から在位していた可能性が高い。
いつを基準に考えているのですか?共立は180年代ではないと言っているのですが。
後漢書が「桓靈間、倭國大亂」と書いたのは、七八十年+暦年で共立と考えれば、七八十年
の中に、桓靈時代が入ることはまちがいないという判断からにすぎません。
>中国史家に読めないことが、貴方には読めると!
今の我が国の学者だってでたらめな読みばかりしているではありませんか。
中国史家だっていいかげんなのが多いのですよ。
>時代観は、梁書も後漢書も対して違わないと思いますけどね。
姚思廉は范曄の読みはおかしいと思ったのでしょう。そこで、永初元(107)年
を基準として、住七八十年と考え、范曄が「桓靈間」と書いたのを桓と靈の間とで
も解して、霊帝光和中としたのであろうと思います。
しかし、そんな解釈はだめですね。永初元(107)年の倭の遣使について、倭人
伝は何も書いていません。したがって、そんな話を陳寿が基準にするはずはないの
です。なお、姚思廉は共立を霊帝光和中(180年前後)とした、したがって、共
立時には卑弥呼が「年すでに長大」はありえないと思った、だから、彼はその文言
を削ってしまったのです。梁書にはそれがないでしょ?そうゆうことなのですよ。
277:カミナリ嫌い
08/08/30 22:59:09
>>276
> いつを基準に考えているのですか?共立は180年代ではないと言っているのですが。
うーん。実は判らない。
前レスで書いたように「歴年」の期間が漠然としているので。
> 後漢書が「桓靈間、倭國大亂」と書いたのは、七八十年+暦年で共立と考えれば、七八十年
> の中に、桓靈時代が入ることはまちがいないという判断からにすぎません。
「桓靈間」と書いてあれば「桓」と「靈」の間です。
貴方の説のように范曄が乱の期間を「住七八十年」のことと読み違えていたのなら、
安帝から記載して「安靈間」と書くのでは無いですか?これでもフルに数えて70年ですが。
まあ、貴方は漢文について「御自信」が御有りのようですが、更に御研鑽くださいな。
278:日本@名無史さん
08/08/30 23:04:04
>「桓靈間」と書いてあれば「桓」と「靈」の間です。
間ではなく、桓時代+靈時代です。ご研究のほどを。
279:日本@名無史さん
08/08/30 23:18:48
見よ!
これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。
(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)
鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(trade.socang.com)
280:日本@名無史さん
08/08/30 23:20:09
そもそも桓帝の次が靈帝なのに
281:日本@名無史さん
08/08/30 23:27:37
後漢書も梁書も倭国側からの情報提供も受けて書かれているでしょう
282:日本@名無史さん
08/08/30 23:42:34
>>277
范曄が乱の期間を「住七八十年」のことと読み違えていたのなら、安帝から記載して
「安靈間」と書くのでは無いですか?
先に書いたように、倭人伝は安帝時代の倭の遣使について、何も書いていません。
陳寿は安帝時代の遣使はまったく問題にしていないのです。
したがって、安帝から数えるなどということはありえないことです。
283:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/08/30 23:44:02
>>281
>後漢書も梁書も倭国側からの情報提供も受けて書かれているでしょう
それは貴方の想像です。
284:日本@名無史さん
08/08/30 23:51:58
>282の上の2行は>277からの引用です。
285:日本@名無史さん
08/08/31 00:04:33
>>282
桓靈間じゃ40年間にしかならないのに・・・