08/08/24 04:03:45
5年前新品で購入したシャープPCから
SONY PCへ替えました。
Vistaはなかなか良い!
いままでセットアップに時間かかってしまった。。。
これから寝ないといけない!
151:日本@名無史さん
08/08/24 07:40:43
>>147
>しょせんは推測するしかない。
推測するくらいなら換算せず放置し、分からないとするが良し。
史実に推測、想像はない。
152:日本@名無史さん
08/08/24 07:50:01
>>151
あなたの言う換算もしょせん推測にすぎない。
153:改め ◆PWTcGEfp1s
08/08/24 12:50:23
ブランド魚で有名な、関アジ・関サバが獲れる大分県佐賀関(おおいたけんさがのせき)。
「関」とは、大分県佐賀関町のことで、漁港として栄えてきたこの町の沖合いに、豊後水道と呼ばれる潮流の速い海域がある。ここで一本釣りされたアジ・サバのみが、ブランド「関アジ」・「関サバ」として重宝される。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
わたしも今年のお盆、九州へ帰った時にこのブランド魚が食べたく
魚介類を扱っているお店に行き「関サバ」食べてきたところ。
身が引き締まっている感じで、普通のサバよりも歯ごたえが有りコリコリしてて美味かった。
ちなみに関アジはというと、お盆休みということもあり
そのお店では「売り切れ」。
魚の話はもういいとしてこの「佐賀関」は魏志倭人伝に登場する女王国とスルのがわたしの考えるところ。
女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種
復有國というのは「四国」を指してあり、四国の相手側とは
上で述べた「佐賀関」ということ。
ちなみにわたしは大分県に住んでたことが有り
天気のいい日だったら佐賀関付近から四国の佐田岬が綺麗に見える。
住んでた人なら分かるが佐賀関以外という考えは「地図を見ながら」だからそうゆう考えになるとしか思えない。
地元の人が言うのだから間違いないところ。
大分県佐賀関を女王国とする考えに反する人はいるのかな?
ハッキリ言っておこう!佐賀関は、女王国だよ。
154:沖縄ロミオ
08/08/24 13:05:12
日本人は倭人の子孫である。一方、朝鮮人はワイ族の子孫である。この2つの民族は最初から別種なのだ。
戦前に唱えられ、現在も一部の無知な日本人や朝鮮人が唱えている『日韓同祖説(日鮮同祖説)』は学問的な
根拠がまったく無い、妄説である。
■倭人とは何か
シナ揚子江下流地域、浙江、福建、広東、広西、海南、ベトナム、ラオス、台湾、フィリピン、
沖縄諸島、九州、四国、本州、カラ半島南部などに住んでいた、南方アジア系=海洋民族の総称である。
漁業を生業とし、また内陸部の倭人は稲作を中心に農業も行っていた。
■ワイ族とは何か
古代カラ半島東北部に居住していた北方アジア系=狩猟民族。もともとはシベリアの山岳部や森林地帯に
住んでいたツングース系民族の一派であり、現在の朝鮮民族の直系の先祖。
ワイ族は、古代の半島南部に住んでいた倭人系民族のシラキ人、ミマナ人、クタラ人などと敵対関係にあり、
倭人系民族と領土紛争を繰り返していた。
ワイ族は3世紀初頭から、まずシラキを侵略し、シラキ領北部にケリン(鶏林)を建てた。
3世紀後半にはシラキ南部にまで軍事侵攻し、4世紀前半にはカラ半島東南部を完全に乗っ取った。
ケリンの軍事的圧迫を受けたシラキは、3世紀後半には領土が西方に移動し、国号をミマナに改めた。
その後、ケリンは、国号を『新羅(シンラ)』に変えた。
新羅(ケリン)は、半島東南部を拠点にして、西側に隣接する日本領=ミマナ(馬韓)に対して
侵略を何度も仕掛け、6世紀前半に、ついにミマナを滅ぼし、新羅に併合した。
7世紀の『白村江戦争』では日本と百済を相手に戦争し、百済を滅ぼして、半島の南北地域の大部分を
支配下においた。
155:愛知県民 ◆/aQLbFNNDU
08/08/24 13:09:26
>>153
賛成です。
ただし「佐賀関は、女王国だよ。」は「佐賀関=女王国」ではなく「佐賀関⊂女王国」と考えてです。
向こうのトピは荒れてますねえ。
ちょっと今週は入りづらかった。
156:愛知県民 ◆/aQLbFNNDU
08/08/24 13:28:11
自帯方至女國萬二千餘里、其俗男子皆點而文、聞其舊語、自謂太伯之後
翰苑の魏略逸文に書かれています。
このことから、卑彌呼は南方系の女性であったと思われる。
今の天皇家は、扶余系かどうかはともかく、北方系と考えられるので
卑彌呼の系統ではないでしょう。
157:愛知県民 ◆/aQLbFNNDU
08/08/24 15:00:54
オリンピックも終わり。ソフトボールチームに拍手。
また来週。
ZZZ・・・・
158:日本@名無史さん
08/08/24 15:15:10
新羅(ケリン)は、やはり原始的な国だったな。
建国王=キム・アルジの誕生伝説の中に、ケリンがシラキを侵略した証拠がある。
なぜ、新羅の役人たちは、全員が倭人だったのか?
ケリン族は漢字の読み書きができなかったから、征服後も倭人の役人を
そのまま使うしかなかったわけだ。
新羅の古い記録には捏造が多いが、それでも、所々に日本語の証跡が見える。
貴族階級を意味する『真骨』の読み方は、「ジンピョ」ではなく、「マホネ」だろう。
マホネは日本語だよね?
159:日本@名無史さん
08/08/24 17:14:39
>>136
改めって馬鹿だね。
>水行十日というのは、93~95km
>陸行一月というのは、279~285km
一日9kmくらいしか進めなかったら、朝鮮海峡・対馬海峡は渡れない。
海流が早いから日本海のほうに流されてしまう。
朝鮮海峡は時速4kmくらいで流れている。
この速さを上まるスピードでなければ海峡は渡れないのだよ。
時速5キロ程度で10時間。
一日50km進めるんだな。
休みなく漕いで朝鮮海峡の距離50kmを漸く渡りきれるのだ。
休んだら流されてしまうから。
夜は暗礁などあって岸に近づく事はできない。
二つの海峡以外は多少のんびり漕いだかもしれないがね。
このスピードで瀬戸内海を渡れば九州から大阪まで10日でいける。
ゆったり漕いでも15日だろう。
160:日本@名無史さん
08/08/24 20:06:13
>>159
末盧国で船を下りた後、使者の一行はどんな船を使ったのかな?
161:日本@名無史さん
08/08/24 21:12:35
魏志倭人伝では、「対馬国→末ら国-(東南)→伊都国-(東南)→奴国-(東行)→不や国」
となっています。ちなみに距離の表記はここまでが「里」です。
このうち、対馬国=対馬、末ら=松浦半島、伊都国=糸島半島、奴国=福岡平野
までは、ほぼコンセンサスが得られていると言って良いのではないでしょうか。
(東南は東北の間違い『魏使は東南と考えた』と考えるべきでしょう。
ちなみに私は、不や国は、津屋崎ではないかと考えています。 )
次に、不や国-(南へ水行20日)→投馬国-(南へ水行10日&陸行1月)→邪馬台国 ときます。
ここから、地名、距離ともいっぺんに怪しくなります。 魏使はおそらく、不や国までしか行かなかったのでしょう。
何故魏使はそこから先へ進まなかった(進めなかった)のでしょうか?
それはそこからは北部九州を南北に流れる遠賀川へと入ったからでしょう。その為、
外洋を航行するための魏の船は遠賀川を遡上することができず、(また身の安全も考えたかもしれません。)
倭人にそこからの行程を尋ねたためそのようなそれまでに比べて随分アバウトな記載となったのでしょう。
162:日本@名無史さん
08/08/25 00:03:38
>>161
遠賀川で三十日も水行できますか?最初から普通に陸行すれば、遠賀川上流には数日で着くはずでは?
163:日本@名無史さん
08/08/25 00:37:56
>>161
>外洋を航行するための魏の船は遠賀川を遡上することができず、(また身の安全も考えたかもしれません。)
普通に乗り換えたらええやんw
川の遡上が海より危険?
激流下りでもする訳じゃないだろうにwwwww
164:日本@名無史さん
08/08/25 00:43:13
見よ!
これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。
(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)
鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(trade.socang.com)
165:日本@名無史さん
08/08/25 00:44:03
>>164 馬鹿の一つ覚えみたいに同じ文章コピペすな。
166:日本@名無史さん
08/08/25 19:50:45
>遠賀川で三十日も水行できますか?最初から普通に陸行すれば、遠賀川上流には数日で着くはずでは?
激しく概出なのですが、「水行三十日」というのは、倭人達のいわば「言い値」なわけで、魏使が実際に
航行して出したデータとは思えません。その為それまでは「里」という客観性のある表記から、「行」と
いうそれの無い表記に変わっています。したがって、当時の交通事情は現代のそれとはちがっていたうえ、
倭人が誇大に日数を申告した可能性が高いと思います。
>普通に乗り換えたらええやんw
おまえ、糞馬鹿だろ?w 遠賀川河口まで来たら、「邪馬台国逝き」の船が定刻どおりに出発しま~すってか?
>川の遡上が海より危険? 激流下りでもする訳じゃないだろうにwwwww
おまえ、やっぱり糞馬鹿だろ?wwwww 海では視界が開けていて、盗賊に襲われる事はない。
魏使としては未開の土地にやってきて、何がでてくるかわからない陸上に踏み込んで逝くわけだから
海上より危険と考えるべきだろ? 馬鹿はアンパンマンでも見て糞して寝ろ。
167:日本@名無史さん
08/08/25 20:33:02
あと五万年ぐらい経つと、吉野ヶ里遺跡が遺跡になって、やまたいこく論争が一層複雑になるんだろうな…。
168:日本@名無史さん
08/08/25 23:26:51
5万年先に人類がいるのか?
169:日本@名無史さん
08/08/25 23:34:56
>>166
>「水行三十日」というのは、倭人達のいわば「言い値」
せいぜい数日しか遡上できない遠賀川で、そんなでたらめを教えたとも思えませんが・・
それに、不弥国から先が信用できないと言うのは、邪馬台国をどこにでも設定できることになりませんか?
何で倭人伝どおりに進まないんでしょうか?
170:改め ◆PWTcGEfp1s
08/08/26 00:44:44
>>169
水行一日ていうのは
手漕ぎのボートで一日に進める距離 9.3~9.5kmぐらい。
水行十日というのは、約93~95km
水行十日というのは、約186~190km
ハイ~ほぼ確定です。
それとここはあくまでも”水行 ”の話。
倭人伝の水行を語ってるワケではない。
ここのところ勘違いしないでおくれよ。
それより~河童さん(κ) ここにもたまにはレスしておくれ。
(κ)←? 河童さんらしいよww
171:改め ◆PWTcGEfp1s
08/08/26 00:55:45
倭人在帶方東南大海之中 依山島為國邑
舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
「今使譯所通三十國 從郡至倭」又は「今使譯所通三十國從 郡至倭」。
「從」←これの位置はどっちが正解?
河童さんの師匠が「今使譯所通三十國從 郡至倭」と言っていたので
わたしは前の「今使譯所通三十國 從郡至倭」にしとこう(笑)
「從(従の旧字)」これは~より読み文章的には、「今使譯所通三十國 從郡至倭」で
良いんだが、何かひかかるんだよね。
中国の文献なのに「従」の字を当てはめるのもどうかと....。
これみてる方々どう思う?
172:改め ◆PWTcGEfp1s
08/08/26 01:01:40
以朱丹塗其身體
こんな風習~古代日本にあったかな?
葬式のときに「赤い土」を塗りたぐってどうするんでしょね。。。
173:改め ◆PWTcGEfp1s
08/08/26 01:06:19
>>156
>自帯方至女國萬二千餘里、其俗男子皆點而文、聞其舊語、自謂太伯之後
>翰苑の魏略逸文に書かれています。
>このことから、卑彌呼は南方系の女性であったと思われる。
どこを見て「南方系の女性」としたのでしょうか?
土日にでも愛知県民さんに聞いてみましょうかね...。
では、時間遅いので....zzz。
174:日本@名無史さん
08/08/26 02:05:43
卑弥呼が美人だとイヤなんですね。わかるニダ。
175:日本@名無史さん
08/08/26 03:19:02
>>166
>海では視界が開けていて、盗賊に襲われる事はない。
お前馬鹿だろう?w
21世紀の今でも海賊と言うものがいて日本の商船が襲われているのを知らんのか?
ドアホウwwww
そもそも川を遡上する為の船なんか邪馬台国側が魏使に用意するだろうって話でw
一大卒を置いて北部九州に睨みをきかせた邪馬台国が
魏使が自国に来るまでその道先案内もせず安全も保証しなかった。
自国へ繋がる川の流域すら治安維持できなかった邪馬台国w
・・・なんて話し小学生でも考えんわwwww
寝言は寝て言えカスwwwwwwwwwwwwwwww
176:日本@名無史さん
08/08/26 06:42:05
>>170
で、どうなるんです。何で倭人伝どおりに進まないんです?
177:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/08/26 07:42:12
>>171
「從郡至倭」か「郡至倭」で考えるのではなく、「…三十國」か「…三十國從」かで、考える。
考える視点がまるでズレてるよ。
178:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/08/26 07:47:36
>>170
一日に進む距離は、文献に纏められているから
それを参照すればいいだけ。
自分の主観は一切いらない。
179:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/08/26 07:50:36
>>172
昔話に登場する「赤鬼」ホニのモデル。
180:日本@名無史さん
08/08/26 10:47:47
>>171
「今使譯所通三十國 從郡至倭」で問題なし。従=自。
181:日本@名無史さん
08/08/26 13:14:06
梅毒キターーー!!!!
182:日本@名無史さん
08/08/26 13:32:45
>21世紀の今でも海賊と言うものがいて日本の商船が襲われているのを知らんのか?
またまた出ましたこのゴキブリくん!www
海賊が当時の玄海灘にいたのなら、あれだけ事こまかに倭の様子を書いてる倭人伝に
何故一言の記載もないんだ?「倭の海には盗賊が多く航行困難」とかな。
実際に玄海灘を自分たちが航行しているわけだから。このボケカスアホ!www
まあ、馬鹿には無理だろうが。www
>一大卒を置いて北部九州に睨みをきかせた邪馬台国が
>魏使が自国に来るまでその道先案内もせず安全も保証しなかった。
>自国へ繋がる川の流域すら治安維持できなかった邪馬台国w
またまた出ましたオバマ、いやオバカさん。w
当時の邪馬台国に至るまでに「奴国」「投馬国」などがあると書いてあるだろ?
一大率はしょせん出先の機関で強力な警察力軍事力をもっていたとは思えないし、
邪馬台国が当時の北部九州に睨みをきかせていたとも思えない。
なぜなら、その後倭国大乱が起こっており、邪馬台国が武力で周辺国を制圧したなどと
いう記録は一切ないからである。そんな邪馬台国が保障できるのはせいぜい玄界灘の
上までだったのだろう。「水行三十日」云々も、倭人側が「魏のお役人さん。邪馬台国は
まだまだ遠いですよ。この辺までにしといたらいかがです?」という意味合いもあったのかも
しれない。(邪馬台国、倭人側が保障できたのは海上まで)
まあ、当時と今が同じだと思っているお馬鹿なゴキブリくんは
アンパンマンでも読んで「顔が交換できるわけないだろ。www」とか逝ってろ。www
わかったか?wwwww
183:日本@名無史さん
08/08/26 13:55:08
>>175
邪馬台国時代の玄界灘で海賊はビジネスとして成立するか?
金銀財宝を積んだ船が定期的に行き来する世界じゃないぞ。
せいぜい浮かんでるのは海岸にへばりつくようにして住んで
る漁民達の小舟だろ?
184:日本@名無史さん
08/08/26 14:23:54
>>175
「そもそも川を遡上する為の船なんか邪馬台国側が魏使に用意するだろうって話でw」
倭人伝では大陸からの行程を記載してるわけだから、魏使は魏で造られた船で北部九州を航行してるわけだろ?
仮に野蛮な倭人が「我々の造った船で川を遡上しましょう!」といったところで「OK! Let,go!」となるだろうか?
185:日本@名無史さん
08/08/26 15:22:25
倭人伝によれば、使者は末路国で上陸したことが明らか。なぜ、船を捨てたのか?
玄界灘を移動するならば、184氏がいうように自分たちの船を使うはず。
伊都国を怡土に比定しているのが問題ですな。伊都国は有明海沿岸にあったのです。
186:日本@名無史さん
08/08/26 18:19:19
見よ!
これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。
(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)
鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(trade.socang.com)
187:↑↑↑↑↑↑
08/08/26 19:32:52
見よ!
これが馬鹿の一つ覚えコピペだ。
188:改め ◆PWTcGEfp1s
08/08/27 00:32:04
高千穂神社の御祭神
神武天皇の御兄 三毛入野命て余り馴染み無い名だな...。
高千穂宮御由緒
当宮は初め高千穂皇神と申しあげてこの地に宮居をさだめられた天孫瓊々杵尊
以下三代の神々をお祀りし千百余年前の承和十年に従五位下、天安二年には
従四位上の位を授けられたことが六国史にはっきり記されており、日向国で一番位の高い神社。
神武天皇の御兄三毛入野命が高千穂に帰られ神籬をたてて神代御三代をお祭りされたのが初めで、
その子孫が長く奉仕されたので後には三毛入野命御夫婦と八柱の御子とを配祀して十社大明神としたらしい。
高千穂皇神
天津彦火瓊々杵尊 木花開耶姫命
彦火火出見尊 豐玉姫命
彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊 玉依姫命
十社大明神
三毛入野命 鵜目姫命
御子 太郎命 照野命
二郎命 大戸命
三郎命 霊社命
畝見命 浅良部命
189:改め ◆PWTcGEfp1s
08/08/27 00:37:55
>>176
>で、どうなるんです。何で倭人伝どおりに進まないんです?
倭人伝どおりに進むべきです。
>>177
>「從郡至倭」か「郡至倭」で考えるのではなく、「…三十國」か「…三十國從」かで、考える。
んで、なぜ「…三十國從」なのか河童さんの主張を聞かせてください。
>>178
>一日に進む距離は、文献に纏められているから
>それを参照すればいいだけ。
>自分の主観は一切いらない。
自分の主観ではなく倭人伝の記されてるとおりに解釈するべしです。
>昔話に登場する「赤鬼」ホニのモデル。
その理由は?ただ単に赤いから?
190:改め ◆PWTcGEfp1s
08/08/27 00:46:26
今倭水人好沈沒捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾
「今」倭水人好沈沒捕魚蛤 とかの記事がみえるので、
倭人伝に記されてる時期は「夏」というのが分かる。
まあ、春、秋の可能性も全然ないわけではないが、普通に考えたら
夏だろう。まさか「冬」ていう人は居ないだろうね....。
他の人の意見も聞いてみたいです。
191:改め ◆PWTcGEfp1s
08/08/27 00:54:56
自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之
常治伊都國 於國中有如刺史
「常治伊都國」・・・常に伊都國を治す
まあ、伊都國周辺に主要国家が集まってたのは確か。
そして、女王國~伊都國は離れて有るということが分かる。
倭の中心地(人が集まってるところ)はここら辺。
では、遅い時間なのでソロソロ...意見ある人は書き込みお願いします。
ZZZZ・・・・・・・・・・・・・・・・・
192:日本@名無史さん
08/08/27 01:12:12
>>182
大事な魏使サマにガイドも付けず護衛も付けずと言うのが
およそリアリティの無い話だなw
船の乗り換えで言えば、副島和明と言う人が
壱岐の原の辻遺跡で島の内海湾から小船に乗り換えて
環濠集落の外にある船着場に至ると言う事を書いていたな。
当時の海洋航行用の準構造船が全長25mとも書いていた。
その船が乗り付けるにはその遺跡の船着場はどう見ても小さいw
(船着場跡の復元模型の画像でもネット上にあれば話が早いんだが)
外洋航行用の船で川を遡上できないから
乗り換えと言う選択使を考えず
わざわざ徒歩にしたとでも?w
馬鹿丸出しwwww
もう少しマシな言い訳を考えろカスwwwwwww
193:日本@名無史さん
08/08/27 03:15:28
>>184
じゃあ野蛮な倭人の作った船を断って
野蛮な倭人が徘徊する陸上を歩いて行くかい?w
194:日本@名無史さん
08/08/27 05:44:23
とにかく、水行二十日、水行十日を遠賀川の遡上と読もうとするのは到底無理。
魏使は末盧国で自分たちが乗ってきた船から下りた。したがって、水行は倭の船を使ったはず。
定期船などあるはずはないから、船は一大率が準備したものでしょう。小舟かな?
195:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/08/27 07:57:33
>>189
>どうして三十國從なの
どうして君は三十國從ではないの?
三十國從と考えていない人に、三十國從である事を説明するのはしんどいから“しない”
邪馬台国(女王と男王)は三十國を従えて、帝国と交易してたからだろう。
>倭人伝どおりに
倭人伝ではない水行と言ったのは君だよ
それをいまさら、倭人伝なんて言い出して
「変」
一番理解していないのは、君じゃないか?
>単に赤いから
体中が炎うの様に赤い事が「鬼/火以」の語源。
196:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/08/27 17:41:57
「改め君」 ネタ投下しておくよ
『又有州胡在馬韓之西海中大島上其人差短小言語不與韓同皆kon[冠髟脚兀]頭如鮮卑但衣韋好養牛及豬其衣有上無下略如裸勢乘船往來市買韓中』
これは以前にも少しふれた韓伝の中の州胡の一文で、ネタとして投下したいのは
この中の「乘船往來市買韓中」
ここに記載されている乘船往來は、州胡と韓の間を船にて往来し、市買していることを記載したことではない。
そう主張しておくよ
君はどのように解釈するかな?
197:日本@名無史さん
08/08/27 17:56:42
>大事な魏使サマにガイドも付けず護衛も付けずと言うのが およそリアリティの無い話だなw
またまた出ました!ウンコ野郎! 臭っております馬鹿っぷり!
アホかおまえは。魏使一行は大陸側から一気に玄界灘を渡って不弥国まで行っている。
と言う事はウンコくんの理論だと倭人が自ら船を押し立てて魏まで迎えにいったとしなければそれは
成り立たない。まあ、馬鹿なので成り立たない事にも気がつかないだろうが。www
>外洋航行用の船で川を遡上できないから 乗り換えと言う選択使を考えず わざわざ徒歩にしたとでも?w
>じゃあ野蛮な倭人の作った船を断って 野蛮な倭人が徘徊する陸上を歩いて行くかい?w
もう、あまりの馬鹿っぷりに私も恥ずかしさでいっぱいです。www
魏志倭人伝には最後の行程が「陸行30日」とあるだろう?この馬鹿。それとも何か?お前の田舎では船かついで
陸を逝くのか?www 陸を行ったとちゃんとかいてある。ひょっとしてお前文盲か???
>魏使は末盧国で自分たちが乗ってきた船から下りた。したがって、水行は倭の船を使ったはず。
>定期船などあるはずはないから、船は一大率が準備したものでしょう。小舟かな?
そんな事があれば「我々は一大率が用意した船に乗り換えた。船の具合は◯◯だった」という記載は
あるだろう。まさにそれは倭人達の技術力を証明するものだから。
だいたいウンコマンはいったい邪馬台国はどこにあったと思っているのだ?
198:日本@名無史さん
08/08/27 18:11:28
陸行30日のうち20日は宴会だろうな。
199:日本@名無史さん
08/08/27 19:48:51
とうとう邪馬台国の所在が近畿だと決定する時がきましたね。
卑弥呼?それとも後継者? 大規模周濠の一部を初確認 奈良・箸墓古墳
URLリンク(sankei.jp.msn.com)
卑弥呼の墓?奈良の箸墓古墳 前方部正面に幅60メートルの外濠
URLリンク(www.nikkei.co.jp)
浮かぶ権力者の威光、被葬者論争にも一石 箸墓古墳周濠初確認
URLリンク(sankei.jp.msn.com)
200:日本@名無史さん
08/08/27 22:13:26
邪馬台国九州説は廃止されました。
201:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/08/27 22:33:23
こんな周濠なんかがあるとなおさら卑弥呼の墓ではないと感じるな。
202:日本@名無史さん
08/08/27 22:41:42
卑弥呼が死んだ時はまだ戦争中で、しかも男王が立ったがまとまらず混乱し、
ようやく臺与でまとまったという時期に、ここまで立派な陵墓がつくれたか疑問。
臺与の陵墓というならわかるが、卑弥呼じゃないだろうなぁ。
203:日本@名無史さん
08/08/27 23:40:03
周濠があったらなんで卑弥呼の墓の裏付けになるのかが甚だ疑問
倭人伝のどこかに卑弥呼の墓はそうであると書かれていたのかな
記憶では大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人だったような
204:日本@名無史さん
08/08/28 00:47:31
>>197
結局、この馬鹿は川の遡上に船を乗り換えるなんて事すら考えないw
遠賀川を横目で見ながらわざわざ徒歩で邪馬台国目指したとwww
危険云々言うのなら後の時代の整備された街道じゃあるまいし
そこらへんの茂みから何が出てくるのやらw
で魏使が邪馬台国に自力で着くまでフォローなしとwww
まあこのアホ(ひょっとして九州王朝説のサイキバ君かな?www)はすくいようが無いが
船の乗り換えによる川の遡上は畿内説にとっても諸刃の剣w
瀬戸内からのルートを想定すれば
「なんで大和川を船で遡上すると言う楽な方法を選ばなかったのか?
後の隋使裴世清も大和川を通って海石榴市に来たんじゃねえのか?」
・・・と言うツッコミが当然来るwww
205:日本@名無史さん
08/08/28 06:50:34
奈良の初瀬川の上流に市場があったと三輪山の案内にもあったな。
多分、昔は川を舟で移動する手段はあったと思う。
206:日本@名無史さん
08/08/28 12:58:12
・・・ん? 何か臭うぞ これは馬鹿の臭い・・・! またまた出ましたウンコマン!
いつものように馬鹿ぶちかましてます!www
>結局、この馬鹿は川の遡上に船を乗り換えるなんて事すら考えないw
>遠賀川を横目で見ながらわざわざ徒歩で邪馬台国目指したとwww
まあ、馬鹿なのは知ってるけど、人の書いたものは良く読もう。
「遠賀川には入らず、不弥国から先については倭人の申告(水行云々)をそのまま記載した」
とかいてあるだろうが。この馬鹿!
それからウンコマンは
>わざわざ徒歩で邪馬台国目指したとwww
とかいてあるが、「陸行30日」というのは徒歩で邪馬台国を目指したと言う事だろうが。
スンゲー馬鹿。陸行30日と書いてあるのに「>わざわざ徒歩で邪馬台国目指したとwww」
だって。www 馬鹿ここに極まれり。
>魏使が邪馬台国に自力で着くまでフォローなしとwww
この馬鹿は字が読めないのかねえ。だから上にも書いたが、魏使が行ったのは自らが乗って来た船
が使える不弥国まで。その先は自らは進んでおらず、倭人の申告をそのまま記載したと書いてあるだろ?
>なんで大和川を船で遡上すると言う楽な方法を選ばなかったのか?
そう。大和川は大和に向かうから「やまと」川。
(以下はウンコマン以外の皆様宛)
福岡県甘木市朝倉に大貴己神社という神社がありますが、この神社は「おんが様」と呼ばれています。
(ちなみにもともと「大神様」と書いておんがさまと読んでいたのだとか。)
おんが様に向かう川が「おんが」川なのではないでしょうか。
ポイントは倭人伝の記載によれば、邪馬台国への最終行程で(不弥国からの移動で)陸上の移動が出てくる事。
倭人達は、不弥国(津屋崎あたりか?)から九州を南北に流れる遠賀川を南へ水行し、
田川か、それよりやや上流に上陸し、陸路南へ峠をこえて福岡県甘木市へと入ったのではないでしょうか。
207:日本@名無史さん
08/08/28 13:06:18
>>206
>倭人の申告をそのまま記載したと書いてあるだろう。
何処にそんな間抜けな事書いてあるんだよ?
208:日本@名無史さん
08/08/28 13:56:58
夏厨は逃げ足も速いなw
209:日本@名無史さん
08/08/28 14:53:37
>>206
>魏使が行ったのは自らが乗って来た船が使える不弥国まで。
魏使は末盧国で下船しています。そこから伊都国へは陸行、当然不弥国へも陸行と考えられます。
210:日本@名無史さん
08/08/28 16:07:23
間抜けな>>207ことウンコマンへ。
>>166を嫁。馬鹿。
>>209
だからウンコマン
>魏使は末盧国で下船しています。そこから伊都国へは陸行、当然不弥国へも陸行と考えられます。
なのなら、不弥国はどこで投馬国はどこで、どこを水行してどこを陸行して、邪馬台国はどこなんだよ。
それをかかなきゃ話にならんぞ。
211:日本@名無史さん
08/08/28 16:10:47
ウンコマンは逃げてないで自分の考えをいちど
対馬あたりから邪馬台国までちゃんと書いたらどうだ?
ついでにウンコマンでコテってくれ。
212:日本@名無史さん
08/08/28 18:04:53
>>210
>>166引用
>遠賀川で三十日も水行できますか?最初から普通に陸行すれば、遠賀川上流には数日で着くはずでは?
激しく概出なのですが、「水行三十日」というのは、倭人達のいわば「言い値」なわけで、魏使が実際に
航行して出したデータとは思えません。その為それまでは「里」という客観性のある表記から、「行」と
いうそれの無い表記に変わっています。したがって、当時の交通事情は現代のそれとはちがっていたうえ、
倭人が誇大に日数を申告した可能性が高いと思います。
馬鹿か?
誰がオメーの下らねぇヨタ話を根拠にしろと言ったんだよ。
史料からの証文を提示しろと言ってんだよ(アナタニホンゴワカリマスカ?)
213:日本@名無史さん
08/08/28 18:10:10
>>211
ほらほらリア厨君。逃げるなよ
214:日本@名無史さん
08/08/28 18:50:06
>>212
夏休みだ!大目に見てやれよ。
震えてるじゃないか。
215:日本@名無史さん
08/08/28 18:58:16
>>210
倭人伝を正しく読むことが先決ですな。不弥国まで船で来たなどと言っている方に、
各国をどのように比定するのが合理的かを説明したところで理解できるはずはない。
216:日本@名無史さん
08/08/28 19:06:36
ニュースで「卑弥呼の墓確定か?」という記事を見て
このスレにきたんですが・・・
考古学の討論では相手にずいぶん失礼な言葉を使うんですね。
違う意味で勉強になりました^^;
217:日本@名無史さん
08/08/28 20:26:03
>>213 >>214 >>215
おおっと。またまた出ましたウンコマン! ウンコマンならではの臭い自作自演ご苦労。www
ウンコマンは何故「邪馬台国論争」というものがあるのか馬鹿だから解ってないようだ。www
魏志倭人伝という今日の科学に照らしてみたときいくつも矛盾がある資料しか無いが為に、それを
満たす行程、場所というものをまともな方達は模索しているわけだ。このスレの馬鹿ウンコマン
以外のレスをみればそれはわかる。まあ、こんな有難い話は豚に真珠、猫に小判と言うんだぞ。
馬鹿なウンコマンくん。覚えておきたまえ。
さて、馬鹿なだけではなく、卑怯者のウンコマンくん。ウンコマンは邪馬台国はどこにあって
どういう行程で魏使はそこへ至ったかという事を早く書けよ。www この馬鹿!www
218:日本@名無史さん
08/08/28 20:27:44
>>212
ほらほらリア厨君。逃げるなよ 。
早く書けよ。www
219:日本@名無史さん
08/08/28 20:29:24
>>217
夏休みだ!大目に見てやれよ。
ウンコマン震えて脱糞してるじゃないか。www
220:日本@名無史さん
08/08/28 20:32:57
>>217
オメーの言い訳や糞能書きはどうでもいいから、早く証文出せや!
またグチグチ言い訳するのか?ドアホウ!ドバカの糞ドツボがあ
早く出せや証文を。www
221:日本@名無史さん
08/08/28 20:38:27
>>212
倭人伝を正しく読むことが先決ですな。「魏使は末盧国で下船しています」
とか、「船は一大率が準備したものでしょう。小舟かな?」 と言っている馬鹿に、
各国をどのように比定するのが合理的かを説明したところで理解できるはずはない。
その前にウンコマン、魏志倭人伝のどこにそんな事が書いてあるんだ?
てめえは馬鹿か? ああ、馬鹿だったな。www
ウンコマンの下らねぇヨタ話じゃない根拠を示してみろよ。 ペッ!バーカ!
史料からの証文を提示しろよ。ウンコマンが史料からの証文を提示するというのは
ウンコマンが言い出した事だからな。(アナタノウミソアリマスカ?)
222:日本@名無史さん
08/08/28 20:42:08
>>220
ウンコマンくん。>>221にも書いたようにそれならウンコマンの妄想
の証文を出してみなさい。君は本当に馬鹿で、常識が無くて、古代史などに
かかわる素養がない。さっさと逝きなさい。
223:日本@名無史さん
08/08/28 20:46:10
>>220
ウンコマンくん。早く君の魏使一行の邪馬台国へ至る行程を書けよ。卑怯者。
言っておくが、その根拠となるものはウンコマンの妄想やヨタ話ではだめだぞ。
必ず証文をだすようにな。お前が言い出した事だぞ。www
224:日本@名無史さん
08/08/28 20:47:02
>>220
ほらほらリア厨君。逃げるなよ 。
早く書けよ。www
225:ドツボ警戒警報発令中
08/08/28 20:49:01
危険ですから退避してください。
226:日本@名無史さん
08/08/28 20:51:28
>>223
オメっオウム君だろう
227:日本@名無史さん
08/08/28 20:52:41
ウンコマンは逃亡してドツボ警戒警報発令中になりましたとさ。w
228:日本@名無史さん
08/08/28 20:54:18
>>226
情けないな、ウンコマン。
こんどは猿のマネか?w
229:日本@名無史さん
08/08/28 21:33:17
これはヒドイ
230:日本@名無史さん
08/08/28 22:51:12
隋国の役人が、「即ち・・」と随書のなかで、ヤマトに関しての
混乱を断定形で正して見解している。
遣隋使の使者や返礼者としてヤマトを訪れた裴(世)清ら一行の報告
をもって、その混乱も解消した。
「即ち魏志に云うところの邪馬臺なり」
(原文=邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也)
この裴(世)清の来日の件は日本書紀では、推古天皇16年の条で大唐
とされている。
日本書記の編者らの隋から唐への革命による政権移行が正しく認識で
きていなかったことは事実である。
これをもって、九州説諸氏はこの条項に反論しているが、ヤマト側に
よる中国(隋や唐)の認識よりも、要は隋国の使者が正しくヤマト側の
ことを伝えていればそれでよいのである。
231:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/08/28 23:32:01
そのころは朝廷の連中もヤマトは紀無いとの考えが浸透していて、
連中もまさかもっと古代に九州に卑弥呼の国があり邪馬壹国が
あったなどということは思いもよらないから、大陸の連中に畿内
ヤマトが邪馬台国であると誤認を断定的に教えたものだよ。だから
それをアテにしないほうが賢明。周濠が出たことから箸墓は卑弥呼の
墓ではないことがなおさら感じる。
232:日本@名無史さん
08/08/28 23:42:59
見よ!
これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。
(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)
鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(trade.socang.com)
233:日本@名無史さん
08/08/29 00:03:09
大和朝廷は邪馬台国を知っていたと考えて、
魏志に云うところの邪馬臺といった情報が正しいと主張する人がいれば、
大和朝廷は邪馬台国を知らなかったと考え、
神功皇后が卑弥呼というのは正しくなかったと主張する人もいる
中には両方を使い分ける人がいる
因みに、畿内説の人たちは、卑弥呼が神功皇后だと本当に信じているのかな
234:日本@名無史さん
08/08/29 00:08:52
どうでも良いがガキって
「うんこ」とか「ちんちん」とか好きだよなw
もうこのスレも末期wwwwww
235:日本@名無史さん
08/08/29 00:16:15
>>231
隋の使者が本当に大和に来たと思ってるんですか?それが完全な間違い。
隋使は九州の倭国王朝へ来たのですよ。だから、男王と会ったのです。
そして、だから「即ち魏志に云うところの邪馬臺なり」なのです。
236:204
08/08/29 00:38:37
>>235
まあ>204に隋使裴世清の件を書き込んだ時点で
九州王朝説に基づくそのツッコミが来るとは思っていたよwwwwwww
237:日本@名無史さん
08/08/29 00:51:05
まあ、 うんこ大好っ子 のアホが何をほざこうが
(ひょっとしてスカトロ趣味のおっさんかもしれんがwwwwwww)
原の辻遺跡なんかに乗り換えて川を上ってきた船を迎える船着場もあり
外洋船から小船に乗換えるのは当たり前過ぎるほどの話でw
だとすれば船で遡上できる川の流域にあるクニは
邪馬台国の候補地から一歩後退せざるを得ないなwww
238:日本@名無史さん
08/08/29 01:41:16
邪馬台国は蛮族の住む九州になどなかった。
人食い人種の熊襲が住んでいる九州にあるわけがない!
239:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/08/29 06:53:00
>>235
九州へ行ったんだという主張は合っている可能性は相当ある。それでもいい。
ま、畿内に行ってないなら中途半端で、なおさら畿内説だと断言できまいね。
魏志に云うところは邪馬壹だな。裴世清も字を取り替えていて誤認してるか。
240:日本@名無史さん
08/08/29 07:19:51
>畿内に行ってないなら中途半端で、なおさら畿内説だと断言できまいね。
意味が良く分かりませんが。
>魏志に云うところは邪馬壹だな。裴世清も字を取り替えていて誤認してるか。
隋書が書かれた当時は、魏志倭人伝には邪馬臺とあったのでしょう。
その後に倭人伝を伝写する過程で、邪馬壹と誤記されたのであろうと思います。
241:日本@名無史さん
08/08/29 07:36:33
>>238
熊襲=蛮族という見方は、多くの人が陥る見方ですが、まちがいでしょう。
仮にそうだとしたら、記紀を編纂する当時、既に支配下に入っていた熊襲の民を
侮辱するようなことを書くはずはありません。反乱を招きかねませんからね。
熊襲=蛮族と描いたのには、別の意味があると考えるべきです。
南九州に邪馬台国があったのならば?それを熊襲と描けば、大和の独立性を強調
した形になります。その描き方を、皆、おもしろがったかもね。
242:日本@名無史さん
08/08/29 07:42:52
倭人伝には倭人へのいろいろインタビュー記事が載ってるけど
魏の使者と倭人ってどうやって話したの?
当時の日本人は文字知らないから筆談も無理だよね。
243:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/08/29 11:09:10
>>240
当時は国名の冠に「邪馬」という字をつけてる国が少ないながら
複数あったのだ。いい例が伝にある「邪馬国」で、これにも「邪馬」
の名がある。人名も同様の慣行があったようで、弥弥とか弥弥那利
とか、弥馬獲支、弥馬升、あるいは卑弥呼と卑弥弓呼とか、このよう
に名の冠の二字が同字であることからも二冠字が同じなる名前の人が
複数いたということがわかる。だから邪馬臺国がヤマトだとしても、
邪馬壹国という、冠二字が同名の国名が複数あったというのが相当
なのである。だから「邪馬壹国」は誤字ではない。
だいたい邪馬臺国というのはヤマトならば、タイの「臺」よりも
「ト」と読める漢字が他にあるはずだから、例えばトと「都」が
当時の大陸の語で読めるならばそういうハッキリ「ト」と読める漢字
を採用したはずで、「邪馬都国」とか「戸」もそうなら「邪馬戸国」
とかの書き方にするだろう。そうなっておらず「臺」としたのは、
この書きこみをした当時の中国古文献の編者らが女王国がヤマト
だろうと、すでに知悉していたヤマトの国名からそう考えたが、
倭人伝のほうは「邪馬壹国」と書かれてあったので、ヤマトと思いこ
んではいたが、倭人伝のほうが正解やも知れぬと困惑したために、
双方の折衷説的中間語的の「臺」という、獣とも鳥とも取れる字で
誤魔化したと観るのが相当であるのだ。つまり「臺」字は分からん
彼らの逃げ口上から醸成された両者に跨れる蝙蝠的漢字なのである。
244:日本@名無史さん
08/08/29 14:33:35
>>242
通訳ですね。狗邪韓国や対馬あたりで韓国語と倭語の両方に通じた者をみつければ問題なし。
245:日本@名無史さん
08/08/29 20:05:01
昔のバイリンガルかっこよすぎ!
246:日本@名無史さん
08/08/29 20:33:44
単純な疑問だが、卑弥呼の寿命って長すぎないか
死ぬとき90歳を超えてたんじゃないかと思うが
そんな古代にそこまで長生きしたとは到底思えないんだけどな
それなりに長生きした武内宿禰みたいな人もいることはいるが
247:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/08/29 20:44:02
ラメシス2世 92歳
長寿王 98歳
248:日本@名無史さん
08/08/29 21:07:33
さあて、今日のスカトロ趣味のおっさんことウンコマンは?
>>234 >>237 お前だ! 時間から見ると昨日逃げ出したあと
夜中にコソーリと出て来て負け犬のオオボエをやってたみたいだな。www
まるで人がいなくなると冷蔵庫の下からはい出してくるゴキブリのようだな。www
>どうでも良いがガキって 「うんこ」とか「ちんちん」とか好きだよなw
そうか。それは「ウンコマン」という命名が気に入ってるって事だな?www よかったな。
>もうこのスレも末期wwwwww
末期なのはお前の脳味噌。(オー! アナタノウミソアリマスカ?)
>原の辻 ~中略~ せざるを得ないなwww
だから邪馬台国はどこなんだよ。このカス!てめえの妄想ヨタ話以外の証文を示して書けよ。
このゴキブリ野郎!(今夜も夜中に出てきて負け犬のオオボエかな?www)
249:日本@名無史さん
08/08/29 23:24:20
>>246
>単純な疑問だが、卑弥呼の寿命って長すぎないか。死ぬとき90歳を超えてたん
じゃないかと思うが。そんな古代にそこまで長生きしたとは到底思えないんだけどな。
共立を180年代とすれば、確かに極めて不自然ということになるでしょう。
しかし、倭人伝は実はそんなことは書いていません。誤読されているのです。
倭人伝は魏志の一部ですから、その倭人伝が書く卑弥呼の共立は実は魏代の出来事。
共立→叙倭王は一連の出来事、ということは、230年代と考えるべきなのです。
それでこそ、「年すでに長大」が理解できるでしょう。これは共立された時すでに
老婆だったということにほかなりません。
250:日本@名無史さん
08/08/30 00:35:19
>>249
239年の卑弥呼は7代目くらいだろ。
水戸黄門でさえ4,50年で何回も代替わりしている。
251:日本@名無史さん
08/08/30 00:47:16
>>248
うんこ大好きくん
夏休みの宿題・・・
そろそろ追い込みに入った方が良いんじゃないかな?www
252:カミナリ嫌い
08/08/30 10:10:02
>>249
> 共立を180年代とすれば、確かに極めて不自然ということになるでしょう。
> しかし、倭人伝は実はそんなことは書いていません。誤読されているのです。
へー、そうなんですか?参考までに、他の史書と比較して見ましょう。
【魏志】 其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼、~略~
【後漢書】 桓、靈間、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主。有一女子名曰卑彌呼、年長不嫁、事鬼神道、能以妖惑衆、於是共立爲王。
【晉書】 漢末、倭人亂、攻伐不定。乃立女子爲王、名曰卑彌呼。
【南齊書】 漢末以來、立女王。
【梁書】 漢霊帝光和中、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子卑彌呼爲王
> 倭人伝は魏志の一部ですから、その倭人伝が書く卑弥呼の共立は実は魏代の出来事。
そのようなルールは無いと思います。
それでは「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。」も全て魏代の出来事と読まなければなりません。
> 共立→叙倭王は一連の出来事、ということは、230年代と考えるべきなのです。
「乃共立」の「乃(かくて)」とは、「相攻伐歴年」と「共立」の因果関係を結ぶ接続詞で「一連の出来事」を示します。
また、倭の乱が何年続いたかは魏志の記述からは顕かではありませんが、魏志以外の文献を見れば判るように
中国の後世の史家達は魏志等の先行史書を読んで、倭乱・共立は漢末の出来事と判断しています。
これは、永初元(107)年の倭國王を基準として、住七八十年の後に「歴年」の倭乱があったと解釈しているから。
史家達は「歴年」に20~30年間を充てているようです。
つまり、范曄達中国の史家は、「誤読されている」と貴方は主張するわけですね。
253:日本@名無史さん
08/08/30 12:52:39
>>251
おお。負け犬スカトロマニアのウンコマン!
やっぱり夜中に冷蔵庫の下からはい出してたか。www
もはや邪馬台国の事などどうでもいいようだな。www
みじめだな。www 早く仕事探せよ。
254:日本@名無史さん
08/08/30 13:08:15
>>249
ならない
255:愛知県民 ◆/aQLbFNNDU
08/08/30 13:11:28
>>173
改めさん
>どこを見て「南方系の女性」としたのでしょうか?
聞其舊語、自謂太伯之後
「太伯」は春秋時代・呉の国祖です。
>>199
>とうとう邪馬台国の所在が近畿だと決定する時がきましたね。
意味不明。
箸墓は「ハツシラス墓」で、崇神天皇の墓ではないでしょうか。
256:日本@名無史さん
08/08/30 13:12:55
さあ~て
>>249改め君は>>252に対し、どのように回答するかな?
じっくり拝見しましょ。
257:改め ◆PWTcGEfp1s
08/08/30 13:49:04
>>255
>聞其舊語、自謂太伯之後 「太伯」は春秋時代・呉の国祖です。<
ん?よく分からないのですが~、
それと卑彌呼がどのように関係してるのでしょーか?
>>256
>>249はおれじゃないよ。
258:日本@名無史さん
08/08/30 14:14:15
>>253
まあ、はっきり言ってお前みたいな九州説にありがちな珍読なんざあどうでも良いってのが本音ではあるwww
>>161
>東南は東北の間違い
で方角も間違いで
距離(かかった日数)も伝聞の為いいかげん
・・・となればもうやりたい放題だな。
九州で自分のお気に入りの場所に邪馬台国持っていけるって話でwwwwwww
同じ九州説の連中からも突っ込まれて火病を起こし
誰も彼も うんこ に見えて(まあ うんこ が大好きなのは分かるがw)
で、 うんこ大好きちゃん 夏休みも今日入れてあと二日だよ。
宿題大丈夫かな?wwwwwwwwwwwwww
259:愛知県民 ◆/aQLbFNNDU
08/08/30 14:14:42
「邪馬臺國」(後漢書など)と「邪馬壹國」(魏志)の問題。
どちらも間違いかもしれません。
「邪馬壹國」は約二千字の魏志倭人伝に、一回出てくるだけ。
「翰苑」に引く「魏略」には「邪馬臺國」も「邪馬壹國」も出てきません。
「翰苑」に引く「廣志」には「又南至邪馬嘉國」とあります。
ヤマカ国、対等に検討されてもよいのではないでしょうか?
260:唐松山 ◆V0F34EbmQA
08/08/30 14:15:01
箸墓を崇神天皇の墓とした場合、垂仁稜とのギャップは?
垂仁時代は、武器の大量生産、備蓄から 多量の鉄の存在がある。
261:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/08/30 14:18:31
>>257改め君
ここ『自謂太伯之後』は簡単に考えればいいのだよ。何もムズク、太伯の末裔等と考えずに
風俗文と読めばいいだけ。
太伯之後とは
太伯の刺青断髪を述べる語で、後に漁を営む者のスタイルを表した。
断髪は利便性、刺青は威嚇
自=倭人
謂=説明
まるで太伯の後に広まった漁師のスタイルだ
262:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/08/30 14:21:21
だからどの史書も
『倭人曰』『自曰』とはせず、
『謂や云』だよ
263:愛知県民 ◆/aQLbFNNDU
08/08/30 14:23:19
>>257
倭人自身が「先祖は中国江蘇省から来た」と言っているわけですから。
魏略の「聞其舊語、自謂太伯之後」は魏志倭人伝では「自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫」となっていますが、
この文章は前後関係から見て奇妙です。
魏略の「聞其舊語、自謂太伯之後」のほうが前後の続きが自然であり、信用できると思います。
264:愛知県民 ◆/aQLbFNNDU
08/08/30 14:40:12
>>261
河童さん
>太伯の刺青断髪を述べる語で、後に漁を営む者のスタイルを表した。
だから、倭人は太伯からだと言っているが、もっと昔に夏后少康之子が斷髮文身した例があると陳寿は書いていますね。
この「後」は末裔と約してはいけない? もっと調べてみます。
265:愛知県民 ◆/aQLbFNNDU
08/08/30 14:52:08
>>260
唐松山さん
陵墓の比定はかなり見直しが必要でしょう。
あ、「墓標」ですべて解決済みと言われるとちょっと・・・?
266:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/08/30 14:52:24
>>263
夏后少康之子の断髪文身は身体の特長であり、ファッション迄を含めたモノではありません。
しかし、太伯之後は
断髪文身に加え漁師スタイル効果が加わります。
簡単に言えば、
京を訪れる倭人の容姿を、まるで『漁師のオッチャン』と同じだと、述べています。
たしか?そのような容姿の倭人画があったような?
267:愛知県民 ◆/aQLbFNNDU
08/08/30 15:37:09
>>266
梁の職貢図
URLリンク(upload.wikimedia.org)
268:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/08/30 15:53:42
>>267
県民さんサングラス(^O^)/
夏后少康の子(無余)の断髪文身は荒れ地を開墾した陸バージョン。
太伯之後の断髪文身は、海に効果した海バージョン。
倭人は大海之中にある海バージョンのスタイルに属するから、後の史書は全て『太伯之後』と倭地を紹介しました。
269:日本@名無史さん
08/08/30 18:16:27
梅毒サングラス
270:愛知県民 ◆/aQLbFNNDU
08/08/30 18:21:57
北宋の「資治通鑑」には「今日本又云呉太伯之後、蓋呉亡、其支庶入海為倭」とあります。
北畠親房の「神皇正統記」は「異朝ノ一書ノ中ニ、『日本ハ呉ノ太伯ガ後也ト云。』トイヘリ。返々アタラヌコトナリ。」
と否定しました。
林羅山は次のように述べました。
URLリンク(drhnakai.hp.infoseek.co.jp)
余竊かに圓月が意を惟ふに、按ずるに諸書は日本を以て呉の太伯の後と為す。
夫れ太伯は荊蠻に逃れ、髪を断ち身を文きて交龍と共に居る。其の子孫筑紫に来る。想ふに必ず時の人以て神と為ん。
(中略)姫氏の孫子本支百世、万世に至りて君たるべし、亦た盛んならずや。
彼の強大の呉、越に滅ぼさるを見ると雖も、而して我が邦の宝祚天地と窮まり無し。余是に於て愈々太伯の至徳たるを信す。
271:日本@名無史さん
08/08/30 18:51:51
>>252
>それでは「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。」も全て
>魏代の出来事と読まなければなりません。
この記事は、「本~住七八十年」で魏時代より前のことから書き起こしている
ことが示されています。 「倭國亂、相攻伐歴年」は魏代のことでしょう。
>中国の後世の史家達は魏志等の先行史書を読んで、倭乱・共立は漢末の出来
>事と判断しています。
確かにそうでしょう。後漢書の記事に惑わされたものと考えられます。
>これは、永初元(107)年の倭國王を基準として、住七八十年の後に
>「歴年」の倭乱があったと解釈しているから。
これは根拠のない推測ですね。梁書はそのように考えたのかも知れませんが、
少なくとも後漢書の考え方は違います。
>つまり、范曄達中国の史家は「誤読している」と主張するわけですね。
そのとおりです。皆、范曄の誤読に引きずられたのですね。
272:日本@名無史さん
08/08/30 19:14:16
范曄はどこをどのように読み違えたのか?そこが問題ですね。
キーワードは「住七八十年」です。これは男王が続いた期間ですが、范曄はこれを
倭国乱の続いた期間と解釈したのです。そうなると、「相攻伐暦年」は何だという
ことになります。暦年は七八十年もの期間を意味するとは思えません。
そこで、范曄はこれを倭国乱の後の卑弥呼共立に至るまでの期間と考えたのですね。
要するに、倭国の乱は七八十年も続いた、その後、更に相好伐すること暦年を経て
卑弥呼が共立されたとね。范曄は漢の末に卑弥呼共立があったと考えたのでしょう。
それならば、卑弥呼が共立された時、「年長」でも良い、それが范曄の考え方です。
後漢書を読み直して下さい。「桓靈間、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主」とありま
すね。これは、倭人伝の「其國本亦以男子爲王、住七八十年。倭國亂、相攻伐歴年」
を「其國本亦以男子爲王。住七八十年倭國亂。相攻伐歴年」と切ることによって出
てくる読み方です。つまり、范曄は倭人伝の切り方を間違えたんですね。
273:カミナリ嫌い
08/08/30 19:59:50
>>271
> この記事は、「本~住七八十年」で魏時代より前のことから書き起こしている
> ことが示されています。 「倭國亂、相攻伐歴年」は魏代のことでしょう。
えー、本~と書くと前代のことに成るのですか?
で、歴年は同時代のこと。
どこがどう違うのかな?
> >これは、永初元(107)年の倭國王を基準として、住七八十年の後に
> >「歴年」の倭乱があったと解釈しているから。
> これは根拠のない推測ですね。梁書はそのように考えたのかも知れませんが、
> 少なくとも後漢書の考え方は違います。
後漢書は「桓、靈間、倭國大亂」でしょ。
倭の男王治世は70~80年、永初の朝貢は安帝即位に際してののものなので、
倭王側はそれ以前から在位していた可能性が高い。
中元2年では、倭奴國時代、永元(89年)の和帝即位時には朝貢記録が無いことから
男王治世の開始は90年代から100年代前半、終わりは恒帝在位(147~168年)の何時かと見て、
算出されたのが「70~80年」かと思います。
私見では、恒帝即位に際しての朝貢が無いのでこれに近い時期かと思います(70年に満ちませんが)。
そして、「住」と対置される概念が「相攻伐」ですから、「歴年」はその後の期間。
10年と見るか20年と見るか30年と見るかは人それぞれではありますが・・・
時代観は、梁書も後漢書も対して違わないと思いますけどね。
> >つまり、范曄達中国の史家は「誤読している」と主張するわけですね。
> そのとおりです。皆、范曄の誤読に引きずられたのですね。
中国史家に読めないことが、貴方には読めると!
御見それしました。
274:唐松山 ◆V0F34EbmQA
08/08/30 20:00:10
倭国乱
西暦193年 倭国餓えの為、新羅に千余人が渡海する。
日本国内の民が流動化=乱れの始まりでは無いかもしれないが、不安定化
の要素の一つ。
崇神11年国内安寧と書かれている=国内とは、畿内の事である とすれば、
畿内以外に安寧でないところがあると言うこと=九州では、乱れを収束できていない。
西暦239年まで、40~50年、景行の九州遠征は、西暦247年頃より
景行、九州遠征の初期に 卑弥呼の死亡
そして景行は、歌を残す、「ただ皇子思う クの山の 白樫が枝を ウズに挿せその子」
クの山とは 狗奴国であり、熊襲国の山である つまり卑弥呼に対し熊襲国を征服、
服従させることを誓った、誓いの歌なのです。
275:愛知県民 ◆/aQLbFNNDU
08/08/30 20:09:35
>>274
唐松山さん
>西暦193年 倭国餓えの為、新羅に千余人が渡海する。
三国史記・新羅本紀の記事ですが、年代の水増し等、考慮する必要は無いのでしょうか?
276:日本@名無史さん
08/08/30 22:38:26
>>273
>永初の朝貢は安帝即位に際してのものなので、倭王側はそれ以前から在位していた可能性が高い。
いつを基準に考えているのですか?共立は180年代ではないと言っているのですが。
後漢書が「桓靈間、倭國大亂」と書いたのは、七八十年+暦年で共立と考えれば、七八十年
の中に、桓靈時代が入ることはまちがいないという判断からにすぎません。
>中国史家に読めないことが、貴方には読めると!
今の我が国の学者だってでたらめな読みばかりしているではありませんか。
中国史家だっていいかげんなのが多いのですよ。
>時代観は、梁書も後漢書も対して違わないと思いますけどね。
姚思廉は范曄の読みはおかしいと思ったのでしょう。そこで、永初元(107)年
を基準として、住七八十年と考え、范曄が「桓靈間」と書いたのを桓と靈の間とで
も解して、霊帝光和中としたのであろうと思います。
しかし、そんな解釈はだめですね。永初元(107)年の倭の遣使について、倭人
伝は何も書いていません。したがって、そんな話を陳寿が基準にするはずはないの
です。なお、姚思廉は共立を霊帝光和中(180年前後)とした、したがって、共
立時には卑弥呼が「年すでに長大」はありえないと思った、だから、彼はその文言
を削ってしまったのです。梁書にはそれがないでしょ?そうゆうことなのですよ。
277:カミナリ嫌い
08/08/30 22:59:09
>>276
> いつを基準に考えているのですか?共立は180年代ではないと言っているのですが。
うーん。実は判らない。
前レスで書いたように「歴年」の期間が漠然としているので。
> 後漢書が「桓靈間、倭國大亂」と書いたのは、七八十年+暦年で共立と考えれば、七八十年
> の中に、桓靈時代が入ることはまちがいないという判断からにすぎません。
「桓靈間」と書いてあれば「桓」と「靈」の間です。
貴方の説のように范曄が乱の期間を「住七八十年」のことと読み違えていたのなら、
安帝から記載して「安靈間」と書くのでは無いですか?これでもフルに数えて70年ですが。
まあ、貴方は漢文について「御自信」が御有りのようですが、更に御研鑽くださいな。
278:日本@名無史さん
08/08/30 23:04:04
>「桓靈間」と書いてあれば「桓」と「靈」の間です。
間ではなく、桓時代+靈時代です。ご研究のほどを。
279:日本@名無史さん
08/08/30 23:18:48
見よ!
これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。
(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)
鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(trade.socang.com)
280:日本@名無史さん
08/08/30 23:20:09
そもそも桓帝の次が靈帝なのに
281:日本@名無史さん
08/08/30 23:27:37
後漢書も梁書も倭国側からの情報提供も受けて書かれているでしょう
282:日本@名無史さん
08/08/30 23:42:34
>>277
范曄が乱の期間を「住七八十年」のことと読み違えていたのなら、安帝から記載して
「安靈間」と書くのでは無いですか?
先に書いたように、倭人伝は安帝時代の倭の遣使について、何も書いていません。
陳寿は安帝時代の遣使はまったく問題にしていないのです。
したがって、安帝から数えるなどということはありえないことです。
283:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/08/30 23:44:02
>>281
>後漢書も梁書も倭国側からの情報提供も受けて書かれているでしょう
それは貴方の想像です。
284:日本@名無史さん
08/08/30 23:51:58
>282の上の2行は>277からの引用です。
285:日本@名無史さん
08/08/31 00:04:33
>>282
桓靈間じゃ40年間にしかならないのに・・・