09/01/04 09:47:17
てゆーか、秀忠にとっちゃ実質初陣だろ。家康が勝てない相手に勝てと言うのは荷が重過ぎる。
家康がうまく逃げて合流できれば最良。そうでなければ東海筋のどこかの城へ逃げ延びて秀忠と連絡が回復できるのが次善。
これくらいまでなら何とか挽回できるが、討ち死にしてたり城に逃げ込んだはいいが関ヶ原から近すぎて早速西軍に十重二十重に包囲され
ちゃうような状態だったら、実質初陣でしかも上田で真田に散々愚弄されてる人を総大将と仰いで戦わないといけないんだぜ?
しかも副将格の榊原康政と参謀長格の本多正信が泥水で顔を洗うような素晴らしい友情で結ばれていると来ているw
ということは、常に作戦が対立関係によって一足遅れ、主将の未熟さで決裁が取れずさらに一手遅れる。
城攻めのテンポならまだいいが、野戦のテンポにはついていけないのではないだろうか。
751:日本@名無史さん
09/01/05 09:15:54
>>592
バカ輝元が関ヶ原に居てもジャマ、足手まといになる。
752:sage
09/01/05 15:06:23
久しぶりに笹尾山に登って来たよ。
大谷の陣営以外は一望だな。
753:日本@名無史さん
09/01/06 00:04:26
>>752
笹尾山の陣地から見て、松尾山から一万人以上の小早川軍が攻め降りてくる様はどんなんだっただろうね。
石田三成も小早川軍の行動を目の当たりして、さぞや有り得ないほど驚いたことだと想像できるよね。
自分も笹尾山登ったことあるけど、いくら鶴翼の陣形で迎え撃ったといえど大谷軍はひとたまりもないよね。
それに呼応するかの如く、脇坂安治、赤座直保、小川祐忠、朽木元綱各軍までもが寝返ったんだもんなぁ。
さらに合戦後は、元西軍諸将からは裏切り者、元東軍諸将からは元々は西軍方だっただろという目で見られて
四面楚歌状態だったとかの金吾。享年21歳とかいう青年武将であったなら、どんな心境だっただろうなぁ。
あの山登った時いろいろ考えさせられたよ。
754:日本@名無史さん
09/01/06 00:22:42
小早川秀秋を金吾と書くような新春の厨らしいレスでした。
755:日本@名無史さん
09/01/07 01:46:52
石田三成がもっと挙兵を慎重に時間を遅らせて行って、上杉対徳川軍の戦いを
見てみたかった。きっと良い勝負になったんじゃなかろうか。
上杉軍は随分周到に待ち伏せ・挟撃・殲滅計画を立ててたみたいだし。
756:日本@名無史さん
09/01/07 02:54:50
幻の革籠原の戦いですね
757:日本@名無史さん
09/01/07 07:55:30
会津陣物語?あんなのデタラメもいいところだぞ
いつのまにか佐竹と共闘してる計画になってるし、信憑性皆無
758:日本@名無史さん
09/01/07 12:58:22
西軍うまく連携取れてないと言うかなんと言うかドタバタしてるよね。
759:日本@名無史さん
09/01/07 13:39:09
佐竹と津軽を味方に引き込めればなあ
760:日本@名無史さん
09/01/07 15:50:22
>>758
東軍は東軍で結構好き勝手にやってるイメージ
761:日本@名無史さん
09/01/07 17:39:10
>>760
東海道の先鋒隊を本多や井伊が上手く統率したのは
慶長役の目付間とのゴタゴタと比較すると大したもの
762:日本@名無史さん
09/01/08 08:05:58
>>715
松川で負けたくせに
763:日本@名無史さん
09/01/08 12:22:57
>>753
>石田三成も小早川軍の行動を目の当たりして、さぞや有り得ないほど驚いたことだと想像できるよね。
脇坂安治、赤座直保、小川祐忠、朽木元綱らが配置されたのは、そもそも何のためだと?
764:日本@名無史さん
09/01/08 13:08:24
>>763
金吾の先鋒だろ。
765:日本@名無史さん
09/01/09 00:37:55
配置されたという認識がそもそも間違い
脇坂、赤座、小川、朽木、らは大谷といっしょに中山道沿いにかなり前から布陣していて
強化陣地を構築している
石田はもちろん
小早川も後から布陣している
766:日本@名無史さん
09/01/09 07:33:53
総大将として満を持して布陣したわけだね。
さすが金吾。関白になる男。
767:日本@名無史さん
09/01/09 20:01:15
松尾山に布陣していた大垣城主の伊東さんはなぜ金吾さんに黙って
松尾山を明け渡したんですか
戦えばよかったのに
768:日本@名無史さん
09/01/09 22:18:08
金吾の武威を恐れたからだろjk
769:日本@名無史さん
09/01/11 06:08:18
三成「くくくううううう、くそぉ!小早川は何をしておる。狼煙じゃ、もう一度狼煙を上げぃ!」
~小早川秀秋軍、徳川家康の再三の催促に意を決し、松尾山を一気に駆け下りる~
三成「うおお!!!小早川め、気は確かか!」
~東軍と交戦中だった三成の家臣が、石田三成の元へ馬で駆けつけ言い放った~
家臣「殿ぉぉぉ!脇坂安治が寝返りましたぁー!!」
三成「な、何ぃぃぃ!!!」
家臣「朽木元綱、小川祐忠、赤座直保も右に同じく、都合4000の裏切り者が平塚勢、戸田勢と交戦中!」
~小早川秀秋の寝返りによって、西軍の形勢は一気に不利に転じたのであった~
770:日本@名無史さん
09/01/11 09:54:11
小学生の文章か?
771:日本@名無史さん
09/01/11 11:44:50
家康が大坂を出陣したとき、発生する可能性のあった事件
1.石田三成の反乱
2.宇喜多秀家の反乱
3.前田利長の反乱
じっさいは、
1と2だけではなく、西国取り次ぎの毛利家が反乱
これに豊臣家自体も荷担
西国大名群が荷担して関ヶ原合戦となる。
意外
772:日本@名無史さん
09/01/11 12:27:26
意外っつーか、そもそも豊臣家が朝鮮出兵とかのごたごたで内部分裂しかけていた結果だからなぁ……。
実戦部隊でたたき上げた連中と、秀吉政権の官僚として出世した連中の間の険悪さなんか有名。
家康に天下取らせたい、取らせたくないというより、その遺恨で分かれたようなもんだろ。
773:日本@名無史さん
09/01/11 12:43:36
毛利や上杉が家康に敵対したのも、同じ大老なのに勝手に婚姻結んでは開き直る家康に面子潰されたりしたから、みたいなのかなぁ?
家康派VS豊臣派どころか、アンチ同士の潰しあいってだけだったりして。
774:日本@名無史さん
09/01/11 13:38:23
>>773
そうだよ。
この時点では家康は豊臣の重臣でしかなく、いわゆる三成を筆頭とする文治派と
正則らの武断派との対立に乗じてるだけ。
三成らにすれば家康は君側の奸であって抹殺すべき主敵なのだけれど、
正則らには家康は戦国遺風を知る仲間なわけ。
上杉出兵自体が、豊臣の名で行われてるからなぁ。
775:日本@名無史さん
09/01/11 13:49:49
しかも西軍内部には相当の家康シンパ、アンチ三成や淀殿を抱えていたからな……。
776:日本@名無史さん
09/01/11 14:14:56
>>775
淀殿の名前がなぜそこで出てくる?
777:日本@名無史さん
09/01/11 14:27:11
>>776
北政所派の豊臣家生え抜き(ってかほぼ育ての親っぽいレベル)と、淀殿にくっついてる近江派の確執もあったからじゃ?
778:日本@名無史さん
09/01/11 14:34:48
大抵の武将は(女性ら含めて)どっちにもいい顔しようとしてたのが実態じゃ?
実は淀と北政所、それに三成の中は悪くなかったよって説もあるし。
まぁ、東軍に寝返ったのに認められなかった方々ご愁傷様ってやつで。
779:日本@名無史さん
09/01/11 16:15:50
家康にしてみりゃあ、最後のチャンスだろ。
自分の寿命にも限度があるからなあ。
「騎虎の勢」ってこともあっただろ。
中途半端に妥協してたら潰される可能性大だしな。
のるかそるかの勝負に出たんだろさ。
家康のことを慎重居士のように思っている者がおるかもしれんが、それは認識不足だ。
家康ほど生涯に何度も命がけの勝負をした者も珍しいのだよ。
780:776
09/01/11 16:37:46
>>777
>>775が「家康シンパ、アンチ三成」と「淀殿」を同列に考えているのがよくわからなかった。
あ,今思いついたが,小説でよく書かれているように秀頼様御出馬を淀殿が止めたのが西軍
の足を引っ張ったと言いたいのかな?
781:日本@名無史さん
09/01/11 16:54:48
>>779
慎重な人間は何事にも慎重だと思い込んでるのか?
それは全くの認識不足だな。
782:日本@名無史さん
09/01/11 21:27:46
武断派と文治派の対立なんてない、本当は違うんだけどな
黒田・蜂須賀⇔石田・増田の奉行衆の対立
加藤⇔小西の対立
よく言われる福島正則と石田三成の犬猿の仲も、関ヶ原まで対立したのを示す事象がない
北政所派や近江派なんてのもない、そんな事言ったら北政所は西軍支持してるんだけど
783:日本@名無史さん
09/01/11 23:37:28
石田三成襲撃事件の双方の兵力を教えて下さい
784:日本@名無史さん
09/01/12 01:54:01
>>782
北政所がいつ西軍支持したんだ
彼女はどちらも支持はしていない
785:日本@名無史さん
09/01/12 11:59:32
>>782
加藤と小西はともかく石田と黒田の件は
結局は唐入りが原因だしね。
786:日本@名無史さん
09/01/12 13:42:59
武功派、と呼ばれる実戦派の武将といっても、やることは徒党組んでの暗殺まがいの石田いじめだったり(しかも失敗)
老練な家康に転がされて当たり前の程度って感じもしないではないw
秀吉が秀頼かわいさのあまり、親族や古参の家臣を粛清したりするから……。
787:日本@名無史さん
09/01/12 14:00:06
粛清しなければどうなったっていうんだ?
秀次が後を継いでも結果は芳しくなく、最後はやはり家康が
政権を取ったと思うよ
788:日本@名無史さん
09/01/12 14:15:24
>>787
難しいだろ。子供の秀頼と違って成人した主君と、家康と同時代の激戦を生き延びた老練な武将が政権にいたら。
789:日本@名無史さん
09/01/12 15:52:54
逆に秀次らが秀頼らを粛清したりとかな……
内紛やったら家康等の外様大大名が得をする構図はかわらんだろう。
その意味では朝鮮出兵とかも痛かった。
790:日本@名無史さん
09/01/12 16:21:14
>>787
家康が天下を取れたことを当然のように考えるか?
あれは僥倖だろ。
三成・秀家に勝った後、正則に天下を獲られても不思議ではなかったかもしれんし。
791:日本@名無史さん
09/01/12 21:42:57
>>781
>>779の文章の、どこをどう読めば「慎重な人間は何事にも慎重だと思い込んでる」などというタワゴトが出てくるのだ?
もう一度日本語の勉強をしなおしてこい。
792:日本@名無史さん
09/01/12 23:56:58
秀頼は幼児だったので、秀頼の名代という立場で家康は好き勝手ができた(利家の死後)が、
成人の秀次の場合はそうはいかない。(既に関白)
次代を見越して伊達や最上、細川、藤堂などが秀次の腰巾着になっていたし、
むしろ、東海道ぞいに配置されていた秀次の宿老である
山内一豊、堀尾吉晴、中村一氏、田中吉政、一柳直末らを先鋒にした軍勢に滅ぼされていたかも。
793:日本@名無史さん
09/01/13 00:21:15
>>791
>家康のことを慎重居士のように思っている者がおるかもしれんが、それは認識不足だ。
>家康ほど生涯に何度も命がけの勝負をした者も珍しいのだよ。
戦国の世では慎重な人間だって何度も命がけの勝負をするものだ。
つーか、武士に生まれた以上命がけの勝負の連続なわけだが。
どうだ、わかったかい?慎重であることと命がけの勝負をすることはなーんの関係もないわけだ。
しかし>>779は無思慮にも両者に関係があると思い込んでるわけだ。
馬鹿だねー。
794:日本@名無史さん
09/01/13 00:38:16
>>793
最後の4行が無ければいい書き込みなんだけど 残念w
795:日本@名無史さん
09/01/13 14:07:43
秀次云々という話だと、大和大納言があと10年生きていたら…
という話をしたくなってしまうま。
796:日本@名無史さん
09/01/14 16:20:18
石田三成は、太閤検地とか粛清事件の表に立ったから、秀吉に向くべき怒りを受けてしまっている。
盟友の大谷からすら、お前は人望がないから他の大将立てろといわれるぐらい。
あと実戦指揮官としての器量も疑問だし。(本人もそれを意識していたのか勇名ある武士を破格の扱いで集めたりしたが、本人の代わりにはなれなかった)
797:日本@名無史さん
09/01/15 12:12:30
秀吉が信長の跡継ぎに幼君立てて好き勝手やった報いだ。
798:日本@名無史さん
09/01/18 23:56:44
家康が秀吉の跡継ぎに難癖つけて好き勝手やった報いは250年後ですか?
799:日本@名無史さん
09/01/19 15:48:22
秀長が生きていたら、というか。
秀長の家が存続して大藩として睨みきかせただけでだいぶ違っただろうな。
でも跡継ぎの秀保も若死。
養子騒動の時、のちの藤堂高吉が後をついでいればよかったかもしれんが。
800:日本@名無史さん
09/01/20 03:35:46
秀長と秀吉の死んだ時期が逆だったほうが状況マシだったろうなぁ。
801:日本@名無史さん
09/01/20 03:39:41
あ、単純に逆にすると鶴松が生きているから火種が出来ちゃうな。
秀次が関白になってから秀吉死亡ね。
鶴松死亡 -> 秀次関白 -> 秀吉死亡 -> 秀長が1598年まで生きて補佐
802:日本@名無史さん
09/01/20 23:24:20
>>801
> あ、単純に逆にすると鶴松が生きているから火種が出来ちゃうな。
鶴松死んだら普通に秀次が後継者だろ 他に一門であんま対抗馬居ないし
それに秀長が生きてるんだから決めてもらえばいいじゃん
803:日本@名無史さん
09/01/22 15:03:58
いっそ秀吉が存命時に家康とかを潰しておけば……。
地方に強力な勢力残した形で天下統一いそいじゃったからな。
しかもやった後は朝鮮への無謀な外征。
しかしなぜか家康らは使わず、子飼いを疲弊させただけという。
804:日本@名無史さん
09/01/22 15:12:36
なぜかって、子飼いに手柄立てさせて領地与えるためだろ。
最初っから負けるつもりで戦争はじめたんじゃないんだから。
805:日本@名無史さん
09/01/23 14:39:12
>いっそ秀吉が存命時に家康とかを潰しておけば……。
それができりゃあ、苦労は無いっちゅうことや。
806:日本@名無史さん
09/01/23 14:53:00
でも子飼いの中でも福島とかは朝鮮出兵してないんだろ?
なんでコイツは裏切ったんだろw
結局三成が嫌いってだけで家康に踊らされた馬鹿って事だろうな。
807:日本@名無史さん
09/01/23 15:09:53
福島は出兵してるぞ
808:日本@名無史さん
09/01/23 15:13:50
おね様の助言があっただろ
おねは家康とできてたからだろうが
809:日本@名無史さん
09/01/23 16:38:46
謀反人の石田治部につくか
忠臣の家康につくか
まともな家来ならば結論は明らかだな
810:日本@名無史さん
09/01/23 17:22:23
>>809
石田が勝ってたら石田は豊臣政権を潰してたと思うか?
811:日本@名無史さん
09/01/23 18:06:41
おまえまさか石田が豊臣政権潰さないとでも思い込んでるのかw
812:日本@名無史さん
09/01/24 13:07:08
ところで、当時の織田一族の面々ってどんな関係にあったの?
信高や信包の西軍加担は弾正忠家頭領の秀信の意に連動したものなのか、
東軍に付いた信雄や有楽とは織田家がどっちに付くべきか揉めて決別したのか、
それとも豊臣政権内の分国大名としてもう完全に分解されてしまっていて、
一族的な結束のないままそれぞれ個別に身の振り方を判断したのか…。
813:日本@名無史さん
09/01/24 14:03:47
家康の子孫である徳川光圀さえ、石田三成は忠臣、といっているが。
家康は大老だが、その職務に忠実だったかというと逆で率先して誓紙破りを繰り替えした上、居直り。
一方で他者の行動は厳しく監視し、前田家なんかいいがかりつけられているし。
普通ならそれこそ家康総スカンなんだが、実力と貫禄、そして老練さ(誓紙やぶりの共犯に豊臣大名引きずり込むとか)が勝ったな。
814:日本@名無史さん
09/01/24 14:27:43
>>811
お前三成が豊臣政権潰すと思ってたのかwwwwwwwww
815:日本@名無史さん
09/01/24 22:39:48
巨大な資産、力量(幻影かもしれないが)が無い以上、
石田は豊臣の権威を押し立てていくしかない。
結果的には石田を選択した方が、豊臣は潰れない。
家康が大大名を幕府の役職に付けなかったのは、反面教師。
816:日本@名無史さん
09/01/25 00:59:43
石田という選択肢は最初からない。
なぜなら石田は犯罪を犯して追放された身であり、
そもそも小身ものであって、大権を担える地位にない。
しかも人望皆無。
だからこそ毛利を担いだ。
817:日本@名無史さん
09/01/25 20:09:40
>>816
犯罪を犯して追放?
どこの架空戦記のネタだ?
818:日本@名無史さん
09/01/26 13:31:49
暗殺されかかったのに、騒動の責任を一身に負わされて体よく追放されただけだからな……。
819:日本@名無史さん
09/01/27 14:57:51
>>812
連絡取り合った形跡はないだろうなぁ。
秀信の西軍加担だって、家臣団の論争で寵臣らが西軍加担を進めた結果だし。
分裂状態だったんじゃないの?
820:日本@名無史さん
09/01/28 20:01:13
>>819
木造・百々ら家老衆は揃って西軍加担に反対だったらしいのにね。
大坂の陣の大野治長みたいな若い連中が秀信を煽ったんだろうか?>寵臣
821:日本@名無史さん
09/01/29 22:26:06
つーか、秀信が普通に戦ったら(篭城だろう常考)、もうちょっと西軍粘れた気がするの気のせい?
822:日本@名無史さん
09/01/29 23:15:00
援軍来る可能性が低く岐阜城に水の湧く井戸がない事から籠城には不向きの説もあるので粘れたと思うは気のせい。
823:日本@名無史さん
09/01/29 23:48:43
岐阜攻めに元城代の池田輝政が加わっているから、岐阜城の弱点が知られているので篭城できなかったって話が出たのはこのスレだっけ?
824:日本@名無史さん
09/01/30 06:45:39
岐阜城攻めは短時間で落ちたけど、東軍に大きな損害を与えているし、
籠城兵が30数名になるまで戦い抜いたことを考えると、秀信の評価が
低すぎると思う。
825:日本@名無史さん
09/01/30 16:19:35
局地的に頑張っても戦略に寄与できなきゃ無意味じゃ?
826:日本@名無史さん
09/01/30 16:46:37
東軍に大きな損害を与えている???????
そこのIF世界から来たのかな?
827:日本@名無史さん
09/01/30 23:36:40
数日後に宇喜田が美濃に来ているわけだし。
岐阜城が西軍を保持している状態だと東軍は本営を美濃に置けないわけで、
戦線を押し下げる事ができる。
そもそも、時間は西軍の味方(大阪城・京を保持している)でしょ。
828:日本@名無史さん
09/01/31 10:06:30
岐阜が落ちないIFだと
東軍が不利になる要素が多いのは明らか
ヘタしたら戦国に逆戻りもあり得る
829:日本@名無史さん
09/02/01 23:11:53
秀信は桶狭間の再現やりたかったのかな~…とか思ったりもするが、
米野で織田軍が取った作戦は守備的なものだし、よく分からん。
万一野戦で東軍先遣隊が壊滅したりすると、家康の戦略構想は大きく狂うけどね。
>>820
入江右近とかいう寵臣の意見だったらしいが、
どういう人物かは俺も知らないや。
830:日本@名無史さん
09/02/02 14:00:14
孤立無援の大津城でも粘られたら苦労したのにね。
なぜ岐阜城の利を捨てたのやら?
水が問題なら、そもそも欠陥城だったってこと?
831:日本@名無史さん
09/02/02 15:59:33
>>830
山城は時代遅れ
832:日本@名無史さん
09/02/02 19:27:44
岐阜城って山上部分は城というより砦と言った方が良いくらいの規模じゃね?
833:日本@名無史さん
09/02/02 20:59:08
山上部分だけを論じても無意味。
金華山全体が城なわけでねえ。
俺は実際に登ったことがあるが、けっこう険しい山だぞ。
軽装で登っても息が切れた。
アレを鎧着て戦いながら登るのは至難の業。
昔の人は体力があった、ってつくずく思ったぞ。
834:日本@名無史さん
09/02/02 21:15:25
>>833
おいおい、岐阜城は山全体が城なわけじゃないぞ。
城は山上と麓だ。
835:日本@名無史さん
09/02/03 08:10:22
いい加減、おねが三成を嫌い馬鹿おいを家康につかせた、加藤、福島なんかも
同様に味方につかせたっていつまでそんな説がまかり通ってるんだ
そもそもミッチーは自分の娘をおねの養女にしてるし仲はよかった、
浅野は家康にオヤジが人質にとられて仕方なしに東軍についただけだし
木下氏は西軍についただけだし馬鹿おいは家来の稲葉が暴走しただけ、福島加藤あたりの裏切り者が自分を正当化するため
おねの指示で東軍についたとでっち上げただけ
それとミッチーと茶々ができてるって単なる迷信、
茶々の関ヶ原でのミッチーへの冷たい態度「軍資金に一銭もだしてない」お初が東軍についた事など考えると
おねと茶々の対立という図式は成り立たんよ
ドラマ制作者はもっと文献とか調べたら?
いつまでも勝者側の立場にたった歴史感なんかくそくらえだ
836:日本@名無史さん
09/02/03 12:37:32
ドラマ制作者なら、どんな俗説使おうが別にかまわんだろ、アホか
837:日本@名無史さん
09/02/04 15:10:59
835が、あまりにひどい日本語だったので、書きなおしてあげた
いい加減、おねが三成を嫌い、馬鹿な甥を家康につかせた。
加藤、福島なんかも、おねが家康の味方につかせたって、
いつまでそんな説が、まかり通ってるんだ!
そもそも三成は、自分の娘をおねの養女にしてるし、仲は良かった。
浅野は、家康に親父が人質にとられて、仕方無く東軍についただけだし、
木下氏は西軍についただけだし、小早川秀秋は、家来の稲葉が暴走しただけ。
福島・加藤あたりの裏切り者が、自分を正当化するため、おねの指示で
東軍についたと、でっち上げただけ
それと三成と茶々ができてるって、単なる迷信、
茶々の、関ヶ原での三成への冷たい態度
「軍資金に一銭もだしてない」
お初が東軍についた事、などを考えると。
おねと茶々の対立という図式は、成り立たんよ
ドラマ制作者はもっと文献とか調べたら?
いつまでも勝者側の立場にたった歴史感なんかくそくらえだ
書き直したけど、内容は意味が無いものだった。
838:日本@名無史さん
09/02/07 14:32:33
小栗旬じゃ家康に勝てそうにないなぁw・・・
839:日本@名無史さん
09/02/07 18:00:50
たかが2chのためにあらかじめメモ書きして丁寧に書き込みなんてしない
自分のおもてる事をそのまま書き込みしてるだけ
大きなお世話だ
インテリぶるなよ たかが2chされど2chに、、
ただあまりにも勝者側の都合にできてる歴史感にはウンザリする
840:日本@名無史さん
09/02/08 23:56:08
>>832>>833>>834
岐阜城を特別に評価しすぎだ。
他の守護大名の居城と同じく、平時は山麓の館で暮らしていたんだよ。
朝倉氏も六角氏も若狭武田氏も同じ。
水もない不便な山上で暮らすわけないじゃない。
砦・陣城・山城には戦の時だけ登る。
極論すれば安土城も同じだ。
841:日本@名無史さん
09/02/09 01:45:22
そんなことねーよ。
842:日本@名無史さん
09/02/09 08:34:11
>>840
守護大名の居城としてじゃなくて、関ヶ原時の織豊大名の居城としての話をしてるんじゃないの?
ちなみに観音寺城や安土城は重臣屋敷を山上にあげてたよ。
本当に住んでたどうかは知らないけど。
843:日本@名無史さん
09/02/09 15:08:18
七尾城とか後瀬山城なんかも山中屋敷だらけだったような。
近世山城だと高取城なんかも。
金華山は地形の制約がきつすぎて山の上にたいした城郭を築けない。
地形は優れていても城郭が大したことないから総合力も小さくなってしまう。
844:日本@名無史さん
09/02/09 18:52:56
岐阜城の防御力だけを論じてどうするよ。
この場合、大垣からの後詰を期待できる秀信は城に寄って戦うべきだったでFAだろうが。
845:日本@名無史さん
09/02/09 19:11:36
???
あまりにもあっさり落ちたから防御力はどうだったのか、と言う話になってんだろ。
わけのわからんFA(笑)とか出してんじゃねーよ。
846:日本@名無史さん
09/02/09 19:39:57
大垣からの後詰は期待できないのと長期籠城が困難なのと、
籠城するにも一戦してからと言う判断じゃないのか?
つか東軍が尾張入っても岐阜に一向に援軍が来なかった(東軍が来ると思ってなく、
福島などが敵対すると思いもしなくて、三成には援軍を送る余裕どころかパニック状態)のが大きいだろね
847:日本@名無史さん
09/02/09 20:16:33
当時の岐阜城の評価ってどうだったの?
西軍としても、岐阜城が堅城ならば、体勢が整ってから後詰め決戦すれば良いと思ってたんじゃね?
848:日本@名無史さん
09/02/09 23:47:26
最初から城の攻略法を知っている東軍に対して篭城すること自体が無謀
849:日本@名無史さん
09/02/10 00:47:16
小栗旬は安倍ちゃんのオナペット
だったんだろ。家康は本多だっけ?
850:日本@名無史さん
09/02/10 00:58:02
安倍ちゃんは妻だった。間違い
小栗も正常だったんだなぁ。
851:日本@名無史さん
09/02/10 07:01:17
>>848
寄せ手が攻略法知ってたからといって簡単に落ちる城は欠陥城
852:日本@名無史さん
09/02/10 09:47:00
実際簡単に落ちたから欠陥城だったんじゃね?
その後廃城になったし。
853:日本@名無史さん
09/02/10 10:23:10
鉄砲普及後の山城というのは曲輪が小さく狭いため、端から端まで火力範囲に入るため
容易に制圧されてしまうとされる
854:日本@名無史さん
09/02/10 13:37:48
長谷堂城は山城でも耐えたんだよなぁ。
わざわざ街道沿いの小さな城に篭った上田城、篭城側がかなり耐えた大津城、
田辺城は平城、もしくは平山城だけど。
855:日本@名無史さん
09/02/10 15:05:39
>>853
曲輪が小さく狭かったら、上の曲輪から鉄砲狙い放題だよ。
いわば枡形虎口みたいなものだ。
856:日本@名無史さん
09/02/10 16:52:45
山城と言っても麓にしっかりとした曲輪が築かれていることも多いが、
岐阜城はどうだったんだろう?
御殿の発掘の話はしばしば聞くが、麓の縄張りのことはあまり話題にならないね。
たいしたことなかったのかなあ。
857:日本@名無史さん
09/02/10 17:32:50
>>855
枡形虎口は狭い門から入った突撃兵を殲滅するもので、
撃ち合いするものではない
それに曲輪を挟んで撃ち合うという事は線と線だから
点と三方の枡形虎口とは異なる
858:日本@名無史さん
09/02/10 17:41:11
>>856
あった
「美濃雑事紀」にこうある
「因幡山古城の総構、今に所々存在す。土居構大概長さ十八町計り、東は丸山より西は忠節村の口迄、
土居外は長良川也。西南は上ヶ門口より白木町山際迄、土居外に総掘あり。長さ五町余、堀幅九間より
五六間迄。但し町方は土居の限りこれ有り候えども何と無く、百姓埋め出し、狭まり申すと見えたり」
859:日本@名無史さん
09/02/10 18:03:06
>>857
上の曲輪から下の曲輪を撃つのを撃ち合い、と呼べるだろうか?
それが撃ち合いならば枡形でも撃ち合いは可能。
860:日本@名無史さん
09/02/10 18:24:08
岐阜城
URLリンク(www.geocities.co.jp)
URLリンク(csx.jp)
麓や総構はよくわからんね
861:日本@名無史さん
09/02/10 19:09:34
>>860
なんかしょぼいなw
862:日本@名無史さん
09/02/10 19:38:03
『中世城郭研究』第4号で発表された池田誠氏の「織豊系城郭としての岐阜城」という論文を一読されたし
863:日本@名無史さん
09/02/10 20:32:23
>>859
言える
枡形の一の門からでは門に数人と三方から数十人。数倍の戦力差だから
撃ち合いとは言いにくい
864:日本@名無史さん
09/02/10 20:39:33
>>863
下の曲輪の門に数人と上の曲輪から数十人。数倍の戦力差だから
撃ち合いとは言いにくいな
865:日本@名無史さん
09/02/11 00:51:30
>>864
門ではなくて曲輪の山裾側全面からと上の曲輪の山裾側全面の
撃ち合い
866:日本@名無史さん
09/02/11 09:18:23
>>865
>>853説だと山城の曲輪は狭くて端から端まで鉄砲の射程に入ってしまい、容易に制圧できるそうだ。
よって下の曲輪に侵入した敵兵は侵入したとたん上の曲輪の射程に入ってしまい、蜂の巣にされる。
というか、そもそも下の曲輪すら占領できないと思うんだけどね。下の曲輪の門にたどり着いたとたん
下の曲輪の兵に蜂の巣にされちゃうわけだから。
867:日本@名無史さん
09/02/11 10:42:11
>>866
853は当時の鉄砲の精度、威力の実態を知らないんだろ。
火制下での無防備な行動が看過し得ないレベルにまで火力が高まるのは
南北戦争になってからだよ。
868:日本@名無史さん
09/02/11 11:44:19
>>866
山城は大規模な堀を造れないので、門だけでなく他の個所からも侵入が可能
869:日本@名無史さん
09/02/11 14:16:19
そもそも先頭に立って侵入してくる奴らは鉄砲なんか持っていないわけだがw
870:日本@名無史さん
09/02/11 14:31:40
>>869
先ず、鉄砲足軽で制圧した後に、侍が突撃ではなかったっけ?
871:日本@名無史さん
09/02/11 15:24:20
足軽たちが連射きかない火縄銃担いで敵の曲輪に突撃するの??
872:日本@名無史さん
09/02/11 17:10:50
曲輪の端から撃つと言わなかったかな???
873:日本@名無史さん
09/02/11 17:41:02
どうやって曲輪の端まで到達するんだよw
籠城側だって門開けて待っててくれる訳じゃないんだぞw
874:日本@名無史さん
09/02/11 17:57:10
>>873
山城なら山裾から近接すればいいんじゃない
別に門に兵力を集中させずに曲輪の土塁線の任意の場所から攻めても良い
近世以降の平城・平山城は堀も大きくて難渋するだろうが、中世の山城、
特に尾根沿いに造成するものは容易に制圧される
875:日本@名無史さん
09/02/11 18:20:06
>>874
何のために山に城つくってるか分かってないのか?
山の斜面は登りにくいからだよw
斜面の上には城壁があって、守る方が有利なんだよw
マタギじゃあるまいし、鉄砲みたいな扱いにくい兵器持って斜面よじ登ってたら
それこそ城方の鉄砲のいい的だろw
876:日本@名無史さん
09/02/11 18:26:51
>>875
山城の土塁は登りにくい、でも石垣より簡単
斜面の上には城壁がある、でも土塁なので犬走りがあって越え易い
斜面の下から打ち上げて、最初の曲輪の前縁を潰し、占拠
以後はそこから曲輪全体から上の郭前縁まで射程に入る
877:日本@名無史さん
09/02/11 18:44:11
>>876
土塁より問題なのは斜面。
鉄砲片手によじ登ってもただの的w
斜面の上の城壁を越えるにはハシゴなり何なり掛ける必要があるが、
これがまた難しい。
山城なんだから当然山の上にあるわけで、斜面の下からなんか鉄砲がとどくわけないw
足場の悪い斜面の途中で射撃、弾込めを繰り返すことになるが、
城方は足場の良い上の曲輪から城壁に守られながら撃つわけで、圧倒的に有利w
しかも上から打ち下ろす方が射程も命中率も高いw
最初の曲輪の前縁を潰す前に味方の前縁が壊滅だわw
878:日本@名無史さん
09/02/11 20:23:38
>>877
これについてはこれ以上は久保田正志の
「日本の軍事革命」を読んでください
鉄砲による山城の弱体化について説明してます
ここでは
「鉄砲の普及により山城の坑堪力の低下が顕著となり、従来型の山城は
次第に淘汰され、新規築城においては「水の障害」により攻撃側との間合
いを取ることが最重要となった。」
とあります。
つまり鉄砲の射程により間合いが取れない小さな郭が主体の山城は
弱くなったという事ですな
879:日本@名無史さん
09/02/11 20:39:14
>久保田正志
誰?
880:日本@名無史さん
09/02/11 20:42:55
>>879
「軍事史学」に寄稿している人
西洋の軍事革命と日本の戦国時代を比較して、その相違点を考察している
軍事史という観点から戦国時代を俯瞰している点でトップに位置する
URLリンク(www5a.biglobe.ne.jp)
881:日本@名無史さん
09/02/11 21:05:40
>特定非営利活動法人城塞史跡協会理事長
882:日本@名無史さん
09/02/11 21:39:01
久保田は冷徹なようでいて少しものの見方が偏ってるんだよな。
崇拝者は絶対視しすぎ。
883:日本@名無史さん
09/02/11 21:42:02
>>882
確かに多少違わないかなと思う点はあるが、
それでも十分評価に値する
というより、軍事史的観点から書いた本と言うだけで
十分すぎる、
884:日本@名無史さん
09/02/11 21:49:46
上で出てきた鉄砲隊が城を落として武者たちはそのあとをついてきたとか、
鉄砲隊が山をよじ登って城を攻め落としたとかいうのはその久保田とか言う人の説なの?
885:日本@名無史さん
09/02/11 22:12:09
火器の登場で築城法が大きく変わったのは周知の事実。
886:日本@名無史さん
09/02/12 07:41:10
火器よりも大名の強大化の方が要因だろう。
ちんけな山城なんかに籠もってらんないという。
攻守双方とも火器を備えていれば、城に拠ってる方が
圧倒的有利なのは変わらないわけだから。
887:日本@名無史さん
09/02/12 11:53:57
>>884
その辺り、山城の郭は狭いので郭の裾側からの射撃が上の郭までを射程に入れるや、
土居や切岸には死角が生じるというのは樋口隆晴の論
888:日本@名無史さん
09/02/12 11:56:16
>>896
それはどちらかというより、どっちもでしょうよ
889:日本@名無史さん
09/02/12 12:30:57
郭が狭いのはむしろ寄せ手に不利に働くよ。
兵力に任せて強襲しにくくなるわけだがら。
890:日本@名無史さん
09/02/12 12:47:24
>>889
逆じゃない?守備側も郭が小さいと籠る兵が少なくなるから
大兵力が動員できる時代は広い方が有利でしょう
891:日本@名無史さん
09/02/12 16:06:36
東軍が赤坂にいる時に、なんで西軍は大垣城から総攻撃しなかったんだよ。
892:日本@名無史さん
09/02/12 17:12:24
>>890
上の曲輪を取るのに後続の兵が分断されて大兵力を動員できなくなる。
鉄砲の射程が曲輪の端から端まで入る云々の議論で言うならば、
攻め方は枡形に閉じこめられるのと同じことに。
893:日本@名無史さん
09/02/12 17:54:55
>>892
枡形は門から門しか通れないが、山城の郭と郭はその接した面、全てを
通れる
894:日本@名無史さん
09/02/12 18:38:14
>>891
三成は一戦したかったけど、
南宮山の連中がやる気がなくて、
もたもたしている内に家康が来ちゃった。
895:日本@名無史さん
09/02/12 18:52:00
>>891
家康が来るとは思ってなかったので、もっと軍勢や資金集めてから戦う気だったから
896:日本@名無史さん
09/02/12 20:03:12
>>893
>山城の郭と郭はその接した面、全てを
>通れる
ならば
枡形もその接した面、全てを
通れる
897:日本@名無史さん
09/02/12 20:12:14
実際に岐阜城に登ったことがないとしか思えない書き込みがあるな。
898:日本@名無史さん
09/02/12 20:39:11
>>891
東軍が水攻めをするという情報があり、出るに出れなかったという
話を聞いたことがあるけど?
899:日本@名無史さん
09/02/12 20:39:54
>>896
三方囲まれてるけどね
900:日本@名無史さん
09/02/13 11:28:05
>>898
西軍は大垣城で篭城戦に持ち込みたかったんじゃね?
水攻め上等じゃん。
だいたい大垣城は地理的に水攻めにびびる土地じゃない。
500人くらい赤坂に送って挑発すればよかったんだよ。
徒歩1時間くらいの距離だし。
そもそも、東軍に揖斐川を渡らせたのがまず失敗だけど。
関ヶ原じゃなくて揖斐川で決戦して欲しかったな。
901:日本@名無史さん
09/02/13 13:36:51
大垣は低地の輪中だから水攻めされたらビビリまくりだよ。
本丸は二の丸はちょっと高いけど、大軍を収容するにはあまりにも狭い。
もっともまわり一帯低地過ぎて工事が大変というのもある。
西軍も戦力では遜色ないからむざむざ工事を完成されないだろうし。
902:日本@名無史さん
09/02/13 16:04:40
城まで水を流そうとしたら揖斐川の水を引いてこなきゃならん。
903:日本@名無史さん
09/02/13 16:05:44
そんなの数週間かかるぞ。
904:日本@名無史さん
09/02/13 17:33:36
あたりまえだろw
905:日本@名無史さん
09/02/13 18:05:08
一週間もあればできるよ。
906:日本@名無史さん
09/02/13 18:52:50
ここは家康の書状の大垣水攻めの内容すら知らない連中ばかり。
907:日本@名無史さん
09/02/13 19:23:54
家康の水攻め作戦は南宮山に西軍が布陣したことにより不可能になりました。
908:日本@名無史さん
09/02/13 23:14:24
水攻めが不可能になったというよりは、西軍が大垣城を放棄して逃げたから攻める必要が無くなったということだ。
909:日本@名無史さん
09/02/14 11:33:00
西軍は大垣放棄してないし、それ以前に家康は水攻めを実行すらしてない訳だが。
910:日本@名無史さん
09/02/14 18:05:11
江戸を出る時は水攻めしようと思ってたのに、
美濃に着いてみたら南宮山に西軍が布陣してて
後詰めの態勢ができてたから
あきらめておびき出し作戦に変えたんだろ。
911:日本@名無史さん
09/02/14 19:13:51
南宮山を水攻めにして後詰めに来る大垣勢をおびき出せば良かった。
912:日本@名無史さん
09/02/14 21:22:00
誘き出しの意味不明
913:日本@名無史さん
09/02/14 21:23:06
誰も家康書状の内容すら知らん無知だから、水攻めの話すら滅茶苦茶だな(笑
914:日本@名無史さん
09/02/14 21:44:08
でもお前は秀忠の書状の内容を知らないだろ(笑
915:日本@名無史さん
09/02/14 22:13:44
>>878
思うに・・・城とか要塞の防御機能には、
①防御施設や高所の利で、攻撃側に不利な交換比での損失を強いる機能
②隘路や堀などで、攻撃側の戦力発揮を妨げる機能
(なるべく戦闘を低調に済ませる機能)
の2種類があって、鉄砲の普及によって、
山城は②の機能を失ってしまったのではないか?
>>875の言うように、
山城には依然として①の優位があるのだろう。
しかしそれで攻撃側に3倍の損害を強要できたとしても、
20倍の敵に強襲されて3日で陥落しては意味がない(場合がある)。
それよりは小競り合いを続けて3ヶ月持ちこたえてくれた方がいい・・・
てことじゃない?
916:日本@名無史さん
09/02/14 23:21:33
>>915
山城の攻め口はたいていの場合まさに隘路なわけだが。
鉄砲が山肌をよじ登るのに便利な兵器だというのならば話は別だけど。
小豪族の城・・・もともと小規模で落ちやすい、守り重視で統治に不向き
大大名の城・・・地形に依存しなくても十分堅固な大城郭、統治に便利な交通の要衝
917:日本@名無史さん
09/02/14 23:52:31
山城は堀が狭くなる
918:日本@名無史さん
09/02/15 08:03:46
>>917
・もともと攻め口が狭い
・そもそも中世城郭は堀が狭い
919:日本@名無史さん
09/02/15 11:04:18
>>916の言うように「山城」が駄目なんじゃなくて「ショボイ山城」が駄目なんだろ。
というか、ショボイ平城や平山城ももちろん駄目なんだろうけど。
近世になっても山城や山城的な平山城は築かれてるよ。
仙台鳥取長州薩摩と言った雄藩でも山に城を作ってるくらいだ。
ちなみに山城の防御力が弱いと言うのならば「詰めの城」の意味がなくなってしまう。
詰めの城落とされて麓に逆落としに攻められたら洒落にならんからな。
920:日本@名無史さん
09/02/15 11:11:54
近世山城は水で周辺を隔絶されたタイプが殆どで
従来の尾根利用型とは異なるというのが久保田氏の論だった様な
921:日本@名無史さん
09/02/15 11:49:48
川や海をなるべく利用しようとするのは中世山城も同じだし、
近世山城になっても山を隔絶しちゃうのは極めて困難。
平山城ならば珍しくないが。
922:日本@名無史さん
09/02/15 12:59:44
平山城と山城を混同してるなー
923:日本@名無史さん
09/02/15 16:42:36
城壁の防御力っちゅうのは、運用しだいなんだわな。
万里の長城を見れば一目瞭然。
城壁だけあっても、適切な運用が出来なければ結局は役に立たんわけよ。
924:日本@名無史さん
09/02/15 18:27:45
>近世山城は水で周辺を隔絶されたタイプ
そんな近世山城あるか?
925:日本@名無史さん
09/02/15 19:11:10
敢えて言うなら萩城(の詰めの丸)くらい?
海に突き出した山で、陸とつながってる部分は水堀があるから。
でもあれは水で隔離された山城というより平城+詰めの城だわな。
もともと吉見氏の支城、すなわち中世山城だったと思うけど。
926:日本@名無史さん
09/02/15 21:43:11
>>920
水で周辺を隔絶できたのは平城、平山城だろう。
その久保田とかいう人が何者か知らんが、トンデモ説に騙されるなよ。
それから従来の尾根利用型ってなんだ?中世山城=尾根利用型山城ではないぞ。
927:日本@名無史さん
09/02/15 22:39:49
URLリンク(www.kinseisha.jp)
>926
東大戦史研究会第三代会長という経歴が微妙すぎ……
928:日本@名無史さん
09/02/15 22:47:21
射撃戦を考慮すると突出部が弱点になるから、
縄張りは円形とか多角形に近い方がいいんじゃないの?
(横矢用の突き出しとか西洋の突角堡とか、意図的にしたものを除いて)
でも、山城の場合、つきだした尾根の部分が孤立して
どうしても弱点になっちゃうとか。
もちろんそれを認識して防備を強化するんだろうけど。
929:日本@名無史さん
09/02/15 23:42:55
久保田 正志(くぼた まさし)
著者略歴
昭和38年 東京生
昭和63年 東京大学法学部卒業
在学中東京大学戦史研究会所属、同会第三代会長
平成9年 東京大学大学院法学政治学研究科修士課程修了
法学修士
現 在 特定非営利活動法人城塞史跡協会理事長
戦史だったら法学政治学じゃなくて史学とちゃう?
ひょっとして学部時代趣味でやってた戦史を院出た後もライフワークにしてる素人さん?
930:日本@名無史さん
09/02/15 23:59:41
>>929
> 戦史だったら法学政治学じゃなくて史学とちゃう?
> ひょっとして学部時代趣味でやってた戦史を院出た後もライフワークにしてる素人さん?
まあそうだね。歴史群像にもアマチュア研究家と書いてたよ。
でも軍事史学会に属して論文を寄稿して、
出版に際しては東大の史学教授にレビューを受けたとあるので、
素人という表現は違うと思うが。
あと、院には別に戦史研究のために入った訳じゃないはず。
しかしながら・・・主張の是非を肩書きで判断するというのは、ちょっと微妙ではないか?
ましてここは、そういう肩書きを外した匿名掲示板なのに。
931:日本@名無史さん
09/02/16 00:04:57
920 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 2009/02/15(日) 11:11:54
近世山城は水で周辺を隔絶されたタイプが殆どで
従来の尾根利用型とは異なるというのが久保田氏の論だった様な
924 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 2009/02/15(日) 18:27:45
>近世山城は水で周辺を隔絶されたタイプ
そんな近世山城あるか?
926 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 2009/02/15(日) 21:43:11
>>920
水で周辺を隔絶できたのは平城、平山城だろう。
その久保田とかいう人が何者か知らんが、トンデモ説に騙されるなよ。
それから従来の尾根利用型ってなんだ?中世山城=尾根利用型山城ではないぞ。
932:日本@名無史さん
09/02/16 00:16:05
>>929
史学科原理主義かよ。いかにも史学科の学生や院生みたいなな発想だな。
いい加減、史学科出てなけりゃ「素人」呼ばわりで一蹴するような発想はやめろや。
経済学部や法学部でも歴史的な勉強してる人はいるんだし。
933:日本@名無史さん
09/02/16 00:26:39
>>932
はい?肩書きだけでなく肝心な内容も駄目なわけだが・・・。
934:日本@名無史さん
09/02/16 00:30:29
>>933
だったらそんなに肩書きを気にすることもなかろうよ。
主張の間違いを指摘すれば足りる。
935:日本@名無史さん
09/02/16 00:35:34
>>934
>>931
というか、文句があるんなら盛んに久保田の名前出してる奴に言えよw
936:日本@名無史さん
09/02/16 03:33:17
もう久保田は井伊って・・・。
937:日本@名無史さん
09/02/16 11:00:08
とりあえず、買ったら…
伝聞だけで判断するのは、問題
938:日本@名無史さん
09/02/16 12:23:57
とにかく赤坂に総攻撃をかけるべきだった。
東軍も水攻めしかけるほど圧倒的な数じゃなかったんだろ?
939:日本@名無史さん
09/02/16 14:38:44
だから~
水攻めするような場所じゃないってば。
940:日本@名無史さん
09/02/16 19:20:31
>>936
同じく、久保田は秋田。
941:日本@名無史さん
09/02/16 20:13:17
うまいなw
942:日本@名無史さん
09/02/20 23:57:48
ところで上の方で名前が出てた織田信高だが、
彼が西軍で黄母衣衆と共に関ヶ原本戦に参加していたのは確定なの?
wikipediaの記述にはこうあるようだが
URLリンク(ja.wikipedia.org)
>『寛政重修諸家譜』によれば、1600年の関ヶ原の戦いに際し、
>弟信貞と共に東軍を支持したものの、本戦に間に合わず、
>凱旋中の徳川家康に拝謁したという。
>しかし、『関原軍記大成』などでは、弟の信吉・信貞らとともに西軍に属し、
>戦後に謝罪、赦免されたという。おそらくは後者が正しく、
>弟信吉と同様に西軍に所属し、失領したものと思われる。
>もっとも、本戦に参加したという記録はない。
943:日本@名無史さん
09/02/21 00:15:40
wikiとかまるで話にならん
寛政重修諸家譜はもとよより自家の宣伝用だし関原軍記大成はその家譜などを参考にした講談本だしな
944:日本@名無史さん
09/02/21 00:28:45
だが、それより信憑性のある史料がないと、反論にすらならないよ
945:日本@名無史さん
09/02/21 00:35:37
戦後、失領していることからして西軍加担は疑いなし。
946:日本@名無史さん
09/02/21 10:35:03
>しかし、『関原軍記大成』などでは、弟の信吉・信貞らとともに西軍に属し、
>戦後に謝罪、赦免されたという。
取り敢えずこれの該当箇所探してるんだが、どこ?
947:日本@名無史さん
09/02/22 17:42:54
>>944
家譜に信憑性がないのは他の記述などから証明済み
だから家譜や関原軍記大成だけで史実認定はなされない
948:日本@名無史さん
09/03/10 06:57:52
あげ
949:日本@名無史さん
09/03/12 22:07:30
あげ
950:日本@名無史さん
09/03/13 08:46:32
南宮山の西軍2万8千って、桃配山の徳川含めた5万を可能な限り拘束しなきゃならないわけだけど
桃配山の西側に布陣した徳川隊を攻撃するには山を超えるか先に動いて迂回する必要があって、実は家康は脅威を感じてなかったんじゃないのだろうか?
実際徳川隊三万は気にした素振りも見せず期を見て前進してるように見える
やはり始めから毛利にはやる気が無かったのか
石田隊のいる正面では東軍主力を拘束しつつ戦線を絶対に維持する事が求められるので
理想は三成の後ろに予備を一万弱置いて万全の態勢で東軍主力を引き摺り込み(史実では兵力不足でこれが不十分かと思う)小早川以下を鉄床に叩き込む事なんだろうが
やはり総大将の家康と三成の差だろうかね
951:日本@名無史さん
09/03/13 09:31:57
朝から何を言っているんだ?
952:日本@名無史さん
09/03/13 23:53:51
>>950
どうかね。
西軍主力が関ヶ原に転進した時点で、石田三成には、
毛利と小早川がかなり怪しいというのは判ってたと思う。
松尾新城を勝手に占拠した小早川は特に怪しい。
(まあ怪しいと言えば、東西両軍とも全員怪しいわけだが。)
しかし、表だって東軍に参加しても居ないところを見ると、
東軍の調略も完全に成功したわけではない…とみえる。
そこで、足下で決戦することで、毛利小早川とも
無理矢理西軍に引きずり込もうという話じゃないの?
功名にはやる東軍部隊が暴発して毛利や小早川に攻め掛かれば、
強制的に両軍を西軍に再参加させることができる。
953:日本@名無史さん
09/03/15 01:20:37
>>952
>>(まあ怪しいと言えば、東西両軍とも全員怪しいわけだが。)
結局、これがすべてと思われる。
954:日本@名無史さん
09/03/15 06:11:27
関原軍記大成を書いた宮川尚古について詳しい書籍や論文はあります?
955:日本@名無史さん
09/03/16 14:53:26
宇喜多秀家が関ヶ原から落ち延びた時に
匿われたとされるとこに行ってきた。
スゲー立派な記念碑が建ってたよ。
建てた人の名が「浮田」になってた。
なんで字を変えたんだろ。
「宇喜多」の方がかっこいいのに。
956:日本@名無史さん
09/03/17 20:58:38
>>955
そりゃあ落ち武者狩りとかあったわけだから
匿った家が徳川からにらまれるのがこわかったんだろ
957:日本@名無史さん
09/03/17 22:43:22
>>955
緒田原という教授が自己紹介の時に
「先祖は後北条氏系だったが、負けて逃げるときに漢字を変えたらしい」
とか言ってたな。うろ覚えだが。
958:日本@名無史さん
09/03/18 09:58:31
>>955
宇喜多秀家は江戸幕府からすれば大罪人だから
子孫が字を変えたんだろね。
959:日本@名無史さん
09/05/06 16:27:14
後北条があるころから宇喜多があるわけだが・・・
二代・氏綱や三代・氏康の弟で備前まで逃げたという人物はいないはず
前北条なら有り得るのか、よくわからん