08/12/02 22:33:58
>>458
『関原軍記大成』にそう書いてあるのなら間違いないな
結論 松平忠吉は徳川家康といっしょに江戸から出発した
466:日本@名無史さん
08/12/02 23:31:13
赤坂衛
467:日本@名無史さん
08/12/03 19:42:51
>>465
『関原軍記大成』が絶対的に正しいとは限らんけどね
例えば、酒井重忠は『大成』では弟と秀忠に供奉しているが
『寛政重修緒家譜』『酒井家譜』では家康と本戦に参加しているとある
間違いないのは戦後、弟とともに大津城の城番になったこと
468:日本@名無史さん
08/12/03 20:42:39
とくにややこしいのが酒井左衛門という人物
後世の人はこれに尉を付けて酒井左衛門尉家にして
酒井家次が本戦に参加したという人もいる
実際はこの人は『太田和泉守記』で祖父江法斎や森勘ヶ由と一緒に
霧の中で斥候をしている内に出合い頭に敵と遭遇して功を得たという
程度の人物なので、実際は軽輩の人物(上総酒井氏の可能性あり)
あと酒井右衛門も間違われるが、この人は二千石の大身旗本で
旗奉行をしていた人
469:日本@名無史さん
08/12/03 20:48:49
>>452
それは総てあなたの思い込みです。
470:日本@名無史さん
08/12/04 00:31:11
>>467
禿同!
「関原軍記大成」ばでたらめが多い
田辺城攻撃軍に織田信包の名前があるからな
471:日本@名無史さん
08/12/04 00:53:42
関ヶ原軍記大成は各家譜や軍記、諸雑記を寄せ集めて編纂した関ヶ原の軍記の集大成だから、
玉石混淆、なんでもありなんだよ
だから軍記大成に書いてあるではなく、軍記大成に記載されるネタ元を見つけなきゃ意味が無い
472:日本@名無史さん
08/12/04 07:50:41
忠吉については他に私の見る限り、家康と同行した以外の史料は見えない
それに先行する理由もないので、やはり家康に随行したかと
473:日本@名無史さん
08/12/04 16:33:08
>>471
> だから軍記大成に書いてあるではなく、軍記大成に記載されるネタ元を見つけなきゃ意味が無い
じゃあ司馬遼太郎の小説みたいなもんだな。余談の元ネタ探しが面白い。
シャーロッキアン的読書法だなw
474:日本@名無史さん
08/12/05 00:20:57
松平忠吉は9月1日に家康といっしょに江戸から出発という結論でいいんだね
それで関ヶ原に着いてからで分離したと
475:日本@名無史さん
08/12/05 14:06:55
津軽はいつごろ美濃に到着したの?
476:日本@名無史さん
08/12/05 18:43:50
軍記大成だと家康と一緒
477:日本@名無史さん
08/12/05 20:58:43
>>476
どこにそんなのある?
478:日本@名無史さん
08/12/05 21:16:12
津軽為信は2千5百騎を率いて9月5日に駿府で家康に追いつき謁見
美濃に進軍
曽根城に入城
家康といっしょに行軍したのかね?
この進軍速度だと追い越したたんだと思うが?
479:日本@名無史さん
08/12/05 21:29:55
>>477
巻之八 家康公御出馬御遅滞
480:日本@名無史さん
08/12/05 21:36:24
>>478
追いついた後は、一緒に進んだのでしょう
481:日本@名無史さん
08/12/05 21:39:21
津軽が2,500も率いてたんだぁ
482:日本@名無史さん
08/12/05 22:09:47
>>481
寛政重修諸家譜にはそうあるが非常に疑わしい
おそらく大垣城攻めの総勢を混同したと思われる
483:日本@名無史さん
08/12/05 22:53:57
大垣城攻め直前には国元から松野信安が650を率いて合流しているから
津軽為信の部隊は最終的に3000を超えているよ
>>682
大垣城に篭っていた西軍の兵力知ってる?
城攻めの兵力が篭城側より少ないなんてありえない
484:日本@名無史さん
08/12/05 23:35:40
>>483
当時、三万石か四万五千石にそれは不可能、遠隔地だし
後、大垣城は個人的には突撃野郎水野勝成ならやりかねんと思う
実際、三の丸を陥したあと一旦戻り、内応で落としている
485:日本@名無史さん
08/12/06 00:03:05
戦後、為信が信濃川中島十万石への転封の沙汰を断ったのは
津軽領が内高実質20万石だったからですよ
486:日本@名無史さん
08/12/06 00:23:18
米取れない、十三湊はかなり衰微で、実高20万石はありえないでそ。
487:日本@名無史さん
08/12/06 00:45:20
津軽為信は3000です
これは常識
488:日本@名無史さん
08/12/06 07:56:37
津軽は150くらいでは?
489:日本@名無史さん
08/12/06 09:53:04
津軽が数百の大兵を率いて、上方に上るのは至難。
近隣大名が全て在国している中、自国を空にする馬鹿はいない。
九州と東北を一緒にするな。
490:日本@名無史さん
08/12/06 10:37:16
>>489
実際やって、自国で謀叛おこされている
西軍が負けたので、意気消沈して鎮圧されたけど
491:日本@名無史さん
08/12/06 12:10:06
>>485
津軽が川中島10万石を断ったのは1619年、津軽信枚の時のこと
関ヶ原は関係ないだろ
領地は津軽信政の時代(元禄あたり)の検地で30万石だったかな?
492:日本@名無史さん
08/12/06 18:33:43
前田さえ西軍になってたら、前田軍、毛利輝元等の軍勢計6万余が関ヶ原へ。
西軍圧勝!
前田が東軍だった為、輝元が秀頼守備に。
493:日本@名無史さん
08/12/06 19:41:55
>>490
その話は確認されていません。捏造という見方が強いようです。
494:日本@名無史さん
08/12/06 20:08:43
>>493
ありゃ、まぁ少なくとも大垣攻めには参加している様だで
けり付けとくべきかな
495:日本@名無史さん
08/12/06 20:30:22
>>491
30万石ということは
津軽の動員兵力は
3人役で9000人
5人役では1万5千人ですね
3000人という数字をむしろ少なく感じます
496:日本@名無史さん
08/12/06 20:43:08
津軽は合戦時、どこに布陣してたの?
497:日本@名無史さん
08/12/06 20:52:01
>>495
それ津軽平野の開拓した上で、南部と張り合った値じゃないの
>>496
大垣攻めで水野と一緒だから曾根城
498:日本@名無史さん
08/12/06 21:19:08
津軽為信って奥羽の大名で唯一関ヶ原までやってきて戦ったのに
2千石の加増だけなのは可哀想
499:日本@名無史さん
08/12/06 21:27:22
>>498
子が石田の娘と結婚したり、石田の子を匿ったりしている
それに家康の養女が嫁いでるからそれで相殺かと
500:日本@名無史さん
08/12/06 21:30:19
津軽為信 →大垣城攻め
津軽信枚 →関ヶ原本戦
津軽信建 →大坂城内
501:日本@名無史さん
08/12/06 21:57:59
>>493
詳しい経緯まで書かれている事を捏造といい張るには
捏造という根拠を示さなければならない
502:日本@名無史さん
08/12/06 23:01:07
津軽は大垣城攻めには参加していません。全て捏造です。
503:日本@名無史さん
08/12/06 23:50:48
津軽ってほんのわずかな供を連れただけで家康の本陣に軟禁されてたんじゃなかったっけ?
504:日本@名無史さん
08/12/07 00:25:30
>>501
研究者たちの議論を参照すればいいんじゃない?
505:日本@名無史さん
08/12/07 00:34:40
なんだかんだと言って、関東・東海道・中山道それぞれに数万の軍勢を
活動させることができる徳川家は異常だな
506:日本@名無史さん
08/12/07 00:56:28
津軽為信は2500の兵を率いて関ヶ原で戦ってますよ
507:日本@名無史さん
08/12/07 03:01:23
>>506
どの布陣図見てものっていない
508:日本@名無史さん
08/12/07 05:00:40
『関原軍記大成』には、
「大垣の押には、西尾豊後守忠政・水野六左衛門勝成・津軽右京進為信・松平丹波守康長等は、曾根の近辺に陣を取る。」とある。
戦後の論功行賞では、西尾、水野、松平が1万石加増。津軽だけ2千石加増。
大坂城にいた津軽信建の赦免及び三成の子の助命と引き換えでマイナス8千石なのでは。
509:日本@名無史さん
08/12/07 08:14:11
>>507
参謀本部の地図は曾根・岡山・長松や大垣が
入っていないから南宮山も包囲されている事を
認識していない人が多すぎる
510:日本@名無史さん
08/12/07 09:23:15
包囲されてたのは東軍の方じゃないの?
511:日本@名無史さん
08/12/07 09:41:01
>>510
西軍は関ヶ原の東軍本隊を西軍本隊と南宮山の部隊で包囲してるし
東軍は南宮山の部隊を池田・浅野らと曾根・岡山・長松の残置部隊が
大垣城監視と並行して包囲している
関ヶ原の主戦場は兎も角、南宮山や大垣はこの様にお互いを包囲している
ので、積極的な行動はできないでしょう
家康は多少戦術的に不利になろうとも、戦略的な抑えを重視するから、
実際は南宮山の部隊は動きたくても、動けないのが実際かと
512:日本@名無史さん
08/12/07 11:03:11
南宮山側は、地形的に樹木等で状況確認できにくかったのでは。
互いに離れていたし、霧も出てただろうし。
お互いの腹の底を探っているうちに
戦闘は終わっちまったんだろう。
513:日本@名無史さん
08/12/07 11:51:52
関ヶ原というのは東西かなりグダグダな展開なんだが、最後の
江戸を出た以降の家康の行動がストレートすぎて、西軍が
それに対応する前に、決戦になった結果として一日で終了した
んだろうな
514:日本@名無史さん
08/12/07 16:51:18
小早川ww 裏切り者め
515:日本@名無史さん
08/12/07 18:22:04
福島正則は、真夜中に30KM強行軍した,そのもののはずみで
宇喜多軍と接触し戦闘開始になったのでは。
516:日本@名無史さん
08/12/07 20:08:26
福島は大坂城に夜襲をかけようと行軍中、関ヶ原で宇喜多の卑劣な奇襲を受けた。
517:日本@名無史さん
08/12/07 22:27:52
>>516
大阪城を夜襲では秀頼様に弓引く事になろう。
518:日本@名無史さん
08/12/07 22:37:30
いや最前線に出て一番槍、つけたかったという単細胞。
兵士は徹夜の進軍、くたくたで、宇喜多家の明石全澄に散々蹴散らされたとか。
519:日本@名無史さん
08/12/07 23:08:26
>>508
堀尾忠氏と中村一栄もいなかったっけ?
520:日本@名無史さん
08/12/07 23:47:04
堀尾は岡山でお留守番。
中村は本戦終わってから引き返して加勢。
521:日本@名無史さん
08/12/08 00:57:41
公式ではこうです
赤坂の留守
堀尾忠氏 5100人
中村一栄 4350人
曽根と赤坂の間
松平康長 360人
曽根城
水野勝成 900人
西尾光教 600人
津軽為信 2500人
長松城
一柳直盛 1050人
金屋の河原
徳永寿昌 600人
市橋長勝 300人
横井伊織 兵数不明
522:日本@名無史さん
08/12/08 06:48:10
>>521
大垣籠城の西軍は7500というから、
津軽除いた三将で攻めるのは、少なすぎるな。
523:日本@名無史さん
08/12/08 11:00:16
三の丸落としたら撤退、その後は内応させた後、
数日間、攻撃した後に開城
524:日本@名無史さん
08/12/09 09:33:16
>>520
>本戦終わってから引き返して加勢?
中村隊はどの関ヶ原布陣図見てものっていないけど?
525:日本@名無史さん
08/12/09 16:12:30
>>524
載ってますよ、右からいきますね
垂井の南側 池田輝政、池田長吉
垂井から桃配山の中山道沿いにかけての南側 浅野幸長、鈴木重時、水野忠清、中村一榮、山内一豊、有馬豊氏
垂井から桃配山の中山道沿いにかけての北側と相川の間 生駒一正、蜂須賀至鎮、小出秀家
526:日本@名無史さん
08/12/09 20:07:02
えっ!中村一栄は赤坂の留守じゃなかった?
527:日本@名無史さん
08/12/09 23:43:05
>>526
大雑把な関ヶ原布陣図には載ってない
詳しい関ヶ原布陣図には載っている
528:日本@名無史さん
08/12/10 00:18:42
布陣図にも色々あってだね・・・信憑性で言うなら布陣図自体は信憑性ないよ
529:日本@名無史さん
08/12/10 22:13:18
後世の大名の子孫にとっては、ご先祖にはぜひ
参加していただいた方がよろしかろうから、諸説出てくるだろう。
530:日本@名無史さん
08/12/11 00:37:38
つまり、南宮山側の東軍は、池田輝政、浅野幸長、山内一豊、有馬豊氏以外に
中村一栄もいたってことか?
これは歴史的発見だな
900の有馬豊氏でさえ布陣図に描かれているのに
4000の中村一栄が省略されるとは
摩訶不思議だ
531:日本@名無史さん
08/12/11 20:28:18
中村家はその後2代目で改易、そのあおりで無視されたのでは。
532:日本@名無史さん
08/12/11 20:59:47
>>525
それ関原合戦図志に載ってるけど、あれはいい加減だから信用しない方が良いよ
何しろ後世のミス、酒井家次が参陣していることになってるし
533:日本@名無史さん
08/12/12 01:34:51
関原合戦図志と関原軍記大成を混同するな
そもそも旗本の酒井家次が布陣図に載るわけがない
534:日本@名無史さん
08/12/12 07:03:37
>>533
軍記大成には垂井山の東としかないが
後、図志には家康本隊の構成も載ってるのよ
かなり怪しいけど
535:日本@名無史さん
08/12/12 08:24:23
中村軍は杭瀬川で島左近と戦って全滅したはず。
布陣図に載ってないのは当たり前だよ。
536:日本@名無史さん
08/12/12 15:51:50
中村一栄は堀尾忠氏と供に岡山に残留
これは常識
537:日本@名無史さん
08/12/12 20:03:41
古文書には杭瀬川の戦いの失態で家康から叱責され帰還を命じられ東海道を逆走中だったのを再び呼び寄せられ大垣城の戦いに参加と書いてある
538:日本@名無史さん
08/12/12 20:10:42
役立たずの毛利より宗茂が関ヶ原にいれば・・・
539:日本@名無史さん
08/12/12 20:22:17
空弁当を使った宗重は天下の笑いものとなり、浪人のまま恥多き一生を終えました。
540:日本@名無史さん
08/12/12 20:38:18
それで中村一栄の部隊は赤阪にいたのか垂井にいたのかどっちなんだ?
541:日本@名無史さん
08/12/12 21:37:50
URLリンク(www.nihonkai.net)
中村一栄は毛利のおさえとして垂井にいた
ここに載ってるから間違いない。
542:日本@名無史さん
08/12/13 09:52:33
>>539
天下の笑いものになったのは毛利w
543:日本@名無史さん
08/12/13 14:34:30
急死した中村一氏、NHK大河ドラマでロンブーのアツシがやってた役だね。
立花宗茂、間に合ってたら確実に家康負けてた。
544:日本@名無史さん
08/12/13 15:00:32
↑
はいはい
545:日本@名無史さん
08/12/13 15:26:44
実際、立花がいたら戦況変わってただろ
少なくても毛利よりは100倍役に立つぞ。
546:日本@名無史さん
08/12/13 17:49:32
毛利=0
立花=0×100=0
547:日本@名無史さん
08/12/13 18:52:46
ま、関ヶ原で家康負けても
その後に膠着戦になると、また家康有利だろうなあ。
548:日本@名無史さん
08/12/13 19:31:23
大坂にぎってんの西軍だし、関ヶ原の地形からして東軍が負ければ袋のネズミで
史実の西軍以上の大打撃は必至だし、膠着はないでしょ。
549:日本@名無史さん
08/12/13 21:46:59
宗茂のいる部隊の大将はたしか毛利元康だったと思うけど
あと毛利が役立たずとかいうけど自分らに相談もせずに
作戦を決めてそれに従えと自分より立場の下の者に命令されたら誰でも
言う事は聞かんだろう
550:日本@名無史さん
08/12/13 23:53:31
毛利って馬鹿だよね、関ヶ原で負けても全領土安泰なんて
本気で考えてたの?
551:日本@名無史さん
08/12/14 00:00:04
それで中村一栄は岡山ではなく池田、浅野といっしょに垂井付近にいたという結論でいいんだね
メジャーな布陣図には載ってないけど
552:日本@名無史さん
08/12/14 00:25:41
前田さえ西軍だったら、輝元も大坂におらんやろし、勝っていた
553:日本@名無史さん
08/12/14 01:37:14
秀吉は暴君だったから、死んでみなほっとしたはず。
最初から家康が勝って当然だったが、彼の政治力が今一つだったのでは。
554:日本@名無史さん
08/12/14 02:24:15
加藤清正 最強!
555:日本@名無史さん
08/12/14 06:46:23
「関ヶ原御合戦地図」では、
「池田輝政、浅野幸長、山内一豊、有馬法印父子、金森法印、中村一栄、一柳直盛、水野清忠、鈴木重愛、
右九隊ハ南宮山栗原山ノ壓トシテ垂井ノ東南ニ備」とある。
556:日本@名無史さん
08/12/14 10:11:30
>>550
馬鹿だから生き残れたんだよw
557:日本@名無史さん
08/12/14 13:52:13
元就の愚昧、卑劣さは有名だろう。
叔父がしゃしゃり出なければ、本家はもたなかった。
558:日本@名無史さん
08/12/14 14:37:34
すまん、元就ではなかった、孫の輝元だった。
爺さんも卑劣だったが頭は良かった。
559:日本@名無史さん
08/12/14 15:00:27
>>555
一柳は長松城では
560:日本@名無史さん
08/12/14 17:32:06
適当に垂井から岡山の間でいいんじゃない
戦況によって移動しただろうし
561:日本@名無史さん
08/12/14 17:47:00
ダメです
こういうことは
はっきりさせないと
562:日本@名無史さん
08/12/14 18:04:45
はっきり出来るもんなら是非してくれ
563:日本@名無史さん
08/12/14 20:00:51
関原一乱志には
南宮山の抑えで池田三左ェ門、浅野左京大夫、駿河衆、遠刕衆
大垣城の抑えで水野日向、同市正、有馬玄蕃、水野六左ェ門、津軽右京、西尾豊後守、
山内対馬守、中村彦右ェ門
長松古城に一柳監物、加藤左近為大将、美濃衆
とある
寛永諸家譜でも有馬・山内は赤坂で大垣の抑え
南路志に記載されている谷川七左ェ門覚書や関原物語でも
山内、一柳、中村、有馬は大垣の抑えとある
関原始末記では池田・浅野と駿河・遠州勢が南宮山の抑えで
家康本陣の北に布陣とあり、別に堀尾が大垣城の抑えで
大垣城の道筋に布陣
564:日本@名無史さん
08/12/14 21:27:52
やっぱり赤坂に残ったのは堀尾だけじゃないの?
中村は杭瀬川の戦いでも有馬といっしょに行動したから
本戦でもいっしょに行動したと考えるのが妥当
565:日本@名無史さん
08/12/14 21:34:22
通説の有馬・山内が池田・浅野より西にいる説は非常に怪しい
566:日本@名無史さん
08/12/14 21:46:27
高台院実は西軍寄り説ってほんとうですかね?
567:日本@名無史さん
08/12/15 00:00:40
>>541が結論でいいよ、中村家の御子孫の方がそうおっしゃっているのなら確実
568:日本@名無史さん
08/12/16 01:32:53
なにやら南宮山方面の話しになっているので、ついでにお聞きします。
長宗我部の後ろに毛利勝信と毛利勝永が布陣していたというのは本当でしょうか?
569:日本@名無史さん
08/12/16 02:28:50
>>568
多分本当。伏見城合戦の後、小倉毛利勢は、毛利秀元らの軍勢に
編入されているはず。
570:日本@名無史さん
08/12/17 15:51:59
毛利勝永って最強武将じゃねえか
立花より強いのが関ヶ原にいたのなら
西軍は勝てたはず
571:日本@名無史さん
08/12/17 17:44:48
大阪夏の陣では大活躍だったね。
でもこの頃、まだ若殿。
572:日本@名無史さん
08/12/17 19:44:05
下手したら真田より活躍してる毛利勝永
573:日本@名無史さん
08/12/17 20:58:22
真田なんて越前に蹴散らされて隠れてた神社で鉄砲足軽に斬首されたへたれ
574:日本@名無史さん
08/12/17 22:42:59
家康本陣に先に攻め込んだのは、毛利の援護をうけた真田が攻め込み
続いて毛利隊が突入したら、家康が逃げ出した後でもぬけの殻だったのでは。
575:日本@名無史さん
08/12/18 21:08:09
家康の本陣より前に布陣していた連中はどこに逃げたの?
あっさり突破された責任を取って切腹した?
それとも全滅したの?
576:日本@名無史さん
08/12/18 21:36:10
>>575
大軍同士で何が何だか解らん内に突破されたので
お咎めなし
577:日本@名無史さん
08/12/18 22:16:34
総数は多くても、小規模部隊をずらりと
並べたのが失敗だったのでは。
578:日本@名無史さん
08/12/18 22:19:09
大軍が密集しすぎて逆に動きにくくなったんじゃなかったっけ?
579:日本@名無史さん
08/12/18 22:28:39
いくら大坂方が死兵と化して突撃したとしても、混乱のうちに
なんか家康本陣に到達しちゃいました、なんてことは考えにくいのでは。
敵部隊を撃破、敗走させながらじゃないと、大軍に360度包囲されてあっというまに壊滅では?
あるいは島津みたくステガマリ残しながら突撃したとか。
580:日本@名無史さん
08/12/18 22:53:15
>>577
備単位を編合して一手にしているので特に問題はない
>>579
先手が破れて残兵が二番手に流れ込み混乱し、更に
三番手が同様に事態に陥り…でその間を突破
それで、混乱した部隊が立ち直ると忽ち包囲殲滅
この間、わずか三時間
581:日本@名無史さん
08/12/18 23:52:21
>>580
信繁と勝永、鬼のような働きだな…
582:日本@名無史さん
08/12/19 02:35:42
毛利勝永はんは関ヶ原んとき何やってはったんですか?
583:毛利勝永
08/12/19 07:10:05
傍観してた。
584:日本@名無史さん
08/12/19 20:14:59
毛利勝永、特に鉄砲隊の指揮に秀でてたとか。
585:日本@名無史さん
08/12/19 23:58:25
ちょっとスレ違いではあるが、関ヶ原と大坂の陣
の間の15年って実はかなり間が空いてるよね
その間よく家康は生きていられたな
586:日本@名無史さん
08/12/20 01:55:40
毛利勝信は6万石、毛利勝永は1万石
1800人と300人が布陣していたのか
ならなぜ布陣図に載っていないんだ
587:日本@名無史さん
08/12/20 08:27:13
>>585
薬作ったり、運動したり、粗食したり
頑張ってます
>>586
毛利で南宮山、つまり同一とみなされた
588:日本@名無史さん
08/12/20 21:39:01
朝鮮でも活躍したらしい。
大阪城に、毛利勝永が入場したとの報告を聞いた家康が、
「しまった、あいつのことをすっかり忘れておった、
召抱えておくんだったのに。」と苦笑いしたとか。
まさか、自分の命が危なくなるとは予想もしてなかった。
589:日本@名無史さん
08/12/23 01:33:31
毛利勝信と毛利勝永はどこに布陣していたのですか?
590:日本@名無史さん
08/12/23 02:41:00
毛受勝介の話題と聞いて駆けつけてきました
591:日本@名無史さん
08/12/23 05:53:28
毛利新介はどこに布陣してたの?
592:日本@名無史さん
08/12/24 14:33:27
>>558
チキン毛利のせいで三成たちが・・・
輝元の馬鹿とアホの広家は三成の代わりに死ぬべきだった。
593:日本@名無史さん
08/12/24 16:39:12
毛利勝信は南宮山の西、栗原に布陣
金谷に布陣している徳永、市橋らの東軍と睨み合ってた
594:日本@名無史さん
08/12/25 00:00:58
徳永?
市橋?
誰?
595:日本@名無史さん
08/12/25 05:42:42
>>592
三成たちが死んだのは自分たちのせいだろう
そもそも関ヶ原で戦う事を毛利一族に相談せず決めてる時点でだめだろう
自分たちで独断で決めているのに負けたら他人のせいにするなんて
どんだけだめなんだ三成たちはって事になるぞ
596:日本@名無史さん
08/12/25 06:32:37
>>594
徳永寿昌・市橋長勝・横井伊織・同作左衛門・同孫右衛門ですな
長束勢は牧田川でかなり討ち取られてますな
597:日本@名無史さん
08/12/25 06:44:13
え?長束も参戦してたの?
598:日本@名無史さん
08/12/25 07:34:01
長束隊は本戦では池田隊と交戦、撤退戦では徳永隊・市橋隊などと遭遇戦を展開したとされている。
後者は無残な結果だったけど。
599:日本@名無史さん
08/12/25 08:51:49
>>595
毛利が家康にビビッたから負けたんだよ
へたれ毛利が
600:日本@名無史さん
08/12/25 09:06:03
治部は突然現れた家康に恐怖し、夜逃げをした。
しかし関ヶ原で捕捉され、全滅した。
601:日本@名無史さん
08/12/25 09:48:29
>>600
治部は身一つで逃亡したよ。
全滅はしていない。
602:日本@名無史さん
08/12/25 09:58:12
>>600
三成なめんな糞野郎
603:日本@名無史さん
08/12/25 10:00:12
三成は捕まったとき下痢で臭かった(マジ
604:日本@名無史さん
08/12/25 10:01:50
関ヶ原でまともに戦わずに傍観していた西軍の裏切り者達が
減封や処刑されたのは当然である。
605:日本@名無史さん
08/12/25 10:11:49
>>603
お前うざい
606:日本@名無史さん
08/12/25 11:59:43
>>566
亀ですまんが、高台院の書簡か何かに家康に擦り寄る武断派諸将を苦々しく思ってるとの記述があるとか。
607:日本@名無史さん
08/12/25 14:39:18
>>598
安国寺と共に一発の弾も撃たんで退却したと違うの?
608:日本@名無史さん
08/12/25 17:15:40
>>599
他人のせいにするんじゃねえよ
だったら一人で戦えばいいだろう
>>604
三成たちの方が先に裏切ってんだろう
重要な事を独断で決めている時点で武将たちの信頼を裏切っているぞ
609:日本@名無史さん
08/12/25 18:52:26
600 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2008/12/25(木) 09:06:03
治部は突然現れた家康に恐怖し、夜逃げをした。
しかし関ヶ原で捕捉され、全滅した。
610:日本@名無史さん
08/12/25 22:40:05
>>608
お前毛利信者か?
どう考えても関ヶ原で西軍が負けたのは毛利の責任だろ。
611:日本@名無史さん
08/12/25 22:51:48
>>610
お前石田信者か?
どう考えても関ヶ原で西軍が負けたのは石田の責任だろ。
612:日本@名無史さん
08/12/26 09:43:19
毛利が動いてりゃ勝ってた。
本当に全領地が安堵されるとか思ってたのか?
613:日本@名無史さん
08/12/26 11:04:01
関ヶ原、今日は雪だよ。
寒い・・
614:日本@名無史さん
08/12/26 20:22:44
>>612
あの状況で毛利が動くと本気で思ってたのか?
対毛利用に押さえの兵は置いてあるし
そもそも西軍が勝っても毛利が安泰かどうかわからんぞ
615:日本@名無史さん
08/12/26 21:12:03
野心家の石田のことだから、勝ったら勝ったで金吾関白や毛利を排除しようと動いたことだろうな。
616:日本@名無史さん
08/12/26 23:33:14
三成が野心家ていうソースは?
617:日本@名無史さん
08/12/27 00:39:41
今までいい流れだったのに
冬休みになったとたんこれかよ
618:日本@名無史さん
08/12/27 07:03:34
>>616
自らがこうあるべきと信じる豊臣政権を作ろうとはしただろうな。
それを野心とは言いがたいが。
金吾は確実に排斥されただろ。
宇喜田、上杉と通じて毛利を押さえにかかるだろうし。
619:日本@名無史さん
08/12/27 08:13:39
秀吉の後ろ盾があるうちは19万石で十分だっただろうが・・・
620:日本@名無史さん
08/12/27 10:03:23
近江一国貰っとけば良かったのに。
621:日本@名無史さん
08/12/27 10:18:04
>>620
逆に本多正信みたいに1万石にしとけば、豊臣政権の
分裂は避けれた
622:日本@名無史さん
08/12/27 10:52:10
1万石だって蠢動する奴は蠢動する。
あんなのを奉行にしたのが間違い。
623:徳川家康
08/12/27 15:56:50
>>610-611
毛利も石田もどっちも無能なんだから無能同士仲良くしろw
624:有楽斎
08/12/27 16:07:35
石田三成はまるきりの無能でもないだろう
まあ…空気読まずに我を通して自滅する不器用な人だが…
てるちんは無害な人だよね。戦国大名が無害って致命的だけど。
正真正銘本物の無能者は、岐阜城に籠りながら一日で落城させた信雄。
625:日本@名無史さん
08/12/27 18:05:15
>>624
君が一番無能だと思うよ^^;
626:日本@名無史さん
08/12/27 20:20:20
>>622
一万石ならそれほど嫌われない
627:日本@名無史さん
08/12/27 22:02:06
>>624
>岐阜城に籠りながら一日で落城させた信雄
日本語能力が(ry。「落城させ」たのは東軍諸将でしょう。
それから、岐阜城主だったのは信秀だったと思いますけど。
628:日本@名無史さん
08/12/27 22:14:56
秀信なw
629:627
08/12/27 22:20:47
>>628
おっとこりゃまた失礼をば。
630:日本@名無史さん
08/12/27 22:38:45
岐阜城ってさあ、難攻不落とかいって結構有名だけどさ、
落ちまくりだよな。
つーか、縄張り図見ても、少なくとも山上部分は滅茶苦茶規模小さくない?
城と言うより砦程度、名の知れてる山城の中でも最も小さい部類じゃね?
631:日本@名無史さん
08/12/27 23:24:35
関が原の仮想戦記モノで面白いの無い?
逆撃・関が原
関が原燃ゆ
は、結構面白かった。
632:日本@名無史さん
08/12/27 23:52:04
>>630
確か城代経験者を岐阜攻めに派遣したんじゃなかったっけ?
633:日本@名無史さん
08/12/28 00:18:45
池田輝政な
634:日本@名無史さん
08/12/28 03:49:21
>>630
信秀や信長がなかなか落とせなかった城なのに
635:日本@名無史さん
08/12/28 03:58:16
>>634
戦力が違いすぎる罠
636:日本@名無史さん
08/12/28 04:11:59
本戦やってる時に、宇都宮防備やってた連中の論文とかってないよね。
637:日本@名無史さん
08/12/28 07:42:14
>>634
信秀は城下で撃退されたから攻めていないし、
信長は奇襲で山上占拠に成功したよ。
638:日本@名無史さん
08/12/28 13:51:53
さっきから言ってる信秀って誰?
639:日本@名無史さん
08/12/28 14:27:25
信長の親父
640:日本@名無史さん
08/12/28 17:32:24
上杉軍佐竹軍は家康も秀忠もいなくなって空き巣同然の江戸をなぜ攻めなかったのは馬鹿としかいいようがないな
最上なんかほっといて攻めれば西軍は勝ってた
641:日本@名無史さん
08/12/28 17:46:27
>>640
最上や伊達、堀、結城に袋叩きにされて切腹する羽目になっていたかと。
642:日本@名無史さん
08/12/28 18:48:28
>>640
結城・蒲生・平岩
後、江戸城留守居を併せて数万とされる
何処が空き家かと
643:日本@名無史さん
08/12/28 23:12:07
しかし、実際、直江は関東に侵攻しようとしてた
へたれの景勝がとめたけどね
644:日本@名無史さん
08/12/29 00:33:24
>>643
この話はマトモな史料には出てこないぞ。
それに、あの状況下では、最上領へ侵攻するのが一番現実的だと思う。
645:日本@名無史さん
08/12/29 05:15:28
最上攻略 -> 越後攻略という順番だろうから、いつまで経っても江戸には行かなさそう
646:日本@名無史さん
08/12/29 07:02:40
所詮は私利私欲のための蜂起だからね。
領土拡大の方が大切だ罠。
647:日本@名無史さん
08/12/29 10:53:52
違う上杉は義のために戦ってたんだ。
648:日本@名無史さん
08/12/29 14:39:51
上杉の義(笑)
649:日本@名無史さん
08/12/29 18:04:31
上杉の義とは最上の領地を取り上げること。
650:日本@名無史さん
08/12/29 18:59:33
上杉の戦略としてはまず最上を倒す
伊達とは適当なところで休戦
これで後顧の憂いなし
そして越後を攻め旧領を回復し東日本に徳川家に匹敵する大勢力を作る
651:日本@名無史さん
08/12/29 21:30:27
来年の大河はこのスレにも影響をあたえそうだなw
652:日本@名無史さん
08/12/29 21:30:45
そして徳川に降伏し、江戸幕府の大老になる
653:日本@名無史さん
08/12/29 22:00:18
>>651
愛に生きた直江の書状により、関ヶ原の大乱が勃発するw
654:日本@名無史さん
08/12/29 22:03:03
石田と直江は男色の仲だったって、本当?
655:日本@名無史さん
08/12/29 23:43:00
>>654
うそ。というか、何を見てそのレスを書き込んだんだw
656:日本@名無史さん
08/12/30 01:03:08
本当に上杉佐竹連合軍が江戸を衝く可能性はなかったのだろうか?
657:日本@名無史さん
08/12/30 02:02:28
上杉が佐竹に共闘しようと持ちかけたのは7月だぞ?
658:日本@名無史さん
08/12/30 10:50:01
>>643
上杉はよくやったほうだよ
戦わずに降参したヘタレ毛利と違って。
659:日本@名無史さん
08/12/30 13:24:42
>>656
徳川のホームグラウンドで戦う可能性は低いと思う
本音はやはり越後を取り戻したいのが第一ではないか
660:日本@名無史さん
08/12/30 19:42:43
上杉は戦ってないぞ?w>>658
最上と戦っただけでよくやったと言うなら、毛利も伏見攻めや伊勢攻略で戦ってるな。
661:日本@名無史さん
08/12/30 22:53:46
最上と伊達と戦って勝ってるぞ
662:日本@名無史さん
08/12/31 00:04:54
対最上ではかなり苦戦したような
663:日本@名無史さん
08/12/31 00:59:29
日本史板とは思えん厨な会話だな
おまえら関山合戦も知らんのか?
664:日本@名無史さん
08/12/31 01:37:39
知らないな
関山合戦てなに?
665:日本@名無史さん
08/12/31 07:58:52
うん。聞いたことないね。
日本史学者に聞いても知らない人の方が圧倒的多数だと思われ。
666:日本@名無史さん
08/12/31 08:03:47
「関山合戦」でググってみな。
いっぱい情報が出てくるぜ。
一般人が知らないのは仕方ないとしても、日本史学者が知らないのは恥。
667:日本@名無史さん
08/12/31 09:05:12
>>666
誤:「日本史学者が知らないのは恥。」→正:「上杉オタクが知らないのは恥。」
668:日本@名無史さん
08/12/31 09:16:20
>>638
信長の6男。フィギュアの人のご先祖のすぐ上の兄。
669:日本@名無史さん
08/12/31 10:25:54
上杉って20万石の最上に負けるほど弱かったのに、
最上と伊達に勝ってるとはよくいったもんだなw
670:日本@名無史さん
08/12/31 10:39:26
おれ「花の慶次」愛読してるんだけどさ、ボコボコにされた上杉は
浪人衆の活躍で何とか逃げ延びることに成功したらしいじゃんw
上杉弱すぎw
671:日本@名無史さん
08/12/31 12:05:24
この時代の上杉、先代の戦闘能力とは
ずいぶんと違ってる。
なんかあったのか?
672:日本@名無史さん
08/12/31 12:58:43
長谷堂城の戦いが分岐点だったのかな?
1万8000で1000しかいない山城を落とせないなんて
上田城の戦い並の失態だ
志村高治が凄いのか?
673:日本@名無史さん
08/12/31 13:56:32
>>671
つ代替わり
そりゃあたりまえだろ・・・指揮官が違うんだから・・・・
先代が偉大すぎるわけでしょ。武田勝頼みたいに国を潰さなかっただけ
でもマシでしょ。
674:日本@名無史さん
08/12/31 14:40:16
>>672
純粋な兵力差は18000対1000じゃない、最上本軍と伊達の援軍も近くにいた
力攻めすれば背後を衝かれるから上杉軍にとってはここまでが攻勢限界点だったと思う
675:日本@名無史さん
08/12/31 15:17:49
>>674
伊達の援軍が山形城東方に布陣したのは9月21日なわけだが
676:日本@名無史さん
08/12/31 15:43:30
冬休みでちょうどいい機会だから長谷堂城の戦いを細かく分析していきましょう
なぜ上杉軍はこの城にこれだけてこずったのか?それ以前の最上方の城は簡単に落としているのにもかかわらず
677:日本@名無史さん
08/12/31 16:21:53
上杉は大きな戦いに従事したものが多く最上など田舎大名となめていたが
最上勢は鉄砲を増やすなど近代化に成功しており意外に強かった
また上杉軍はかき集めた浪人が多く地理に不得手なものが多かった
678:日本@名無史さん
08/12/31 16:27:25
>>672
志村が凄いって言うより城攻めは難しいんだよ
679:日本@名無史さん
08/12/31 16:43:19
>>676
他の城は山形城に兵力集中するために捨てたんじゃなかったけ?
それを断った江口光清は玉砕してる。
680:日本@名無史さん
08/12/31 17:42:30
長谷堂城跡見たことあるけど、あれは落ちんよ、天然の要塞だよあれは
681:日本@名無史さん
08/12/31 17:55:33
>>669
最上軍も追撃戦のときに2000人ちかく上杉軍に討ち取られてるし
上杉家より被害多いじゃん
682:日本@名無史さん
08/12/31 18:02:08
URLリンク(nagata.kanagata.net)
これか
長谷堂城
古墳みたいだな
水堀すらないじゃん
簡単に落とせそうだけど
683:日本@名無史さん
08/12/31 18:12:24
>>682
水掘りありますよ、その外側には水田もありますよ。
684:日本@名無史さん
08/12/31 18:36:08
上杉軍は謙信の時代から城攻めが苦手だからなあw
685:日本@名無史さん
08/12/31 18:54:46
上杉はへたれなのは間違いない。関ヶ原の敗報を聞いて囲みを解いて退却。これがマヌケすぎる
退却せず攻撃つづけて最上を滅ぼせたよかったのに。関ヶ原の東軍って反転してくる気配なかったのに
戻ってくると思って、かってに退却してマヌケすぎw おかげで最上命拾いw
そのまま攻撃継続してれば最上滅亡。そうしたらよ伊達とかも降伏して他の東北大名も降伏してそのあと、佐竹とかと合わせて10万で関東を平定
そのあと帰る場所なくした家康を黒田とゆっくりはさみうちにしたら徳川とか滅亡だろ
上杉ヘタレすぎw
686:日本@名無史さん
08/12/31 19:23:27
冬休みだなぁ…
687:日本@名無史さん
08/12/31 20:47:53
池■田大■作の本名はソン・テチャク。小泉純一郎、小沢一朗は朝鮮人。
911では小型の水爆が使用されている。
URLリンク(ri)<)■ako■don/kok_web■site/ir■iguc■hi.htm
与党も野党もメディアも全部朝鮮人だった。
URLリンク(jb)<)
688:日本@名無史さん
08/12/31 22:43:09
>>685
東北諸将集めても10万もいかないだろ
689:日本@名無史さん
08/12/31 22:50:37
冬厨て本当にいるんだな。
690:日本@名無史さん
09/01/01 00:18:54
>>685
関ヶ原の結果を知りながら最上を滅ぼしたら上杉は改易だろうな・・・
最上は旧領復帰できるだろうなぁ。
691:日本@名無史さん
09/01/01 02:53:38
>>690
いやかえって知らん顔して攻め抜いて最上の当主に切腹させて
それからしれっとした顔で徳川と和平交渉したらどうだ?
そっちがその気なら今度こそ攻めて来いやくらいの強気で。
692:日本@名無史さん
09/01/01 08:33:05
切腹を命じられておしまいじゃね?
693:日本@名無史さん
09/01/01 09:50:53
>>675
伊達の援軍は案山子の集団くらい役に立たないから、たとえもっと早く到着してても考慮する必要はないわけだが
694:日本@名無史さん
09/01/01 10:26:48
伊達の家紋は上杉の分家末流から下賜されたらしいぞ。
よって上杉>>>>>伊達。
上杉にとっては伊達は家臣の家臣みたいなものらしい。
695:日本@名無史さん
09/01/01 10:31:39
冬厨が湧くのは仕方がないが・・・
長谷堂は、上杉も伊達も上方の情勢を見てただけだろ。
(最上は存亡の瀬戸際だから必死だったが)
地勢的に無理押しして攻め取るのは難しいし、上杉にとっては周囲を敵に囲まれた
状況で兵を損じるのは最大限避ける必要がある。
伊達も家康が劣勢なら、上杉の先方として江戸に攻め上る必要があるし。
伊達が傍観する中を上杉が最上を攻め滅ぼしたとしても、後の関ヶ原の勝報により
東北諸将(どころか佐竹・多賀谷・相馬・岩城なども)から攻められるのは必定。
徳川が敗れれば、最上も伊達も秋田も全面降伏するし、堀・溝口・村上らも同様だ。
長谷堂など東北の政局としては取るに足らない小城に過ぎない。
最上以外は、上方の政局を睨んで息をひそめていただけだと思われ。
696:日本@名無史さん
09/01/01 10:50:44
>>695
周囲を囲まれた状態で兵を動かすからには、迅速に敵をたたき潰さなきゃいけないんだよ。
そうしなきゃ多方面作戦を強いられて袋叩きに遭うからね。
そんなこともわからないの?君が一番冬厨じゃね?
697:日本@名無史さん
09/01/01 12:39:15
>>691
本当に攻めてこられておしまい。生きていたら切腹だろうね。
島津ぐらい遠地にあればそれも通るだろうけど、徳川のお隣みたいな
レベルのところじゃムリ。あと上杉は「秀頼の敵」認定であることを
忘れちゃダメだぞw。上杉を攻め滅ぼす大義名分なんてたっぷりある。
698:日本@名無史さん
09/01/01 12:46:08
上杉なんかわざわざ攻めなくても切腹命じちゃえばイチコロなのに。
699:日本@名無史さん
09/01/01 14:12:39
>>698
そこまでやると決死の攻撃をして来る危険性あり。
そうなるとほかの敗者も呼応するかも。
700:日本@名無史さん
09/01/01 14:54:58
でも誰も家康の処分に決死の攻撃をしなかったんだよな。
宇喜多や毛利なんかが呼応するとでもw
701:日本@名無史さん
09/01/01 15:00:18
上杉は全軍で関東に乱入すれば西軍勝利間違いなしなのにアホだよなあ
702:日本@名無史さん
09/01/01 15:54:43
>>696
一番の冬厨は君だ
多方面作戦ではないんだが
伊達は中立、情勢しだいで西軍につく気まんまん
堀は一揆軍相手に苦戦中で身動き取れない状態
佐竹、相馬、岩城、多賀谷は実質上杉方
小野寺は完全に上杉方、秋田も実質上杉方
津軽は不在
宇都宮の結城秀康は下野を守るがせいいっぱいの状態
実質敵は最上だけ、最上を下せば南部と戸沢も軍門に下る
西軍の総大将である毛利輝元も毛利本軍も無傷
関ヶ原の局地戦で負けた程度で退却を命じた上杉の判断は完全に間違い
19万いる西軍のうち石田、小西、宇喜多、大谷だけが壊滅しただけで大勢には影響なかった
豊臣も七手組が西軍に参加していることから徳川こそが「秀頼の敵」となっている状態
上杉は退却せず継戦していれば西軍は勝っていた
西軍の負けを決定づけたのは上杉の退却
上杉が退却しなければ毛利輝元も大阪城を退去することはなかった
703:日本@名無史さん
09/01/01 16:06:16
>>696
誰が上杉領に攻め入ってくるというのか?
2~3例を挙げてみろよ、冬厨クン。
お前の判断基準はゲームだろ?
次々攻めなきゃ、四方八方から侵略されるもんな。
冬休みの宿題、頑張れよ。
704:日本@名無史さん
09/01/01 16:25:40
確かに関ヶ原戦役は5大老の後継者争いだよなw
三成なんかただの雑魚w
毛利、上杉、宇喜多VS徳川、前田
9月15日時点で脱落したのは宇喜多だけ
天皇も秀頼もまだ西軍の手中にあるのに白旗挙げるのは本当にバカとしかいいようがない
普通絶対負けないだろw
705:日本@名無史さん
09/01/01 16:40:11
秀頼の出陣?
そんなの必要ないわ
前田玄以を使い朝廷に東軍諸将の官位を剥奪させ朝敵とし
秀頼に東軍を賊軍と宣言させる
それだけで西軍完勝間違いなしじゃ
706:日本@名無史さん
09/01/01 17:11:11
>>705
応仁の乱かよっ!
707:日本@名無史さん
09/01/01 17:11:14
冬休みらしくなって参りましたw
708:日本@名無史さん
09/01/01 17:29:01
新春大放談会!
709:日本@名無史さん
09/01/01 17:42:10
>>705
> 前田玄以を使い朝廷に東軍諸将の官位を剥奪させ朝敵とし
東軍と内通していた人じゃんw。いしだみつにゃん大変だなぁ・・・
710:日本@名無史さん
09/01/01 17:54:06
>>702
同意。1番の冬厨は>>696。
>>695は2番目だな。
711:日本@名無史さん
09/01/01 17:54:19
前田玄以は内通なんかしてないぞ
712:日本@名無史さん
09/01/01 18:00:14
玄以は東軍と内通していた
理由:戦後お咎めなしだったから
713:日本@名無史さん
09/01/01 18:12:59
前田玄以は内通なんかしてない
所領安堵だったのは命を助けた細川親子による恩返し
714:日本@名無史さん
09/01/01 18:18:15
伊達とか裏で東軍の南部を攻撃してるよな、伊達が一番くせものだわな
715:日本@名無史さん
09/01/01 18:53:04
でも伊達は上杉もボコボコにしてるからな。
結構忠義者だと思う。
716:日本@名無史さん
09/01/01 20:06:50
冬場にまで長引くような大乱なんて、雪で無理だろう。
717:日本@名無史さん
09/01/01 21:43:42
冬厨多すぎw
718:日本@名無史さん
09/01/01 21:45:54
あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願いします
719:日本@名無史さん
09/01/01 23:21:33
結局、局地戦の敗報聞いただけで兵を引いた直江が悪いってことだな
720:日本@名無史さん
09/01/01 23:33:42
>>714
伊達とか黒田とかってそもそも東軍という立場を利用して自分たちの
やりたいことをやっただけだから・・・
721:日本@名無史さん
09/01/02 00:27:09
>>720
それは西軍についた毛利なども同じなんだよね。
輝元自体は大坂城から動いてないながらも、西国方面では
明らかに勢力拡大を意図した軍事行動がとられている。
当然といえば当然だが、皆々それぞれの思惑で動いている
722:日本@名無史さん
09/01/02 05:16:10
謹賀新年
さて、布陣図を眺めてて思ったのだが
東部の山向こうに居る毛利、長宗我部軍…東軍逃走路遮断の為に居るんだろうけど、実質死に兵になってる(戦う気が無かったからなんだろうけど)
次いでに三成の居る北西が薄過ぎる。
そこで長宗我部他を残し、毛利吉川隊を史実での小早川の位置に置く(総大将は正面に布陣するべきとかいって説き伏せられないか?f^_^;)
そして小早川を予備として大谷の後ろに置く。
これでおそらく毛利が徳川を牽制してる間に、北西に押し込められる三成に吊上げられた東軍を、小早川他が分断・包囲して勝負有り。
或いは西軍予備が置けた分、東軍第一線左翼を先端包囲してお終い
まぁ東軍布陣は内応前提で、西軍も内応するつもりでの布陣だろうから、戦う前から結果は決まってたんだろうな
723:日本@名無史さん
09/01/02 07:06:03
>>722
東軍に寝返った小早川が西軍を分断して勝負あり。
724:日本@名無史さん
09/01/02 18:47:01
布陣では、揉めまくって成り行きで決まったという偶然も多いのでは。
725:日本@名無史さん
09/01/03 00:30:41
小早川が松尾山に陣取ってたんで
裏切りを警戒した三成がそれを巻き込もうとして
決戦場が関ヶ原になったんでないの?
726:日本@名無史さん
09/01/03 00:37:18
>>722
死ね厨房
727:日本@名無史さん
09/01/03 03:19:46
上杉が撤退しようが関係ない!
前田さえ西軍であったなら、輝元、前田両軍5万以上が関ヶ原に進出し勝っていた
前田から人質を取った時点で家康の勝利!
728:;
09/01/03 09:06:28
立花宗成の大津城攻城軍が間に合ってればそこそこ勝負になった。
729:日本@名無史さん
09/01/03 09:12:20
>>688
武内スクネが活躍したのが奈勿王と同じ時代、最初に蘇我を名乗った
石川スクネがそれより後なのだから、合ってないわけでもないのでは?
730:日本@名無史さん
09/01/03 10:36:44
>>729
誤爆?
731:日本@名無史さん
09/01/03 12:03:11
>>730
誤爆だと思うよ。関ヶ原の布陣図見てもこの人たちいなかったから。
732:日本@名無史さん
09/01/03 12:23:00
布陣図見なくても明らかに時代が違うだろ!
733:731
09/01/03 13:31:11
>>732
わかりにくいギャグでごめんね。
でも,言葉の裏が読めるようになったら2ちゃんがもっと楽しくなるよ!
734:日本@名無史さん
09/01/03 14:18:18
>>728
むしろ大津城に苦戦したのがちょっと・・な
735:日本@名無史さん
09/01/03 14:18:33
>>728
むしろ大津城に苦戦したのがちょっと・・な
736:日本@名無史さん
09/01/03 14:28:34
>>733
拒否する!!
737:;
09/01/03 16:18:47
>>734 幽斎の田辺城とか大津城は押さえの兵だけ置いておけばよかった。京極も幽斎も積極的に打って出る気はなかっただろう。
738:日本@名無史さん
09/01/03 17:33:01
>>737
田辺城は日本海航路の、大津城は東国から京洛への水陸の要衝
短期決戦なら兎も角、長期戦を指向するなら絶対押さえるべき場所
739:日本@名無史さん
09/01/03 19:51:09
秀忠隊が来てたら東軍の圧勝?
740:日本@名無史さん
09/01/03 22:26:42
>>739
ありゃ家康の戦略予備兵力だから絶対に関ヶ原の決戦場には現れない。
741:日本@名無史さん
09/01/03 22:49:31
>>740
秀忠は必死に美濃へ向かってたわけだが。
742:日本@名無史さん
09/01/03 23:58:27
家康の予定では10日に美濃へ到着するはずだった>秀忠
743:日本@名無史さん
09/01/04 00:26:31
秀忠が遅れたので家康は激怒。
秀忠を廃嫡しようとまでしたほど。
榊原康政の諫言で思いとどまったのは有名な話。
744:日本@名無史さん
09/01/04 01:59:04
>>743
それって演技でしょ。上手く遅参してくれたよしよしなんてやったら
どうなるんだよw
745:日本@名無史さん
09/01/04 07:31:35
小早川秀秋に物申す!!汝(なんじ)に二心(ふたごころ)あるを知らざるは三成痛恨の極みなれど、
意を捨てて約に違(たが)い寝返りをうった汝は武人の風上にも置けぬ卑怯者なり!
その場に平然と着座するを恥とは思わぬのかぁああ!!!!
746:日本@名無史さん
09/01/04 08:05:50
>>744
演技ではないか?と妄想を膨らませるのは小説家の仕事。
歴史を論ずる態度じゃねぇぞ。
747:日本@名無史さん
09/01/04 08:27:23
持久戦の場合・・・数日遅参させたところで意味がない
決戦の場合・・・強力な手駒なしに戦う羽目になる
もし決戦に敗れたらどうするんだ?
敗残兵と秀忠隊だけで西軍を支えきれるのか?
寝返るやつも出てくるだろうし、関東に引き籠もったところで
ジリ貧、北条の二の舞になるだけだしなあ。
748:;
09/01/04 09:04:00
関東には結城秀康がいるから秀忠が逃げ返れば北条よりはもちがいいんでは?
749:日本@名無史さん
09/01/04 09:06:44
>>748
結城には上杉佐竹
750:日本@名無史さん
09/01/04 09:47:17
てゆーか、秀忠にとっちゃ実質初陣だろ。家康が勝てない相手に勝てと言うのは荷が重過ぎる。
家康がうまく逃げて合流できれば最良。そうでなければ東海筋のどこかの城へ逃げ延びて秀忠と連絡が回復できるのが次善。
これくらいまでなら何とか挽回できるが、討ち死にしてたり城に逃げ込んだはいいが関ヶ原から近すぎて早速西軍に十重二十重に包囲され
ちゃうような状態だったら、実質初陣でしかも上田で真田に散々愚弄されてる人を総大将と仰いで戦わないといけないんだぜ?
しかも副将格の榊原康政と参謀長格の本多正信が泥水で顔を洗うような素晴らしい友情で結ばれていると来ているw
ということは、常に作戦が対立関係によって一足遅れ、主将の未熟さで決裁が取れずさらに一手遅れる。
城攻めのテンポならまだいいが、野戦のテンポにはついていけないのではないだろうか。
751:日本@名無史さん
09/01/05 09:15:54
>>592
バカ輝元が関ヶ原に居てもジャマ、足手まといになる。
752:sage
09/01/05 15:06:23
久しぶりに笹尾山に登って来たよ。
大谷の陣営以外は一望だな。
753:日本@名無史さん
09/01/06 00:04:26
>>752
笹尾山の陣地から見て、松尾山から一万人以上の小早川軍が攻め降りてくる様はどんなんだっただろうね。
石田三成も小早川軍の行動を目の当たりして、さぞや有り得ないほど驚いたことだと想像できるよね。
自分も笹尾山登ったことあるけど、いくら鶴翼の陣形で迎え撃ったといえど大谷軍はひとたまりもないよね。
それに呼応するかの如く、脇坂安治、赤座直保、小川祐忠、朽木元綱各軍までもが寝返ったんだもんなぁ。
さらに合戦後は、元西軍諸将からは裏切り者、元東軍諸将からは元々は西軍方だっただろという目で見られて
四面楚歌状態だったとかの金吾。享年21歳とかいう青年武将であったなら、どんな心境だっただろうなぁ。
あの山登った時いろいろ考えさせられたよ。
754:日本@名無史さん
09/01/06 00:22:42
小早川秀秋を金吾と書くような新春の厨らしいレスでした。
755:日本@名無史さん
09/01/07 01:46:52
石田三成がもっと挙兵を慎重に時間を遅らせて行って、上杉対徳川軍の戦いを
見てみたかった。きっと良い勝負になったんじゃなかろうか。
上杉軍は随分周到に待ち伏せ・挟撃・殲滅計画を立ててたみたいだし。
756:日本@名無史さん
09/01/07 02:54:50
幻の革籠原の戦いですね
757:日本@名無史さん
09/01/07 07:55:30
会津陣物語?あんなのデタラメもいいところだぞ
いつのまにか佐竹と共闘してる計画になってるし、信憑性皆無
758:日本@名無史さん
09/01/07 12:58:22
西軍うまく連携取れてないと言うかなんと言うかドタバタしてるよね。
759:日本@名無史さん
09/01/07 13:39:09
佐竹と津軽を味方に引き込めればなあ
760:日本@名無史さん
09/01/07 15:50:22
>>758
東軍は東軍で結構好き勝手にやってるイメージ
761:日本@名無史さん
09/01/07 17:39:10
>>760
東海道の先鋒隊を本多や井伊が上手く統率したのは
慶長役の目付間とのゴタゴタと比較すると大したもの
762:日本@名無史さん
09/01/08 08:05:58
>>715
松川で負けたくせに
763:日本@名無史さん
09/01/08 12:22:57
>>753
>石田三成も小早川軍の行動を目の当たりして、さぞや有り得ないほど驚いたことだと想像できるよね。
脇坂安治、赤座直保、小川祐忠、朽木元綱らが配置されたのは、そもそも何のためだと?
764:日本@名無史さん
09/01/08 13:08:24
>>763
金吾の先鋒だろ。
765:日本@名無史さん
09/01/09 00:37:55
配置されたという認識がそもそも間違い
脇坂、赤座、小川、朽木、らは大谷といっしょに中山道沿いにかなり前から布陣していて
強化陣地を構築している
石田はもちろん
小早川も後から布陣している
766:日本@名無史さん
09/01/09 07:33:53
総大将として満を持して布陣したわけだね。
さすが金吾。関白になる男。
767:日本@名無史さん
09/01/09 20:01:15
松尾山に布陣していた大垣城主の伊東さんはなぜ金吾さんに黙って
松尾山を明け渡したんですか
戦えばよかったのに
768:日本@名無史さん
09/01/09 22:18:08
金吾の武威を恐れたからだろjk
769:日本@名無史さん
09/01/11 06:08:18
三成「くくくううううう、くそぉ!小早川は何をしておる。狼煙じゃ、もう一度狼煙を上げぃ!」
~小早川秀秋軍、徳川家康の再三の催促に意を決し、松尾山を一気に駆け下りる~
三成「うおお!!!小早川め、気は確かか!」
~東軍と交戦中だった三成の家臣が、石田三成の元へ馬で駆けつけ言い放った~
家臣「殿ぉぉぉ!脇坂安治が寝返りましたぁー!!」
三成「な、何ぃぃぃ!!!」
家臣「朽木元綱、小川祐忠、赤座直保も右に同じく、都合4000の裏切り者が平塚勢、戸田勢と交戦中!」
~小早川秀秋の寝返りによって、西軍の形勢は一気に不利に転じたのであった~
770:日本@名無史さん
09/01/11 09:54:11
小学生の文章か?
771:日本@名無史さん
09/01/11 11:44:50
家康が大坂を出陣したとき、発生する可能性のあった事件
1.石田三成の反乱
2.宇喜多秀家の反乱
3.前田利長の反乱
じっさいは、
1と2だけではなく、西国取り次ぎの毛利家が反乱
これに豊臣家自体も荷担
西国大名群が荷担して関ヶ原合戦となる。
意外
772:日本@名無史さん
09/01/11 12:27:26
意外っつーか、そもそも豊臣家が朝鮮出兵とかのごたごたで内部分裂しかけていた結果だからなぁ……。
実戦部隊でたたき上げた連中と、秀吉政権の官僚として出世した連中の間の険悪さなんか有名。
家康に天下取らせたい、取らせたくないというより、その遺恨で分かれたようなもんだろ。
773:日本@名無史さん
09/01/11 12:43:36
毛利や上杉が家康に敵対したのも、同じ大老なのに勝手に婚姻結んでは開き直る家康に面子潰されたりしたから、みたいなのかなぁ?
家康派VS豊臣派どころか、アンチ同士の潰しあいってだけだったりして。
774:日本@名無史さん
09/01/11 13:38:23
>>773
そうだよ。
この時点では家康は豊臣の重臣でしかなく、いわゆる三成を筆頭とする文治派と
正則らの武断派との対立に乗じてるだけ。
三成らにすれば家康は君側の奸であって抹殺すべき主敵なのだけれど、
正則らには家康は戦国遺風を知る仲間なわけ。
上杉出兵自体が、豊臣の名で行われてるからなぁ。
775:日本@名無史さん
09/01/11 13:49:49
しかも西軍内部には相当の家康シンパ、アンチ三成や淀殿を抱えていたからな……。
776:日本@名無史さん
09/01/11 14:14:56
>>775
淀殿の名前がなぜそこで出てくる?
777:日本@名無史さん
09/01/11 14:27:11
>>776
北政所派の豊臣家生え抜き(ってかほぼ育ての親っぽいレベル)と、淀殿にくっついてる近江派の確執もあったからじゃ?
778:日本@名無史さん
09/01/11 14:34:48
大抵の武将は(女性ら含めて)どっちにもいい顔しようとしてたのが実態じゃ?
実は淀と北政所、それに三成の中は悪くなかったよって説もあるし。
まぁ、東軍に寝返ったのに認められなかった方々ご愁傷様ってやつで。
779:日本@名無史さん
09/01/11 16:15:50
家康にしてみりゃあ、最後のチャンスだろ。
自分の寿命にも限度があるからなあ。
「騎虎の勢」ってこともあっただろ。
中途半端に妥協してたら潰される可能性大だしな。
のるかそるかの勝負に出たんだろさ。
家康のことを慎重居士のように思っている者がおるかもしれんが、それは認識不足だ。
家康ほど生涯に何度も命がけの勝負をした者も珍しいのだよ。
780:776
09/01/11 16:37:46
>>777
>>775が「家康シンパ、アンチ三成」と「淀殿」を同列に考えているのがよくわからなかった。
あ,今思いついたが,小説でよく書かれているように秀頼様御出馬を淀殿が止めたのが西軍
の足を引っ張ったと言いたいのかな?
781:日本@名無史さん
09/01/11 16:54:48
>>779
慎重な人間は何事にも慎重だと思い込んでるのか?
それは全くの認識不足だな。
782:日本@名無史さん
09/01/11 21:27:46
武断派と文治派の対立なんてない、本当は違うんだけどな
黒田・蜂須賀⇔石田・増田の奉行衆の対立
加藤⇔小西の対立
よく言われる福島正則と石田三成の犬猿の仲も、関ヶ原まで対立したのを示す事象がない
北政所派や近江派なんてのもない、そんな事言ったら北政所は西軍支持してるんだけど
783:日本@名無史さん
09/01/11 23:37:28
石田三成襲撃事件の双方の兵力を教えて下さい
784:日本@名無史さん
09/01/12 01:54:01
>>782
北政所がいつ西軍支持したんだ
彼女はどちらも支持はしていない
785:日本@名無史さん
09/01/12 11:59:32
>>782
加藤と小西はともかく石田と黒田の件は
結局は唐入りが原因だしね。
786:日本@名無史さん
09/01/12 13:42:59
武功派、と呼ばれる実戦派の武将といっても、やることは徒党組んでの暗殺まがいの石田いじめだったり(しかも失敗)
老練な家康に転がされて当たり前の程度って感じもしないではないw
秀吉が秀頼かわいさのあまり、親族や古参の家臣を粛清したりするから……。
787:日本@名無史さん
09/01/12 14:00:06
粛清しなければどうなったっていうんだ?
秀次が後を継いでも結果は芳しくなく、最後はやはり家康が
政権を取ったと思うよ
788:日本@名無史さん
09/01/12 14:15:24
>>787
難しいだろ。子供の秀頼と違って成人した主君と、家康と同時代の激戦を生き延びた老練な武将が政権にいたら。
789:日本@名無史さん
09/01/12 15:52:54
逆に秀次らが秀頼らを粛清したりとかな……
内紛やったら家康等の外様大大名が得をする構図はかわらんだろう。
その意味では朝鮮出兵とかも痛かった。
790:日本@名無史さん
09/01/12 16:21:14
>>787
家康が天下を取れたことを当然のように考えるか?
あれは僥倖だろ。
三成・秀家に勝った後、正則に天下を獲られても不思議ではなかったかもしれんし。
791:日本@名無史さん
09/01/12 21:42:57
>>781
>>779の文章の、どこをどう読めば「慎重な人間は何事にも慎重だと思い込んでる」などというタワゴトが出てくるのだ?
もう一度日本語の勉強をしなおしてこい。
792:日本@名無史さん
09/01/12 23:56:58
秀頼は幼児だったので、秀頼の名代という立場で家康は好き勝手ができた(利家の死後)が、
成人の秀次の場合はそうはいかない。(既に関白)
次代を見越して伊達や最上、細川、藤堂などが秀次の腰巾着になっていたし、
むしろ、東海道ぞいに配置されていた秀次の宿老である
山内一豊、堀尾吉晴、中村一氏、田中吉政、一柳直末らを先鋒にした軍勢に滅ぼされていたかも。
793:日本@名無史さん
09/01/13 00:21:15
>>791
>家康のことを慎重居士のように思っている者がおるかもしれんが、それは認識不足だ。
>家康ほど生涯に何度も命がけの勝負をした者も珍しいのだよ。
戦国の世では慎重な人間だって何度も命がけの勝負をするものだ。
つーか、武士に生まれた以上命がけの勝負の連続なわけだが。
どうだ、わかったかい?慎重であることと命がけの勝負をすることはなーんの関係もないわけだ。
しかし>>779は無思慮にも両者に関係があると思い込んでるわけだ。
馬鹿だねー。
794:日本@名無史さん
09/01/13 00:38:16
>>793
最後の4行が無ければいい書き込みなんだけど 残念w
795:日本@名無史さん
09/01/13 14:07:43
秀次云々という話だと、大和大納言があと10年生きていたら…
という話をしたくなってしまうま。
796:日本@名無史さん
09/01/14 16:20:18
石田三成は、太閤検地とか粛清事件の表に立ったから、秀吉に向くべき怒りを受けてしまっている。
盟友の大谷からすら、お前は人望がないから他の大将立てろといわれるぐらい。
あと実戦指揮官としての器量も疑問だし。(本人もそれを意識していたのか勇名ある武士を破格の扱いで集めたりしたが、本人の代わりにはなれなかった)
797:日本@名無史さん
09/01/15 12:12:30
秀吉が信長の跡継ぎに幼君立てて好き勝手やった報いだ。
798:日本@名無史さん
09/01/18 23:56:44
家康が秀吉の跡継ぎに難癖つけて好き勝手やった報いは250年後ですか?
799:日本@名無史さん
09/01/19 15:48:22
秀長が生きていたら、というか。
秀長の家が存続して大藩として睨みきかせただけでだいぶ違っただろうな。
でも跡継ぎの秀保も若死。
養子騒動の時、のちの藤堂高吉が後をついでいればよかったかもしれんが。
800:日本@名無史さん
09/01/20 03:35:46
秀長と秀吉の死んだ時期が逆だったほうが状況マシだったろうなぁ。
801:日本@名無史さん
09/01/20 03:39:41
あ、単純に逆にすると鶴松が生きているから火種が出来ちゃうな。
秀次が関白になってから秀吉死亡ね。
鶴松死亡 -> 秀次関白 -> 秀吉死亡 -> 秀長が1598年まで生きて補佐
802:日本@名無史さん
09/01/20 23:24:20
>>801
> あ、単純に逆にすると鶴松が生きているから火種が出来ちゃうな。
鶴松死んだら普通に秀次が後継者だろ 他に一門であんま対抗馬居ないし
それに秀長が生きてるんだから決めてもらえばいいじゃん
803:日本@名無史さん
09/01/22 15:03:58
いっそ秀吉が存命時に家康とかを潰しておけば……。
地方に強力な勢力残した形で天下統一いそいじゃったからな。
しかもやった後は朝鮮への無謀な外征。
しかしなぜか家康らは使わず、子飼いを疲弊させただけという。
804:日本@名無史さん
09/01/22 15:12:36
なぜかって、子飼いに手柄立てさせて領地与えるためだろ。
最初っから負けるつもりで戦争はじめたんじゃないんだから。
805:日本@名無史さん
09/01/23 14:39:12
>いっそ秀吉が存命時に家康とかを潰しておけば……。
それができりゃあ、苦労は無いっちゅうことや。
806:日本@名無史さん
09/01/23 14:53:00
でも子飼いの中でも福島とかは朝鮮出兵してないんだろ?
なんでコイツは裏切ったんだろw
結局三成が嫌いってだけで家康に踊らされた馬鹿って事だろうな。
807:日本@名無史さん
09/01/23 15:09:53
福島は出兵してるぞ
808:日本@名無史さん
09/01/23 15:13:50
おね様の助言があっただろ
おねは家康とできてたからだろうが
809:日本@名無史さん
09/01/23 16:38:46
謀反人の石田治部につくか
忠臣の家康につくか
まともな家来ならば結論は明らかだな
810:日本@名無史さん
09/01/23 17:22:23
>>809
石田が勝ってたら石田は豊臣政権を潰してたと思うか?
811:日本@名無史さん
09/01/23 18:06:41
おまえまさか石田が豊臣政権潰さないとでも思い込んでるのかw
812:日本@名無史さん
09/01/24 13:07:08
ところで、当時の織田一族の面々ってどんな関係にあったの?
信高や信包の西軍加担は弾正忠家頭領の秀信の意に連動したものなのか、
東軍に付いた信雄や有楽とは織田家がどっちに付くべきか揉めて決別したのか、
それとも豊臣政権内の分国大名としてもう完全に分解されてしまっていて、
一族的な結束のないままそれぞれ個別に身の振り方を判断したのか…。
813:日本@名無史さん
09/01/24 14:03:47
家康の子孫である徳川光圀さえ、石田三成は忠臣、といっているが。
家康は大老だが、その職務に忠実だったかというと逆で率先して誓紙破りを繰り替えした上、居直り。
一方で他者の行動は厳しく監視し、前田家なんかいいがかりつけられているし。
普通ならそれこそ家康総スカンなんだが、実力と貫禄、そして老練さ(誓紙やぶりの共犯に豊臣大名引きずり込むとか)が勝ったな。
814:日本@名無史さん
09/01/24 14:27:43
>>811
お前三成が豊臣政権潰すと思ってたのかwwwwwwwww
815:日本@名無史さん
09/01/24 22:39:48
巨大な資産、力量(幻影かもしれないが)が無い以上、
石田は豊臣の権威を押し立てていくしかない。
結果的には石田を選択した方が、豊臣は潰れない。
家康が大大名を幕府の役職に付けなかったのは、反面教師。
816:日本@名無史さん
09/01/25 00:59:43
石田という選択肢は最初からない。
なぜなら石田は犯罪を犯して追放された身であり、
そもそも小身ものであって、大権を担える地位にない。
しかも人望皆無。
だからこそ毛利を担いだ。
817:日本@名無史さん
09/01/25 20:09:40
>>816
犯罪を犯して追放?
どこの架空戦記のネタだ?
818:日本@名無史さん
09/01/26 13:31:49
暗殺されかかったのに、騒動の責任を一身に負わされて体よく追放されただけだからな……。
819:日本@名無史さん
09/01/27 14:57:51
>>812
連絡取り合った形跡はないだろうなぁ。
秀信の西軍加担だって、家臣団の論争で寵臣らが西軍加担を進めた結果だし。
分裂状態だったんじゃないの?
820:日本@名無史さん
09/01/28 20:01:13
>>819
木造・百々ら家老衆は揃って西軍加担に反対だったらしいのにね。
大坂の陣の大野治長みたいな若い連中が秀信を煽ったんだろうか?>寵臣
821:日本@名無史さん
09/01/29 22:26:06
つーか、秀信が普通に戦ったら(篭城だろう常考)、もうちょっと西軍粘れた気がするの気のせい?
822:日本@名無史さん
09/01/29 23:15:00
援軍来る可能性が低く岐阜城に水の湧く井戸がない事から籠城には不向きの説もあるので粘れたと思うは気のせい。
823:日本@名無史さん
09/01/29 23:48:43
岐阜攻めに元城代の池田輝政が加わっているから、岐阜城の弱点が知られているので篭城できなかったって話が出たのはこのスレだっけ?
824:日本@名無史さん
09/01/30 06:45:39
岐阜城攻めは短時間で落ちたけど、東軍に大きな損害を与えているし、
籠城兵が30数名になるまで戦い抜いたことを考えると、秀信の評価が
低すぎると思う。
825:日本@名無史さん
09/01/30 16:19:35
局地的に頑張っても戦略に寄与できなきゃ無意味じゃ?
826:日本@名無史さん
09/01/30 16:46:37
東軍に大きな損害を与えている???????
そこのIF世界から来たのかな?
827:日本@名無史さん
09/01/30 23:36:40
数日後に宇喜田が美濃に来ているわけだし。
岐阜城が西軍を保持している状態だと東軍は本営を美濃に置けないわけで、
戦線を押し下げる事ができる。
そもそも、時間は西軍の味方(大阪城・京を保持している)でしょ。
828:日本@名無史さん
09/01/31 10:06:30
岐阜が落ちないIFだと
東軍が不利になる要素が多いのは明らか
ヘタしたら戦国に逆戻りもあり得る
829:日本@名無史さん
09/02/01 23:11:53
秀信は桶狭間の再現やりたかったのかな~…とか思ったりもするが、
米野で織田軍が取った作戦は守備的なものだし、よく分からん。
万一野戦で東軍先遣隊が壊滅したりすると、家康の戦略構想は大きく狂うけどね。
>>820
入江右近とかいう寵臣の意見だったらしいが、
どういう人物かは俺も知らないや。
830:日本@名無史さん
09/02/02 14:00:14
孤立無援の大津城でも粘られたら苦労したのにね。
なぜ岐阜城の利を捨てたのやら?
水が問題なら、そもそも欠陥城だったってこと?
831:日本@名無史さん
09/02/02 15:59:33
>>830
山城は時代遅れ
832:日本@名無史さん
09/02/02 19:27:44
岐阜城って山上部分は城というより砦と言った方が良いくらいの規模じゃね?
833:日本@名無史さん
09/02/02 20:59:08
山上部分だけを論じても無意味。
金華山全体が城なわけでねえ。
俺は実際に登ったことがあるが、けっこう険しい山だぞ。
軽装で登っても息が切れた。
アレを鎧着て戦いながら登るのは至難の業。
昔の人は体力があった、ってつくずく思ったぞ。
834:日本@名無史さん
09/02/02 21:15:25
>>833
おいおい、岐阜城は山全体が城なわけじゃないぞ。
城は山上と麓だ。
835:日本@名無史さん
09/02/03 08:10:22
いい加減、おねが三成を嫌い馬鹿おいを家康につかせた、加藤、福島なんかも
同様に味方につかせたっていつまでそんな説がまかり通ってるんだ
そもそもミッチーは自分の娘をおねの養女にしてるし仲はよかった、
浅野は家康にオヤジが人質にとられて仕方なしに東軍についただけだし
木下氏は西軍についただけだし馬鹿おいは家来の稲葉が暴走しただけ、福島加藤あたりの裏切り者が自分を正当化するため
おねの指示で東軍についたとでっち上げただけ
それとミッチーと茶々ができてるって単なる迷信、
茶々の関ヶ原でのミッチーへの冷たい態度「軍資金に一銭もだしてない」お初が東軍についた事など考えると
おねと茶々の対立という図式は成り立たんよ
ドラマ制作者はもっと文献とか調べたら?
いつまでも勝者側の立場にたった歴史感なんかくそくらえだ
836:日本@名無史さん
09/02/03 12:37:32
ドラマ制作者なら、どんな俗説使おうが別にかまわんだろ、アホか
837:日本@名無史さん
09/02/04 15:10:59
835が、あまりにひどい日本語だったので、書きなおしてあげた
いい加減、おねが三成を嫌い、馬鹿な甥を家康につかせた。
加藤、福島なんかも、おねが家康の味方につかせたって、
いつまでそんな説が、まかり通ってるんだ!
そもそも三成は、自分の娘をおねの養女にしてるし、仲は良かった。
浅野は、家康に親父が人質にとられて、仕方無く東軍についただけだし、
木下氏は西軍についただけだし、小早川秀秋は、家来の稲葉が暴走しただけ。
福島・加藤あたりの裏切り者が、自分を正当化するため、おねの指示で
東軍についたと、でっち上げただけ
それと三成と茶々ができてるって、単なる迷信、
茶々の、関ヶ原での三成への冷たい態度
「軍資金に一銭もだしてない」
お初が東軍についた事、などを考えると。
おねと茶々の対立という図式は、成り立たんよ
ドラマ制作者はもっと文献とか調べたら?
いつまでも勝者側の立場にたった歴史感なんかくそくらえだ
書き直したけど、内容は意味が無いものだった。
838:日本@名無史さん
09/02/07 14:32:33
小栗旬じゃ家康に勝てそうにないなぁw・・・
839:日本@名無史さん
09/02/07 18:00:50
たかが2chのためにあらかじめメモ書きして丁寧に書き込みなんてしない
自分のおもてる事をそのまま書き込みしてるだけ
大きなお世話だ
インテリぶるなよ たかが2chされど2chに、、
ただあまりにも勝者側の都合にできてる歴史感にはウンザリする
840:日本@名無史さん
09/02/08 23:56:08
>>832>>833>>834
岐阜城を特別に評価しすぎだ。
他の守護大名の居城と同じく、平時は山麓の館で暮らしていたんだよ。
朝倉氏も六角氏も若狭武田氏も同じ。
水もない不便な山上で暮らすわけないじゃない。
砦・陣城・山城には戦の時だけ登る。
極論すれば安土城も同じだ。
841:日本@名無史さん
09/02/09 01:45:22
そんなことねーよ。
842:日本@名無史さん
09/02/09 08:34:11
>>840
守護大名の居城としてじゃなくて、関ヶ原時の織豊大名の居城としての話をしてるんじゃないの?
ちなみに観音寺城や安土城は重臣屋敷を山上にあげてたよ。
本当に住んでたどうかは知らないけど。
843:日本@名無史さん
09/02/09 15:08:18
七尾城とか後瀬山城なんかも山中屋敷だらけだったような。
近世山城だと高取城なんかも。
金華山は地形の制約がきつすぎて山の上にたいした城郭を築けない。
地形は優れていても城郭が大したことないから総合力も小さくなってしまう。
844:日本@名無史さん
09/02/09 18:52:56
岐阜城の防御力だけを論じてどうするよ。
この場合、大垣からの後詰を期待できる秀信は城に寄って戦うべきだったでFAだろうが。
845:日本@名無史さん
09/02/09 19:11:36
???
あまりにもあっさり落ちたから防御力はどうだったのか、と言う話になってんだろ。
わけのわからんFA(笑)とか出してんじゃねーよ。
846:日本@名無史さん
09/02/09 19:39:57
大垣からの後詰は期待できないのと長期籠城が困難なのと、
籠城するにも一戦してからと言う判断じゃないのか?
つか東軍が尾張入っても岐阜に一向に援軍が来なかった(東軍が来ると思ってなく、
福島などが敵対すると思いもしなくて、三成には援軍を送る余裕どころかパニック状態)のが大きいだろね
847:日本@名無史さん
09/02/09 20:16:33
当時の岐阜城の評価ってどうだったの?
西軍としても、岐阜城が堅城ならば、体勢が整ってから後詰め決戦すれば良いと思ってたんじゃね?
848:日本@名無史さん
09/02/09 23:47:26
最初から城の攻略法を知っている東軍に対して篭城すること自体が無謀
849:日本@名無史さん
09/02/10 00:47:16
小栗旬は安倍ちゃんのオナペット
だったんだろ。家康は本多だっけ?
850:日本@名無史さん
09/02/10 00:58:02
安倍ちゃんは妻だった。間違い
小栗も正常だったんだなぁ。
851:日本@名無史さん
09/02/10 07:01:17
>>848
寄せ手が攻略法知ってたからといって簡単に落ちる城は欠陥城
852:日本@名無史さん
09/02/10 09:47:00
実際簡単に落ちたから欠陥城だったんじゃね?
その後廃城になったし。
853:日本@名無史さん
09/02/10 10:23:10
鉄砲普及後の山城というのは曲輪が小さく狭いため、端から端まで火力範囲に入るため
容易に制圧されてしまうとされる
854:日本@名無史さん
09/02/10 13:37:48
長谷堂城は山城でも耐えたんだよなぁ。
わざわざ街道沿いの小さな城に篭った上田城、篭城側がかなり耐えた大津城、
田辺城は平城、もしくは平山城だけど。
855:日本@名無史さん
09/02/10 15:05:39
>>853
曲輪が小さく狭かったら、上の曲輪から鉄砲狙い放題だよ。
いわば枡形虎口みたいなものだ。
856:日本@名無史さん
09/02/10 16:52:45
山城と言っても麓にしっかりとした曲輪が築かれていることも多いが、
岐阜城はどうだったんだろう?
御殿の発掘の話はしばしば聞くが、麓の縄張りのことはあまり話題にならないね。
たいしたことなかったのかなあ。
857:日本@名無史さん
09/02/10 17:32:50
>>855
枡形虎口は狭い門から入った突撃兵を殲滅するもので、
撃ち合いするものではない
それに曲輪を挟んで撃ち合うという事は線と線だから
点と三方の枡形虎口とは異なる
858:日本@名無史さん
09/02/10 17:41:11
>>856
あった
「美濃雑事紀」にこうある
「因幡山古城の総構、今に所々存在す。土居構大概長さ十八町計り、東は丸山より西は忠節村の口迄、
土居外は長良川也。西南は上ヶ門口より白木町山際迄、土居外に総掘あり。長さ五町余、堀幅九間より
五六間迄。但し町方は土居の限りこれ有り候えども何と無く、百姓埋め出し、狭まり申すと見えたり」
859:日本@名無史さん
09/02/10 18:03:06
>>857
上の曲輪から下の曲輪を撃つのを撃ち合い、と呼べるだろうか?
それが撃ち合いならば枡形でも撃ち合いは可能。
860:日本@名無史さん
09/02/10 18:24:08
岐阜城
URLリンク(www.geocities.co.jp)
URLリンク(csx.jp)
麓や総構はよくわからんね
861:日本@名無史さん
09/02/10 19:09:34
>>860
なんかしょぼいなw
862:日本@名無史さん
09/02/10 19:38:03
『中世城郭研究』第4号で発表された池田誠氏の「織豊系城郭としての岐阜城」という論文を一読されたし
863:日本@名無史さん
09/02/10 20:32:23
>>859
言える
枡形の一の門からでは門に数人と三方から数十人。数倍の戦力差だから
撃ち合いとは言いにくい
864:日本@名無史さん
09/02/10 20:39:33
>>863
下の曲輪の門に数人と上の曲輪から数十人。数倍の戦力差だから
撃ち合いとは言いにくいな
865:日本@名無史さん
09/02/11 00:51:30
>>864
門ではなくて曲輪の山裾側全面からと上の曲輪の山裾側全面の
撃ち合い
866:日本@名無史さん
09/02/11 09:18:23
>>865
>>853説だと山城の曲輪は狭くて端から端まで鉄砲の射程に入ってしまい、容易に制圧できるそうだ。
よって下の曲輪に侵入した敵兵は侵入したとたん上の曲輪の射程に入ってしまい、蜂の巣にされる。
というか、そもそも下の曲輪すら占領できないと思うんだけどね。下の曲輪の門にたどり着いたとたん
下の曲輪の兵に蜂の巣にされちゃうわけだから。
867:日本@名無史さん
09/02/11 10:42:11
>>866
853は当時の鉄砲の精度、威力の実態を知らないんだろ。
火制下での無防備な行動が看過し得ないレベルにまで火力が高まるのは
南北戦争になってからだよ。
868:日本@名無史さん
09/02/11 11:44:19
>>866
山城は大規模な堀を造れないので、門だけでなく他の個所からも侵入が可能
869:日本@名無史さん
09/02/11 14:16:19
そもそも先頭に立って侵入してくる奴らは鉄砲なんか持っていないわけだがw
870:日本@名無史さん
09/02/11 14:31:40
>>869
先ず、鉄砲足軽で制圧した後に、侍が突撃ではなかったっけ?
871:日本@名無史さん
09/02/11 15:24:20
足軽たちが連射きかない火縄銃担いで敵の曲輪に突撃するの??
872:日本@名無史さん
09/02/11 17:10:50
曲輪の端から撃つと言わなかったかな???
873:日本@名無史さん
09/02/11 17:41:02
どうやって曲輪の端まで到達するんだよw
籠城側だって門開けて待っててくれる訳じゃないんだぞw
874:日本@名無史さん
09/02/11 17:57:10
>>873
山城なら山裾から近接すればいいんじゃない
別に門に兵力を集中させずに曲輪の土塁線の任意の場所から攻めても良い
近世以降の平城・平山城は堀も大きくて難渋するだろうが、中世の山城、
特に尾根沿いに造成するものは容易に制圧される
875:日本@名無史さん
09/02/11 18:20:06
>>874
何のために山に城つくってるか分かってないのか?
山の斜面は登りにくいからだよw
斜面の上には城壁があって、守る方が有利なんだよw
マタギじゃあるまいし、鉄砲みたいな扱いにくい兵器持って斜面よじ登ってたら
それこそ城方の鉄砲のいい的だろw
876:日本@名無史さん
09/02/11 18:26:51
>>875
山城の土塁は登りにくい、でも石垣より簡単
斜面の上には城壁がある、でも土塁なので犬走りがあって越え易い
斜面の下から打ち上げて、最初の曲輪の前縁を潰し、占拠
以後はそこから曲輪全体から上の郭前縁まで射程に入る
877:日本@名無史さん
09/02/11 18:44:11
>>876
土塁より問題なのは斜面。
鉄砲片手によじ登ってもただの的w
斜面の上の城壁を越えるにはハシゴなり何なり掛ける必要があるが、
これがまた難しい。
山城なんだから当然山の上にあるわけで、斜面の下からなんか鉄砲がとどくわけないw
足場の悪い斜面の途中で射撃、弾込めを繰り返すことになるが、
城方は足場の良い上の曲輪から城壁に守られながら撃つわけで、圧倒的に有利w
しかも上から打ち下ろす方が射程も命中率も高いw
最初の曲輪の前縁を潰す前に味方の前縁が壊滅だわw
878:日本@名無史さん
09/02/11 20:23:38
>>877
これについてはこれ以上は久保田正志の
「日本の軍事革命」を読んでください
鉄砲による山城の弱体化について説明してます
ここでは
「鉄砲の普及により山城の坑堪力の低下が顕著となり、従来型の山城は
次第に淘汰され、新規築城においては「水の障害」により攻撃側との間合
いを取ることが最重要となった。」
とあります。
つまり鉄砲の射程により間合いが取れない小さな郭が主体の山城は
弱くなったという事ですな
879:日本@名無史さん
09/02/11 20:39:14
>久保田正志
誰?
880:日本@名無史さん
09/02/11 20:42:55
>>879
「軍事史学」に寄稿している人
西洋の軍事革命と日本の戦国時代を比較して、その相違点を考察している
軍事史という観点から戦国時代を俯瞰している点でトップに位置する
URLリンク(www5a.biglobe.ne.jp)
881:日本@名無史さん
09/02/11 21:05:40
>特定非営利活動法人城塞史跡協会理事長
882:日本@名無史さん
09/02/11 21:39:01
久保田は冷徹なようでいて少しものの見方が偏ってるんだよな。
崇拝者は絶対視しすぎ。
883:日本@名無史さん
09/02/11 21:42:02
>>882
確かに多少違わないかなと思う点はあるが、
それでも十分評価に値する
というより、軍事史的観点から書いた本と言うだけで
十分すぎる、
884:日本@名無史さん
09/02/11 21:49:46
上で出てきた鉄砲隊が城を落として武者たちはそのあとをついてきたとか、
鉄砲隊が山をよじ登って城を攻め落としたとかいうのはその久保田とか言う人の説なの?
885:日本@名無史さん
09/02/11 22:12:09
火器の登場で築城法が大きく変わったのは周知の事実。
886:日本@名無史さん
09/02/12 07:41:10
火器よりも大名の強大化の方が要因だろう。
ちんけな山城なんかに籠もってらんないという。
攻守双方とも火器を備えていれば、城に拠ってる方が
圧倒的有利なのは変わらないわけだから。
887:日本@名無史さん
09/02/12 11:53:57
>>884
その辺り、山城の郭は狭いので郭の裾側からの射撃が上の郭までを射程に入れるや、
土居や切岸には死角が生じるというのは樋口隆晴の論
888:日本@名無史さん
09/02/12 11:56:16
>>896
それはどちらかというより、どっちもでしょうよ
889:日本@名無史さん
09/02/12 12:30:57
郭が狭いのはむしろ寄せ手に不利に働くよ。
兵力に任せて強襲しにくくなるわけだがら。
890:日本@名無史さん
09/02/12 12:47:24
>>889
逆じゃない?守備側も郭が小さいと籠る兵が少なくなるから
大兵力が動員できる時代は広い方が有利でしょう
891:日本@名無史さん
09/02/12 16:06:36
東軍が赤坂にいる時に、なんで西軍は大垣城から総攻撃しなかったんだよ。
892:日本@名無史さん
09/02/12 17:12:24
>>890
上の曲輪を取るのに後続の兵が分断されて大兵力を動員できなくなる。
鉄砲の射程が曲輪の端から端まで入る云々の議論で言うならば、
攻め方は枡形に閉じこめられるのと同じことに。
893:日本@名無史さん
09/02/12 17:54:55
>>892
枡形は門から門しか通れないが、山城の郭と郭はその接した面、全てを
通れる
894:日本@名無史さん
09/02/12 18:38:14
>>891
三成は一戦したかったけど、
南宮山の連中がやる気がなくて、
もたもたしている内に家康が来ちゃった。
895:日本@名無史さん
09/02/12 18:52:00
>>891
家康が来るとは思ってなかったので、もっと軍勢や資金集めてから戦う気だったから
896:日本@名無史さん
09/02/12 20:03:12
>>893
>山城の郭と郭はその接した面、全てを
>通れる
ならば
枡形もその接した面、全てを
通れる
897:日本@名無史さん
09/02/12 20:12:14
実際に岐阜城に登ったことがないとしか思えない書き込みがあるな。
898:日本@名無史さん
09/02/12 20:39:11
>>891
東軍が水攻めをするという情報があり、出るに出れなかったという
話を聞いたことがあるけど?
899:日本@名無史さん
09/02/12 20:39:54
>>896
三方囲まれてるけどね
900:日本@名無史さん
09/02/13 11:28:05
>>898
西軍は大垣城で篭城戦に持ち込みたかったんじゃね?
水攻め上等じゃん。
だいたい大垣城は地理的に水攻めにびびる土地じゃない。
500人くらい赤坂に送って挑発すればよかったんだよ。
徒歩1時間くらいの距離だし。
そもそも、東軍に揖斐川を渡らせたのがまず失敗だけど。
関ヶ原じゃなくて揖斐川で決戦して欲しかったな。
901:日本@名無史さん
09/02/13 13:36:51
大垣は低地の輪中だから水攻めされたらビビリまくりだよ。
本丸は二の丸はちょっと高いけど、大軍を収容するにはあまりにも狭い。
もっともまわり一帯低地過ぎて工事が大変というのもある。
西軍も戦力では遜色ないからむざむざ工事を完成されないだろうし。
902:日本@名無史さん
09/02/13 16:04:40
城まで水を流そうとしたら揖斐川の水を引いてこなきゃならん。
903:日本@名無史さん
09/02/13 16:05:44
そんなの数週間かかるぞ。
904:日本@名無史さん
09/02/13 17:33:36
あたりまえだろw
905:日本@名無史さん
09/02/13 18:05:08
一週間もあればできるよ。
906:日本@名無史さん
09/02/13 18:52:50
ここは家康の書状の大垣水攻めの内容すら知らない連中ばかり。
907:日本@名無史さん
09/02/13 19:23:54
家康の水攻め作戦は南宮山に西軍が布陣したことにより不可能になりました。
908:日本@名無史さん
09/02/13 23:14:24
水攻めが不可能になったというよりは、西軍が大垣城を放棄して逃げたから攻める必要が無くなったということだ。
909:日本@名無史さん
09/02/14 11:33:00
西軍は大垣放棄してないし、それ以前に家康は水攻めを実行すらしてない訳だが。
910:日本@名無史さん
09/02/14 18:05:11
江戸を出る時は水攻めしようと思ってたのに、
美濃に着いてみたら南宮山に西軍が布陣してて
後詰めの態勢ができてたから
あきらめておびき出し作戦に変えたんだろ。
911:日本@名無史さん
09/02/14 19:13:51
南宮山を水攻めにして後詰めに来る大垣勢をおびき出せば良かった。
912:日本@名無史さん
09/02/14 21:22:00
誘き出しの意味不明
913:日本@名無史さん
09/02/14 21:23:06
誰も家康書状の内容すら知らん無知だから、水攻めの話すら滅茶苦茶だな(笑
914:日本@名無史さん
09/02/14 21:44:08
でもお前は秀忠の書状の内容を知らないだろ(笑
915:日本@名無史さん
09/02/14 22:13:44
>>878
思うに・・・城とか要塞の防御機能には、
①防御施設や高所の利で、攻撃側に不利な交換比での損失を強いる機能
②隘路や堀などで、攻撃側の戦力発揮を妨げる機能
(なるべく戦闘を低調に済ませる機能)
の2種類があって、鉄砲の普及によって、
山城は②の機能を失ってしまったのではないか?
>>875の言うように、
山城には依然として①の優位があるのだろう。
しかしそれで攻撃側に3倍の損害を強要できたとしても、
20倍の敵に強襲されて3日で陥落しては意味がない(場合がある)。
それよりは小競り合いを続けて3ヶ月持ちこたえてくれた方がいい・・・
てことじゃない?
916:日本@名無史さん
09/02/14 23:21:33
>>915
山城の攻め口はたいていの場合まさに隘路なわけだが。
鉄砲が山肌をよじ登るのに便利な兵器だというのならば話は別だけど。
小豪族の城・・・もともと小規模で落ちやすい、守り重視で統治に不向き
大大名の城・・・地形に依存しなくても十分堅固な大城郭、統治に便利な交通の要衝
917:日本@名無史さん
09/02/14 23:52:31
山城は堀が狭くなる
918:日本@名無史さん
09/02/15 08:03:46
>>917
・もともと攻め口が狭い
・そもそも中世城郭は堀が狭い
919:日本@名無史さん
09/02/15 11:04:18
>>916の言うように「山城」が駄目なんじゃなくて「ショボイ山城」が駄目なんだろ。
というか、ショボイ平城や平山城ももちろん駄目なんだろうけど。
近世になっても山城や山城的な平山城は築かれてるよ。
仙台鳥取長州薩摩と言った雄藩でも山に城を作ってるくらいだ。
ちなみに山城の防御力が弱いと言うのならば「詰めの城」の意味がなくなってしまう。
詰めの城落とされて麓に逆落としに攻められたら洒落にならんからな。
920:日本@名無史さん
09/02/15 11:11:54
近世山城は水で周辺を隔絶されたタイプが殆どで
従来の尾根利用型とは異なるというのが久保田氏の論だった様な
921:日本@名無史さん
09/02/15 11:49:48
川や海をなるべく利用しようとするのは中世山城も同じだし、
近世山城になっても山を隔絶しちゃうのは極めて困難。
平山城ならば珍しくないが。
922:日本@名無史さん
09/02/15 12:59:44
平山城と山城を混同してるなー
923:日本@名無史さん
09/02/15 16:42:36
城壁の防御力っちゅうのは、運用しだいなんだわな。
万里の長城を見れば一目瞭然。
城壁だけあっても、適切な運用が出来なければ結局は役に立たんわけよ。
924:日本@名無史さん
09/02/15 18:27:45
>近世山城は水で周辺を隔絶されたタイプ
そんな近世山城あるか?
925:日本@名無史さん
09/02/15 19:11:10
敢えて言うなら萩城(の詰めの丸)くらい?
海に突き出した山で、陸とつながってる部分は水堀があるから。
でもあれは水で隔離された山城というより平城+詰めの城だわな。
もともと吉見氏の支城、すなわち中世山城だったと思うけど。
926:日本@名無史さん
09/02/15 21:43:11
>>920
水で周辺を隔絶できたのは平城、平山城だろう。
その久保田とかいう人が何者か知らんが、トンデモ説に騙されるなよ。
それから従来の尾根利用型ってなんだ?中世山城=尾根利用型山城ではないぞ。
927:日本@名無史さん
09/02/15 22:39:49
URLリンク(www.kinseisha.jp)
>926
東大戦史研究会第三代会長という経歴が微妙すぎ……
928:日本@名無史さん
09/02/15 22:47:21
射撃戦を考慮すると突出部が弱点になるから、
縄張りは円形とか多角形に近い方がいいんじゃないの?
(横矢用の突き出しとか西洋の突角堡とか、意図的にしたものを除いて)
でも、山城の場合、つきだした尾根の部分が孤立して
どうしても弱点になっちゃうとか。
もちろんそれを認識して防備を強化するんだろうけど。
929:日本@名無史さん
09/02/15 23:42:55
久保田 正志(くぼた まさし)
著者略歴
昭和38年 東京生
昭和63年 東京大学法学部卒業
在学中東京大学戦史研究会所属、同会第三代会長
平成9年 東京大学大学院法学政治学研究科修士課程修了
法学修士
現 在 特定非営利活動法人城塞史跡協会理事長
戦史だったら法学政治学じゃなくて史学とちゃう?
ひょっとして学部時代趣味でやってた戦史を院出た後もライフワークにしてる素人さん?
930:日本@名無史さん
09/02/15 23:59:41
>>929
> 戦史だったら法学政治学じゃなくて史学とちゃう?
> ひょっとして学部時代趣味でやってた戦史を院出た後もライフワークにしてる素人さん?
まあそうだね。歴史群像にもアマチュア研究家と書いてたよ。
でも軍事史学会に属して論文を寄稿して、
出版に際しては東大の史学教授にレビューを受けたとあるので、
素人という表現は違うと思うが。
あと、院には別に戦史研究のために入った訳じゃないはず。
しかしながら・・・主張の是非を肩書きで判断するというのは、ちょっと微妙ではないか?
ましてここは、そういう肩書きを外した匿名掲示板なのに。
931:日本@名無史さん
09/02/16 00:04:57
920 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 2009/02/15(日) 11:11:54
近世山城は水で周辺を隔絶されたタイプが殆どで
従来の尾根利用型とは異なるというのが久保田氏の論だった様な
924 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 2009/02/15(日) 18:27:45
>近世山城は水で周辺を隔絶されたタイプ
そんな近世山城あるか?
926 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 2009/02/15(日) 21:43:11
>>920
水で周辺を隔絶できたのは平城、平山城だろう。
その久保田とかいう人が何者か知らんが、トンデモ説に騙されるなよ。
それから従来の尾根利用型ってなんだ?中世山城=尾根利用型山城ではないぞ。
932:日本@名無史さん
09/02/16 00:16:05
>>929
史学科原理主義かよ。いかにも史学科の学生や院生みたいなな発想だな。
いい加減、史学科出てなけりゃ「素人」呼ばわりで一蹴するような発想はやめろや。
経済学部や法学部でも歴史的な勉強してる人はいるんだし。
933:日本@名無史さん
09/02/16 00:26:39
>>932
はい?肩書きだけでなく肝心な内容も駄目なわけだが・・・。
934:日本@名無史さん
09/02/16 00:30:29
>>933
だったらそんなに肩書きを気にすることもなかろうよ。
主張の間違いを指摘すれば足りる。
935:日本@名無史さん
09/02/16 00:35:34
>>934
>>931
というか、文句があるんなら盛んに久保田の名前出してる奴に言えよw
936:日本@名無史さん
09/02/16 03:33:17
もう久保田は井伊って・・・。
937:日本@名無史さん
09/02/16 11:00:08
とりあえず、買ったら…
伝聞だけで判断するのは、問題
938:日本@名無史さん
09/02/16 12:23:57
とにかく赤坂に総攻撃をかけるべきだった。
東軍も水攻めしかけるほど圧倒的な数じゃなかったんだろ?
939:日本@名無史さん
09/02/16 14:38:44
だから~
水攻めするような場所じゃないってば。
940:日本@名無史さん
09/02/16 19:20:31
>>936
同じく、久保田は秋田。
941:日本@名無史さん
09/02/16 20:13:17
うまいなw
942:日本@名無史さん
09/02/20 23:57:48
ところで上の方で名前が出てた織田信高だが、
彼が西軍で黄母衣衆と共に関ヶ原本戦に参加していたのは確定なの?
wikipediaの記述にはこうあるようだが
URLリンク(ja.wikipedia.org)
>『寛政重修諸家譜』によれば、1600年の関ヶ原の戦いに際し、
>弟信貞と共に東軍を支持したものの、本戦に間に合わず、
>凱旋中の徳川家康に拝謁したという。
>しかし、『関原軍記大成』などでは、弟の信吉・信貞らとともに西軍に属し、
>戦後に謝罪、赦免されたという。おそらくは後者が正しく、
>弟信吉と同様に西軍に所属し、失領したものと思われる。
>もっとも、本戦に参加したという記録はない。
943:日本@名無史さん
09/02/21 00:15:40
wikiとかまるで話にならん
寛政重修諸家譜はもとよより自家の宣伝用だし関原軍記大成はその家譜などを参考にした講談本だしな
944:日本@名無史さん
09/02/21 00:28:45
だが、それより信憑性のある史料がないと、反論にすらならないよ
945:日本@名無史さん
09/02/21 00:35:37
戦後、失領していることからして西軍加担は疑いなし。
946:日本@名無史さん
09/02/21 10:35:03
>しかし、『関原軍記大成』などでは、弟の信吉・信貞らとともに西軍に属し、
>戦後に謝罪、赦免されたという。
取り敢えずこれの該当箇所探してるんだが、どこ?