謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!16at HISTORY
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!16 - 暇つぶし2ch200:愛知県民
08/04/20 12:28:17
宝賀寿男氏のページより。
祇園山古墳(墳丘墓)は、久留米市の高良大社の麓の西へ延びる丘陵部最先端にある「方墳」とされる墓である。
基部の一辺が約二三~二四M(一に二四~二五M)という不整形であり、もとの高さが推計約五~六Mで、九州ではきわめて稀な葺石を二段にもつ。
その墳頂部にあるひときわ巨大な箱式石棺(内法長約二M、幅約七五CM)が内部主体となっていて、明確に槨がない。
かって盗掘があって、その遺物は全く散逸しているが、棺内及び蓋裏全体には朱(赤色顔料)の塗布が見られる。
墳裾の外周地域で調査された範囲からは、六二基(甕棺3、石蓋土壙32、箱式石棺7、竪穴式石室13、構造不明7)にも及ぶ小型埋葬施設が検出されて、
第一号甕棺からは成人女性の人骨や鏡片・勾玉・管玉・刀子も出土しており、墳裾の各所から古式土師器・須恵器等が出土した。
副葬された鏡については、墳裾の第一号甕棺内に後漢鏡とされる画文帯神獣鏡片が残るだけであったが、
当墳から出土したと伝える三角縁神獣鏡・変型方格規矩鏡が近くの高良大社に所蔵される。以上のようなところが、その概略といえよう。

201:日本@名無史さん
08/04/20 12:29:56
荒れてるね
退散

202:神奈川県民 ◆sjgeZLFR/I
08/04/20 12:51:09
>>195-6
>>198-9
最後通牒です。荒らすな。
今度荒らしたら、ただではすまない。

203:神奈川県民
08/04/20 12:53:43
>>202

ヨソへ行って下さい!

わたしが終止符をやっている神奈川県民です。



204:愛知県民
08/04/20 12:59:38
>>200 続き
こうした事情からみて、筑後地区最古の大型古墳とも弥生終末期の墳丘墓ともいわれてきており、その築造時期については、
早い見方で三世紀代、あるいは三世紀末、遅いもので四世紀初頭頃とか四世紀後半とされるなど、諸説が出されている。
森浩一氏は、「その甕棺の型式や少量の副葬品からみると、顕著な古墳としてはひじょうに古く、弥生時代の末の様相をのこしているようである」とみている。
墳裾の多数の小型埋葬施設については、共同体墓所とみる見解もあり、
その場合、古式須恵器を出土した竪穴式石室以外は、方墳を中心に順次作られたと考えられている(渡辺正気氏)。
これに対し、森氏は、「陪葬的なものか、それともまだ弥生以来の共同墓が伝統をのこしながら、首長の墓だけ高塚を築いたのか、
いずれにしても重要な問題をなげかけている」と記述する。
こうした事情から見て、主体部以外の墓のなかには一部後世のものもあるかもしれないが、主体部に一つだけ巨大石棺があり、
その墳裾外周という位置には多数の小型墓があるという状況からみて、共同体墓所という見方は疑問である。
むしろ、大半は同時の埋葬(すなわち、殉葬)ではなかろうか、と私には考えられる。

205:日本@名無史さん
08/04/20 13:00:20
キチガイの「神奈川県民 ◆sjgeZLFR/I」は、
何で人の固定ハンドル使って、トリップまで勝手に付けて調子こいてるの?

206:日本@名無史さん
08/04/20 13:06:54
「荒らすな。俺が本当のスレ主だ」
「おまえこそ荒らすな。俺こそが本当のスレ主だ」
「なにを言う。俺こそ・・・・・・」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この繰り返しで1000まで行くのか・・・・・・・ww

207:日本@名無史さん
08/04/20 13:10:08
偽物が指弾されて困るのは偽者だけだけどなw

208:神奈川県民
08/04/20 13:19:23
以後、関係ない話は控えてもらいます。


卑弥呼、邪馬台国またはそれに関係する古代史について、
御自由にどうぞ!



209:日本@名無史さん
08/04/20 13:21:21
監視中

210:愛知県民
08/04/20 13:25:54
あのー、祇園山古墳(墳丘墓)の情報を出しているのですが、議論する雰囲気ではないのかな?
特に畿内説のローガン氏の意見を聴きたいですね。
氏は以前は九州説だったが、「遺跡が無いから」畿内説になったと聞いています。
祇園山古墳はどうですか?

211:神奈川県民
08/04/20 13:26:20
>>209
スレ違い



ヨソで遊んでなさい!!


212:神奈川県民
08/04/20 13:30:29
畿内説のローガンさんいるんですか?

卑弥呼=祇園山古墳説 わたしもこの遺跡はあまり詳しくは知らなかったが、
結構な支持者がいると聞きました。

そして、ローガンさんは元々九州説だったとははじめて聞きましたよ。


213:日本@名無史さん
08/04/20 13:33:23
殉葬があったかもしれないが、祇園山は100歩もない。小さい。
よって卑弥呼の墓ではない。

糸冬 了

214:愛知県民
08/04/20 13:37:28
>>212
ローガン氏の昔のレスです。

793 :ローガン:2008/01/03(木) 00:48:49
>>785
早速のレスありがとう。
736で伊都国から邪馬台国まで水行なら十日陸行なら一月…とありました。
それはおかしいと言う意味のレスだったのですよ。


そうです。最初から東ありきはおかしいですね。とりあえず「南」と書いているのですから。
南を探したんですよ。これでも以前は九州説支持だったもので…
でも遺跡が無いのですよ邪馬台国時代の。

215:神奈川県民
08/04/20 13:40:09
>177
>高良大社(こうらたいしゃ)は、福岡県久留米市の高良山にある神社。
>古くは高良玉垂命神社、高良玉垂宮などとも呼ばれた。
>ご祭神論争でも有名で、武内宿禰説や藤大臣説、月神説など諸説ある。
>古えより筑後の国魂として仰がれ、厄除け・延命長寿・現代では交通安全のご利益でも名高い。
>また芸能の神としての信仰もある。

古代史本の著者である、関 祐二もここ高良大社に注目してる。


216:愛知県民
08/04/20 13:41:16
>>213
「卑弥呼の墓ではない」糸冬 了ではなくて、貴方は何処と考えているのか書いてくれると嬉しいのですが・・・
箸墓ですか?


217:日本@名無史さん
08/04/20 13:44:07
神功皇后説

熊襲の女酋説

筑紫君の祖、甕依姫(みかよりひめ)説

倭姫命(やまとひめのみこと)説

ヤマトトトヒモモソヒメノミコト説

卑弥呼=下照姫説

アマテラス=卑弥呼説

日女命(ひめみこと)説

卑弥呼=卑弥呼説

さて、どの女性が有力なんでしょう?

218:神奈川県民
08/04/20 13:45:57
謎の文献「倭人伝」

邪馬台国問題については、
たいていのことは誰かによってすでに唱えられてるとさえ言われてる。

しかし邪馬台国の位置決定するのに、この謎の文献 倭人伝の行程記事には
悩まされてきた事だろう。

しかし誰かが解かねばなるまいと思う。

219:九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y
08/04/20 13:49:00

部分的ではあるが、僕も賛同者。

祇園山古墳墓は、
宝賀寿男氏の主張するところの卑弥呼の墓かどうかはわからないが、
卑弥呼以降の邪馬壹國の王墓であることには同意。

220:日本@名無史さん
08/04/20 13:52:24
大きさからすれば箸墓は候補にはなる

祇園山、平原1号では候補にならない。
100余歩がウソだというのであれば別だが。
しかしそれならウソだという論証をしなければならない

宇佐亀山は大きいが自然丘陵なので候補にもならない
百体神社の百体とは合祀などで祭神100を祀るという意味だろう
類例は多い

221:三重県民
08/04/20 13:52:49
>>219
>卑弥呼以降の邪馬壹國の王墓であることには同意。

九州王朝とどこで関わっていると判断したのでしょうか?
その判断となったものが聞きたいです。


222:愛知県民
08/04/20 13:56:45
>>219
王朝さん、お久しぶりです。
私は九州王朝説には懐疑的なのですが、王朝説の支持者も多いみたいですね。
初歩的な質問で申し訳ないですが、九州王朝説=古田武彦氏説と考えてよいのですか?

223:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/04/20 14:06:49
日程を全部引き伸ばした糸曲線の考えでやってるのが失敗の元。大陸半島から
渡海して対馬等を通り、北九州上陸までは大陸人半島人も道をよく知ってるので
そういう一本線的見方でいいが、それから女王国のある奥九州のほうは未知の
世界だから、倭人伝はそんな一本線的案内の記述はしてはいない。

北九州に来てこれから南の九州内奥のほうに何があるか? それともある程度
かすかな女王国の情報を得て、以後準密林の奥地を右往左往さまよいながら探検
して危険な山奥を放浪して日を重ねた。疲労困憊した日々のうちのある日のこと、
突然森林の前方が開けてすばらしい木造建築群のある国が目に映った。狂喜して
そこの住民と会い、手まねで話を重ねてそこが女王卑弥呼が統治する邪馬壹国と
いう所だということが次第に分かってきた。さらに興味を持ち観光を兼ねながら
女王国の中をいろいろ観て周り、女王国の実態を把握することが出来た。そこで
一定日時の間、滞在の後女王国を離れ、帰途についたが、道に迷っていたこと
だし、1回の到達で北九州から女王国への道筋は明確には説明することは容易で
ないことだった。そういう状況だから陸行一月はかかってもおかしくはなく、
さらにゆっくり観光したければ、二月三月でもいていられる。伝のここの記述に
おかしい点はまるでない。

224:日本@名無史さん
08/04/20 14:07:55
>>220
貴方の考える『100余歩』をお願いします。

そして、なぜ箸墓が最有力なの?


225:愛知県民
08/04/20 14:12:05
>>220
>大きさからすれば箸墓は候補にはなる

微妙な表現ですね。箸墓は前方後円墳ですが、形がネックですかね。殉葬もないし。
百余歩を百五十メートルと考えると、該当する円墳・方墳は日本に無いという問題もあります。
箸墓が本来は円墳で、のち方形部分が追加されたとみる見解は、渡り堤など最近の発掘調査などから否定されています。
箸墓は違うでしょうね。


226:三重県民
08/04/20 14:22:57
>>223
>それともある程度かすかな女王国の情報を得て、以後準密林の奥地を右往左往さまよいながら
>探検して危険な山奥を放浪して日を重ねた。

わたしの考えでは魏の使いのものは伊都國まで。貴方も同じということ?
もし、その奥まで行こうとするならば倭人の案内はなかったといえるのか?

>労困憊した日々のうちのある日のこと、
>突然森林の前方が開けてすばらしい木造建築群のある国が目に映った。
>狂喜してそこの住民と会い、手まねで話を重ねてそこが女王卑弥呼が統治する邪馬壹国と
>いう所だということが次第に分かってきた

何を言ってるんですか。
魏の使いの目的はなにか?を考えればその解釈はおかしいと思います。
「不思議の国のアルプル少女」の話やないんだから。

227:三重県民
08/04/20 14:27:39
>>223 太国さん

投馬國についてはどのように捉えてるんですか?

至投馬國 水行二十日

邪馬台国と合わせて2か月もさまよい続けたとおっしゃるのでょうか?

倭人の案内なしに?!

228:愛知県民
08/04/20 14:32:02
>「不思議の国のアルプル少女」
三重県民さん、おもしろいですね。
「不思議の国のアリス」と「アルプスの少女」のコラボですか?
すいません、揚げ足取りで。

229:三重県民
08/04/20 14:36:10
わたしはあまりマンガは観ないのではよく知らないんですよ(笑)

コラボですんません~w

230:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/04/20 14:36:47
>>226
案内がいたかどうかは分からんよ。行ったことのあまりない他国へは
案内人がいれば確かに早くは着くだろう。しかし観光地でゆっくり
して多泊し国内を見物すれば一月はかかってもおかしくはない。

探検結果だよ。そうでないなら、それ以前に女王国へ行った奴のこと
のほうを書けばいいことだ。そうなるとそいつも女王国は初回
だろうが。w

だから1800年代だったか、西欧人のマヤの奥地探検のようなものさ。
危険な行ったことのない土地を旅行するのは薮蛇同然。危険箇所は
地理的状況、山賊とかの人的状況他、そういうことを考えると陸行
一月には矛盾はない。

今の公務員も視察を兼ねての旅行気分で行く連中は多い。表はそう
いう官吏の仕事の為だが、裏は観光目的だったということは類例が
うんとだろう。目的が違うなんてお前は人生経験未熟じゃないのか?w

231:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/04/20 14:42:20
>>227
水行二十日だっておかしくはないだろう。そこんところは海岸地域
を滞在しながら観光したんだよ。神武だって畿内到着まで途中の宮で
半年も1年もいたりしたんだろうが。二十日だっておかしくない。


232:愛知県民
08/04/20 14:43:29
議論たけなわですが、私はこれにて。
また来週です。zzz・・・・

233:三重県民
08/04/20 14:50:50
>>230
投馬國への水行二十日
邪馬壹國への水行十日 陸行一月 を『観光』とする所は面白い。

>目的が違うなんてお前は人生経験未熟じゃないのか?w

ここまで言うからには貴方のその『目的』とやらをここへ書き込んでくださいよ!




234:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/04/20 14:58:50
>>233
だから観光で行ったんだよ。遣使の役も当然やってるには違いない
がね。行ったことのない大陸人もほとんど分からん土地を行けば、
危険と隣り合わせで観光目的だよ、そうすれば一月とかかかっても
おかしくはないではないか。
お前知らないのか? 日本の役人の地方へ行く目的を・・・?
それは今はオンブズマンにしてやられるから、あまりそういうことは
出来なくなってることは確かだ、今やればクビになりやすい。

235:三重県民
08/04/20 15:02:32
太国氏は、「水行二十日」、「水行十日 陸行一月」を
魏の使いが観光したとしてるらしい。

違いますよ。

『隋書 倭國伝』
夷人不知里數 但計以日

大陸人は『里』を使うが、列島人は『里』ではなく「日」を使う。
「水行二十日」、「水行十日 陸行一月」 とは大陸人ではなく列島人の言った事ではなかろうか?

236:日本@名無史さん
08/04/20 15:07:36
観光噴いたwww

237:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/04/20 15:10:31
~なろうか? だとww ずいぶん自信ない言葉だな。行ったことのない外国へ
行くやつで観光気分にならないやつなど精神病者等とかはどうかだが、まず
いないよ。お前も他の目的で外国旅行をすれば、並行して観光もやるものだ。
行ったとこでも、お前の考えのはせいぜい三浦さんくらいだろう?w

238:三重県民
08/04/20 15:15:08
では質問しますが、投馬國まで「観光した」とするならば、何故、「里」が
使われてないのでしょうか?
本当に「観光した」のかは疑問に思える。

ちなみに、
<後漢書 倭人伝では>
樂浪郡徼 去其國萬二千里なのが、
今回は初めて主要国の距離が記されていて、計測したと言える。
千餘里 對馬國  千餘里 至一大國  千餘里 至末盧國
至奴國 百里   至不彌國 百里    ここまでは計測。
南至投馬國 水行二十日
南至邪馬壹國 水行十日,陸行一月   ここ二つは列島人?

239:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/04/20 15:18:57
>>238
里だから観光でないなどと関連接着付けはそこまで不要だよ。別別
に考えたほうがいい。里をと観光とは別個。

240:三重県民
08/04/20 15:27:33
>>237
>~なろうか? だとww ずいぶん自信ない言葉だな。

「水行二十日」、「水行十日 陸行一月」が断言できれば苦労はしない。

列島人の言った事ではなかろうか?というのは、
魏志倭人伝の韓國までの「循海岸水行」を見て「半島内陸説」ではないなと捉え、

郡⇒女王國までは、『萬二千餘里』(自郡至女王國萬二千餘里)
倭の「水行十日 陸行一月」は女王國⇒郡 なのか?など
いろいろ考えてるわけです。まあ、この場合は投馬國への水行二十日が
説明できなくなる。




241:三重県民
08/04/20 15:30:33
ん~太国さんが行ってることはわかるんだが~本当に観光かな?

ロムらーはどう見てるの?




242:神奈川県民 ◆sjgeZLFR/I
08/04/20 15:31:11
>>203,205
そういうレスが荒れるもとになっている。つまりお前が荒らしの元凶だ。
以後ここへの出入を禁ずる。
>>208
同意する。しかし、荒らしであるお前は出入禁止だ。
>>211
お前がよそへ行けば解決する。

改めへ、二度と荒らすな!
お前がおとなしくしていれば大目に見る用意がある。
俺達はまじめに議論がしたいだけだ。頼むから荒らすな。



243:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/04/20 15:34:17
>>240
もう一種類、観光でなさような連中がいる。三蔵法師だ。彼らは
観光は意識的に無視していたろうからな。だがこういうのは例外だ。
まさか女王国へ三蔵法師が観光などした記録などあるまいが?w

中国の西遊記なんか見てみろ。三蔵の里程を西天まで十万八千里の
道中としている。しかしその年月は大雷音寺の如来と普陀の観音は
五千四十八日と数えている。中国人は、如来と観音をお前の論法から
は日本人と考えているのか??www

244:三重県民
08/04/20 15:39:48
>>243 太国さん
その前に、
隋書 倭國伝の「夷人不知里數 但計以日」は
どのように捉えてるんでしょうか?

>>242
空気嫁!


245:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/04/20 15:43:21
>>244
捉えるとか云ったって、そんなものは日本人には当てはまる可能性は
あろうが、中国人は里でも日でもかまわんだろうが。そのいい例が
唐土から西天までの距離、日程で五千四十八日。
それとも西天の如来と紫竹林の観音は日本人なのか~~??www

246:三重県民
08/04/20 15:49:55
>>245
文献とは
・昔の制度・文物を知るよりどころとなる記録や言い伝え。
・研究上の参考資料となる文書・書物。

倭人伝はこの「文献」にあてはまる。
他の文献にて「日数」が使われてるというんですか?
わたしは聞いたことがない。

それに今はストーリーである物語、『西遊記』の例を出すべきではないと
思うがどうでしょう?

247:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/04/20 15:52:11
>>246
すると中国人は物語はどっち使用でもいいと?w三国志は里なのか? それじゃぁ
三国志演義はどういうことになるんか?ww

248:三重県民
08/04/20 15:53:50
>>247
わたしは真面目な「文献」では日数が記録されたことがあるのか?
という質問をしてるんですよ。


249:三重県民
08/04/20 15:57:10
さて、ソロソロ外出しますかね。

三国志?
あれはマンガでしょ。。。。 では お疲れ様。


250:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/04/20 15:58:17
三国志演義も西遊記も不真面目文献なのか? そんなことで里と日の使い分け
など中国人はやってないだろう? 
お前の論理が破綻しているんだろうが?w

251:九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y
08/04/20 16:29:53
>>221 三重県民さん
>九州王朝とどこで関わっていると判断したのでしょうか?

①邪馬壹國と邪靡堆は同じ場所である。だから両者は久留米近辺にあり、又、久留米にある邪靡堆は九州王朝の都である。
②邪馬壹國は、横穴式墓・装飾墓の形式ではないので、(プレ)九州王朝出現前段階の国である。
(プレ九州王朝:倭の五王の時代等)


>>222 愛知県民さん
>九州王朝説=古田武彦氏説と考えてよいのですか?

九州王朝は古田武彦氏が提唱したものです。
古田氏は、6~7世紀の200年間、九州に都を置いた倭國としています。
その説の根幹は九州王朝説=古田武彦説として良いと思います。
30年以上前に提唱された説ですので、今後も詳細は修正されていくと思います。
僕は多利思北孤の都は久留米説です。


252:日本@名無史さん
08/04/20 19:53:05
えっ?!
桜も、寿司も、侍も、日本刀も、剣道も、柔道も、相撲も、合気道も、華道も、茶道も、熊本城も、浮世絵も、歌舞伎も、能楽も、神社建築も、万葉集も

全 部 韓 国 ・朝 鮮 文 化 な の ? ?  世 界 中 に 嘘 を 広 げ る 韓 国 人 !


弱 小 民 族 韓 国 人 の 凄 ま じ い 劣 等 感 に よ る 愛 国 民 族 教 育 の 結 果 が こ れ だ ! ! w w

・韓国起源説
  URLリンク(ja.wikipedia.org)

253:千葉県民
08/04/20 23:05:43
監視中

254:ローガン
08/04/21 16:01:05
>>210
愛知県民さん、こんにちは。
祇園山ですね。平原墓と同じ時期か少し後…
何れにしても邪馬台国時代なのでしょう。(葺き石が気になりますが)
集団墓地に在ること、箱式石棺である事等から、九州の墓制ですね。
その頃の特徴の一つにうち割り鏡の副葬がありますね。
人為的に割った鏡を大量副葬したとして、それを盗掘者がカケラまで残さず、綺麗に持ち去ったとは、考えにくいように思えます。
元々、鏡副葬があったとしても、平原1号とは比較にならない量だったのでは、なんて考えます。

平原より見劣りする祇園山が「卑弥呼の墓」とは考えにくいのですが…
九州では平原以降、銅鏡大量副葬はみられないようですね。

そうそう、愛知県民さんは畿内説支持ではなかったのですか?
もしかして、ここの畿内説派のコテは私だけ?

255:ローガン
08/04/21 16:23:07
>>225
徇葬なので、殉死が伴わなくても良いのではないですか?
倭人伝の記述からすると、作塚現場を見たようにもとれます。
埋葬主体部分は「円」です。前方部は作業通路だと思います。


256:日本@名無史さん
08/04/21 20:26:25

稲作が中国から直接日本に伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら九州・西日本に伝わった最初の稲作が既に弥生前期末には
伝わってきていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から直接日本に伝来した事の証拠にはならないのである。

URLリンク(www.athome-academy.jp)

257:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/04/21 20:43:03
>>255ローガンさん

>埋葬主体部分は「円」です

誰の墓の主体が円なの?

258:日本@名無史さん
08/04/21 22:10:41

魏志倭人伝の
>卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人

の記事には卑弥呼の墓がどんな形をしてたか書いてないんだから
勝手に決められないと思う

円形でも方形でも前方後円形でも
どれも「絶対これだ」とか「絶対それはありえない」なんて断定するのは無理でしょう

そうとう大きな墓だったのは間違いないと思うけれど

259:ローガン
08/04/21 22:36:01
>>257
箸墓の主体部分は円です。被葬者に卑弥呼を考えています。

260:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/04/21 22:38:06
>>258

退屈だから釣られるよ

>そうとう大きな墓だったのは間違いないと思うけれど

間違い。
百余歩は「長さ」。距離じゃないんだから六尺ワッパ転がさないんだよ
六尺ワッパの最低単位は「里」

261:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/04/21 22:40:24
>>257ローガンさん

>箸墓の主体部分は円です。被葬者に卑弥呼を考えています

だったら尚更「円」と特定することは出来ないよ

262:ローガン
08/04/21 22:46:50
>>261
箸墓は埋葬主体部分は円ですよ。

263:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/04/21 22:54:22
>>262ローガンさん

>箸墓は埋葬主体部分は円ですよ

箸墓掘って、被葬者が女性だったの?

264:ローガン
08/04/21 22:58:41
>>263
ご存知ないのですか?箸墓の主体部分は未だ調査されていないのですよ。


265:日本@名無史さん
08/04/21 22:59:53
>>260
卑弥呼の墓が小さかったかそれとも大きかったか
と質問されときには
それは小さくはなく、そうとう大きかっただろうという意味です
中ぐらいでもない

倭王だから庶民の墓にくらべたらそうとう大きかったのは間違いないと
そんな意味です

おかしいですか
卑弥呼の墓は小さかったのですか

266:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/04/21 23:01:13
>>258


それに、相当大きな墓だったら
「大作冢」ではなく「作大冢」(作大墓)だよね

267:サガミハラハラ
08/04/21 23:02:35
卑弥呼の墓がちいさかったら、魏使はわざわざ歩百余歩などとかきませんよ。
巨大であったからかいたのです。

268:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/04/21 23:03:24
>>264

>ご存知ないのですか?箸墓の主体部分は未だ調査されていないのですよ。

知ってるよ
知ってるからこそ聞いたんです。
こっそりと、非公式に盗掘したのかな?って

269:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/04/21 23:05:07
>>267

>卑弥呼の墓がちいさかったら、魏使はわざわざ歩百余歩などとかきませんよ。
巨大であったからかいたのです。


と、当時の漢人の親戚の方からでも聞きましたか?

270:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/04/21 23:09:10
>>265

>それは小さくはなく、そうとう大きかっただろうという意味です
中ぐらいでもない

倭王だから庶民の墓にくらべたらそうとう大きかったのは間違いないと
そんな意味です


と、言うと
大きな墓と捉える基準は庶民の墓と言うことですね

ところでその庶民の墓って、なんなんですか?
どの墓が庶民の墓なんですか?

271:ローガン
08/04/21 23:09:33
>>266
作大塚なら間違いなく大きな墓だと言えますね。
しかし大作塚だと何故「大きな墓」を否定出来ますか?

272:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/04/21 23:11:45
今日は妄想パラダイスの日?

273:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/04/21 23:14:47
>>271

>しかし大作塚だと何故「大きな墓」を否定出来ますか?


簡単だよ
「大きい」とする基準が無いじゃん

長さ2mでも、標準が30cmなら大きいよね




274:日本@名無史さん
08/04/21 23:15:50
>>270
どう説明したら納得するのかわからない

やはり卑弥呼の墓はそうとう大きかった、それは間違いないともう一度言って
わたしは失礼

275:ローガン
08/04/21 23:33:54
>>273
言葉遊びになるので簡単にすませましょう。
大作冢は、卑弥呼以死と径百餘歩の間に書かれています。
卑弥呼の墓について述べたものです。その径が百餘歩であったと書かれています。



はい!今日は妄想パラダイスです。

276:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/04/21 23:37:33
>>274

>どう説明したら納得するのかわからない

単なる勉強不足
間違ったことを言ってるから、最後詰まるんだよ


277:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/04/21 23:40:08
>>205ローガンさん

>卑弥呼の墓について述べたものです。その径が百餘歩であったと書かれています。

つまり『径』が円の直径だと言いたいの?
それだったら
本当に妄想パラダイス日ですよ

278:日本@名無史さん
08/04/21 23:44:36

わたしが言いたかったのは大きい小さいの議論でなくて
卑弥呼の墓の形

卑弥呼の墓の形は魏志倭人伝では書いてないので決められないと
そのことを言いたかった

それではほんとうに失礼します

279:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/04/21 23:48:27
一般的に円を測る場合は(周○○)

それに、『径』は何も円と限定出来ない文字だよ
径=直径は(固定された先入観)
正方以外の形にはたいがい、径を使っているから漢籍で調べてごらんよ
決して円と限定される文字ではないから

だいいち、径=直径だったら
直径という語句は必要なくなる


【正義胃大一尺五寸徑五寸長二尺六寸・・・】新校本史記三家注/新校本史記/列傳/卷一百五 扁鵲倉公列傳第四十五

280:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/04/21 23:49:41
>>278

>卑弥呼の墓の形は魏志倭人伝では書いてないので決められないと
そのことを言いたかった


はい 正解


また来てね

281:ローガン
08/04/21 23:51:55
>>278さん。そうでしたか。「箸墓」って言った私が返信すべきだったのですね。すみません。

河童虫さん、径百餘歩ですから、「さしわたし」と読むのが自然だと思いますよ。

282:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/04/22 00:03:31
>>281ローガンさん

>径百餘歩ですから、「さしわたし」と読むのが自然だと思いますよ。

では
その『さしわたし』を箸墓にてどのように計測するのか想像してみてください

単なる円墳なら
周さえ解れば、周の値を3で割れば直径は求められますが

箸墓って
コンパスにて紙に書いた円ではない小山   さ~どう測ります?

漢文は漢籍に聞け  でしょ


283:ローガン
08/04/22 00:05:16
>>279
そうそう不定形の対角を径とした例がどこかにありましたね。
円に限らない事は理解できますが、円墳のさしわたしが何故、径と言えないのか、さっぱりです。

284:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/04/22 00:16:50
>>283ローガンさん

“円のさしわたし”と“円墳のさしわたし”の違い分かりますか?


それに
普通、『作大墓』と書かれていない段階で
箸墓は飛びますよ
ましてや『冢』、しかも『大作冢』ですから

ゴネゴネですよ

285:ローガン
08/04/22 00:29:32
>>282
箸墓は四方が平地ですね。後円部東側を歩測でしょう。当然、推測ですが…
後世の中つ道となる東西路は墳丘の東側に沿っています。
生活路として古くからあったとすれば、容易に歩測可能でしょう。
まあ、余談かも知れませんが


286:ローガン
08/04/22 00:36:37
>>284
河童虫さん、「冢」
おやまあ、箸墓が盛り土されてないとでもお考えですか?

287:日本@名無史さん
08/04/22 00:46:08
箸墓の規模だったら、「塚」ではなく「墳」と書かないかな?
「盛土如山」のように巨大さを強調したと思う。
葺石は目立つから、「全覆以石」のようにも書くはず。

288:ローガン
08/04/22 00:56:25
冢と墓ですね。
完成すれば、区別しにくいでしょうが、被葬者がグラウンドラインの上か下かの違いでしょうね。
つまり、土を盛ってから埋葬したのか、埋葬後土を盛ったのかでの、違いでしょうね。
箸墓は「冢」です。

妄想パラダイスにお付き合い下さりありがとう。
ではまた、明日にでも。ZZZZ…

289:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/04/22 12:40:57
>>288

『冢』に墓の意味はないよ
卑弥呼以死
と言う文によって、文章に投げ込まれ『冢』が、被葬者を葬ったモノであることがわかるだけ。

冢は単に“表面に目印”

290:日本@名無史さん
08/04/22 15:21:21
卑弥呼が豊鍬入姫命、壱与が倭姫命、じゃないかと思ったり。


291:日本@名無史さん
08/04/22 15:30:51
これはアメリカのゲームです。1度やってみてください。
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このゲームを考えた本人は、メールを読んでからたった10分で願い事が
かなったそうです。このゲームは、おもしろく、かつ、あっと驚く結果を 貴方にもたらすでしょう。
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まず、ペンと、紙をご用意下さい。 先を読むと、願い事が叶わなくなります。
?まず、1番から、11番まで、縦に数字を書いてください。
?1番と2番の横に好きな3~7の数字をそれぞれお書き下さい。
?3番と7番の横に知っている人の名前をお書き下さい。(必ず、興味の
ある性別名前を書く事。男なら女の人、女なら男の人、ゲイなら同姓の名前をかく)
必ず、1行ずつ進んでください。先を読むと、なにもかもなくなります。
?4,5,6番の横それぞれに、自分の知っている人の名前をお書き下さ
い。これは、家族の人でも知り合いや、友人、誰でも結構です。
まだ、先を見てはいけませんよ!!
?8、9、10、11番の横に、歌のタイトルをお書き下さい。
?最後にお願い事をして下さい。さて、ゲームの解説です。
1)このゲームの事を、2番に書いた数字の人に伝えて下さい。
2)3番に書いた人は貴方の愛する人です。
3)7番に書いた人は、好きだけれど叶わぬ恋の相手です。
4)4番に書いた人は、貴方がとても大切に思う人です。
5)5番に書いた人は、貴方の事をとても良く理解してくれる相手です。
6)6番に書いた人は、貴方に幸運をもたらしてくれる人です。
7)8番に書いた歌は、3番に書いた人を表す歌。
8)9番に書いた歌は、7番に書いた人を表す歌。
9)10番に書いた歌は、貴方の心の中を表す歌。
10)そして、11番に書いた歌は、貴方の人生を表す歌です。
この書き込みを読んでから、1時間以内に10個の掲示板にこの書き込みをコピーして貼って下さい。
そうすれば、あなたの願い事は叶うでしょう。もし、貼らなければ、願い事を逆のことが起こるでしょう。とても奇妙ですが当たってませんか?


292:唐松山
08/04/22 15:35:56
>径百餘歩ですから、「さしわたし」と読むのが自然 なんだけど
漢書に ”径”が出てこない 出てくるのは、 周、周回、方 なんですよ。
漢書に ”径”が出ていたら 教えて下さい。


293:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/04/22 21:12:34
>>292

>漢書に ”径”が出てこない 出てくるのは、 周、周回、方 なんですよ。
漢書に ”径”が出ていたら 教えて下さい。


径なら沢山出てますよ
径の何がでてこないんですか?


『天馬徠歷無草徑千里循東道』  漢書二十二禮楽志

294:日本@名無史さん
08/04/22 21:14:47
御皇室を侮辱し、鬼畜支那人の肩を持つ朝日新聞を許すな!!!【前編】1/3
URLリンク(www.youtube.com)
御皇室を侮辱し、鬼畜支那人の肩を持つ朝日新聞を許すな!!!【中編】2/3
URLリンク(www.youtube.com)
御皇室を侮辱し、鬼畜支那人の肩を持つ朝日新聞を許すな!!! 【後編】3/3
URLリンク(www.youtube.com)
朝日新聞社ヲ糾弾ス!
URLリンク(www.youtube.com)

295:日本@名無史さん
08/04/22 23:55:37
>>294


296:日本@名無史さん
08/04/23 00:25:39
監視中

297:改めドツボ監視委員会
08/04/23 00:36:50
しかし考えてみりゃ大和の古墳って普通に「塚」って文字が使われてるよなw

西殿塚、東殿塚、柳本大塚、纏向石塚・・・挙げていけばキリが無い程に…
むしろ「墓」の文字を冠している箸墓が例外的かな?

何段にも土を盛り上げた前方後円墳を見た古代中国人が墓と言うより塚と見たのは自然のような気がするw
墓碑・墓誌があるわけじゃ無し

何れにせよ・・・

>普通、『作大墓』と書かれていない段階で
>箸墓は飛びますよ

ってのは大胆だなwww

箸墓を卑弥呼の墓に想定したのは有名ドコで笠井新也がすぐに思い浮かぶが
まあ、それ以前から言われていたんだろうな。




298:日本@名無史さん
08/04/23 21:14:27
大が作に付くのも、墓に付くのもあんまり意味がかわらないように思うのは俺だけか?

ところで記述にうるさい人たちに聞きたいのは邪馬台国が日本の中心だったってどこに書いてあるの?
これが卑弥呼の墓です!と書いてあるわけないのに同定できると思ってんの?

299:日本@名無史さん
08/04/23 22:08:58
>>296-298

お前等じゃ無理だ 回らん。

やっぱ 太国さんか河童さんじゃないと

300:日本@名無史さん
08/04/23 22:18:11
箸墓の由来は、箸であそこを突かれて死んだ卑弥呼を祭り上げるための司祭の場でした。
古代王朝というのは、自分で征服して殺した相手を祭り上げることで祟られないようにした
のです。生贄文化とでも呼ぶべきものです。

301:日本@名無史さん
08/04/23 22:23:16
NHKでアマテラスやってるよ TV

302:日本史板住人一同
08/04/23 22:26:09
ドツボ=改め=神奈川県民=三重県民が荒らさないように監視しまつ


監視中

303:日本@名無史さん
08/04/23 22:56:27
>>300
>箸墓の由来は、箸であそこを突かれて死んだ卑弥呼を祭り上げるための司祭の場でした。

あそこをちんちんで突いて死んじゃったら「ちんちん墓?」

304:改め
08/04/23 23:42:05
>>251 九州王朝大好きさん
>邪馬壹國と邪靡堆は同じ場所である。だから両者は久留米近辺にあり

「邪馬壹國と邪靡堆は同じ」、「両者は久留米近辺」ここはわたしも同じ。
しかし、九州王朝と聞いたら立派なイメージがつきまとう。
もっと弱小だったのでは?

>>255へ槍 ローガンさん
>徇葬なので、殉死が伴わなくても良いのではないですか?

では箸墓は「徇葬」ですか?どのへんを見て発言してます?

>>260 河童さん
>>そうとう大きな墓だったのは間違いないと思うけれど
>間違い。
>百余歩は「長さ」。距離じゃないんだから

卑弥呼の墓はそうとう大きな墓ですよ?それに里は(距離)、元はといえば長さです。

305:日本@名無史さん
08/04/23 23:45:47
キタ━━(゚∀゚)━━ !!!!!

306:改め
08/04/23 23:50:47
>>266 河童氏
>それに、相当大きな墓だったら
>「大作冢」ではなく「作大冢」(作大墓)だよね

何を言ってるんだ~この人はw

>>277 また河童さん
>つまり『径』が円の直径だと言いたいの?
>それだったら
>本当に妄想パラダイス日ですよ

『徑』とは図形の差し渡り 徑=径 
径とは一般的に円とか球の直径なんかをいうが、100%円とは限らない。
図形というほうがこの場合相応しいだろう。

古墳の形は円墳、方墳、八角墳、、双方中円墳、前方後円墳・前方後方墳・双円墳・双方墳
いくつかあるが、「円墳」の可能性が高いと思ってる。


307:改め
08/04/24 00:02:44
>>279 河童氏へ
ローガンさん>>281の言ってる事のが正しいよw

>だいいち、径=直径だったら
>直径という語句は必要なくなる

径とは差しわたしのこと。
差しわたしとは直径のことです。
んで、径=直径ですよ?半径とは「径」の半分のこと。

『大作冢』、とか『作大冢』とかいいあってるが、ちがう。
「冢」これ一文字で『大きな墓』ということです。

308:改め
08/04/24 00:15:10
>>289  また河童氏の批判になるがw
>『冢』に墓の意味はないよ

何を言ってるんだ~この人はw

『冢』=大きな墓

歩とは右足、左足の動作で一歩となる。サガミハラハラさんが言ってたのが正解。
少し調べたんだが、当時の魏で100歩とは144m~190mらしい。
しかし、倭人伝をみると倭への行程記事で「里」から実際より約六分の一小さいので、
24~144m又は190mぐらい?と幅広くなる。どっちを信用するかだよね。

309:改め
08/04/24 00:22:27
>日向を出発し宇佐に至った神武軍は、そこから筑紫の崗水門の岡田宮、
>安芸の埃宮、吉備の高島宮を営んだ後、大和に向かう。

とあるが、何故寄り道したのかな?

神武東征と九州
URLリンク(www012.upp.so-net.ne.jp)

では遅いので帰って寝ます~zzz・・・・・・。

310:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/04/24 00:23:01
>>307-308

もう少しお勉強してから
反論してください。


マジ(>_<)

311:日本@名無史さん
08/04/24 00:28:06
>もう少しお勉強してから
>反論してください。
>マジ(>_<)

ちゃんと説明してから「お勉強してから」言ったほうがいいのでは?
批判になってませんよ。
こうこうだからこのようになる!
という具合でお願いします。
それだと、ただ反抗してるだけw

312:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/04/24 00:32:16
>>311

今まで散々説明して来たので
必要無い

313:改め
08/04/24 00:45:33
~たく!しょーがないな・・・。

<旺文社 漢字典>
「冢」・読み:チョウ
   ・解字:つつむ意の勹と、音を表す豕(チク)とで土を盛り上げた
         大きな墓、「つか」の意を表す。塚の本字。
   ・意味:つか(大きな墓)、丘(丘陵)、やしろ(盛り土をして神を祭る場所)
       おさ、大きい

314:改め
08/04/24 00:52:13
<旺文社 漢字典>※付録の中国度量衡表

「魏・晋 3~5世紀」
寸・・・2.412cm
尺・・・24.12cm
丈・・・2.412m
歩・・・6尺、1.4472m
里・・・180丈、300歩、434.16m  では、またです~!zzz

315:日本@名無史さん
08/04/24 02:13:13
侏儒國の身長は三、四尺だから、もし六分の一にするとww

魏志倭人伝も、ろくな資料じゃないということです。

316:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/04/24 07:39:40
>>313は取り敢えず置いといて、
>>314
ゴミは分別しないと資源にはならないと言ってるだろう。混ぜて一緒にすれば
ただのゴミ。
再三再四述べているが

何処の漢籍の度量衡に
『歩や里』が混じってるんだい?
度量衡の“度”は
(分、寸、尺、丈、引)


もう一度、一からやり直し。

317:日本@名無史さん
08/04/24 11:06:40
箸墓の被葬者は日本書紀によれば倭迹迹日百襲姫命で、この人は神がかりに
なってお告げを告げたことが伝えられている。
そうすると、この人が卑弥呼であったと考えると、箸墓は卑弥呼の墓と
いうことになるだろうし、「鬼道をよくし」という形容にも当てはまる気はする。

318:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/04/24 11:15:50
>>317

どちらも
有史以来列島で、唯一の存在ならまだしも

今でも恐山には数名の神懸かり人が未だ居る

319:平安京
08/04/24 11:51:54
桓武天皇は平城京を移転する理由として

平城京は水の利が非常に悪い

としている。
そんなところに3世紀、国ができただろうか?

320:日本@名無史さん
08/04/24 11:55:54
平城京の場所は奈良県でもかなり北部。
飛鳥にあった藤原京からかなり北へ遷都したもの。
畿内説で邪馬台国があった場所として有力なのは三輪の纏向遺跡などで、
平城京とはまったく違う場所なんですが?

321:日本@名無史さん
08/04/24 12:17:49
奈良の地図を見た事がないんだろうな。
しかも昔、大和郡山の辺りは湖があったし、大和川ももっと南側だった。


322:日本@名無史さん
08/04/24 14:16:34
卑弥呼はただの原始人のメスだよ

323:日本@名無史さん
08/04/24 19:25:26
こんな議論してるのは理数系できない、論理力がない文系どもばかりだろ。
こんなん延々推測するだけだし意味ない

324:日本@名無史さん
08/04/24 19:37:47
どっちの分野も分からない
君がこのスレにいる意味もない。散れ

325:日本@名無史さん
08/04/24 22:18:08
>>324
>君がこのスレにいる意味もない。散れ

お前が去れよ

上のレスは、邪馬台国に関する話だろ。

326:改め
08/04/24 22:30:30
>>316
> >>313は取り敢えず置いといて、

都合悪いのは逃げるわけ?

>何処の漢籍の度量衡に 『歩や里』が混じってるんだい?
>度量衡の“度”は (分、寸、尺、丈、引)

書いてあるとおり書き込んだだけ。
それに、「歩」、「里」これらは距離だが、元はといえば「長さ」。
貴方は定義ていうのはご存知ですか~?

歩・・・6尺
里・・・180丈、300歩  さて、何メートルだっ?

327:日本@名無史さん
08/04/24 22:35:45
>>165
宇佐の亀山は郷土図書館でははっきり前方円古墳とかかれており
伝承として神武天皇のひ孫の墓、となっているそうだ。誰だよW 卑弥呼じゃなさげ。

ちなみに神武の祖母である、豊玉姫を祭っているのが大分県南部の祖母山の山頂。

だから大分県の豊は、邪馬台国の台与というよりは、豊玉姫の豊なんだろう。明らかに。
ちなみに「久士布流岳」は「くじゅうだけ ー 久住岳」の説もあり、これも九州一高い
九重山脈になるので間違いないと思う。

ところで検証するときに、場所としては宇佐神宮の場にこだわるのはどうかと。現在の神宮の
元宮の位置のほうが大切なのは間違いないでしょ。つまり中津とか...。
とりあえず中津のほうが栄えていたらしいよ。

328:日本@名無史さん
08/04/24 22:40:11
ちなみに九重山脈が九州一高いっていうのは屋久島の宮之浦岳を
除いて。



329:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/04/24 22:46:31
>>326

>都合悪いのは逃げるわけ?


逃げる。
いいかげん説明するのめんどくさくなった

>貴方は定義ていうのはご存知ですか~?

歩・・・6尺
里・・・180丈、300歩  さて、何メートルだっ?


もうどうでもいいよ   好きにしなよ

330:改め
08/04/24 22:58:07
美濃もん太さんへ
>邪馬台国は弁韓(百済、任那)の弥鳥邪馬国

なぜそう考えたんでしょうか?
それに卑弥呼と百済、任那てどこかで関わってました?想像ですか?


331:判定
08/04/24 22:58:26
改めの一本勝ち

332:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/04/24 23:00:07
>>331

100本ぐらい束であげるよ   もってけ~

333:美濃もん太 ◆hF.jG29Cew
08/04/24 23:08:31
>>330
そもそも卑弥呼って誰?
日本の神様(古代氏族)の場合、呼び名が何種類もある人達が多いから、それらの人物の別称の可能性は否定しないけど、
基本的には日本史上に「卑弥呼」なんて人はいないよ
魏志倭人伝では「誰を卑弥呼と呼んでたのか」ってのは興味はあるけど
それにそもそも「鬼道」ってのは大陸の宗教だよ
西王母仙人とかが女の鬼道師でもあるよ


卑弥呼も鬼道師なら西王母仙人見たいな人物だった人なんじゃないの?

日本だとヒルメや猿女とかが近いと思うけどね

334:美濃もん太 ◆hF.jG29Cew
08/04/24 23:14:18
邪馬台国と弥烏邪馬国が同じじゃないかと思う理由は
・魏志倭人伝に書かれた時代と同じ時代
・倭人が納めてた國
・弥烏邪馬国の周辺に魏志倭人伝に記述のある國と似た名前の國が複数ある
・つか名前がまんま邪馬国だし
とか、沢山理由はあるよ


むしろ邪馬台国と邪馬国が違う国とするなら、違う国とする理由を教えて欲しいぐらいだよ


335:ローガン
08/04/24 23:16:40
>>327さん。私も昔 宇佐が「邪馬台国だ」って思いましたねえ。
あれは、高木彬光さんでしたか、おもしろかったですね。

確か、末盧国への方角がないのがポイントだったような記憶があります。
宇佐については中野氏の八幡信仰についての論説に(若い頃)はまった覚えがあります。


336:美濃もん太 ◆hF.jG29Cew
08/04/24 23:23:39
>>327
中津って「中つ国」とか「中心の」って意味だからね


ちなみにイザナミイザナキが降り立った地も「中つ国」で、今でもその地は巨石遺跡と共に存在してるよ



とは言ってもその場所は大分の中津じゃないよ
天照大勧山の麓にある中津市の事だよ

337:美濃もん太 ◆hF.jG29Cew
08/04/24 23:28:06
あと扶桑略記に書かれてる「宇佐」って地名は濃尾平野の事だよ
岐阜市関市春日井市とか辺りの古代の地名が宇佐
そもそも扶桑の国ってのが岐阜尾張の事だし


あと扶桑略記に書かれてる
「宇佐のなんとか山に建てられたなんとか寺(ごめん、詳しく覚えてない)」
ってのも今の春日井と多治見辺りにある山の事だよ

338:日本@名無史さん
08/04/24 23:37:00
巨石遺跡といえばさ、国東のストーンサークルとか
あまり知られてないよね。


339:日本@名無史さん
08/04/24 23:46:52
>>337
>あと扶桑略記に書かれてる
>「宇佐のなんとか山に建てられたなんとか寺(ごめん、詳しく覚えてない)」

そんなことが書かれているの? 
宇佐神宮の最も古い元宮は、山頂の巨石遺跡に囲まれた祭祀場跡にある
奥宮なんだよ。御禁足地で近寄ることはできないけどね。 

340:美濃もん太 ◆hF.jG29Cew
08/04/24 23:56:46
>>339
思い出した
それ弥勒山だよ
巨石遺跡もあるよ


扶桑略記に書かれてるのは弥勒山に弥勒寺を建てたとかだったと思うけど、その弥勒寺は焼かれてもう残って無いけど、弥勒寺跡としてちゃんと残ってるよ

341:日本@名無史さん
08/04/25 00:02:11
寺って時点でもう(ry 

342:美濃もん太 ◆hF.jG29Cew
08/04/25 00:02:23
宇佐や扶桑って地名もいまだに残ってるし、蘇我石川麿の墓や入鹿が自害した入鹿池もある


あと飛鳥川や大和川って河川の名前も濃尾平野を流れる木曽三川の支流の名前で、大和川や飛鳥川って名前はもちろん、大和や飛鳥って地名も残ってるよ


そもそも記期でも神坂峠や恵那山はたびたび登場して来てるじゃんよ

343:美濃もん太 ◆hF.jG29Cew
08/04/25 00:05:17
>>341
扶桑略記みれってば
建てられたのは弥勒寺だよ

飛鳥時代ってのは仏教伝来の頃で、あと奥美濃や飛騨には信言密教の仙人や修行場が多くあったんだよ

344:日本@名無史さん
08/04/25 00:08:11
卑弥呼は日本史に登場するどの人物?

邪馬台国て天皇家の祖?

日本建国史は間違っている?

謎の文献、魏志倭人伝とは何?

卑弥呼の鬼道とは?

345:日本@名無史さん
08/04/25 00:14:00
扶桑略記って平安時代に書かれた私選の歴史書なんですね。
そこで宇佐を扶桑としてるの?

確かに。源頼朝は宇佐を見ていたことは言わずもがな。

346:美濃もん太 ◆hF.jG29Cew
08/04/25 00:18:19
>>345
扶桑略記って要は扶桑国の風土記でしょ?
扶桑の中に宇佐って地があって、それこそ扶桑略記の記術通りの場所に巨石遺跡がある弥勒山や弥勒寺跡とかもあるよ


主に扶桑国の話をまとめた扶桑略記に書かれてる宇佐とか弥勒山や弥勒寺ってのは、九州の宇佐の事や宇佐神宮の事じゃないよ




347:日本@名無史さん
08/04/25 00:27:49

扶桑略記を書いたのは比叡山の僧でしょ。宇佐神宮の御神託を信じて
石清水八幡宮を建てるよう天皇に進言するような僧たちが編纂したのが
扶桑略記でしょ。やはり国東の仏教文化と、宇佐の八幡信仰を崇拝していたのが
よくわかる背景だわな。
そして彼らは、やはり豊前の宇佐や中津あたりを古来日本の扶桑国としていたわけか。
もうこれは何をいわんとするか。

348:日本@名無史さん
08/04/25 00:32:47
あ、、、、、、平安時代と比叡山で思い出した!!

空海が唐に行くルートだけどさ、、、。
急に邪馬台国に関連の話題。博多から佐賀の松浦へ海路に変更して
佐賀発で中国大陸に行くでしょ。

これって....

349:改め
08/04/25 00:41:10
>>267 サガミハラハラさん
>巨大であったからかいたのです。

貴方は以前、卑弥呼の墓は192m、一里は60mぐらいと言ってたが、
どこから仕入れた情報なんですか?

歩・・・6尺、1.4472m
里・・・180丈、300歩、434.16m(>>314参考)

24m?、144m?かと思うんだが、六分の一したかどうかの違い。
魏の時代の里とは約434m。そこから6を割ると70~75となる。
倭人伝の里は約六分の一されてるので、
里=300歩 を考えると 24m。六分の一しないと144m。
それが、なぜ192mなんですか?
卑弥呼の墓は 24m?、144m? の円墳か?となるわけです。

350:日本@名無史さん
08/04/25 00:47:33
広辞苑なんかでも昔の里は相当短いよね。
せいぜい30mぐらいじゃないの? ぐるっと回って
それで怪百歩でしょ。そんなもんだよ。

351:改め
08/04/25 00:53:57
美濃もん太さん

きょうはもう遅い時間なので後日、返信します。
貴方が考える邪馬台国は今度、詳しく聞きますよ。zzz・・・。

352:日本@名無史さん
08/04/25 00:57:37
平安時代における古代日本史観 扶桑国=宇佐 
奈良時代、記紀における古代日本 豊葦原中津国=豊前中津(宇佐の元宮在)

こんな感じ? 

まあ、理論的に考えれば、宇佐神宮の御神託ひとつで奈良時代に
東大寺建てたり、平安時代に石清水八幡宮建てたりしてるぐらいだから
その時代の歴史書と照らし合わせればおのずとわかるはずだよね。

しかし邪馬台国と関係あるんだろうか・・・



353:美濃もん太 ◆hF.jG29Cew
08/04/25 01:20:42
イザナキイザナキが降り立った中津って、岐阜の中津の方だよ
その場所は古代に作られた二柱の巨石遺跡があるよ
あとこの周辺の山々は巨石遺跡群の宝庫だよ

イザナミが天照を産んだ場所も、この中津から近い場所で、あと記期にたびたび出てくる神坂峠は、中津から天照大勧山を越えて信濃へ抜ける峠の事だよ

354:美濃もん太 ◆hF.jG29Cew
08/04/25 01:39:42
まあ邪馬台国やら卑弥呼とは関係ない話だけど
日本の歴史の話だから


355:日本@名無史さん
08/04/25 10:39:49

稲作が中国から直接日本に伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら九州・西日本に伝わった最初の稲作が既に弥生前期末には
伝わってきていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から直接日本に伝来した事の証拠にはならないのである。

URLリンク(www.athome-academy.jp)

356:↑↑↑↑
08/04/25 11:47:47
>>355
頭狂ってる?

357:日本@名無史さん
08/04/25 13:18:15
↑ベトナム顔した元江南人の○湾人www

358:日本@名無史さん
08/04/25 18:51:38
平安時代の歴史書の扶桑略記には大分の中津や宇佐を
扶桑国と比定してるんだ。へえ。御神託でオロオロするのには
訳があったんですねw

そういえば宇佐神宮の御神託によって建てられた東大寺は、江戸時代は天領
とされた日田の杉で建築されています。日田杉は政府直轄で使用が管理されてました。
ちなみに宇佐神宮の巫女が輿で奈良に入京したことが神輿が始まりです。

あの辺りは「耶馬」がつく地名が散在している「耶馬」地方なので豊の国に
なる以前の旧地名では「耶馬」で、倭人伝にでてくる耶馬国ではないかと思います。
「耶馬」は和語の「山 やま」の当て字です。

大分県はこういう音読みだけの当て字の地名が多いです。記紀と同じような当て字の
地名ね。

359:日本@名無史さん
08/04/25 22:31:28
鈴木姓の娘は、ミャオ族の娘とそっくりです。

360:改め
08/04/26 00:21:21
〈大震國本紀〉
正州依慮國所都。爲鮮卑慕溶廆所敗、憂迫欲自裁忽念、我魂尚未泯、則何往不成乎。
密囑于子扶羅、踰白狼山夜渡海口。從者數千、遂渡定倭人爲王。自以爲應三神符命、使羣臣獻賀儀。
或云、依慮王爲鮮卑所敗、逃入海而不還。子弟走保北沃沮。明年子依羅立。
自後、慕溶廆又復侵掠國人。依羅率數千、越海、遂定倭人爲王。
日本舊有伊國、亦曰伊勢、與倭同隣。伊都國在筑紫、亦即日向國也。
自是以東屬於倭。其南東屬於安羅。安羅本忽本人也。北有阿蘇山。安羅後入任那、與高句麗早已定親。
末盧國之南曰大隅國。有始羅郡。本南沃沮人所聚。南蠻・屠忱彌・晥夏・比自[火本]之屬、皆貢焉。
南蠻九黎遺種、自山越來者也。比自[火本]弁辰比斯伐人之聚落也。晥夏高句麗屬奴也。
⑫時倭人、分據山島、各有百有餘國。其中狗邪韓国最大、本狗邪本國人所治也。
海商船舶、皆會於種島而交易。呉・魏・蠻越之屬、皆通焉。始渡一海、千餘里至對馬國。方可四百餘里。
又渡一海、千餘里至一岐國。方可三百里。本斯爾岐國也。子多諸島、皆貢焉。又渡一海、千餘里至末盧國。
本挹婁人所聚也。東南陸行五百里、至伊都國。乃磐余彦古邑也

361:改め
08/04/26 00:23:20
乃「磐余彦」、カムヤマトノイワレヒコ?

神武天皇は伊都國出身? これどう思うよ?
意見聞かせて。


362:改め
08/04/26 00:30:03
もし、これが本物の資料だとすれば、
カムヤマトノイワレヒコは卑弥呼より後に活躍した時代の人で
卑弥呼の倭と大和朝廷とを結びつける重要な証拠となる。

しかし、大震國本紀なる書きこみは本物なのか?偽者なのか?
どっちなんだろうね?これに詳しい人いましたらお願いします。


363:改め
08/04/26 00:39:34
〈高句麗國本紀〉
一自渡海、所至擊破倭人。倭人百濟之介也。百濟先與倭密通、使之聯侵新羅之境。
帝躬率水軍、攻取熊津・林川・蛙山・槐口・伏斯・買雨・述山
・進乙・禮奴・斯只等城、路次・俗離山、期早朝祭天而還。
時則、百濟・新羅・駕洛、諸國皆入貢不絶。契丹・平涼皆平服。
任那・伊倭之屬、莫不稱臣。海東之盛於斯爲最矣。
先是、陜父奔南韓、居馬韓山中。從而出居者、數百餘家、未幾歳、連大歉、流離遍路。
陜父乃知將革、誘衆裏糧、舟從[氵貝]水而下、由海浦而潛航、直到狗邪韓國。
乃加羅海北岸也。居數月、轉徙于阿蘇山而居之。是爲多婆羅國之始祖也。
後併于任那聯政、以治。三國在海、七國在陸。初弁辰狗邪国人、先在團聚。
是爲狗邪韓国。多婆羅一稱多羅韓國。自忽本而來、與高句麗早已定親。
故常爲烈帝所制。多羅國與安羅國同隣而同姓。舊、有熊襲城。今九州熊本城是也。
任那者本在對馬島西北界。北阻海有治。曰國尾城。東西各有墟落、或貢或叛。
後、對馬二島、遂爲任那所制。故自是任那乃對馬全稱也。
自古、仇州對馬乃三韓分治之地也、本非倭人世居地。
任那又分爲三加羅。所謂加羅者首邑之稱也。
自是三汗相爭、歳久不解、佐護加羅屬新羅、仁位加羅屬高句麗、鷄知加羅屬百濟是也。
永樂十年、三加羅盡歸我。自是海陸諸倭、悉統於任那。分治十國、號爲聯政。
然直轄於高句麗、非烈帝所命、不得自專也。

364:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/04/26 07:16:54
>>362
そこのどこに「後」の字があるのかいな?

365:日本@名無史さん
08/04/26 09:41:26
神日本磐余彦は神威磐井彦(カムヤマイワレヒコ)
アイヌ系の名前からもわかるように九州文明を作った縄文系の大倭、磐井の王
神武天皇と結びつける説もありますが眉唾もの。


366:改め
08/04/26 10:19:17
>>364
>そこのどこに「後」の字があるのかいな?

太国氏から突っ込まれてしまったがw
氏がいうとおり、「後の時代」とは言えない。
>>362の「カムヤマトノイワレヒコは卑弥呼より後に活躍した時代の人」
は訂正します。

しかし、貴方の「卑弥呼が活躍したのは祟神天皇の世」というのはおかしい。
祟神天皇時代というのは巨大な前方後円墳が作られ始めたばかりで、
巨大な前方後円墳とは「実質的、天下治めたと思われる痕跡」でもある。
倭人伝に記された「親魏倭王」の卑弥呼が列島の支配者ではないのか?
卑弥呼、その宗女壹與が活躍したのはそれ以前となる。

367:改め
08/04/26 10:23:16
「磐余彦」

筑紫の倭王「磐井」説、カムヤマトノイワレヒコ説、二つあるみたいだが
そっちなんですかね?


368:改め
08/04/26 10:34:12
太国氏へ
「卑弥呼は祟神天皇の世」とすると、
縄文時代は「東北」、弥生時代は「九州」、古墳時代以降は「奈良」
そして戦国、江戸、明治時代以前は「京都」、現在では東京に都があったする。
この一般常識は違うということか?
卑弥呼とは私達が察してるとおり、九州にいた女王。
畿内説などありえないのである。
祟神天皇というのはハツクニシラススメラミコトと評され古墳時代の人物と聞く。
卑弥呼は古墳時代よりずっと前の人物ですよ?

369:改め
08/04/26 10:40:58
〈大震國本紀〉
日本舊有伊國、亦曰伊勢、與倭同隣。伊都國在筑紫、亦即日向國也

伊都國在筑紫 亦即日向國也
伊都国は筑紫にあり、日向国ともいう。

この「日向国」とあるのでカムヤマトノイワレヒコが関係しているという
考えは出来ないんですかね?わたしもこれを知ったばかりで聞きたいんですが。


370:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/04/26 11:03:08
>>366
あなたの考えじゃぁ神武以前に卑弥呼が生存していたのだから、後代の天皇の
在位期間が調和が見られなければ不審だということになる。だからそういう考え
での239年が神武以前では、2代以後の天皇の在位がスシ詰めとなって合理性が
ない。これは神武のほうが古いのだということを物語っている。
古墳は災害とか後建築とかのために破壊されることが多々ある。だから古墳の
表見的な理由を絶対として古代を考えちゃうと間違えることになる。

371:改め
08/04/26 11:15:19
わたしは「神武以前に卑弥呼が生存」なんていってない。
>>366にて訂正してるかと思う。

私の考えでは、卑弥呼が活躍したのは神武天皇と同じぐらいか以前の可能性は否定できないが、
決史八代間ではないか?としている。
その基準になるものは上の考えから「祟神天皇の世なんてありえないし、それ以前」
なのは間違いないところ。
「スシ詰め」に関しては天照大神まではさすがにだが、神武天皇ぐらいまでなら
十分考えられる。

372:日本@名無史さん
08/04/26 11:23:46
小国の連合体にすぎなかった倭国の王というのはいわば総理大臣
のようなものです。
出雲の小泉が辞めて蝦夷の安部を立て、安部が倒れれば徐福の
子孫の福田が継ぐ。自民党政治は古代からの日本の政治の在り方
そのものです。

373:改め
08/04/26 11:34:48
>>372
ここまでは卑弥呼が共立される過程。
「倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼」

卑弥呼のまわり
「以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛」
卑弥呼が亡き後、
「更立男王,國中不服,更相誅殺,當時殺千餘人」

「親魏倭王」と認められた「倭王卑弥呼」が小国の連合国家の女王のはずがない。
それじゃ~まるで素人ではないか。私も「弱小国家」なる発言をする場合があるが、
それは卑弥呼亡き後の国家のこと。卑弥呼の倭を小国とは言ってはいけない。

374:改め
08/04/26 11:45:17
大和を象徴する前方後円墳
約4世紀初め~以降、第七代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓こと、
「箸墓」に代表されるような巨大な前方後円墳が各地に現れる。
この前方後円墳とは各地の集合を意味し大和の象徴といえる。
前方後円墳はそれ以前の(二~三世紀?)もあるではないか?と言われそうだが、
ここでは巨大な前方後円墳といっておこう。

ましてや、卑弥呼が活躍した時代とは、
第七代孝霊天皇よりずっと後の第十代祟神天皇の世 なんてふざけてる説なのである。

375:唐松山
08/04/26 11:47:20
神武天皇は伊都國出身? 

宮崎県の宮崎より 信じられる。
筑紫の日向は、日向峠の西か東か?




376:改め
08/04/26 11:51:39
卑弥呼が活躍したのは、二世紀後半~三世紀前半。

「箸墓」(被葬者は倭迹迹日百襲姫命)とは約四世紀初め~のものであるといわれ、
約100~150年も年代が合わないのである。
よって、「卑弥呼=祟神天皇の世」説はあるはずが無い。

377:改め
08/04/26 11:54:43
>>375
さあ、どうなんでしょうね

『桓檀古記』は20世紀の初めに桂延寿によって編修されたといわれている。
20世紀といえばごく最近。 本当に信用していいのか迷う。


378:改め
08/04/26 12:14:06
唐松山氏はたしか 「卑弥呼=景行天皇の世」としてるんですよね?
わたしの上のレスに関してはどのように捉えてるのでしょうか?

景行天皇といえば、祟神天皇よりずっと後に生きた人物。五世紀後半?
「反論」と「卑弥呼=景行天皇の世」ということを証明してみてはいかがですか?

ちなみに、景行天皇といえば、英雄 日本武の尊の父であり九州行幸が有名。
九州各地の神社にも祀られている。

私は食事~また後出来ます。

379:日本@名無史さん
08/04/26 12:48:24
>>376 改めさん
>「箸墓」(被葬者は倭迹迹日百襲姫命)とは約四世紀初め~のものであるといわれ、(以下略)

箸墓古墳は、近年の発掘調査で、(といっても古墳自体は皇族墓なので掘られていないですが、周辺から出る土器型式で)
庄内式土器から布留式土器への変わり目の時期に築造された、と考えられるようになりました。
この時期を「布留0期」と言うことになっています。

さて「布留0期」は、暦の年代だと西暦何年ごろかと申しますと、
これは考古学者によって若干幅があるのですが、
今はどの考古学研究者も、およそ3世紀後半(250~300)の中で考えているようです。

ご存知ではなかったのでしょうか?

改めさんのレスされた、「約四世紀初め~」は、
前述した箸墓周辺部の出土土器とか、宮内庁が陵墓点検のときに見つけた墳頂上の祭祀土器(特殊器台)などが
まだ全く明るみに出ていない頃の考えではなかったかと思いますが、いかがですか。

よろしかったら、「約四世紀初め~のものであるといわれ」のソースを、お示しください。

380:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/04/26 13:12:33
改めさんよ。
古墳というのは修復工事も数回やってたりするだろうから、そんなので結論を
出すのは、合うこともあるが失敗の元。倍暦計算にて

崇神即位元年=239年=景初元年

であるから>>379氏の言う250~300年でも修復とか考慮に入れても、不合理には
ならない。それにあんたは九州説ならば、畿内の古墳は卑弥呼と直接の関係は
薄いから、畿内の古墳云々はこの際、卑弥呼の生存年代にてどうのこうの言う
必要はまるで無い。

それでも不審ならば、あんたが 神武即位元年≒239年 で具体的編年をやって
あんたの説が合理的か検討すべきだろう。その編年を具体的にどのようにそう
なるのか解説してくれ。こっちは別の掲示板で倍暦の解説をしてる最中だ。
あんたもそうすべきだろ。

381:唐松山
08/04/26 13:26:21
崇神6年の 民散るを 193年新羅に倭人餓えのため押し寄せる。に 当てる
この秋の 大国主の記事を 国譲り ととらえる
崇神18年 初めて 船を造る 国の領域が拡大したことを反映
崇神の末 ソナカチ 任那に足がかりを得る (ほつま参照のこと)
垂仁30年ころ 武器を作り、常備軍の編成
この頃より塚が大きくなる、埴輪の登場
景行12年 九州遠征
日本武尊以降 屯倉を置くようになる (何故か?)
273年 神功初年 日食
神功3韓征伐は、各首長より兵を集めて行う=同時期に各地に古墳が作られる=鉄の普及が全国同時

この年数を得る為には 各天皇の治世から19年*n を引く。
各天皇の治世を平均化(1/2,や1/3)では 暦にならないので 書記などの空白を
この19年*n にあてる。
日本武尊が景行18年に九州より帰り 景行40年東に向かう、
この時日本武尊は「西むけ間無く東むけ」と言う。 18年と40年の間は”増し”(是年也?)である。
と読める。

改めさんも 皇紀治世年数から19年*nを引いて 世継ぎが出来れば アリ。


382:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/04/26 13:31:43
>>380 訂正
× 239年    ○ 237年

383:唐松山
08/04/26 13:41:25
追加
田島守の トコヨ国は 洛陽です 楽浪では寒すぎて 橘がない。
渡海の目的の一つに、新しい種を得る が有ります。土産のカグ、カコがそれ。
238年から240年頃になる

384:日本@名無史さん
08/04/26 16:22:26
眞子さまがこのスレに興味をお持ちになられた様です

URLリンク(jssdf.org)



385:日本@名無史さん
08/04/26 16:47:58
Google で「姉歯武之進 仙台藩士」を検索

世良修蔵を斬首し、世良の首を肥溜めに漬けて鑑賞し、それが原因で戊辰戦争を引き起こした張本人。
日本の歴史を変えた奴。

386:日本@名無史さん
08/04/26 17:52:06
>>360
>>363
もしこれが本物なら
魏志倭人伝を編纂する際の参考資料だった可能性は?
なんだか同じ表現がいくつも見える。

神武は日向から逃げて北部九州に何年も居たわけだろ?伊都出身とは
いえないだろ。

387:日本@名無史さん
08/04/26 18:35:32
大震國本紀ってなんだよwww

388:日本@名無史さん
08/04/26 18:59:40
>>387
>超古代からの朝鮮半島の歴史を太白教の「桂延壽」が編集したものを李沂が1911年5月に印刷したとされる偽史書。
>ただし現行の版は1949年に李裕岦が呉炯基に清書させ、1979年に印刷した版である。
>檀君の神話や古代の檀君朝鮮、倭人のことなどが記述されている。らしい

桓檀古記
URLリンク(ja.wikipedia.org)

389:改め
08/04/26 19:16:06
>>379
>考古学研究者も、およそ3世紀後半(250~300)の中で考えている
>ご存知ではなかったのでしょうか?
>よろしかったら、「約四世紀初め~のものであるといわれ」のソースを、お示しください。

卑弥呼が活躍したのは二世紀後半~三世紀前半と言ったはずだが・・。
それに卑弥呼が没したのも三世紀前半(200~250)ですよ?
早まったとしても、時代が全然違うじゃない?
箸墓の築造年代が少し早まったと聞いたことがあるがそれでもピタリ一致しない。
貴方は自ら箸墓は卑弥呼の墓ではないと否定してしまっている。

箸墓が約四世紀初め~半ばに築造されたというのは本に書いてたからであり(タイトル忘れた)
その記憶で言ったまで!卑弥呼は「倭迹迹日百襲姫命」なる人物より前に活躍している。


390:改め
08/04/26 19:37:11
>>380 太国氏
>古墳というのは修復工事も数回やってたりするだろうから、そんなので結論を
>出すのは、合うこともあるが失敗の元。
返答:貴方の倍歴計算より信用しますが?

>崇神即位元年=237年=景初元年
>卑弥呼の生存年代にてどうのこうの言う必要はまるで無い
返答:卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命説崩しをやってるわけですよ。
   四世紀初めにの築造物といわれる箸墓があり、なんで祟神天皇が活躍したのが
   三世紀なんですか?それは計算間違いをしたんでしょう。

>>381>>383 唐松山氏
それは三世紀ではなく四世紀の出来事と思いますが?

>>386
「参考資料」とか「神武は日向から逃げて」・・・言ってることがよく分からないのですが。

391:日本@名無史さん
08/04/26 19:45:12
日本の銅鐸のルーツ? ベトナム・雲南地方の銅鼓、貯貝器の模様(最下方)
逆S字、のこぎり形、流水形、舳先の立ち上がったゴンドラ舟形、頭に鳥羽
を付けた人物、等々器形は全く違うが模様はうりふたつ逆S字は「隼人の盾」の
模様と同じ。

URLリンク(www.hum.u-tokai.ac.jp)

隼人の盾

URLリンク(www.kazuart.com)


392:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/04/26 20:19:58
>>390
どういうわけで信用できないのか、まるで書いていないが、臥海のいうことを
優先で信用するなどと、これも失敗の大元。臥海もあんたの信じてないところの
畿内説なんだろうが?

そんなのを拙者のより信じるなどと、恣意的だろうが? 拙者のを信じられない
なら、この前の某掲示板の論文から不合理を指摘してくれよ。

修理修復してたら、時代の確定はズレるに違いない。エジプトの神殿だって
極端かも知れぬが場所まで国家予算に匹敵する大金で場所移動をしているだろう
が。いまだって高松塚古墳もキトラも修復してるだろう。当時の後代でもそう
いうことはやってるよ。

それにそこまで大口をたたくなら、神武即位=237年 あたりで紀年の構成を
したらどうだ? それをしてないで、臥海を信用するなどもってのほかで、あんた
の恣意的選択にすぎないぜ。

393:判定
08/04/26 23:23:33
太国 ◆yVAs7uaYlYに「優勢」

394:判定
08/04/26 23:24:28
間違えた。
太国 ◆yVAs7uaYlYに「有効」

395:改め
08/04/26 23:31:38
>>393-394
は?なに言ってるの?

この人は卑弥呼=祟神天皇の世 としている。
ようは、トンデモ説。

卑弥呼は欠史八代の世としているわたしのが的をえてると思うが?


396:日本@名無史さん
08/04/26 23:33:19
太国 ◆yVAs7uaYlYに「教育的指導」


397:日本@名無史さん
08/04/26 23:38:07
どっちもどっち。まだサガミや河童の方がマシ。

398:改め
08/04/26 23:42:29
サガミハラハラさんや河童さん
お呼びですよ。

テーマは卑弥呼の活躍した年代についてです。
誰が一番まともな説なのか~?ここで議論して解決すればいいじゃない?
お二人とも~ご指名ですのでお願いしますよ。



399:日本@名無史さん
08/04/26 23:44:57
いやいや、改めさんの説が一番でしょう。

400:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/04/27 00:18:42
>>398

>テーマは卑弥呼の活躍した年代についてです。


記録上では、後漢時末~持統天皇時 と、しときましょうか

401:日本@名無史さん
08/04/27 00:29:17
さすが!河童さん!

402:日本@名無史さん
08/04/27 00:53:25
「犯人像は20代~30代、もしくは40代~50代」


403:日本@名無史さん
08/04/27 00:55:05
張政は南越の兵器廠に務める下級官人の父の子として生まれた
郷校に通っていたがそれほど成績優秀というわけでもなく
また腕白ガキ大将でもない普通の少年だった
大人になり父の仕事の手伝いとして兵器廠の資材部門に勤務
港で積荷の検数・検品などを行っていたが
仕事がら船乗り達とも仲良くなり朝鮮や倭島、比島等さまざまな地域の話を聞いたりして
そのときに聞いた各地域の特産品で主に兵器の材料になりそうなものを報告書にまとめて提出していた
そんなとき邪馬壷国から魏王のもとへ誰か人を派遣してくれとの要請があった
魏王は悩んだ
動乱の時期が過ぎたばかりで行政を担当する官人がめちゃめちゃ足りない
そもそも海の彼方の僻地へ行けなんて命令したら嫌がって反乱を起こすかもしれない


404:日本@名無史さん
08/04/27 00:56:17
そんなとき南越からの報告書で張政なる倭に詳しいぽい人物がいることを知った
魏王はこれ幸いと張政に倭へ行けとの命令を下した
張政は行きたくなかったのだが王命に逆らえば一家まとめて死刑なのでやむなく赴任することになった
南越の港から小さな船で潮流に乗ってドンブラコと揺られながら邪馬壷国へ到着
魏から偉い人がきてくれたと歓迎会を開いてくれたが
酒みたいなものはなんか臭い汁だし魚は生食だし
鳥肉は焼いてあるけど焼く前に羽毛とろうぜ?
獣肉は焼く前に毛皮はがそうぜ?
味付けは海水の塩味だけですか?
米があるのは関心だけど俺は南越人だから米は食わないんだぜ?
顔で笑って心で泣いて、早く国へ帰りたいと思いつつ十数年を未開の地で過ごす
あるとき俺をこんな僻地に追いやったクソったれ魏王朝が潰れたと風の噂に聞く
「よし、もうこんな所にいる理由はないぜ!」
そして邪馬壷国の人々に惜しまれつつも去るのでした

久方ぶりに故郷へ帰ってみると父も母も皆健在
故郷の料理に舌鼓を打ち食す
一応「倭国報告書」みたいなものは書いてみたものの
あんまり詳細に書くと倭国の達人と思われて再び赴任命令をだされるかもしれないので
適当な観光旅行記程度にの内容ににしておいた
まさか適当に書いた観光旅行記が魏の正史に引用されるとは思わなかったよ
まあいいや、もう二度と行きたくないからね


405:日本@名無史さん
08/04/27 04:17:56
ワロタ。本人からすると笑い話じゃないんだろうが、
今読むと、なんか一個の冒険タン的人生として、羨ましい気もしないでもないような

406:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/04/27 08:08:42
改めさんよ。
自分で紀年をあらゆる資料、情報でこうではないかとの考察を精緻に積み上げて、
編年し、そこから卑弥呼が神武以前か神武のころかまたは神武以後かを考えないで
恣意的に神武以前だ神武ころだと先入感を信じこんでいろいろな女王国卑弥呼の
論理を構成すると失敗するぜ。彼女が畿内の人物か九州の人物かを二股かけて
研究し、さらに時代も神武を基準としてどのへんかも三股かけて検討して結論
しないとあんたの論はまぁ失敗の淵だな。編年をしてないようだからな?

あんたは神武ころか神武以前を含んでの設定をしてるようだが、それは卑弥呼が
安本先生説のアマテラスだという先入感が拭えないで強信してるんじゃないの?

神武のころで、どのように在位期間が正確に決まるのか? そういう基盤を強固
にしてから神武のどっち時代かをっ決めてないんじゃ勝手な盲信からの希望的
こうだとの主張であり、おまけに臥海の畿内説は信じない古墳は信じるなど、
恣意的論拠での恣意捏彦では失敗はミエミエ。こっちは某古代史掲示板で只今
14回も長論で論を展開して、まだ途中論だが卑弥呼が神武以後の人物と結論して
いる。このように積み上げがないでこちらをトンデモだとは? あんたの自説が
他ならぬトンデモだということよ。w

407:日本@名無史さん
08/04/27 10:47:29
邪馬台国も高天原も九州にあったという固定観念に縛られていること自体、誤りの原因。
もっと広い視野であらゆる可能性を検証していかないと本当の歴史は見えてこないものだよ。

408:改め
08/04/27 12:35:14
>>406 
>彼女が畿内の人物か九州の人物かを二股かけて
>研究し、さらに時代も神武を基準としてどのへんかも三股かけて検討して結論
>しないとあんたの論はまぁ失敗の淵だな。編年をしてないようだからな?

二股、三股はいけません!彼女に嫌われてしまう。

>安本先生説のアマテラスだという先入感が拭えないで強信してるんじゃないの?

先入観なんてないし、大体、アマテラスでは一致しないと思うんですがね。

>こっちは某古代史掲示板で只今、14回も長論で論を展開して、
>まだ途中論だが卑弥呼が神武以後の人物と結論している。

別サイトで古代史研究ですか~!ご苦労さんですw
わたしは無駄な倍歴計算をするぐらいなら他サイトでメイロやってますけどねw

409:日本@名無史さん
08/04/27 13:15:28
古代王朝から日本の権力者は、対抗する勢力から娘を差し出させ
二股も三股もかけて子供を産ませ、その中から一番ふさわしい者を
後継とすることによって権力を維持してきた。一夫一婦制になったの
は戦後のことです。

>>408何人と付き合おうが恥じることはないよ。九州では普通です。

410:唐松山
08/04/27 13:43:18
273年 神功初年 日食
4世紀に 神功初年 日食 に相当する日食が有りません、日食はたくさんあるが、有りすぎて…
3世紀末より 各地に古墳 分散と鉄器の大量導入を考えねばならない。

書記において 読み替えを 最小限に抑えると、
これらを満足させるのは、神功時代。
垂仁、景行時代では、関東に古墳は早すぎる。





411:改め
08/04/27 14:05:37
Aさんは規制でここへはこれないらしいです。
昨日、別サイトでGWは古代史旅行へ行くとか言ってましたね。

>>409、>>410 貴方達はGW連休を使って行かないんですか?


412:日本@名無史さん
08/04/27 14:33:54
東国原知事、そのまんま東の時代、格上の「かとうかずこ」を落して、
「年中夢中」でロリが発覚、謹慎した過去を持ちながら知事に当選。
知事になっても20代OLに手を出して、公邸にお泊まりさせて手切
れ金150万円を渡せば、「責任は果たした。県民に恥ずかしいこと
は一切していません。」とのたまい、それに何の反応も示さない宮
崎県民。まあ、九州の感覚では、それで普通なんですよ。

GWはもちろん女王ハントに・・(嘘です)

413:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/04/27 15:25:28
>>408
どっちか判明しなければ二股、三股は安全策と云える。お前のは編年が
まるで無い。それではまず論理は出鱈目に走るのは当選確実だな。

神武即位の実年代も説明できないで、卑弥呼が神武以前か以後かそのあたりか
決めてるんではお前のは無計画性だということである。

単に口先でああだこうだと断定してるだけで、論拠の根源には解説が0の状態
にある。二股三椏をかけたくないなら、コテハンの多股は止めたほうがいいん
ではないのか。

414:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/04/27 16:05:21
>>408
無駄かどうか、これの ↓ 左半分しか数字がない事を説明してから能書きを言え。


【日本書紀の欠史八代の記述の立太子、即位、崩御、立后等の日数統計表】

1日 4  15日 0  29日 0
2日 2  16日 0  30日 0
3日 3  17日 0
4日 3  18日 0
5日 6  19日 0
6日 3  20日 0
7日 2  21日 0
8日 3  22日 0
9日 3  23日 0
10日 1  24日 0
11日 4  25日 0
12日 3  26日 0
13日 3  27日 0
14日 7  28日 0


415:日本@名無史さん
08/04/27 16:21:53
話の流れを読まずに、思ったことを言わせてもらえば
その時代は、違う暦を使ってたように思えるな・・

何を基準に、そんな暦が出来上がったのかは解らんが。不便で仕方がない

416:日本@名無史さん
08/04/27 16:38:09
一年が190日では季節感も何もあったもんじゃない。
大和の雅な人々には毛嫌いされていたのもうなずける。

417:日本@名無史さん
08/04/27 16:58:44
太陽や月の動きを基準にして作った暦じゃないよな・・
何か宗教的な思想に基づいて作られたか、古代中国なりどこかの地域で
使われてた暦を輸入して使ってたか・・
何故、そんな暦を使う必要があったか理解出来ん


418:唐松山
08/04/27 17:09:44
孝元,
ホ32154 カゼフなす これヲヲナムチ タナカノリ ミナツキソムカ ヲコナヒは (水無月16日)
ホ32190 ツルギシマ ナツキスエヨカ メトモやむなり (長月24日)
開化
ホ32239 タカヒメが サのモチにうむ ハツラワケ イムナタケトヨ (皐月15日)
崇神
ホ33013 ハツトシの キサラギサウト ソムツミヱ ヲヲヒコのメの (如月〔48さうと朔〕16日〔4つみえ〕)
ホ33029 ヨホメスエミカ ミコトのり (23日)
ホ33052 ムトセアキ ヲヲクニタマノ カミうつし ナツキソムカヨ アスのヨハ アマテルカミの
ミヤうつし (長月16日)

偽書ですか…

419:日本@名無史さん
08/04/27 17:24:03
日が例え15日でも、月の満ち欠けと言う天文までは弄れない。

420:唐松山
08/04/27 18:07:03
足りないといけないので
神武
ホ30140  ヨホキサラ ネウヱのキナヱ ミコトのり (59ねうえ朔、21きなえ)
ホ31088 ナソムトシ ムツキのモチに ミコトのり ワレすてにおい (睦月、望)
綏靖ほか
ホ31155  ツアトハル ハツヒサナヱの ことほぎし スエヒカサヤエ (57さなえ朔、21日、17さやえ)
ワカミヤの イミナヤスギネ トシヰソフ アマツヒツギを うけつぎて
ホ31222 サヤトナガモチ キサキうむ イミナシギヒト タマデミコ 
ホ31277 ヨホツヤヱ ウツキソヰカに ヌナソヒメ うむミコイムナ
ヨシヒトの ヲヲヤマトヒコ スキトモぞ 
まだまだ有るけど この辺で。



421:日本@名無史さん
08/04/27 18:14:26
>>415
> 話の流れを読まずに、思ったことを言わせてもらえば
> その時代は、違う暦を使ってたように思えるな・・

つーか、敢えて誰も触れないことなんだけど、
太国の出した日付データは神武暦の干支をグレゴリオ暦に換算したものw
その意味するところをご本人は気づいていないのだが・・・


422:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/04/27 19:37:29
グレゴリオ暦に換算すると1日~14日に収納されるのか?ww

423:日本@名無史さん
08/04/27 20:30:23
秋篠宮眞子様
めっさ萌え系美少女に育ってないか?
あれやばくね?

424:日本@名無史さん
08/04/27 20:35:51
>>422
どうやって、上の暦引っ張り出してきたか
説明ヨロシク

425:日本@名無史さん
08/04/27 20:39:13
>>422
ついでに >>415>>417
疑問に答えてくれると有り難いんだが…

426:日本@名無史さん
08/04/27 21:10:53

稲作が中国から直接日本に伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら九州・西日本に伝わった最初の稲作が既に弥生前期末には
伝わってきていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から直接日本に伝来した事の証拠にはならないのである。

URLリンク(www.athome-academy.jp)

427:日本@名無史さん
08/04/27 22:18:16
倍歴なんて、トンデモ説を信じている人の気がしれません。

428:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/04/27 22:21:39
>>424
上の表って、>>414表のことだな? 引っ張り出したのは改め氏がトンデモだとか
無駄な倍暦計算だと、ろくすっぽ正規な反論もしないでこういう書きこみをして
るから、こちらは具体的論拠を表で示して倍暦の文証を真面目に提示して、反論
できるならやってくれとあいつに言ってるという意味のことだよ。だからその表
を引っ張り出したわけさ。

429:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/04/27 22:25:00
>>427
お前自信が無説でトンデモだというなら、仁徳以前の天皇の超長寿を認容したこと
になり、生物学的にお前のほうがトンデモになる。www
それに>>414表はどういうふうに説明するのか? これでは八代間は当時は1年が
今の半年とかになるぞ。

430:日本@名無史さん
08/04/27 22:43:01
>>429
>当時は1年が
今の半年とかになるぞ。

と言うことは、一年を承知の上で半年に縮め意図的に引き伸ばしをしたのか?
或いは、一年のサイクルとは別の感覚で当時はリアルに年が刻まれていたのか?

431:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/04/27 22:45:44
>>425 >>415
>違う暦を使っていたように思える

そのとおりだ。当時は通常暦に違えて2倍暦と3倍暦法を行使していたのだ。
ところが大陸半島側は通常暦でやっていたから、日本の暦法と年代が合わず、
紀の編纂者らは困ってしまっていたのさ。その関係でいろいろと調整をやって
出来たのが紀であり、その調整は失敗であった。とりわけ欠史八代あたりが
年代の不合理が丸見えで、このため彼らは八代間の史実を記載することをため
らったわけ。だからその間は史実の記載がほぼ皆無になってるのさ。

神功皇后を卑弥呼にあてたのもそのためで、当時は干支で年代を記述して
いたから、干支はいかめしい二漢字での記載なので、どうしても数年の誤差でも
大間違いに感じられる。そのため干支数の60の倍数で訂正をやろうとした。
干支は60年で一巡して同じ二漢字になるからだ。卑弥呼の場合は120年をズラ
して年代矯正をやった。下心に卑弥呼が神功ではあるまいかとの想いがあっ
たかだだろう。倍暦計算と120年を古代に移動して

崇神即位元年=237年=景初元年

だということが分かる。

432:日本@名無史さん
08/04/27 22:47:22
たとえば、ヤマトタケルも一人の人間を指すのではなく、ヤマトタケル一族を指すという
見方もあるように、100歳以上生きたのはおかしいということではなく、二代、三代と続
いた一つの集団としてとらえるべきだと思います。たとえば、相撲の木村庄之助と同じ
です。

433:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/04/27 23:03:09
神武は五世紀後半   と、書いとこう。

434:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/04/27 23:06:37
>>430
それは承知の上だったと想う。神道の大祓いも6月末で区切っている。当時は
現今の6ヶ月が古代の1年だった時代があったのさ。

>>417
なぜそんなことをしたのか? これは説明が長くなるが、事の発端は神武の兄の
五瀬命が五月に戦死したことだ。これで神武は大きな衝撃をうけた。当時の朝廷
は熱帯雨林の蛮族に似て迷信が重要な意味を持っていた。迷信で事を決断して
いたことは大いにあったはずだ。五瀬命が名前の数字と合致した月に戦死
したことで、神武は5月を凶の月として5月以降の月もろとも無の空白との決断
をしたのである。高天原の五月蝿なす状態を嫌っていたこともあって、5月は
凶月と為し、迷信はさらに進んで神武は5月以降の月を抹殺したのである。
方位で五黄殺を凶方とする如くだ。紀の佛伝以前の記録では5月の記事が殆ど
ない、それほど5月の記事が少ないのである。

だから神武紀には、即位から崩御までの記述には5月~12月が全く無いのはその
ためである。そして崩御直後、次代の神沼河耳尊は通常暦に戻している。これは
神武の崩御を5月以降の9月にやっていることと、尊が5月に崩御してること
からこれが分かる。

435:日本@名無史さん
08/04/27 23:06:38
河童も戴した事ねぇーな

436:日本@名無史さん
08/04/27 23:10:36
いっそ、1月1日に死ねばよかったのに・・ぷっ
身勝手に暦を変える王朝なんて庶民がついてくると思ってるのかね?

437:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/04/27 23:13:42
>>434
神武紀には即位以後崩御まで、かように5月以後の記事がない。つまり1年が
1月~4月までの4ヶ月だったということになるのだ。ということは、当時は
1年が現今の1/3だったということになる。これは3倍暦をやっていたということ
なのだ。ただ即位前の九州から畿内へ行き、即位するまでは通常暦法をやって
たと想われる。というのは、即位前は12ヶ月、殆どの月の記事が存在するから
だ。それで即位して3倍暦を決断したことになる。

438:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/04/27 23:22:09
神武は 五世紀後半
五瀬命は 二世紀後半  と、書いとこう。

439:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/04/27 23:24:58
>>436
それはついてこないこともありえたろう? 身勝手かどうか知らんが、現今の
グレゴリオ暦の初期たるローマ暦でも暦の変更をやっている。

初期暦は1年がなんと10ヶ月で暦法を行使していた。1年が304日である。それ
がb.c.46年のユリウス暦である。次いでb.c.8年アウグスツス帝改正で暦法を
変更したそうで、ここで1年が12ヶ月に変わった。そして
1582年にグレゴリオ暦へと、身勝手なのか? 変更となった。

フランス革命暦なんぞは身勝手で庶民がついて行けなかったろう? この暦法は
全部が全部10進法でやったわけで、フランス国民も閉口したはずだ。

440:日本@名無史さん
08/04/27 23:34:38
>>437
俺の思い違いならスマンが
一年が一月から四月までで、一ヵ月が一日から十四日までなら、
実際の一年間をさらに倍の、六年に引き伸ばしてる事にならんか?

441:日本@名無史さん
08/04/27 23:34:57
電波ですか?

442:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/04/27 23:35:29
>>434 訂正
× 神武の崩御を5月以降の9月にやっていることと

○ 神武の葬儀を5月以降の9月にやっていることと

443:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/04/27 23:41:54
>>440
さっきのは欠史八代のことです。神武は今回の論説です。八代間は記事が狭小の
為、2倍暦3倍暦等の行使までは判明しますが、それでは個別の天皇の具体的
使用日数が何日から(まぁ1日からでしょうがw)何日までだったかという事に
ついては例外の可能性もあり、定かではないのです。おおまかとしか判明
しないのがここの八代間ですが、倍暦と通常暦のいずれだったのかについては
分かるようです。

444:日本@名無史さん
08/04/27 23:46:54
>>443
理解した
2倍暦と3倍暦って、そういう意味ね…

445:日本@名無史さん
08/04/27 23:51:01
神功皇后説

熊襲の女酋説

筑紫君の祖、甕依姫(みかよりひめ)説

倭姫命(やまとひめのみこと)説

ヤマトトトヒモモソヒメノミコト説

卑弥呼=下照姫説

アマテラス=卑弥呼説

日女命(ひめみこと)説

卑弥呼=卑弥呼説

さて、本物の卑弥呼はどれでしょうか?


446:改め
08/04/28 00:02:11
>>413-414
あのですね 太国さん!
月が半分とか、考えたらいけません!それは記紀の中での年代を編纂者がどう書き表したか。
アマテラスの時代も神武天皇の時も1年は1年です。もちろん月は一月。
半年とか考えないほうがよいですよ。
つきというのは月が欠ける陰陽によってつけられてると聞いてます。
年に関しても同じです。ようは、宇宙学に関することですよ。
桃、栗三年、柿八年というコトワザはご存知ですよね?
アマテラスよりずっと前の世でモモヒナキ、モモヒナミの桃の話は知ってますか?
桃の種を植え、実がなるまで三年三ヶ月三日かかったそうです。
その当時から、1年というのはあるんですよ。
実際にも桃の実がなるまで約三年かかる。

447:太
08/04/28 00:07:22
>>446
ふ~ん。じゃぁあんたは桃栗三年とかを重視してかつ、1年が1年
だから多数の古代天皇の百数十歳という超長寿を遠回しに肯定
したことになる。つまりあんたは生物学的の各天皇百数十歳説の
トンデモを認容したことになる。

ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・

448:判定
08/04/28 00:14:40
太国が正論だと思うが、スレ違い。

449:改め
08/04/28 00:20:13
>ふ~ん。じゃぁあんたは桃栗三年とかを重視してかつ、1年が1年
>だから多数の古代天皇の百数十歳という超長寿を遠回しに肯定
>したことになる。

貴方は「一年という自然(宇宙的?)の絶対数」と「記紀の編纂者が書いた一年」とを
同じに扱ってるからそうゆう言葉になるんですよ。
わたしから言わせれば貴方の質問自体おかしいというか。
同じに考えたら駄目です。一年は1年。一月は一月。
記紀の編纂者の一年と実際の一年とを合わせるなということ!

>各天皇百数十歳説のトンデモを認容したことになる。

まず、その考えから間違ってます。なぜそうなるのか私には理解ができない。


450:改め
08/04/28 00:30:20
あのね みなさん>>413-414みてごらん!
15日以降~の日がないって?んなアホな!
「日」というのは太陽が明けて→沈んで→また明けて
「月」というのは月影の陰陽
「年」というのはなんだっけ?!wなんたら宇宙学のはず
こうして昔から決まってるんですよ。
たしかに、天と地を結ぶ、豊受の神さんのころは「木(何の木か忘れたが)」を
使って年数を数えてたと聞くが、それは表わし方の違いであって、日も月も年も
自然のあれは変わらないんですよ。
太国氏はそこのところがごちゃ混ぜになってると思う。
一緒に考えるなといいたい!

451:改め
08/04/28 00:37:36
>>448
>太国が正論だと思うが

どこが正論なん?
あの人は記紀編纂者が書き表した年数と実際の宇宙学とをごちゃ混ぜにしてるだけ。
記紀編纂者の中のみでやったほうがいい!といいたい。

>>438
>神武は 五世紀後半
>五瀬命は 二世紀後半  と、書いとこう。

貴方も太国氏と同類。
神武とは奈良時代の人物が贈った物。
その「神武」とはカムヤマトノイワレヒコなる人物を「指して」贈り名を記したわけで。
この場合、現在百二十五代続いてる天皇家の「初代」とする。五世紀後半のわけがないw
それに神武と五瀬は兄弟でしょ?分け分からない!!笑われますよ?河童さん

452:改め
08/04/28 00:46:29
「桃、栗三年、柿八年」
三年三ヶ月三日というのは、
天武天皇はおろか、初代神武天皇、皇祖神天照大神、より以前の
天津神モモヒナキの時代のいわれです。
遥か昔の時代から年、月、日が存在したということ。
それを欠史八代の頃は、「月が15日以降ナイ」とか言ったらいけません!
記紀編纂者がそう書きあらわしただけ。
では、私もそろそろ寝ます~後は皆さんでお好きなように!zzzzzz

453:日本@名無史さん
08/04/28 01:58:23
一年の長さうんぬんの計算より、実際に長寿だったという解釈が一番
素直だろう。姑息な算術には誰も魅力をかんじない。
常識的判断だけでなく民族の根本由来神話を生きたものにするには主知主義の超克も
また必要。迷信とか言い出したら角を矯めて牛を殺す愚かの謗りも逃れ
られまい

454:日本@名無史さん
08/04/28 02:13:45
一年の長さうんぬんの計算より、実際に長寿だったという解釈が一番
素直だろう。姑息な算術には誰も魅力をかんじない。
常識的判断だけでなく民族の根本由来神話を生きたものにするには主知主義の超克も
また必要。迷信とか言い出したら角を矯めて牛を殺す愚かの謗りも逃れ
られまい

455:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/04/28 06:39:24
>>451


(-。-)y-゚゚゚

456:河童虫 ◆EY2wfgakAQ
08/04/28 07:42:57
>>451

神武と五瀬は兄弟だって?
都合のいい部分は受け入れて、太国さんが謎とする暦は否定するの?
そりゃ変だろう。
太国さんの説明が正しい云々の前に、記紀への取組方自体に疑問を

カムヤマトイワレビコは表題に登場し、五瀬命は本文に登場する事も踏まえて。

457:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/04/28 10:32:00
>>449
>1年という自然(宇宙的?)の絶対数
1年が1年365日余というのは絶対ではない。今から3億5千万年前は1年が
400日近くあった。珊瑚の年輪の中に日輪があり、地球の自転が現今より早か
ったということを珊瑚が物語っている。つまり改め氏の絶対という考えはこれで
まず揺らぐのである。

458:太国 ◆yVAs7uaYlY
08/04/28 10:52:44
>>453さん
その線は生物学的に困難ですよ。神武から仁徳まで、殆どの天皇が百数十歳の
超長寿であったなどと、まず無理なことでしょう。

>>449
古代マヤ文明では確かに1年が1年(=365日)の暦法(ハアブ暦)があったが、
1年が260日の暦法が同時に並行して存在、行使されていた、この260日暦法と
いうのはアステカからの名からトナルアマトルの名で学者が呼称していたが、
現在はツォルキン暦との名で呼ばれている。神聖暦とも云われ、占いの暦法で
あったらしい。

これを考えても改め氏のいう1年が現今の1年(=365日余)だとの主張は
必ず氏も言えず、真っ赤なデタラメであることが云える。また古代エジプトでも、
B.C.2772年以降は1年が265日の暦法であったという。(2,3年前のTV6chの
世界不思議発見で放送)

かように彼の言い分は現代文明に染まった上での恣意的希望の、未経験的妄想
であり、デタラメ王であることは当選確実である。

459:改め
08/04/28 13:38:33
>>456-458のお二人は、
日本書紀~いわく、「天地の中に葦の芽のようなものが生成され、国常立尊の次、『国狭槌尊』」
ようはトホカミエヒタメ、の 一~十二月まで治める話とか聞いたことナイんだろうね・・・。
んで、よく~「太国さんが謎~」とか「1年が 400日近くあった」なんて言うよ。
大体、「月名の呼称」のムツキ、キサラギ~シワスは知ってる?
これらも明治時代から始まったんではないよ?違うよ?w

一年=三百六十五日
宇宙の星の周期とかの宇宙学というやつですよ。
ハイ 全て天照大神以前からです。   これにて以上! 卑弥呼の話にでも戻しますか?

460:日本@名無史さん
08/04/28 13:44:20
まぁ、暦が云々は置いといて・・卑弥呼を神功皇后に置き換えるのはどうかと思うが・・

書紀に出てくる神功皇后と、魏志倭人伝に出てくる卑弥呼の記述に違いが有り過ぎるってのが根拠だな。

以前読んだ、井沢の本では古事記に出てくるアマテラスと卑弥呼の類似性をあげ
古天文学の皆既日食が起きた日の計算から、卑弥呼が死んだであろう日まで計算してて
それなりに説得力があったもんだがな・・

461:改め
08/04/28 13:48:50
>>460
・卑弥呼=アマテラス説
・卑弥呼=神功皇后
これらは、常に人気あるよね。

>それなりに説得力があったもんだがな・・

詳しくその説得力があったという内容を書き込んでくれませんか?
わたしは食事にいくので後で~それを見てコメントしますよ。 では・・・

462:日本@名無史さん
08/04/28 13:56:07
>>461
ずいぶん前に読んだから詳しく覚えてないぞ・・?

確か卑弥呼=日巫女と置き換えて、卑弥呼は太陽を崇める巫女の役職名だったこと。
また、アマテラスが太陽神であることから、天の岩戸神話が皆既日食を指してたんじゃないか・・ってこと。
・・で、古代の天文学が発達してない時代に起きた、皆既日食が
卑弥呼の霊力が落ちたために起きたのだ・・と捉えられて、卑弥呼が殺されたんじゃないか・・ってこと。
さらに、その原因になった皆既日食が3世紀初頭に起きたものだったんじゃないか・・ってこと。

大まかに言って、そういう内容だったと思う。


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