京都御苑内の公家町について語ろう!at HISTORY
京都御苑内の公家町について語ろう! - 暇つぶし2ch631:日本@名無史さん
07/09/26 21:06:31
戦乱や天災で文書や記録が焼失すると、家礼として仕えていた
清華以下の公家衆はすたこらさっさとその家から逃げ出して、
残っている家に乗り換えるんでしょ?それで結局一番残った近
衛に家礼が付き、五摂家中でも筆頭の格付けになったという・・・

632:日本@名無史さん
07/09/26 21:08:34
ところで、富小路家って、土倉から成り上がってケイズ買いして
公家成りしたって聞いたんですがね。本当?

633:日本@名無史さん
07/09/26 21:19:07
確かめようがないことは言わないほうがいいと思う
絶対、血が繋がっていないとは言えないでしょ
創設当時の記録が本家とかに残っていないだけかもだし
母の身分がとてつもなく低い庶子ってこともあるわけだし
嫡男と庶子が仲が悪いことはよくあるし

634:日本@名無史さん
07/09/26 21:23:14
ケイズ買いは別にして
綾小路、錦小路に次ぎ
富小路は、いかにも公家風でオレは好きな名字だけど

635:日本@名無史さん
07/09/26 22:18:02
以前ここで紹介されてた西尾市の近衛邸、ググッたら出ました出ました
でも茶室だけみたいだね
移築が平成7年だってさ
なんで京都御苑の旧近衛邸跡に移築できなかったんだろう
もし旧近衛邸跡に再移築されていたら九条家茶室と双璧になって観光ガイドにも載る存在であったはずなのに
残念
官公庁は、遅いし堅いからダメだねぇ

636:日本@名無史さん
07/09/26 22:37:21
京都御苑には既に近衛家茶室(仙洞御所の又新亭)があるからいいんじゃない。

637:日本@名無史さん
07/09/26 23:29:38
>>632
え、富小路家って、そんな成り上がり説があるの?
まず、ありえないと思うが、
どんな説なの?

638:日本@名無史さん
07/09/26 23:34:50
近衛家跡の庭園はイイよねぇ
明るくて華やかで
特に春の桜の季節はサイコー

639:日本@名無史さん
07/09/26 23:39:33
西園寺、転法輪、大炊御門など
清華家の邸が小さいのは何でですか?
羽林家、名家よりも小さかったりするんですが。

640:日本@名無史さん
07/09/27 00:05:24
家格よりも、旧家か新家かということと、実質の収入(家業)、公家町に敷地を拝領したときの
家の状態(謹慎、当主の年齢、当主の官職)が影響しているから理由は一概には言えません
清華をあまりにも特別に考えすぎなのでは?

641:日本@名無史さん
07/09/27 00:15:51
>>640
清華は大したことなかったんですか?
いつごろか落ちぶれてしまったのなら残念ですね。

642:日本@名無史さん
07/09/27 00:44:21
摂家以外はたいした事ないよ
食うや食わずの貧乏暮らしで娘売って生計立ててたほどだしね
公家というか朝廷自体が斜陽でボロボロだったし。


643:日本@名無史さん
07/09/27 00:50:42
たしかに転・三条家の屋敷地は狭いよね。
北隣の今城家と同じくらいだし、左むかいの甘露寺家、万里小路家より狭いのも
気になる。
 1997年から2002年まで行われた御苑内の発掘調査において、三条家の屋敷跡地
も東隅の一部の遺構が検出され、家紋瓦などが発掘されたようだが、
その調査によると、屋敷地の南北はおよそ60メートル程のようだ。
古地図をみると、敷地は随分と横長に見えるが、実際はやや横長程度なので、
東西の長さも、南北の長さ約60メートルより、やや長い程度かと思われる。
イメージとしては、50メートルプール2つ分弱、くらいだろうか・・・・。

644:日本@名無史さん
07/09/27 02:01:20
>>637
有名な話だよ
ただし土倉の富小路は100年ほどで途絶えて
その後2度血統が入れ替わってる

645:日本@名無史さん
07/09/27 02:16:12
エッセー集だけど、白洲正子の『遊鬼』(あそびおに 新潮文庫)を今日買ってたら、
「お公家さん」ってタイトルの10ページくらいの随筆があって、面白かった。

彼女が11,2歳の頃(大正10年くらいか?)、父の伯爵・樺山愛輔といっしょに
京都の冷泉家に訪問したそうだ。そのころ樺山家と冷泉家は、間に柳原家を通して
姻戚関係にあり、当時あの柳原白蓮の不倫騒動で、とばっちりを受けたくない冷泉家の
相談役を樺山愛輔が引き受け、その用件で訪問したわけだが、
薄暗い玄関先でしばらく待っていると、書生さんが応対に出てきて、
玄関の隣の座敷で待っていた当主に、襖を開けると
「地下人(じげびと)が参りました」と報告したそうな。

これには父の愛輔も苦笑せざるを得なかったそうだが、少女だった彼女も、
いまだに平安朝のコトバが使われてるのでおかしかった、と回想している。
ちなみに、通された座敷でも、ごく自然に、当主が床の間を背にして座り、
彼女たちは下座にいて、挨拶を交わしたそうだ。また、当時の冷泉家は
今よりずっと逼迫していたらしく、どこもかしこもかび臭く、天井には
雨漏りがし、畳もじめじめして気持ち悪かったとのこと。家族も奥のほうに
引きこもっているのか、邸の中はしんとして物音ひとつしなかった、と述べている。

その他、当時の公家華族がとても貧しかったというエピソードや、したたかな生き方に
一貫して批判めいた視点で書いているが、総じて興味深かったので、ぜひ
すーぐ読めちゃう長さなのでお勧めです!

646:日本@名無史さん
07/09/27 02:22:51
>>645
財団法人冷泉家時雨亭文庫が設立される前夜、この冷泉家の朽ちかけた公家屋敷は、
冷泉家の者にとって、大きな重荷でした。
それがかけがえのない文化財であるとは知りつつ、大きすぎる邸をもてあましていました。
あっちこっちの雨漏りの応急処置だけで精一杯で、税負担も重く、建物への愛着と現実の中で
途方に暮れる日々を過ごしていました。
                                冷泉貴美子談

647:日本@名無史さん
07/09/27 02:28:14
>>646
>大きすぎる邸をもてあましていました。

冷泉邸公開のとき見てきたけど、そんなに建坪広くなかった。部屋数も。
生活感もなく、ほんと、どの部屋でどう生活してんだろ、とマジで疑問に感じた。

648:日本@名無史さん
07/09/27 04:23:33
>>647
お寺を考えてみればいいんじゃね
お坊さんの家族は庫裏で暮らしてる
本堂や法事用の座敷に生活感はない
公家屋敷もそんなもんじゃねえの

649:日本@名無史さん
07/09/27 08:37:35
648さんに同意、うまいこと言いますねぇ
公家の家は、所領管理の事務所や家業(歌道)の関係者(門弟、来客)の教室を兼ねた施設っぽいもの。
生活しているのは(していたのも)別棟だと思います(寺院は、そう)。
今はとくに
意外と洋間で床暖房のフローリングだったり
音響機器が整ってたりするんだろうなぁって思いますよ。

650:日本@名無史さん
07/09/27 08:59:02
昨夜、清華の屋敷の広さの話題が出てたけど公家町の古地図は正確さを欠くね
地図によって大きさがマチマチ。想像だけど、地図作った商人が目で見て、自分の思い込みと主観で描いたんだなあと思う。
測量もしてないだろうし、公図じたい無いんだから仕方ないけど。
隣り合った空き屋敷を、一つの家として大きく描いていると見受けられる地図もある。
でも公家の屋敷は、やっぱりデカイと思う。この地域の庶民の多くは極小の町屋(長屋)暮らしだから、地図上小さな堂上家の家でも、庶民から
見たら豪邸だったろうと思う。地方の田舎の百姓の家は大きいけど、ここは都のド真ん中、地価も最も高い場所だったと思うからやっぱり貧しか
ったと言っても、庶民の貧しさとはレベルが違うんじゃないかなあ~。

651:日本@名無史さん
07/09/27 10:57:09
公家住宅って全部杮葺きだったんですか?
公家町は冷泉家みたいに平屋で杮葺きの住宅街だったんですか?
もしそうだったとしたら、すごく古風ですね
室町時代から進んでないかんじ
寝殿造りの名残りなの冷泉家って


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