【初心者】スレッド立てる前に質問をPart20【歓迎】at HISTORY
【初心者】スレッド立てる前に質問をPart20【歓迎】 - 暇つぶし2ch2:日本@名無史さん
07/08/07 15:21:02
過去スレ
Part1 URLリンク(academy.2ch.net)
Part2 URLリンク(academy2.2ch.net)
Part3 スレリンク(history板)
Part4 スレリンク(history板)
Part5 スレリンク(history板)
Part6 スレリンク(history板)
Part7 スレリンク(history板)
Part8 スレリンク(history板)
Part9 スレリンク(history板)
Part10 スレリンク(history板)
Part11 スレリンク(history板)
Part12 スレリンク(history板)
Part13 スレリンク(history板)
Part14 スレリンク(history板)
Part15 スレリンク(history板)
Part16 スレリンク(history板)
Part17 スレリンク(history板)
Part18 スレリンク(history板)
part19 スレリンク(history板)

3:日本@名無史さん
07/08/07 15:28:22
前スレの994
>幕府が朝廷に代わって元号決定権を獲得を望んでいたとしたら、
>せっかくの幕府主導による元号を辛酉革命説如きで改元を許すとは思えないが。

前スレの997
>あと、ウィキの寛永の項目を見ても、「甲子革令」は名目は実際は「将軍代始改元」と書かれているから、
>秀忠→家光の将軍交代がなければ、甲子革令もやる気がなかった可能性もあるとも解釈できるな。
>朝廷は甲子革令だと言い張っていたが、実際には幕府の圧迫に負けての将軍代始改元であったと。

それでは、そのあとの天和改元(1681)以降の辛酉改元、貞享改元(1684)以降の甲子改元が江戸時代を通じて確実に行われていることは、どう説明する?

4:日本@名無史さん
07/08/07 19:11:04
しょうがないので、俺が見つけた『天正遣欧使節記』(デ・サンデ著/雄松堂書店)の中の、対話部分のテキストで、「日本人の奴隷(奴隷貿易)」について言及しているものをアップしておきます。p232-235

ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。
URLリンク(d.hatena.ne.jp)
URLリンク(d.hatena.ne.jp)
「鎌倉時代概観」  
また一時の権宜として制禁であった人身売買等をも黙認
URLリンク(www015.upp.so-net.ne.jp)
高岡法科大学  
なんと言っても、人身売買禁止政策の最大の敵は、鎌倉時代以来700年以上も続いてきた公娼(こうしょう)制度であった。
URLリンク(www.takaoka.ac.jp)
藤木久志
 『雑兵たちの戦場』 
「中世の傭兵と奴隷狩り」  
中世の「公」的行為であった検断・追捕の際の濫妨は凄まじいものがあり、
URLリンク(www5a.biglobe.ne.jp)
《江戸川柳選》  
孝行も四つ手不孝も四つ手なり  
←孝行=親の借金返済のための身売娘,不孝=道楽息子  
URLリンク(www.j.u-tokyo.ac.jp)
スラブ【Slav】   インド‐ヨーロッパ語族の中の、スラブ語を使う民族の総称。
yahoo.co.jp
slaveの語源はSlav 社会保障が原則無い個人主義の国は,文字通り体が資本

 同時に,秀吉は宣教師に,海外に売られた日本人を直ちに帰国させるよう命じており、まだ日本の港にいる日本人奴隷は買い戻すよう命じています。
(秀吉は、日本人が人身売買に関わっていることも認識しており、そうした仲介人や船主を磔刑としています)

 天文年間、弘治年間頃から主に九州の日本人、特に女性が売買の対象となっていました。
(山野野衾 ◆a/lHDs2vKA 他 in 日本史板)
URLリンク(mltr.free100.tv)

売春婦は性奴隷ではないと,公娼制度は性奴隷制度ではないと小林よしのりも言っているが,日本史板でも小林よしのりと同じ意見でしょうか ?

5:日本@名無史さん
07/08/07 19:16:48
侵略
なお一般的には、たとえ主権・領土・独立を侵したとしても、その国の危険な政策を改めるためになされる場合は、それが一時的であり、相手に発言の機会を与え、目的の達成後に独立させるときに限り侵略とはみなされない。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

人身御供
東アジア
日本では人柱など。
転じて同様の行為にも使われる。
「白羽の矢が立つ」とは、元々このことをいった。
白羽の矢は所謂匿名による指名行為であった訳だが、これらは霊的な存在が目印として矢を送ったのだとされ、この矢が家屋に刺さった家では、所定の年齢にある家族を人身御供に差し出さなければ成らないとされた。

アメリカ大陸
アステカ人は「太陽の不滅」を祈って、人間の新鮮な心臓を神殿に捧げた。
ほかに豊穣、雨乞いを祈願して、捧げられることもあった。
URLリンク(72.14.235.104)
このとき、血塗られた神殿も案内された。
まだうごめいている心臓が銀の皿にのせられていたという。

翌日、スペイン人による人身御供の禁止に怒ったアステカ人が反乱を起こしモクテスマ2世を殺すと、コルテスは命からがらテノチティトランを後にしてトラスカラに引き返した。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

カースト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カーストという単語はもとポルトガル語で「血統」を表す語「カスタ」(casta)である。
現在は憲法で禁止されているものの、実際には人種差別的にインド社会に深く根付いている。
仏教の開祖のゴータマ・ブッダはヴィシュヌ神の生まれ変わりの一人であるとされるが、彼は「人々を混乱させるためにやって来た」ことになっている。
その衰退の過程で、仏教徒はヒンドゥー教の最下位のカーストに取り込まれて行ったと言われる。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

ポルトガルが侵略を行ったという,小林よしのりと同じ意見でしょうか ?

6:日本@名無史さん
07/08/07 19:30:08
秦氏の「正論」の文章には,夫が戦死した日本人が,家族を養うために慰安婦になったという文章があった。
戦死した軍人の家族に,配給は無いのでしょうか ?

7:日本@名無史さん
07/08/08 00:51:43
>>6
近代史板でどうぞ。

8:日本@名無史さん
07/08/08 01:13:38
>>3
むしろ1561年の辛酉改元と1564年の甲子改元をやっていないほうが不思議。
改元なんて南北朝時代の南朝でも出来るんだから、改元すること自体に大して金はかからないだろうに。

9:日本@名無史さん
07/08/08 03:46:02
改元ってどういう手続きが必要なの?

10:日本@名無史さん
07/08/08 09:09:21
関が原の合戦の際、五奉行の増田長盛や前田玄以が徳川家康に内通したとされていますが、
信憑性がないように思います。
実際のところどうなんですか?

11:よしリン
07/08/08 09:11:08
2ちゃんねるってなに?????????????


12:日本@名無史さん
07/08/08 10:22:16
>>10
まあ改易を免れているから、積極的な敵対行動はしていないってことじゃない?

13:日本@名無史さん
07/08/08 10:30:23
関ヶ原って事前連絡ナシに寝返った大名のうち、小川・赤座は改易されたのに、
朽木は生き残ったのはどうして?

14:日本@名無史さん
07/08/08 10:51:15
脇坂も残った。
小川は三成と親しかったからじゃなかったかな。

15:日本@名無史さん
07/08/08 13:14:45
ところで、薬師寺と四天王寺
の伽藍を上からみたような画像ありますか?

絵や3Dとかではなくて、写真でとったようなものです。
こんな感じのがほしいです
URLリンク(www.bunkaken.net)

16:日本@名無史さん
07/08/08 15:24:25
質問です。
奈良時代にできた班田収授法や
租庸調などの税制は
改新の詔と律令政治のどちらからできたものですか?

17:日本@名無史さん
07/08/08 17:21:38
>>14
脇坂は事前に寝返る連絡をしてたんじゃなかったっけ?

18:日本@名無史さん
07/08/08 20:25:27
>>16
大化改新から大宝律令施行までの間に徐々に整備された。
どちらかというような二者択一のものではない。

19:日本@名無史さん
07/08/08 20:45:42
昔の女性の名前って、北条政子や、日野富子、細川ガラシャなどのように名字を付けて呼ぶ一方
濃姫やお市、寧々、淀殿など名字をつけずに呼びますよね(通称?)
後者の人達を名字をつけて呼ばないのはどうしてですか?

20:日本@名無史さん
07/08/08 23:01:07
質問させていただきます。
室町時代の武士は、一体どのような格好をしていたのでしょうか。
URLは失念しましたがWebページ上で「信長たちが京に行って帰ったとき、信長たちが若者の間で流行していた頭への剃り込みを入れて帰ってきたから、周囲のものは驚いた。」というような意味の記述を読みました。
そして「貴族から庶民まで、頭を見せることはせずにみんな帽子をかぶっていた。」とも。
それでは、それ以前の武士たちは百姓と同じような頭髪や服装をしていたのでしょうか。
また帽子をかぶっていたのならば、本当にずっとかぶっていたのでしょうか。
力仕事の時などはかなり邪魔に思えるのですが……。


21:日本@名無史さん
07/08/09 00:40:18
中世人にとっては、もとどりを露出するのは、急所を露出するのと同じくらいの認識だったんじゃない?

22:日本@名無史さん
07/08/09 01:32:59
>>20
月代を剃るのは信長の時期くらいからだとしても、烏帽子を日常で被らなくなる時期は、もう少し早いのでは?

23:日本@名無史さん
07/08/09 10:50:30
>>19
細川ガラシャは本名明智珠子。

24:日本@名無史さん
07/08/09 15:08:42
中世の貿易で日本から輸出していた硫黄は、どういう用途で輸出されたの?

25:日本@名無史さん
07/08/09 19:00:47
質問です。
与力見習の人が、小十人格軍艦組出役になった場合、
身分は旗本ですか、御家人ですか?

26:日本@名無しさん
07/08/09 19:05:44
>>19
理由:我々も含む、後世の人々に適当に呼ばれているだけだから。

大体が、後世の読み物や脚本や講談などでの通り名が使われている。
江戸時代まで名前なんて自分でコロコロ変えていたのだから、どれがどうとか言い出したら切りがないし
教育の側も「歴史ものを読む為のもん」だと割り切ると、下手に諱を教えるよりも通り名を教えていたほうがいい。

ひどいのになると、本人が一度も名乗っていない氏名で呼ばれていたりもしている(北条早雲など)
そもそも当時の女性は名字を名乗らない。「伊藤誰それの女(むすめ)」などと記録に残ることはあるが、
これは>>23に示されたような現在の形式とは全く異なる。まぁ無理やり当てはめる必要は必ずしもないのさ。



27:日本@名無しさん
07/08/09 19:17:40
>>24
薬剤(漢方薬や漂白剤)、黒色火薬の原料として。


28:日本@名無しさん
07/08/09 19:32:03
>>25
小十人「格」ですから、待遇だけは旗本かと。

29:日本@名無史さん
07/08/09 20:57:51
>>23は当時の形式だろ。

むしろ細川ガラシャなんて名前のほうが後世の通称という臭いがするが。

30:日本@名無史さん
07/08/10 11:25:58
>>26
じゃあ北条早雲は伊勢盛時で教える?それとも伊勢宗瑞?

31:日本@名無史さん
07/08/10 13:55:28
伊勢長氏で。

32:日本@名無史さん
07/08/10 14:04:42
>>21
>>22
ありがとうございます。
鬱陶しいのが嫌いで帽子なんて全くかぶらない自分には、なかなか理解しにくくて、興味深いですね。

33:日本@名無史さん
07/08/10 14:30:26
藤原不比等と道長は同一氏族?
史上最も長く権力得たのは藤原家?

34:日本@名無史さん
07/08/10 15:13:36
>>32
もともと、ちょんまげ自体が、
烏帽子や宮中で被る冠を固定する留め具を引っ掛けるために発達したわけだからな。

35:日本@名無史さん
07/08/10 21:00:31
班田収授法は唐の影響を受けて始まった制度であると習ったのですが、
URLリンク(ja.wikipedia.org)
によると唐律では成年男子に約5ヘクタールを支給とあるのに対し
日本では約24アールとなっています。5ヘクタールは500アールですから
随分違います。これはどう考えたらいいんでしょうか?

36:日本@名無史さん
07/08/10 21:11:05
>>35
日本は土地がないからだろ?


37:日本@名無史さん
07/08/10 21:42:47
>36
いくら土地が狭くてもその面積を耕作して租税を納めても食える分が残らなくては
飢え死にしてしまいますよね。ですから実際はそれでやっていけた筈って事になります。
ところが、その生産性を中国に当てはめるととんでもない事になります。
余剰食料はどうなるって話になり、市場で換金されたのなら当時の中国には
食糧生産に従事しない人口が相当の割合でいたと言うことになります。
でないと食料が余ってしまいますから・・・というのも無理があります。
食糧生産性に差があったのでしょうか?これもあまりに無理があります。
あとは唐では戸籍に記載されない人(階級?)が相当数居て小作をしていたが
日本ではそう言う階級がほとんど無かったとか、そういうレベルの差があったんでしょうか?

38:日本@名無史さん
07/08/10 22:07:33
聖武天皇は不比等の娘と結婚したのに
聖武天皇と藤原勢は仲が悪かったんですか?

39:日本@名無史さん
07/08/10 22:14:36
>>35-37
単位面積あたりの生産量が、湿潤気候で雨の多い日本のほうが概して高いというのもあるだろう。

40:日本@名無史さん
07/08/10 22:58:30
明暦の大火は何故おきましたか?

41:日本@名無史さん
07/08/10 23:02:55
>>26
通り名はその当代で通用すれば良いが、長い年月だと重複するのが多くなる。
その点、諱は、同姓同名もあることはあるが、時期を超越したユニーク性を多少は意識している。

著名な人物が、ほぼ通り名で特定されてしまう場合もあるが、それはそれで不便。
「太閤様」って豊臣秀吉以外にも沢山いる(元関白は全員該当)。判官だって義経だけではない。
黄門様だって、例えば徳川慶喜だって該当していた(中納言)時期はあるからね。


42:日本@名無史さん
07/08/10 23:08:38
>>40
振袖を脱がされ、犯されそうになった女が逃れようとして燭台を倒してしまい、それが脱がされた振袖に燃え移った。
犯す側も犯される側もバツが悪いものだから、それだけ消火が遅れ、周りに人もおらず、火は瞬く間に広がった。





情欲の炎は、江戸中に広がった・・・


43:日本@名無史さん
07/08/10 23:11:27
なんで高校日本史では、応仁の乱の次に桶狭間辺りから始まるんですか?
義植と義澄の跡目争いや、堺幕府とか大内氏全盛とか、享徳の乱とか
戦国時代が地方波及した、駿河の大名が討ち取られた事より重要な事件がいっぱいだと
思うんですけど。

44:日本@名無史さん
07/08/10 23:27:59
>>43
一応指摘しておくと、享徳の乱の開始は応仁の乱より前。
あと享徳の乱は最近の教科書には載っている。

応仁の乱以降の中央の政治史が薄いのは、高校の教科書(特に山川)は
保守的で最新の研究成果が反映されるのに時間がかかるから。
戦国期における中央の政治史が大きく注目されるようになったのは割と最近。

45:日本@名無史さん
07/08/11 00:28:47
どこも扱ってないんで、信長の野望とwikiで勉強したな>戦国初期

46:日本@名無史さん
07/08/11 00:37:15
俺はI永先生の明応の政変に関する論文とか読んだけど。

47:日本@名無史さん
07/08/11 01:32:05
質問です。ハサミが普及する以前、人々はどうやって髪を切っていたのでしょうか?
あと>>20と関連しますが、江戸時代の武士は月代を毎日剃っていたのですか?
数日剃らないでいたらかなり変な頭になりそうですけど。

48:日本@名無史さん
07/08/11 01:35:56
質問させていただきます。

律令制下の日本の兵役についてなのですが、多くの資料では、正丁3~4人から1人の割合で兵士を徴収し、諸国の軍団で訓練を受けさせた後、その中から防人や衛士を選任し、派遣した、とあるのですが、
そもそもこの軍団というのは何のために設立したのでしょうか。

集めた兵士を訓練を終えた者から全て防人や衛士に回すためでしょうか?
だとすると、徴兵は毎年行われたのでしょうか?
また、一度任務を終え、日常の暮らしに戻った者は、二度と徴兵を受ける事は無かったのでしょうか?

それとも、防人や衛士に行ったのは兵士のごく一部で、残りの兵士は諸国の防衛に就いていたのでしょうか?
しかし、だとすると、防人や衛士の任期は記されているのですが、それ以外の兵士の任期が記されていません。 
終身兵士になり、戦士階級になったとも思えません。
また、任期を終えた防人や衛士が、再び諸国の軍団に戻った様な記録も見られません。


拙い文章で読みにくいかと思いますが、どなたか博識な方、ご教授お願いします。





49:日本@名無しさん
07/08/11 03:55:20
>>47
浪人や○ゲはあまり剃らなかった(時代劇なんかでよくみるだろ?)
エチケットの問題だから。

50:日本@名無史さん
07/08/11 11:40:05
まあ近世でも公家や学者はあえて月代を剃らないみたいだけどね。

51:日本@名無史さん
07/08/11 17:23:04
日本は開発が進んでるから遺跡とか見つかってるのだと思うのだけど
海外も(中国とか)開発進んできたけど、やっぱりいろいろ見つかってるの?

52:日本@名無史さん
07/08/12 03:07:37
遺跡調査は土木工事とセットなのが普通です。

53:日本@名無史さん
07/08/12 07:24:20
薬師寺と四天王寺
の伽藍を上からみたような画像ありますか?

絵や3Dとかではなくて、写真でとったようなものです。
こんな感じのがほしいです
URLリンク(www.bunkaken.net)

54:日本@名無史さん
07/08/12 16:37:35
>>51
万が一掘り当てても、見なかったことにして遺跡壊して土地開発だろう。
日本でもよくあるケースだが。

55:日本@名無史さん
07/08/12 20:35:24
日本史の勉強し始めの中学生です
見当違いだったらごめんなさい

桓武天皇の子、葛原親王から平家が生まれたようですが、なぜ葛原親王の系からなのですか?
桓武天皇の子で葛原親王の兄姉はみな天皇、天皇の妻になってますが(良岑安世さん除いて)なぜですか?
そもそも八色の姓の必要性が分かりません。
教えてください。お願いします。

56:日本@名無史さん
07/08/13 00:19:57
室町時代の有力守護大名のほとんどが一度幕府によって
壊滅状態にさせられているのに、また有力大名として復活できるのはなぜですか?
大内とか土岐とか山名とか…

57:日本@名無史さん
07/08/13 01:07:02
土岐は壊滅させられた世保系はそのまま潰れて、代わりに取り立てられた池田系がその後は嫡流扱いになるんじゃないの?

58:日本@名無しさん
07/08/13 02:57:09
>>55
>桓武天皇の子、葛原親王から平家が生まれたようですが、なぜ葛原親王の系からなのですか?

そのような疑問を抱いたのなら、まず源氏物語を思い出してください。
源氏物語の主人公光源氏は「天皇の皇子で実に美しかったが、母親の身分が低い
(なおかつライバルが有力者の一族だった)為に、源姓を賜って臣籍に降りたウンタラカンタラ…」
という設定だったでしょう?源氏物語はフィクションであり、桓武天皇の子の時代からは
大分後に書かれたものですが、このようなことはフィクションにもなるくらいの、よくある
話であったということなのです。


59:日本@名無しさん
07/08/13 03:12:04
>>55
さて桓武天皇には23人以上の妃と36人の皇子女がいたとされていますが、
主だったところを並べてみますと

平城天皇:母藤原乙牟漏(父藤原良継)806年即位
良岑安世:母百済永継 785年生まれ 802年臣籍降下
嵯峨天皇:母藤原乙牟漏(父藤原良継)809年即位 823年譲位
淳和天皇:母藤原旅子(父藤原百川)
葛原親王:母多冶比真宗(父多冶比長野)★825年臣籍降下
佐味親王:母多冶比真宗(父多冶比長野)
賀陽親王:母多冶比真宗(父多冶比長野)★
万多親王:母藤原小屎(父藤原鷲取)★
仲野親王:母藤原河子(父藤原大継)★
詳しくはここ(↓)
URLリンク(www.geocities.jp)

皇后は藤原乙牟漏。★は平姓を賜った王の祖です。
藤原良継の同母兄は、反乱を起こしたあの藤原広嗣。
藤原百川は良継の異母弟で、良継と共に光仁天皇を擁立、天智系の復活を後援しました。
後に平成天皇の寵愛を受ける藤原薬子は彼らの姪。いづれも式家の人です。
ぶっちゃけ、葛原親王は当時本流のひとではなかったのです。





60:日本@名無しさん
07/08/13 03:25:42
>>55
あと葛原親王が臣籍に降りる前後を年表で追ってみてください。
藤原薬子の乱があって平城上皇の没年前後です。
式家の専横と粛清、北家の興隆といった政治背景がある。

また桓武天皇から平成、嵯峨天皇の頃皇子皇女は多いのです。
おまけに遷都はする、反乱はある。そんなこんなで朝廷の財政難は慢性化。
しかも嵯峨天皇は我侭で…

葛原親王に限ったことではなく、この頃から多くの皇子が臣籍に降りていきました。
ましてや俊英といわれた葛原親王だったら、自分のあまり良くない立場を感じ取って
去らないほうが不思議ではないでしょうか。


61:日本@名無史さん
07/08/13 05:06:40
>>3
寛永改元の3年前の1621年(元和7年)の場合は、辛酉革命だから
改元しなくちゃ・・・という話が夏~秋くらいになってから突然出てきたけど、
結局改元されなかった。(通例では辛酉や甲子による改元は2月に行う)
だから朝廷側も1621年の場合、当初は改元するのが先例であること自体を
忘れていた可能性がある。

ただこれ以降は、辛酉年・甲子年における改元はその年の2月中に必ず
行われるようになっている。
また1860年に万延に改元した際には、
「翌年(1861年)が辛酉であり、当然改元が予定されているのに、わざわざ
その前年にも改元を行って、元号を頻繁に変えるのはよくない」
という理由で改元反対の意見が出ており、辛酉改元は江戸時代においても、
当たり前の認識であったことが分かる。
なお翌1861年には予定通り改元が行われて、万延から文久に変わっている。

62:日本@名無史さん
07/08/13 10:41:14
>>58
「フィクションにもなるくらいの、よくある話であった」
他の説明はよく分かるけど、これじゃあイギリスの良く分からない場所に魔法学校があって十万馬力のロボットが地球を救ったりしても、おかしくないな。

63:日本@名無史さん
07/08/13 12:38:10
55です。
みなさん、詳しい説明ありがとうございます。
臣籍降下というのは、自分からやるものなのですか?
周りの圧力などで半強制的なものだと思っていました。(私の勝手な思い込みです)
広辞苑では
本人の意思に基づく場合と、婚姻・婚姻解消による場合とに限る。
とありますが、そもそも書き出しが“明治憲法下で”となってます・・??

64:日本@名無しさん
07/08/13 14:08:25
>>63
皇族と一くくりにいいますが、彼らは天皇や天皇家の輔弼(アシスト)、バックアップスタッフに過ぎません。
ですから世代を経ると、常に天皇と親密な位置にいない限りスタッフの輪に加われません。
あなたでもそうでしょうが、ふた従兄弟より遠い親戚など名前すら覚えられないでしょう。
次第に、お互いがお互いを必要としなくなるのです。
前にも述べましたが、そんな人々も皇族待遇になどすると朝廷の財政を圧迫します。
ですから、古代より世代を経ると皇族は自動的に身分を失うことになっているのです。

臣籍降下は、もともと懲戒のための制度ではないのです。
そもそも成人したら自分の人生は自分で選ばなくてはなりません。ですから本人の意思が尊重されます。
早めに離脱して独立自活するか、期限いっぱいまで会社の創業者一族に残るかというだけのことです。

そもそも、残るにしても、政争を勝ち抜かなければなりません。
藤原氏のように天皇家にベッタリしているところに食い込むのは容易なことではないですし、
食い込みに成功するには他を圧倒する財力や軍事力が必要になります。
一介の皇子というだけで、それはできることなのでしょうか。

65:日本@名無史さん
07/08/13 15:19:19
>>63
近代と前近代の話をごっちゃにするなよw

66:日本@名無史さん
07/08/13 15:32:10
65さん
ごめんなさい。
臣籍降下の意味が分からなくて広辞苑を引いたらこう書かれてあったので・・・
ごちゃごちゃになってしまいました。
私の頭の中も。

67:日本@名無史さん
07/08/13 15:40:36
あ、64さん。
天皇のアシスト、バックアップに過ぎないんですね!!(・∀・)
なるほど。そう考えるとピンときました。

「僕は天皇から遠い位置だし、スタッフの輪には入れないし、このまま皇族でいると朝廷のお金も大変だ・・・」
っていうような感じで降りていったのでしょうか?
それに例えば葛原親王の場合は
平氏のグループだと一番偉くなれますし(?)ね

なんだか頭がすっきりしました。ありがとうございました。

学校のアクティビティの新聞作り中だったんです。
がんばります。みなさんありがとうございました(・∀・)

68:日本@名無史さん
07/08/13 16:30:59
ネタレスを要求してるのなら、それ用のスレがあるぞ。

69:日本@名無しさん
07/08/13 17:42:29
>>67
>>64はあくまで一般論ですよ。
具体的に葛原親王の話に戻しますが、彼は桓武天皇の皇子で平城・嵯峨天皇の兄弟です。
遠い親戚のわけが無い。ただ、正妻の子ではないので天皇になれるかどうかは疑わしかったでしょう。
しかし若い頃から聡明で奢ることなく人望が厚い。事実、最終的には一品太宰帥という
天皇になれなかった兄弟の中では最高位といってよい地位に就きました。
だから正妻の閥(藤原式家)の対抗勢力から担がれる可能性はおおいにあったわけですが、
勝てるかどうかは別の話。まあ争いに首を突っ込まなければ朝廷内でも生きていけたでしょう。

それよりも問題は、子供たちです。
子供以降は王。王には従五位下の位とサラリーがあったのですが、朝廷には、
位階はともかくサラリーを払う余裕はなくなりつつありました。位階だって、与えたら
サラリーも払わなくてはならないのでさらに大変。次第に無位無官のままでいる王も出てきました。

つまり、王のままであったら尻すぼみになるだけだったのです。
しかも代を経るとどうせ臣下に降りなくてはならない。
ならばいっそのことさっさと臣下に降りて受領をもらい国司として生きていったほうがよかったのです。

天長二年、葛原親王は「臣之男女一皆被賜姓平朝臣」(日本記略)と、自分の息子娘たち
全員に平朝臣の姓を賜って(臣下にして)下さい…と上表しています。
これは平姓を願った例としては最初なのだそうです。
朝廷と子孫の将来を見越した賢明な決断だったと思われます。




70:日本@名無史さん
07/08/13 18:20:55
でも皇族への賜姓としては、平姓より源姓のほうが格上だったみたいだよね。

71:日本@名無史さん
07/08/13 19:13:04
源姓は天皇の子、平姓は孫以降って原則だったからじゃね?

72:日本@名無史さん
07/08/13 20:18:22
>>71
じゃあ、二世源氏は何?

73:日本@名無史さん
07/08/13 21:54:06
日本史上では源平合戦・大阪の陣・戊辰戦争といった日本人同士の戦いが多く存在しますよね??
日本人同士の戦い・戦争の際に虐殺や強姦、略奪といった事件は発生したのでしょうか??

74:日本@名無史さん
07/08/13 21:57:30
マルチになってしまいますが、御了承ください
井伊直弼、勝海舟、西郷隆盛、坂本竜馬
これらの偉人達の政策(活動)をそれぞれわかりやすく教えてくれませんか?
調べようにもパソコンはありませんし
携帯で調べてもよくわからないので・・
是非よろしくお願いします

75:日本@名無史さん
07/08/13 22:41:36
>>74
マルチした場合、片方のスレで回答をもらってもう解決したとしても、
別のスレではその質問は生きているんだよ。
それでお前がスレを見なくなっても、無駄な作業とも知らずに
誰かが真面目に調べたりして回答してくれるかもしれないだろ。

だから別スレで同じ質問するときは最初のスレでその旨断ってから来るのがマナー。

元スレかこのスレか、どっちか質問を取り消してから出直しな。

76:日本@名無史さん
07/08/13 23:38:24
>>75
すいませんでした。
では引き続き向こうで聞いて見ます
ありがとうございました

77:日本@名無史さん
07/08/14 01:00:23
>>72
例外

78:日本@名無史さん
07/08/14 01:58:03
>>75
わかる奴が答えてやればいいだろ
お前らバーチャルの世界で、礼儀があーだこーだ言ってるが
現実世界できちんと社会生活送ってるのか?

79:日本@名無史さん
07/08/14 03:25:26
>>72
清和源氏と陽成源氏に関しては、本来的にはこの系統が皇室の嫡流だったのに、
光孝天皇以降、嫡流から外れてしまった経緯があるため、後ろめたさから
賜姓は全て源姓となった。

80:日本@名無史さん
07/08/14 08:25:48
>>78
普通マルチには「マルチ死ね」とか
ネタとか放置で済ますのが一般的だろ。

ちゃんと教えてやるのはかなり親切だと思うが?

81:日本@名無史さん
07/08/14 10:54:17
話をぶり返してしまうようでスマン.

平氏賜姓は,どこに記載されている? 日本後紀では源氏賜姓は
あったが,平氏は記載されていなかったように感じたのだが...


82:日本@名無史さん
07/08/14 10:59:31
上の質問,>>69に書いてあったな(日本記略).
1人ボケツッコミしてすまない.


83:日本@名無史さん
07/08/14 11:19:28
平氏賜姓の記事を後紀で確認.でも許可されなかったんだなww


84:日本@名無史さん
07/08/14 11:36:15
ものすごく初心者で申し訳ありませんが、質問させていただきます。
私は40才なのですが、子どもの頃、
弥生→大和→奈良と時代を習いました。
昨日娘の4谷大塚のテキストを見たら、
弥生→古墳→飛鳥→奈良
となっていました。

いつごろから、どんな理由があって大和時代を教えなくなったのでしょうか?

85:日本@名無史さん
07/08/14 19:11:37
大和時代を教えなくなったというか、
見ての通り古墳時代と飛鳥時代に分割されたわけですが。

まず4~5世紀くらい(最近だと古墳時代は3世紀からとされますが)には、
ヤマト政権はまだこの段階では全国を支配していたとは言い難かったので、
ヤマト政権に代表させるのはおかしい。むしろ各地に古墳が多く作られた時代という方が
実態に合っている、というのが理由かと思います。
6世紀のどこか(磐井の反乱?)あたりからを飛鳥時代としていると思いますが、
こちらは政権の中心地ですね。

40歳だと多分大和朝廷と習ったと思いますが、最近ではこの言い方をあまりしません。
ヤマトという音に大和という字を当てたのはもっと後の時代だろう
というのがカタカナになった理由。
朝廷[君主が政治を執るところ:goo辞書より]と呼ばなくなった理由は、
まだそれほど政治の組織等が整っていなかったと思われるためです。
教科書に変化があったのは1990-2000年代ですかね。

86:日本@名無史さん
07/08/15 02:45:18
>>85
5世紀段階なら既に全国政権と見て問題ないだろ。
稲荷山古墳や江田船山古墳の話も5世紀。

87:日本@名無史さん
07/08/15 03:24:37
飛鳥時代の開始点って、聖徳太子からじゃないの?

88:日本@名無史さん
07/08/15 16:30:08
>>61
じゃあ1561年と1564年に改元がなかったのはどうして?

89:日本@名無史さん
07/08/15 17:46:06
>>84
手元の'97版『詳説 日本史研究』(山川出版社)の巻末年表では弥生→大和→奈良となってました。

本文のほうを確認してみると、文化史の区分で3C末~7Cの古墳によって特色づけられる時代を古墳時代と呼び、聖徳太子の時代を中心とする約1世紀を飛鳥時代と呼んでいます。

しかし、私が高校で習ってた15年前は大和時代ではなく古墳時代と飛鳥時代だったように思います。

教科書による違いなのか、それとも大和時代から古墳・飛鳥時代への過渡期だったのかは定かではありませんね。

90:日本@名無史さん
07/08/15 18:09:05
政治史で区切るか文化史で区切るかでしょ?

あと飛鳥時代といった場合に、白鳳時代を含むのかどうかでも、分かれる。

91:日本@名無史さん
07/08/15 19:52:25

白鳳=白雉
朱雀=朱鳥

って本当?

92:日本@名無史さん
07/08/15 20:41:35
日本史版かどうか微妙なんですが

学校の教科書に載ってるような古文の文章(枕草子とか)は
ひらがな、漢字がいりまじってますが、実際の元の文章はどうだったのでしょうか?
元の文章を読み下しにした部分などはあるのでしょうか?

93:日本@名無史さん
07/08/15 23:25:56
元の文章はもっと仮名だらけだろう。

94:日本@名無史さん
07/08/16 00:47:44
元が漢文なのかどうかは見れば分かる。

95:日本@名無史さん
07/08/16 12:00:34
法界時阿弥陀如来像の画像をください

96:日本@名無史さん
07/08/16 17:51:06
明応の政変
永正の政変
享禄の政変
永禄の政変
について詳しく教えて下さい。

97:日本@名無史さん
07/08/16 20:56:49
>>95
法界寺って日野にあるやつ?

98:日本@名無史さん
07/08/16 22:23:31
>>97
はい。

99:日本@名無史さん
07/08/16 23:37:57
現地へ行って見てくれば?

100:日本@名無史さん
07/08/16 23:40:15
本当に行く馬鹿がいるとは思えんが。


101:日本@名無史さん
07/08/17 01:49:35
>>100
俺は行ったことあるぞ。

102:日本@名無史さん
07/08/17 13:43:05
明治初期、士族の不満を外国へ向けるため大久保、西郷らによって提唱された「征韓論」
いうまでもなく朝鮮を支配することだと思うんだけど、これって当時から「征韓論」と
呼ばれていたみたいです。
当時の朝鮮は李朝だったのに!これっておかしくないですか?大韓帝国の成立はもっと後ですよね?


103:日本@名無史さん
07/08/17 14:49:36
昔から日本は朝鮮を韓国(カラクニ)って呼んでたから。
中国王朝が宋でも明でも清でも
唐土(モロコシ)と呼んでたのと一緒。

104:日本@名無史さん
07/08/17 16:40:15
子供の頃に読んだ本では、米価換算で1両=4万円とあったのだが、
その後、読んだ本では7~8万円とか10万円とかあった。

最近では「武士の家計簿」の磯田道史が、大工の賃金との比較で
1両=30万円とか言ってたが、どれが妥当な数字なんだ?

105:日本@名無史さん
07/08/17 17:58:58
1両に含まれる金の量が江戸初期と幕末ではかなり違うのでなんともいえん
が、米換算だと初期で4万、幕末で4千円くらいらしいよ。

かなり変動が大きく大工の日当なんかは銀で計算されてたらしく金-銀の
交換レートも変動してたようだからなんともいえない。

むかしから相撲とりの位が十両で一応一人前だったみたいだから1両10万
くらいが感覚としてはあっているかも。米は今より感覚的には割安じゃないかな。

106:日本@名無史さん
07/08/17 18:01:45
追加
1年間の年俸が10両だったから十両というらしいよ。

107:日本@名無史さん
07/08/17 18:08:05
>106
じゃあ100万盗ったら首が飛ぶわけだ。

108:日本@名無史さん
07/08/17 19:39:43
落語で集金した50両なくしちゃった話なんかがでてくるね。
現代の感覚でいくと丁稚レベルが集金してくる金ってまあ100万円くらいが
限度だと思うけど1両数万ってところなんだろうね。


109:日本@名無史さん
07/08/17 20:42:48
>>105
小川恭一によると、一両五万円から十万円。
ただ、近世と現代は違う社会なので、
比較すること自体無意味だとか。

日銀の資料館では一両三十万円くらいで計算していたと思う。

110:日本@名無史さん
07/08/17 20:52:32
まあ確かに北朝鮮での1万円と日本での1万円じゃ全然ちがうしね。

>>108
文七元結でつね

111:\
07/08/17 21:21:42
徳川家康が今川の人質になっているときに
粗略に扱われて、三河は過酷な収奪を受けたという
話がありますが、これって徳川側の史書による情報ですよね。

これを今川側から裏付ける資料はありますか。

常識的に考えて、対織田の第一線に立つ松平家と三河を
それほど粗略に扱ったとは思えないのですが。

112:日本@名無史さん
07/08/17 22:30:47
>>104
まぁ上でも出てるけど、社会制度があまりに異なるので比較はかなり無意味。
(余談だが、近代以降だと”ヒラ警察官の初任給”がよく比較に使われる)
まぁそれを前提にした上で、元禄くらいだと。

・1両で米が1石2斗(216kg)買えたらしい。米10kg=5000円としたら約11万。
・蕎麦1杯が16文だったらしい。蕎麦1杯を400~500円として10~12.5万

大工の賃金で比較すると20万超とかなってくるのも本当だけど、
物価として分かりやすいものを持ち出すとそのあたりだろうか。

(ところで、以前世界史板の方で物価の話題になった時、”売春婦の値段”なら
 時代を超えての比較に使えないかという話題になったことがあるが…どうなんだろうw)


113:日本@名無史さん
07/08/18 01:45:05
>>111
>話がありますが、これって徳川側の史書による情報ですよね。

近世に江戸幕府によってどの程度操作されている話なのかどうかは別にしても、
その種の話の殆どは後世の与太話と見たほうがよい。

一次史料には、どういう処遇を受けていたかを示すものがそもそもない。
ただ今川一族の女性を家康に嫁がせていることは史実であるから、今川氏の
一門に準ずるような待遇であった可能性を推測させる余地はある。

114:日本@名無史さん
07/08/18 01:56:19
えなりかずきが旅旅ショーで坂上田村麻呂が低く可愛らしい人といってたが 

坂上田村麻呂の伝記を読むと身長五尺八寸約175cmで大男なんだが

えなりの話ってなんか出典あるのかしら

115:日本@名無史さん
07/08/18 02:30:23
えなりって、院に進むつもりなの?

116:日本@名無史さん
07/08/18 10:02:28
江成?

117:日本@名無史さん
07/08/18 11:19:26
大名の平均石高っていくつくらいでしょうか・・・

118:日本@名無史さん
07/08/18 14:00:46
>>112

売春婦の値段は指標にはならないでしょうね。
現代においても対価は様々です。
ましてや中世・古代では…



119:日本@名無史さん
07/08/18 19:27:54
>>118
売春婦といっても、どの程度のものまで含むのかによってパラメーターが変わってくると思う。
日本史でいうなら白拍子みたいなのは含むのかどうかとか。

120:日本@名無史さん
07/08/18 19:30:07
>>117
俗に300諸侯なんていわれる近世大名の大半は、石高5万石以下。
よって石高平均もさほど高くない。

121:日本@名無史さん
07/08/18 20:15:19
>>114
平安時代の1尺って現在の1尺と違うのかもよ。

122:日本@名無史さん
07/08/18 21:04:08
>>74
幕末以降の話は近代史板で聞いて下さい。

123:日本@名無史さん
07/08/18 21:04:45
維新当時、約270家あった大名家のうち、約半数は2万石以下。

124:日本@名無史さん
07/08/18 21:26:53
大宝律令について100字程度で述べよ。←上手い模範解答お願いします。

125:日本@名無史さん
07/08/18 22:22:41
宿題は自分でやれ


126:日本@名無史さん
07/08/18 22:31:05
>>124
ウィキペディアでも写せ。

127:日本@名無史さん
07/08/18 23:59:07
オレは普段,理系で巣食っているが,盆が過ぎた辺りになると
毎年,宿題の回答を頼む連中が増えるよなww

ねらーに聞かんでも,ググればすぐ出てくるのに...


128:日本@名無史さん
07/08/19 01:30:03
まあ馬鹿はすぐ人に頼ろうとするしな。
テンプレに宿題関係はダメって入れたとしてもそもそも見ないしな。

129:日本@名無史さん
07/08/19 02:07:45
宿題とか言ってるのは、多分釣り。
夏休みの宿題に日本史の宿題なんてないよ。

130:日本@名無史さん
07/08/19 07:41:30
>>129
漏れの出た中学では出たぞ。
自由課題でレポート10枚以内とか。
親のワープロ借りてやったから良く覚えている。

131:日本@名無史さん
07/08/19 08:47:54
不識院殿真光謙信 これ何て読むの?

132:日本@名無史さん
07/08/19 20:00:09
何で古墳は流行したんだ?
権力の見せつけ?中国のマネ?
偉い人、教えてくれ

133:日本@名無史さん
07/08/19 20:17:21
前方後円墳は地球の鍵です

134:日本@名無史さん
07/08/20 10:51:37
>>132
朝鮮半島のマネ。
独自に改良。

135:日本@名無史さん
07/08/20 12:34:50
日ソ共同宣言で、とりあえず歯舞諸島と色丹島は日本のものだとソ連も認めたんですよね?
なんでいまだに帰ってこないんですか?

136:日本@名無史さん
07/08/20 13:38:15
>>135
スレ違い。
近代史板で聞け。

137:日本@名無史さん
07/08/20 13:42:15
前方後円墳って、どうして前が
ほうけいなんですか?

138:日本@名無史さん
07/08/20 15:58:59
>>135
四島一括で返せ、じゃないとダメって言ってるから。

139:日本@名無しさん
07/08/20 17:12:55
>>137
そもそも前が四角なんていいだしたのは宇都宮の生んだアレな人(↓)
URLリンク(ja.wikipedia.org)



140:日本@名無史さん
07/08/20 23:08:14
じゃあ本当は前円後方墳?

141:日本@名無史さん
07/08/21 02:10:30
まぁアレのどっちが前でどっちが後ろなんて、言い出した者勝ちじゃないか

142:日本@名無史さん
07/08/21 02:49:12
で、前が包茎ってことに決まったの?

143:日本@名無史さん
07/08/21 23:22:57
>>138
スレ違い。
近代史板でやれ。

144:日本@名無史さん
07/08/22 08:47:16
>>130
10枚って少なくないか?
50枚くらい(最低30枚)とかが普通じゃね?

145:日本@名無史さん
07/08/22 19:26:49
>>144
中学のレポートだぞ

146:日本@名無史さん
07/08/22 21:13:01
>>145
小学生だと厳しいが、中学なら普通だろ。

147:日本@名無史さん
07/08/22 22:16:15
中学で50枚もレポート出すわけないだろうが。

148:日本@名無史さん
07/08/22 22:21:28
俺が中学生だったら、レポート50枚なんて宿題だされたらクラスみんなでサボる

149:日本@名無史さん
07/08/23 00:46:00
>>146は原稿用紙とレポート用紙を間違えていると思われ

150:日本@名無史さん
07/08/23 02:39:24
レポート用紙にしたってそんな量だけを求める課題が中学生であるわけない
高校だってないだろうよ

151:日本@名無史さん
07/08/23 09:53:46
>>150
私立の中高一貫校とかには普通にある。
中高一貫の場合、高校受験がない分、中学段階では時間的に余裕があるから、
日本史に限らずいろいろな科目で長大なレポートを課しているようなケースも
まま散見される。
またこういう学校の場合、生徒の側でもそれだけのモノを課されても対応できる
頭があるしね。

152:日本@名無史さん
07/08/23 10:15:45
>>150
レポート用紙のほうが字数多いぞ。原稿用紙50枚なら普通の量じゃね?

>>151
漏れも私立中高一貫だったが中学はレポート用紙10枚程度
高校20枚程度だったな。40枚程度も1回だけ出たな。
「時代背景を考慮して旅行記を作れ」だったから本丸写しも出来ず、
かなり苦労した。

153:日本@名無史さん
07/08/23 15:53:43
ここは2chだぞ。
基本的に宿題を口実に質問してるヤツは釣り師、ネタ師と考えるのが普通。

154:日本@名無史さん
07/08/23 21:38:43
>>152
俺のところも中1から高1まで長大レーポートを毎学期課されていた。
さすがに高2・高3は大学受験を考慮して免除だったが。

155:日本@名無史さん
07/08/24 00:24:18
>>128
近代史板が別にあるのに、近代史ネタをここで質問するヴァカも多いからな。

>>129=>>158かな?

156:日本@名無史さん
07/08/24 02:28:31
このスレならどんな質問にも答えてくれるよ
スレリンク(avi板)

157:日本@名無史さん
07/08/24 10:41:04
>>156
早速誤爆ですか?

158:日本@名無史さん
07/08/24 15:09:49
江戸時代って罪を犯すと一画分入れ墨をされると聞いたけど本当ですか?
4回目で「犬」になるとも聞きましたが。



159:日本@名無史さん
07/08/24 16:50:33
地方によってはそういうところもある。
確か「犬」になるのは筑前だったと思う。


160:日本@名無史さん
07/08/24 17:03:05
>>158

    _____
   /、  一   ヽ
  /  ●   ● | 
  @     つ   )
  、    ー   」
    _____
   /、  ナ   ヽ
  /  ●   ● | 
  @     つ   )
  、    ー   」
    _____
   /、  大   ヽ
  /  ●   ● | 
  @     つ   )
  、    ー   」

   ∩___∩
   | ノ  犬   ヽ
  /  ●   ● | 
  |    ( _●_)  ミ
 彡、   |∪|  、`\
/ __  ヽノ /´>  )
(___)   / (_/


161:158
07/08/24 17:15:39
>>159
ありがとうございます

>>160
ちょっと待て。

162:日本@名無史さん
07/08/24 23:30:48
戦後レジームからの脱却とはどういう意味ですか?

163:日本@名無史さん
07/08/24 23:52:20
戦後体制からの脱却

164:日本@名無史さん
07/08/25 01:33:03
近代史板へ池

165:日本@名無史さん
07/08/25 05:38:16
163
さんきゅ

166:日本@名無史さん
07/08/25 20:13:28
>>158
焼印を入れるっていうのは日本にはなかったっけ?

167:日本@名無史さん
07/08/25 21:40:00
薬師寺金堂薬師如来像の正面からの画像どなたか持ってませんか?

168:日本@名無史さん
07/08/25 21:58:26
側面図ならありますよ
入りますか?
明日から海外行くので返事早めによろです

169:日本@名無史さん
07/08/26 01:28:19
今の日本はお金の制度はなんていいますか?
金本位制ではなくなんですか?

170:日本@名無史さん
07/08/26 02:29:53
>>169
日本は黄金の国とかつて言われていた程なので、現在でも
金本位制です。

171:日本@名無史さん
07/08/26 03:14:27
↑お答えくださってありがとうございます

172:日本@名無史さん
07/08/26 08:48:42
日本大陸は 移動でハワイのとなりからここまで来たのは事実です
そして牛が黒牛になりました、茶色の朝鮮牛は大陸で育ちました、白い牛は太陽のあたらない日陰の国の

173:日本@名無史さん
07/08/26 10:06:00
>>168
ほしいです

174:日本@名無史さん
07/08/26 11:05:08
>>170
ウソ教えるなよw


175:日本@名無史さん
07/08/26 11:14:03
ちょ!嘘だったんですか?
本当の事知りたいです

176:日本@名無史さん
07/08/26 13:01:06
あんま経済には詳しくないんだけど、金本位制って、一定量の金と等価交換出来る紙幣(兌換紙幣)を発行するんじゃなかったっけ
だから、金の保有量以上の紙幣を発行出来なかった気がする。

現在は不換紙幣紙幣で、金の値段も相場変動するし、紙幣を大量発行すればインフレになり、紙幣の流通量を減らせばデフレになる。

あと、江戸時代の大坂辺り(西日本)は銀本位制で、江戸辺り(東日本)は金本位制だった。
長崎貿易でも銀で決算されてたりして、金と銀の両替商が発展したりしてた。



177:日本@名無史さん
07/08/26 13:07:06
>>176
あーたね、個々で尤もらしいこと書いているけど、矛盾してるよ。

>金本位制って、一定量の金と等価交換出来る紙幣(兌換紙幣)を発行
そうですよ。なのに、どうして

>江戸時代の大坂辺り(西日本)は銀本位制で、江戸辺り(東日本)は金本位制だった
になるの?
江戸時代、大坂では銀と交換できる兌換紙幣や江戸では金と交換できる兌換紙幣があったんかいな?
他人に教える際は、整合性を考えてちょ。でないと新たな疑問が出てきてしまうよ。





178:日本@名無史さん
07/08/26 13:46:57
【金本位制度】
金を価値尺度とし、一定重量の金を価格の度量標準とする貨幣制度。
狭義には金貨本位制度をさし、広義には金核本位制度を含める。
(大辞泉)

江戸時代の説明は金貨本位制度と銀貨本位制度の並立のこと、兌換紙幣の説明は金核本位制度のこと。

まぁ、経済には疎いのでこの辺で勘弁してくれ。


179:日本@名無史さん
07/08/26 20:53:03
友達と風林火山を見ていて、信濃の小笠原が京に逃げ込んだところで、
「武田が小笠原を抱き込むことに成功していたら、上杉と武田の戦は起こらなかったのでは?」
という話になりました。
武田が謙信好みの「正義」「忠義」っぽい行動をとってたら、両者が手を取り合うこともありえたのでしょうか?

180:日本@名無史さん
07/08/26 21:43:05
>>169
管理通貨制度

181:日本@名無史さん
07/08/27 08:16:55
>>179
小笠原を抱き込むこと自体が無理だろう。

182:日本@名無史さん
07/08/27 10:18:44
>>181
ですよね…
ただ、風林火山を見た限りだと、あの時代の人間は「家」がかなり重要だったりするっぽいので、
実験は与えないまでも「あなたが信濃のトップですよ」という扱いをしてやれば、小笠原も満足するかな?
と思いまして。


183:日本@名無史さん
07/08/27 10:39:02
>>179
両雄並び立たずで無理でしょう。
性格も違うしかならず衝突するでしょうな。

184:日本@名無史さん
07/08/27 10:53:43
大正13年(1924)3月24日の博忠王の薨去による華頂宮の断絶後から、昭和22年(1947)10月14日の
旧皇族11宮家の皇籍離脱までの11宮家の継承順位について、上から順に
(1)伏見宮、山階宮、賀陽宮、久邇宮、梨本宮、朝香宮、東久邇宮、北白川宮、竹田宮、閑院宮、(東伏見宮)
となっているものと
(2)山階宮、賀陽宮、久邇宮、梨本宮、朝香宮、東久邇宮、竹田宮、北白川宮、伏見宮、閑院宮、(東伏見宮)
となっているものがあります。
旧皇室典範時代は庶子が認められていたので、嫡子を先に庶子を後に、そして長を先に幼を後に継承順位
をつけると(1)のようになるが、昭和22年5月3日施行の現皇室典範では庶子は認められていません。
そこで現典範施行後に誕生した庶子は皇族の身分とならないが、旧典範時代に誕生した庶子およびその男系子孫については
これを嫡子とみなしたという話を聞いたことがあります。
そうすると昭和22年5月3日から同年10月13日(皇籍離脱の前日)までの11宮家の継承順位は(2)のようになるのですが
この話は本当なのでしょうか。

また(1)についても、邦家親王の王子で嫡子は貞教親王だけで他は庶子のようですが、貞教親王の後を承けた弟の
貞愛親王が嫡子ということでないと(1)のようにならないと思うのです(貞愛親王には庶出の兄が多かったので)。
貞教親王の生母は邦家親王の正室の鷹司景子ですが、天保7年(1836)生まれの貞教親王と安政5年(1858)生まれの
貞愛親王が同母の兄弟とは考えにくいです。
以前から気になっていたことで、文献を調べてもどうしても分かりませんでした。
よろしくおねがいします。


185:日本@名無史さん
07/08/28 01:17:12
>>184
幕末以降がメインの話題のようだから近代史板へどうぞ。

186:日本@名無史さん
07/08/28 01:28:38
>>182
いずれにしても、小笠原を武田の影響下におくことは難しいだろう。
一国人領主クラスならともかく、一国の守護クラスの大名である小笠原を、
同様に一国の守護クラスの立場に過ぎない武田が取り込んで影響下におくと
いうのは、かなり無理がある。

187:日本@名無史さん
07/08/28 10:51:08
まあ国内の支配体制という点では、一国を完全に統一して戦国大名に
脱皮している武田と、名ばかりの信濃守護で筑摩郡周辺しか実質的に
支配できていない小笠原では、性格が大きく異なる。

しかし外向けにはどちらも同じ一国の守護だから、小笠原側では
「自分は武田と同格」と思っているだろうし、また甲斐や信濃の周辺勢力や
中央の幕府・朝廷なんかも、武田と小笠原は同格の家柄と見ているだろうからな。

188:日本@名無史さん
07/08/28 18:20:55
賎ヶ岳の戦い以降の柴田家の一族はどうなったか知ってる方いますか?佐久間氏を除いて。

189:日本@名無史さん
07/08/28 21:01:37
>>188
勝豊は秀吉方に寝返ったんじゃなかったっけ?

190:日本@名無史さん
07/08/29 00:24:21
>>3
『古事類苑』の「年号」のところを見る限りだと、「将軍代始」が改元の理由に
入っているのは、家綱のときの承応改元だけだな。

191:日本@名無史さん
07/08/29 02:34:09
>>188
勝豊は秀吉に寝返ったが、天正11年のうちに亡くなったはず。
勝家の実子というのがいたらしいが、処刑される。
勝政は、生き延びたとも、賤ヶ岳で戦死したともいい、よくわからん。
ただ、この勝政の子孫が江戸時代に旗本になっているらしい。

192:日本@名無史さん
07/08/29 12:11:18
>>189 >>191
レスありがとうございます
勝豊が裏切ってすぐに死んだのは知っていたのですが、他の柴田一族がどうなったかわからなかったので。
なんで裏切ると早死にするんでしょうね。 小早川秀秋とか。

193:日本@名無史さん
07/08/29 12:22:31
>>192
裏切っって死んだやつが印象に残るだけじゃない?
前田家なんて今も続いてるわけだし。


194:日本@名無しさん
07/08/29 17:53:42
>>188
勝義┬女┬勝政
   │  └勝之
   ├女─勝豊
   ├男─勝春─五右衛門(断絶)
   ├勝家┐→勝政┬a1勝重┬a2勝興─a3勝門┬a4勝富─a5勝定┬a6勝昿─a7勝満
   │   │→勝豊└勝次  │           │            └勝彭─勝峯…
   │   │→勝敏      │           └勝豊─a8勝房─a9勝延…
   │   │→勝之      ├b1勝平─b2勝顕→b3勝陳─b4勝敬┬b5勝成
   │   ├勝里        │                       └b6勝清=b7勝直…
   │   ├勝忠        └c1勝昌→c2勝智─c3勝惟─c4勝寿…
   │   └→女─高城胤重…
   └女─勝敏

勝政は佐久間盛次の3男
勝之は佐久間盛次の4男
勝豊は吉田次兵衛の子
b3勝陳は筑紫茂門の子
b7勝直は遠山景逵の子(b6勝清の婿養子)
c2勝智は近山安道の子
-----------
勝政の子勝重の血筋が柴田の家名を残した。
勝里・勝忠は勝家の庶子とも養子ともいわれているが、いづれも早死にしているようなので
どのみち勝家の血筋は残っていない。

養女(実は中村文荷斎女)は、旗本の高城胤則に嫁し胤重を生んだ。
胤重は縁を意識したのかしないのか、市の方の弟(織田信行)の曾孫を娶っている。
この子孫は男系が絶えながらもタラタラ続き、8代後の孫之丞で幕末に到った。


195:日本@名無史さん
07/08/29 19:17:56


196:日本@名無史さん
07/08/29 19:44:26
>>194
うはw すごい詳しいw ありがとうございますm(_ _)m

197:日本@名無しさん
07/08/29 21:26:43
>>196
>>194の系図に間違いがあるようなので、とりあえず訂正。

a4勝富┬a5勝定┬a6勝昿─a7勝満
     │     └勝彭─勝峯…
     └a8勝房─勝延─a9勝明─a10勝全…

a家は10代越前守勝全で幕末に到っているようです。
石高3200石、御書院御番頭、一橋家家老に就いています。

198:日本@名無しさん
07/08/29 21:41:41
ある本によると、この旗本柴田氏は菅原氏を名乗っているようですね。
柴田氏は斯波氏族(もちろん清和源氏)だったようだし、
男系血縁の佐久間氏は桓武平氏三浦氏流といわれているのですが…ナゼ?

199:日本@名無史さん
07/08/29 22:38:32
信長配下から始まる大名で菅原氏っていうとすぐ思いつくのは前田だね。
関連性は分からないが。

200:日本@名無史さん
07/08/30 08:58:08
豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だったころ、琵琶湖の近辺ではやりだした
怪しげな宗教を答えなさい。

201:日本@名無史さん
07/08/31 00:01:59
ええじゃないか

202:日本@名無史さん
07/08/31 00:18:13
ウィリアム・アダムズとか、江戸の初期はイギリスと貿易をしていたわけですから
当然、日本人で英語を喋れた人が当時いたんですよね?
それとも幕末みたいに、オランダ語やポルトガル語を経由したとか?

203:日本@名無史さん
07/08/31 01:29:24
アダムスが日本語を喋れたんだろ。

204:日本@名無史さん
07/08/31 01:38:25
問題集などで、「防人は主に東国から集められた農民だった」とありますが、
確実な根拠となる資料ってありますか?
実際任務に就いている防人の何%が東国人で、何%が九州人、何%が中四国人とか。

万葉集の防人の歌とかではなく、現地や中央の役人の資料でちゃんと実態が
分かるようなものをさがしてます。

205:日本@名無史さん
07/08/31 12:05:34
>>185
誘導ありがとう。
こちらの質問は撤回いたします。
近代史板で質問したいと思います。


206:日本@名無史さん
07/08/31 12:08:29
最初から近代史板へ池よ。

207:日本@名無史さん
07/08/31 12:43:03
秀吉の死後に石田三成の次男が秀頼の小姓をしていて
秀頼から豊臣姓を与えられたという説があるそうですが
その出典ってなにかわかりませんか?

208:日本@名無史さん
07/08/31 12:45:59
日本語のしゃべりって、大昔と今のに違いはあるの。

仮にタイムマツンとかで大昔に行ったとして

書き方は漢文っぽいし、文字も違うから通じないだろうけど
しゃべりはどうなんだろ。

「○○ッスよ~」とかそういうのは通じないとしてもな

209:日本@名無しさん
07/08/31 13:13:02
>>208
現代人の日常会話はどの時代まで通用するか
スレリンク(history板)

210:祖先が武士?
07/08/31 23:49:43
江戸の人口は100万人もいたそうですが、そのうち「武士」は
どのくらいいたのでしょうか? wikiによると旗本5千人御家人1万2千人
とありますが、それ以外に。大名は元々そんなにいなかっただろうし。

あともうひとつ、大名>>旗本>御家人・・・というヒエラルキーがありましたが
御家人以下の武士の階級はどうなっていたのですか?

211:日本@名無しさん
07/09/01 01:55:04
>>210
直参の場合、御家人以下の幕臣はない。
御家人といっても旗本も羨む様な暮らしぶりから、貧乏侍の代名詞たるサンピンまで様々だが。
それより下は中間(ちゅうげん)や岡っ引のような陪臣だが、これは士分ではない。


212:日本@名無史さん
07/09/01 11:52:57
>>210
大名の家臣の江戸詰めの武士がどれくらいいたかとあと浪人がどれくらいいたかだね。
浪人はまあ武士とはいわんのだろうけど。

300諸侯(実質270くらい)で大名屋敷は600~700あったそう。
大大名から小大名までいるのでわからんけど一つの屋敷に10人なら6000人くらい
50人なら30000人くらいってことになる。
ちなみに5万石の忠臣蔵の浅野家の江戸詰めはちょっと正確にはわからんけど
数十人はいたみたいだね。これから考えると数万はいたのかな。

あと正式な武士ではない足軽がいた。これは殿様が直接雇用しているのではなく
武士が個人的に雇った使用人みたいなものか。忠臣蔵の寺坂吉右衛門なんかが
これにあたるかな。

213:日本@名無史さん
07/09/01 12:00:23
>>212
足軽は藩が雇うものだよ。
武士が個人的に雇った使用人、小物とか呼ばれる人達とは別

214:日本@名無史さん
07/09/01 12:32:08
>>213
そうでしたか勉強不足でした。

215:日本@名無しさん
07/09/01 12:47:22
>>210
江戸総人口の大体50~60%だったろうと言われている。
町人に対しては具体的に人口調査が行われ、江戸中期に50万、末期に60万人くらいだったそうな。
もちろん町奉行管轄区域内での話だが。

じゃあ武士も50~60万人くらいなのかといわれたら、そうかもしれない。
旗本五千人…なんていうけど、これは実際に勤めている人たちのことであって、
隠居や子女、浪人、使用人、その隠居や子女まで全部含めてしまうと
やはり何十万人かになってしまうんじゃないかと思う。



216:日本@名無史さん
07/09/01 12:48:59
質問です。

URLリンク(www.dokidoki.ne.jp)
上の写真、左から斎藤弥九郎・陸奥宗光・谷干城・榊原健吉・田中光顕との事ですが、
これって、どういった経緯で集まり、撮られたものなのでしょうか?
と言うか、そもそも全員本物なんですか?
あまりにも、歴史的に名のある人物が集まりすぎているので気になります。


217:日本@名無史さん
07/09/01 18:51:25
>>216
スレ違い。近代史板へ池よ。
どうしてここで近代史ネタを聞くやつがあとを絶たないんだろう?

218:日本@名無史さん
07/09/01 19:42:34
>>217
近代史板の知名度が低い(そもそも掲示板に近代史板への誘導もない)。だから、近代以後の歴史も日本史板で扱っていると思い込む奴が多い。
あと、鯖違いだが、戦国時代関係を戦国時代板や三戦板でなくてこっちの板で振っても板違いとかの非難を受けないことも意外と大きいかも。

219:218(参考までに)
07/09/01 19:45:05
●板の主旨に合うスレッドをたてましょう。
 ここは「学問・文系」の日本史板です。
  時代劇の話題→時代劇板
  戦国時代・武将をネタとして楽しむ→戦国英雄・三国志・戦国時代
  固定ハンドル叩き→最悪板
  その他掲示板一覧を見て、よく考えてからふさわしい板にスレッドを立てましょう。
  外国に関する話題は世界史板 ハングル板  中国板 台湾板も参照して下さい。


――
どこにも「近代以後の日本史」が日本近代板の管轄である事実は記されていない。

220:218
07/09/01 19:46:00
日本近代板×→日本近代史板○

221:216
07/09/01 19:58:19
すみませんでした、近代史板で聞いてきます。
でも、それならばスレ違いではなく板違いなのでは?
まあ別に良いですけど。

222:日本@名無史さん
07/09/01 21:52:49
>>221
とりあえず誘導
スレリンク(history2板)

223:日本@名無史さん
07/09/01 23:03:01
どなたかご教示下さい。
戦国末期、大名家の当主における官位の叙任とその譲与についてです。

正式に朝廷から叙任されるには口宣案が必要であり、
室町幕府が機能していた時代には武家執奏による取り次ぎが必要であったが、
応仁の乱以後は次第に朝廷への直奏が増え、
結果的に朝廷は官位授与を行う権威を回復すると共に高額の報酬を手にし得ることから、
例えば「左京大夫」などは大内義興、伊達殖宗、北条氏綱らに濫発されたとのことですが、
一度そうして莫大な礼銭を支払い、正式に朝廷から叙任された官位を、
出家・引退などに伴って嫡男に譲って名乗らせる際、
あらためて幕府・朝廷への奏上、認可に伴う何らかの手続きが必要なのでしょうか。
たとえば北条家ならば氏康-氏政-氏直、
大友家ならば義鎮-義統と左衛門督を代々継いでいますが、
その代替わりのたびに、何らかの許可を朝廷から得ているのですか。
それとも一度叙任された官位は、蔭位制からの名残りのような考え方で、
特に新たな許可は得ずとも父が子に譲ると宣言すればそれで済んだのでしょうか。
仮に朝廷への手続きが行われていたならば具体的にどういった史料が残っていますか。

224:日本@名無史さん
07/09/02 00:11:20
寄新地系荘園がよくわからないんですけど、わかりやすく解説祖照るサイトとか知ってたら教えてもらえますか?

225:日本@名無史さん
07/09/02 04:14:39
>>223
とりあえず史料集とかで口宣案の実物でも探してみたら?
あと伊達稙宗だな。

226:日本@名無史さん
07/09/02 04:16:04
あと全く幕府を通さない例なんて、戦国期でもほとんどないんじゃないの?
まあ大内には微妙な事例があるとは聞くが。

227:日本@名無史さん
07/09/02 09:34:29
>>223
お手軽なところで「戦国大名と天皇」今谷明 講談社学術文庫 

伊達稙宗が任官したときの礼銭・礼物を記録した帳簿が伊達家に残っており、伊達家文書に収録されているそうです。
(文書名も参考文献のところに出ているけど書くのマンドクセ)

>それとも一度叙任された官位は、蔭位制からの名残りのような考え方で、
>特に新たな許可は得ずとも父が子に譲ると宣言すればそれで済んだのでしょうか。
正式な官名でそれはないでしょう。
将軍家の左馬頭や伝統的な守護大名出身者をみても勝手に名乗ってるかといえばそうでない。
先代の官位を勝手に継承できるのなら、家督争いで分裂したときに両者が同じ官位を名乗ったり
押し込めたり追放した先代の官位を取り上げたりするはず。(自分の正統性を主張するため)
そんな例は聞いたことがない。




228:日本@名無史さん
07/09/02 15:55:13
寄新地系荘園がよくわからないんですけど、
わかりやすく解説されてるサイトとか知ってたら教えてもらえますか?

229:日本@名無史さん
07/09/02 17:29:40
225-227
ありがとうございました。
自分でももう少し資料を探してみますね。

230:日本@名無史さん
07/09/02 19:27:04
資料を探したいのか史料を探したいのかハッキリしる!

231:日本@名無史さん
07/09/02 19:28:26
>>228
国会図書館の論文検索で「寄進地系荘園」と入れて検索。

232:日本@名無史さん
07/09/03 01:34:08
>>227
>それとも一度叙任された官位は、蔭位制からの名残りのような考え方で、
>特に新たな許可は得ずとも父が子に譲ると宣言すればそれで済んだのでしょうか。

蔭位制って官位の世襲を認めるものだっけ?
だとすると特定の家系による官司請負なんかもこれに由来するの?

233:日本@名無史さん
07/09/03 12:02:06
丹羽長秀は十五歳で小姓として信長に仕えた
と聞き及びますれど、その典拠とされる
文献と出典箇所を教えて頂き度う御座います。
よしなに頼み参らせまする。


234:日本@名無史さん
07/09/03 15:24:55
丹羽長秀の名前って不思議だよな。信長と信秀から一字ずつなんて。
織田一族ってわけでもないのに。

235:日本@名無史さん
07/09/03 15:44:11
>>208
話し方とか語彙の問題なんかを抜きにしても、音韻的な変化を考慮すると、
現代人が聞いて分かるのは江戸中期(18c)までだろう。
それ以前はたぶん無理。

236:日本@名無史さん
07/09/03 15:49:04
>>210
大名と旗本は石高の多寡以外にはさほど大きな身分上の違いはない。
特に江戸初期の頃は、区別が曖昧。
当初は10万石以上を大名、未満を小名と呼んでいたものが、家光期くらいから
1万石で線引きして大名と旗本を分けるようになったと見られる。
参勤交代の制度化の際に、1万石以上の者に原則これを義務づけたことも
一因かもな。

237:日本@名無史さん
07/09/03 15:56:24
>>218
>あと、鯖違いだが、戦国時代関係を戦国時代板や三戦板でなくてこっちの板で振っても板違いとかの非難を受けないことも意外と大きいかも。

学問としての日本史という観点から戦国期の事件・人物などを論ずるのであれば
ここの板で問題ナシ。
ただしネタやゲームキャラとして楽しむことが主目的なら板違い(→三戦板相応)。

238:日本@名無史さん
07/09/03 18:20:44
>>228
寄新じゃなくて寄進だな。

239:日本@名無史さん
07/09/03 19:51:56
>>235
でも江戸時代は方言バリバリで、聞いてわかる地域ってのもかなり限定的じゃないかなあ?(俺の推測ね)
東海地区在住のおいらは、熊本県の郡部行ったとき、現地人同士の会話はヒアリングできなかったし・・・
ちなみに、俺向けに話してくれるときは向こうが気を使ってくれて、聞き取れた。

240:日本@名無史さん
07/09/03 21:51:17
>>235は方言のことを言ってるんじゃないだろう。

241:日本@名無史さん
07/09/03 21:52:06
ハ行子音の音価が違うとかそういうレベルのもののことじゃねーの?
音韻的な変化って。

242:日本@名無史さん
07/09/03 21:54:28
そう理解している。

243:日本@名無史さん
07/09/03 22:24:08
初心者ですが幕末の長州藩内の動き
大体第一~第二の長州征伐前後を知りたいのですがお勧めの本などありますか?

244:日本@名無史さん
07/09/04 01:20:52
>>243
板違い。
幕末以降の日本史は日本近代史板へ。

245:日本@名無史さん
07/09/04 14:13:40
>>239=>>242?

246:日本@名無史さん
07/09/04 17:09:47
この間、友人から織田信長は美男子だときき、ネットで調べてみると、
確かにそれらしい話は多数あるのですが、
具体的な出典とその記述部分が見当たりません。
なので、もしご存知の方がいらっしゃればお教えください。

247:日本@名無史さん
07/09/04 18:23:09
日本近現代史なのか、わからないのですがここに書き込みます。
相当昔ですが、遺伝学で、ルイセンコ学説が持ち上げられましたけど、その後の総括はどうなっているのですか。
もちあげた人もいるんですよね。どうなったんでしょう。
板違いならその旨のご教示を。

248:日本@名無史さん
07/09/04 20:15:43
>>247
マルチは止めて下さい。

249:日本@名無史さん
07/09/04 22:00:32
>>246
ルイス=フロイスの「日本史」にあるはず。

250:日本@名無史さん
07/09/05 02:22:22
>>247
板違い。
幕末以降の日本史に関する話なら日本近代史板へ、
遺伝学の学説の話をしたいのなら学問・理系のカテゴリーにある適切な板(生物板など)へ池。

251:日本@名無史さん
07/09/05 15:09:39
>>249
回答ありがとうございます。
今は調べられないのですが、後で調べて確認してみます。

252:日本@名無史さん
07/09/05 19:14:03
日本史板のすぐ下に日本近代史板があるのに、めくらな人が多いんでつね。

253:日本@名無史さん
07/09/05 19:28:18
一般人は「歴史=日本史」であって、近代以降かどうかなんて気にしてないから
じゃないか?

254:日本@名無史さん
07/09/05 20:20:35
日本近代史板なんて
厨の隔離板だからでしょ

255:日本@名無史さん
07/09/05 20:48:52
>>253
「歴史=日本史」という認識が大半なら、
このスレには世界史ネタの板違い質問も大量に書き込まれなければならなくなる。

256:日本@名無史さん
07/09/05 21:45:27
江戸時代の武士のちょんまげについて質問です。

URLリンク(imepita.jp)

この絵の3名はタイプが異なる髷みたいなんですが、
階級の違いとかで髷も違うんでしょうか?
それとも単に好みで個人ごとに色々な髷を結っていたんでしょうか?

257:日本@名無史さん
07/09/06 01:24:35
>>247は単純に誤爆じゃないの?近現代史板に書き込もうとした。
まあいずれにしても、歴史板できくのはおかしいなw
歴史的性質より生物学的性質が明らかにでかいのに

>>255
>>253の言いたい事わかるでしょ?w
よっぽど、読解力がないの?論点はそこじゃないだろうに。
それとも、つり?w

258:日本@名無史さん
07/09/06 01:54:33
>>253は言いたい事を正確に言ってはいないだろうな

259:日本@名無史さん
07/09/06 07:31:47
>>256
髷についてのお触れがどうなっているかは知らないが、
身分で違うのは、タボ(襟足の部分の形)のみだったと思う。町人は今のお相撲さんの
ようにふくらませるが、武士はひっつめに結う。町同心は中間だったようだ。

月代の形は、お城や役所に出仕する、ちゃんとした武士は、今のちゃんとした勤め人が
背広ネクタイ形式のように一定形式になっている。月形半平太や沖田総司がやって
いる月代を狭めた形は、正規の出仕役人でないんで変形だろう。自分の想像では
月代を広くするとマゲに行く髪が少なくなるんで量を稼いでいるんでは思う。
(本多髷というやたら月代の広い形もあった)
マゲも市中の医者は、茶筅が多かったようだ。また公家学者は月代をそらなかった。
(イクサに行かず兜もかぶらないから剃る必要がないという趣旨か)
月代の部分をタワシのように伸ばしているのは、浪人やなんかで「お勤め人」でない
んでズプラを決め込んでいるからだろう。旗本ヤッコといわれている不良武士は
ビンの部分をふくらませて威勢を張った。今の一部の若者がソリコミをするような
ものだろう。

説明が見つからないが、子供が前髪をつけるのはマゲを前に引っ張るためのようだ。
まだ毛が軟らかく前髪がないとマゲが後頭部へずり落ちる。この意味で元服して
前髪を落すのは、髪の毛も(多分体毛も)ちゃんと成長した証しと見れる。

260:日本@名無史さん
07/09/06 08:28:17
>>256
大きい髷(TVなんかで柳生十兵衛がやっているような)や、長く髭を伸ばすのは、自分を大きく強くみせようという意識の現われで、
歌舞伎者なんかの行動と通じるものがある。
だから江戸初期のカブキ者なんかは出来るだけ奇抜で目立つ格好をしたりする。
風紀上よろしくないと幕府は考えた。

で、そういう戦国の遺風な格好は平和な時代なんでやめましょうということに。(正式な法として指示されたかって点は知りませんが)
ところがそういう意識を変えるのは難しい。
当時はヒゲがない=貧弱と見られるような感じだったので。(少し前の時代、髭が薄かった豊臣秀吉なんかはわざわざ付け髭をしたりしていた)

そこで老中の誰かがあえて髭を剃って見せて(登城した姿を見た大名たちが驚いたとか記録にあったような)
手本を示すことで髷も小さく、髭も小さかったり無くしたりという格好を皆がするようにになっていった。

261:日本@名無史さん
07/09/06 11:36:12
10世紀に書かれた『和名類聚抄』や『延喜式』の郡名と

それよりも古い時代の『正税帳』などに書かれた郡名が異なるのは、

役道郡(『正税帳』)  →  隠地郡(『和名類聚抄』『延喜式』)

以外に、何か在りますでしょうか?

262:日本@名無史さん
07/09/06 11:42:05
>>261
【古代から】旧国名・旧郡名を語る【近代まで】
スレリンク(history板)l50

599 :日本@名無史さん:2007/09/04(火) 15:39:55
「摂津国八部郡」ってあったけど、「八部」ってのは、部落の数でも表してるの?
詳しく載ってる本とかないかな?

600 :日本@名無史さん:2007/09/04(火) 21:07:37
部民の関係じゃね?
あてずっぽうだけど

601 :日本@名無史さん:2007/09/05(水) 08:49:28
矢部かもしれない、矢を造っていました

602 :日本@名無史さん:2007/09/06(木) 04:51:59
八部(やたべ)郡は、「八田部郡」「矢田部郡」と書かれることもあった。
なお奈良時代にはこの地域は「雄伴郡」とされており、「八部郡」という名称の
初出は、平安初期の承和年間。
改称の理由は不明。

263:日本@名無史さん
07/09/06 19:28:10
>>227
伊達家文書って、史料編纂所のデータベースで全部見れなかったっけ?

264:日本@名無史さん
07/09/07 00:25:59
伊達のよみは正しくは「いだて」

265:日本@名無史さん
07/09/07 01:30:26
ひと口に大名といっても上は100万石から下は1万石まで
旗本御家人も同様に上は5千石以上、下は200石前後までと
上下差は非常に大きかったわけなのだけど・・・・・・

・実際に、直参武士たちの石高って、活躍しだいで増えたのでしょうか?
・武士の家に子供が複数いた場合、長男は家をそのまま継承するとして
 後の子供たちはどうなったのですか? 分家してそれなりの待遇を受けたのか
 それとも何も貰えずに浪人になってしまったのか・・・

266:日本@名無史さん
07/09/07 02:15:47
>>261-262
分割によって新郡成立という可能性もあるんじゃね?

267:日本@名無史さん
07/09/07 06:51:40
>>265
基本的に家禄百表以下から布衣以上に昇進で家禄が百俵に加増。
そこまで昇進しないと、元の職禄が家禄のまま。
御家人で抱席から譜代席になると、前の職禄を家禄にされたり、
前の職が与力のように結構もらってると、家禄百俵+差額足高

遠国奉行で二百俵、
町奉行・勘定奉行で五百石、御側衆で二千石に加増される。

268:日本@名無史さん
07/09/07 08:11:41
265
>・実際に、直参武士たちの石高って、活躍しだいで増えたのでしょうか?
>・武士の家に子供が複数いた場合、長男は家をそのまま継承するとして
> 後の子供たちはどうなったのですか? 分家してそれなりの待遇を受けたのか
> それとも何も貰えずに浪人になってしまったのか・・・
活躍しだいでは変わる。将軍の側近なんかだと、一代で数百石から大名に出世したりする。
そこそこの出世だと家禄は変わらないで役職のランクだけ上がることも。

相続のとき、兄弟で分割するのか長男の総取りなのかもケースバイケース。
遺言で分割相続するときもあるし、幕府の意向で分割させることもある。
親父の功績や母親の血統がよいことを評価して次男以下を取り立てることもあるし、一種の懲罰(家の格を下げる)として分割相続させることもある。

有名な例だと柳生但馬守は旗本から大名に出世したが、亡くなった後分割相続したので長男十兵衛は旗本に逆戻り。
十兵衛が跡継ぎがいないままなくなったので弟がその分まで受け継いで大名に戻った。

269:日本@名無史さん
07/09/07 17:23:55
>>265
下級の御家人の場合は、
・足高といって、家禄のほかに役料がつくことがある。
本来、幕府の役職には格があって、
「この役(たとえば奉行)につくのは何石とりの人」と
きまってるわけなんだが、それだと、人材抜擢の際に
家禄を引き上げねばならず、家禄を引き上げると
その子孫にずっと引き上げた禄をはらわなきゃならなくなる。
それを防ぐために、
「その役についているときだけ、その役に応じた禄を払う」という形になった。
当然、隠居とか降格されるともとの家禄にもどされちゃう。

・長男以外の子供は、よその家に養子にいかないかぎり、
一生、兄貴の厄介者、無駄飯くらいの居候くらしです。
一生嫁さんももらえませんし、父親が生きている間はともかく、
兄の代になって、そこに嫡男が生れちゃうと、もうご飯も部屋では食べられず、
台所で使用人と一緒に食べなきゃいけないくらいの扱いになります。

270:日本@名無史さん
07/09/07 19:41:08
>>267-269
加増と足高の話が絡み合ってて265は理解できないと思う。

あと部屋住が悲惨なように書かれてるけど、山岡鉄舟や岩瀬忠震みたいに部屋住みのまま登用されることも結構ある。

271:日本@名無史さん
07/09/08 07:21:54
足高の制度化は吉宗期以降?

272:日本@名無史さん
07/09/08 07:34:09
源頼朝は近衛大将より自由度がより高い征夷大将軍就任を希望したらしいですが、
前者と後者では何が違うんでしょうか?

273:日本@名無史さん
07/09/08 08:16:15
>>271
制度化されたのは吉宗のとき。
綱吉の頃に似たようなことを微禄のものに適用している。

足高は269で説明されたように家禄と職禄の差額を補填する制度ですが、
267で書かれた様に、高い役に着いた場合、家禄を加増する内規があった。
(布衣以上に昇進で家禄百俵に加増以外は幕末に廃止)

274:日本@名無史さん
07/09/08 08:36:18
毛利氏が官位を貰う時は、朝廷の文書には、
『大江輝元』等のように記載されていたのでしょうか?

275:日本@名無史さん
07/09/08 08:47:41
御意

276:日本@名無史さん
07/09/08 08:55:54
>>272
近衛大将には皇居の警備や天皇の身辺警護に直接的に関わる場合しか
軍事的な権限を行使できないが、
征夷大将軍の場合は、朝廷に敵対しない限り、天皇のいる京都から離れた地域で
かなり自由に軍事活動を行うことができる。

277:日本@名無史さん
07/09/08 20:36:53
>>272
>>276
別に頼朝は、征夷大将軍就任を近衛右大将より望んだってことはないんじゃないの?
征夷大将軍のほうが、役職のランク的にはずっと下だし、頼朝が望んでいたのなら先に任官しているでしょう。
奥州征伐の前に就任していればかなりの宣伝効果になるだろうし。
先例として木曾義仲が任官しているから別に全国政権作ってなけりゃなれないってわけでもない。

頼朝は、官職について厳密に考えていて武士が名目だけの任官するのを嫌っていたという話がある。
義経や部下の武士が勝手に任官したといって起こったのもそういう面があったらしい。
例えば義経が検非違使になっているけど、頼朝の考えだと京都の治安を司る役目の人間を京都から離れた場所で働かせるわけにいかない
よって平家討伐の指揮官にすることが出来なくなって腹を立てたと。

実際、自分が大納言や近衛右大将になったときも上洛したあとで任官して、鎌倉に帰る前に辞任している。

278:日本@名無史さん
07/09/08 21:15:46
>>274
実際に大内義隆が毛利元就の官位を推挙した際に「大江某」と書かれた記録が現存している筈。

279:日本@名無しさん
07/09/08 21:22:59
>>277
>頼朝は、官職について厳密に考えていて武士が名目だけの任官するのを嫌っていたという話がある。

要はここにあったのかもしれない。
後世では考えられないくらい朝廷の権限が強かった時代だし、相手はあの政治怪物・後白河法皇。
「名目だけの任官」という訳にはいかない時代でもあるんだよね。

ましてや、頼朝たちは決して立場の強い人ではなかった。
もし言われるがままに任官を受けていたら、結局は平清盛のようなカタチで生きていくほかはない。
運命は朝廷の思惑次第。武田や三浦などに追討令が出れば、今度は頼朝たちが討伐されるだけ。
奥州合戦でも「(奥州討伐の)勅許はないけど、御家人はついて来てくれるだろうか…」というのも当然だろうね。

ところで、義仲は法皇を幽閉して無理矢理征夷大将軍に任じさせている。
あの時はとにかく頼朝に勝たないと立場が危うかったこともあるけれど、義仲が征夷大将軍を何故
望んだのかよくわからない。東国に対しフリーハンドで(=勅許なしに無制限)戦えると思ったからかな。

最終的に頼朝が征夷大将軍を望んだのは、案外、義仲から学んだのかもしれないね。


280:日本@名無史さん
07/09/08 22:51:37
早馬について

鎌倉時代から戦国時代あたりで、道中山賊や敵に襲われることはなかったのか?


281:日本@名無史さん
07/09/09 02:04:57
>>279
>相手はあの政治怪物・後白河法皇。

後白河って実の父親(鳥羽法皇)から「帝の器にあらず」といわれるほどの
稀代のアホ天子だったって聞くけど。
それに後白河って政治的な関心が薄く、遊ぶことしか考えてなかったらしいから
息子である二条天皇からも周りの公卿達からも、バカにされていたのが
真相なんじゃないの?

282:日本@名無史さん
07/09/09 16:49:03
夏休みに伊勢神宮にいって感激して色々な本を読み漁ってるんですが、
持統天皇以降、伊勢に参詣したのは天皇は明治帝だけという記述を目にしました。
理由についてはどのようなことがいわれているのでしょうか?
学説的なものからトンデモまでご存知の方教えてください。

283:日本@名無史さん
07/09/09 21:24:14
金が無いから

284:日本@名無史さん
07/09/10 07:59:39
結婚式で花婿の父と花嫁がセクースする奇習?
というのが,昔,東北のある地方にあったらしいけど,
今はどうなってるの?

285:日本@名無史さん
07/09/10 09:50:20
>>284
文化人類学板へ行け

286:日本@名無史さん
07/09/10 19:16:48
>>281
むしろ後白河はいろいろな政治的事件に遭遇する中で一皮向けた気がする。
さすがの鳥羽法皇もこの展開は予想つかなかったのでは?

287:日本@名無史さん
07/09/10 19:19:24
徳川将軍家の味噌汁は
赤か白かどっちなのだろう?

家康、秀忠まではたぶん八丁味噌だったと思う。(わからないけど)
家光以降はどうなのだろう。
はたまた吉宗でどうなったのか?

御三家の尾張藩主はたぶん代々赤味噌と思うが
紀伊、水戸はどうだったのだろうか?
江戸に参勤交代の際はどうなのかも気になる。

もっというと江戸時代の大名の四分の1は尾張三河の出身。
彼らは赤味噌だったのか?
代が変わるうちに現地の味噌に染まっていったのか?

気になる・・・

288:日本@名無史さん
07/09/10 23:04:26
>>280 早馬について
>>鎌倉時代から戦国時代あたりで、道中山賊や敵に襲われることはなかったのか?

敵なら普通に早馬を捕らえるよ。
城を包囲したら、間道や関所で伝令が相手の支城に連絡しないように遮断する。
早馬を捕らえたら、持っている書状や情報を拷問で吐かせる。


289:日本@名無史さん
07/09/11 02:21:46
>>287
それ大問題だよ。気になって眠れないw

八丁味噌の蔵を見に行ったことがあるけど、
昔は大量生産できなかったはず。

ということは、将軍・大名とはいえ色々な蔵の味噌を
あわせて使っていたのではないだろうか。

なんの裏付けもありませんが。



290:日本@名無史さん
07/09/11 06:38:50
樽の廃材で割り箸を作っていたらしいから、樽がたくさん江戸に入っていたんじゃ
なかろうか。空樽を使いまわすのもあったんだろうが。

味噌、醤油、酒などごとに樽の材料が分かると面白い。

291:日本@名無しさん
07/09/11 08:28:08
>>287
MISO ONLINE
URLリンク(www.miso.or.jp)

八丁味噌の生い立ち
URLリンク(www.kakuq.jp)

自身が食に凝っていた家康はともかく、色んな蔵の味噌を合わせて使うのは
食品衛生管理(毒見)上で許されることなのか、堅持されようとする奥の食の
伝統というものを考えますと、少々疑問に思うのですが…

三河は豆味噌圏に位置し、そのベストセラーが八丁味噌であったことを鑑みると
将軍の御付(味噌汁)も八丁味噌系がベースだったのは間違いないでしょう。

赤か白かというと、これは赤になります。
「赤だし」とは、元々東海豆味噌で作った味噌汁のことですから。

292:日本@名無史さん
07/09/11 10:43:28
>>289
手間味噌でつな

293:日本@名無史さん
07/09/11 13:59:49
手前味噌だた

294:日本@名無史さん
07/09/11 19:10:52
藩士と旗本の家臣と地下官人と公家侍と寺侍と、どれが一番ラクな勤務ですか?

295:日本@名無史さん
07/09/11 20:35:45
仕えてる主によるだろ。
そんなの今の会社勤めとかわらんよ。野心だけはある無能な上司に
仕えたら悲惨だわな。
一流企業の傍流の部署(資料化とか)なんて楽だしね。

296:日本@名無史さん
07/09/11 20:47:17
尾張徳川家の朝日重章は1週間に1日ぐらいの勤務だったんじゃないかなあ。
備後に畳表買い付けにいって接待されたりとかけっこうのんびりしつつ甘い汁も吸っていい身分だと思って
鸚鵡籠中記読んだ記憶がある。

297:日本@名無史さん
07/09/11 21:05:55
>>288

ありがとうございます。NHKのその時歴史が動いたや書籍をみると
重要な密書が確実に届いていることが多いので。毛利宛の信長死去の密書が間違って
秀吉に届いたのは飛脚の勘違いによるミスだが。

今、「戦国のコミュニケーション 情報と通信」を読んで勉強中です。



298:日本@名無史さん
07/09/11 21:06:54
私の曽祖父が、祖先について書いた文章が出てきたのですが
歴史に疎いせいで土地や年代を特定することができません。
キーワードになりそうな語句を片っ端からググって見たりもしたのですが
全然繋がらなくて・・・
このようなことに関して、アドバイスがいただけるスレなどはありませんか?

299:日本@名無史さん
07/09/11 22:07:29
>>294
藩士って、ちょっとしたことですぐ切腹させられる印象があるな。
ちょっとした過失や不正があれば、すぐ切腹させられてる。

寺侍は坊さんのホモの相手させられてるイメージがある。

やっぱり地下官人や公家侍あたりが狙い目か?

300:日本@名無史さん
07/09/11 22:14:23
>>274
毛利輝元は『公卿補任』に「大江輝元」と書かれている。

>>299
身分的には天皇の直臣である地下官人が一番いいだろう。

301:日本@名無史さん
07/09/11 22:22:27
身分と暮らし向きは違うから。
下級藩士と、上級家臣の重臣(大名からみたら陪臣)だと、後者のほうが贅沢な暮らしが出来たりとか。
どっちが偉いかは、けっこう揉めたみたいですが。


302:日本@名無史さん
07/09/12 02:47:48
地下官人場合も、特殊な技能で金稼ぎができたり、官司の世襲化による特殊利権なんかを持ってるケースがあるから、
あるいは下級の堂上公家より裕福だったりすることも、普通にあり得るね。

303:日本@名無史さん
07/09/12 02:48:47
>>298
全文うpすれば、ここの住人が考えてくれるかも。

304:日本@名無しさん
07/09/12 07:14:12
こういうスレもあり

【三人よれば】中世史料を読もう!【文殊の智恵】
スレリンク(history板)


305:匿名
07/09/12 10:48:06
例えば、『日本歴史』や『史学』などに収録している論文はどうやったら手に入りますか?
どなたか教えてください!

306:日本@名無しさん
07/09/12 11:15:26
>>305
史学科のある大学の図書館に行ってコピーしてきたら?

307:日本@名無史さん
07/09/12 16:14:06
>>305
大学図書館が使えない環境なら、国会図書館や大規模な公立図書館でもよい。

308:日本@名無史さん
07/09/12 18:01:43
>>303
ありがとうございます、ちょっと書いてみます。
>>304
見てきました。これから書く文が、やっぱりそっち向きのようなら移動します。
どうもありがとうございます。



309:298
07/09/12 18:02:48
この文章は、私の母方の曽祖父(母の父の父)が昭和50年に書いたものを
私が書き写したものです。直筆なので読み間違えている字もあると思います。
曽祖父は明治25年生まれ。
○は読めなかった字。書き写しながら現代仮名遣いに直した部分があります。


『我が祖先の言い伝えを書き現す』

 我が祖は慶長の昔、豊臣方に味方せる武士にて
大阪落城○(後?)比の地に来たり 法忍寺と呼ぶ
草庵に寄属せし藤田源入と言ふ
言小行脚僧○○(存了?)と言い伝えられている。

 それよりしばらくの後 一族を残して当時の
無名城跡、現在「飛戸字」に移りもっぱら
無縁没者の供養につとめながら 子弟を集めて
寺子屋式の学問を教えたと言い伝えられている



310:298
07/09/12 18:03:36

 飛戸字とは法忍よりこのトリデ跡に飛んだ
戸(ふりがな「イエ」)という意味で名付けられたと伝えられている。
 法忍の藤屋とは父はお祭等には行きして
居たという又私も藤屋の分家藤原多吉さんの
住宅新築の時 屋根ワラを運んだこともある
(1行読めない 冠婚葬祭に行き来する付き合いがあった、みたいな内容)

   自分の説明参考に
 源入・畑には赤色の土器の破片があった
又、井戸の跡もあった この城址は平家の
トリデと思う それをカシラがざきは平家の城と
言い伝えられ又近くの祖利には
スイメンドーの馬乗り石 石ゴリンサンと呼ぶ仏像もある
源平時代のものと思われる。



311:298
07/09/12 18:05:46

 又河戸の跨峠は平家の女が逃げる時
跨を落として居たからの名と言い伝えられ
久井には平家の局の墓があると聞く
五月二十八日の雨は平家の局虎御前様の
涙の雨と言われている
又城址には 今から七十年前に切られた桜の老樹も
関係があると思われる

 飛戸が城には中央に小石の小山がある
牛馬を揚げるなと言い伝えられていた
この小石は敵を防ぐための石と思われる
又基※る畑からは人骨が出たと言う
(※くにがまえに貨 と書いてあるが写す時ミスったかも)
この小山からは一尾両頭の蛇を隣の
平木○(頁?)市と言う人は見たと言った
これは双子の奇形蛇で永生はできないので
不思議とは思わぬ



312:298
07/09/12 18:07:45

 又、墓の前とか敵を食い止めるための
火の口 オシキメン デアイ キョーメン 等がある
お鉢川井戸は供養の水を汲んだ縁故の名前とゆはれる
又馬立て 木船 等もユカリがあると思われる

    その後の家系
 それより家号を藤田屋と呼び代々農業していたのである
常に人に敬われていたが曽祖父は幼少なる多惣兵衛を残して
早世せられたので曾祖母は不自由と苦難を続けられたのだと言う
祖父 多惣兵衛は生長につれ勤勉にして田畑も買い戻されたのである
祖母は
宇山の因幡より迎えられたのである



313:298
07/09/12 19:00:49
あと1ページあるけど、曽祖父親の兄弟の名前と死亡地、嫁ぎ先の地名、
曽祖父親の死亡年月日と兄弟の名前、死亡地などが書かれています。

長くなってすみません。

314:日本@名無史さん
07/09/13 15:49:58
次の方、どうぞ!

315:日本@名無史さん
07/09/13 18:12:20
>>309
いくつかの地名が広島県東広島河内町付近にあるけど、関係ある?
河戸(こうど),宇山,祖利(戸野地区)は現広島県東広島河内町
久井は三原市にある
カシラザキの城は頭崎城が東広島市高屋町にある
ただしこれは、豪族平賀氏による築城のはず


316:298
07/09/13 22:39:12
>>315
レスありがとうございます。
そういえば祖父母やその子供たちはみな
「祖先は広島からここへ移住してきた」と言っていました。
「広島から」の証拠が出て、私自身びっくりしてます。

カシラざき(昔はカシラガザキと呼んだのでしょうか)の城の部分は
もしかしたら私が写し間違えて平賀を平家と書いてしまったのかもしれません。

東広島河内町かぁ・・・そのあたりの歴史について調べてみますね!


317:日本@名無史さん
07/09/13 23:08:33
関連のありそうな地でよかった
書いた後で「平家」はヒラガと読めるので間違ってはないと思いました
河内町(こうちちょう)はもと加茂郡で平成の大合併で東広島市になりました
図書館に行けば加茂郡河内町史があると思いますので読んでみて下さい


318:日本@名無史さん
07/09/14 00:22:26
>>286
後白河自身に確固とした政治的な見識とか信念があるわけじゃないから、
次から次へと後白河の立場を利用しようという者が現れて政治が混乱。
後白河自身もそれに振り回されただけで終わった感じがする。

319:日本@名無史さん
07/09/14 10:36:00
最後まで征夷大将軍に頼朝を任命しなかったあたりはなかなかかと。

320:日本@名無しさん
07/09/14 10:54:59
>>319
流石に第二の朝日将軍を生みたくはなかったろう…

321:日本@名無史さん
07/09/15 21:24:14
確かに政治的にどうこうよりも、朝日将軍のトラウマから生理的に受け付けなかっただけかもな。
後白河がそんな大局的な視野に立って考えていたとは思えないし。

322:日本@名無史さん
07/09/16 00:23:47
名前に「内助」が挟まってるのは役職ですか?

323:日本@名無史さん
07/09/16 01:43:40
>>322
名前に「内助」が挟まってるってのは、具体的にどういうことですか?
実例をお願いします。

324:日本@名無史さん
07/09/16 05:17:48
山田内助太郎ってことじゃね?

325:日本@名無史さん
07/09/16 06:36:47
なんだそれ?

326:日本@名無史さん
07/09/16 08:48:48
>>321
いや、奥州藤原氏まで滅びて、日本全国の兵馬を大権が握られた後だ。
後白河得意の「毒をもって毒を制す」がまったく使えなくなった状況で、ようやく気がついたんじゃないか?
1190年の頼朝上洛時の、後白河とのやり取りが記録に残っていたらと思うよ。

327:日本@名無史さん
07/09/16 13:00:32
後白河に政治的意思はないよ。この人は最後までちょっと抜けてるただの遊び人。
当時の公家の日記とかを見ていればよくわかる。

328:匿名
07/09/16 14:08:20 BE:469315229-2BP(0)
例えば、『日本歴史』の中に収録されている論文を手に入れるには
どうすればいいでしょうか?教えてください。

329:日本@名無史さん
07/09/16 16:57:17
>>328
図書館でコピーしろ。しつこくマルチはするな。

330:日本@名無史さん
07/09/16 17:58:15
>>327
あの、断定してしまうのは、「公家の日記」などを出す以前の問題だと思われ。


331:日本@名無史さん
07/09/16 22:01:44
後白河が政治家・戦略家として優秀だったと言ってる研究者を見たことがない。


次ページ
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch