伊藤博文は日韓併合に賛成していたat HISTORY
伊藤博文は日韓併合に賛成していた - 暇つぶし2ch1:辻小姐
07/07/16 00:21:23
周防の国の百姓の息子、林利助は、後に父が下級武士の養子となり、伊藤俊輔と改名します。
倒幕運動の中、長州藩の直目付・長井雅楽暗殺を謀り、イギリス公使館を焼き討ちしたり、
塙次郎・加藤甲次郎を暗殺したりするなどのテロ行為によって出世し、維新後、初代首相になります。
人斬り稼業から元老に出世した百姓の息子、伊藤博文は、大陸に魔の手を伸ばします。
1905年、軍隊を率いて韓国王宮を占拠し、皇帝と大臣たちを脅迫して第二次日韓協約を結ばせます。
1909年4月10日、、伊藤は桂首相と小村外相の日韓併合案を受け入れ、
それから2週間後、東京上野の精養軒での、京城日報社主催の韓国紳士日本観光団歓迎会で、
「今や方(まさ)に協同的に進まんとする境遇となり、進んで一家たらんとせり」と演説し、併合を示唆しました。
併合論者に鞍替えした伊藤博文は、統監辞職後4度目の枢密院議長に就任し、
事後処理の為訪韓し陣頭指揮に立ち、「韓国」政府に「韓国司法及監獄事務委託に関する覚書」を調印させ、
また「韓国軍部廃止勅令公布」を行わせました。
この伊藤の処置に抗日運動はピークに達し、ついに1909年10月26日、愛国義士・安重根によって射殺されました。
暗殺によって百姓から出世した伊藤博文は、こうして暗殺によって死んだのでした。


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