「天皇家の真の皇祖は蘇我馬子」論at HISTORY
「天皇家の真の皇祖は蘇我馬子」論 - 暇つぶし2ch7:広瀬満
07/03/21 13:34:45
天智天皇の祖父は押坂彦人大兄皇子であるが、この人物は蘇我馬子と同一人物であるというのが私の説である。
日本書紀の用明天皇のあたりの記述を私の「大国主伝」を参考によく読んでもらいたい。
日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。
にもかかわらず押坂彦人大兄皇子の舎人の迹見赤檮(とみのいちい)は蘇我馬子の元で活躍している。
押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物だという疑いを誰も持たないのだろうか。

広瀬満

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8:日本@名無史さん
07/03/22 09:48:09
た、た、確かにおかしい

9:日本@名無史さん
07/03/22 12:10:04
あんまりおかしくない。
蘇我馬子は彦人皇子が消える前から登場している。
迹見赤檮が「彦人皇子の舎人」とは書かれてない。
(むしろ記事からは、赤檮が彦人皇子直属の舎人ではなかったことが読みとれる)
物部合戦で、迹見赤檮が「蘇我馬子の配下」であったとも書かれていない。

>蘇我馬子は大々王
元興寺縁起を読む限り、大々王は女性だし、
大々王が馬古大臣に告宣する場面も出てくる。
別人だな。

10:日本@名無史さん
07/03/22 12:32:47
日本版のFBIを創設しろ!!

11:広瀬満
07/03/22 14:25:32
彦人皇子と中臣勝海連の話の後に舎人迹見赤檮と記されているので迹見赤檮は彦人皇子の舎人と見るべきである。
迹見赤檮が彦人皇子の舎人でないとすれば彼はいったい誰の舎人なのか。
迹見赤檮は中臣勝海連が彦人皇子の所から退出するのを見計らって惨殺している。このような状況から迹見赤檮は彦人皇子の命で中臣勝海連を殺害したと見たほうがよい。
ちなみに「聖徳太子伝歴」では迹見赤檮は蘇我馬子の命をうけていたとある。
押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子が同一人物であるか否かは大変重要なことなのでここは徹底的な議論を望みます。

広瀬満

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12:日本@名無史さん
07/03/22 15:09:37
>>7 押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物だという疑いを誰も持たないのだろうか。

押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物だとすると、日本書記など多くの資料に、その何倍、何十倍いや何百倍もの疑問や矛盾が発生することになるが、広瀬満という方は、そういう疑いに気が付かないのであろうか?

一度、落ち着いて、
 押坂彦人大兄皇子≠蘇我馬子 の場合の矛盾点
 押坂彦人大兄皇子=蘇我馬子 の場合の矛盾点
について、一覧表などを作ってみたらどうですか。
おそらくその作業の途中で、自分の愚かさ加減に気が付くでしょうけど・・・。

13:広瀬満
07/03/22 15:48:03
押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物だとすると、日本書記など多くの資料にどのような疑問や矛盾が発生するのか具体的に説明してもらいたい。
押坂彦人大兄皇子に関する疑いについては早急に、具体的に説明させていただく。
なおこの板に書き込む場合は名前(仮名でよい)を書き込んでいただきたい。そうでないと誰からの質問だか、誰に返答を返して良いのかわからない。このことはくれぐれもお願いしたい。

広瀬満




14:広瀬満
07/03/22 19:10:17
ここでは押坂彦人大兄皇子はいかに矛盾に満ちた人物であるか具体的に説明していきたい。

1,押坂彦人大兄皇子(以下、彦人皇子とする)の母は敏達天皇の皇后、息長真手王の娘・広姫であるがこの息長真手王が王女が天皇の妃となったこと以外具体的な記述が何もなく正体不明の人物である。広姫という名前も皇族にしては短かすぎる。

2,敏達天皇と皇后の第一子で太子とされていたのに敏達天皇や用明天皇の崩御後、なぜ即位しなかったのか。

3,彦人皇子の后は糠手姫皇女、大俣王、桜井弓張皇女、小墾田皇女の4人であるがこの内、糠手姫皇女、桜井弓張皇女、小墾田皇女は敏達天皇の娘である。従って彦人皇子が自分の妹を3人も后にしているのは何とも異常である。
 この時代、自分の妹を娶った例はいくつかあるがそれは皇后、正后の一人に限られている。3人も后にした例はなくその理由も説明がつかない。

4,皇統譜上、彦人皇子は極めて重要な人物でありながら没年についての記載がない。一方天智天皇の祖母の薨去についての記載は存在する。

5,推古天皇には5人の娘がありそのうちの二人(桜井弓張皇女、小墾田皇女)が彦人皇子に嫁いでいるが蘇我馬子には一人も嫁いでいない。時の権力者は王族と深い姻戚関係を結ぶことが普通である。

6,蘇我馬子と物部守屋の戦いの3ヶ月前、中臣勝海連は守屋を助けるため彦人皇子と竹田皇子の像を作り呪うが、なぜ彦人皇子の像があって馬子の像がないのか。中臣勝海連と物部守屋の二人が最も敵対視していたのは馬子だったはずである。

7,蘇我馬子と物部守屋の戦い以降、彦人皇子についての消息が全く不明である。

8,彦人皇子は皇祖大兄とも呼ばれていた。父が天皇なのになぜ彼は皇祖と呼ばれていたのか。



15:広瀬満
07/03/22 19:11:11
続き

9,『延喜式』には彦人皇子の墓についての記載があるがその墓域の広さは東西15町、南北20町と尋常ではない大きさである。これは『延喜式』では最大の大きさである。
 敏達天皇が東西3町、南北3町、天智天皇でも東西14町、南北14町にすぎない。即位したわけでもないのになぜこのように大きいのか。

10,彦人皇子の墓(成相墓)が広陵町にある牧野古墳である可能性はかなり高いとされている。なぜなら成相墓があったとされる大和国広瀬郡(現在の河合町や広陵町)には牧野古墳以外、飛鳥時代の墓はほとんどないからである。
 牧野古墳の石室は明日香村の石舞台古墳とほぼ匹敵する大きさである。蘇我馬子と物部守屋の戦い以降の蘇我氏の全盛期になぜこのような巨大な墓が即位したわけでもない彦人皇子のために造られたのか。

牧野古墳についての情報:URLリンク(www.kojikiden.com)

11,推古天皇の崩御後、天皇に即位した舒明天皇は日本書紀によれば蘇我氏とは血の繋がりはない。山背大兄王といった蘇我系の皇子をさしおいてなぜ蘇我蝦夷は彼を天皇に即位させたのか。
 舒明天皇の次も蘇我氏とは血の繋がりのない宝女王(皇極天皇)である。蘇我氏の全盛期になぜ非蘇我系の皇子が次々と天皇に即位したのか説明ができない。

彦人皇子が蘇我馬子と同一人物という私の説を疑う人はこれらのことについてきちんと説明してほしい。彦人皇子は敏達天皇の皇子ではなく、蘇我馬子と同一人物であればこれらの謎は簡単に説明できるはずである。

天智天皇の祖父の彦人皇子が蘇我馬子と同一人物ということは天智天皇は蘇我馬子の孫ということになる。天皇家は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた。すなわち天皇家は万世一系ではないというのが私の考えである。

天智天皇が蘇我馬子の孫であることは私のHPの「大国主伝」において、上記以外にも様々な角度から検証しているのでぜひ参照してほしい。

広瀬満

URLリンク(www.kojikiden.com)


16:日本@名無史さん
07/03/22 23:47:41
1.広姫は敏達即位4年目に亡くなっており、先后・石姫も存命と思われ、特記事項が無くても不思議ではない。
  また、この時代、坂田耳子王が中央政治に関わっていた記事が見えるから、同族の息長王家から后が出てもおかしくはない。
  息長広姫あってこその「押坂」皇子だし、「息長足日広額」天皇であろう。
2.先后の意向や存在が重視されたのではないか。(このケースでいえば額田部皇女の意向)
  (例・欽明における春日皇后、乙巳の変時における皇極、天智後の倭姫皇后=大海人の提言、天武没後の持統など)
3.3人が同時に妃だったとは限らない。記と紀それぞれの伝承では2人である。
  (ちなみに平城天皇は異母妹を2人、妃にしている。甘南備内親王を入れれば3人である)
4.舒明が即位したため結果的に皇統譜上重要になっただけのこと。天智の祖母が亡くなったのは天智の時代。
5.この時代に皇女が臣下に嫁いだ例などない。
6.だったら、「勝海が馬子の像を造って呪った。これを知った馬子が怒って勝海を殺した」と書けばよい。
7.一度本流から外れた人の記録が疎かになるのはある意味当然。
8.時の孝徳天皇や中大兄から見れば、彦人大兄は祖父ですから。
9.兆域の拡張は後世の事業だろう(施基親王の例参照)。
  おそらく斉明女帝や天智の意向が働いていたと思われる。
10.広瀬地域と蘇我氏の関係は希薄。この地は敏達天皇との関係で捉えた方が自然。
   それに、牧野古墳は620年代まで降らないと思う。
11.蘇我氏との血の濃淡だけで皇位継承が決められたわけではないだろう(上の2にも関わってくる)。
   親族関係で云えば、山背大兄は蝦夷の甥だが、舒明は蝦夷の義弟である。

17:日本@名無史さん
07/03/22 23:56:27
赤檮は「太子」の舎人

18:日本@名無史さん
07/03/23 10:05:28
>>13 押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物だとすると、日本書記など多くの資料にどのような疑問や矛盾が発生するのか

押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子の祖先や子孫の系譜はどうなるの?
蘇我馬子と厩戸王子との関係はどうなるの?
蘇我馬子と他の群臣との関係はどうなるの?

これらのことすべてについて、一般に史実とされることであれ、聖徳太子の伝説的なことであれ、蘇我馬子と書かれているところを単に押坂彦人大兄皇子と読み替えてうまくいく箇所はほとんどない。
例えば、5が指摘したように「蘇我馬子=押坂彦人は葛城系」となるが、これを矛盾と思わないのか?

このようなことすべてについて、日本書記等の記録がほとんど矛盾となる。
ささいな疑問を解消するために莫大な矛盾を発生させる珍説と言わざるをえない。

19:日本@名無史さん
07/03/23 10:24:15
迹見赤檮についても、むちゃだ。
主人を変える、兵力を貸し出す、二人の主人を持つなど、たいして珍しいことではない。

当時の舎人は終身雇用だったのか?
そんな話は聞かない。
押坂彦人の舎人である時代と馬子の舎人である時代とがあったはずがないと、どうして分かるのだ?

舎人のレンタルや派遣はなかったのか?
物部戦争のときに、押坂彦人が馬子を支援するため、兵糧、武器、兵力などを貸したり提供したりしなかったと、どうして分かるのだ?

舎人の主人は一人だったのか?
複数の主人に仕える、あるいは複数の指揮命令系統に従うことなど、近代以前の軍隊では珍しくない。

迹見赤檮の身分について疑問はあるが、ささやかなものであり、「押坂彦人=馬子」の根拠とするほどのものではない。

20:日本@名無史さん
07/03/23 11:17:02
>>13
> なおこの板に書き込む場合は名前(仮名でよい)を書き込んでいただきたい。
> そうでないと誰からの質問だか、誰に返答を返して良いのかわからない。

これは無理な話ですよ。
2ch内では、むしろコテつけてる方が「うざい」というのが一般的な感覚。
それが嫌ならば初めからこの板には書き込むべきではない。
あと、
コテつけてなければ「誰からの質問だか、誰に返答を返して良いのかわからない」
というのは、意味不明ですな。
コテのあるなしにかかわらず、全ての質問に誠実に返答していただければ良いだけの話だと
思うんですが。
せっかくみんな、あなたに対してこんなに真面目にレスしているのですから。

21:広瀬満
07/03/24 09:36:38
>>16
他の掲示板でも同じような質問を出しているのですが思ったような返答がなくがっかりしていました。歯ごたえのある返答をいただき感激しています。
4時間あまりの短時間にすべてに返答していただいたこと、内容の鋭さと相まって感服いたしました。
相当古代史に精通した方とお見受けしました。
早速反論させていただきますが項目が多い上、なるほどと思えるもの、そうでないもの様々ありますのでしばらく時間をいただきたいと思います。

広瀬満



22:広瀬満
07/03/24 10:24:50
>>18
莫大な矛盾を発生させるというのならそのような具体例をけちけちせずに一つだけでなく10個ぐらいあげてもらいたい。
私はむしろ押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子を同一人物とした方がこの時代の謎や矛盾は少なくなると思う。
葛城に蘇我氏の祖廟が建てられていたことからわかるように確かに蘇我と葛城は深い関係にあった。
彦人大兄=葛城系に疑問を持つのなら彦人大兄の孫の中大兄皇子の別名、おそらく幼名だと思うが葛城皇子となっているのはどういうことか。
中大兄皇子は蘇我の一族だったからこそ蘇我ゆかりの葛城あるいは葛城氏の元で養育されていたのではないだろうか。
このことも押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物とする根拠の一つにあげておきたい。

広瀬満

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23:日本@名無史さん
07/03/24 11:00:01
>>1
んじゃなんで
天皇家は代々にわたり蘇我馬子よりも年長の
天照や応神なんかの祭祀を続けてるんだ?
同じ年長でも長髄彦や川上猛は祭祀してないぞ
明らかに天皇家は年長の血縁神の祭祀してるぞ!
貴方の話じゃちっとも説明つきませんよ
妄想が過ぎるんじゃありませんか?
貴方もやっぱり大林賢栄君ですか?w

24:日本@名無史さん
07/03/24 11:15:43
天智は嶋宮に住んでたばあさん連中の采女が乳母だったんだよ

25:広瀬満
07/03/24 14:16:32
>>19
19さんの論法では仮定の議論しかならないと思う。
今は押坂彦人大兄皇子の疑惑について徹底的に議論したい。

押坂彦人大兄皇子=蘇我馬子とみれば特殊な事情を考慮しなくても迹見赤檮の行動はスムーズに理解できるはずである。

広瀬満


26:広瀬満
07/03/24 21:16:13
>>20
>2ch内では、むしろコテつけてる方が「うざい」というのが一般的な感覚。
>それが嫌ならば初めからこの板には書き込むべきではない。

これは言い過ぎであろう。
書き込みには名前の項があるのだから名前を書くことが非難されることはない。
むしろ「うざい」という理由で書き込まないことが一般的になっている2ちゃんねるのマナーの方が問題では。

このスレでは当方の持論に対し意見、反論をいただきそれに私が返答する格好になっている。
すべてが「日本@名無史さん」では反論をいただいた相手が以前にどのような書き込みをされているのかわからない。
返答に正確を期すためにもぜひ協力してほしい。

>せっかくみんな、あなたに対してこんなに真面目にレスしているのですから。

真面目なレスが多く本当に感謝している。こちらもがんばってお答えしたい。

27:日本@名無史さん
07/03/24 21:19:00
広瀬満=大林www


28:衣笠宮
07/03/25 09:01:14
多くの方々がいろいろな説を唱えておられるが、
はっきりとした根拠もないのに、皇族と臣下
の枠を簡単に飛び越えている説には辟易します。
そこには現在も過去も歴然とした壁が存在しており
それなりの説得力がないと、にわかには信じられ
ませんね!

29:広瀬満
07/03/26 07:59:35
>>28
早速名前を記入していただきありがたい。こちらも返答しやすいし、このスレを見る人にも楽しんでもらえると確信している。
たいした根拠もないのにこのような説を展開しているわけではありません。
疑惑を提示し議論をしているところです。

大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス
これは大日本帝国憲法第一条である。大日本帝国は皇統の万世一系を日本国の基礎をなす最も重要な要素としていた。
今もこの見方は重視されている。いわゆる皇国史観である。

しかしその肝心の皇統譜の上に押坂彦人大兄皇子のような疑惑にみちた人物が存在することは大きな問題である。徹底的な議論が必要と感じている。
その結果によっては影響力の大きいシビアな議論となるがここでは堂々とやる!!
今後の議論に期待してほしい。

広瀬満

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30:日本共産党
07/03/26 11:53:17
期待している

31:アヴリアル帝國元帥
07/03/26 13:13:12
宣伝乙
おもしろそうだけど

32:広瀬満
07/03/26 15:16:04
>>16
1.同意する。従って1の疑惑については取り下げる。

2.先后の意向や存在が重視されたという記述はない。日本書紀の記述からも彦人大兄はかなりの実力者だったと思われる。そう簡単に無視されたとは思われない。

3.確かに「記紀」の記述に食い違いがある。理由はわからないが一応ここでは通説に従って三人という前提で説明する。
確かに平城天皇は異母妹を3人娶っている。しかしそれは彦人大兄から二百年も後の事例である。彦人大兄の前後にはそのような事例はない。
しかも平城天皇は即位している。即位もしていない彦人大兄のこのような婚姻関係の異常さは払拭できない。

4.日本書紀が完成した時代の天皇は彦人大兄の直系の子孫になる。傍系の皇子ならともかく事跡はおろか没年の記載すらないのはおかしい。

5.蘇我馬子は単なる臣下ではない。時の実力者が王族との婚姻関係を求めるのは普通のことである。
現に後の藤原氏はそれまでの慣習を破り、藤原氏の娘を聖武天皇の皇后に押し込んでいる。馬子が推古天皇の娘を求めたとしても不思議ではない。
ただしこの時代に皇女が臣下に嫁いだ例はないのは事実であり、疑惑の根拠として弱いのは認める。

6.この事件の前後の状況からして物部守屋の最大の政敵は馬子であった。
その守屋を助けるために中臣勝海連は人形を作って呪ったのだから彦人大兄≠馬子とすれば人形は馬子、彦人大兄、竹田皇子の三体でなければおかしい。

二体でしかないのは彦人大兄=馬子だからである。

「勝海が馬子の像を造って呪った。これを知った馬子が怒って勝海を殺した」と書けばよいというのは全くその通りである。
馬子一人で通せばよいのに日本書紀はあえて使い分けている。このことは大きな問題であることは以前から認識している。
日本書紀の編纂者はこのような使い分けによって読者に彦人大兄は馬子と同一人物ではないかという疑念を生じさせることを狙ったと考えている。
すなわち暗示である。この時代の書物にはこのような例がいくつかある。このことは私のHPの「大国主伝」に詳しく述べている。参照されたい。

7.彦人大兄の記録自体がないのだから本流から外れた人物であったかどうかはわからない。外れた事情の記載はない。

次に続く

33:広瀬満
07/03/26 15:22:13
>>16
続き

8.祖父ということなら皇祖父とすべき。現に中大兄の祖母は「嶋皇祖母命」となっている。皇祖は皇統の起点の意味と見る。
なお馬子は「嶋大臣」とも呼ばれていた。彦人大兄の后に「嶋」と付いているのは実にアヤシイ。

9.後世に拡張したという記述はない。仮にそうだったとしても15町・20町は巨大過ぎる。
施基親王の墓も9町・9町と大きいが三割以下にすぎないし父の天智天皇を超えてはいない。敏達天皇は3町・3町、舒明天皇は9町・6町でしかない。
墓の規模は通常被葬者の生前の実力を表していると考えられている。成相墓は飛鳥時代前期最大の実力者であった馬子の墓と考える。

10.牧野古墳の立地は難波、斑鳩、飛鳥の中間にあり立地的にも第一級。大実力者であった馬子の墓にふさわしい。
同時期の古墳で被葬者、築造時期の確定している古墳はない。唯一牧野古墳の被葬者が彦人大兄として有力視されているだけである。
牧野古墳の築造時期が六世紀末とされているのは被葬者を彦人大兄とみての憶測である。

11.義兄弟というような意識がこの時代にあったかどうか。舒明天皇が馬子の娘を一人娶ったというにすぎない。
用明から推古天皇までは蘇我系の天皇である、また後の藤原氏も自らの権力強化のため天皇家との血の繋がりには大きなこだわりを見せていた。
血の繋がりのあるなしは大きな問題である。皇位継承の決定権を握っていた蘇我蝦夷がそのことに無頓着だったとは思われない。
また田村皇子の即位が推古天皇の意向だったとすれば、なぜ蘇我氏の全盛期にあえて田村皇子を蘇我系の推古天皇が推したかが問題になる。
舒明天皇が蘇我蝦夷の弟だったとなればこのような疑問は全く生じない。


なお彦人大兄=馬子ということは皇統は推古天皇と舒明天皇の間で蘇我氏に切り替わったことになる。
このことも近日中に論じてみたい。

広瀬満

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34:日本@名無史さん
07/03/26 18:04:34
>>22 「けちけちせずに一つだけでなく10個ぐらいあげてもらいたい。」

失礼な物の言い方を「する方のようなので、こちらも遠慮なく。
人の話の内容が理解できないのか?18では、

  押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子の祖先や子孫の系譜はどうなるの?
  蘇我馬子と厩戸王子との関係はどうなるの?
  蘇我馬子と他の群臣との関係はどうなるの?

とっくに大きな括りで3種類の疑問や矛盾を投げかけている。
当然これらは、細かく見ればさらにたくさんの疑問や矛盾から構成される。
その程度の読解力もなしに、「けちけちせず」などと挑発する言い方をするものか?

まずは、押坂彦人=蘇我馬子 の場合の系譜・系図はどうなるのか?
こうした話の初歩の初歩の第1歩のような疑問であろう。
まっとうに答えられるのか?

35:日本@名無史さん
07/03/26 18:12:22
>>34 (続き)
まじめに日本書紀を読んだことあるのかな?
蘇我馬子=押坂彦人 ということで、日本書紀等に疑問も矛盾も無いのだな?
では、まず敏達のところから、

敏達元年4月蘇我馬子宿禰を大臣とした。⇒つまり、彦人が大臣になった、つまり、彦人は臣下なの?
敏達元年5月天皇は皇子と大臣に尋ねられた。⇒つまり、彦人以外に政務上重要な皇子がいた?それは誰?
    もし、それが彦人のことなら、「彦人と馬子に尋ねられた。」となるが、馬子=彦人なので、分身の術でも使ったのか?
敏達4年1月広姫を皇后とした。(広姫は)押坂彦人を生んだ。⇒彦人の父は敏達、故に馬子の父も敏達? 故に稲目=敏達?
敏達14年2月馬子は父の祀った仏に祟られて病となる。⇒馬子=彦人の父である敏達も仏教徒?
    実は「父の時に祀った仏・・」という表現なのだが、まるで過去形。敏達14年に敏達は過去の人?それとも敏達はゾンビ?
敏達14年3月物部守屋は天皇に「疫病の流行は蘇我氏が仏法を広めたことによる」と奏上し、仏像や仏殿を焼き、馬子を責める⇒
    臣下の守屋が、天皇の第1子の彦人(=馬子)を責めることができる立場だった?
    守屋の奏上は「蘇我氏」となっているが、彦人(=馬子)以外の蘇我氏も責められたのか?
    それとも従来の説のように馬子(=彦人)は蘇我氏筆頭の立場という理解で良いのか?
敏達14年8月守屋は誄をのべる馬子の姿を「矢で射られた雀のようだ」と笑う⇒
    臣下の守屋が、天皇の葬儀の場で、その第1子の彦人を笑いものにした?

馬子の記述がもっと多いのは、この後の用明、崇峻、推古のときだが、もういいだろう。
蘇我馬子=押坂彦人で、日本書紀等に疑問も矛盾も感じないというのは、まじめに読んでいないか、疑問や矛盾に気付く注意力や感覚が鈍いとしか思えない。

36:日本@名無史さん
07/03/26 18:15:09
>>35 (続き)
どうせ、また何か屁理屈をこねて反論するのだろうが、
自説に都合の悪い記述はすべて、「真実を隠すために捏造された」という、陳腐なB級陰謀論はやめてくれよ。

それから「日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。 」という類の真っ赤な嘘もダメだよ。
(自分で迹見檮(=迹見首赤檮?)と押坂彦人のことに触れているが、それって敏達の次の用明のとき!
 ぬけぬけとした嘘っぷりにあきれる!)

37:日本@名無史さん
07/03/26 18:17:38
>>36 (続き)
蘇我馬子=押坂彦人
日本書紀等に照らして疑問も矛盾もないと強く主張しているが、
日本書紀等に照らして疑問も矛盾もない系譜・系図を想定済みだよね。
蘇我馬子=押坂彦人 という説を主張する以上、その先祖や子孫の系譜について考慮していなければただの阿呆だもの。
早く系譜・系図を見せて。蘇我馬子=押坂彦人かつ日本書紀等とまったく無矛盾のものな。
とっとと系譜・系図が示せないようなら、大言壮語のペテン決定だな。

38:日本@名無史さん
07/03/26 18:22:32
>>26「このスレでは当方の持論に対し意見、反論をいただきそれに私が返答する格好になっている。 」
2chは匿名が原則。
自分勝手なルールを作らないで欲しい。

>>29
「萬世一系」だの「皇国史観」だのを批判するために、トンデモ説をぶち上げているなら大いに迷惑。
今どき、そんな観念やイデオロギーにこだわるのはカビの生えた年寄りぐらいだろう。
素朴に、古代の歴史を勉強したいだけなのに、ヘンテコなイデオロギー及びアンチイデオロギーは不愉快。

日本が歴史上で誇ってきたものを短絡的なトンデモ説で貶めて自己満足か?
それを喜ぶのは、隣りの国々の方々ぐらいだよ。

39:日本@名無史さん
07/03/26 20:18:24
>蘇我馬子=押坂彦人
これに関してはなんとも言えんが、蘇我入鹿が殺されて
蘇我蝦夷が自決するとき「国記」、「天皇記」も焼けてしまった?
という記述があるらしいが、普通「国の記録」や「王家の記録」って
大臣が処分するものなのか?
それは滅ぼされる王の行為だろ?おかしくない?

40:広瀬満
07/03/26 20:43:57
>>34
私の書き方が気に触ったのなら平にお詫びしたい。今後は気をつけたい。

例に挙げられた葛城系の件は疑問とお見受けしたのでこれには22でお答えした。

>押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子の祖先や子孫の系譜はどうなるの?
>蘇我馬子と厩戸王子との関係はどうなるの?
>蘇我馬子と他の群臣との関係はどうなるの?

上記に関しては大括りの内容で、これではあなたが何を謎として疑問に思われるのかわからないので質問としてお答えしたい。

まず「押坂彦人大兄皇子(彦人大兄)と蘇我馬子の祖先や子孫の系譜はどうなるの?」について

私は押坂彦人大兄皇子(彦人大兄)は蘇我馬子の別名と考えている。したがって敏達天皇の太子ではない。蘇我稲目が父である。
押坂彦人大兄皇子が敏達天皇の太子となっているのは日本書紀の欺瞞と考えている。このことに関しての疑問はすでに提示したとおりである。
子孫の系譜は彦人大兄と蘇我馬子の系譜を合わせればよい。したがって馬子の子の蘇我蝦夷と舒明天皇は兄弟ということになる。異母兄弟だろう。
また中大兄と蘇我入鹿は従兄弟同士ということになる。

41:広瀬満
07/03/26 20:44:49
続き

「蘇我馬子と厩戸王子との関係はどうなるの?」について

今は押坂彦人大兄皇子について論じているところで、まだ蘇我馬子と厩戸皇子について論じる段階ではないが一応私の結論だけは述べておきたい。
私は蘇我馬子と厩戸皇子は親子であると考えている。これは古事記の研究から引き出した結論であるがその説明は膨大な量になるのでここでは書ききれな

い。
私のHPの「大国主伝」で詳しく論じているので、是非を読んでいただきたい。その上で疑問にはお答えしたい。

「蘇我馬子と他の群臣との関係はどうなるの?」について

蘇我馬子と他の群臣との関係は日本書紀の記述通りで良いと思う。特に疑問となる点はない。

>素朴に、古代の歴史を勉強したいだけなのに、ヘンテコなイデオロギー及びアンチイデオロギーは不愉快。

私もそう思います。ただ日本書紀の記述に疑問があればそのことを議論することは歴史研究の立場からは必要だと思う。

>2chは匿名が原則。

「日本@名無史さん」ではわかりにくいので匿名で結構なので名前の記入をお願いしたい。
そうでないとどのレスが誰のレスだかわかりにくい。こちらとしても正確な返答をしたいのでお願いしている。

広瀬満


42:広瀬満
07/03/26 20:55:12
>>39
おそらく蘇我宗本家が事実上の大王家だったのだと思う。
天皇は蘇我氏の傀儡に近いものだったのではないか。
したがって歴史書編纂のような大事なことは蘇我宗本家が中心になって実施していたと思われる。
そのため「国記」、「天皇記」が蘇我氏の手元に有ったのではないだろうか。

広瀬満



43:日本@名無史さん
07/03/26 23:30:44
ここに書かずにHPに書けよw

44:日本@名無史さん
07/03/27 00:35:14
ここで続けていいよ。

45:日本@名無史さん
07/03/27 00:42:51
ここに書かずにHPに書けよ。うざいよ。


46:日本@名無史さん
07/03/27 02:06:08
>>32

2.>>16は、私が『日本書紀』の6・7世紀部分を読んだ上での類推である。敏達崩の時点で広姫は故人であり、ならば次后・額田部皇女及びその皇子がクローズアップされるのが自然と考えた。
  ただし、皇子・竹田がまだ若かったので、王族中の年長者である用明が即位したのだろう。なお、彦人皇子が諸皇子の中でも有力者であったことは否定しない。
3.しかし実例が存在するのだから仕方がない。平城天皇の2人の異母妹も東宮時代に妃となっていた可能性が高い。
4.直系なら何でも記載がなされるわけでもないだろう。例えば(例えが悪いが)、現代の「歴代天皇紀」に、誠仁親王(後陽成父)や典仁親王(光格父)のプロフィールがどれほど詳細に載るだろうか。
5.皇女(内親王)はおろか、二世女王と臣下の婚姻が公式に認められたのは(しかも藤原氏だけに)、推古朝から200年も経った後世であったことをつけ加えておきたい。
6.それだと、何故竹田皇子までが入っているのかという疑問が湧く。
7.『書紀』は朝廷中枢の記録が主であって、よっぽどの事件にでも関与しなければ、皇子とはいえ何処で何をしていたかなど記録には残らないであろう。
  何でもかんでも「記録されたはず。記録に無いのはおかしい」という考え方は止したほうが良い。ことに7世紀以前に関しては。


47:日本@名無史さん
07/03/27 02:10:05
>>33

8.先祖の系譜を記すのに、祖父を「祖」とする例はある。「嶋」についてだが、この時代、妻が夫に因んだ名称で呼ばれたという例を私は知らない。
9.兆域の大きさだけで判断するのはどうかと思う。これで行くと、藤原武智麻呂や冬嗣は「途轍もない」権力者だったということになる。
10.水派宮の推定地や茅渟王墓との絡みから、この地はやはり彦人大兄との関連で考えたい。
  牧野古墳からはTK209の初期段階の須恵器が出ているということだから、626年頃という年代にはちょっと無理があると思う。
11.これも『書紀』を読んでの印象だが、推古の遺詔や山背王の性格、舒明即位前紀最後の歌謡などからすると、飛鳥においては田村王優位の風潮が元からあったような気がする。
  また、この時点で蘇我蝦夷が他者とは隔絶した大権力者であったかどうかは、舒明即位までの経緯を見る限り疑問が感じられなくもない。


48:日本@名無史さん
07/03/27 02:49:01
>>1のような人は本人の自覚あるなしに関わらず歴史研究家ではなく歴史作家なんだよね

49:広瀬満
07/03/27 08:11:27
>>46
>>47
相変わらず鋭い反論をいただきありがとうございます。
早速再反論といきたいところだが、おそらくこれ以上議論しても水掛け論にしかならないだろうし、
お互い主張すべき所はしたと思われるので再反論はやめにしたい。結果は読者の判断にゆだね、議論を先に進めたい。

広瀬満


50:日本@名無史さん
07/03/27 10:23:44
>>49
自分の敗北宣言か?
勝手に「水掛け論」などと決め付けるなよ。
疑問1は速攻で破綻(>>32
疑問2~11は憶測ばかりではないか。(>>32,33)

51:日本@名無史さん
07/03/27 10:46:14
>>40 「例に挙げられた葛城系の件は疑問とお見受けしたのでこれには22でお答えした。」

蘇我=葛城系であるので、馬子=押坂彦人であれば、押坂彦人も葛城系となってしまう。
その根拠に中大兄=葛城皇子を持ってくるのは、理由になっていないよ。
(というよりトンデモ説であることを自ら証すような釣られっぷりだな。
 幼名と島の屋敷から、中大兄と蘇我とを結びつける珍説など、ずっと昔からあったからね。)

幼名は、必ずしも父方にユカリのあるものだけとは限らず、母方や乳母などのユカリのものであることが多いのは常識。
子供の名前が葛城皇子だからといって、その父親が葛城系とは言えない。
根拠として、こんなものにすがるか?

52:日本@名無史さん
07/03/27 10:48:30
>>42
私も蘇我氏が倭国大王家だったと思います。
後隋書(だっけ?)に書かれた「日本はもと小国、大国である
倭国を併呑した」との記述が真実に近いとすると日本書紀が
編纂された目的もわかってくると思います。





53:日本@名無史さん
07/03/27 10:51:34
>>40 「馬子の子の蘇我蝦夷と舒明天皇は兄弟」

「敏達4年1月広姫を皇后とした。(広姫は)押坂彦人を生んだ。」は「欺瞞」ですか。
その他の敏達のときの疑問や矛盾もスルーですか。

結局、馬子=押坂彦人 は、日本書紀等に照らして疑問も矛盾もテンコ盛りの説ではないか。

馬子や押坂彦人の父の代について、合理的な説明がまるでできないペテンじゃないか。
自説に不都合な「敏達4年1月広姫を皇后とした。(広姫は)押坂彦人を生んだ。」は、「真実を隠すために捏造された」ということか。
陳腐なB級陰謀論に過ぎないじゃないか。

馬子や押坂彦人の子の代についても、同じ兄弟が、片方は大王家となり、もう片方は以前から何代も続く臣下の家系となることに、何の疑問も感じないのか?

これらを疑問でも矛盾ではないと強弁するようでは、根拠のない説と言わざるを得ない。
自説に有利な記述だけを、重箱の隅を突付くように堀り出して、自己陶酔・自己満足しているだけ。

54:日本@名無史さん
07/03/27 11:02:05
>>41 「蘇我馬子と他の群臣との関係は日本書紀の記述通りで良いと思う。特に疑問となる点はない。」

疑問となる点はないのではなく、疑問を感じ取る感性が鈍いのだろう。
馬子=押坂彦人 とすると、例えば、敏達の時代でも、守屋との関係などに疑問や矛盾があると指摘済みだが、それもスルーか? (>>35)
蘇我・物部の争いなど、教科書にも出ているような有名な話だが、それが大王家の者が辱めを受ける解釈となっても疑問を感じないのか?

自説に都合の悪いことは無視か。
自説に有利な記述だけを、重箱の隅を突付くように堀り出して、自己陶酔・自己満足しているだけ。

55:日本@名無史さん
07/03/27 11:12:18
それから「日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。」(>>7)という真っ赤な嘘はどう言い訳するのだ?
これもスルーか?

自分で迹見檮(=迹見首赤檮?)と押坂彦人のことに触れているが、それって敏達の次の用明のとき!
ぬけぬけとした嘘っぷりにあきれる!

56:日本@名無史さん
07/03/27 11:15:55
>>55 (続き)
ついでにいうと、迹見赤檮は、=迹見檮=迹見首赤檮 で間違いないのだな?
古田信者が見たら「迹見赤檮はいなかった」と馬鹿にされるぞ。

呪の人形の数がおかしい(>>32)など重箱の隅を突付くようなことばかり言うのだから、こういうところも厳密にしないと、偏ったアンフェアな論理であると言わざるを得ない

57:日本@名無史さん
07/03/27 11:20:19
とにもかくにも、
 a 馬子=押坂彦人
 b 蘇我蝦夷と舒明天皇と厩戸皇子は、馬子の子
という系図をとっとと見せてよ。
当然、既に作成済みだよね。
系譜・系図の全体像の想定なしに、こんな親子関係の説を唱えたら、ただの阿呆だもの。

aとbを満たし、日本書紀等に照らして「疑問も矛盾もない」系図を見たい。すごく見たい!
理屈が破綻すると「水掛け論」とか負け惜しみを言って逃げる卑怯技を使うようなので、とにかく早く系図を見せて!

58:広瀬満
07/03/27 21:15:13
>>52
蘇我氏の先祖は5世紀末に我が国に渡来した百済の貴族木満致というのが有力な説となっています。
「日本書紀」によれば木満致は任那を支配し、事実上伽耶の王だったとされる人物です。
私もこの説を支持しています。

天皇家の出自が蘇我氏となると天皇家の祖先は任那からの渡来人だった可能性が高くなります。
そうしますといろいろ議論のある任那日本府の実体や旧唐書の「日本はもと小国・・・云々」の記述もわかってきます。
また飛鳥時代以降の天皇家の動きも説明しやすくなるはずです。

天皇家と蘇我氏を結び、古代史の謎を解き明かすキーマンこそ押坂彦人大兄だと私は考えています。

広瀬満

59:日本@名無史さん
07/03/27 22:21:07

現在、京都大学では、蘇我氏の先祖は阿蘇山周辺の出身者であるというのが有力な説となっています。

物部氏が蘇我氏を愚弄する時に
「この阿蘇の者が!!」
「阿蘇に帰れ!!」
という言葉が使われている文献があります。
その文献は戦後、東京大学によって改竄されました。

東京の方では、蘇我氏は朝鮮出身ということにしたいらしいですが。
京大は国家権力に反発できますからね。
東京は国家権力に従順ですが。

みなさんも戦後、GHQと東京大学によって日本書紀や古事記など多数の文献が改竄されたという事実を知っておいた方がいいですよ。


60:広瀬満
07/03/28 07:37:33
>>59
そのような文献があると聞いて驚いている。初耳である。
是非詳しく紹介してほしい。
「日本書紀」「古事記」は戦前にすでに広く出回っており、戦後にGHQと東京大学が改竄することは無理なのでは。

広瀬満

61:日本@名無史さん
07/03/28 09:03:18
>>59
文献の名前を是非教えてください。

62:日本@名無史さん
07/03/28 09:28:26
>>59
宮内庁書陵部所蔵の敏達紀のことでしょうか?

63:日本@名無史さん
07/03/28 11:45:28
>>41 私のHPの「大国主伝」で詳しく論じているので、是非を読んでいただきたい。その上で疑問にはお答えしたい。

こういうことを言うなら、自分のHPから出てこないでほしい。
2chの一つのスレッドを私物化する行為だということが理解できないのかねえ。

64:日本@名無史さん
07/03/28 11:48:20
>>58 「蘇我氏の先祖は・・・木満致」
これは、>>22
「葛城に蘇我氏の祖廟が建てられていたことからわかるように確かに蘇我と葛城は深い関係にあった。」
と矛盾するとは思わないのか?

65:日本@名無史さん
07/03/28 11:52:41
>>58 話題を勝手に変えるなよ。

a 馬子=押坂彦人
b 蘇我蝦夷と舒明天皇と厩戸皇子は、馬子の子
aとbを満たし、日本書紀等に照らして「疑問も矛盾もない」系図を見せてよ。

「日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。」(>>7)という真っ赤な嘘の言い訳は?
(自分で迹見檮(=迹見首赤檮?)と押坂彦人のことに触れているが、それって敏達の次の用明のとき! )

その他、これらの疑問は? >>19, >>34, 35, 36, 37, >>51, >>53, 54, 55, 56, 57, >>64

都合が悪くなると話題を勝手に変えるような卑怯でアンフェアな態度はやめてほしい。
系図を示さずに、このまま2chから逃げ出すような卑怯でアンフェアな態度もやめてほしい。

66:日本@名無史さん
07/03/28 12:49:05
>>65
>>49

67:日本@名無史さん
07/03/28 13:52:47
10件の疑問や矛盾を示し(>>14,15)、それを解消するために 馬子=押坂彦人 と主張する。
(疑問1は、>>16 で秒殺)

しかし、 馬子=押坂彦人 では、かえって疑問や矛盾が増える。
主に、敏達のときを中心に拾い上げても、
>>19, >>34, 35, 36, 37, >>51, >>53, 54, 55, 56, 57, >>64
これに用命、崇峻、推古の時代の疑問や矛盾を細かく取り上げたらどれほどの疑問や矛盾が生じるか。

呪いの人形の数がおかしいなどのチンケな10件の疑問や矛盾を解消するために、かえって疑問や矛盾が莫大に増えては、意味ないじゃん。

68:日本@名無史さん
07/03/28 14:11:38
>>25
「迹見赤檮がずっと同じ主人に仕えていて、他の者の指揮命令を受けることはまったくなかった」というのも仮定に過ぎない。
a 同じ主人に仕えた根拠を示してよ。
  まさか、その根拠が、豊臣以降の「奉公構い」や「忠臣二君に仕えず」では、笑っちゃうよ。
  時期によって押坂彦人、馬子、厩戸と、主人を変えてもおかしくない。
  終身雇用の時代じゃあるまいし。
  しかもこの時代の渡来人(1世)の多くは、主人を変えているはず。主人を変える例はむしろ多いかもしれない。
b 馬子の指揮命令を受けなかったと言い切る根拠を示してよ。
  物部戦争に押坂彦人は参加しなかったが、兵糧・武器・兵力などの協力を行わなかったと言い切る根拠を示してよ。
  迹見赤檮が押坂彦人の舎人の身分のまま、馬子の指揮下にいても何の不思議もない。
  それがありえないと考えること自体が、一つの仮定に過ぎない。

自分の仮定は棚上げして、他人の仮定は「仮定の話だから無視」では、卑怯だよ。
自分の主張が仮定ではないという根拠を示してよ。

69:日本@名無史さん
07/03/28 14:41:35
>>32
疑問1 秒殺で消滅(笑)

疑問2 >>16が実例を挙げているのに、日本書紀に一言一句同じ文章表現がないからといって「記述はない」は屁理屈。

疑問3 自分の説に疑問や矛盾は一切ないと自慢するくせに、「理由はわからないが・・・という前提で説明する」とは何のこっちゃ?
    要するに、自分の説でもすべての疑問や矛盾が解消できていないではないか。
    そもそも、古代の通史で、まったく疑問も矛盾もない説などお目にかかったことがない。
    自分が提示した疑問や矛盾が解消できなければ、自説が正しいという論法は、論理的におかしいことに気が付かないのか。

疑問4 彦人大兄について「事跡はおろか没年の記載すらない」と主張している。
    にもかかわらず、疑問2で「かなりの実力者だったと思われる」とどうして思えるのか?
    3行書くと、もう前に書いたことは忘れているのか?
    支離滅裂。

疑問5 >>16が「この時代」に例がないといっているのに、「後の」時代の例で反論するのは論点を摩り替える卑怯技。

疑問6 中臣勝海が馬子呪殺という狙いを持っていたかどうか、単なる憶測。
    そもそも大王の後継者争いで、その有力対立候補を呪殺しようとするのに何か大きな疑問があるのか?
    「呪いの人形の数がおかしい」ことを根拠に 彦人大兄=馬子 を主張するくらいなら、
    「有力対立候補を呪殺しようとしたが、馬子を呪殺しようとはしなかったのだ」とそのまま素直に読むほうが賢い。
    読解力が低いから「暗示」なんぞのB級陰謀論にすがることになる。

疑問7 これも「記録自体がないのだから本流から外れた」あるいは「本流ではない」とそのまま素直に読むほうが賢い。
    池辺皇子、田目皇子、宅戸皇子、・・・。本流から外れた事情の記載のない皇子など、この時代でも珍しくもない。

70:日本@名無史さん
07/03/28 14:45:17
>>33
疑問8 「皇祖大兄」を勝手に「皇祖」で打ち切って読んで、因縁を付けているだけ。
    しかも、自分自身「皇祖母」という例を同時に挙げているのだから、そうとう論理思考が弱い。
    「皇祖大兄」、「皇祖母」(さらに「皇祖父」)という言い方があるのだろう。

疑問9 「墓の規模は通常被葬者の生前の実力を表していると考えられている。」がまったくのダウト。
    一般に、古墳では、被葬者だけでなく、その後継者や墳墓造営・葬送を行った者の影響も無視できない。
    (欽明天皇と堅塩媛の例もこれに近い。)
    そして、馬子の時代は、古墳、特に、前方後円墳の終末期であることは常識。
    墓の規模が被葬者の生前の実力を表しているとは、とても言えない。
    さらに、もう少し後では、薄葬となるので、ますます関係が薄れる。

疑問10 「牧野古墳の立地は難波、斑鳩、飛鳥の中間にあり・・・」
    何じゃコリャとしか言いようがない阿呆さにあきれる。
    地図を見たことあるのか。
    これに該当する地域は、牧野古墳のある広陵町だけでなく、上牧町、香芝市、柏原市、藤井寺市、羽曳野市、八尾市、松原市、etc。
    あの太子町も該当する。
    (古墳好きなら、藤井寺市、羽曳野市、太子町などの地名には脊髄反射する。)
    広陵町の牧野古墳の立地だけを、「立地的にも第一級」など、どうして言えるのだ?
    難波宮と結びつける伏線として「難波」を持ち出したのだろうが、自爆して論理破綻したとしか言いようがない。

疑問11 「舒明天皇が蘇我蝦夷の弟だったとなればこのような疑問は全く生じない」
    もうトホホの阿呆ぶりだな。
    舒明と蝦夷が兄弟という説が成り立つなら、「兄である蝦夷が天皇にならなかったのはなぜか」というもっと大きな疑問が生じるだろう。
    何の疑問の解消にもなっていないどころか、疑問を増幅している。

71:日本@名無史さん
07/03/28 15:41:49
第9章 第10章 読んだ 面白い。

けどね、
1・古代の神社はそもそも全国山頂にある、別に出雲だけでない。
2・山頂は、他国からの進行を防ぐ監視の基本。 鏡信号 鐘信号
  古代の見張台が後の世で鏡とともに信仰の対象となる
3・大和にとって、半島方面の海を見渡す出雲の山頂に、神社跡が残っているのは
  朝鮮半島を敵と見なしている場合に当然の処置の跡である

白村江の話
1・ そもそも5-6世紀、倭と百済の大王はそろって、漢の南朝の大将軍位
2・ 倭も百済もそろって、南朝の漢式文化様式を取り入れている
3・ 隋・唐は、非漢文化の敵国であり、漢の大将軍の遺臣として倭と百済の王が
そろって、対唐防衛ラインに戦うのは当然の成り行きである。

そもそも、倭帝は漢の威光を元に何十という国を併合して東の地を治めて、
その地位を保ってるわけであって、 記紀に登場する半島と列島の
小さな世界観で、収まる世界じゃないんだな
漢亡き後、百済と倭は後ろ盾をなくし、変わって漢代には将軍位でもなく虐げられていた
新羅が唐をバックに、 漢陣営の百済と倭を侵攻してきたわけだ

でも、 大倭木マンち のとこは特に面白い。 なんで大倭がついたんだろう



72:日本@名無史さん
07/03/28 17:48:46
お~~~い、日が暮れるぞ~イ。

馬子=押坂彦人 and 蘇我蝦夷と舒明天皇と厩戸皇子は馬子の子 and 日本書紀等に照らして「疑問も矛盾もない」系図は、まだか~~~~?

73:日本@名無史さん
07/03/28 18:19:20
69と70が、ちぎれたので再掲

>>32

疑問1 秒殺で消滅(笑)

疑問2 >>16が実例を挙げているのに、日本書紀に一言一句同じ文章表現がないからといって「記述はない」は屁理屈。

疑問3 自分の説に疑問や矛盾は一切ないと自慢するくせに、「理由はわからないが・・・という前提で説明する」とは何のこっちゃ?
    要するに、自分の説でもすべての疑問や矛盾が解消できていないではないか。
    そもそも、古代の通史で、まったく疑問も矛盾もない説などお目にかかったことがない。
    自分が提示した疑問や矛盾が解消できなければ、自説が正しいという論法は、論理的におかしいことに気が付かないのか。

疑問4 彦人大兄について「事跡はおろか没年の記載すらない」と主張している。
    にもかかわらず、疑問2で「かなりの実力者だったと思われる」とどうして思えるのか?
    3行書くと、もう前に書いたことは忘れているのか?
    支離滅裂。


74:日本@名無史さん
07/03/28 18:20:24
69と70が、ちぎれたので再掲

>>32

疑問1 秒殺で消滅(笑)

疑問2 >>16が実例を挙げているのに、日本書紀に一言一句同じ文章表現がないからといって「記述はない」は屁理屈。

疑問3 自分の説に疑問や矛盾は一切ないと自慢するくせに、「理由はわからないが・・・という前提で説明する」とは何のこっちゃ?
    要するに、自分の説でもすべての疑問や矛盾が解消できていないではないか。
    そもそも、古代の通史で、まったく疑問も矛盾もない説などお目にかかったことがない。
    自分が提示した疑問や矛盾が解消できなければ、自説が正しいという論法は、論理的におかしいことに気が付かないのか。

75:日本@名無史さん
07/03/28 18:22:07
疑問4 彦人大兄について「事跡はおろか没年の記載すらない」と主張している。
    にもかかわらず、疑問2で「かなりの実力者だったと思われる」とどうして思えるのか?
    3行書くと、もう前に書いたことは忘れているのか?
    支離滅裂。

疑問5 >>16が「この時代」に例がないといっているのに、「後の」時代の例で反論するのは論点を摩り替える卑怯技。

疑問6 中臣勝海が馬子呪殺という狙いを持っていたかどうか、単なる憶測。
    そもそも大王の後継者争いで、その有力対立候補を呪殺しようとするのに何か大きな疑問があるのか?
    「呪いの人形の数がおかしい」ことを根拠に 彦人大兄=馬子 を主張するくらいなら、
    「有力対立候補を呪殺しようとしたが、馬子を呪殺しようとはしなかったのだ」とそのまま素直に読むほうが賢い。
    読解力が低いから「暗示」なんぞのB級陰謀論にすがることになる。

76:日本@名無史さん
07/03/28 18:23:35
疑問7 これも「記録自体がないのだから本流から外れた」あるいは「本流ではない」とそのまま素直に読むほうが賢い。
    池辺皇子、田目皇子、宅戸皇子、・・・。本流から外れた事情の記載のない皇子など、この時代でも珍しくもない。

>>33

疑問8 「皇祖大兄」を勝手に「皇祖」で打ち切って読んで、因縁を付けているだけ。
    しかも、自分自身「皇祖母」という例を同時に挙げているのだから、そうとう論理思考が弱い。
    「皇祖大兄」、「皇祖母」(さらに「皇祖父」)という言い方があるのだろう。

77:日本@名無史さん
07/03/28 18:29:02
疑問9 「墓の規模は通常被葬者の生前の実力を表していると考えられている。」がまったくのダウト。
    一般に、古墳では、被葬者だけでなく、その後継者や墳墓造営・葬送を行った者の影響も無視できない。
    (欽明天皇と堅塩媛の例もこれに近い。)
    そして、馬子の時代は、古墳、特に、前方後円墳の終末期であることは常識。
    墓の規模が被葬者の生前の実力を表しているとは、とても言えない。
    さらに、もう少し後では、薄葬となるので、ますます関係が薄れる。

78:日本@名無史さん
07/03/28 18:35:49
疑問10 「牧野古墳の立地は難波、斑鳩、飛鳥の中間にあり・・・」
    何じゃコリャとしか言いようがない阿呆さにあきれる。
    地図を見たことあるのか。
    これに該当する地域は、牧野古墳のある広陵町だけでなく、上牧町、香芝市、柏原市、藤井寺市、羽曳野市、八尾市、松原市、etc。
    あの太子町も該当する。
    (古墳好きなら、藤井寺市、羽曳野市、太子町などの地名には脊髄反射する。)
    広陵町の牧野古墳の立地だけを、「立地的にも第一級」など、どうして言えるのだ?
    難波宮と結びつける伏線として「難波」を持ち出したのだろうが、自爆して論理破綻したとしか言いようがない。

疑問11 「舒明天皇が蘇我蝦夷の弟だったとなればこのような疑問は全く生じない」
    もうトホホの阿呆ぶりだな。
    舒明と蝦夷が兄弟という説が成り立つなら、「兄である蝦夷が天皇にならなかったのはなぜか」というもっと大きな疑問が生じるだろう。
    何の疑問の解消にもなっていないどころか、疑問を増幅している。

79:広瀬満
07/03/28 21:53:59
>>71
ご意見ありがとうございます。
参考にさせていただきます。

木満致になぜ「大倭」が付いたかはいろいろ想像をかき立てられる面白い問題だと思います。
私は朝廷内部にレジスタンスがいたと考えています。

第10章は古事記成立論となっています。
通説とはかなり異なる内容ですがこの説には自信を持っています。
飛鳥時代から奈良時代にかけて全国的に国民教化が行われ日本民族が誕生するとともに天皇の権威が確立したと考えています。

広瀬満

80:日本@名無史さん
07/03/29 04:40:01
僕も、この5年2ch日本史板で 独自の記紀成立論を残してるよ

基本は、漢帝なき東アジアで、隋唐に舐められないために国史や国号が編纂され
漢の将軍位としての倭王の歴史を全て封印して、歴史を打ち立てる必要が合った事。
その為に、倭の五王に該当する王は、天武の直系から排除した系図を成立させる。
これが日本書紀の主たる目的であった事。 具体的には、
応神帝  → → → → → 継体帝==== 天武帝 であり、
よって、応神は八幡神であり、 八色の姓は継体帝の子孫のみが皇族であるとする
それ以外の、古代の伝承は朝廷書記官が秦氏や東漢氏など渡来系であったため
必然として彼らの祖先である、弓月王(三日月をシンボルとする王)中東からの神話が
必ずやミックスされているだろう。 
蘇我馬子は「我は蘇る馬の子」であまりにもイエス神話に近い
聖徳太子や蘇我馬子は、天武帝時代 唐ですでに国教と認知されつつあった
「大秦教」景教への対抗から生まれた名称創作。
天武帝の唐への対抗心は、 
道教(同じく唐の国教)においての 天皇号や真人の採用を見ても多く、
天武帝時代の創作は、常に 東アジアでの宗教的な権威付けが目的である 



81:広瀬満
07/03/29 08:31:24
>>80
日本書紀は官僚を啓蒙するための歴史書
古事記は国民を教化するための歴史書
私はそのように考えています。

成立論は難しいですが面白いと思います。
記紀成立論も歓迎します。

広瀬満

URLリンク(www.kojikiden.yahoo.co.jp)

82:広瀬満
07/03/29 08:33:22
>>46
>>47
さらなる立証をただいま準備中です。
あとしばらくお待ちください。

広瀬満


83:日本@名無史さん
07/03/29 09:59:22
早く系図を見せてよ。
話題を変えて、議論から逃げ回ってぐずぐずしてるから、どんどんハードルが高くなっているじゃないか(笑)。

 馬子=押坂彦人 、かつ、
 蘇我蝦夷と舒明天皇と厩戸皇子は、馬子の子 、かつ、
 蘇我氏は木満致の子孫で百済系、かつ、
 蘇我氏は葛城系、かつ、
 日本書紀等に照らして「疑問も矛盾もない」
という系図を見せてよ。

84:日本@名無史さん
07/03/29 10:10:56
こういうトンデモ説は大いに迷惑。
ネットで何か調べ物を検索してると、引っかかり、すごく邪魔。

トンデモ説とはいえ、言論の自由はあるので、唱えるのは勝手にすればよい。
しかし、紙などネット以外の媒体を使って欲しい。

あるいは多少妥協して、自分のホームページの中だけなら、ネットで検索して引っかかっても、2回目以降は、
「またトンデモに来てしまった」とすぐ分かるので、中を読む時間が節約できる。
最低限、自分のホームページから這い出ないで欲しい。

大人のマナーだね。

85:日本@名無史さん
07/03/29 10:13:36
「日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。」(>>7)という真っ赤な嘘の言い訳は?
 蘇我馬子が大臣になったのは572年(敏達元年)
 自分で迹見檮(=迹見首赤檮?)と押坂彦人のことに触れ、それを重視しているが、それは587年(用明2年)
すさまじい嘘っぷり!!!

86:日本@名無史さん
07/03/29 10:16:24
>>71
>>79
何じゃ、このやり取りは。
自分に都合の良いことだけ対応か。
「批評、意見を広く求めます。 」は嘘っぱちか。

もしかして、自作自演???

87:(*・∀・)
07/03/29 10:31:41
(*・∀・)

88:日本@名無史さん
07/03/29 11:13:54
>>33 「墓の規模は通常被葬者の生前の実力を表していると考えられている。」の根拠を示して欲しい。
この時代の墓は、古墳ということで検討させてもらう。

1 古墳の被葬者が明確なものは少ないことは、古代史の常識中の常識。
  したがって、「被葬者の生前の実力」も明確でないものが多い。
  したがって、「規模」と「被葬者の生前の実力」との間に、厳密な相関関係は主張できない。
  「被葬者の生前の実力」は古墳の規模を決める大きな要素であるが、それだけで決まるとはとても言えない。

2 「被葬者の生前の実力」が古墳の規模に影響を及ぼすとしても「実力」とは政治的・軍事的なものだけではない。
  財力も重要だが、これは記紀等の記述からは、なかなか実態が分からない。
  記紀等に記述された政治的・軍事的な実力だけで、古墳の規模が決まると考えるのは、早計である。

3 寿陵を除き、古墳を造営するのは後継者や関係者であり被葬者ではない。
  また、生前葬を除き、葬送儀礼等を主催するのは、被葬者ではありえない。
  古墳の規模や副葬品の豪華さは、これら後継者や関係者の「実力」の影響も無視できない。

89:日本@名無史さん
07/03/29 11:18:41
>>88 (続き)
4 実例
 a 吉備の造山古墳が堺市の上石津ミサンザイ古墳(伝履中陵)とほぼ同規模なのは有名な話。
   墳長でいえば、全国ベスト4とベスト3で、知らないとは言わせない。
   どちらも被葬者が確定されていないが、当時は吉備の豪族より河内の大王のほうがはるかに有力と考えるのが、「通常」だろう。
 b 馬子と同時代の例では、春日向山古墳(伝用明陵、辺長63m×60m)と山田高塚古墳(伝推古陵、辺長63m×56m)をご存知ないか。
   どちらも被葬者が確定されていないが、比定が正しいとすると、わずか2年で崩御した用明の墓のほうが推古より若干大きいことになる。
   「墓の規模は通常被葬者の生前の実力を表していると考えられている。」というのは無理だ。
   被葬者が違うかも知れないというなら、なおさら「墓の規模は通常被葬者の生前の実力を表していると考えられている。」というのは無理だ。

おおよその傾向として被葬者の実力と古墳の規模が相関すると考えるのはよいが、(前方後円墳体制など)
厳密な相関関係を主張するのは無理だし、ましてや天皇の系譜を大きく覆すような説の根拠とするなど、トンデモである。

「墓の規模は通常被葬者の生前の実力を表していると考えられている。」の根拠を示して欲しい。

90:日本@名無史さん
07/03/29 13:28:06
>>49
論破されて論に負け、逃げ出すための言い訳が「水掛け論」という屁理屈であるようにしか読めない。
しかも、負け惜しみの捨て台詞が「結果は読者の判断にゆだね、議論を先に進めたい。」というのも、とてつもなく卑しい。
急いで先に進まなければいけない理由があるのか?
自分から言い出して、都合が悪くなると一方的に議論を打ち切ろうとするのは卑劣だ。

「結果は読者の判断にゆだね・・・」 ⇒ あきれる!!!!

歴史は、読者の多数決や人気投票で決まるのではない。

誠実な人間であれば、こう言うだろう。「読者がどう言おうと、真理を探求することは止めない」

91:日本@名無史さん
07/03/29 13:30:35
「天皇家の真の皇祖は蘇我馬子」(>>1)
「皇祖は皇統の起点」(>>33)

つまり、馬子は天皇ではなかったということだな。
では、馬子=押坂彦人 の身分は何なのか、はっきりさせるべきだ。
臣下か、皇子か?
肝心なところが、すごくいい加減。

92:広瀬満
07/03/29 13:55:51
>>88
>>89
史料を当たりますので3日ほど時間をください。

広瀬満

93:日本@名無史さん
07/03/29 14:07:34
よくわからんがマッタリいこうよ。

半年くらいして、反証を見つける事もある

94:日本@名無史さん
07/03/29 17:43:09
いつまでたっても系図を見せないから、しかたないのでスレ主のHPを見てみたのよ。
そしたらなんと、系図があった。
URLリンク(www.kojikiden.com)

で、もっとも大事な馬子=押坂彦人 のところは、敏達天皇と蘇我稲目の両方から線が伸びているのよ。
まるで、敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだという系図に読める。

敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだって、気色悪くない?
もう疑問や矛盾を超越している。

結論:広瀬満の説とは、
「敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだ」

95:日本@名無史さん
07/03/29 17:47:51
「日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。」(>>7)という真っ赤な嘘の言い訳は?
 蘇我馬子が大臣になったのは572年(敏達元年)
 自分で迹見檮(=迹見首赤檮?)と押坂彦人のことに触れ、それを重視しているが、それは587年(用明2年)
すさまじい嘘っぷり!!!

96:日本@名無史さん
07/03/29 19:01:55
あんま攻撃的レスをしなさんな
広瀬氏の論述法には、根本的な問題があるでしょ

「A=B 仮説X
Xが真実である以上、C=D である。 仮説Y
Yが真実である以上、E=F である。 仮説Z
今、Zという真実が解き明かされた。」

こういう論述法は、歴史ロマン派の醍醐味なわけだし
攻撃的なレスをするより、暖かくロマンを広げる方が好きだなー



97:日本@名無史さん
07/03/29 20:32:57
某なんとか法スレと同じタイプだな
史学と小説の区別はつけたほうがよい

98:日本@名無史さん
07/03/29 20:53:43
いやいや、 ”仮説Xが成立すると、Z となる”
という事項はそれはそれで、科学的意味を持つ 
史学分野だよ。

ただし、仮説Xを前提に という注釈を明記しないと×
大事な事は大らかに検証しようという事だよ

出物がクズであっても、掘らない人は掘った人を貶してはいけない。
掘ってればそのうち、お宝が出る事もある

99:九州出身
07/03/29 20:58:49
ほんとかな?


100:日本@名無史さん
07/03/29 23:54:02
疑似科学ではないのか?

101:広瀬満
07/03/30 09:07:09
ちなみに牧野古墳は「うまさん公園」として地元の人たちに親しまれています。
石室の入り口は普段施錠されていますので入ることはできませんが外から中の石棺を見ることはできます。

広瀬満

102:広瀬満
07/03/30 19:24:12
これまで押坂彦人大兄皇子にまつわる疑惑について議論してきたわけだが、私の説明不足かもしれないがこのスレの読者には少しわかりにくいようなので、
ここで私が押坂彦人大兄皇子、蘇我馬子および「日本書紀」についてどのように考えているのか簡単に述べておきたい。

わたしは元々日本神話を研究していた。そのなかでスサノヲの正体は蘇我馬子であるという結論に至った。
このことは私のHPの「大国主伝」に詳しい。なお神話に関しては別途スレを立てる予定であるのでそこで議論したい。
ところがスサノヲは出雲大社(中世はスサノヲが祀られていた)、熊野大社、津島神社、氷川神社などの著名神社に祀られ歴代の天皇からあつく崇拝されていた。

そこで私は天皇家と蘇我馬子には血の繋がりがあると考え皇統譜を調べた結果、この押坂彦人大兄皇子にまつわる疑惑が数多く浮上したのであった。
この疑惑を検討した結果、押坂彦人大兄は蘇我馬子の別名、すなわち彦人大兄と馬子は同一人物であり、彦人大兄は敏達天皇の太子ではなく、蘇我稲目の子であるという結論に達した。

103:広瀬満
07/03/30 19:25:52
続き
すなわち蘇我蝦夷と舒明天皇は兄弟であり、蘇我入鹿と中大兄はともに馬子の孫で、従兄弟同士ということになる。
天皇家(大王家)は飛鳥時代にそれまでの天皇家から蘇我氏に皇統が切り替わっていたのではないだろうか。

「日本書紀」は皇統が切り替わっていたと正直に書くわけにはいかないので天皇家の出自が蘇我氏であることを隠蔽し、
舒明天皇以後の皇統を推古天皇以前の皇統に繋いで万世一系の皇統とするために馬子の別名の彦人大兄を使いこのような皇統譜の改竄が行われたと考えている。

中大兄が蘇我馬子の孫であり、推古天皇と舒明天皇の間に王朝の交代があることは「日本書紀」の記述等からも伺えるので次にそのことを論じてみたい。
近日中に掲載したい。

広瀬満

URLリンク(www.kojikiden.com)

104:96です
07/03/31 04:57:57
僕ね、広瀬さんのHPのファンです。
でもそれは、賛成してるからではなく、
真摯な情熱を感じるからなのです。
とても、頭から否定したり、冷や水をかける気にはならない。
がんばってください。
ただし、論述方法は結果を証明する構成になってない事は理解してください。

大まかに言って
1・大国主=天武
2・すさのう=蘇我馬子
まずこれ全くの、思い込みですね。 この仮説を事実と断定して
次の議論が進みますが、今度はこの仮説を根拠に消去法から
別の結論を導いています。 これは笑えるところです。

せっかく、面白い指摘が多数出てくるのだから、仮説を常に仮説として
次の議論に注釈を必ずつける配慮が必要でしょう。
それがないと、白けてしまいます。


105:日本@名無史さん
07/03/31 05:15:43
蘇我馬子が天皇なら私も天皇家の血が混ざっているはず。
我ながら高貴な感じがすると自分で思ってたんだよw そこのけ天皇家www

106:日本@名無史さん
07/03/31 05:21:05
ばかだなあ。
守屋が天皇と兄弟なんだよ。

107:日本@名無史さん
07/03/31 08:30:59
自分のHPでやれば?宣伝うざいよ

108:日本@名無史さん
07/03/31 13:59:33
>>5の
>蘇我氏は、武内スクネ系の子孫で、皇別・葛城氏の傍系。
>蘇我氏は百済管轄の軍事を担当していたらしく
>武内系の豪族で百済貴族の娘を妾にしていて
>それに産ました子供が蘇我氏を名乗ったわけで。

という部分に対して、>>6に
>それも記紀や新鮮商事録をそのまま祖述してるだけの話だけだけどな。

とあります。蘇我氏が皇別であることと葛城氏と同祖であるとの主張が
記紀や新撰姓氏録にあるのは知ってますけど、
武内系豪族と百済系の女性との間に生まれた子孫が
蘇我氏であるという主張は、記紀や姓氏録にあります?
もしあったら、どのへんなのか知りたいんですけど。

109:広瀬満
07/04/01 14:38:09
>>88
>>89
 私は「墓の規模は通常被葬者の生前の実力を表していると考えられている。」と述べましたが古墳の規模と被葬者の生前の実力との間に、厳密な相関関係があるとは言っておりませんし、そうも考えておりません。

 私の言葉遣いに誤りがあるのかと思い、国語辞書を調べたりしていました。「通常」とは「一般的には」の意で、「例外はない」ということではありません。
 従って伝推古陵より伝用明陵の方が少し大きいからといって私はそこに何らの疑問も感じません。吉備の古墳もその実体は不明です。

 しかし古墳の規模と被葬者の生前の実力には全く関係がないと考える人はいないでしょうし、河内の大古墳(大山古墳、誉田山古墳)を倭国大王の墓ではないと疑う人もいないのではないでしょうか。

 私が問題にしているのは敏達天皇が3・3の規模でしかないのにその太子とされ即位もしなかった押坂彦人大兄の墓がなぜあのように巨大(15・20)で、守屋を倒して以降の蘇我氏の全盛期に築造されたかと言うことなのです。
 
 押坂彦人大兄=蘇我馬子ではないとお考えならその理由を提示して頂けないでしょうか。
 私は成相墓(牧野古墳)こそ「隋書」にその名の見えるオオキミ「アメノタリシヒコ」、すなわち蘇我馬子(押坂彦人大兄)の墓と考えています。

広瀬満

URLリンク(www.kojikiden.com)

110:日本@名無史さん
07/04/02 11:33:14
>>109 押坂彦人大兄=蘇我馬子でない 理由
押坂彦人=馬子とすると、日本書記の記述(系譜や事績)と矛盾する。

もし、「押坂彦人=馬子」が従来からの学会の定説であったら、トンデモ論者は間違いなく、「別人」と主張するだろう。
日本書記等に、「押坂彦人≠馬子」の根拠となる記述が満載だからだ。

「押坂彦人≠馬子」とした場合の疑問・矛盾を上げつらうだけではなく、
「押坂彦人=馬子」とした場合の疑問・矛盾も上げつらうべし。
まったく疑問・矛盾のない古代通史などこれまでなかったのだから、総合的に判断するしかない。

111:日本@名無史さん
07/04/02 11:38:31
いつまでたっても系図を見せないから、しかたないのでスレ主のHPを見てみたのよ。
そしたらなんと、系図があった。
URLリンク(www.kojikiden.com)

で、もっとも大事な馬子=押坂彦人 のところは、敏達天皇と蘇我稲目の両方から線が伸びているのよ。
まるで、敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだという系図に読める。

敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだって、気色悪くない?
もう疑問や矛盾を超越している。

結論:広瀬満の説とは、
「敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだ」

112:日本@名無史さん
07/04/02 11:42:17
>>109 。「通常」とは「一般的には」の意で、「例外はない」ということではありません。

では、「押坂彦人大兄の墓がなぜあのように巨大」なのは、「例外」ということもありえるね。
すなわち、「押坂彦人大兄=蘇我馬子」の根拠にならないと認めたわけですな。

(「通常」の意味を「国語辞書を調べた」なんぞとガキの喧嘩みたいなこと言ってるから、自爆するのだ。)

113:日本@名無史さん
07/04/02 11:47:42
>>109 河内の大古墳(大山古墳、誉田山古墳)を倭国大王の墓ではないと疑う人もいないのではないでしょうか。

勝手に決め付けるな。
大豪族が建造したものであろうことは疑いないが、それ以上のことは断定できない。

大王の墓かどうかは分からない。
例えば、箸墓古墳は、建造時には日本最大であるが、大王の墓ではないという説が圧倒的に多い。

厳密な意味での墓かどうかも分からない。
建造途中で放棄、あるいは「拝み墓」などの可能性もゼロではない。
すくなくとも実際の埋葬があるかどうかは発掘しなければ分からない。

114:日本@名無史さん
07/04/02 16:47:12
>>103 「日本書紀」は皇統が切り替わっていたと正直に書くわけにはいかないので天皇家の出自が蘇我氏であることを隠蔽
陳腐なB級陰謀論に突っ込みを入れてもしょうがないが、他のトンデモ批判でも応用できそうなので、少し矛盾を指摘する。
a 「正直に書くわけにはいかない」理由は何か?(B級陰謀論の定石)
  蘇我氏が強大な権力があったと再三主張しているのに、なぜ正直に書けなかったのか理由が立たない。
b 「天皇家の出自が蘇我氏であることを隠蔽」とは、誰からその事実を隠すのか?
  (a) 同時代の倭国の人々から真実を隠す ⇒ 不可能
  (b) 同時代の外国の人々から真実を隠す ⇒ 難波高麗館など常設の大使館のようなものがあり、不可能
  (c) 後世の人々から真実を隠す     ⇒ 権力闘争真最中に何故後世のことなど考えていたのか疑問
c 「隠蔽」工作の時期はいつか?
  皇統簒奪とほぼ同時に隠蔽工作が行われたのか、後の日本書紀等編纂時か?
d 「隠蔽」工作が不完全なのはなぜか?
  (a) 「隠蔽」したつもりだが、後世のトンデモ論者は頭が良いので、それを見破った
  (b) 「隠蔽」がバレるように、ところどころに暗示を残した
  などもB級陰謀論の定石だが、何故そんな不完全な隠蔽を行うのか。
  特に「暗示」を残したなど、その理由は何か?

115:広瀬満
07/04/02 19:42:04
確かに私の「大国主伝」が論述方法が問題であることは認めます。
おそらく論の進め方が強引過ぎると言うことだと思いますが他の方からもこのことは指摘されたことがあります。

仮説をまず実証して次に進むべきではということなのでしょう。私も「実証」を軽視しているわけではありません。
しかし史料の少ない古代史研究では十分な実証は容易ではありませんし、実証したとしてもそれに要する文の量も膨大なものになるはずです。

「大国主伝」は古事記論、古代史論、神話論など膨大な内容を含んでいますので丁寧に実証して論を進めていたのではおそらく今の何倍もの分量になってしまうでしょう。
それはとてもではないが普通の人が読みこなせる分量ではないと思います。

そのような事態を避けるため多くの論文では権威ある大学者の説を引用したりするのですが私説のように通説からかけ離れた説ではそれも不可能でした。

続く

116:広瀬満
07/04/02 19:43:26
続き
>>104

そこで私は仮説のままで論を進めても、古事記や古代史の謎の解明につながったり、神話の解釈が可能になることが重要と考え論を進めました。
従いまして「実証」を重視する方からすれば全く不完全な論文、あるいは壮大な仮説と言われても仕方ないとは思っています。

ただ古代史研究に多くの材料を提供することはできたのではないかとは自負しています。
こじんまりとまとまった「ぬかりのない」論文よりも穴は多いが魅力的な仮説の方が今は必要なのではないでしょうか。

ただし、「仮説を常に仮説として 次の議論に注釈を必ずつける配慮が必要でしょう。 それがないと、白けてしまいます。」という指摘には留意しています。
参考とさせて頂きます。

広瀬満

117:日本@名無史さん
07/04/03 09:35:18
>>111
系図がそのように読めましたか?



118:日本@名無史さん
07/04/03 10:07:05
>>117
ほかにどう読めと?
母方の記述もなければ、他の主要な皇子や姫の記述もない断片的なもの。
敏達の后姫や子供はいないのか?稲目や馬子に夫人や他の子供はいないのか?
それらの多くは、天皇や有力皇子や有力臣下であったり、それに嫁いでいたりして、系譜上重要。
複雑になりすぎるし、内容的にも日本書紀と矛盾しない系譜が書けないのだろう。
自分の妄想を絵にしただけの代物。

結論:広瀬満の説とは、単なる妄想であり、
「敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだ」

119:日本@名無史さん
07/04/03 10:43:11
そもそも >>7 の「押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物だ」という言い方からして誤解を招きやすい。
主張したいことは、正しく「押坂彦人大兄皇子は蘇我馬子の別名」(>>40)という表現に統一すべきであろう。
もちろん、これもトンデモ説だ。

いつから別名を名乗ったのか?
a 馬子の存命中に別名を名乗っていた
b 死後、捏造した

120:日本@名無史さん
07/04/03 10:46:52
>>119 (続き)
これらは、その答えによって、さらにいくつかの疑問を派生させる。
c aの場合、単なる別名ではなく、押坂彦人皇子というぐあいに「皇子」という身分も称していたのか。
d 「皇子」という身分も称していた場合、本当に皇子の身分だったのか。
e 皇子の身分であるとすれば、臣下の身分から、いつ、いかなる理由で、いかなる手続きや手順や段階を経て、皇子の身分となったのか。
f 皇子の身分ではなかったとすれば、身分の詐称が何故許されたのか?
g aの場合、同時期に押坂彦人と馬子の両方の名を称したのか、あるいは使う時期が異なるのか?
h 同時期に両方の名を使った場合、どのような基準で使い分けたのか?
i 使う時期が異なるとすると、それぞれを使っていた時期はいつか?

実は、「日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。」(>>7)と主張しており、g~iについては、時期が異なり、最初のうちは押坂彦人と称し、後に馬子と称したという主張である。しかしこれは完全に記紀等の記述と異なる。
  敏達元年(572年) 蘇我馬子が大臣になる
  用明2年(587年) 中臣勝海連が押坂彦人と竹田皇子の呪殺に失敗し、押坂彦人へ寝返ろうとする
これほどひどい事実誤認があると、g~iなどの疑問を提示することじたい、虚しくなる。(トホホ)

121:日本@名無史さん
07/04/03 10:49:16
>>120 (続き)
bの場合も重大な疑問が派生する。
j bの場合、別名を呼称するようになったのはいつからか。記紀編纂時などに捏造されたのか?
j bの場合、何故、別名を名乗るような記述としなければならなかったのか?

そして、どのような場合であれ、記紀等の記述について重要な疑問が伴うこととなる。
k 別名を名乗るにしても、それを隠蔽しようとしたのは何故か?
l 別名を名乗ることを隠蔽することは、本当に可能だったのか?(>>114 参考)
m 別名を名乗ることを隠蔽しようとしたにもかかわらず、それがばれるようにわざと記紀等に「暗示」(>>32)を残したのは何故か?

122:日本@名無史さん
07/04/03 11:01:14
>>116 古代史研究に多くの材料を提供することはできたのではないか

自己満足、自己陶酔の妄想など何になる。
古代史研究の材料どころか、他人のオナニーのオカズを見せ付けられるような醜悪さだよ。

最大限妥協しても古代史研究にとって、おおいに邪魔。(>>84)
  紙などネット以外の媒体を使う
  又は自分のホームページの中だけ
として欲しい。

プラスの要素は、世の中の様々なトンデモ説全般への対処法を学ぶ材料として、反面教師になっていることぐらい。

123:日本@名無史さん
07/04/03 13:51:26
URLリンク(www.kojikiden.com)

石渡信一郎
小林惠子

この二人に影響されたのかな?
面白いよね、この二人の本。

124:104です
07/04/03 15:33:56
>>116
広瀬さん レス有難うございます。
貴方のHP相当面白いですよ。 教科書じゃないんだから歴史ロマンを追求する姿勢は
貴方の脱線の仕方も正しいし、読み応えもある。人の10倍の努力も感じるし、
本人が楽しんでるのも判る。 がんばってください。
さて、
A=B の仮説を元に C=D を結論付ける場合、
A=Bと仮説づけた章の最後に、
「歴史においてはこの説は仮説だが、自身の説である以上
以降の章ではこれが真である前提でA=Bであったら歴史はどう解釈されるか
論証したいと思う」 等と記述し、
さらに、C=Dの章では、 ところどころで (A=Bだった場合)などと注釈をつける
学者的な注意深さを演じるのも、逆にC=Dのロマンをかきたてるプラスに作用すると思います。
A=Bを信じる事の出来ない読み手すら、A=Bを否定証明はできない事から
C=Dの可能性もあるかもな・・・ とロマンを感じてしまうのです。

ただし、それぞれの章の、嘘や誤認での論述であれば論外なので、
それは、否定派と正々堂々競えばよいのです。


125:日本@名無史さん
07/04/03 15:46:37
>>102 「押坂彦人大兄皇子にまつわる疑惑」とは、>>13の「疑い」や>>14の「矛盾」と同じことか?

疑惑1は、>>32で取り下げ

疑惑2は、第1皇子なのに即位しなかったのが疑惑らしい。
  珍しいことか?
  同時代でも、竹田は推古の第1皇子、厩戸は用明と間人との間の第1皇子だが、即位していない。
  特に、厩戸(=聖徳太子)のことは知らぬはずもなかろう。
  また、>>33で、「皇位継承の決定権を握っていた蘇我蝦夷」とか「舒明天皇が蘇我蝦夷の弟だった」と強く主張しているが、これと矛盾する。
  すなわち、皇位継承の決定権を握りながら、押坂彦人=馬子の第1子ではありえない田村皇子(=舒明天皇)が即位した。
  あるいは、皇位継承の決定権を握りながら、蝦夷の子である入鹿は即位しなかった。
  と主張している。
  「第1皇子なのに即位しなかったのが疑惑」と言いながら、自己矛盾で御都合主義もはなはだしい。論理破綻!

結論:疑惑2は、誤り、あるいは自己矛盾!

126:日本@名無史さん
07/04/03 15:49:01
疑惑3は、異母妹が3人も后妃になったことが疑惑らしい。
  しかし、3人という根拠は、>>33で「理由はわからないが一応ここでは通説に従って」とあり、いい加減。
  櫻井弓張皇女は敏達の娘(敏達五年の条)だが、日本書記のどこに妃になったという記載があるのか教えてほしい。
  日本書記では、糠手姫皇女と小墾田皇女となるが、敏達の皇后が廣姫のときの采女の娘と、敏達の皇后が炊屋姫(=推古)のときの皇后の娘となり、時期も格も違い、政略的な意図・ねらいが同じとは言えない。
  政略的な意図に大きな差がないと証明できない限り、異母妹がも后や妃になったことは疑惑になどならず、単なる思い込みに過ぎない。
  また、こんなことに疑惑を持つのであれば、押坂彦人=馬子であろうとなかろうと、天皇の娘が何人も同一人物の后妃になること自体に疑惑を示さないのは、自己矛盾、御都合主義。

結論:疑惑3は、根拠のない思い込みであり、しかも自己矛盾!

127:日本@名無史さん
07/04/03 15:53:23
疑惑4は、没年の記載がないことが疑惑らしい。
  疑問ではあるが、没年の記載がない皇子は多いし、皇統上重要なのに没年のない彦主人王などの例もある。
  そもそも、>>103「推古天皇と舒明天皇の間に王朝の交代がある」と主張するほど皇統上重要なはずの舒明天皇は生年不詳である。
  父の没年が不詳だと疑惑だと大騒ぎするくせに、子の生年が不詳でも無視するというのは御都合主義すぎる。
  押坂彦人だけ強調するのは偏った狭いものの見方であり、自己矛盾だ。
  また、没年の記載がないことを根拠に押坂彦人は実在せず(馬子の別名)、日本書記等における記載は捏造であるかのように主張している。
  しかし、捏造したとしても何故没年の記載をしなかったのか、疑問は膨らむばかりであり、これでは没年の記載がないことの理由にならない。

結論:疑惑4を強調するのは偏狭であり、しかも自己矛盾!
   また疑惑4を根拠に、押坂彦人に関する記載が捏造であるとすると、かえって疑惑が増大する。

128:日本@名無史さん
07/04/03 15:55:41
疑問5は、推古天皇の娘が馬子には一人も嫁いでいないことが疑問らしい。
  何が疑問なのか意味不明である。
  >>32で、「時の実力者が王族との婚姻関係を求めるのは普通のことである。」と言いつつ「この時代に皇女が臣下に嫁いだ例はない」と
自ら認めている(認めざるを得ない)。
  「例がない」ことが「普通のこと」とは、論理破綻もはなはだしい。

結論:疑惑5は、自ら認める論理破綻!

129:日本@名無史さん
07/04/03 16:08:57
疑問6は、中臣勝海の呪殺対象が彦人皇子と竹田皇子の2人であり、馬子を含めた3人でないとおかしいという疑惑である。
  これも何が疑問なのか意味不明である。
  中臣勝海は物部守屋を助けるため呪殺を行うのだが、臣下の敵は馬子一人ではなく「群臣たちがおとしめようとしている」と記載されている。馬子が必ず呪殺対象でなければならいという必然性は乏しい。
  一方、物部守屋は穴穂部皇子を擁立しようとしており、その対立候補の彦人皇子と竹田皇子を呪殺対象とするのは不思議ではない。
  すなわち、中臣勝海が彦人皇子、竹田皇子、馬子、他の群臣の誰を呪殺対象としようとしまいと、大して疑問とはならない。
  馬子を呪殺対象としていたと決め付けるのは単なる思い込みであり、その根拠を示さなければならない。

  また、馬子が呪殺対象であったとしても、それを何故押坂彦人(=馬子)と記さなければならなかったのか、疑惑は膨らむばかりである。
  >>32では、「日本書紀の編纂者はこのような使い分けによって読者に彦人大兄は馬子と同一人物ではないかという疑念を生じさせることを狙った」「すなわち暗示である」と言っている。
  しかし、読者に疑念を生じさせなければならないのはなぜか、どういう基準で「使い分け」たのか、など疑惑は増大するばかりである。

結論:疑惑6は根拠のない思い込み。
   また疑惑6を根拠に、押坂彦人=馬子とすると、かえって疑惑が増大する。

130:日本@名無史さん
07/04/03 16:11:32
疑問7:馬子と守屋の戦い以降、彦人皇子についての消息が全く不明が疑問らしい。
  消息不明という言い方は誤解を招こうとする印象操作であり、不正確である。
  正しくは、記載が無いというべきである。
  皇統以外での押坂彦人の記載は用明紀ぐらいしかないが、このとき馬子と守屋の戦いは始まっていない。
  用明紀の記載は、疑問6の中臣勝海の呪殺未遂に関連するもので、馬子と守屋が直接争うものではない。
  正しくは、馬子と守屋の戦い以降ではなく、「用明2年を除き、記載がない」と言うべきだろう。
  こうした不正確な書き方は、悪質な印象操作である。
  なお、皇統以外での記載がほとんどない皇子など、珍らしくもなんともない。
  この時代で言えば、皇極と孝德という2人の天皇の父である茅渟王も記載がほとんどない皇子であるが、茅渟王について、疑問を持たないのは何ゆえか?

結論:疑惑7は、不正確。

131:日本@名無史さん
07/04/03 16:14:16
疑問8は、「皇祖」とよばれていたというのが疑問らしい。
  そもそも、孝徳紀の大化2年の「皇祖大兄」という記述を「皇祖」で勝手に打ち切って疑問と騒ぐペテンであり、疑問などない。
  また、皇祖大兄=押坂彦人と明記されているわけでもない。
  なお、押坂彦人が「皇祖」と呼ばれていても疑問はない。
  例えば、>>33で「祖父ということなら皇祖父とすべき」という反論はひどい。
  押坂彦人=馬子としても、皇祖大兄=押坂彦人=馬子は孝徳天皇や中大兄の祖父であることに変わりはない。
  つまり、押坂彦人=馬子としても、「祖父ということなら皇祖父とすべき」ということになる。
  「孝徳天皇や中大兄の祖父」と言っているところを、単に「祖父」と冒頭部分を勝手に打ち切って書くことで反論らしくみせかけているペテンのような文で、とても悪質。
  蘇我系ではない、舒明、孝德、天智(=中大兄)の祖という意味で、「皇祖」という解釈はなんら不自然ではない。

結論:疑惑8は、文章から恣意的に文字を抜き取って並べ、因縁をつけているだけのペテン。

132:日本@名無史さん
07/04/03 16:16:42
疑問9は、彦人皇子の墓が大きすぎると言う疑問である。
  当時の墓=古墳の大きさが何によって厳密に決まるかは疑問であるが、押坂彦人の墓が大きいことの疑惑にはつながらない。
  疑惑9は、古墳全般にいえる疑問の一つであり、押坂彦人のケースだけ取り上げて論じるのは偏狭である。
  しかも、>>9で「即位したわけでもないのになぜこのように大きいのか」と疑問を呈しており、即位していない者の墓は大きくてはいけないと主張している。
  押坂彦人=馬子としても、即位しておらず、墓が大きいのはおかしいこととなる。
  すなわち、ここでも自己矛盾をきたしている。

結論:疑惑9を強調するのは偏狭であり、しかも自己矛盾!

133:日本@名無史さん
07/04/03 16:19:53
疑問10は、牧野古墳を彦人皇子の墓とすることへの疑問である。
  これは、古墳被葬者の比定の問題であり、一般的によくある疑問で、押坂彦人のケースだけ取り上げて論じるのは偏狭である。
  古墳被葬者の比定が確かでないからといって、その人物が実在しないかのような論は本末転倒である。
  また、>>33で、「牧野古墳の立地は難波、斑鳩、飛鳥の中間にあり立地的にも第一級。大実力者であった馬子の墓にふさわしい。」としている。
  しかし、その中間地域には古市や近つ飛鳥などの有名な古墳群もあり、広陵町の牧野古墳の立地を第1級とするのは、根拠のない思い込みである。

結論:疑惑10は本末転倒で一般論の捻じ曲げ、しかも根拠のない思い込み!

134:日本@名無史さん
07/04/03 16:48:20
疑問11は、蘇我氏の全盛期に非蘇我系の皇子が次々と天皇に即位したのが疑問らしい。
  日本書記を読めば、蘇我蝦夷が他の群臣の意向を気にするなど、絶対的な天皇の決定権を持ってはいなかったことは明らかであり、疑問と強調するほどのことでもない。

結論:疑惑11は日本書紀の読み込み不足。

全体の結論
疑惑はすべて、誤り、思い込み、又は一般論の捻じ曲げに過ぎない。
疑惑に対する説は、疑惑の解消になっておらず、むしろ疑問を増幅するものばかりである。

135:104です
07/04/03 18:05:43
広瀬さんの思想の流れは、
いわゆる、「日本の皇祖が朝鮮半島出身だった。」
という結果ありき でそれを正当化するためのアプローチでしょう。
点と点はあって、それを線で結ぼうとしている
1・出雲神社を半島信仰の神社と位置づける
2・その出雲神社の祭神は、スサノウ
3・スサノウは半島ゆかり
4・天武帝とスサノウを直系であれば、現天皇の家は半島出身となるはず
5・その糸口・・・蘇我氏 蘇我氏は朝鮮系と位置づける
6・蘇我氏とスサノウをつなげ 蘇我氏と天武とつなげる 事を記紀に探ってみる。
7・お? 蘇我氏つながりで記紀解釈 できそうだ・・・発表

で、論述として重要な事は、 「結果ありきで、点と点を結んでみた」
「十分に線は結べないが7割程度の線はできるようだので私は歴史でこの実線が存在したと思う」
と論ずればよいにに、
現状のように、全く不十分な点と点の集まりを根拠に「こういう結論の線となった」と発表するから、
は? 全然結べてないじゃん? なんでそんな結論になるの? それじゃ捏造だよ
と、返ってくる。 
素直にそもそも 結ぶたい点と点が先にあって、間を埋めたくて、埋めそうな点と線を発表してる 
とすればいい そうすると中途半端でも価値のある発表となる

136:広瀬満
07/04/03 18:51:09
>>123
石渡信一郎
小林惠子

面白いですか?この二人の本
一応参考にと思い、古書で買いましたが私はあまり評価しておりません。

広瀬満


137:日本@名無史さん
07/04/04 05:49:17
なんでレスの最後に自分の名前書くの?

138:広瀬満
07/04/04 09:43:57
言われてみればそれもそうですね。

139:日本@名無史さん
07/04/04 10:42:35
>>119>>121 及び >>125>>134 に答える力はないのか、やる気がないのか?
自分が不利だとトンヅラか?

批評や意見にきちんと答える気がないなら、
「この説に対する批評、意見を広く求めます。」(>>1)などと書くべきではない。

何から何まで、いい加減でペテンだな?

140:日本@名無史さん
07/04/04 10:44:58
いつまでたっても系図を見せないから、しかたないのでスレ主のHPを見てみたのよ。
そしたらなんと、系図があった。
URLリンク(www.kojikiden.com)

で、もっとも大事な馬子=押坂彦人 のところは、敏達天皇と蘇我稲目の両方から線が伸びているのよ。
まるで、敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだという系図に読める。

敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだって、気色悪くない?
もう疑問や矛盾を超越している。

結論:広瀬満の説とは、
「敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだ」

141:日本@名無史さん
07/04/04 12:06:03
>>136
御二人ともあなたと同様に普段から他人の意見を聞かない思い込みの強い性格の人だと
思うんですよ。自分を客観的に見れない、まぁよくいる困ったチャンなんですが…
あなたも彼等の突飛な説そのものに興味をあったのではなく、一方的な手法を駆使する
彼等自身に親近感を抱いたんじゃありませんか?
そういうことであなたが彼等の本を評価していない、というのも非常に納得できるのです。

142:日本@名無史さん
07/04/04 15:07:55
「迹見赤檮がずっと同じ主人に仕えていて、他の者の指揮命令を受けることはまったくなかった」というのも仮定に過ぎない。
a 迹見赤檮がずっと同じ主人に仕えていたという根拠を示してよ。
  まさか、その根拠が、豊臣以降の「奉公構い」や「忠臣二君に仕えず」では、笑っちゃうよ。
  時期によって押坂彦人、馬子、厩戸と、主人を変えてもおかしくない。
  終身雇用の時代じゃあるまいし。
  しかもこの時代の渡来人(1世)の多くは、主人を変えているはず。主人を変える例はむしろ多いかもしれない。
b 迹見赤檮が馬子の指揮命令を受けなかったと言い切る根拠を示してよ。
  押坂彦人は物部戦争に参加しなかったが、兵糧・武器・兵力などの協力も行わなかったと言い切る根拠を示してよ。
  迹見赤檮が押坂彦人の舎人の身分のまま、馬子の指揮下にいても何の不思議もない。
  それがありえないと考えること自体が、一つの仮定に過ぎない。

自分の仮定は棚上げして、他人の仮定は「仮定の話だから無視」では、卑怯だよ。
自分の主張が仮定ではないという根拠を示してよ。

143:日本@名無史さん
07/04/04 15:20:09
早く自説で想定する系図を見せてよ。
話題を変えて、議論から逃げ回ってぐずぐずしてるから、どんどんハードルが高くなっているじゃないか(笑)。

 馬子=押坂彦人  (別名)      、かつ、
 馬子=蘇我蝦夷と舒明天皇と厩戸皇子の親、かつ、
 馬子=スサノヲ  (正体)      、かつ、
 蘇我氏は木満致の子孫で百済系     、かつ、
 蘇我氏は葛城系            、かつ、
 日本書紀等に照らして「疑問も矛盾もない」
という系図を見せてよ。

144:日本@名無史さん
07/04/04 15:43:53
天皇家はブッダの実家かもしれん!!!
天皇家はイエスの実家かもしれん!!!
天皇家はマホメットの実家かもしれん!!!
天皇家は始皇帝の実家かもしれん!!!
天皇家はエジプト王家の実家かもしれん!!!

結局のところ記録、考古学的証拠がなければ、どうとでも言える!!!

145:広瀬満
07/04/04 17:38:46
>>124
なるほど、なるほど、よくわかります。
実に貴重なアドバイス、ありがとうございます。
さっそく検討してみます。

PS.とうとう「かたり」も登場しました。

広瀬満

146:日本@名無史さん
07/04/04 18:30:14
>>119>>121 及び >>125>>134 に答える力はないのか、やる気がないのか?
自分が不利だとトンヅラか?

批評や意見にきちんと答える気がないなら、
「この説に対する批評、意見を広く求めます。」(>>1)などと書くべきではない。

何から何まで、いい加減でペテンだな?

147:広瀬満
07/04/04 20:18:34
>>46
>>47
これまで押坂彦人大兄皇子が蘇我馬子の別名、すなわち彦人大兄と馬子が同一人物であることを説明してきたが、
彦人大兄と馬子が同一人物とすると皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていたことになる。
このことは「日本書紀」の記述等からも伺えるので次にそのことを論じてみたい。

1,蘇我馬子は崇峻5年(592)、崇峻天皇を弑逆(この場合は臣下が天皇を殺すこと)した。これは記録に残る唯一の例である。
天皇家の側からすれば大変な不祥事で当然弾劾されるべきと思うが「日本書紀」は馬子を非難していない。
しかも馬子のことを武略備わり、政務にも優れた人物と賞賛さえしている。

2,乙巳の変の直後の8月8日、天皇はいわゆる仏教統制の詔を出している。この中で蘇我稲目、蘇我馬子の仏教における功績が称えられている。
蘇我の宗本家を滅ぼした直後にこのような詔が出されるのはたいへん奇怪である。

3,天智10年(671)、天智天皇は病に倒れる。その直後天皇は珍宝を飛鳥寺に奉納している。
病に倒れた直後と言うタイミングから見て、病気の平癒を祈願したものと思われる。
飛鳥寺は蘇我馬子によって創建された蘇我氏の氏寺である。なぜよりによって飛鳥寺なのか。

続く

148:広瀬満
07/04/04 20:20:06
続き

4,天智天皇の崩御の直前、大友皇子は内裏の仏像の前で重臣たちに忠誠を誓わせている。
その顔ぶれは左大臣蘇我赤兄臣、右大臣中臣金連、蘇我果安臣、巨勢人臣、紀大人臣の5人である。
鎌足の従兄弟といわれる右大臣中臣金連を除けば他の4人は蘇我氏か、あるいは蘇我の同族である。
なぜこのような蘇我氏に偏った人事が行われたのか。その理由が知りたい。天智天皇が蘇我の一族だとすればわかりやすい。

5,比定がほぼ正しいとすれば天皇陵は形状の不明な孝徳天皇を除けば舒明天皇以降、墳丘の形がそれまでに方形から8角形に変化する。
これは推古天皇と舒明天皇の間に画期、すなわち王朝の交代が有ったことを示すのでは。

6,上に関して、天平6年(734)4月17日聖武天皇は大きな地震のあとで山稜の被害の調査をさせている。
そのとき調査を命じられた天皇陵の数は8カ所である。天皇陵は数多いのになぜ8カ所でしかないのか。身近な天皇陵とするとその天皇陵は

元正天皇陵(奈保山西陵)
元明天皇陵(奈保山東陵)
文武天皇陵(檜隈安古岡上陵)
天武・持統合葬陵(檜隈大陵)
天智天皇陵(山科陵)
斉明天皇陵(越智崗上陵)
孝徳天皇陵(大阪磯長陵)
舒明天皇陵(押坂内陵)

以上で8カ所である。舒明天皇までで推古天皇まで届いていないのは舒明天皇以降が新王朝だったからではないか。

広瀬満

URLリンク(www.kojikiden.com)

149:日本@名無史さん
07/04/05 09:50:59
天智が蘇我系など、ありふれたトンデモ説。
ましてや、天智や天武が○○だったねんて、もう腐るほど見たトンデモ説。
パクリ、2番煎じと笑われるのがオチ。
しかも、この内容じゃあねえ~~~~。
よほど、阿呆な人でもなきゃ相手しないんじゃないの。

トンデモ説としてもC級だな。

150:日本@名無史さん
07/04/05 10:07:45
>>1 「この説に対する批評、意見を広く求めます。」

>>46>>47 及び >>119>>121 及び >>125>>134

これらは、あなたが望んだ批評や意見です。
これらに答えることができずに話題を変えようとするのは、
自分の説が完全に欠点だらけであることを認めるわけですね。

自 分 の 説 が 完 全 に 欠 点 だ ら け

151:日本@名無史さん
07/04/05 10:10:39
>>1 「この説に対する批評、意見を広く求めます。」

>>142

これも、あなたが望んだ批評や意見です。
これに答えることができずに話題を変えようとするのは、
自分の説が完全に欠点だらけであることを認めるわけですね。

152:日本@名無史さん
07/04/05 10:18:37
自説で想定する系図を早く見せないのは無責任です。
話題を変えて、議論から逃げ回ってぐずぐずしてるから、どんどん系図の条件が多くなっています。

あなたには、
 馬子=押坂彦人 (別名)、かつ、
 馬子=蘇我蝦夷と舒明天皇と厩戸皇子の親、かつ、
 馬子=スサノヲ (正体)、かつ、
 蘇我氏は木満致の子孫で百済系、かつ、
 蘇我氏は葛城系、かつ、
 天皇及び主要な皇子、姫、臣下を記載、かつ、
 日本書紀等に照らして「疑問も矛盾もない」
という系図を見せる責任があります。

皇統の系譜が替わったという説なのですから、系譜・系図はとても重要です。
というより核心です。
どれだけ複雑になろうと、日本書紀等の記述と照らし合わせることが可能なレベルの詳細さが求められるのは、当然のことです。

無責任な気持ちでいるのなら、このスレッドを閉じて欲しい。

153:日本@名無史さん
07/04/05 10:23:23
>>7 「日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。」

この指摘は、次のとおり明らかに完璧に100%間違っています。
  蘇我馬子が大臣になったのは572年(敏達元年)
  自分で迹見檮(=迹見首赤檮?)と押坂彦人のことに触れ、それを重視しているが、それは587年(用明2年)

このことは、何度も指摘されています。
これについても何も説明しようとしないのは、自説の欠陥を認めるているということですか?

>>1 「この説に対する批評、意見を広く求めます。」
と望んだ以上、きちんと説明する責任があります。

無責任な気持ちでいるのなら、このスレッドを閉じて欲しい。

154:日本@名無史さん
07/04/05 11:44:30
広瀬涙目

155:日本@名無史さん
07/04/05 11:46:36
>>147

根拠1 馬子は崇峻天皇を弑逆したが非難されていないことが、「皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた」根拠らしい。
a 有名すぎる話で、馬子が非難されない理由など昔からある。
  例えば、日本書紀編纂時の文武、元明、元正は、馬子の子孫であったからといった説明を見たことないのか?
b 安康天皇が眉輪王に殺されるという前例も、臣下によるものではないが「天皇家の側からすれば大変な不祥事」。
  トンデモ論者には意外かもしれないが、日本書紀の記載は結構冷静なのだ。
c 入鹿が山背等を滅ぼしたときは、蝦夷が嘆くような文章表現で、非難している。
  トンデモ論者には意外かもしれないが、日本書紀の記載は結構冷静なのだ。

結論:根拠1から「皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた」を言うのは、とうてい無理。

156:日本@名無史さん
07/04/05 11:49:00
>>147

根拠2 乙巳の変の直後に馬子を称えているのが、「皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた」根拠らしい。
a 根拠1と同様、日本書紀編纂時の文武、元明、元正は、馬子の子孫
b 乙巳の変の後に、蘇我赤兄臣や蘇我果安など、馬子の孫が重臣となる。
  乙巳の変の直後に馬子を称えても不思議はない。

結論:根拠2から「皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた」を言うのは、とうてい無理。

157:日本@名無史さん
07/04/05 11:51:05
>>147

根拠3 671年に天智が飛鳥寺に珍宝を奉納したことが、「皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた」根拠らしい。
a 乙巳の変の時、天智(=中大兄)は飛鳥寺に立て篭ったことも知らんのか?
  飛鳥寺は、天智にとっても縁のある寺なのだ。
b 乙巳の変の後、蘇我本宗家の財産は大王家が没収した。
  例えば、蝦夷・入鹿の邸宅は消失したが、馬子の邸宅は後に草壁皇子の宮(嶋の宮)となる。
  飛鳥寺も大王家のものとなっていたのであろう。

結論:根拠3は日本書紀の読み込み不足による、思い込み。


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