「天皇家の真の皇祖は蘇我馬子」論at HISTORY
「天皇家の真の皇祖は蘇我馬子」論 - 暇つぶし2ch58:広瀬満
07/03/27 21:15:13
>>52
蘇我氏の先祖は5世紀末に我が国に渡来した百済の貴族木満致というのが有力な説となっています。
「日本書紀」によれば木満致は任那を支配し、事実上伽耶の王だったとされる人物です。
私もこの説を支持しています。

天皇家の出自が蘇我氏となると天皇家の祖先は任那からの渡来人だった可能性が高くなります。
そうしますといろいろ議論のある任那日本府の実体や旧唐書の「日本はもと小国・・・云々」の記述もわかってきます。
また飛鳥時代以降の天皇家の動きも説明しやすくなるはずです。

天皇家と蘇我氏を結び、古代史の謎を解き明かすキーマンこそ押坂彦人大兄だと私は考えています。

広瀬満

59:日本@名無史さん
07/03/27 22:21:07

現在、京都大学では、蘇我氏の先祖は阿蘇山周辺の出身者であるというのが有力な説となっています。

物部氏が蘇我氏を愚弄する時に
「この阿蘇の者が!!」
「阿蘇に帰れ!!」
という言葉が使われている文献があります。
その文献は戦後、東京大学によって改竄されました。

東京の方では、蘇我氏は朝鮮出身ということにしたいらしいですが。
京大は国家権力に反発できますからね。
東京は国家権力に従順ですが。

みなさんも戦後、GHQと東京大学によって日本書紀や古事記など多数の文献が改竄されたという事実を知っておいた方がいいですよ。


60:広瀬満
07/03/28 07:37:33
>>59
そのような文献があると聞いて驚いている。初耳である。
是非詳しく紹介してほしい。
「日本書紀」「古事記」は戦前にすでに広く出回っており、戦後にGHQと東京大学が改竄することは無理なのでは。

広瀬満

61:日本@名無史さん
07/03/28 09:03:18
>>59
文献の名前を是非教えてください。

62:日本@名無史さん
07/03/28 09:28:26
>>59
宮内庁書陵部所蔵の敏達紀のことでしょうか?

63:日本@名無史さん
07/03/28 11:45:28
>>41 私のHPの「大国主伝」で詳しく論じているので、是非を読んでいただきたい。その上で疑問にはお答えしたい。

こういうことを言うなら、自分のHPから出てこないでほしい。
2chの一つのスレッドを私物化する行為だということが理解できないのかねえ。

64:日本@名無史さん
07/03/28 11:48:20
>>58 「蘇我氏の先祖は・・・木満致」
これは、>>22
「葛城に蘇我氏の祖廟が建てられていたことからわかるように確かに蘇我と葛城は深い関係にあった。」
と矛盾するとは思わないのか?

65:日本@名無史さん
07/03/28 11:52:41
>>58 話題を勝手に変えるなよ。

a 馬子=押坂彦人
b 蘇我蝦夷と舒明天皇と厩戸皇子は、馬子の子
aとbを満たし、日本書紀等に照らして「疑問も矛盾もない」系図を見せてよ。

「日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。」(>>7)という真っ赤な嘘の言い訳は?
(自分で迹見檮(=迹見首赤檮?)と押坂彦人のことに触れているが、それって敏達の次の用明のとき! )

その他、これらの疑問は? >>19, >>34, 35, 36, 37, >>51, >>53, 54, 55, 56, 57, >>64

都合が悪くなると話題を勝手に変えるような卑怯でアンフェアな態度はやめてほしい。
系図を示さずに、このまま2chから逃げ出すような卑怯でアンフェアな態度もやめてほしい。

66:日本@名無史さん
07/03/28 12:49:05
>>65
>>49

67:日本@名無史さん
07/03/28 13:52:47
10件の疑問や矛盾を示し(>>14,15)、それを解消するために 馬子=押坂彦人 と主張する。
(疑問1は、>>16 で秒殺)

しかし、 馬子=押坂彦人 では、かえって疑問や矛盾が増える。
主に、敏達のときを中心に拾い上げても、
>>19, >>34, 35, 36, 37, >>51, >>53, 54, 55, 56, 57, >>64
これに用命、崇峻、推古の時代の疑問や矛盾を細かく取り上げたらどれほどの疑問や矛盾が生じるか。

呪いの人形の数がおかしいなどのチンケな10件の疑問や矛盾を解消するために、かえって疑問や矛盾が莫大に増えては、意味ないじゃん。

68:日本@名無史さん
07/03/28 14:11:38
>>25
「迹見赤檮がずっと同じ主人に仕えていて、他の者の指揮命令を受けることはまったくなかった」というのも仮定に過ぎない。
a 同じ主人に仕えた根拠を示してよ。
  まさか、その根拠が、豊臣以降の「奉公構い」や「忠臣二君に仕えず」では、笑っちゃうよ。
  時期によって押坂彦人、馬子、厩戸と、主人を変えてもおかしくない。
  終身雇用の時代じゃあるまいし。
  しかもこの時代の渡来人(1世)の多くは、主人を変えているはず。主人を変える例はむしろ多いかもしれない。
b 馬子の指揮命令を受けなかったと言い切る根拠を示してよ。
  物部戦争に押坂彦人は参加しなかったが、兵糧・武器・兵力などの協力を行わなかったと言い切る根拠を示してよ。
  迹見赤檮が押坂彦人の舎人の身分のまま、馬子の指揮下にいても何の不思議もない。
  それがありえないと考えること自体が、一つの仮定に過ぎない。

自分の仮定は棚上げして、他人の仮定は「仮定の話だから無視」では、卑怯だよ。
自分の主張が仮定ではないという根拠を示してよ。

69:日本@名無史さん
07/03/28 14:41:35
>>32
疑問1 秒殺で消滅(笑)

疑問2 >>16が実例を挙げているのに、日本書紀に一言一句同じ文章表現がないからといって「記述はない」は屁理屈。

疑問3 自分の説に疑問や矛盾は一切ないと自慢するくせに、「理由はわからないが・・・という前提で説明する」とは何のこっちゃ?
    要するに、自分の説でもすべての疑問や矛盾が解消できていないではないか。
    そもそも、古代の通史で、まったく疑問も矛盾もない説などお目にかかったことがない。
    自分が提示した疑問や矛盾が解消できなければ、自説が正しいという論法は、論理的におかしいことに気が付かないのか。

疑問4 彦人大兄について「事跡はおろか没年の記載すらない」と主張している。
    にもかかわらず、疑問2で「かなりの実力者だったと思われる」とどうして思えるのか?
    3行書くと、もう前に書いたことは忘れているのか?
    支離滅裂。

疑問5 >>16が「この時代」に例がないといっているのに、「後の」時代の例で反論するのは論点を摩り替える卑怯技。

疑問6 中臣勝海が馬子呪殺という狙いを持っていたかどうか、単なる憶測。
    そもそも大王の後継者争いで、その有力対立候補を呪殺しようとするのに何か大きな疑問があるのか?
    「呪いの人形の数がおかしい」ことを根拠に 彦人大兄=馬子 を主張するくらいなら、
    「有力対立候補を呪殺しようとしたが、馬子を呪殺しようとはしなかったのだ」とそのまま素直に読むほうが賢い。
    読解力が低いから「暗示」なんぞのB級陰謀論にすがることになる。

疑問7 これも「記録自体がないのだから本流から外れた」あるいは「本流ではない」とそのまま素直に読むほうが賢い。
    池辺皇子、田目皇子、宅戸皇子、・・・。本流から外れた事情の記載のない皇子など、この時代でも珍しくもない。

70:日本@名無史さん
07/03/28 14:45:17
>>33
疑問8 「皇祖大兄」を勝手に「皇祖」で打ち切って読んで、因縁を付けているだけ。
    しかも、自分自身「皇祖母」という例を同時に挙げているのだから、そうとう論理思考が弱い。
    「皇祖大兄」、「皇祖母」(さらに「皇祖父」)という言い方があるのだろう。

疑問9 「墓の規模は通常被葬者の生前の実力を表していると考えられている。」がまったくのダウト。
    一般に、古墳では、被葬者だけでなく、その後継者や墳墓造営・葬送を行った者の影響も無視できない。
    (欽明天皇と堅塩媛の例もこれに近い。)
    そして、馬子の時代は、古墳、特に、前方後円墳の終末期であることは常識。
    墓の規模が被葬者の生前の実力を表しているとは、とても言えない。
    さらに、もう少し後では、薄葬となるので、ますます関係が薄れる。

疑問10 「牧野古墳の立地は難波、斑鳩、飛鳥の中間にあり・・・」
    何じゃコリャとしか言いようがない阿呆さにあきれる。
    地図を見たことあるのか。
    これに該当する地域は、牧野古墳のある広陵町だけでなく、上牧町、香芝市、柏原市、藤井寺市、羽曳野市、八尾市、松原市、etc。
    あの太子町も該当する。
    (古墳好きなら、藤井寺市、羽曳野市、太子町などの地名には脊髄反射する。)
    広陵町の牧野古墳の立地だけを、「立地的にも第一級」など、どうして言えるのだ?
    難波宮と結びつける伏線として「難波」を持ち出したのだろうが、自爆して論理破綻したとしか言いようがない。

疑問11 「舒明天皇が蘇我蝦夷の弟だったとなればこのような疑問は全く生じない」
    もうトホホの阿呆ぶりだな。
    舒明と蝦夷が兄弟という説が成り立つなら、「兄である蝦夷が天皇にならなかったのはなぜか」というもっと大きな疑問が生じるだろう。
    何の疑問の解消にもなっていないどころか、疑問を増幅している。

71:日本@名無史さん
07/03/28 15:41:49
第9章 第10章 読んだ 面白い。

けどね、
1・古代の神社はそもそも全国山頂にある、別に出雲だけでない。
2・山頂は、他国からの進行を防ぐ監視の基本。 鏡信号 鐘信号
  古代の見張台が後の世で鏡とともに信仰の対象となる
3・大和にとって、半島方面の海を見渡す出雲の山頂に、神社跡が残っているのは
  朝鮮半島を敵と見なしている場合に当然の処置の跡である

白村江の話
1・ そもそも5-6世紀、倭と百済の大王はそろって、漢の南朝の大将軍位
2・ 倭も百済もそろって、南朝の漢式文化様式を取り入れている
3・ 隋・唐は、非漢文化の敵国であり、漢の大将軍の遺臣として倭と百済の王が
そろって、対唐防衛ラインに戦うのは当然の成り行きである。

そもそも、倭帝は漢の威光を元に何十という国を併合して東の地を治めて、
その地位を保ってるわけであって、 記紀に登場する半島と列島の
小さな世界観で、収まる世界じゃないんだな
漢亡き後、百済と倭は後ろ盾をなくし、変わって漢代には将軍位でもなく虐げられていた
新羅が唐をバックに、 漢陣営の百済と倭を侵攻してきたわけだ

でも、 大倭木マンち のとこは特に面白い。 なんで大倭がついたんだろう



72:日本@名無史さん
07/03/28 17:48:46
お~~~い、日が暮れるぞ~イ。

馬子=押坂彦人 and 蘇我蝦夷と舒明天皇と厩戸皇子は馬子の子 and 日本書紀等に照らして「疑問も矛盾もない」系図は、まだか~~~~?

73:日本@名無史さん
07/03/28 18:19:20
69と70が、ちぎれたので再掲

>>32

疑問1 秒殺で消滅(笑)

疑問2 >>16が実例を挙げているのに、日本書紀に一言一句同じ文章表現がないからといって「記述はない」は屁理屈。

疑問3 自分の説に疑問や矛盾は一切ないと自慢するくせに、「理由はわからないが・・・という前提で説明する」とは何のこっちゃ?
    要するに、自分の説でもすべての疑問や矛盾が解消できていないではないか。
    そもそも、古代の通史で、まったく疑問も矛盾もない説などお目にかかったことがない。
    自分が提示した疑問や矛盾が解消できなければ、自説が正しいという論法は、論理的におかしいことに気が付かないのか。

疑問4 彦人大兄について「事跡はおろか没年の記載すらない」と主張している。
    にもかかわらず、疑問2で「かなりの実力者だったと思われる」とどうして思えるのか?
    3行書くと、もう前に書いたことは忘れているのか?
    支離滅裂。


74:日本@名無史さん
07/03/28 18:20:24
69と70が、ちぎれたので再掲

>>32

疑問1 秒殺で消滅(笑)

疑問2 >>16が実例を挙げているのに、日本書紀に一言一句同じ文章表現がないからといって「記述はない」は屁理屈。

疑問3 自分の説に疑問や矛盾は一切ないと自慢するくせに、「理由はわからないが・・・という前提で説明する」とは何のこっちゃ?
    要するに、自分の説でもすべての疑問や矛盾が解消できていないではないか。
    そもそも、古代の通史で、まったく疑問も矛盾もない説などお目にかかったことがない。
    自分が提示した疑問や矛盾が解消できなければ、自説が正しいという論法は、論理的におかしいことに気が付かないのか。

75:日本@名無史さん
07/03/28 18:22:07
疑問4 彦人大兄について「事跡はおろか没年の記載すらない」と主張している。
    にもかかわらず、疑問2で「かなりの実力者だったと思われる」とどうして思えるのか?
    3行書くと、もう前に書いたことは忘れているのか?
    支離滅裂。

疑問5 >>16が「この時代」に例がないといっているのに、「後の」時代の例で反論するのは論点を摩り替える卑怯技。

疑問6 中臣勝海が馬子呪殺という狙いを持っていたかどうか、単なる憶測。
    そもそも大王の後継者争いで、その有力対立候補を呪殺しようとするのに何か大きな疑問があるのか?
    「呪いの人形の数がおかしい」ことを根拠に 彦人大兄=馬子 を主張するくらいなら、
    「有力対立候補を呪殺しようとしたが、馬子を呪殺しようとはしなかったのだ」とそのまま素直に読むほうが賢い。
    読解力が低いから「暗示」なんぞのB級陰謀論にすがることになる。

76:日本@名無史さん
07/03/28 18:23:35
疑問7 これも「記録自体がないのだから本流から外れた」あるいは「本流ではない」とそのまま素直に読むほうが賢い。
    池辺皇子、田目皇子、宅戸皇子、・・・。本流から外れた事情の記載のない皇子など、この時代でも珍しくもない。

>>33

疑問8 「皇祖大兄」を勝手に「皇祖」で打ち切って読んで、因縁を付けているだけ。
    しかも、自分自身「皇祖母」という例を同時に挙げているのだから、そうとう論理思考が弱い。
    「皇祖大兄」、「皇祖母」(さらに「皇祖父」)という言い方があるのだろう。

77:日本@名無史さん
07/03/28 18:29:02
疑問9 「墓の規模は通常被葬者の生前の実力を表していると考えられている。」がまったくのダウト。
    一般に、古墳では、被葬者だけでなく、その後継者や墳墓造営・葬送を行った者の影響も無視できない。
    (欽明天皇と堅塩媛の例もこれに近い。)
    そして、馬子の時代は、古墳、特に、前方後円墳の終末期であることは常識。
    墓の規模が被葬者の生前の実力を表しているとは、とても言えない。
    さらに、もう少し後では、薄葬となるので、ますます関係が薄れる。

78:日本@名無史さん
07/03/28 18:35:49
疑問10 「牧野古墳の立地は難波、斑鳩、飛鳥の中間にあり・・・」
    何じゃコリャとしか言いようがない阿呆さにあきれる。
    地図を見たことあるのか。
    これに該当する地域は、牧野古墳のある広陵町だけでなく、上牧町、香芝市、柏原市、藤井寺市、羽曳野市、八尾市、松原市、etc。
    あの太子町も該当する。
    (古墳好きなら、藤井寺市、羽曳野市、太子町などの地名には脊髄反射する。)
    広陵町の牧野古墳の立地だけを、「立地的にも第一級」など、どうして言えるのだ?
    難波宮と結びつける伏線として「難波」を持ち出したのだろうが、自爆して論理破綻したとしか言いようがない。

疑問11 「舒明天皇が蘇我蝦夷の弟だったとなればこのような疑問は全く生じない」
    もうトホホの阿呆ぶりだな。
    舒明と蝦夷が兄弟という説が成り立つなら、「兄である蝦夷が天皇にならなかったのはなぜか」というもっと大きな疑問が生じるだろう。
    何の疑問の解消にもなっていないどころか、疑問を増幅している。

79:広瀬満
07/03/28 21:53:59
>>71
ご意見ありがとうございます。
参考にさせていただきます。

木満致になぜ「大倭」が付いたかはいろいろ想像をかき立てられる面白い問題だと思います。
私は朝廷内部にレジスタンスがいたと考えています。

第10章は古事記成立論となっています。
通説とはかなり異なる内容ですがこの説には自信を持っています。
飛鳥時代から奈良時代にかけて全国的に国民教化が行われ日本民族が誕生するとともに天皇の権威が確立したと考えています。

広瀬満

80:日本@名無史さん
07/03/29 04:40:01
僕も、この5年2ch日本史板で 独自の記紀成立論を残してるよ

基本は、漢帝なき東アジアで、隋唐に舐められないために国史や国号が編纂され
漢の将軍位としての倭王の歴史を全て封印して、歴史を打ち立てる必要が合った事。
その為に、倭の五王に該当する王は、天武の直系から排除した系図を成立させる。
これが日本書紀の主たる目的であった事。 具体的には、
応神帝  → → → → → 継体帝==== 天武帝 であり、
よって、応神は八幡神であり、 八色の姓は継体帝の子孫のみが皇族であるとする
それ以外の、古代の伝承は朝廷書記官が秦氏や東漢氏など渡来系であったため
必然として彼らの祖先である、弓月王(三日月をシンボルとする王)中東からの神話が
必ずやミックスされているだろう。 
蘇我馬子は「我は蘇る馬の子」であまりにもイエス神話に近い
聖徳太子や蘇我馬子は、天武帝時代 唐ですでに国教と認知されつつあった
「大秦教」景教への対抗から生まれた名称創作。
天武帝の唐への対抗心は、 
道教(同じく唐の国教)においての 天皇号や真人の採用を見ても多く、
天武帝時代の創作は、常に 東アジアでの宗教的な権威付けが目的である 



81:広瀬満
07/03/29 08:31:24
>>80
日本書紀は官僚を啓蒙するための歴史書
古事記は国民を教化するための歴史書
私はそのように考えています。

成立論は難しいですが面白いと思います。
記紀成立論も歓迎します。

広瀬満

URLリンク(www.kojikiden.yahoo.co.jp)

82:広瀬満
07/03/29 08:33:22
>>46
>>47
さらなる立証をただいま準備中です。
あとしばらくお待ちください。

広瀬満


83:日本@名無史さん
07/03/29 09:59:22
早く系図を見せてよ。
話題を変えて、議論から逃げ回ってぐずぐずしてるから、どんどんハードルが高くなっているじゃないか(笑)。

 馬子=押坂彦人 、かつ、
 蘇我蝦夷と舒明天皇と厩戸皇子は、馬子の子 、かつ、
 蘇我氏は木満致の子孫で百済系、かつ、
 蘇我氏は葛城系、かつ、
 日本書紀等に照らして「疑問も矛盾もない」
という系図を見せてよ。

84:日本@名無史さん
07/03/29 10:10:56
こういうトンデモ説は大いに迷惑。
ネットで何か調べ物を検索してると、引っかかり、すごく邪魔。

トンデモ説とはいえ、言論の自由はあるので、唱えるのは勝手にすればよい。
しかし、紙などネット以外の媒体を使って欲しい。

あるいは多少妥協して、自分のホームページの中だけなら、ネットで検索して引っかかっても、2回目以降は、
「またトンデモに来てしまった」とすぐ分かるので、中を読む時間が節約できる。
最低限、自分のホームページから這い出ないで欲しい。

大人のマナーだね。

85:日本@名無史さん
07/03/29 10:13:36
「日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。」(>>7)という真っ赤な嘘の言い訳は?
 蘇我馬子が大臣になったのは572年(敏達元年)
 自分で迹見檮(=迹見首赤檮?)と押坂彦人のことに触れ、それを重視しているが、それは587年(用明2年)
すさまじい嘘っぷり!!!

86:日本@名無史さん
07/03/29 10:16:24
>>71
>>79
何じゃ、このやり取りは。
自分に都合の良いことだけ対応か。
「批評、意見を広く求めます。 」は嘘っぱちか。

もしかして、自作自演???

87:(*・∀・)
07/03/29 10:31:41
(*・∀・)

88:日本@名無史さん
07/03/29 11:13:54
>>33 「墓の規模は通常被葬者の生前の実力を表していると考えられている。」の根拠を示して欲しい。
この時代の墓は、古墳ということで検討させてもらう。

1 古墳の被葬者が明確なものは少ないことは、古代史の常識中の常識。
  したがって、「被葬者の生前の実力」も明確でないものが多い。
  したがって、「規模」と「被葬者の生前の実力」との間に、厳密な相関関係は主張できない。
  「被葬者の生前の実力」は古墳の規模を決める大きな要素であるが、それだけで決まるとはとても言えない。

2 「被葬者の生前の実力」が古墳の規模に影響を及ぼすとしても「実力」とは政治的・軍事的なものだけではない。
  財力も重要だが、これは記紀等の記述からは、なかなか実態が分からない。
  記紀等に記述された政治的・軍事的な実力だけで、古墳の規模が決まると考えるのは、早計である。

3 寿陵を除き、古墳を造営するのは後継者や関係者であり被葬者ではない。
  また、生前葬を除き、葬送儀礼等を主催するのは、被葬者ではありえない。
  古墳の規模や副葬品の豪華さは、これら後継者や関係者の「実力」の影響も無視できない。

89:日本@名無史さん
07/03/29 11:18:41
>>88 (続き)
4 実例
 a 吉備の造山古墳が堺市の上石津ミサンザイ古墳(伝履中陵)とほぼ同規模なのは有名な話。
   墳長でいえば、全国ベスト4とベスト3で、知らないとは言わせない。
   どちらも被葬者が確定されていないが、当時は吉備の豪族より河内の大王のほうがはるかに有力と考えるのが、「通常」だろう。
 b 馬子と同時代の例では、春日向山古墳(伝用明陵、辺長63m×60m)と山田高塚古墳(伝推古陵、辺長63m×56m)をご存知ないか。
   どちらも被葬者が確定されていないが、比定が正しいとすると、わずか2年で崩御した用明の墓のほうが推古より若干大きいことになる。
   「墓の規模は通常被葬者の生前の実力を表していると考えられている。」というのは無理だ。
   被葬者が違うかも知れないというなら、なおさら「墓の規模は通常被葬者の生前の実力を表していると考えられている。」というのは無理だ。

おおよその傾向として被葬者の実力と古墳の規模が相関すると考えるのはよいが、(前方後円墳体制など)
厳密な相関関係を主張するのは無理だし、ましてや天皇の系譜を大きく覆すような説の根拠とするなど、トンデモである。

「墓の規模は通常被葬者の生前の実力を表していると考えられている。」の根拠を示して欲しい。

90:日本@名無史さん
07/03/29 13:28:06
>>49
論破されて論に負け、逃げ出すための言い訳が「水掛け論」という屁理屈であるようにしか読めない。
しかも、負け惜しみの捨て台詞が「結果は読者の判断にゆだね、議論を先に進めたい。」というのも、とてつもなく卑しい。
急いで先に進まなければいけない理由があるのか?
自分から言い出して、都合が悪くなると一方的に議論を打ち切ろうとするのは卑劣だ。

「結果は読者の判断にゆだね・・・」 ⇒ あきれる!!!!

歴史は、読者の多数決や人気投票で決まるのではない。

誠実な人間であれば、こう言うだろう。「読者がどう言おうと、真理を探求することは止めない」

91:日本@名無史さん
07/03/29 13:30:35
「天皇家の真の皇祖は蘇我馬子」(>>1)
「皇祖は皇統の起点」(>>33)

つまり、馬子は天皇ではなかったということだな。
では、馬子=押坂彦人 の身分は何なのか、はっきりさせるべきだ。
臣下か、皇子か?
肝心なところが、すごくいい加減。

92:広瀬満
07/03/29 13:55:51
>>88
>>89
史料を当たりますので3日ほど時間をください。

広瀬満

93:日本@名無史さん
07/03/29 14:07:34
よくわからんがマッタリいこうよ。

半年くらいして、反証を見つける事もある

94:日本@名無史さん
07/03/29 17:43:09
いつまでたっても系図を見せないから、しかたないのでスレ主のHPを見てみたのよ。
そしたらなんと、系図があった。
URLリンク(www.kojikiden.com)

で、もっとも大事な馬子=押坂彦人 のところは、敏達天皇と蘇我稲目の両方から線が伸びているのよ。
まるで、敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだという系図に読める。

敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだって、気色悪くない?
もう疑問や矛盾を超越している。

結論:広瀬満の説とは、
「敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだ」

95:日本@名無史さん
07/03/29 17:47:51
「日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。」(>>7)という真っ赤な嘘の言い訳は?
 蘇我馬子が大臣になったのは572年(敏達元年)
 自分で迹見檮(=迹見首赤檮?)と押坂彦人のことに触れ、それを重視しているが、それは587年(用明2年)
すさまじい嘘っぷり!!!

96:日本@名無史さん
07/03/29 19:01:55
あんま攻撃的レスをしなさんな
広瀬氏の論述法には、根本的な問題があるでしょ

「A=B 仮説X
Xが真実である以上、C=D である。 仮説Y
Yが真実である以上、E=F である。 仮説Z
今、Zという真実が解き明かされた。」

こういう論述法は、歴史ロマン派の醍醐味なわけだし
攻撃的なレスをするより、暖かくロマンを広げる方が好きだなー



97:日本@名無史さん
07/03/29 20:32:57
某なんとか法スレと同じタイプだな
史学と小説の区別はつけたほうがよい

98:日本@名無史さん
07/03/29 20:53:43
いやいや、 ”仮説Xが成立すると、Z となる”
という事項はそれはそれで、科学的意味を持つ 
史学分野だよ。

ただし、仮説Xを前提に という注釈を明記しないと×
大事な事は大らかに検証しようという事だよ

出物がクズであっても、掘らない人は掘った人を貶してはいけない。
掘ってればそのうち、お宝が出る事もある

99:九州出身
07/03/29 20:58:49
ほんとかな?


100:日本@名無史さん
07/03/29 23:54:02
疑似科学ではないのか?

101:広瀬満
07/03/30 09:07:09
ちなみに牧野古墳は「うまさん公園」として地元の人たちに親しまれています。
石室の入り口は普段施錠されていますので入ることはできませんが外から中の石棺を見ることはできます。

広瀬満

102:広瀬満
07/03/30 19:24:12
これまで押坂彦人大兄皇子にまつわる疑惑について議論してきたわけだが、私の説明不足かもしれないがこのスレの読者には少しわかりにくいようなので、
ここで私が押坂彦人大兄皇子、蘇我馬子および「日本書紀」についてどのように考えているのか簡単に述べておきたい。

わたしは元々日本神話を研究していた。そのなかでスサノヲの正体は蘇我馬子であるという結論に至った。
このことは私のHPの「大国主伝」に詳しい。なお神話に関しては別途スレを立てる予定であるのでそこで議論したい。
ところがスサノヲは出雲大社(中世はスサノヲが祀られていた)、熊野大社、津島神社、氷川神社などの著名神社に祀られ歴代の天皇からあつく崇拝されていた。

そこで私は天皇家と蘇我馬子には血の繋がりがあると考え皇統譜を調べた結果、この押坂彦人大兄皇子にまつわる疑惑が数多く浮上したのであった。
この疑惑を検討した結果、押坂彦人大兄は蘇我馬子の別名、すなわち彦人大兄と馬子は同一人物であり、彦人大兄は敏達天皇の太子ではなく、蘇我稲目の子であるという結論に達した。

103:広瀬満
07/03/30 19:25:52
続き
すなわち蘇我蝦夷と舒明天皇は兄弟であり、蘇我入鹿と中大兄はともに馬子の孫で、従兄弟同士ということになる。
天皇家(大王家)は飛鳥時代にそれまでの天皇家から蘇我氏に皇統が切り替わっていたのではないだろうか。

「日本書紀」は皇統が切り替わっていたと正直に書くわけにはいかないので天皇家の出自が蘇我氏であることを隠蔽し、
舒明天皇以後の皇統を推古天皇以前の皇統に繋いで万世一系の皇統とするために馬子の別名の彦人大兄を使いこのような皇統譜の改竄が行われたと考えている。

中大兄が蘇我馬子の孫であり、推古天皇と舒明天皇の間に王朝の交代があることは「日本書紀」の記述等からも伺えるので次にそのことを論じてみたい。
近日中に掲載したい。

広瀬満

URLリンク(www.kojikiden.com)

104:96です
07/03/31 04:57:57
僕ね、広瀬さんのHPのファンです。
でもそれは、賛成してるからではなく、
真摯な情熱を感じるからなのです。
とても、頭から否定したり、冷や水をかける気にはならない。
がんばってください。
ただし、論述方法は結果を証明する構成になってない事は理解してください。

大まかに言って
1・大国主=天武
2・すさのう=蘇我馬子
まずこれ全くの、思い込みですね。 この仮説を事実と断定して
次の議論が進みますが、今度はこの仮説を根拠に消去法から
別の結論を導いています。 これは笑えるところです。

せっかく、面白い指摘が多数出てくるのだから、仮説を常に仮説として
次の議論に注釈を必ずつける配慮が必要でしょう。
それがないと、白けてしまいます。


105:日本@名無史さん
07/03/31 05:15:43
蘇我馬子が天皇なら私も天皇家の血が混ざっているはず。
我ながら高貴な感じがすると自分で思ってたんだよw そこのけ天皇家www

106:日本@名無史さん
07/03/31 05:21:05
ばかだなあ。
守屋が天皇と兄弟なんだよ。

107:日本@名無史さん
07/03/31 08:30:59
自分のHPでやれば?宣伝うざいよ

108:日本@名無史さん
07/03/31 13:59:33
>>5の
>蘇我氏は、武内スクネ系の子孫で、皇別・葛城氏の傍系。
>蘇我氏は百済管轄の軍事を担当していたらしく
>武内系の豪族で百済貴族の娘を妾にしていて
>それに産ました子供が蘇我氏を名乗ったわけで。

という部分に対して、>>6に
>それも記紀や新鮮商事録をそのまま祖述してるだけの話だけだけどな。

とあります。蘇我氏が皇別であることと葛城氏と同祖であるとの主張が
記紀や新撰姓氏録にあるのは知ってますけど、
武内系豪族と百済系の女性との間に生まれた子孫が
蘇我氏であるという主張は、記紀や姓氏録にあります?
もしあったら、どのへんなのか知りたいんですけど。

109:広瀬満
07/04/01 14:38:09
>>88
>>89
 私は「墓の規模は通常被葬者の生前の実力を表していると考えられている。」と述べましたが古墳の規模と被葬者の生前の実力との間に、厳密な相関関係があるとは言っておりませんし、そうも考えておりません。

 私の言葉遣いに誤りがあるのかと思い、国語辞書を調べたりしていました。「通常」とは「一般的には」の意で、「例外はない」ということではありません。
 従って伝推古陵より伝用明陵の方が少し大きいからといって私はそこに何らの疑問も感じません。吉備の古墳もその実体は不明です。

 しかし古墳の規模と被葬者の生前の実力には全く関係がないと考える人はいないでしょうし、河内の大古墳(大山古墳、誉田山古墳)を倭国大王の墓ではないと疑う人もいないのではないでしょうか。

 私が問題にしているのは敏達天皇が3・3の規模でしかないのにその太子とされ即位もしなかった押坂彦人大兄の墓がなぜあのように巨大(15・20)で、守屋を倒して以降の蘇我氏の全盛期に築造されたかと言うことなのです。
 
 押坂彦人大兄=蘇我馬子ではないとお考えならその理由を提示して頂けないでしょうか。
 私は成相墓(牧野古墳)こそ「隋書」にその名の見えるオオキミ「アメノタリシヒコ」、すなわち蘇我馬子(押坂彦人大兄)の墓と考えています。

広瀬満

URLリンク(www.kojikiden.com)

110:日本@名無史さん
07/04/02 11:33:14
>>109 押坂彦人大兄=蘇我馬子でない 理由
押坂彦人=馬子とすると、日本書記の記述(系譜や事績)と矛盾する。

もし、「押坂彦人=馬子」が従来からの学会の定説であったら、トンデモ論者は間違いなく、「別人」と主張するだろう。
日本書記等に、「押坂彦人≠馬子」の根拠となる記述が満載だからだ。

「押坂彦人≠馬子」とした場合の疑問・矛盾を上げつらうだけではなく、
「押坂彦人=馬子」とした場合の疑問・矛盾も上げつらうべし。
まったく疑問・矛盾のない古代通史などこれまでなかったのだから、総合的に判断するしかない。

111:日本@名無史さん
07/04/02 11:38:31
いつまでたっても系図を見せないから、しかたないのでスレ主のHPを見てみたのよ。
そしたらなんと、系図があった。
URLリンク(www.kojikiden.com)

で、もっとも大事な馬子=押坂彦人 のところは、敏達天皇と蘇我稲目の両方から線が伸びているのよ。
まるで、敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだという系図に読める。

敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだって、気色悪くない?
もう疑問や矛盾を超越している。

結論:広瀬満の説とは、
「敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだ」

112:日本@名無史さん
07/04/02 11:42:17
>>109 。「通常」とは「一般的には」の意で、「例外はない」ということではありません。

では、「押坂彦人大兄の墓がなぜあのように巨大」なのは、「例外」ということもありえるね。
すなわち、「押坂彦人大兄=蘇我馬子」の根拠にならないと認めたわけですな。

(「通常」の意味を「国語辞書を調べた」なんぞとガキの喧嘩みたいなこと言ってるから、自爆するのだ。)

113:日本@名無史さん
07/04/02 11:47:42
>>109 河内の大古墳(大山古墳、誉田山古墳)を倭国大王の墓ではないと疑う人もいないのではないでしょうか。

勝手に決め付けるな。
大豪族が建造したものであろうことは疑いないが、それ以上のことは断定できない。

大王の墓かどうかは分からない。
例えば、箸墓古墳は、建造時には日本最大であるが、大王の墓ではないという説が圧倒的に多い。

厳密な意味での墓かどうかも分からない。
建造途中で放棄、あるいは「拝み墓」などの可能性もゼロではない。
すくなくとも実際の埋葬があるかどうかは発掘しなければ分からない。

114:日本@名無史さん
07/04/02 16:47:12
>>103 「日本書紀」は皇統が切り替わっていたと正直に書くわけにはいかないので天皇家の出自が蘇我氏であることを隠蔽
陳腐なB級陰謀論に突っ込みを入れてもしょうがないが、他のトンデモ批判でも応用できそうなので、少し矛盾を指摘する。
a 「正直に書くわけにはいかない」理由は何か?(B級陰謀論の定石)
  蘇我氏が強大な権力があったと再三主張しているのに、なぜ正直に書けなかったのか理由が立たない。
b 「天皇家の出自が蘇我氏であることを隠蔽」とは、誰からその事実を隠すのか?
  (a) 同時代の倭国の人々から真実を隠す ⇒ 不可能
  (b) 同時代の外国の人々から真実を隠す ⇒ 難波高麗館など常設の大使館のようなものがあり、不可能
  (c) 後世の人々から真実を隠す     ⇒ 権力闘争真最中に何故後世のことなど考えていたのか疑問
c 「隠蔽」工作の時期はいつか?
  皇統簒奪とほぼ同時に隠蔽工作が行われたのか、後の日本書紀等編纂時か?
d 「隠蔽」工作が不完全なのはなぜか?
  (a) 「隠蔽」したつもりだが、後世のトンデモ論者は頭が良いので、それを見破った
  (b) 「隠蔽」がバレるように、ところどころに暗示を残した
  などもB級陰謀論の定石だが、何故そんな不完全な隠蔽を行うのか。
  特に「暗示」を残したなど、その理由は何か?

115:広瀬満
07/04/02 19:42:04
確かに私の「大国主伝」が論述方法が問題であることは認めます。
おそらく論の進め方が強引過ぎると言うことだと思いますが他の方からもこのことは指摘されたことがあります。

仮説をまず実証して次に進むべきではということなのでしょう。私も「実証」を軽視しているわけではありません。
しかし史料の少ない古代史研究では十分な実証は容易ではありませんし、実証したとしてもそれに要する文の量も膨大なものになるはずです。

「大国主伝」は古事記論、古代史論、神話論など膨大な内容を含んでいますので丁寧に実証して論を進めていたのではおそらく今の何倍もの分量になってしまうでしょう。
それはとてもではないが普通の人が読みこなせる分量ではないと思います。

そのような事態を避けるため多くの論文では権威ある大学者の説を引用したりするのですが私説のように通説からかけ離れた説ではそれも不可能でした。

続く

116:広瀬満
07/04/02 19:43:26
続き
>>104

そこで私は仮説のままで論を進めても、古事記や古代史の謎の解明につながったり、神話の解釈が可能になることが重要と考え論を進めました。
従いまして「実証」を重視する方からすれば全く不完全な論文、あるいは壮大な仮説と言われても仕方ないとは思っています。

ただ古代史研究に多くの材料を提供することはできたのではないかとは自負しています。
こじんまりとまとまった「ぬかりのない」論文よりも穴は多いが魅力的な仮説の方が今は必要なのではないでしょうか。

ただし、「仮説を常に仮説として 次の議論に注釈を必ずつける配慮が必要でしょう。 それがないと、白けてしまいます。」という指摘には留意しています。
参考とさせて頂きます。

広瀬満

117:日本@名無史さん
07/04/03 09:35:18
>>111
系図がそのように読めましたか?



118:日本@名無史さん
07/04/03 10:07:05
>>117
ほかにどう読めと?
母方の記述もなければ、他の主要な皇子や姫の記述もない断片的なもの。
敏達の后姫や子供はいないのか?稲目や馬子に夫人や他の子供はいないのか?
それらの多くは、天皇や有力皇子や有力臣下であったり、それに嫁いでいたりして、系譜上重要。
複雑になりすぎるし、内容的にも日本書紀と矛盾しない系譜が書けないのだろう。
自分の妄想を絵にしただけの代物。

結論:広瀬満の説とは、単なる妄想であり、
「敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだ」

119:日本@名無史さん
07/04/03 10:43:11
そもそも >>7 の「押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物だ」という言い方からして誤解を招きやすい。
主張したいことは、正しく「押坂彦人大兄皇子は蘇我馬子の別名」(>>40)という表現に統一すべきであろう。
もちろん、これもトンデモ説だ。

いつから別名を名乗ったのか?
a 馬子の存命中に別名を名乗っていた
b 死後、捏造した

120:日本@名無史さん
07/04/03 10:46:52
>>119 (続き)
これらは、その答えによって、さらにいくつかの疑問を派生させる。
c aの場合、単なる別名ではなく、押坂彦人皇子というぐあいに「皇子」という身分も称していたのか。
d 「皇子」という身分も称していた場合、本当に皇子の身分だったのか。
e 皇子の身分であるとすれば、臣下の身分から、いつ、いかなる理由で、いかなる手続きや手順や段階を経て、皇子の身分となったのか。
f 皇子の身分ではなかったとすれば、身分の詐称が何故許されたのか?
g aの場合、同時期に押坂彦人と馬子の両方の名を称したのか、あるいは使う時期が異なるのか?
h 同時期に両方の名を使った場合、どのような基準で使い分けたのか?
i 使う時期が異なるとすると、それぞれを使っていた時期はいつか?

実は、「日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。」(>>7)と主張しており、g~iについては、時期が異なり、最初のうちは押坂彦人と称し、後に馬子と称したという主張である。しかしこれは完全に記紀等の記述と異なる。
  敏達元年(572年) 蘇我馬子が大臣になる
  用明2年(587年) 中臣勝海連が押坂彦人と竹田皇子の呪殺に失敗し、押坂彦人へ寝返ろうとする
これほどひどい事実誤認があると、g~iなどの疑問を提示することじたい、虚しくなる。(トホホ)

121:日本@名無史さん
07/04/03 10:49:16
>>120 (続き)
bの場合も重大な疑問が派生する。
j bの場合、別名を呼称するようになったのはいつからか。記紀編纂時などに捏造されたのか?
j bの場合、何故、別名を名乗るような記述としなければならなかったのか?

そして、どのような場合であれ、記紀等の記述について重要な疑問が伴うこととなる。
k 別名を名乗るにしても、それを隠蔽しようとしたのは何故か?
l 別名を名乗ることを隠蔽することは、本当に可能だったのか?(>>114 参考)
m 別名を名乗ることを隠蔽しようとしたにもかかわらず、それがばれるようにわざと記紀等に「暗示」(>>32)を残したのは何故か?

122:日本@名無史さん
07/04/03 11:01:14
>>116 古代史研究に多くの材料を提供することはできたのではないか

自己満足、自己陶酔の妄想など何になる。
古代史研究の材料どころか、他人のオナニーのオカズを見せ付けられるような醜悪さだよ。

最大限妥協しても古代史研究にとって、おおいに邪魔。(>>84)
  紙などネット以外の媒体を使う
  又は自分のホームページの中だけ
として欲しい。

プラスの要素は、世の中の様々なトンデモ説全般への対処法を学ぶ材料として、反面教師になっていることぐらい。

123:日本@名無史さん
07/04/03 13:51:26
URLリンク(www.kojikiden.com)

石渡信一郎
小林惠子

この二人に影響されたのかな?
面白いよね、この二人の本。

124:104です
07/04/03 15:33:56
>>116
広瀬さん レス有難うございます。
貴方のHP相当面白いですよ。 教科書じゃないんだから歴史ロマンを追求する姿勢は
貴方の脱線の仕方も正しいし、読み応えもある。人の10倍の努力も感じるし、
本人が楽しんでるのも判る。 がんばってください。
さて、
A=B の仮説を元に C=D を結論付ける場合、
A=Bと仮説づけた章の最後に、
「歴史においてはこの説は仮説だが、自身の説である以上
以降の章ではこれが真である前提でA=Bであったら歴史はどう解釈されるか
論証したいと思う」 等と記述し、
さらに、C=Dの章では、 ところどころで (A=Bだった場合)などと注釈をつける
学者的な注意深さを演じるのも、逆にC=Dのロマンをかきたてるプラスに作用すると思います。
A=Bを信じる事の出来ない読み手すら、A=Bを否定証明はできない事から
C=Dの可能性もあるかもな・・・ とロマンを感じてしまうのです。

ただし、それぞれの章の、嘘や誤認での論述であれば論外なので、
それは、否定派と正々堂々競えばよいのです。


125:日本@名無史さん
07/04/03 15:46:37
>>102 「押坂彦人大兄皇子にまつわる疑惑」とは、>>13の「疑い」や>>14の「矛盾」と同じことか?

疑惑1は、>>32で取り下げ

疑惑2は、第1皇子なのに即位しなかったのが疑惑らしい。
  珍しいことか?
  同時代でも、竹田は推古の第1皇子、厩戸は用明と間人との間の第1皇子だが、即位していない。
  特に、厩戸(=聖徳太子)のことは知らぬはずもなかろう。
  また、>>33で、「皇位継承の決定権を握っていた蘇我蝦夷」とか「舒明天皇が蘇我蝦夷の弟だった」と強く主張しているが、これと矛盾する。
  すなわち、皇位継承の決定権を握りながら、押坂彦人=馬子の第1子ではありえない田村皇子(=舒明天皇)が即位した。
  あるいは、皇位継承の決定権を握りながら、蝦夷の子である入鹿は即位しなかった。
  と主張している。
  「第1皇子なのに即位しなかったのが疑惑」と言いながら、自己矛盾で御都合主義もはなはだしい。論理破綻!

結論:疑惑2は、誤り、あるいは自己矛盾!

126:日本@名無史さん
07/04/03 15:49:01
疑惑3は、異母妹が3人も后妃になったことが疑惑らしい。
  しかし、3人という根拠は、>>33で「理由はわからないが一応ここでは通説に従って」とあり、いい加減。
  櫻井弓張皇女は敏達の娘(敏達五年の条)だが、日本書記のどこに妃になったという記載があるのか教えてほしい。
  日本書記では、糠手姫皇女と小墾田皇女となるが、敏達の皇后が廣姫のときの采女の娘と、敏達の皇后が炊屋姫(=推古)のときの皇后の娘となり、時期も格も違い、政略的な意図・ねらいが同じとは言えない。
  政略的な意図に大きな差がないと証明できない限り、異母妹がも后や妃になったことは疑惑になどならず、単なる思い込みに過ぎない。
  また、こんなことに疑惑を持つのであれば、押坂彦人=馬子であろうとなかろうと、天皇の娘が何人も同一人物の后妃になること自体に疑惑を示さないのは、自己矛盾、御都合主義。

結論:疑惑3は、根拠のない思い込みであり、しかも自己矛盾!

127:日本@名無史さん
07/04/03 15:53:23
疑惑4は、没年の記載がないことが疑惑らしい。
  疑問ではあるが、没年の記載がない皇子は多いし、皇統上重要なのに没年のない彦主人王などの例もある。
  そもそも、>>103「推古天皇と舒明天皇の間に王朝の交代がある」と主張するほど皇統上重要なはずの舒明天皇は生年不詳である。
  父の没年が不詳だと疑惑だと大騒ぎするくせに、子の生年が不詳でも無視するというのは御都合主義すぎる。
  押坂彦人だけ強調するのは偏った狭いものの見方であり、自己矛盾だ。
  また、没年の記載がないことを根拠に押坂彦人は実在せず(馬子の別名)、日本書記等における記載は捏造であるかのように主張している。
  しかし、捏造したとしても何故没年の記載をしなかったのか、疑問は膨らむばかりであり、これでは没年の記載がないことの理由にならない。

結論:疑惑4を強調するのは偏狭であり、しかも自己矛盾!
   また疑惑4を根拠に、押坂彦人に関する記載が捏造であるとすると、かえって疑惑が増大する。

128:日本@名無史さん
07/04/03 15:55:41
疑問5は、推古天皇の娘が馬子には一人も嫁いでいないことが疑問らしい。
  何が疑問なのか意味不明である。
  >>32で、「時の実力者が王族との婚姻関係を求めるのは普通のことである。」と言いつつ「この時代に皇女が臣下に嫁いだ例はない」と
自ら認めている(認めざるを得ない)。
  「例がない」ことが「普通のこと」とは、論理破綻もはなはだしい。

結論:疑惑5は、自ら認める論理破綻!

129:日本@名無史さん
07/04/03 16:08:57
疑問6は、中臣勝海の呪殺対象が彦人皇子と竹田皇子の2人であり、馬子を含めた3人でないとおかしいという疑惑である。
  これも何が疑問なのか意味不明である。
  中臣勝海は物部守屋を助けるため呪殺を行うのだが、臣下の敵は馬子一人ではなく「群臣たちがおとしめようとしている」と記載されている。馬子が必ず呪殺対象でなければならいという必然性は乏しい。
  一方、物部守屋は穴穂部皇子を擁立しようとしており、その対立候補の彦人皇子と竹田皇子を呪殺対象とするのは不思議ではない。
  すなわち、中臣勝海が彦人皇子、竹田皇子、馬子、他の群臣の誰を呪殺対象としようとしまいと、大して疑問とはならない。
  馬子を呪殺対象としていたと決め付けるのは単なる思い込みであり、その根拠を示さなければならない。

  また、馬子が呪殺対象であったとしても、それを何故押坂彦人(=馬子)と記さなければならなかったのか、疑惑は膨らむばかりである。
  >>32では、「日本書紀の編纂者はこのような使い分けによって読者に彦人大兄は馬子と同一人物ではないかという疑念を生じさせることを狙った」「すなわち暗示である」と言っている。
  しかし、読者に疑念を生じさせなければならないのはなぜか、どういう基準で「使い分け」たのか、など疑惑は増大するばかりである。

結論:疑惑6は根拠のない思い込み。
   また疑惑6を根拠に、押坂彦人=馬子とすると、かえって疑惑が増大する。

130:日本@名無史さん
07/04/03 16:11:32
疑問7:馬子と守屋の戦い以降、彦人皇子についての消息が全く不明が疑問らしい。
  消息不明という言い方は誤解を招こうとする印象操作であり、不正確である。
  正しくは、記載が無いというべきである。
  皇統以外での押坂彦人の記載は用明紀ぐらいしかないが、このとき馬子と守屋の戦いは始まっていない。
  用明紀の記載は、疑問6の中臣勝海の呪殺未遂に関連するもので、馬子と守屋が直接争うものではない。
  正しくは、馬子と守屋の戦い以降ではなく、「用明2年を除き、記載がない」と言うべきだろう。
  こうした不正確な書き方は、悪質な印象操作である。
  なお、皇統以外での記載がほとんどない皇子など、珍らしくもなんともない。
  この時代で言えば、皇極と孝德という2人の天皇の父である茅渟王も記載がほとんどない皇子であるが、茅渟王について、疑問を持たないのは何ゆえか?

結論:疑惑7は、不正確。

131:日本@名無史さん
07/04/03 16:14:16
疑問8は、「皇祖」とよばれていたというのが疑問らしい。
  そもそも、孝徳紀の大化2年の「皇祖大兄」という記述を「皇祖」で勝手に打ち切って疑問と騒ぐペテンであり、疑問などない。
  また、皇祖大兄=押坂彦人と明記されているわけでもない。
  なお、押坂彦人が「皇祖」と呼ばれていても疑問はない。
  例えば、>>33で「祖父ということなら皇祖父とすべき」という反論はひどい。
  押坂彦人=馬子としても、皇祖大兄=押坂彦人=馬子は孝徳天皇や中大兄の祖父であることに変わりはない。
  つまり、押坂彦人=馬子としても、「祖父ということなら皇祖父とすべき」ということになる。
  「孝徳天皇や中大兄の祖父」と言っているところを、単に「祖父」と冒頭部分を勝手に打ち切って書くことで反論らしくみせかけているペテンのような文で、とても悪質。
  蘇我系ではない、舒明、孝德、天智(=中大兄)の祖という意味で、「皇祖」という解釈はなんら不自然ではない。

結論:疑惑8は、文章から恣意的に文字を抜き取って並べ、因縁をつけているだけのペテン。

132:日本@名無史さん
07/04/03 16:16:42
疑問9は、彦人皇子の墓が大きすぎると言う疑問である。
  当時の墓=古墳の大きさが何によって厳密に決まるかは疑問であるが、押坂彦人の墓が大きいことの疑惑にはつながらない。
  疑惑9は、古墳全般にいえる疑問の一つであり、押坂彦人のケースだけ取り上げて論じるのは偏狭である。
  しかも、>>9で「即位したわけでもないのになぜこのように大きいのか」と疑問を呈しており、即位していない者の墓は大きくてはいけないと主張している。
  押坂彦人=馬子としても、即位しておらず、墓が大きいのはおかしいこととなる。
  すなわち、ここでも自己矛盾をきたしている。

結論:疑惑9を強調するのは偏狭であり、しかも自己矛盾!

133:日本@名無史さん
07/04/03 16:19:53
疑問10は、牧野古墳を彦人皇子の墓とすることへの疑問である。
  これは、古墳被葬者の比定の問題であり、一般的によくある疑問で、押坂彦人のケースだけ取り上げて論じるのは偏狭である。
  古墳被葬者の比定が確かでないからといって、その人物が実在しないかのような論は本末転倒である。
  また、>>33で、「牧野古墳の立地は難波、斑鳩、飛鳥の中間にあり立地的にも第一級。大実力者であった馬子の墓にふさわしい。」としている。
  しかし、その中間地域には古市や近つ飛鳥などの有名な古墳群もあり、広陵町の牧野古墳の立地を第1級とするのは、根拠のない思い込みである。

結論:疑惑10は本末転倒で一般論の捻じ曲げ、しかも根拠のない思い込み!

134:日本@名無史さん
07/04/03 16:48:20
疑問11は、蘇我氏の全盛期に非蘇我系の皇子が次々と天皇に即位したのが疑問らしい。
  日本書記を読めば、蘇我蝦夷が他の群臣の意向を気にするなど、絶対的な天皇の決定権を持ってはいなかったことは明らかであり、疑問と強調するほどのことでもない。

結論:疑惑11は日本書紀の読み込み不足。

全体の結論
疑惑はすべて、誤り、思い込み、又は一般論の捻じ曲げに過ぎない。
疑惑に対する説は、疑惑の解消になっておらず、むしろ疑問を増幅するものばかりである。

135:104です
07/04/03 18:05:43
広瀬さんの思想の流れは、
いわゆる、「日本の皇祖が朝鮮半島出身だった。」
という結果ありき でそれを正当化するためのアプローチでしょう。
点と点はあって、それを線で結ぼうとしている
1・出雲神社を半島信仰の神社と位置づける
2・その出雲神社の祭神は、スサノウ
3・スサノウは半島ゆかり
4・天武帝とスサノウを直系であれば、現天皇の家は半島出身となるはず
5・その糸口・・・蘇我氏 蘇我氏は朝鮮系と位置づける
6・蘇我氏とスサノウをつなげ 蘇我氏と天武とつなげる 事を記紀に探ってみる。
7・お? 蘇我氏つながりで記紀解釈 できそうだ・・・発表

で、論述として重要な事は、 「結果ありきで、点と点を結んでみた」
「十分に線は結べないが7割程度の線はできるようだので私は歴史でこの実線が存在したと思う」
と論ずればよいにに、
現状のように、全く不十分な点と点の集まりを根拠に「こういう結論の線となった」と発表するから、
は? 全然結べてないじゃん? なんでそんな結論になるの? それじゃ捏造だよ
と、返ってくる。 
素直にそもそも 結ぶたい点と点が先にあって、間を埋めたくて、埋めそうな点と線を発表してる 
とすればいい そうすると中途半端でも価値のある発表となる

136:広瀬満
07/04/03 18:51:09
>>123
石渡信一郎
小林惠子

面白いですか?この二人の本
一応参考にと思い、古書で買いましたが私はあまり評価しておりません。

広瀬満


137:日本@名無史さん
07/04/04 05:49:17
なんでレスの最後に自分の名前書くの?

138:広瀬満
07/04/04 09:43:57
言われてみればそれもそうですね。

139:日本@名無史さん
07/04/04 10:42:35
>>119>>121 及び >>125>>134 に答える力はないのか、やる気がないのか?
自分が不利だとトンヅラか?

批評や意見にきちんと答える気がないなら、
「この説に対する批評、意見を広く求めます。」(>>1)などと書くべきではない。

何から何まで、いい加減でペテンだな?

140:日本@名無史さん
07/04/04 10:44:58
いつまでたっても系図を見せないから、しかたないのでスレ主のHPを見てみたのよ。
そしたらなんと、系図があった。
URLリンク(www.kojikiden.com)

で、もっとも大事な馬子=押坂彦人 のところは、敏達天皇と蘇我稲目の両方から線が伸びているのよ。
まるで、敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだという系図に読める。

敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだって、気色悪くない?
もう疑問や矛盾を超越している。

結論:広瀬満の説とは、
「敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだ」

141:日本@名無史さん
07/04/04 12:06:03
>>136
御二人ともあなたと同様に普段から他人の意見を聞かない思い込みの強い性格の人だと
思うんですよ。自分を客観的に見れない、まぁよくいる困ったチャンなんですが…
あなたも彼等の突飛な説そのものに興味をあったのではなく、一方的な手法を駆使する
彼等自身に親近感を抱いたんじゃありませんか?
そういうことであなたが彼等の本を評価していない、というのも非常に納得できるのです。

142:日本@名無史さん
07/04/04 15:07:55
「迹見赤檮がずっと同じ主人に仕えていて、他の者の指揮命令を受けることはまったくなかった」というのも仮定に過ぎない。
a 迹見赤檮がずっと同じ主人に仕えていたという根拠を示してよ。
  まさか、その根拠が、豊臣以降の「奉公構い」や「忠臣二君に仕えず」では、笑っちゃうよ。
  時期によって押坂彦人、馬子、厩戸と、主人を変えてもおかしくない。
  終身雇用の時代じゃあるまいし。
  しかもこの時代の渡来人(1世)の多くは、主人を変えているはず。主人を変える例はむしろ多いかもしれない。
b 迹見赤檮が馬子の指揮命令を受けなかったと言い切る根拠を示してよ。
  押坂彦人は物部戦争に参加しなかったが、兵糧・武器・兵力などの協力も行わなかったと言い切る根拠を示してよ。
  迹見赤檮が押坂彦人の舎人の身分のまま、馬子の指揮下にいても何の不思議もない。
  それがありえないと考えること自体が、一つの仮定に過ぎない。

自分の仮定は棚上げして、他人の仮定は「仮定の話だから無視」では、卑怯だよ。
自分の主張が仮定ではないという根拠を示してよ。

143:日本@名無史さん
07/04/04 15:20:09
早く自説で想定する系図を見せてよ。
話題を変えて、議論から逃げ回ってぐずぐずしてるから、どんどんハードルが高くなっているじゃないか(笑)。

 馬子=押坂彦人  (別名)      、かつ、
 馬子=蘇我蝦夷と舒明天皇と厩戸皇子の親、かつ、
 馬子=スサノヲ  (正体)      、かつ、
 蘇我氏は木満致の子孫で百済系     、かつ、
 蘇我氏は葛城系            、かつ、
 日本書紀等に照らして「疑問も矛盾もない」
という系図を見せてよ。

144:日本@名無史さん
07/04/04 15:43:53
天皇家はブッダの実家かもしれん!!!
天皇家はイエスの実家かもしれん!!!
天皇家はマホメットの実家かもしれん!!!
天皇家は始皇帝の実家かもしれん!!!
天皇家はエジプト王家の実家かもしれん!!!

結局のところ記録、考古学的証拠がなければ、どうとでも言える!!!

145:広瀬満
07/04/04 17:38:46
>>124
なるほど、なるほど、よくわかります。
実に貴重なアドバイス、ありがとうございます。
さっそく検討してみます。

PS.とうとう「かたり」も登場しました。

広瀬満

146:日本@名無史さん
07/04/04 18:30:14
>>119>>121 及び >>125>>134 に答える力はないのか、やる気がないのか?
自分が不利だとトンヅラか?

批評や意見にきちんと答える気がないなら、
「この説に対する批評、意見を広く求めます。」(>>1)などと書くべきではない。

何から何まで、いい加減でペテンだな?

147:広瀬満
07/04/04 20:18:34
>>46
>>47
これまで押坂彦人大兄皇子が蘇我馬子の別名、すなわち彦人大兄と馬子が同一人物であることを説明してきたが、
彦人大兄と馬子が同一人物とすると皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていたことになる。
このことは「日本書紀」の記述等からも伺えるので次にそのことを論じてみたい。

1,蘇我馬子は崇峻5年(592)、崇峻天皇を弑逆(この場合は臣下が天皇を殺すこと)した。これは記録に残る唯一の例である。
天皇家の側からすれば大変な不祥事で当然弾劾されるべきと思うが「日本書紀」は馬子を非難していない。
しかも馬子のことを武略備わり、政務にも優れた人物と賞賛さえしている。

2,乙巳の変の直後の8月8日、天皇はいわゆる仏教統制の詔を出している。この中で蘇我稲目、蘇我馬子の仏教における功績が称えられている。
蘇我の宗本家を滅ぼした直後にこのような詔が出されるのはたいへん奇怪である。

3,天智10年(671)、天智天皇は病に倒れる。その直後天皇は珍宝を飛鳥寺に奉納している。
病に倒れた直後と言うタイミングから見て、病気の平癒を祈願したものと思われる。
飛鳥寺は蘇我馬子によって創建された蘇我氏の氏寺である。なぜよりによって飛鳥寺なのか。

続く

148:広瀬満
07/04/04 20:20:06
続き

4,天智天皇の崩御の直前、大友皇子は内裏の仏像の前で重臣たちに忠誠を誓わせている。
その顔ぶれは左大臣蘇我赤兄臣、右大臣中臣金連、蘇我果安臣、巨勢人臣、紀大人臣の5人である。
鎌足の従兄弟といわれる右大臣中臣金連を除けば他の4人は蘇我氏か、あるいは蘇我の同族である。
なぜこのような蘇我氏に偏った人事が行われたのか。その理由が知りたい。天智天皇が蘇我の一族だとすればわかりやすい。

5,比定がほぼ正しいとすれば天皇陵は形状の不明な孝徳天皇を除けば舒明天皇以降、墳丘の形がそれまでに方形から8角形に変化する。
これは推古天皇と舒明天皇の間に画期、すなわち王朝の交代が有ったことを示すのでは。

6,上に関して、天平6年(734)4月17日聖武天皇は大きな地震のあとで山稜の被害の調査をさせている。
そのとき調査を命じられた天皇陵の数は8カ所である。天皇陵は数多いのになぜ8カ所でしかないのか。身近な天皇陵とするとその天皇陵は

元正天皇陵(奈保山西陵)
元明天皇陵(奈保山東陵)
文武天皇陵(檜隈安古岡上陵)
天武・持統合葬陵(檜隈大陵)
天智天皇陵(山科陵)
斉明天皇陵(越智崗上陵)
孝徳天皇陵(大阪磯長陵)
舒明天皇陵(押坂内陵)

以上で8カ所である。舒明天皇までで推古天皇まで届いていないのは舒明天皇以降が新王朝だったからではないか。

広瀬満

URLリンク(www.kojikiden.com)

149:日本@名無史さん
07/04/05 09:50:59
天智が蘇我系など、ありふれたトンデモ説。
ましてや、天智や天武が○○だったねんて、もう腐るほど見たトンデモ説。
パクリ、2番煎じと笑われるのがオチ。
しかも、この内容じゃあねえ~~~~。
よほど、阿呆な人でもなきゃ相手しないんじゃないの。

トンデモ説としてもC級だな。

150:日本@名無史さん
07/04/05 10:07:45
>>1 「この説に対する批評、意見を広く求めます。」

>>46>>47 及び >>119>>121 及び >>125>>134

これらは、あなたが望んだ批評や意見です。
これらに答えることができずに話題を変えようとするのは、
自分の説が完全に欠点だらけであることを認めるわけですね。

自 分 の 説 が 完 全 に 欠 点 だ ら け

151:日本@名無史さん
07/04/05 10:10:39
>>1 「この説に対する批評、意見を広く求めます。」

>>142

これも、あなたが望んだ批評や意見です。
これに答えることができずに話題を変えようとするのは、
自分の説が完全に欠点だらけであることを認めるわけですね。

152:日本@名無史さん
07/04/05 10:18:37
自説で想定する系図を早く見せないのは無責任です。
話題を変えて、議論から逃げ回ってぐずぐずしてるから、どんどん系図の条件が多くなっています。

あなたには、
 馬子=押坂彦人 (別名)、かつ、
 馬子=蘇我蝦夷と舒明天皇と厩戸皇子の親、かつ、
 馬子=スサノヲ (正体)、かつ、
 蘇我氏は木満致の子孫で百済系、かつ、
 蘇我氏は葛城系、かつ、
 天皇及び主要な皇子、姫、臣下を記載、かつ、
 日本書紀等に照らして「疑問も矛盾もない」
という系図を見せる責任があります。

皇統の系譜が替わったという説なのですから、系譜・系図はとても重要です。
というより核心です。
どれだけ複雑になろうと、日本書紀等の記述と照らし合わせることが可能なレベルの詳細さが求められるのは、当然のことです。

無責任な気持ちでいるのなら、このスレッドを閉じて欲しい。

153:日本@名無史さん
07/04/05 10:23:23
>>7 「日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。」

この指摘は、次のとおり明らかに完璧に100%間違っています。
  蘇我馬子が大臣になったのは572年(敏達元年)
  自分で迹見檮(=迹見首赤檮?)と押坂彦人のことに触れ、それを重視しているが、それは587年(用明2年)

このことは、何度も指摘されています。
これについても何も説明しようとしないのは、自説の欠陥を認めるているということですか?

>>1 「この説に対する批評、意見を広く求めます。」
と望んだ以上、きちんと説明する責任があります。

無責任な気持ちでいるのなら、このスレッドを閉じて欲しい。

154:日本@名無史さん
07/04/05 11:44:30
広瀬涙目

155:日本@名無史さん
07/04/05 11:46:36
>>147

根拠1 馬子は崇峻天皇を弑逆したが非難されていないことが、「皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた」根拠らしい。
a 有名すぎる話で、馬子が非難されない理由など昔からある。
  例えば、日本書紀編纂時の文武、元明、元正は、馬子の子孫であったからといった説明を見たことないのか?
b 安康天皇が眉輪王に殺されるという前例も、臣下によるものではないが「天皇家の側からすれば大変な不祥事」。
  トンデモ論者には意外かもしれないが、日本書紀の記載は結構冷静なのだ。
c 入鹿が山背等を滅ぼしたときは、蝦夷が嘆くような文章表現で、非難している。
  トンデモ論者には意外かもしれないが、日本書紀の記載は結構冷静なのだ。

結論:根拠1から「皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた」を言うのは、とうてい無理。

156:日本@名無史さん
07/04/05 11:49:00
>>147

根拠2 乙巳の変の直後に馬子を称えているのが、「皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた」根拠らしい。
a 根拠1と同様、日本書紀編纂時の文武、元明、元正は、馬子の子孫
b 乙巳の変の後に、蘇我赤兄臣や蘇我果安など、馬子の孫が重臣となる。
  乙巳の変の直後に馬子を称えても不思議はない。

結論:根拠2から「皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた」を言うのは、とうてい無理。

157:日本@名無史さん
07/04/05 11:51:05
>>147

根拠3 671年に天智が飛鳥寺に珍宝を奉納したことが、「皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた」根拠らしい。
a 乙巳の変の時、天智(=中大兄)は飛鳥寺に立て篭ったことも知らんのか?
  飛鳥寺は、天智にとっても縁のある寺なのだ。
b 乙巳の変の後、蘇我本宗家の財産は大王家が没収した。
  例えば、蝦夷・入鹿の邸宅は消失したが、馬子の邸宅は後に草壁皇子の宮(嶋の宮)となる。
  飛鳥寺も大王家のものとなっていたのであろう。

結論:根拠3は日本書紀の読み込み不足による、思い込み。

158:日本@名無史さん
07/04/05 11:53:23
>>148

根拠4 天智あるいは大友の重臣に蘇我系が多いことが、「皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた」根拠らしい。
a 蘇我石川麻呂は、乙巳の変の功労者でもある。(後に謀殺されるが。)
  その兄弟が重用されていて何の不思議がある。
b 天智あるいは大友の重臣から、舒明の皇統を論ずるのはむちゃくちゃだろう。
  672年の重臣の構成から629年の天皇の擁立を論ずるなど、
  現代の政党・派閥の勢力分布から1964年の佐藤栄作の総理大臣選出を論ずるようなもの。もう○○かと!
  おそらく、頭の中には飛鳥時代という括りしかなく、672年と629年がどれほど時間が隔たっているか、またその順序などの認識ができないのであろう。

結論:根拠4は思い込み、及び、時間認識の欠如。

159:日本@名無史さん
07/04/05 11:56:06
>>148

根拠5 舒明以降、墳形が方形から8角形に替わったことが、「皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた」根拠らしい。
a それ以前に前方後円形から方形に替わったことを「画期」としないのはなぜか?(お得意の御都合主義)
  それ以後に火葬等が行われるようになったことを「画期」としないのはなぜか?(お得意の御都合主義)
  天智の墳形が上円(8角?)下方形であることを「画期」としないのはなぜか?(お得意の御都合主義)
  墳墓の形や葬送・埋葬の方法から皇統を論ずるのは無理。
  自説に都合のよいところだけをつまみ食いする御都合主義だ。
b 八角墳や上円下方墳に特別な意味を持たせる考えはあるが(白石など)、徐々に例外が増えつつあり、あまりあてにできない。

結論:根拠5はご都合主義によるコジツケ。

160:日本@名無史さん
07/04/05 12:03:28
>>148

根拠6 天平6年の地震のときの被害の調査対象が8箇所で、弘文を除くと、8代遡って舒明までとなることが、「皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた」根拠らしい。
a 8箇所がどこだか分からないが、被害があったのが8箇所なのであろう。
  すなわち、地震後に陵戸などから被害の報告があり、修陵等を行うための調査が必要と判断されたのが8箇所なのであろう。
  それが何か?
b このトンデモ説は、そもそも「天皇家の真の皇祖は蘇我馬子」(スレタイ)のはず。
  何故、馬子=押坂彦人 の山陵を調査しないで放置なのだ?
  すご~~~~~く不思議!!!
  枝葉末節を突付き回して妄想しているうちに、根幹となる本論を見失ってしまったのだろう(あ~~あ、また自爆かよ(笑))。

結論:根拠6は自爆

161:日本@名無史さん
07/04/05 12:40:44
「こんなはずじゃなかったのに…」
ディスプレイを前にして広瀬は戦々恐々とキーボードを叩く。
目頭が熱い。辛い。もう終わりにしたい。でも…出来ない。
痛いところを突かれたのがそんなに応えたのか?
冷たくされたのがそんなに辛かったのか?
本当の理由は誰にも解らない。広瀬にも解らない。
でも…手だけは動く。
名無しの指摘を無視する書き込みを続けて行く。
一体これは誰の意志なのか?この手は、この指は一体誰の物に
なってしまったのか?
そしてまた一つ、ディスプレイに映し出される彼へのレス。

162:日本@名無史さん
07/04/05 12:42:11
 151 :日本@名無史さん :2007/04/05(木) 10:10:39
 >>1 「この説に対する批評、意見を広く求めます。」
 ⇒ >>142
 これも、あなたが望んだ批評や意見です。
 これに答えることができずに話題を変えようとするのは、
 自分の説が完全に欠点だらけであることを認めるわけですね。

何が起こったのか理解できなかった。
俺が?俺の「天皇家の真の皇祖は蘇我馬子」論が欠点だらけ?
そんな、嘘だ、俺が、この俺の論説が…?
涙が止まらない。嗚咽が止まらない。
何で?どうして、俺がこんな目に…。
ホントは有名歴史研究家になりたかった。ホントは皆に誉めて欲しかった。
涙が止まらない。嗚咽が止まらない。
何で?どうして、俺がこんな目に…。
ホントは笑いたかった。ホントは皆にウケたかった。
「ホントは…ともだ・ち・・日本…@名無史さんも… 」
ガシャアッ!!
感極まった広瀬の腕がディスプレイを乱暴に叩く。
それだけは認めない。それだけは拒否する。
だってそれを認めてしまえば…俺が俺じゃなくなるから…。
「クールな…俺じゃなくなるから…」

163:日本@名無史さん
07/04/05 22:17:31
>>147

1.事件の真相はよく分からない。少し前に馬子は、額田部大后を後ろ盾にして穴穂部皇子を消している。
その後、他の王族をすべて滅ぼしてしまうでもなく、また崇峻暗殺で逆臣として即座に討たれてしまうでもなく、
推古朝のもと執政を続けたというところに何かしら事件を解くヒントが隠されているのかもしれない。
つまり、崇峻対馬子の対立を、天皇家対蘇我氏という単純な家の対立図式で捉えるのが正しいのかどうか。
2.この詔は、飛鳥寺に使者が遣わされ発せられたものであろう。
稲目・馬子は仏教導入に指導的役割を果たしたのだから、ごく当然の内容といえる。
いわゆる乙巳の変は入鹿を討ったのであって、「蘇我氏」を全否定したわけではない。
大化新政府の右大臣は御承知のとおり蘇我石川麻呂であり、言うまでもなく彼は稲目・馬子の子孫である。
3.飛鳥寺は日本の寺院の元祖である。皇室とも縁のあったことは、日本書紀や元興寺丈六光銘・塔露盤銘からも見て取れる。
ところで、のちに「大官大寺」となるのは、馬子の飛鳥寺ではなく、舒明天皇の百済大寺である。
皇室の飛鳥寺に対する考え方は、日本書紀の天武9年4月条を参考にするとよい。


164:日本@名無史さん
07/04/05 22:20:00
>>148

4.それだと、三公を藤原氏で固められていた平安時代の天皇は、「藤原氏出身」なのかということになってしまう。
  それに、そもそも蘇我・中臣・巨勢・紀は、推古朝以前から政事・祭事上重要な地位を占める氏族であった。
5.八角墳の採用には、前代からの離脱、中央集権的大王権拡張の表意が見られるのであり、「馬子の墓制を採用していない」のは確実である。
  墓制の変化は、王系の交代もさることながら、政治的・文化的時代背景から見極める必要があろう。
6.のちの十陵制や国忌の例を見るまでもなく、時代が降れば直接的な先祖祭祀が近親者や直系に絞られていくことは、容易に想像できるであろう。
  天平時代における他の山陵使派遣のケースに比すれば、8か所というのは最も多い数字ではなかろうか。
  なお、ここにいう「8か所」は、舒明・斉明・天智・天武・持統・草壁・元明・文武であろうと推測する。


165:広瀬満
07/04/06 20:02:26
>>155>>160

163,164と比較して頂けるとよくわかるがあまりにも程度の低い返答であほらしくて答える気にもならないが、ちょうどよい機会である。
155~160のレス主の古代史に対する知識の、程度の低さを立証してみたい。

1,現存の「日本書紀」はほとんど平安時代以降の写本である。文武、元明、元正時代の物は残っていない。
したがってその内容は蘇我氏とは血の繋がりのないはずの天智系の天皇にも承認されていたのはなぜか。写本作成の際に書き換えることもできたはずである。

2,この詔が出したは蘇我氏とは血の繋がりのないはずの孝徳天皇である。
蘇我赤兄臣や蘇我果安が重臣になったのは671年で20年以上も後のことである。なぜこのようなトンチンカンなことを言うのか。
レス主は「日本書紀」をちゃんと読んでいないか、あるいは読んでいても理解できていないかどちらかであろう。

3,ちょっと理解に苦しむ回答である。乙巳の変の時、中大兄は近くに立派な宮殿(飛鳥板蓋宮)があるのになぜ飛鳥寺に布陣したのか。
自分が蝦夷、入鹿に変わって馬子の後継者になったことを誇示したと見る。

続く

166:広瀬満
07/04/06 20:03:43
続き

4,全く答えになっていない。蘇我氏が重臣になっていることが問題なのではなく。重臣がなぜ蘇我氏とその一族で占められているのかを問うている。
1300年もたてば制度や、考え方も大きく変わっているのに佐藤栄作のことを引き合いに出すなど言ってることがもうむちゃくちゃである。

5,墳形や葬送の形態に変化が生ずれば、その政治的背景に疑問の目を向けるのは研究者として当然。

6,地震後に陵戸などから被害の報告があったというようなことは書かれていない。レス主の想像にすぎない。
全く書かれてもいないことを自分の主張の根拠にしてどうする。山陵に被害が出ているかもしれないからその調査が命じられたのである。
レス主は「続日本紀」をちゃんと読んでいたのかどうか疑問である。

広瀬満

URLリンク(www.kojikidenn.com)

167:広瀬満
07/04/06 21:41:28
>>161
>>162

ひとりでよがっている。
このようなところで自慰行為はやめてほしい。

広瀬満

168:チャンネル桜が今日から無料放送に!!
07/04/07 00:53:17

日本文化チャンネル桜は、平成十九年三月三十一日をもってスカイパーフェクTV!Ch.767における
24時間放送を休止し、同Ch.241「ハッピー241」の夜の時間帯で放送を続けることになりました。

※「ハッピー241」での放送時間(4月1日?)は、以下のとおりです。スカイパーフェクTV!
の受信環境があれば、どなたでも無料でご覧になれます。
       【月?金】18:30?21:30/23:00?24:00
       【土・日】21:00?24:00

URLリンク(www.ch-sakura.jp)



169:広瀬満
07/04/07 07:40:10
>>163
>>164

史料にあたるので返答はしばらくお待ち願いたい。

広瀬満

170:広瀬満
07/04/07 12:01:59
私の押坂彦人大兄皇子に対する疑惑は
私のHPの古代妄想:押坂彦人大兄皇子にまつわる疑惑として
一括してまとめて掲載しているのでご参照ください。

広瀬満

URLリンク(www.kojikiden.com)

171:広瀬満
07/04/07 13:17:53
おまんこぺ~ろぺろ^^
美人人妻のおまんこ舐めまくりたいです。
それからグショグショになったおまんこにちんぽをぶちこんでかきまわしたいです。

広瀬満

URLリンク(www.kojikiden.com)

172:日本@名無史さん
07/04/07 13:18:56
     // 1  . {. . .ヽ. . ヽ. . ',. .ヽヽ
    / .:/ ハ: :!: :.:ト、:.:. :\:...l:.. :}: : |_⊥ 、
    j . {: .:{ :l、:l、: :.ト-ヽ、_:..`ヽ、j__イ_つノ
    l 1:ハ.::{ゝl=くヽ:.ヽ トィjr}Tァ┬ァ:.:´|
    |ハ :ヽlァ{トィrj \i ー_'っ /:.イ-、:。:|
     ヽ。ハ^rぅ' 丶 `   ノ', く } }:.ol゚ o
    。  `ハ 。  {ァ´ヽ     ,ー o':.へl お客様の中にお医者様は
      ゚ ´ノi\  ー'   ィ:;:.ィ/|/゚ 。 いらっしゃいませんか??
   。 o  。 ゚ハヘ;:>ー--<_rv〈、_
         / ̄ヽ \/ll  }l}`'^'ト、
          /   ::Y77l  j l    !_`7
        l, ---::、〉 jl  l   ハゝ-i

173:広瀬満
07/04/07 19:48:20
>>171は広瀬満の「かたり」です。
念のため・・・・・・



174:日本@名無史さん
07/04/08 03:55:35
URLリンク(ja.wikipedia.org)(2%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8B)

175:広瀬満
07/04/08 18:06:00
>>174

貴重な情報ありがとうございます。

広瀬満

176:衣笠宮
07/04/08 22:35:41
HPを拝見しました。
疑惑とか立証とか沢山列挙されておられますよね。
今後、研究されたら面白いと思われる箇所が
多々あり、楽しませていただきました。

あの時代は、押坂彦人大兄皇子、茅渟王、漢皇子等、
興味ある位置づけでありながら情報が極端に少ない
皇族方がおられることから学者や歴史愛好家の方々が
想像をたくましくされている箇所ではあります。

だからと言って押坂彦人大兄皇子が敏達天皇の皇子で
あることの疑惑や蘇我馬子と同一人物であったとか、
皇統が切り替わっていたなんてことはいささか飛躍
のしすぎじゃないですか?
あなたの古代(誇大)妄想でしかありませんよね。


177:日本@名無史さん
07/04/08 23:09:57
>1
飛鳥時代に切り替わって以降は現在まで万世一系なんでしょ。
だったらいいじゃん。女系は無理ってこったね。

178:広瀬満
07/04/09 11:03:02
>>176
衣笠宮様、レスを頂きありがとうございます。

私説に対する反応は色々ございます。
肯定派、否定派、おそらく今は否定派の方が多いかもしれません。

ただ「日本書紀」は奈良時代の天皇が自らの由来を記した書であって、第三者が書いたのではないということだけは心得ておかなければならないと思います。

何が真実で、どれが嘘なのかこれから色々議論していけばよいと思います。そのきっかけに私のHPがなればと願っています。

広瀬満

179:日本@名無史さん
07/04/09 18:01:26
>>170
議論で都合悪くなると、自分のHPを見ろというのですか?

だったら自分のHPから出てくるべきではありません!
このスレを閉じて欲しい。

180:日本@名無史さん
07/04/09 18:28:17
>>165

1 これが >>155の根拠1が無理なことと、どう関係あるのか?
  天智系に代わったら歴史書も変えないといけないのか?
  それで歴史が変わるわけでもない。
  そもそも、日本書紀はその内容について講釈なども行われ、中国などにも示されたことはまちがいない。
  一度公表したものを、写本の段階で大幅に改竄できるわけないだろう。
  そんな発想だから、B級陰謀論、C級トンデモ論といわざるを得なくなるのだ。

2 馬子を称えるのはおかしいというのが根拠2
  日本書紀で馬子を称えるのはおかしくないことが言えれば反論になるのではないのか?
  いったい何を主張したいのだ?
  論理的思考力は大丈夫か?

3 宮殿には天皇がいるのに、皇子とはいえ勝手に占拠できるのか?
  根拠のない思い込みのほうが理解に苦しむ。

181:日本@名無史さん
07/04/09 18:30:54
>>166
4 あなたの根拠がむちゃくちゃだから、今日の例で分かりやすく教えてあげたのだ。
  それから、論理のすり替えをするな。
  天智あるいは大友の重臣に蘇我系が多いことが、「皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた」根拠なのであろう。
  天智あるいは大友の重臣に蘇我系が多いことは、「皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わって」いなくても十分に説明ができ、そのほが日本書紀の他のさまざまな記述と矛盾しないというのが理解できないか?
  天智あるいは大友の時代の話が、なに故、それよりずっと以前の話の根拠になるのだ?
  しかも、「切り替り」が「推古天皇と舒明天皇の間」の時期に特定できる根拠になるのだ?
  むちゃくちゃだろう。

5 だから、自分に都合のいい変化だけに目を向けるなと言っているのだ。
  そういうのを、歴史の「つまみぐい」だと言っているのだ。
  もっと、総合的に考察しろと言っているのだ。

6 この反論の本質は、
 a 「調査」の意味は、多様な解釈がありえ、「皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた」根拠とはなない
 b スレタイの皇祖の墓を放置は笑止
  ということが分からんのか?

182:日本@名無史さん
07/04/09 18:32:44
>>165 155~160のレス主の古代史に対する知識の、程度の低さを立証してみたい。
ほざけ!!!

>>7 「日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。」

この指摘は、次のとおり明らかに完璧に100%間違っています。
  蘇我馬子が大臣になったのは572年(敏達元年)
  自分で迹見檮(=迹見首赤檮?)と押坂彦人のことに触れ、それを重視しているが、それは587年(用明2年)

このことは、何度も指摘されています。
これについても何も説明しようとしないのは、自説の欠陥を認めるているということですか?

>>1 「この説に対する批評、意見を広く求めます。」
と望んだ以上、きちんと説明する責任があります。

無責任な気持ちでいるのなら、このスレッドを閉じて欲しい。

183:日本@名無史さん
07/04/09 18:35:39
自説で想定する系図を早く見せないのは無責任です。
話題を変えて、議論から逃げ回ってぐずぐずしてるから、どんどん系図の条件が多くなっています。

あなたには、
 馬子=押坂彦人 (別名)、かつ、
 馬子=蘇我蝦夷と舒明天皇と厩戸皇子の親、かつ、
 馬子=スサノヲ (正体)、かつ、
 蘇我氏は木満致の子孫で百済系、かつ、
 蘇我氏は葛城系、かつ、
 天皇及び主要な皇子、姫、臣下を記載、かつ、
 日本書紀等に照らして「疑問も矛盾もない」
という系図を見せる責任があります。

皇統の系譜が替わったという説なのですから、系譜・系図はとても重要です。
というより核心です。
どれだけ複雑になろうと、日本書紀等の記述と照らし合わせることが可能なレベルの詳細さが求められるのは、当然のことです。

無責任な気持ちでいるのなら、このスレッドを閉じて欲しい。

184:衣笠宮
07/04/09 20:08:48
広瀬様
かなり苦戦されていますね。

皆さんから系図を出せと言われていますが、
あなたの説の通り蘇我馬子=押坂彦人大兄皇子であるなら、
正史では馬子の姪となっている推古天皇が叔母になって
しまいます。入れ替わりだから関係ないと言われるかも
知れませんが馬子の世代が2世代若くなってしまうわけです。
これはどう言うことかおわかりですか?
それと石舞台古墳は一体誰のお墓なのですか?
まさか皇祖様の墓があんな状態で放置されませんよね!

185:広瀬満
07/04/09 21:08:04
>>184
私が主張しているのは押坂彦人大兄皇子が敏達天皇の子ではなく
蘇我稲目の子の蘇我馬子と同一人物だということです。
従いまして推古天皇と蘇我馬子との関係は変わりません。

石舞台古墳は蘇我蝦夷の墓だと考えています。

広瀬満



186:日本@名無史さん
07/04/09 21:21:05
なかなか良スレだな。
>>1は無茶苦茶なんだろうけど、反論してる人がいい。
色々勉強になる。
オレは専門じゃないし日本書紀の原文にはあたったことがない素人さんだけどね。

ということで>>1も引き立て役としてトンデモ電波流し続けてください

187:衣笠宮
07/04/09 22:48:40
>>185
私が主張しているのは押坂彦人大兄皇子が敏達天皇の子ではなく
蘇我稲目の子の蘇我馬子と同一人物だということです。
従いまして推古天皇と蘇我馬子との関係は変わりません。

広瀬様
同じことなんですよ。馬子の世代が2代若くなるんですよ。
姉の蘇我堅塩姫の曾孫にあたる皇極天皇が、息子の舒明天皇
(蘇我馬子=押坂彦人大兄皇子説を採用すれば)の皇后でしょ。
(それもひとつ違いの..)やはり2世代ずれちゃうんですよ。
その手の矛盾は、調べればいくらでも出てくると思いますよ。

また舒明天皇は姉もしくは妹の蘇我法提郎媛との間に
古人大兄皇子をもうけたことになるよ。あなたが押坂彦人大兄
皇子の疑惑でしきりに指摘されている姉妹との婚姻ですよ。
どだいあなたの説には無理があるんですよ!
系図がなりたたないんですよ!
だから皆さんから系図を出せと言われているのですよ!!


188:衣笠宮
07/04/09 22:50:32
>>185
私が主張しているのは押坂彦人大兄皇子が敏達天皇の子ではなく
蘇我稲目の子の蘇我馬子と同一人物だということです。
従いまして推古天皇と蘇我馬子との関係は変わりません。

広瀬様
同じことなんですよ。馬子の世代が2代若くなるんですよ。
姉の蘇我堅塩姫の曾孫にあたる皇極天皇が、息子の舒明天皇
(蘇我馬子=押坂彦人大兄皇子説を採用すれば)の皇后でしょ。
(それもひとつ違いの..)やはり2世代ずれちゃうんですよ。
その手の矛盾は、調べればいくらでも出てくると思いますよ。

また舒明天皇は姉もしくは妹の蘇我法提郎媛との間に
古人大兄皇子をもうけたことになるよ。あなたが押坂彦人大兄
皇子の疑惑でしきりに指摘されている姉妹との婚姻ですよ。
どだいあなたの説には無理があるんですよ!
系図がなりたたないんですよ!
だから皆さんから系図を出せと言われているのですよ!!


189:日本@名無史さん
07/04/10 06:00:15
おちつけ

190:日本@名無史さん
07/04/10 10:39:37
>>165 155~160のレス主の古代史に対する知識の、程度の低さを立証してみたい

「知識が乏しい・少ない」や「知識が誤っている」という批判ならその言葉の意味を理解できますが、
「知識の程度が低い」とはどういう意味か理解しがたい。 「程度」とは?
差別的な意識の表れであるなら、誹謗・中傷ということになりますよ。

「程度が高い」ということが「知識が豊富で専門的」という意味であるなら、そして、
そういう人だけ相手にしたいなら、学会などへ行くべきです。
2chを誤解していませんか?

>>1の「この説に対する批評、意見を広く求めます。」は嘘っぱちですか?

191:日本@名無史さん
07/04/10 10:42:26
>>7 「日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。」

この指摘は、次のとおり明らかに完璧に100%間違っています。
  蘇我馬子が大臣になったのは572年(敏達元年)
  自分で迹見檮(=迹見首赤檮?)と押坂彦人のことに触れ、それを重視しているが、それは587年(用明2年)

このことは、何度も指摘されています。
これについても何も説明しようとしないのは、自説の欠陥を認めるているということですか?

>>1 「この説に対する批評、意見を広く求めます。」
と望んだ以上、きちんと説明する責任があります。

無責任な気持ちでいるのなら、このスレッドを閉じて欲しい。

192:日本@名無史さん
07/04/10 10:46:57
>>148 では、地震があった時、元正~舒明の天皇陵の調査を命じたと推論(?)し、それを根拠に、「皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた」と主張しています。

あたたの説において歴史書(あるいはその写本)を捏造するほど大切な「皇祖」様であるはずの馬子=押坂彦人の山陵は、何故放置されたのでしょう?
皇祖の山陵が調査もされずに放置されたことに、何の疑問も疑惑も抱かないということを、自分自身で矛盾とは思わないのですか?

193:日本@名無史さん
07/04/10 10:49:57
>>165 155~160のレス主の古代史に対する知識の、程度の低さを立証してみたい

自説の程度が低いから、批判の程度も低くなるのでしょう。
(陰謀論やトンデモ説としてもかなり程度の低いこんなB級陰謀論・C級トンデモ説を、まっとうな人は相手にしませんので。)

一般に、豊富な知識がなくても、批判をすることができる場合があります。
ましてや、枝葉末節・重箱の隅を突付くような知識がなくても、批判はできます。
例えば、
  >>191 では、重大な事実誤認があります。  (まさに、「知識の程度」が低い)
  >>192 では、論旨に著しい矛盾があります。 (枝葉末節・重箱の隅を突付くうちに、本来の結論を見失うという失態)

>>1の「この説に対する批評、意見を広く求めます。」は嘘っぱちですか?

194:日本@名無史さん
07/04/10 12:25:37
蘇我稲目は継体天皇と近江からきたって説あったな

195:日本@名無史さん
07/04/10 13:58:30
>>166 全く書かれてもいないことを自分の主張の根拠にしてどうする

それが分かっていながら、日本書紀等に全く書かれていないことだらけの、こんなC級トンデモ説に、何故固執するのやら。

196:日本@名無史さん
07/04/10 14:03:15
>>166 地震後に陵戸などから被害の報告があったというようなことは書かれていない。・・・全く書かれてもいないことを自分の主張の根拠にしてどうする。

日本書紀や続日本紀等は当時の人々にとって当たり前のことはいちいち書くとは限らない。(書くこともあれば書かないこともある。)

例えば、
法隆寺について、天智9年の消失の記述はあるが、再建の記述がないという例は、とても有名。
当時の人々にとって消失した法隆寺を再建することは当たり前すぎることだったのだろう。

例2
推古十六年に小野妹子が裴世清を伴って筑紫に帰ってきたとき、その迎えに難波吉士雄成が派遣される。
小野妹子と裴世清が筑紫へ来たことを、大和の人々はどうやって迅速に知ったのであろうか?
おそらく、筑紫から大和へ誰かが報告に行ったのであろう。
日本書紀では、当たり前すぎて、そのことを書いていないのだ。

しかし、日本書紀に書いていないから、
「報告はなかった」
と断定し、それを根拠に
小野妹子はテレパイシーを使えたとか、小野妹子と厩戸皇子(=聖徳太子)は心が通じ合っていたなどの説を主張したら、阿呆だろ。

続日本紀では、太宰府から報告があったといった記述は稀に見かけるが、役人の報告をすべて載せているわけではない。
ましてや陵戸のように位の低い役人からの報告など、記載がなくても不思議はない。

197:日本@名無史さん
07/04/10 14:07:42
>>196 (おまけ)
なお、この「書かれてないから事実もなかった」論に関連して、トンデモの世界では俗に「悪魔の証明」と呼ばれるような水掛け論を呼ぶことがある。
しかし、本来は、常識的な判断をするものであろう。

書かれていないことでも、
例えば、厩戸皇子(=聖徳太子)は『聖徳太子絵伝』では空を飛ぶが、日本書紀ではそのような記述はない。
日本書紀に書かれていないので、『絵伝』の伝承とは異なり、聖徳太子は空を飛ばなかったのであろう。
これは常識的な判断である。

書かれていないことでも、
法隆寺は再建され、小野妹子の一行の中の誰か又は筑紫の役人の誰かが大和へ報告に向かったのであろう。
これも常識的な判断である。

陵戸についていえば、山陵の管理が職務なのであるから、自分の手に負えないような大きな地震被害があれば、報告するのが責務と考えるのが、常識的な判断である。

198:日本@名無史さん
07/04/10 14:15:35
>>166 地震後に陵戸などから被害の報告があったというようなことは書かれていない。

実は、修陵を行ったと言うことも書かれていない。
広瀬氏の主張に基づけば、山陵の被害を調査したが、壊れていることを発見しても放置したと言わざるを得ない。
何のための調査なのだ?

広瀬説 = 壊れた山陵は放置

(自爆というべきか、ブーメランというべきか、・・・トホホ)

199:日本@名無史さん
07/04/10 14:57:08
>>187 188 衣笠宮さん ご指摘のとおりだと思います。

大王家と蘇我家との間で系譜が複雑に絡み合うところで、系譜上の粗略なトンデモ説を展開するところに、この説の愚かさがあると思います。
昔から、崇神、応神、継体などのところで、王権、王朝又は系譜が代わったという説はありますが、これらの時期は、確かに系譜や事績等の継続性が低い時期で、日本書紀の記述のごくごく一部を「誤り」とすれば成り立つ説です。

しかし、このスレの説では、日本書紀の記述の多くを「誤り」としなければ成り立ちません。

枝葉末節の重箱の隅を突付くような疑問・疑惑・矛盾をほんの数件だけ解消するために、
それよりも重大で深刻かつ致命的な疑問・疑惑・矛盾を莫大に発生させるのが、この説です。
矛盾が増幅してしまうのです。

これが、トンデモ説の本性なのでしょうか。

【トンデモ説とは、矛盾の増幅装置なり】

う~~~ん、勉強になります。

200:日本@名無史さん
07/04/10 16:06:52
 明治天皇は南朝系(日本人)の大室寅之助だが、その子が大正天皇でこの天皇はき
ちがいにされて、また北朝系(朝鮮人)の昭和天皇にすり替ったのである。
 日本に渡来した秦一族(フリーメーソン)
 秦の始皇帝は日本に自生する不老長寿の薬草を求めるために、徐福を派遣したと
あるが、本当は日本の優れた神書(天皇記など)を盗み出す事が目的であった。焚
書抗儒は日本の神書をあたかも中国の書物であるかのように書き直し、その神書を
焼却し、作業に関わった儒者を生き埋めにした事件である。四書五経、東洋医学は
日本文化の精華なのです。
 白鳳時代、朝鮮人(秦一族)の蘇我氏(フリーメーソン)によって日本は乗っ取
られ、日本の国体、神道破壊の計略にかかり、神代文字の古文献は改ざんされ、悪
魔の仏教に汚染された。
 蘇我氏(中大兄皇子は百済皇子豊璋)は政敵物部氏を滅ぼし、大化の改新によっ
て聖徳天皇(聖徳太子)を暗殺し(聖徳太子は蘇我氏の血筋ではない。高貴な天皇
家が朝鮮人を妻にしない)、蘇我氏は悪名が広がったので藤原氏と改名し、日本の
政治を牛耳った。麿と言う言葉は日本語と馴染みがなく、朝鮮王家の人が使した王
(自分)と言う意味である。
 藤原氏は藤の生命力をめでて、家紋とした。斎藤道三、木下藤吉郎・秀吉、細川
藤孝、徳川家康はフリーメーソンである。
 家康の正体は世良田元信で、松平元康を殺し元康に化けた。元康の嫡男、信康と
その妻築山殿は邪魔になり殺された。
 徳川家康は岡崎で産れたのだから、岡崎に霊廟(東照宮)を建てるのが筋である。
 寛永21年家光は上野国新田郡世良田庄の長楽寺隣に日光東照宮の奥殿(実は遺骨)
を移築して世良田東照宮を建てた。
 ここを中心にして、東北(表鬼門)に日光東照宮があり、南西(裏鬼門)に久能
山東照宮がある。と言うことは、世良田庄を鬼門の金神の祟りから護る為の呪術を
施した事になり、徳川家康は世良元信である事の証拠となる。


201:日本@名無史さん
07/04/10 16:14:56
明治維新にまつわる陰謀をあばく
 1853年米国ペリー提督は日本を占領するために来航し、国富を略奪する
ための日米修好通商条約を締結させた。この不平等な条約によって、日本の金
貨を同量の銀貨と交換出来る様になり、米国はその金貨を外国で大量の銀貨に
換え、それをまた日本の金貨と交換して限りない利益を得たのです。幕府は金
の流失を防ぐため、金の含有量を少なくした金貨を鋳造したために、金貨の価
値が減り物価が高騰して、庶民を苦しめた。欧米諸国は日本を侵略するために、
幕府と革命軍に軍備を貸して、互いに戦わせ弱ってから支配すると言う漁夫の
利を得る作戦を企てた。これはフリーメーソンの陰謀である。革命軍を指導し
たのが米国人フルベッキで、武器を調達したのが英国商人グラバーである。
 坂本竜馬はこの陰謀を悟って、大政奉還によって同士討ちを防いだのです。
これによって、フリーメーソンの恨みを買い暗殺された。
 ここに「倒幕リーダーの歴史的結集」と記された写真がある。フルベッキを中
心にして、倒幕の英雄が写っているが、坂本竜馬などの著名人の顔が周知のも
のと違うのは、フリーメーソンが陰謀を隠すための捏造の手段である。中央で
刀を抱いているのは、後に明治天皇に摩り替った大室寅之祐で、左端に立って
いるのは後に竜馬に化けた勝海舟で、頬骨が尖った特徴的な顔の人は横井小南
で、調査するとこの写真は本物と認めざるを得ない。幕府のお尋ね者で偽名を
使って逃げている者が、自家の家紋の紋付の着物を着る訳がない。フリーメー
ソンと結託した土佐藩が竜馬を暗殺後、海舟が竜馬に化けて写った写真が巷に
広まったのです。
 坂本竜馬は明智光秀の一族明智秀満の子孫で、家紋は違い桁に桔梗である。
日本霊異記は言う。長屋親王の骨が土佐に流れ着いて祟りをなして農民が死ん
だとある。光秀は長屋親王の子孫であり、こうした因縁によって、秀満が土佐
に移り住むことになったのである。
 竜馬が滑稽な手紙を書いて乙女姉を笑わせたり、国家を論ずる時に、男女の
卑俗な機微を喩え話の猥談にして、三条実美卿を大笑いさせた等の話は、戯曲
師が話を面白くする為に装飾したもので、誠実な竜馬が冗談など言わない。




202:日本@名無史さん
07/04/10 16:46:02
作った人間の頭の程度が判る物語であり
ここはその見本市ですか?

203:日本@名無史さん
07/04/10 18:22:41
(天平六年)夏四月
戊戌。地大震。壤天下百姓廬舍。壓死者多。山崩川壅。地往往坼裂不可勝數。
癸夘。遣使畿内七道諸國。檢看被地震神社。
戊申。詔曰。今月七日地震殊常。恐動山陵。宜遣諸王眞人。副土師宿祢一人。檢看諱所八處及有功王之墓。
又詔曰。地震之災恐由政事有闕。凡厥庶寮勉理職事。自今以後。若不改勵。隨其状迹。必將貶黜焉。

3行目は、凡そ次のような意味となろう。
詔して曰く。「今月7日の地震は普通ではなかった。恐らく山陵も動いて(壊れて)いるであろう。諸王又は眞人を派遣して、土師宿祢を一人従わせて、天皇陵8箇所と功のあった王の墓を調査させる。」

204:日本@名無史さん
07/04/10 18:27:55
>>203 (続き)
スレの説では、天皇陵8箇所が、聖武から遡って天皇陵8代分とすると、重祚や合葬もあるので、元正~舒明となるので、舒明天皇以降が新王朝だった。

しかし、歴史書やその写本を改竄するほどに、このスレにとって最も重要な、皇祖(=馬子=押坂彦人)の山陵は調査しないで放置となる。
これは、重大矛盾で論理破綻で説崩壊!

そこで、「功のあった王」の一人が押坂彦人(=皇祖)と考えるのはどうか?
一見つじつまは合うように思えたが、やはりダメだ。
かつて「皇祖大兄」と呼んでいたのに(>>14)、しかも歴史書やその写本を改竄しほうだいのはずなのに(>>165)、
ただの「王」に格下げした記述とするのは珍妙で重大矛盾で論理破綻で説崩壊!

そのうえ、広瀬流は、「全く書かれてもいないことを自分の主張の根拠にしてどうする」(>>166)とケナスので、
a 「功のあった王」が押坂彦人であるとは書かれていない。
b そもそも天皇陵8箇所も元正~舒明とは書かれていない。
c しかも、調査しただけで、修陵したとは書かれていない。壊れたまま、放置!! 
  調査に派遣された者たちは、「見てるだけ~~~」

アホらしか。

205:広瀬満
07/04/10 20:41:28
押坂彦人大兄皇子にまつわる疑惑
 
 このスレッドでは天智天皇の祖父の押坂彦人大兄皇子(彦人大兄)が蘇我馬子の別名、
すなわち彦人大兄と馬子が同一人物であることを論証しているが初めてこのスレッドを見た方もおられると思うので
ここでは改めて押坂彦人大兄皇子にまつわる数々の疑惑を列挙しておきたい。

 また彦人大兄と馬子が同一人物ということは天皇家は推古天皇と舒明天皇の間で皇統が切り替わっていたことになる。
このことは「日本書紀」等の記述からも伺えるので合わせて紹介しておきたい。

        
●彦人大兄が敏達天皇の皇子であることの疑惑

1、彦人大兄は敏達天皇と皇后の第一子で太子とされていたのに敏達天皇や用明天皇の崩御後、なぜ即位しなかったのか。

2、彦人大兄の后は糠手姫皇女、大俣王、桜井弓張皇女、小墾田皇女の4人であるがこの内、糠手姫皇女、桜井弓張皇女、小墾田皇女は敏達天皇の娘である。
従って彦人大兄が自分の妹を3人も后にしているのは何とも異常である。この時代、自分の妹を娶った例はいくつかあるがそれは皇后、正后の一人に限られている。
3人も后にした例はなくその理由も説明がつかない。

3、皇統譜上、彦人大兄は極めて重要な人物でありながら没年についての記載がない。一方天智天皇の祖母の薨去についての記載は存在する。

4、大化2年(646)3月の詔に「皇祖大兄」とあり、それに「彦人大兄をいう」の註が付けられている。
彦人大兄は「皇祖大兄」とも呼ばれていた。父が天皇なのになぜ彼は皇祖と呼ばれていたのか。

5、『延喜式』には彦人大兄の墓についての記載があるがその墓域の広さは東西15町、南北20町と尋常ではない大きさである。
これは『延喜式』では最大の大きさである。父の敏達天皇が東西3町、南北3町、天皇としては最も大きい天智天皇でも東西14町、南北14町にすぎない。
即位したわけでもないのになぜこのように大きいのか。


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