07/07/04 16:09:25
>>367を校正しました。
スレ主には・・常識が全く欠けているからレスの内容はピント外れで揚げ足取りのような内容にしかなっていない。
このスレを私物化しているのは罵詈雑言のようなレスを次々に書き込んでいるスレ主・・である。
このスレ主は一体どのような頭の構造をしているのであろうか。
408:日本@名無史さん
07/07/04 16:11:48
スレ主よ!
他人を罵倒するだけでなく、中身のある反論はできないのか?
駄洒落以外で、蘇我満智=木満致 を説明しろよ。
409:広瀬満
07/07/04 20:21:45
>>407
>>408
382と同文
410:日本@名無史さん
07/07/04 21:23:20
スレ主は完全敗北を認めました
411:日本@名無史さん
07/07/05 09:43:55
お薬とお酒はいっしょに飲んでは駄目よ
412:日本@名無史さん
07/07/05 09:49:34
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
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●●●●●●●●●●●●●●●●不合格●●●●●●●●●●●●●●●●●
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●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
これを見た人は確実に【不合格】になります。どこかに3回コピペすれば回避できます。
これは本当です。やらないと一年無駄になります
413:日本@名無史さん
07/07/05 09:50:02
そういう簡単な話ではないぞ
414:日本@名無史さん
07/07/05 11:28:26
>>382 そもそもここは「学問・文系」の学術的な板である。
こらこら、言葉のスリカエは汚いぞ。
「学問」は小学生でもやるし素人も参加するが、「学術」は専門の者が行うし資格を問われる分野もある。
ここは学問・文系板であるので、素人でも参加できるよう、議論のために「相手の著述に一通り目を通す」ような義務を課すべきではない。
>>382 ここは私が設定した板(郷)である。
勝手に自分の郷にするな。
自分のルールでやりたいなら、自分のサイトでやれってのが、理解できんのか?
>>384 勝手に人のスペースでスレ立てといて何言ってるんだ?まるで戦後のドサクサに紛れて土地を不法占有した朝鮮人みたいだな
そのとおり。しかし、それが理解できない知能レベルらしい。(>>385)
415:日本@名無史さん
07/07/05 11:29:17
スレ主よ!
他人を罵倒するだけでなく、中身のある反論はできないのか?
駄洒落以外で、蘇我満智=木満致 を説明しろよ。
416:日本@名無史さん
07/07/05 12:26:26
>>382
> >>379
> この答えは私のHPをチェックすればすべて載っている。
それがウソでないなら、具体的に回答をここに書いたらどうなのだ。
HPの記載箇所へのリンク付きでな。
(ウソつき!)
417:広瀬満
07/07/05 17:40:30
>>416
そのぐらい自分で探したら。あまのじゃくじゃあるまいし。
アドレスも公開してある。
URLリンク(www.kojikiden.com)
広瀬満
418:日本@名無史さん
07/07/05 17:46:55
>>417
書いてないからそういうゴマカシになるのだろう。
少しでも良心があるのなら、まともに回答してみろよ。
>自分で探したら
私があなたに命令されるいわれはない。
本当に常識のないカスだな。
あなたは、「この説に対する批評、意見を広く求めます。(>>1)」という以上、
というよりそもそもスレを立てた以上、質問に誠実に答える責任がある。
本当に無責任なカスだな。
419:日本@名無史さん
07/07/05 17:56:10
とりあえず、>>379 の答えは?
a 石舞台に蝦夷は葬られたのかどうなのか?
b 葬られたとしたら、それは誰が行ったのか?
c 葬られたとしたら、何故、高松塚も蝦夷の墓なのか?
(どうせ行き当たりばったりで、何も考えていなくて答えに窮しそうだから、拝み墓or分骨or改葬と、ヒントまで親切に書いてあげたのに。)
d 石舞台はなぜ石室がむき出しなのか?
これの答えがHPのどこに書いてあるのだ。
記載箇所が特定できる形で答えてみろ。
ただし、ここのものを単発で答えるだけでは不十分で、aからdまで全体として矛盾のない回答でなければダメだぞ。
420:日本@名無史さん
07/07/05 18:02:47
>>419(続き)
早く示せ!!!
この件は、あなたは、>>382、>>409、>>417 と既に3度もレスしている。
よもや未確認ではあるまい。
HPの記載箇所はすぐに示せるだろう。
早くしろ、早く!
ウソじゃないなら、とっとと記載箇所を示せ!
できなきゃ、ウソ認定な。ウソツキ認定な。
421:日本@名無史さん
07/07/05 18:07:27
これで終わったと思うなよ。
未回答の宿題が山のようにあるのだからな。
次々いくから、誠実に答えるのだぞ。
>>419-420は? 早くしろ、早く!
422:日本@名無史さん
07/07/07 19:21:29
/ ヽ、_
/ / ヽ
/ / /| l \
/ / | | ゙、 l ヽ,
/ / \ヽ, ヽ.ヽ.ヽ.ヽ_ ヽ i
/ | ヽ; _ ヽ_ヽ._ヽ_ヽ \ヾ、 |
| | ` `ー-、ヽ丶 |
! | ` ̄`ー、 |
|. | `ヽ |
. i | | |
| _ | | /
/ _ヾ|  ̄ニニニニニ、ヽ r'''',ニニニ二二 | ´`j
| i )| ヽ. _`'゚'´_ _ノ i ヽ._ _`'゚'´_ ,ノ | 人, |
i ヾ ( | ,  ̄ ,'i  ̄ . | !)/
ヽヽ | ' ´ ! ; ヽ | ノ /
゙、ヽ! i リ /!
|ヽ-! / / 丶 ヽ /_/ |
| ヽ ヽ-、 , -‐' /´! | ______
ヽ| ヽ `ー ‐' / リ / |
ヽ|| ヽ ー‐‐‐-‐‐‐一 / i i/ < 歴史は繰り返す
ヽ.| ヽ - - - - / | j/ |______
| ヽ , / |´
_/ ヽ ' / !_
/ `ー、_ \ _____ / _, -' ヽ
/ `ー 、 _ _ _ _,- ‐'´ ヽ
423:日本@名無史さん
07/07/07 21:56:51
木満致のことだけども
田中本応神紀ではただの木満致
それ以降の写本はすべて大倭木満致
これって改ざん?
それとも田中本の誤写?
424:え?
07/07/08 03:31:10
確かに蘇我氏は大王家だろう
安閑帝-豊彦王(蘇我稲目)-馬子-蝦夷-入鹿
425:日本@名無史さん
07/07/08 07:21:46
>424
またまたとんでも説やろうが来たなw
426:広瀬満
07/07/08 18:37:07
田中本の誤写ではないでしょう。
改竄でしょう。
427:日本@名無史さん
07/07/09 02:15:32
この板で意見を求めといて自分のホームページに書いてあるってのはおかしいのではないでしょうか?
皆さん質問してるのだからここで、
『ここで』答えて下さい。よろしくお願いします。
428:広瀬満
07/07/11 19:34:12
>>427
418-421と同じレス主でしょ。
答えは同じ。
429:日本@名無史さん
07/07/13 19:21:47
孝元天皇の末裔・武内宿禰後胤の傍流である蘇我氏が権力を承諾できたのは
武内宿禰後胤の嫡流である葛城氏が謀反が原因で最大の要因だろう?
蘇我氏の領地と葛城氏の領地がもろダブル。
最近、外国で出版された天皇家・ヤマト王権の本に
蘇我氏は300年間、権勢を振るっていたと書いてあるから
おそらく、武内宿禰からカウントしたんだと思う。
武内宿禰の祖父・彦太忍信命の支配領域は
後の武内氏~葛城氏~蘇我氏と子孫に受け継がれている。
430:日本@名無史さん
07/07/15 16:14:49
万世一系って言うけど、継体天皇のときに王朝は変わったという説もあるよね。
431:日本@名無史さん
07/07/15 19:17:12
継体は、臣籍降下してオキナガ氏を名乗っていたっぽい感じはする。
今で例えるなら、旧皇族を引っ張ってきたようなものかと。
厳密な意味ではアウトかもしれないが、
源氏に降下した人も天皇になっているし、よくあるようなことかと。
他には持統の子は危ないかなと。藤原不比等の子じゃないかと。
想像の域を出ないが。
後は、明治維新だよね。南朝系に移ったのかどうか。
432:日本@名無史さん
07/07/15 22:44:03
もうさすがに日本史では釣られないんではないだろうか
433:日本@名無史さん
07/07/21 18:03:33
欽明天皇以前の皇統譜と説話はほとんど信用しないほうがいい。
434:日本@名無史さん
07/07/22 19:41:03
?
435:日本@名無史さん
07/07/23 00:22:56
◆◆◆ネオ騎馬民族説◆◆◆
【江上】騎馬民族説は今。。。vol.8【波夫】
スレリンク(history板)
URLリンク(p2.chbox.jp)スレリンク(history板)all
532-533 560-562 564
436:ネオ騎馬民族説
07/07/23 00:23:43
高句麗と対抗する扶余は、崇神が任那に拠を構え、北部九州に侵攻。
そのため、大和は、邪馬台国以来の半島経由大陸ルートを喪失し、中国への使者派遣は不可能に。
扶余系連合国は、任那の鉄資源の直接輸入が必要となった大和と交易するようになる。
扶余は応神時代に中国地方を回避して海上ルートで河内に侵攻して王朝を形成。
しかし騎馬戦術が通用しにくい内陸盆地の大和への侵攻は困難だった。
続いて大和と半島を繋ぐ交通の要衝である吉備も屈服させた。
勢力を増して、高句麗と大規模の交戦を企てる一方、扶余河内を警戒する大和とも対立。
半島情勢が緊迫する状況で、中国との連係を模索する外交を試みた結果が、
いわゆる倭の上表文である。
しかし思うように半島での苦戦を打開できず、高句麗に半島から駆逐されかねない情勢となった。
そのため扶余は外交革命と言うべき大和との連合を模索した。
その結果として生まれた扶倭連合王国の初代国王は扶余系大王・蘇我馬子だった。
そのお披露目も兼ねて、高句麗と対抗する中国へ使者が派遣されたが、
これが隋書倭国伝に記録されたところである。
当時の倭国王は女帝の推古天皇とされたが、記録には「多利思比孤」と言う名の男王である。
これは、本当の国王・蘇我馬子を指しているためである。
蘇我氏が自らを大王と称し、一族の邸宅を「上の宮門」「谷の宮門」と呼び、
「国記」「天皇記」を史書として残していたとされることからもそれは明らかである。
藤ノ木古墳などは蘇我稲目の墓である。以下、キトラ古墳、高松塚なども蘇我氏系であろう。
蘇我一族は、扶余系一族として、百済で普及してる外来仏教の普及にも努めたが、
こうした宗教文化上の対立もあり、倭人系豪族の激しい反発を招き、
倭人系・天智天皇がかつがれて、大化の改新という宮廷クーデターにより滅ぼされることとなった。
ここに、扶余王朝は、遂に倭人豪族によって簒奪される羽目となった。
437:436
07/07/23 00:24:19
今日の天皇家の直接の祖先は天武(及び天智系の血統の)天皇であり、
彼に都合よく歴史(記紀)が記載されることとなったことは改めて言うまでもない。
魏志倭人伝や隋書倭国伝など中国の歴史書、そして蘇我氏の国記・天皇記や、
天智天皇系の帝紀など、あらゆる歴史書を矛盾なくつなぎ合わせようと図った結果、
邪馬台国・卑弥呼は天照大神となり、
自らの系図を、そこから続く一系の系譜であると天武天皇は主張したのである。
一方、歴史を粉飾する際には、その中での蘇我氏の業績は無視するにはあまりに巨大であり、
そこで蘇我氏を悪人と描く一方、その優れた業績は別人格に分離した架空の人物・聖徳太子に
仮託し、聖徳太子という存在を合理化する目的で、推古天皇を仮の“女帝”だと偽装して、
「摂政」を捏造したわけである。。女帝が初めて“誕生”したのはそのような事情からである。
また国記・天皇記に記された、応神天皇など、河内王朝の存在は、
その巨大古墳が存することからも無視し去ることは困難で、
やむなく扶余河内王朝も強引に飲み込んだが、さすがに吉備の大古墳はほぼ無視するより他なかった。
こうした結果として、記紀には、高句麗王伝説などの扶余系神話に類似するエピソードや修辞など
が含まれることとなったが、これは扶余系蘇我氏の国記・天皇記の影響である。
扶余族の任那から九州、河内への東遷の歴史は、
時系列上の都合から、邪馬台国(高天原)と大和とをつなぐ神話時代の記録として
切り離され、神武神話になったものと思われる。
いわゆる神武以前にニギハヤヒという天孫が何故か既に存在していたが、
これは壬申の乱で大友皇子と天武天皇が対立したことを描いたものであり、
天武が勝利して飛鳥浄御原宮で即位するまでの経緯は、
神武がナガスネヒコを降し橿原宮で即位するまでに相当しており、
ニギハヤが天智、ナガスネヒコが大友皇子にあたると考えられる。
すなわち、神武の神話は、崇神から応神、天智から天武に至るまでの歴史を
神話風に叙述したものと見ることが出来よう。
438:436
07/07/23 00:24:50
元々、倭国には専制的な支配者は存在しなかったと思われる。魏志倭人伝でも、邪馬台国を盟主とする
ゆるやかな共同体連合があって、その祭司者として卑弥呼がいただけだ。
そこから同笵鏡とか配って各地の共同体の首長とが非・支配被支配の盟約関係を結んでいた。
倭国の領域は大和から九州、対馬を経て、朝鮮半島南端まで広がっていたと思われる。
もともと絶対王権の存在しなかったところに、大陸的な専制支配体制を体現した扶余が侵攻してきたわけだ。
中国のような長い歴史のある文明ですら、その王朝の出自はほとんどが北方民族なんだから、
日本とて例外ではなく、本来、農耕民族には、そうした王権を形成する文化的背景が無かったのだろう。
王権は馬にまたがってやってきたのである。その扶余王朝ですら一系のものではなく、それぞれ別個に
日本列島に進出してきたものではないだろうか。ちょうど朝鮮半島が高句麗・百済・新羅に分立してるような
イメージだ。たとえばイリ王朝とかタラシ王朝とかワケ王朝という区分があるけれど、
崇神(イリ王朝)と応神(ワケ王朝)とは、そもそも別個の王朝で、
崇神が九州を陥落させ、それとは別に応神が河内に侵攻、ずっとのちに継体が大和へ潜入を試みて阻止された。
この場合、おそらく血統の断絶が、新たな扶余の進出をもたらしたとも考えられる。
だから、継体が応神の五世孫だというのは事実だとは言えず、実際には百済王家から見繕って
日本海ルートででも連れてこられたものにすぎないだろう。
騎馬民族と言えど、当時の拙いレベルの海上輸送では、敵前上陸を果たすほどの戦闘能力はなく、
九州に侵攻する時には、一旦出雲を押さえて、そこから北部九州という具合に段階を踏んでるのが、
天孫降臨神話の出雲と筑紫の順になってて、次が河内になってるのも、中国地方の制圧がそれほど容易では
なかったため、交通の便がよく、かつ軍事的真空地帯だった河内が選択されたのだろう。
だから地形上の理由から、大和には簡単に攻め入ることは不可能だったと考えられる。
439:436
07/07/23 00:25:50
よって、騎馬王朝を作った時点でも、倭国王として中国に上表文を出してはいるが、
実際には一地方のおける王権でしかない。勝手に「倭国王」を名乗ってるだけで、
東には大和がれっきと存在している。いまだ倭国で広汎にその王位を容認されたわけでもない継体に対して、
日本生まれの百済王・武寧王がいち早く鏡を贈ってるが、これも扶余族内の馴れ合いみたいなものだ。
倭国全体で見るなら、大王なるものは、ちょうど日本の戦国時代をイメージしてみた場合に、
各地の大名に相当してるにすぎず、諸国が分立して存在してるわけだ。
そして継体の頃前後に、倭風に染めて、大和との本格的な国家連合を模索したものの、
当時の大和はある種の祭司集団としての合議体のような組織だったのだろう、
絶対的な王権は未だ存在せず(幹事役みたいなものはいただろうが)
その中の有力氏族の一つとして扶余も仲間入りするようになった。
その後、扶余百済との関係にもとづいての交易への便宜により、扶余族の蘇我氏が台頭し始めたと思われる。
だから蘇我氏が大王と称するようになったのは、必ずしも王権を奪取したのではなく、
もともとそこに存在しなかった絶対王権を、扶余族の文化体系の中から持ち込んで新たに創出したことによる。
そこに悲劇の源があった。もともと仲好しクラブだったものを、完璧な序列体制に再構築して、
その頂点に自分が立った時に、滅亡への導火線が敷かれたのである。そして仏教導入などの急進的な
改革が点火に至らせることになった。
これはちょうど戦国時代に天下統一を果たす間際まできた織田信長が本能寺の変で部下の明智光秀に事実上、
誅殺されたのに似ている。炎の中で自刃した最後は、入鹿が殺害され、蝦夷が火を放って自殺したのと瓜二つだ。
しかし扶余蘇我氏がもたらした変革は、倭国社会に不可逆的な文化的変質をもたらした。
その最たるものが王権であり、蘇我氏の権力体系を、その後独自に咀嚼して吸収した結果生まれたものが、
「天皇」という称号であって、それゆえ厳密な意味における日本の初代天皇は、記紀を編纂させた天武天皇だと
言える。「天」の文字がともについてる天智は、万世一系の血統を主張する上での便宜的な“初代”天皇だ。
440:436
07/07/23 00:32:28
こうした文脈で王権の歴史を再検証すると、神話上の天皇は別として、
崇神から倭の五王などは勝手大王であって、地方権力者にすぎない。
蘇我氏は自称国王ではあるが、惜しいところまで行ったものの天皇にはなれてない。出が悪かったからだ。
戦国時代でたとえるなら、いわゆる大王は大名に相当し、国王は関白、天皇が征夷大将軍にあたると言える。
崇神やら倭の五王は諸大名で、蘇我氏は織田信長及び秀吉、天智が明智光秀及び秀吉、大友皇子が
秀吉、天武が徳川家康で、大化の改新が本能寺の変、壬申の乱が関ヶ原の戦いだと言えよう。
もともと大化の改新はその信憑性が疑われていたが、にもかかわらずそこまで大仰に記されてる以上、
易姓革命に匹敵するほどの大事件だったと思われ、そのため単なるクーデター以上の意味を持っている。
それは扶余王朝とその専制支配体制の成立を阻止して倭人王朝を創出させた大革命だったわけである。
その後、万世一系の思想を普及させて、王権の永続性を保証しようと、歴史書の編纂に乗り出したが、
その際には全く別系統だった、崇神を始祖とするイリ王朝や応神の河内王朝などを全部つなぎあわせて
一系の王朝に仕立て上げたわけだ。
邪馬台国以来の大和には古来から大王は存在してなかったし、記録すらなかったはずだ。
よって、そこには扶余族の大王の系図をそのままあてはめたのだと思われる。だから仁徳天皇が
善政だったか悪政だったかはまるで見知らぬことだし、実際のとこどうでもいいのである。
蘇我氏の天皇記・国記をそのまま使っただけだろう。
よって、天智から前の「天皇」は、実際には日本国天皇ではないものを、
後から勝手に歴史編纂の都合により認定されたすぎないわけで、当然、崇神も応神も「天皇」ではない。
また天孫降臨、神武神話などを年代を遡上させて盛り込んだ際には、当然、記紀編纂者である
天武天皇自らの業績も含めるだろうから、壬申の乱が神武とニギハヤヒの戦いになったのである。
高天原は天津神の住む場所だが、ある時は邪馬台国だし、別の時は朝鮮半島だ。
具体的な実態ではなく、地理的にかけ離れた場所を媒介してつなぎ、
そこから大いなる人物が降臨してくるという、抽象的な概念として創作されたものだと言える。
441:日本@名無史さん
07/08/01 17:47:42
??
442:日本@名無史さん
07/08/02 00:35:23
押坂(おっさかと発音、忍坂同じ)
奈良県の地名、現在の桜井市を中心とする。
三輪山の南、御破裂山(とうの峰)に東に位置する狭い盆地で、大和から西に向かう街道沿い。
雄略の朝倉宮、舒明の忍坂中陵、崇峻の倉梯宮、同倉梯岡陵を含む。
日本で1番古い地名とされる。
ちなみに、牧野古墳の石室は奈良県下でもっとも大きなものの1つとされ、崇峻の天王山古墳、
石舞台古墳、竹田皇子の陵の可能性が有る植山古墳の西室などと同じ設計とされている。
なお、これに匹敵するものとして、聖徳太子の太子廟、市尾基山古墳、見瀬丸山古墳、都塚古墳などがあり、
やや小ぶりなものとしては、与楽鑵子塚古墳、真弓鑵子塚古墳、乾城古墳などがある。
要するに、飛びぬけて大きいものではない。
もう一つ、牧野古墳は円墳で、蘇我系とされる方墳ではない。牧野古墳を持って来て、馬子説は無理でしょう。
443:日本@名無史さん
07/08/02 00:42:03
追記
刑部、忍壁は、おっさかの民をさし、おそらく土地人民ごと財産として支配されたのではないかと思われる。
押坂彦人王の名は、その支配者であることから来たと思われるが、この地域に蘇我の影はない。
444:& ◆avD0n.opAw
07/08/02 00:45:17
百濟 近蘇我王の子 蘇我馬子太子 宗像
445:広瀬満
07/08/02 19:42:03
>>442
蘇我系の墓を方墳とするその根拠を教えてほしい。
446:ぜにとこ平治
07/08/02 20:56:19
つまり、蘇我善徳(ぜんとこ)=聖徳太子=蘇我入鹿
という事でファイナルオッケー?
蘇我馬子の息子は豊浦大臣で、名を入鹿という、と資料にもあるし。
447:日本@名無史さん
07/08/02 23:10:28
>445
白石太一郎らが言ってる。、崇峻、用明、推古、孝徳とこの間の天皇陵はみな方墳。
白石の著作には殆ど書いてある。ただ、おいら自身は、これらの古墳が、天皇陵だから方墳なのか、
蘇我系だから方墳なのかはまだ考える余地があると思っている。
舒明以後は、八角墳となる。
ただ、こないだ今城塚の現地説明会で、後円部の三段目は方墳ではないかと言う話を聞いた。
こしこれが本当なら、継体は蘇我系ではないので方墳は蘇我氏とは関係ないことになる。
はやく結論を出してほしい。
448:日本@名無史さん
07/08/03 01:24:36
後円部の三段目が方墳? 何だソレ?
そんな話、初めて聞いたぞ。 新聞には載らなかったのか?
449:日本@名無史さん
07/08/03 11:51:24
テレビニュースでやってたはず。早く文献化してほしい。
それ聞いて、欽明天皇の墓だといわれる見瀬丸山古墳見てきた。
三段目は鉄条網で囲まれているけど、ラインが妙に直線的なのが気になった。
やっぱ、ちゃんと調査してみるべきだな。
450:日本@名無史さん
07/08/03 11:53:03
>>447
7世紀ころの蘇我系の有力者の墓 ⇒ 方墳 という説があるのであって、
すべての方墳 ⇒ 7世紀ころの蘇我系の墓 という説はないし、
すべての方墳 ⇒ 様々な時代の蘇我系の墓 という説もない。
必要条件と十分条件の違いをわきまえて欲しい。
ちなみに、方墳のサイズの全国ベスト10のうち、蘇我と関係ありそうなのは、春日向山古墳(5位、用明陵)と山田高塚古墳(6位、推古陵)ぐらい。
なお、竜角寺岩屋古墳(2位、千葉県)など関東の終末期の方墳について蘇我氏との関係を指摘する説もあるが、終末期で方形という以外に根拠は何もなく、方形(ほうけい)だから半島系(高句麗系)と主張する在日の方々と同程度のレベル。
451:日本@名無史さん
07/08/03 12:11:58
>>447-449
今城塚の後円部ではなく、前方部の上段が方形という説ではないのか?
前方後円墳で前方部の墳頂に方形壇があるのは珍しくない。
有名なのは、西殿塚(天理市。手白香皇女墓とされ、登れないが、測量図などから確認できる)
あるいは、青塚古墳(犬山市。方形壇が復元されている。昔は登れたが、今は登れない)
あるいは、心合寺山古墳(八尾市。方形壇が復元されており、登って観察できる。)
方形の上に円形の段が乗っかるのは、ないわけではないが、
a 上円下方墳:熊野神社古墳(府中市)など若干 (最近の昭和天皇陵もこれね!)
b 前方後方墳の上に前方後円墳が乗っかっている形:西山古墳(天理市)の1例だけ
円形の上に方形の段が乗っかるのは見たことがない。
ただし、円形の墳丘の頂上の主体部の周りを、埴輪や覆屋(?)の柱跡が四角く囲む例は多数あり。
452:日本@名無史さん
07/08/03 12:37:56
スレ主がいないところで、スレタイと関係ない話題だと、比較的まともになるな。
453:日本@名無史さん
07/08/03 14:23:56
>土地人民ごと財産として支配
そんな観念は領域型荘園が登場するまで無い
454:日本@名無史さん
07/08/03 16:24:58
馬子の墓とされる石舞台古墳は上円下方墳の可能性がある。
455:日本@名無史さん
07/08/03 21:40:48
>450
1、蘇我氏の話をしているときに、5世紀やら8世紀やらは端から話題にしないだろう。
(確かに、五世紀にも三塚古墳やらの方墳はあるけどね。200年も昔のことを言ってもね)
2、私は、白石太一郎が、方墳は蘇我氏に近い者の墓と言っている、と書いた。
3、白石太一郎が、方墳は蘇我関係者のものと言っていることは彼の著作にいっぱい出ている。
(手っ取り早くは、文春新書「古墳と大和政権」P187を読むこと)
4、私自身は、それに対して多少疑義を持っていると書いた。
なぜなら、蘇我氏との濃密な関係下にあった聖徳太子の太子廟(崇福寺)は円墳である。
この墓が本当に太子廟であるかどうかは難しいが、年代などに大きな疑問は出ていないようである。
信用できないと言われれば、推古陵や用明陵もみな怪しい。
日本語をよく読んでくれ。
456:日本@名無史さん
07/08/03 21:53:35
>450
もう一つ。
方墳が高句麗の影響を受けたかどうかは、別の問題だが、折角なので多少私見を。
高句麗の将軍塚は三段構造の石造りの墓で長寿王の墓とされている(らしい、写真しか知らない)。
日本で最も保存状態のよい方墳は、平群の西宮古墳だと言われている。この古墳は、中世の城郭の下敷きとなり、殆どそのまま保存された。
それを見ると、かなり緻密な石組みに覆われ、石の塚のように見える。将軍塚と類似性も、思わず、ん?と思うほどだ。
推古紀に、高句麗僧慧慈が倭に来て顧問のような職にあった。
飛鳥寺は三堂一塔構造で、この類型は、高句麗の清崖里廃寺に見られ、高句麗の影響が以前から言われている。
と色々考えてみると、方墳が高句麗の影響を受けて出来た可能性はありうると思う。
在日の妄言だと言わずに検討してみるべきだろう。
457:日本@名無史さん
07/08/03 22:00:56
>451
確かに後円部だと聞いたと思うが。
文献化して貰っていないからなあ。
そういえば、今城塚の第10次発掘報告書の後円部の最上段は妙な形に書いてある。
誰か、、詳しいこと知ってる中の人、いない?
458:日本@名無史さん
07/08/04 01:13:46
後円部の最上段は崩落してるんじゃなかった?
二段目のてっぺんから石室の基礎部分が出てきたので、
伝統的な三段築造と推定されたのではなかったかと。
459:日本@名無史さん
07/08/05 01:59:06
>>456
高句麗系の積み石塚は結構あるみたいだよ。
群馬の長瀞西遺跡には、
出土物からも見ても明らかに高句麗系の積み石塚があるけど、
他の円墳などに比べ、端っこに追いやられてる感じだね。
で、積み石塚ではない普通の方墳が高句麗系かと言えば、
そうは言えないんじゃないかな。
460:日本@名無史さん
07/08/05 15:26:53
>446
特に突っ込む気はないのだが、
蘇我馬子は嶋大臣
蝦夷は豊浦大臣
入鹿は林臣鞍造
のはず。
461:日本@名無史さん
07/08/05 15:33:56
>458
崩落した3段目の基礎部を調査した結果と聞いたんだが。
現地に行って、言質を取りたいんだが、暇がない。
高槻市の教育委員会の方、いませんか?
462:日本@名無史さん
07/08/05 16:18:22
>454
石舞台は、上円下方墳と言う人もいる。現地の立て看にもそう書いてある。
でも、地理的時代的近縁に上円下方墳という形式は存在しない。
舒明天皇陵とされる忍阪段塚古墳は、現在は斜面に水平な基段を造ってその上に八角墳を造ったとされている。
だが、かってはその形態から、上円下方墳と間違われた時期があった。石舞台が上円下方墳と呼ばれるのはそのせい。
第一、とっくになくなっている上部の形を断定することは無理。
石舞台は、そのすぐ南の都塚古墳とほとんど同じなので、ペアだと言う説がある。
河村邦彦さんにいわせると、書紀に言う、双の墓(蝦夷入鹿の墓)ではないかと。
463:日本@名無史さん
07/08/05 18:55:19
>>460
先代旧事本紀では馬子の子が「豊浦大臣で名を入鹿という」と記されている
464:日本@名無史さん
07/08/05 19:18:37
蘇我善徳入鹿 法隆寺の初代管長だっけ?
465:日本@名無史さん
07/08/05 22:27:05
スレ主がいないと、話が進むな。
鬼の居ぬ間に何とやらだ。
どうせ、元はろくでもないスレだ。少々突飛な事でもいいから書こうぜ。
466:日本@名無史さん
07/08/06 01:27:06
しかし「天皇家の真の皇祖」という言葉じたいがわからんですよ
467:日本@名無史さん
07/08/06 11:39:40
なるほど、蘇我が滅びて天皇があとを継いだというのなら、蘇我は天皇家の祖先じゃない。
表題自体が間違っているわけですか。
468:広瀬満
07/08/06 18:14:09
蘇我が滅びて天皇があとを継いだのではない。
蘇我氏が天皇家になったのである。
広瀬満
URLリンク(www.kojikiden.com)
469:日本@名無史さん
07/08/06 22:36:47
また出てきやがった。
470:日本@名無史さん
07/08/08 10:52:27
>>455 5世紀やら8世紀やら
カメレスですみませんが、何を言っているのか分かりません。 >>450で挙げた例の中にそういう古墳があるのでしょうか?
ちなみに、竜角寺岩屋古墳も7世紀です。
>>450の書き出しは「7世紀ころの蘇我系の有力者の墓」となっていて、、それに続く記述を読んでいただければ、
「7世紀以外の時代のことはあまり取り上げてもしょうがないでしょ」という趣旨であることは読み取れると思います。
そもそも、>>447で今城塚や継体のことに言及していますが、今城塚も継体も6世紀前半のことですよ。
三塚古墳? 土師ノ里の近くで修羅が出たやつのことですか? 何でそのような古墳をここで言い出すのでしょうか?
年代観がメチャクチャなのではないでしょうか?
471:日本@名無史さん
07/08/08 11:59:15
>>456 方墳が高句麗の影響を受けて出来た
将軍塚:長寿王(好太王の子)の墓? 花崗岩を7層に積み上げ、高さは13m
平群の西宮古墳を例に挙げているが、石積ではなく、石は表面だけの葺石で、3世紀以来の日本の伝統によるもの。
将軍塚は、日本の方墳とずいぶん違うぞ。似ているのは、平面形が四角いというだけ。
「影響を受けた」と言う根拠がいい加減過ぎる。
四角という形など珍しくないので、影響の根拠にならない。(アフリカにもアメリカにも有名な四角い墓があるしな。)
高句麗王墓から日本の7世紀の方墳に至る系譜をたどれないようでは、根拠のある話にならない。
472:日本@名無史さん
07/08/08 12:06:59
>>456 方墳が高句麗の影響を受けて出来た
次に、「影響」という言葉が、そもそもいい加減だ。
高句麗の王墓を作ったのと同じ人間あるいは集団が日本の方墳を作ったのか?
慧慈という坊さんが墓作り職人も兼ねていたのか?
あるいは、慧慈という坊さんが墓作り職人(日本の土師氏のような)を引き連れて来たのか?
ノウハウ(構造や工法などの知識)が伝わっただけなのか?
慧慈という坊さんが墓作りの知識を持っていたのか?
慧慈という坊さんが墓作りの設計書やマニュアル本でも持参したのか?
古代史の分野で、「影響」という言葉は、大陸人や半島人のうち日本を貶めようという卑しい性根の連中が巧みに使う言葉なので、注意しないと騙されるよ。
473:日本@名無史さん
07/08/08 18:57:50
>470
こっちも7世紀以外の方墳については端から取り上げてないと言ってる。
崇峻、用明、推古、孝徳の時代と限定しているはずだ。妙にからむなよ。
厳密には用明推古の陵が造られたとされる6世紀後半から舒明忍坂中陵の八角墳が造られたと思われる
7世紀後半まで。
>472
じゃあ君は、この国で最初の寺院である飛鳥寺が造られたとき、
半島の集団がやってきて作ったのか、
坊主が墓造り職人も兼ねていたのか、
ノウハウが伝わっただけなのか、
墓造りの知識だけが伝わったのか、
設計書やマニュアルが伝わったのか、
断定できるのかい。今の知識では無理だろう。
私は別にサヨクでも、朝鮮史観論者でもない。あまり過剰に反応するなよ。
474:日本@名無史さん
07/08/13 09:58:20
>>473
それでは、>>447の今城塚と継体や、>>455の三塚は、脇へ置いといて、中身のある話をしましょう。
方墳と蘇我系を関係付ける場合は、
6世紀末から7世紀の(今日の)京都府、大阪府、奈良県あたりの大きめの方墳 ⇒ 蘇我系の有力者の墓
という主張になります。
小さな方墳には陪塚も多く、蘇我系だけと関係付けることは、もともと無理です。
大きな方墳でも、時期や地域が異なるものを蘇我系と関係付けようとすると、まだまだ根拠が不足しています。
逆に蘇我系の有力者であっても、聖徳太子の磯長墓(叡福寺北古墳)のように円墳もある。(ただし、この比定は異論もあり。)
すなわち、方墳と蘇我系を関係付けるのは、もともとかなり限定的な話であり、あまりあてにならないと思ったほうが良いと思います。
475:日本@名無史さん
07/08/13 10:01:41
>>473
次に古墳や寺院への半島の「影響」についてです。
何でもかんでも半島の「影響」を排除したいと、過剰に反応しているわけではありません。
初期の寺院は東漢や秦や司馬などの渡来系集団が建築を行ったというのは、異論がないと思います。
特に飛鳥寺(法興寺)については、日本書紀の崇峻元年に、寺工や鑪盤博士や瓦博士や画工の名前まで記載されていて、渡来系集団が建築を行ったという根拠は明確です。
(ただし、数十年も経ないうちに、渡来系ではない工人(今日風に言えば宮大工)も大量に養成・出現したと思います。
少なくとも、鞍作鳥(司馬鞍首止利)のように、渡来系といっても日本で生まれ育ち、大王家や有力豪族に忠誠を尽くす世代がすぐに主流になったと思います。)
一方、古墳については、例えば、草壁の墓という説がある束明神古墳の切石積の石室、あるいは高松塚古墳やキトラ古墳の壁画など、大陸や半島の影響があったということに異論はありません。
しかし、これは結論ではなく、検討の出発点です。
476:日本@名無史さん
07/08/13 10:04:27
>>473
古墳あるいは天皇や有力者の墓は、土師氏が中心になって作り続けていたと考えます。
埴輪伝説など古くから、古墳の造営には土師氏が深く関わっていたようですし、奈良時代になっても、
続日本紀の天平六年夏四月には、地震による王の墓の被害調査等のため、諸王真人に土師宿祢を従えさせて派遣したとあります。
古墳の造営の全体の仕切りは土師氏が行い、その作業員の一部に大陸や半島から来た人がいたか、あるいはそのノウハウを学んだ人がいたということです。
壁画などは、(半島というよりは)大陸の影響があるものの、結局のところ、直接描いたのは日本人ではないかという見方も強くなっているようです。
(このあたりは、美術史などの専門家の世界で、素人がとやかくいえる領域ではない。)
「影響があった」というときは、
⇒ 影響の内容は? 影響の範囲は? 影響が及んだ経緯や方法は? これらを明らかにしないといけません。
「影響があった」と言うとき、自説に都合のよい例を挙げるだけで、影響の内容等について具体的なことを語ろうとしない人がいたら、何か悪意の魂胆があると疑うべきで、要注意です。
477:日本@名無史さん
07/09/14 11:09:44
UP!
478:日本@名無史さん
07/09/21 16:20:30
・
479:日本@名無史さん
07/09/26 19:06:58
古墳時代末期の方墳は蘇我氏の有力者の墓というのがなかば通説のようになっているがたいして根拠のある話ではないようである。
480:日本@名無史さん
07/09/28 16:19:43
日本書紀神代下と神武天皇によると天皇家の皇祖は高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)とありますが
馬子となんか関係あるんでしょうか?
481:日本@名無史さん
07/09/29 10:37:28
神代の系図をそのまま信じれば、
タカムスヒはアマテラスの息子ホミミの嫁トヨの父親だよね。
蘇我氏自身や、蘇我氏の息が掛かった皇族って、
皆トヨって付く愛称を持っているよね。
豊浦大臣とか豊御食炊屋姫(推古天皇)とか。
なんか関係あるのかも。
482:日本@名無史さん
07/09/29 10:47:52
天皇って、どこの馬の骨かと思っていたが、蘇我「馬」子の末裔(骨)か
483:日本@名無史さん
07/09/29 11:18:03
豊桜彦
484:広瀬満
07/10/03 18:36:06
>>482
舒明天皇以降の天皇はすべて蘇我馬子(=スサノオ)の末裔である。
したがって蘇我馬子が皇祖である。
津島神社を崇拝した嵯峨天皇が
「素尊(スサノオ)は則ち皇国の本主なり,故に日本の総社と崇め給いしなり」
と言っているのはそのためである。
嵯峨天皇は蘇我馬子が天皇家の起点であるという認識を持っていたのである。
広瀬満
URLリンク(www.kojikiden.com)
485:日本@名無史さん
07/10/04 07:55:17
確かに一時期、蘇我氏に乗っ取られていたくさい。
記紀に、武内宿禰に皇統乗っ取られたくさい記述があるのは
それを反映しているんだと思う。
で、大化の改新で取り戻したんだと思っているんだけど・・・
よく分からんけどね。
486:日本@名無史さん
07/10/04 09:46:32
天智天武は日向から近江に流れついた隼人の俳優の末裔だったんじゃないの?
487:日本@名無史さん
07/10/04 18:50:20
.
488:日本@名無史さん
07/10/10 20:00:55
UP!
489:日本@名無史さん
07/10/17 20:51:00
反日本親朝鮮の記事捏造アサヒる新聞は日本から出て行け。
490:日本@名無史さん
07/11/07 16:43:11
逃げちゃダ
メ
だ
広
瀬
491:日本@名無史さん
07/11/25 20:06:20
相変わらず蘇我さんは悪役っすね………
492:日本@名無史さん
07/11/25 20:11:06
馬子は権力を維持しようとした
ただの守旧派。
偉大な改革はできますまい。
493:日本@名無史さん
07/11/25 20:15:34
というより馬子が改革をする必要性がない。
むしろ今の権力を維持するため改革は避けたい。
494:日本@名無史さん
07/11/25 20:22:06
法隆寺釈迦三尊像は北魏様式。
馬子の百済系とは違いますね
495:日本@名無史さん
07/11/25 20:43:10
>聖徳太子=蘇我入鹿
このネタもう秋田。
496:日本@名無史さん
08/01/07 16:57:54
飽きた、飽きないは感情であって学問ではない。
497:日本@名無史さん
08/01/08 00:54:55
散々論破されてるのに未だに主張し続けることが原因で「飽きた」んでしょ
498:広瀬満
08/01/09 15:09:48
>>497
天智天皇が蘇我馬子の孫であるという私の説が論破されたとは全く思っていない。
ただ愚問や揚げ足取りのような質問には返答は控えさせていただいている。
散々論破されたというならどのように論破されたのか説明してほしい。
広瀬満
URLリンク(www.kojikiden.com)
499:日本@名無史さん
08/01/09 18:08:22
.
500:日本@名無史さん
08/01/09 20:24:34
都合が悪いことには理由をつけて答えないのは正解
広瀬のスタンスは間違ってないよ
501:日本@名無史さん
08/01/09 23:06:08
>>498
思うか思わないかは個人の勝手だよwww
正当な質問を愚問揚げ足取りって逃げ続けておいてよくいうなとは思うけどwww
502:広瀬満
08/01/10 00:50:11
私の説が論破されたというならどこでどのように論破されたのかきちんと指摘してほしい。
私があげた様々な傍証に対して反論はでているが天智天皇が蘇我馬子の孫であるという私の説が
論破されたといえるような反論があったとは全く思わない。
広瀬満
URLリンク(www.kojikiden.com)
503:日本@名無史さん
08/01/10 02:24:39
【専門】ADD/ADHD専門スレッド part38【総合】
スレリンク(utu板)
504:日本@名無史さん
08/01/10 20:39:11
↑??
505:日本@名無史さん
08/01/11 02:55:07
常に下を向いて生きてろ
506:日本@名無史さん
08/01/11 20:57:02
↓??
507:古代
08/01/12 01:13:12
蘇我入鹿が実は天皇になっていたという説ならあるけど、天皇のような宮殿建てたり、墓(凌)を作ったり天皇のように振舞っていた。
ようにではなくて天皇だったと見る方が自然。という説。
上宮法王帝説にそれらしき記述があるけど、正史としては認められていない。
上古代では王朝交代があったとみる学者も多いし、天皇大権は天武の時に確立したので可能性は皆無ではない。
そもそも大化の改新のあたりは謎がいっぱい。
508:siraki
08/01/12 01:40:56
すぐれた実力だね正解に近い...
少し補えば...
URLリンク(bbs.enjoykorea.jp)
509:siraki
08/01/12 01:49:55
今の 家係が天皇になったことは百済滅亡以後..
木満致は 中王係 山背 阿華知
健 中 三
510:siraki
08/01/12 03:40:20
天穂日 任那宿彌 家都美 速玉 とても絶妙だ文字のアートだ
文字細工だと言うか...纎細に輝く 金飾りみたいだ...
511:siraki
08/01/12 06:26:08
速日の 麻古 速日の 溫羅日 速日の 木梨 速日の 夫沙美
速日의 麻那須米 速日の 物佐味
誰が百済 近肖古王の子供達の名前を憶えるか?
偉い話を憶える 者 これからはないね.久米の勇士たちを誰が憶えるか..
スレリンク(history板)l50
512:日本@名無史さん
08/01/12 07:09:19
新たな基地外が…
513:日本@名無史さん
08/01/12 17:28:50
>>507
舒明、皇極は無視?
蘇我蝦夷、入鹿の邸があったとされる甘樫丘は発掘が進み、
焼け跡も見つかり、ここに遺跡があったことは間違いがない。
(現時点では倉庫のような跡のみで大宮殿はみつかっていない)
一方、入鹿が殺害された皇極天皇の飛鳥板蓋宮もまた、場所は確定されている。
問題は山面の不便なところに天皇が宮殿など建てるかということだ。
蘇我氏は天皇を補佐する大臣として、天皇を飛鳥に居住させて以来、
蘇我氏の本拠地でもある飛鳥を守るために、常に外敵から天皇を守る立場にあった。
蝦夷、入鹿が見晴らしの良い甘樫丘に邸を構えたのもそのため。
入鹿が天皇なら、官僚たちの参内に不便な丘陵地に邸は構えない。
一方、皇極天皇が住んだ飛鳥板蓋宮は平地にあり、
官僚も皇族も集いやすく、宮殿としてふさわしかった。
蝦夷、入鹿は飛鳥板蓋宮を見下ろせる場所で、天皇とその宮殿を守っていたのだ。
514:日本@名無史さん
08/01/12 17:37:09
古代の半島東南部に、志羅紀(シラキ)という倭人国が存在した。天日矛の祖国・シラキの国号の意味が、
ついに明らかになった。
シラキとは、知城(知らす城)の意味である。つまり、「首都」という意味の言葉である。
シラキとは金城(現在の慶州)の古名なのである。金城とその周辺地方をシラキと呼んでいた。
なんと、1世紀頃まで、つまり漢朝の時代まで、シラキは半島南部の全域を支配していたらしい。
紀元前1世紀の半島にあった漢朝の地方領、真番郡・臨屯郡の南方に位置した韓(カラ)という国。
実は、この韓(カラ)こそが、神武天皇の皇兄=稲飯命によって建てられた志羅紀(シラキ)なのである。
日本海側から東シナ海側に至るまで、4世紀以降からミマナ・クタラと呼ばれるようになる地域まで、
シラキ領土だったのだ。
大和朝廷が半島南部を支配するために置いてた官庁・任那日本府は、3世紀頃までは金城(シラキの都)に
置かれていたのである。
興味深いのは、漢朝が半島に四郡を置いて支配していた紀元前1世紀の時代においても、
漢朝は韓(カラ=シラキ)を漢領土に組み込むことなく、その独立を認めていたことである。
この事実は、紀元前1世紀の時代に、すでに倭人と半島漢人の間には友好的関係が確立されていたことを
暗示している。
515:日本@名無史さん
08/01/13 19:38:18
.
516:古代
08/01/14 12:15:28
513
舒明、皇極の後に即位ですね。ですから居所とかはあまり関係がない気がしますが。
仮に不便な山面に宮殿があったとしても、当時は天皇でさえ暗殺される時代です。
見晴らしのいい山面の方が安全だったからといえばそれまでです。
天武天皇から天皇大権が確立されたとされていますからね。
蝦夷の屋敷を「上のミカド」入鹿の屋敷を「谷(はざま)のミカド」と呼ばせたり、祖廟を立てたとき帝だけが舞わせることの出来る八ツラの舞いを舞わせたり
自分たちの墓を建て大稜(おおみさぎ)と呼ばせたり、帝のごとく振舞っていた。
そこで中大兄皇子が乙巳の変で入鹿を暗殺、蝦夷は自殺。と書かれています。
この時、蝦夷の屋敷にあった「天皇記」・「国記」も共に焼けた。となっていますが、自殺ではなく「天皇記」・「国記」を燃やすために屋敷に火を放ったのでは?とも思えます。
都合の悪いことが書かれていたからです。
乙巳の変で入鹿が暗殺された時は、仮にも天皇の儀式の途中でした。そんな時に天皇の御前を血で穢し中大兄皇子らはよかったんでしょうか?
神道では死は黒不浄といって最も忌み嫌われていました。天皇家の為にと言うことであれば皇極帝の御前を血で穢すというのはおかしいように思いますが。
もっとも自分は本当に入鹿が天皇だったとは思っていないですけどね。
ただ、歴史は勝者のものですからね。真実が書かれているとは限らない。
逆に蘇我氏が帝のごとく振舞っていたなんて事もなかったかもしれない。
517:日本@名無史さん
08/01/14 13:39:29
>>516
入鹿は皇極4年に殺害されている。
舒明、皇極の後に即位したとはどういうこと?
当の入鹿は死んでしまっている。
>「天皇記」・「国記」を燃やすために屋敷に火を放ったのでは?とも思えます。
>都合の悪いことが書かれていたからです。
「天皇記」「国記」を編纂したのは蘇我馬子ですよ?
馬子が息子や孫にとって都合の悪いことを書きますか?
乙巳の変は蘇我氏が有る限り帝位につく可能性がまったくなかった
中大兄皇子が非常手段として起こした出来事でしょう。
この時代、天皇は軍を率いて出兵する最高責任者です。
現に皇極天皇も斉明天皇となったとき女帝ながら全軍を率いて筑紫まで行っています。
死が不浄だといわれだしたのは、天皇が合戦に出陣しなくなった随分後のことですよ。
この時代、天皇は地位を守るために率先して敵を血に染める役割を担っていました。
そもそも、このとき入鹿を斬ったとある中大兄皇子が天智天皇として即位するわけですから。
518:古代
08/01/14 22:42:27
「天皇記」「国記」を燃やしたのは蝦夷が屋敷に火を放って自殺したのではなく、中大兄皇子達では?という事がいいたかったんですが・・
まあでもない歴史書のことを言ってもしょうがないですね。
519:日本@名無史さん
08/01/15 08:06:17
天皇記・国記を日本紀に置き換えて考えてみよう
日本書紀の内容から判断すると舎人親王自身は名誉総裁的立場であり
直接執筆に深く関わっていたとは思われない
馬子の場合もこれと同じだったのだろう。
二書は東漢氏のやりたい放題な内容だったはずだ。
520:日本@名無史さん
08/01/15 09:24:18
その割りに東漢氏の活躍があまり描かれないのはなぜだ?
やりたい放題なら歴代大王の寵愛を受け、
お褒めの言葉をこんなに預かった、
という東漢氏の自慢話が随所に出てきてよさそうだが。
521:日本@名無史さん
08/01/15 10:36:54
二書って天皇記国記のことなんだけど…
まあ、日本書紀にも東漢氏の自慢話は複数みられます。
たとえば雄略紀には身狭村主青と桧隈民使博徳を寵愛した、とあります。阿知・都加親子は武内宿祢みたいな象徴的始祖と考えればよいでしょう。
話は飛びますが天武の「東漢氏は七つの悪事を働いてきたが許す」という発言は
天武の修史事業に東漢氏の所有する史料が必要だったからではないでしょうか?
522:日本@名無史さん
08/01/15 11:23:48
>>498、>>502
過去のレスを見てごらん。
広瀬氏は「天智天皇が蘇我馬子の孫である」という系統に関する説を主張しながら、まっとうな系図を示すことができない。
彼の説において系図の提示が「愚問や揚げ足取りのような質問」であるはずがないが、応えることができないままだ。
ゆえに、とっくの昔に、論破完了している!!!
523:siraki
08/01/15 12:51:24
列島人たちは 於羅睱 於羅加
浦加 偉い名前 백제 温羅王の名前を読むことができなくて?
あほらしい........ (速日soga 百済近肖古王)
URLリンク(bbs.enjoykorea.jp)
524:siraki
08/01/15 12:54:32
ここでは百済近肖古王の子供 温羅王というので使われていますね..
525:siraki
08/01/15 13:08:25
上に 広瀬満氏が言う蘇我馬子、木満致 全部登場する..
ところで 広瀬満氏は来ない? エンジョイ歴史版に遊びに来てください..
526:siraki
08/01/15 13:14:10
東韓というのは偉い名前 阿華というの...悲しい 仲哀 百済 中子係の子供...
527:日本@名無史さん
08/01/15 21:05:56
ところで、石舞台は馬子の墓で決定なの?
石積みの墓はなんだか、大物主や出雲を連想します
528:日本@名無史さん
08/01/16 06:51:34
鎌足の死因は水銀中毒
529:日本@名無史さん
08/01/16 09:11:42
>>528
その根拠は?
530:日本@名無史さん
08/01/16 09:53:53
>>527
石舞台はもともと土が盛られて円墳であったものを、
乙巳の変のあと馬子の墓があばかれて、
古墳を破壊し石棺が丸見えになったのもだって
分かってる?
531:日本@名無史さん
08/01/16 12:37:17
前方後円墳では なかったと。
じゃあ、大王ではないか。
532:日本@名無史さん
08/01/16 13:07:50
>>529
遺体
533:日本@名無史さん
08/01/16 13:24:42
>>527
石室がむき出しになった古墳は各地にあります。
例えば、関東の方なら行田市の八幡山古墳に是非。(さきたま古墳群から、北へ2km程度。)
中国地方なら倉敷市の有名な楯築遺跡を含む王墓の丘など、むき出しになった石室・石棺のオンパレード♪
534:日本@名無史さん
08/01/16 14:03:03
作りの簡単な群集墳などでは
雨風で土が削られてむき出しになるケースも多いね
あとは周囲が開墾されてむき出しになるケースも有る
付近の農民が古墳だと知らずに小山を崩して開墾したら
石室が出てきたとか
535:日本@名無史さん
08/01/16 22:29:10
日本史の謎解きは、やはり「蘇我」だろうな!
ある意味、「天皇家=天皇制」を造ったのは、「蘇我稲目・馬子」の親子でしょう!
大王家が途絶えて、継体天皇を福井から持ってくる。しかしその息子とされる欽明天皇から天皇制が実質始まる。継体天皇の息子でなく、稲目の息子、馬子の兄弟ではなかったのか?天皇家と蘇我一族の近親相姦によって特別な一族が誕生しついく。
そこには、あるのは流行りの密教たる仏教!
536:日本@名無史さん
08/01/16 22:35:47
聖徳太子に至っては、用明天皇と穴穂部間人皇后の息子であり、両親とも蘇我馬子の姉妹を母とする完全な「蘇我一族」!彼の頭にあるのは、神道ではなく密教的な当時流行りの仏教!
大改はこの流れに対するあきらかなクーデター!
537:日本@名無史さん
08/01/18 10:32:13
up!
538:日本@名無史さん
08/01/28 20:47:17
.
539:日本@名無史さん
08/02/06 12:53:15
>>530
石舞台古墳が馬子の墓で乙巳の変のあと暴かれたという記録がどこにあるのか?
根拠のない単なる想像だろう。
540:日本@名無史さん
08/02/06 14:18:54
>>539
石舞台古墳はその作造時期から飛鳥時代のもの。
石舞台古墳の一帯は蘇我氏の本拠地で、
すぐ北側に蘇我馬子の邸宅があった。
石棺の巨大さから言っても、相当な権力者の墓であることは
疑いようも無く、馬子の墓ではないというのならば
誰の墓だと思っているのか。
541:日本@名無史さん
08/02/07 09:07:00
石舞台古墳が飛鳥時代に造られた古墳でその被葬者が相当な実力者であることは確かだ。
しかも蘇我氏の本拠地にあることからして蘇我氏の有力者の墓であろう。
考古学者の河上邦彦氏がこの古墳が南にある都塚古墳とよく似ていることから
石舞台古墳と都塚古墳が「日本書紀」に見える蘇我蝦夷と蘇我入鹿が生前に作った
ならびの双墓ではないかと言っていた。(飛鳥発掘物語)
542:日本@名無史さん
08/02/07 11:34:01
>>527-541
最近の発掘では、石舞台のすぐ近くの遺跡は馬子の島庄でほぼ確定、
さらに、境部摩理勢が壊したという石舞台造営のための庵(宿泊所)らしきものが隣接して発掘されるなど、
石舞台=馬子の墓 という根拠が増えている。
まだ、確定ではないが。
いずれにしろ、石舞台が大物主や出雲ということはありえない。
543:日本@名無史さん
08/02/07 18:48:05
>>542
石舞台古墳の近くに馬子の邸宅があったことは否定しない。おそらくそうだろう。
石舞台=馬子の墓とすると都塚古墳はいったい誰の墓か。
石舞台=蝦夷、都塚=入鹿と考えたほうがよいのでは。
544:日本@名無史さん
08/02/07 19:01:22
>>542
いずれにしろ、石舞台が大物主や出雲ということはありえない。
↑ 同感、蘇我氏の実力者の墓であることは間違いない。
545:日本@名無史さん
08/02/08 10:30:03
>>543 石舞台=蝦夷、都塚=入鹿 ←某大先生の説ですね。
皇極元年(642)十二月に蝦夷が双墓(ならびのはか)を今来に造り、蝦夷と入鹿の墓とした。(預造双墓於今来。一曰大陵、為大臣墓。一曰小陵、為入鹿臣墓)
皇極四年(645)六月十三日に中大兄は、蝦夷と入鹿を墓に葬ることを許した(蘇我臣蝦夷及鞍作屍許葬於墓)
これが石舞台と都塚のことであると・・。気になるのは3点
1 都塚の築造年代は6世紀後半とされており、642年との開きが大きい。
2 石舞台と都塚は、谷や川をはさんで数百メートル離れており、双墓(ならびのはか)というイメージはきつい。
3 しかもこの場所が今来とよばれる土地であったのか。
また石舞台を馬子の墓でないとすると、それはそれでいろいろと不都合が増えます。
被葬者が分からない古墳は多く、無理に被葬者をあてはめても何の解決にもならない。
(真弓鑵子塚など、今後もまだまだ巨大石室の発見が続きそうですし・・。 URLリンク(www.shikoku-np.co.jp))
現状で最も蓋然性の高い考え方は、石舞台の被葬者は馬子、 都塚の被葬者は不明。
546:日本@名無史さん
08/02/09 10:25:05
>>545
1
↑年代の確かな古墳は皆無に近く古墳の築造年代を確定することは困難。都塚の築造年代を
6世紀後半とするのも石舞台=馬子と考えての推定だろう。
2
↑石舞台と都塚はほぼ同じ高さにあるので飛鳥中心部からみれば並んで見えたのではないか。
3
↑「今来」とは「新しく来た」の意味。都塚の場所は坂田。飛鳥時代鞍作氏の居住していたところと言われている。
被葬者が分からない古墳は多く、無理に被葬者をあてはめても何の解決にもならない。
↑同感。だからこそ石舞台=馬子という前提で飛鳥の考古学が考察されていることには疑問を感じる。
石舞台≠馬子で飛鳥を考えてみることも重要だと思う。
547:日本@名無史さん
08/02/09 23:36:40
某大先生=河上邦彦?
548:日本@名無史さん
08/02/16 20:53:13
.
549:カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト
08/02/17 16:58:49
ユダヤ人ってどんな人?
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550:日本@名無史さん
08/02/17 17:04:25
>>546
石舞台≠馬子だと考えろということだが、
石舞台≠蘇我氏だと考えろということ?
当時の豪族の配置から考えて
あの場所に蘇我氏以外の豪族が墓を造るとは考えづらいが。
攻め滅ぼされ、有力な子孫も残らなかった蝦夷や入鹿が
大規模墓に埋葬されているとも考えがたい。
551:日本@名無史さん
08/02/17 18:52:22
私もあの場所に蘇我氏以外の豪族が墓を造れるとは考えていない。
おそらく蘇我氏の有力者の墓だろう。
「日本書紀」の皇極元年(642)十二月条に
蝦夷が双墓(ならびのはか)を今来に造り、大きい墓を蝦夷の墓とし小さい墓を入鹿の墓としたとの記述がある。
石舞台古墳はこの蝦夷の墓の可能性を考えたい。
552:日本@名無史さん
08/02/17 20:33:34
>>543
都塚古墳はかなり小ぶりな古墳。
そして、石の配置や鉄釘、副葬品とみられる
土器片が検出されたことから、
この古墳の中にはもともと木棺と副葬品が置かれていたとみられ、
盗掘を受けていることが確認できるようだ。
非業の死を遂げて首を刎ねられ、首塚が残る入鹿の遺体が、
このように副葬品とともに手厚く木棺に葬られたであろうか?
都塚には別の被葬者がいたと思われる。
URLリンク(sanzan.gozaru.jp)
URLリンク(www.asukanet.gr.jp)
553:日本@名無史さん
08/02/18 10:40:04
都塚古墳は(一辺28m)は石舞台より小さい古墳だがとくに小ぶりというわけではない。
すでに盗掘を受けていたようだが残された遺物から現存の石棺とは別に木棺も置かれていたとみられている。
「日本書紀」には蝦夷と入鹿は即日墓に葬ることを許されたと書かれている。
蝦夷、入鹿の権力の象徴であった石舞台は中大兄たちによって破壊され、残された都塚に二人一緒に埋葬されたのではないか。
石室は小さいので石棺はひとつしか入らない。そこで木棺が用意されたのではないか。
「紀」には入鹿は斬り殺されたとは記されているが首を刎ねられたとは記されていない。
首塚は後世に作られたものと考えられている。
554:日本@名無史さん
08/02/18 11:07:43
>>553
石棺と木棺があった=蝦夷と入鹿の2人が葬られていた
とするのはおかしくない?
その説だと、石舞台古墳は蝦夷の墓として作られたが
誰も葬られなかったことになる。
ところが、実際には石舞台古墳の中には石棺がある。
石舞台古墳の石棺の中に埋葬された人物は誰?
555:日本@名無史さん
08/02/18 11:26:45
石舞台古墳の中には石棺は残されていない。
ただし石棺の破片らしきものが出土していることから石棺があった可能性がある。
その石棺に蝦夷が葬られていたとは考えていないがあらかじめ用意されていたのかあるいは妻の棺だったのかもしれない。
556:日本@名無史さん
08/02/18 11:42:36
>>555
石棺があらかじめ用意されてあるものだったのならば、
都塚古墳に石棺&木棺があるから2人埋葬という根拠にはならないよね?
そもそも、石棺は死体を収めた後で羨道を通って石室に納められるもので、
もともと石室においてあとから死体だけを運んでくるものではないはず。
この時代、夫婦合葬の風習はない。
同時代の例としては推古天皇が父欽明天皇の陵にもともとは別のところに葬られていた
母を合葬したという記述があるが、わざわざ史書に書き残されたほど。
欽明天皇はもともと大后石姫皇女とも合葬されておらず、
推古の母蘇我堅塩媛との合葬は推古天皇の専横と取られたようだ。
この例を除いては、歴代天皇や豪族に夫婦合葬の例は見られない。
蝦夷の妻(物部氏)が眠る墓を中大兄皇子が破壊したとするのも不自然。
また、蝦夷より妻が早死にだったとする資料もない。
557:日本@名無史さん
08/02/18 12:11:18
>>553 石室は小さいので石棺はひとつしか入らない。そこで木棺が用意されたのではないか。
石室内の石棺の位置から見て、同時に2つの棺(石棺と木棺)を置こうという意図には見えない。
二つの棺は埋納の時代が異なると見るべき。
(URLリンク(shigakuorc.nc.otemae.ac.jp))
どうしても蝦夷と入鹿を同時に埋葬したと主張したいなら、藤の木古墳のように一つの石棺に2体入れた例ならある。
しかし、その場合は
1 都塚のもう一つの木棺の説明がつかない。
2 石舞台の石棺の説明がつかない。
都塚の年代が石舞台より50年近くズレていることに変わりはないし、
都塚と石舞台が飛鳥中心部から見ると並んで見えたのではないかというのも、景観シミュレーションぐらいやってくれないと、単なる思いつきだし、
坂田が今来という地名だったというのも根拠がないし。(このころ、このあたりに渡来人など珍しくないので、ここだけ今来と呼ばれる理由がない。)
558:日本@名無史さん
08/02/18 18:24:34
>>556
石棺があらかじめ用意されてあるものだったのならば、
都塚古墳に石棺&木棺があるから2人埋葬という根拠にはならないよね?
↑石棺&木棺がそれぞれ一個づつあったなら普通なら被葬者は二人と考えるが?
そもそも、石棺は死体を収めた後で羨道を通って石室に納められるもので、
もともと石室においてあとから死体だけを運んでくるものではないはず。
↑古代の葬儀については不明なことが多い。石棺は死体を収めた後で羨道を通って石室に納められるもの
と言い切れる根拠は何か?
この時代、夫婦合葬の風習はない。
(欽明天皇の例をのぞいて)歴代天皇や豪族に夫婦合葬の例は見られない。
↑まったくの事実誤認。聖徳太子、天武天皇・持統天皇の例がある。
蝦夷の妻(物部氏)が眠る墓を中大兄皇子が破壊したとするのも不自然。
↑なぜ不自然なのか?
また、蝦夷より妻が早死にだったとする資料もない。
↑蝦夷より妻が遅死にだったとする資料もない。
559:日本@名無史さん
08/02/18 18:50:42
>>558
557さんが言っていることについては?
都塚の築造年数が石舞台より50年新しいことに対する反論は?
蝦夷、入鹿の墓は双方の生前、同時期に作られたはずよね?
それに都塚は石舞台とは川を隔てていて
とても並んで作られたとは言えないよねえ?
560:日本@名無史さん
08/02/18 18:53:11
>>558
>石棺&木棺がそれぞれ一個づつあったなら普通なら被葬者は二人と考えるが
>古代の葬儀については不明なことが多い。石棺は死体を収めた後で羨道を通って石室に納められるもの
>と言い切れる根拠は何か?
ほらほら、矛盾、矛盾w
石舞台でははじめから誰も葬られていない石棺が放置されていたとしているのに、
なぜ都塚では被葬者が2人?
あなたの説だと、都塚の石棺だって、誰も葬られずに放置されていたことになるじゃない。
561:日本@名無史さん
08/02/18 18:58:24
>>558
石棺と木棺の設置時期が異なることについては?
557さんは、同時期に死んだ人をひとつの古墳に葬るなら、
ひとつの石棺に2人をいれた藤の木古墳がある。
だが、石棺ひとつ用の古墳に木棺があったのは
あとから木棺に眠る被葬者が追葬された可能性が高いと
おっしゃってるんだけど?
562:日本@名無史さん
08/04/17 03:44:06
>>435
URLリンク(com-nika.osask.jp)スレリンク(history板)
563:日本@名無史さん
08/05/05 17:31:11
ho
564:日本@名無史さん
08/07/11 10:42:01
>>535
反論
>欽明天皇から天皇制が実質始まる。継体天皇の息子でなく、稲目の息子、馬子の兄弟ではなかったのか?
欽明は509生、稲目は506生、稲目の娘2人を欽明に嫁がせているては言え欽明と稲目が親子とは考えられない。
(どちらかと言うと兄弟的な年齢関係!)
565:日本@名無史さん
08/07/16 11:04:00
◆蘇我の名前はおかしい!〈韓子に高麗〉〈馬子に入鹿〉〈蝦夷〉〈稲目〉
こんな名前は親なら付けないよ!絶対に。史書の編纂時に付けられたんだろ。悪意を持って~
566:日本@名無史さん
08/07/20 02:21:16
馬子じゃないだろ。
567:日本@名無史さん
08/07/28 20:47:37
韓子や高麗は実在しなかったんじゃないかな!
稲目から蘇我は始まると見た方がスッキリする。
568:日本@名無史さん
08/08/10 08:23:26
~蘇る我~
1500年の時を超えて!
569:日本@名無史さん
08/08/12 22:52:25
>>1
俺は欽明と稲目を同一人物として仮説を考えている。
570:日本@名無史さん
08/08/16 01:58:58
俺は兄弟だな!
571:日本@名無史さん
08/10/14 21:53:46
今日本書紀を読んでいる初心者なのですが書記の推古天皇の時代14年5月5日に
鞍作鳥に詔して「自分は仏教を興隆させたいと思い~仏舎利を求めた~叔母の
嶋女を出家させた云々」←これって天皇(推古)の発言ですよね?でもこれ
敏達天皇時代に馬子がしたことじゃないんですか?
なんか中国の遣隋使にもアメタリシヒコとかいう名前が出てくるし
官位十二階やら国記!(すごくないですか?家来がこんな事するの)
作ったり飛鳥寺や最先端の仏教はやらせたり・・・
素人にも”嶋の大臣”じゃなくて”嶋の大王”じゃないかと。
あと太子も馬子の子供では?一族が根絶やしにされたのは蝦夷との後継者
争いの結果だとか。トンでもですか?スイマセンm(_ _)m
572:広瀬 満
08/10/28 16:41:19
◆HPアドレス変更のお知らせ◆
従来はkojikiden.comにてHPを公開していましたが事情により
下記のアドレスに変更しました。
URLリンク(www.ookuninushiden.com)
573:日本@名無史さん
09/01/31 16:18:54
ほー
574:日本@名無史さん
09/02/23 22:59:31
もしも蘇我氏が、長屋王のような皇族だったのなら
物部氏も戦争に発展するほど対立できなかっただろうし
不比等といえど書記からその痕跡を消すことは不可能だろうと思う。
世間はもとより当の蘇我氏が残っているのだから。
575:日本@名無史さん
09/03/23 05:25:12
大和南部の渡来系豪族で、
越からやってきた応神の子孫という男と、
大和盆地を掌握したら、
御輿として担いだはずの男の子供達に、
逆にやられてしまったというのが実際のところでしょう。
血筋の交錯した支配階級同士の争いが、
壬申の乱まで何百年も続いていたのでしょう。
576:日本@名無史さん
09/04/03 23:54:37
>541
都塚は、規模も全然違う。見てきてみな。実見したらがっかりするから。
石舞台は、むしろ方墳の規模や石室の構造が赤坂天王山古墳とそっくりといわれている。
天王山古墳は、御破裂山(旧倉橋山)をはさんだ反対側にあり、何らかの関係があるのは、確実だろう。
ちなみに、地元では天王山古墳は崇峻天皇の御陵とされている。
577:日本@名無史さん
09/04/06 22:51:58
王城の地は、三輪から飛鳥へ移ったが、その間に短期間ながら倉橋の地に置かれた時期がある。
倉橋時代とも言うべきこの時代はもっと考察してしかるべきだと思うが?
それを邪魔しているのが、馬子天皇説。
馬子が天皇なんかで無かったと認めれば、日本史はもっと分かりやすい。
578:日本@名無史さん
09/04/06 23:36:09
欽明と稲目の謎解が必要!
579:凶悪な知障麻生と鬼畜の身障天皇は死ね
09/04/08 16:28:44
・変態レイプ魔のクソ天皇が徘徊しています
・人殺し虐殺指導者のゴミ汚物キチガイ天皇が逃走中です
・顔面奇形障害者の天皇、皇后、皇太子が暴走中。目に毒です。
・淫売ブス売春婦(梅毒持ち)の不細工ビッチ皇后が不法営業中。保険局より。
・鬼畜クズ戦犯で凶悪犯罪者で殺人犯の天皇が逃亡しました。賞金10ドル。
・ニート精神障害者キチガイ馬鹿カルト不細工女の雅子皇太子妃が生活保護詐欺で逮捕。
・不逞バカ自意識過剰うんこ蛆虫カス野郎の秋篠宮が脱糞・失禁・食糞中。衛星上の難題。
・知的障害者で池沼でキチガイで精神障害者で変質者で変態で脳カタワの天皇が入院。
・ダメ人間クソガキ馬鹿キチガイ糞ゴキブリ廃棄物の悠仁が虐められています。
・知的障害者で発達障害者でアスペルガーで唯の馬鹿キチガイの愛子が発狂。
・戦犯鬼畜凶悪犯罪者で人殺し人でなし殺人鬼レイプ犯放火魔のクズゴミカス天皇は死ね。
・穢い臭いキモイ気色悪い病原菌の天皇・皇后・皇太子・秋篠宮・雅子・豚ビッチ紀子クソ淫売
・腐ったゴミ汚物の各種皇族 死ね
・鬼畜凶悪犯罪者で大量虐殺レイプ犯のクソ天皇は死ね!!!
580:日本@名無史さん
09/04/10 23:55:19
実は非常に突飛な事を考えている。
石舞台のことなんだが、あれの被葬者想定。
石舞台が天王山古墳と密接な関係があるのは確実。
倉橋から飛鳥には時代が下っていると考えると、
石舞台の被葬者は、崇峻天皇の近親者ではないか、と。
で、579の吉外は無視して、続きしようぜ。
581:日本@名無史さん
09/04/15 00:07:03
過疎スレ
582:日本@名無史さん
09/04/17 00:15:00
今の天皇家には、蘇我の血は一滴も入っておりません。あしからず
東大寺創建の皇統の子孫でもありません。ヤマトタケルの男系末で
非天武系で天智系末、さらにーと~
583:日本@名無史さん
09/04/17 00:19:14
>579のやからは
日本で軍クーデターが起きれば、送信履歴から、責任もって処刑すか判断させます。
584:日本@名無史さん
09/04/17 00:52:02
>>582
普通に入ってんじゃん。
稲目-馬子-倉麻呂-連子-女-藤原武智麻呂・房前……(以下略)……今上天皇
585:日本@名無史さん
09/04/17 01:45:51
>>584
皇極天皇も蘇我氏の血が入っている
586:日本@名無史さん
09/04/17 08:30:24
>>584 585
学制さんかなあー 教科書や簡単な歴史書は、歴代天皇を直列つなぎで番号順に示しいるが
多くの側室が天皇にはいて、並列つなぎで並べ替えてみてください。歴代天皇記を参考されてはー
587:日本@名無史さん
09/04/17 08:41:59
>>584 585
ですから、蘇我系天皇は即位させても、意図的皇統からはずされ、蘇我でない側室が生んだ
男系天皇がつないで即位です。蘇我から渡来を匂わせたいなら、宮内庁公認の桓武天皇の実生母は
新羅王家末の高野がいます。平将門も清盛も子孫で 南朝も北朝の皇統も、その桓武天皇の子孫
588:日本@名無史さん
09/04/18 00:50:44
高野新笠は百済系じゃなかった?
高野(こうや)
交野(こうや)
広野(こうや)
みんな同音、誰かどうしてか知らないか?
589:日本@名無史さん
09/04/18 08:58:20
>>588
私も間違えそうだかー新羅王家ですね。高句麗亡命王家が大和にいたが、朝廷の
外交政策から、秦荘のある滋賀に集団移住になり、さらに北関東移住にー将門の
有力武士団になり、彼らが鎌倉の関東武士の原型決めた部分もあり、高句麗王家
子孫は神社本庁の要職に。
590:日本@名無史さん
09/04/18 09:47:14
【衝撃!】雅子妃叩きは紀子ヲタではなく腐れ崩御ばばあ美智子ヲタ腐れ婆だった!【最悪!】
URLリンク(orz.2ch.io)
591:日本@名無史さん
09/04/19 00:01:34
>>590
590は憲法第1条違反で、警察に告訴しましょう。
在日三国人の外国籍なら、強制国外追放願います。
今軍クーデター起きたら、その時は配信履歴から同胞含め
どの宗教が調べ全員処刑するかいなか決めますわ
592:日本@名無史さん
09/05/16 00:48:58
>589
>>588
私も間違えそうだかー新羅王家ですね。
確か今上が高野新笠の事に触れたとき、喜んだのは全裸道の連中だったが?
593:日本@名無史さん
09/05/27 00:08:56
いいなあ。全裸道・・・
594:soopllofeiv
09/07/06 22:04:03
天皇は在日シナ人です
595:soopllofeiv
09/07/06 22:05:53
邪馬台国以後 大陸からきた渡来人一族は
土着の日本人達を優れた大陸の戦術と馬で押さえていった
そして生まれたのが大和朝廷である
朝廷という言葉は古代中国のまつり事を行う場所をさす
最近レッドクリフという映画が出てきたが、そこにもソレ系の話が出てくる
上記は当初 天皇家が血筋とイイのでと述べ
日本人と性交しなかったのにも関係がある話かもしれない・・
天皇は初め仏教で国をマトメタが
仏陀が天皇を神格化して呉れないので
神道を新たに持ってきた
現在どんどん海外のロイヤリティが出入り禁止にしている
日本の天皇(低能平下)&美智子一族
596:日本@名無史さん
09/07/09 00:13:09
>>595
>神道を新たに持ってきた
三輪山信仰ってのは仏教伝来より遥かに昔だよなw
597:日本@名無史さん
09/07/10 19:17:42
三輪山信仰を知らない奴は日本人じゃないからな。
598:日本@名無史さん
09/07/10 19:24:01
>>588
高野(こうや)
交野(こうや)
広野(こうや)
みんな同音、誰かどうしてか知らないか?
・・・歴史的かな遣いではカウヤ、キャウヤ、クワウヤと同音ではないな。
599:日本@名無史さん
09/07/11 01:09:43
神皇正統記 北畠親房
URLリンク(www.nicovideo.jp)
URLリンク(www.youtube.com)
URLリンク(www.youtube.com)
URLリンク(www.amazon.co.jp)
URLリンク(www.amazon.co.jp)
「 大日本は神国也 」
この書は日本の歴史が最も簡単明瞭に説いてありますが、殊にこの書物の開巻第一には、
極めて簡潔なる言葉を以て日本歴史の本質が明確に述べられてあります。それはかういふ
言葉であります。
大日本は神国也。天祖はじめて基を開き、日神長く統を伝え給ふ。我が国のみ此の事あり。
異朝には其の類無し、此の故に神国と云ふ也。
これを活字にすればわづか二行でありますが、この簡単なる言葉の中に、『神皇正統記』
全体が要約されてゐるのであります。
600:日本@名無史さん
09/07/11 01:10:13
山鹿素行 『中朝事実』 (→吉田松陰、乃木希典に続く)
URLリンク(www.nicovideo.jp)
URLリンク(www.youtube.com)
皇統(上) 皇統章
故に皇統が一度(ひとたび)定まって億萬世之れに襲(よ)って変ぜず、天下皆正朔
を受けて其の時を二つにせず、萬國王命を稟(う)けて其の俗を異にせず、三綱終に沈
淪せず、徳化は塗炭に陥らず、外国の到底企て望み得ることではない。夫(そ)の支那
では天子姓を易ふることを殆ど三十で、戎狄が入って王となった者が数世ある。春秋の
二百四十余年に臣子が其の國君を弑した者二十又五もある。其の先後の乱臣賊子に至っ
ては枚挙することは出来ない。朝鮮では箕子(きし)が天命を受けて王となって以後、
姓を易ふること四氏、其の國を滅して或いは郡縣となり、或いは高氏は滅絶することが
凡そ二世、彼の李氏は二十八年の間に王を弑する者四度あった。況んや其の先後の乱逆
は禽獣の損ない合うと異ならない。唯我が中國(なかつくに)は開闢からこのかた人皇
に至るまで二百万歳にも近く、人皇から今日まで二千三百歳を過ぎてゐる。而も天神
(あまつかみ)の皇統は違(たが)ふことなく、其の間に弑逆の乱は指を屈して数ふる
程もない。其の上外国の賊は吾が辺藩をも窺ふことも出来なかった。後白河帝の後に武
家が権力を執って既に五百余年にもなる。其の間に利嘴長距が場を壇にしたり、冠猴封豕
が火を秋の蓬に縦つ類のないこともないが、それでも猶ほ王室を貴び君臣の儀を存してゐ
る。是れは 天神 人皇の知徳が顕象著名であって世を歿するまで忘れられないからであ
る。其の過化の功、綱紀の分がこの様に悠久で、このやうに無窮であるといふことは皆至
誠から流れ出たからである。三綱が既に立つときはその条目は治政の極致として著はれる。
凡そ八紘の大なるも、外国の汎きも中州に如くはない。皇綱の化文武の功、其の至徳、何
と大きいことではないか。
→中国や朝鮮では易姓革命が度々起こり、乱臣による弑逆も度々起こった。
一方、日本の皇統は神代以来一度も変わることなく萬世一系である、ということを示す。
萬世一系の皇統を以て日本が中朝である事実、即ち「中朝事実」を示している。
601:日本@名無史さん
09/07/11 13:08:43
廃太子となれば、歴史上に残る平成の乱。
ν速+【皇室】天皇陛下の級友が進言「皇太子さまの選択肢は別居治療 離婚 廃太子」
スレリンク(newsplus板)
選択肢の1番目、別居については、〈「皇太子妃、そして妻、母という三つの役割を
同時に果たす今の状況での治療は中途半端です。一度すべてから離れたほうがいいのでは」〉。
離婚〈「現行の皇室典範では、理論上も無理」〉〈「だが、皇室会議を経て結婚が認め
られるように、離婚という議論が行われてもいいはず」〉
3番目の廃太子。あまり聞きなれない言葉だが皇太子がその地位を廃することで
〈現状でいえば、秋篠宮さまに皇太子の座を譲ること〉〈「今の状況下では、
これがいちばん現実味があるのでは」〉。橋本氏はこの本をきっかけに
〈これからの皇室のあり方について国民的議論が起こることを願っている〉という。
602:日本@名無史さん
09/07/11 15:28:46
<前スレは3時間で終了>
ν速+【皇室】天皇陛下の級友が進言「皇太子さまの選択肢は別居治療 離婚 廃太子」★2
スレリンク(newsplus板)
603:馬鹿な学者の妄説信者へ
09/07/12 14:10:54
聖徳太子の未来記
その時、魔王波旬は仏法によって釈迦の仏法を破り、日本を乗っ取って鬼の
国にしようと願う。故に3人の眷属を使う。邪法を授けて日本の衆生を惑わし、
三悪道に落さんと欲する。
親鸞法師、阿弥陀仏の念仏を唱えさせ、戒律を守らず、女犯を許し、斎食を
行わずして肉味を喰らう。法を破って肉食する事が戦争が起きる因縁(怨霊が恨
みを晴らす)であり、亡国の基である。日本の末世には六天の魔王が猛威を振る
い。日本人の悲劇を見て外国人が喜ぶ。畜生顔の人が物を言う。夜半に太陽が
出る。地獄の苦しみに耐えて誠を尽さねば罪を償えない。早く改心する者程楽
になるぞよ。
人の先祖は神であり、生物は神魂の宿った同類である。この様な教の神道が
あるのになぜ仏教が普及したのか。外国に侵略され、仏教の邪法と煩悩に迷わ
されのである。
乙巳の変は三韓の献貢の日に、倉山田麻呂、犬養連勝麻呂と佐伯連子麻呂が
天皇の御前へ進み、子麻呂は将書を読もうとしたが、汗が出て体が震えて出来
なかった。入鹿がなぜ震えているかと問い。天皇の近くで恐縮し、入鹿の威厳
に恐れたと言った。その時中大兄皇子が飛び出て、入鹿を斬殺した。子麻呂ら
3人は三韓の使者であり、将書は天皇に渡す物である。入鹿大臣が同席する必
要なし。子麻呂は天皇殺しが恐ろしかったのだ。子麻呂と中大兄(百済豊璋)は
仲間で、鎌足(新羅武列)も然り。
年号は天皇名と一致する筈だが、変後に九州年号が使われたのは天皇暗殺の
証拠。
2・26事件は百姓一揆である。景気悪化のしわ寄せを米価引き下げによる農民
苛めによって消費者を助けて凌ごうとしたのである。昭和天皇は弱者を見殺し
にする冷血漢である。
天皇はアメリカとの密約で原爆投下まで降伏するなと命令されていた。朝鮮
人の天皇は日本人が幾ら死のうが平気なのである。本当なら自決する筈である。
604:日本@名無史さん
09/07/18 21:38:37
>554 :日本@名無史さん:2008/02/18(月) 11:07:43
>>553
石舞台古墳の石棺の中に埋葬された人物は誰?
聖徳太子
605:日本@名無史さん
09/07/20 01:03:50
>603
鬼塚英昭のトンデモ本か?
606:日本@名無史さん
09/07/20 05:58:25
★今上天皇と皇太子には皇位継承権がない。
★悠仁親王は正統な皇位継承者。
★日本が主権を取り戻すためには、小和田一味の策謀を粉砕するためには、皇室の秘密を明らかにするしかない。
★東宮家以外は秘密がバレる前に、一時的に、自主的に野に下るべき。
★下野することによって、国民に反省している姿を見せるべき。
★野に下る皇族のうち、偽者で高齢の者は、自主的に出家して、誠意を見せるべき。
★東宮が調子に乗って、天皇になったところで、秘密を暴露し、東宮一味を粛清する。
★野に下った皇族のうち、本物の皇族は旧皇族と協力して、宗教法人もしくは財団法人を設立し、皇室制度を維持するべし。
★皇族以外の誰かにバラされたら、皇室制度の廃止は避けがたい。
607:日本@名無史さん
09/07/26 19:12:14
上のアホはほうっといて、次行こう。
蘇我氏の出自は未だにはっきりとした説が無い。これについては如何に?
百済出身なんてくだらない説は頼むから無しね。
608:日本@名無史さん
09/07/26 21:49:11
>>565 >>◆蘇我の名前はおかしい!〈韓子に高麗〉〈馬子に入鹿〉〈蝦夷〉〈稲目〉
・・・韓子、高麗というのは半島渡来の倭人という意味だろうな。
609:日本@名無史さん
09/07/26 22:41:17
まあ蝦夷はねえだろうな。
今でいうなら『鈴木野蛮人』みたいな名前ってことだぜ。
蘇我氏の名前はおかしい。
なんの記録が基準なんだろ。
最初から蘇我氏悪人のストーリーで伝授されてる
物語りなんじゃね?
610:日本@名無史さん
09/07/27 21:34:13
馬子に入鹿って・・・
要するに馬鹿って事だからな。
書紀を編纂したやつもそのつもりだったんじゃね?
611:日本@名無史さん
09/07/28 20:55:56
どの名もみんな、普通の人間じゃない。
外国の人間か、僻地の野蛮人か。
そういう名前ばかり集めたような・・・
ま、創作だろうな。
612:日本@名無史さん
09/07/28 20:56:40
>>607
>百済出身なんてくだらない説は頼むから無しね。
当時は百済も加羅も倭国も支配層は同族と考えられのでは?
613:日本@名無史さん
09/07/29 21:03:15
今さら日鮮同祖論かい。止めてくれよ。
614:日本@名無史さん
09/10/14 09:44:54
皇居の位置的損失、年間200億円。
皇室のお出まし損失、年間400億円。
皇室が抑えてる土地周辺の経済的損失60億円。
皇室に払う税金収入、5千億円。
民主党にお願いする。公共事業よりも、たった一つの
人間一家がこれだけの損失を日本国民に与えてる事実を公開しましょう。
皇居は国民が使える公園にすればよい。天皇は元々京都の人だから京都に帰せばよい。
615:日本@名無史さん
09/10/17 23:43:11
だから、早く京都に帰せって言ってるだろう。
皇室を江戸なんぞに置いてとくから日本がおかしくなるんだ。
さっさと皇室を戻して、田舎は元の田舎に戻れ。
616:日本@名無史さん
09/10/18 21:04:56
>614
そう、君、いい事言う。天皇京都帰還運動を開始しよう。
実現すれば、首都移転問題も中央集権の問題も全て解決する
東京の繁栄の源泉は、いまだに生けている戦中の統制経済にある
天皇を京都に帰すことが、その強固な既得権の破壊につながる
617:日本@名無史さん
09/10/18 22:47:53
【韓国】中国は反省せよ・・・我々の祖先の国は「韓国古代国家」と明らかになったではないか
URLリンク(maokapostamt.jugem.jp)
【韓国歴史】 私たちの先祖が作った漢字には韓民族の哲学思想が込められている~韓民族史観定立意識改革会講義
URLリンク(maokapostamt.jugem.jp)
【韓国KBS】「満州はもともと韓民族の土地。 清朝を樹立した愛新覚羅氏も、祖先は韓国人」
URLリンク(news.searchina.ne.jp)
【韓国歴史書】「上海も韓国の領土だった」に中国紙が反論
URLリンク(news.searchina.ne.jp)
【韓国歴史】 「箕子朝鮮はなかった」「ジンギスカンも韓民族」~韓民族史観定立意識改革会「正しい歴史を子孫に」
URLリンク(jsmind.blog18.fc2.com)
618:日本@名無史さん
09/10/19 08:33:11
今の天皇家には蘇我馬子の濃い血が流れている。
入鹿が暗殺されて宗家は滅亡
壬申の乱で分家も衰弱したが、藤原不比等の子孫が蘇我家の血を伝えている
不比等の妻は、入鹿の従兄弟の娘だそうだ。
619:日本@名無史さん
09/10/19 08:41:24
[偽書とされる書における檀君] <清の嘉慶5年(1800年)に命名された地名「長春」が見え>
<20世紀に入ってから作られた男女平等、父権などの用語が使用されている>
『桓檀古記』に含まれる「檀君世紀」上編[2]によれば、檀君朝鮮は始祖王倹より古列加まで47代続いた王朝であったという。
しかし、同書や同じく『桓檀古記』にある「太白逸史」には清の嘉慶5年(1800年)に命名された地名「長春」が見え、
「太白逸史」の引用書「朝代記」に至っては男女平等、父権などの近代になって登場した用語が使用されている。
このことから、20世紀に入ってから作られた新しい偽書であることが確実視されている。
620:日本@名無史さん
09/10/19 08:43:02
[偽書とされる書における檀君] <清の嘉慶5年(1800年)に命名された地名「長春」が見え>
<20世紀に入ってから作られた男女平等、父権などの用語が使用されている>
『桓檀古記』に含まれる「檀君世紀」上編[2]によれば、檀君朝鮮は始祖王倹より古列加まで47代続いた王朝であったという。
しかし、同書や同じく『桓檀古記』にある「太白逸史」には清の嘉慶5年(1800年)に命名された地名「長春」が見え、
「太白逸史」の引用書「朝代記」に至っては男女平等、父権などの近代になって登場した用語が使用されている。
このことから、20世紀に入ってから作られた新しい偽書であることが確実視されている。
621:日本@名無史さん
09/10/19 11:53:44
●蘇我氏(そがうじ)日本大百科全書
URLリンク(100.yahoo.co.jp)
大和(やまと)国家から飛鳥(あすか)時代にわたる有力氏族。姓(かばね)は臣(おみ)。
後世の系図では、孝元(こうげん)天皇の孫(または曽孫(そうそん))の武内宿禰(たけしうちのすくね)を、波多(はた)
・巨勢(こせ)・平群(へぐり)・紀・葛城(かずらき)氏とともに祖先とし、武内宿禰の子の石川宿禰に始まるとする。
その起源は、奈良県橿原(かしはら)市曽我(そが)または大阪府南河内(かわち)郡の石川流域とする両説があったが、
百済(くだら)の高級官人木満致(もくまち)が5世紀末に渡来し、大和の曽我に定着したのに発したとの説も有力である。
氏名の蘇我は、曽我、宗賀、巷宜、巷哥などとも記される。
622:日本@名無史さん
09/10/19 16:34:43
>>621
それ書いてるやつの名前が読めないんだけど
623:日本@名無史さん
09/10/21 18:40:43
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(www.regasu-shinjuku.or.jp)
この聖徳太子の肖像画は本人を描いたものではないんだよね?
624:衣笠宮
09/10/27 00:04:42
聖徳太子≒押坂彦人大兄皇子は多分違うと思うけど
私の次の疑問に答えていただきたく
■どうして麻呂子(椀子)皇子があんなにたくさんいるのか?
7、8人はいるでしょ。このことによる系図上の混乱があってもおかしくないけど..
■どうして推古天皇の子であり竹田皇子の弟である葛城、尾張皇子は
全く天皇の候補になっていないの?、また、どうして尾張皇子の娘と聖徳太子との間に
生まれた白壁王が全く日の目を浴びていないのか? 血筋的には最大の候補と思うけどね。
■どうして舒明天皇の兄であり皇極、孝徳天皇の父である茅渟王は情報がないの?
625:日本@名無史さん
09/10/27 00:29:57
歴代の政権担当の藤原・平家・源氏・足利・徳川みな天皇家と姻戚関係をもっているだろ!
626:日本@名無史さん
09/11/08 22:48:34
【日本国家の成立】
~日本民族の統一~
①神武朝(神話)
②崇神朝(大和朝)
③応神仁徳朝(筑紫朝)
④顕宗仁賢朝(播磨朝)
⑤継体欽明朝(越近江朝)→天智・天武→聖武・桓武→明治(維新近代化)→現在に至る。王朝内は男系にて繋がっており、各王朝間は女系にて繋がりを維持。125代!
蘇我が欽明朝成立に関わったのは事実。しかし蘇我王朝の夢が潰れた時に、日本は大きく動きだす!
627:日本@名無史さん
09/12/26 23:24:39
国記、天皇記
628:日本@名無史さん
09/12/28 13:17:09
>>615
あんた亀井だったのか
629:日本@名無史さん
10/02/14 01:48:30
ん?
630:日本@名無史さん
10/03/09 17:35:47
>>1
>この説に対する批評、意見を広く求めます。
いいしせいだ
631:日本@名無史さん
10/03/23 23:41:21
ほー
632:日本@名無史さん
10/04/09 23:28:02
蘇我馬子の血統を受け継ぎ、皇室にも血統を伝えた藤原氏は蘇我氏の
末裔として名誉回復に動くべき。
んっ!蘇我氏の悪口をさんざん正史に記録させたのは蘇我氏から正室を
迎えた藤原不比等じゃないか?!
633:日本@名無史さん
10/04/10 01:22:26
>>611 >>外国の人間か、僻地の野蛮人か。
・・・外国、僻地を平定したという意味だろうな。
634:日本@名無史さん
10/04/10 01:55:30
【日本国家の成立】
【日本民族の統一】
①神武朝(神話)
②崇神朝(大和巻向朝)
③応神仁徳朝(筑紫朝)
④顕宗仁賢朝(播磨朝)
⑤継体欽明朝(越近江朝)→天智・天武→聖武・桓武→明治(維新近代化)→現在に至る。王朝内は男系にて繋がっており、各王朝間は女系にて繋がりを維持。125代!
蘇我が欽明朝成立に関わったのは事実。しかし蘇我王朝の野望が潰れた時に、日本は大きく動きだす!
635:日本@名無史さん
10/04/10 01:59:18
蘇我は後世から「馬鹿」命名されたからな!
蘇我・「馬」子
蘇我・入「鹿」
636:日本@名無史さん
10/04/10 08:34:10
本家の入鹿が滅ぼされた後に分家の石川麻呂、連子、赤兄が大臣に
なっている当時の蘇我氏の名門ぶりは異常。
後世の藤原氏や源氏みたいな存在か。
637:日本@名無史さん
10/04/10 08:35:45
平成天皇はどこの馬の骨かもわからないよね
638:日本@名無史さん
10/04/10 09:04:12
>>635
まさか本気でそう思ってるわけじゃないよな?
639:日本@名無史さん
10/04/10 18:29:34
浩宮を廃太子に賛成!
640:日本@名無史さん
10/04/13 01:20:28
蘇我の名前てみなおかしいんだよね。
変な名前ばかり付けられている。
親なら決して付けない名前だらけ!
641:日本@名無史さん
10/04/17 14:40:27
当時は蘇我だけではなく、みんなヘンテコな名前だよ。今の基準で話すなよ。
642:日本@名無史さん
10/04/21 00:52:39
日本最強の軍事氏族の物部を滅ぼし、天皇すら言いがかりをつけて殺せるほどの
力を持った馬子が政治に無関心であったはずがない。
遣隋使や17条憲法なんかは最高権力者の馬子がやったことなんだろ?
643:日本@名無史さん
10/04/21 02:27:24
馬子だったらもっと早くやってたんじゃないか、って意見もある。
644:日本@名無史さん
10/04/26 13:12:07
蘇我一族の名前は、特におかしい!
アソコまで変な名前の一族は無いだろ。
645:日本@名無史さん
10/04/27 00:38:32
冠位制を超越した立場にある蘇我氏の族長が世襲した紫冠が
見てみたい。
646:日本@名無史さん
10/04/27 01:08:28
日本の歴史2000年のなかで、馬子は天皇を暗殺した唯一の人。
戦前は、足利尊氏のように評価が低かったのかな。
647:日本@名無史さん
10/04/29 18:06:34
>>624
どうして麻呂子(椀子)皇子があんなにたくさんいるのか?
>麻呂子という名前は「太郎」のように男子を代表する名前だったって言う
説がある。諱を出せない時代だから。識別は養育氏族や部で判断。
また、どうして尾張皇子の娘と聖徳太子との間に
生まれた白壁王が全く日の目を浴びていないのか? 血筋的には最大の候補と思うけどね。
>白髪部王ではなくて?
彼のことは知らないけど、名前から夭折したのかと思っていたのだけど。
■どうして舒明天皇の兄であり皇極、孝徳天皇の父である茅渟王は情報がないの?
>大俣王という漢王の妹と押坂彦人皇子が両親ですよ。
確か桑田王という妹がいたはず。
舒明に関しては実弟についても名前以外の情報がなく、その後も出てきません。
彼が死んだ後も、一切名乗り出ることなく。妻の弟が即位したときでさえ、
ちらとも出てこない、欲のない人たちでした。
648:日本@名無史さん
10/05/22 00:43:39
蘇我系天皇が即位しても、皇統は蘇我の血を避けて繋いでいますね。