「天皇家の真の皇祖は蘇我馬子」論at HISTORY
「天皇家の真の皇祖は蘇我馬子」論 - 暇つぶし2ch300:日本@名無史さん
07/04/26 01:25:28
木満致の父はキラ・ヤマト

301:日本@名無史さん
07/04/26 11:09:07
>>297 どうも誤解があるようです。

こいつは、まるで誤解した人間が悪いかのようなものの言い方をする汚いやつである。

1 こいつは、はっきりと断言している!
>>7 天智天皇の祖父は押坂彦人大兄皇子であるが、この人物は蘇我馬子と同一人物であるというのが私の説である。
この段階で、押坂彦人は敏達の子ではないと、きちんと書かなければ誤解するのは当然である。
7の表現が自説の正確な表現ではないというなら、まず、それをきちんと訂正すべきだろうに、そんな誠意はないらしい。

2 系譜・系図を示せ!
自説に基づくきちんとした系譜・系図を示せば、誤解をかなり避けられる。
ところが、こいつはそれを絶対にしようとしない。
>>34, 37, 57, 65, 72, 83, 94, 111, 140, 143, 152, 183, 184, 187, 226, 235
これほど繰り返し要求されていることを無視し続けながら、「誤解」で済まそうとする恥知らずである。

3 下劣なビッグマウス!
これまでの書き込みを見れば分かるとおり、こいつは、さんざん議論を逃げ回りながら、
この説に対する批評、意見を広く求めます。(>>1) とか
徹底的な議論を望みます(>>11) などと、吹かしている。

こいつは、大げさなものの言い方で、嘘を吐き続ける、卑劣な嘘吐き人間である。

302:日本@名無史さん
07/04/26 11:12:14
>>235 (再掲)
自説で想定する系図を早く見せないのは無責任です。
話題を変えて、議論から逃げ回ってぐずぐずしてるから、どんどん系図の条件が多くなっています。

あなたには、
 馬子=押坂彦人 (別名)、かつ、
 馬子=蘇我蝦夷と舒明天皇と厩戸皇子の親、かつ、
 馬子=スサノヲ (正体)、かつ、
 蘇我氏は木満致の子孫で百済系、かつ、
 蘇我氏は葛城系、かつ、
 天皇及び主要な皇子、姫、臣下を記載、かつ、
 日本書紀等に照らして「疑問も矛盾もない」
という系図を見せる責任があります。  (>>53>>118も参照)

皇統の系譜が替わったという説なのですから、系譜・系図はとても重要です。
というより核心です。
どれだけ複雑になろうと、日本書紀等の記述と照らし合わせることが可能なレベルの詳細さが求められるのは、当然のことです。

無責任な気持ちでいるのなら、このスレッドを閉じて欲しい。

303:日本@名無史さん
07/04/26 11:55:51
>>287
こいつは、人を見下すようなことをいうくせに、自分の言葉に責任を持とうとしない。

「大倭木満致」の「大倭」について
>>267 木満致が天皇の祖先であるという認識があったのでは
なんぞと、吹かしているが、以前に、

>>79 木満致になぜ「大倭」が付いたかはいろいろ想像をかき立てられる面白い問題だと思います。
   私は朝廷内部にレジスタンスがいたと考えています。
と、吹かしたことをスットボケようとする。
この段階で、267のようなことを考えていたのであればそう書くべきであるし、後から思いついたならきちんと訂正すべき。

>>288の魏志倭人伝と関連付けた質問にも答えようとしない。魏志倭人伝の「大倭」を知らないのであろう。
行き当たりばったりに記紀のつまみ食いをし、それをみっともなく自慢しようとしているだけだということは明白である。

なんとも卑劣なやつだ。

304:日本@名無史さん
07/04/26 11:58:21
こいつのダメぶりを、少しだけ整理 (あまりにひどすぎるので、全体像を整理することは困難!)

a 押坂彦人=馬子 (同一人物)⇒ 破綻
   このスレの至る所で反論され、それに答えることができず。
   相手を見下してからかうような負け惜しみしか言えない状況。

b 押坂彦人=馬子 (別名)  ⇒ 破綻
   おそらくaのようなセンセーショナルな表現により、2chの世界で大ウケすることを狙ったのであろう。
   しかし、ぼろ糞にコケたので、bのように表現を変えた。(>>40あたりから)
   しかし、自説の表現の訂正をきちんと言うこともなく、「誤解があるようだ」なんぞと他人を暗黙に馬鹿にする卑劣っぷり。
   もちろん、これも破綻し、まったく反論できず。(>>119>>121)

305:日本@名無史さん
07/04/26 12:01:27
>>304 (続き)

c 古墳についての珍説 ⇒ 破綻
   これもこのスレの至る所で論破されまくり。
   特に、>>251などで、大恥決定。

d 木満致は、百済人で、蘇我の祖先 ⇒ 破綻
   この結論は、トンデモの世界でありきたりの説なので、これぐらいはもう少し説得力のある説明ができそうなものなのだが、
   こいつの場合は、まったくダメダメで、軽く論破!
   記紀の知識をひけらかすつもりが、枝葉末節をつまみ食いするような知識しかないことが暴露され、
   原文を示した反論などには、まったく無力。
   特に、自説で気付かなった記述を指摘されると、完全黙秘という卑劣ぶり。

306:日本@名無史さん
07/04/26 15:44:26
ⅰ 議論の内容はすべて論破された
ⅱ 議論の論理的方法も否定された
ⅲ 議論に臨む態度も卑劣と非難された

3点セットでダメダメやね。

307:広瀬満
07/04/26 19:09:59
>>299
早速のレスありがとうございます。

>>舒明天皇の兄である蘇我蝦夷が即位すればよかったはず。
なぜ即位しなかったのですか?
舒明天皇の母は糠手姫皇女で敏達天皇の皇女ですから天皇(大王)と血は繋がっています。
一方蝦夷の母は物部守屋の妹ですから天皇と血の繋がりがありません。このことが重要だと思います。
飛鳥時代以前の皇統は双系主義、すなわち男系、女系どちらかで繋がっていることが皇位継承の条件だったのではないでしょうか。

>>押坂彦人大兄皇子が異母妹をめとっているのも普通ですね。
この時代1人というのはよくあります。しかし3人ともなれば見過ごすわけにはいかないと思います。

>>二人が同時に大后であった事実はなく、なんら問題はない。
重大な問題とは思いませんが、注目すべきことだとは思います。

308:広瀬満
07/04/26 19:11:10
続き

>>押坂彦人大兄皇子が用明天皇の皇太子であったことはどう考えます?
 彦人大兄が用明天皇の皇太子であったというのは彦人大兄を敏達天皇の子としたことに伴う書記の欺瞞だと思います。
後代史料ですが『本朝皇胤紹運録』や『一代要記』では、舒明天皇は49歳で崩御したとされています。
そうだとすると舒明天皇の生誕は推古元年(593)となり、彦人大兄はそのころまで生存していたことになります。
 もし彦人大兄が用明天皇の皇太子だったとするとなぜ天皇に即位しなかったかが問題になりますし、
皇太子といえば天皇に次ぐ地位なのになぜ没年についての記載すらないのかが問題になると思います。

広瀬満

URLリンク(www.kojikiden.com)

309:日本@名無史さん
07/04/26 19:51:04
>舒明天皇の母糠手姫皇女の件
舒明天皇は押坂彦人大兄皇子と糠手姫皇女の間に生まれていますが、
蘇我馬子が糠手姫皇女の夫であったという説は不自然です。
なぜなら皇女が臣下に嫁いだ例が日本書紀には一件も見えないからです。
皇族同士の異母兄妹間の結婚はよく例のあることですが、
馬子が前人未踏、史料上一度も確認されない皇女3人との結婚が事実だったとはとても考えられない。
敏達の母は息長広姫で、蘇我氏とは血縁関係も全くなく、馬子に皇女を下賜する理由もありません。
それも、3人までも。
欽明天皇と石姫皇女の間に生まれた敏達天皇であってみれば、やはり娘は皇族に嫁がせたでしょう。

>>押坂彦人大兄皇子が用明天皇の皇太子の件
たとえ押坂彦人大兄皇子が用明天皇の皇太子であったとしても、
継母推古天皇との確執失脚、廃太子に追い込まれていれば、没年が残らなくても不思議はありません。
皇太子として没年が残っているのは厩戸皇子くらいで、
ほかの皇子は攻め滅ぼされただの、事件性がない限り、ほとんど記載がありませんからね。
『本朝皇胤紹運録』は室町時代、『一代要記』は鎌倉時代に編纂されたもので、一次史料とは言い難いと思います。

310:広瀬満
07/04/27 18:41:16
明日返答をいたします。

311:広瀬満
07/04/28 18:12:21
>>309
順序が逆になりますが舒明天皇の年齢についいて
『本朝皇胤紹運録』はたしかに室町時代時代の史料ですが、後小松上皇の命で編纂されたもので皇室関係の
資料としてはかなり信頼度の高い史料とされています。
 また天智天皇の生年が推古34年(593)、また舒明天皇の母が天皇の崩御から23年後(664)に
死去しているところから見て舒明天皇の49歳というのはまず信頼できると見てよいのではないでしょうか。
もし彦人大兄の死去が丁未の役の直後だとすると天智天皇の生誕は舒明天皇が40歳以上ということになりますし、
同母妹の存在も考えるとそれよりさらに高年齢で子をもうけたことになりそれでは年齢的に遅すぎると思います。

 たしかに「日本書紀」に皇女が臣下に嫁いだ例は一件も見えません。しかし婚姻関係の不明な皇女も多く、
この時代に皇女は臣下には嫁がなかったとは言えないと思います。おそらく臣下に嫁いだ皇女の婚姻関係のことまで
「日本書紀」には記されなかったのではないでしょうか。
 皇后でもなかった姉を欽明天皇の陵に合葬したり、崇峻天皇を弑逆しながら何ら処罰されず、
傍若無人とも言えるような馬子を並の臣下と同列に扱うことはできないと考えます。
 前天皇の皇女を複数娶り、生まれた子を皇位に付けようと考えていたとしてもおかしくないと私は思います。
 彦人大兄が敏達天皇の皇女を娶ったのはおそらく敏達天皇の死後、丁未の役の後でしょう。

続く

312:広瀬満
07/04/28 18:12:54
続き
 いうまでもなく「日本書紀」は彦人大兄直系の子孫の手によって編纂されたものです。彼らからすれば傍系になってしまった
厩戸皇子についてはあれほど饒舌に語る「日本書紀」が、直系でしかも丁未の役の直前、事件の渦中にあったと思われる
彦人大兄についてはなぜあれほどまでにかたくなに口を閉ざしているのか、疑問は持たざるをえないのではないでしょうか。
 また仮に推古天皇との確執で失脚、廃太子に追い込まれていたとすれば、なぜ推古天皇の後継者として田村皇子が
即位できたのか難しい問題が浮上することになります。
 
広瀬満

URLリンク(www.kojikiden.com)

313:日本@名無史さん
07/04/28 20:11:43
>>311-312
蘇我蝦夷には、雄正(雄富)という兄がいたことが知られています。
しかし、雄正の子蘇我倉山田石川麻呂や蘇我赤兄が正嫡とならず、
弟蝦夷からその子入鹿に大臣の位が譲られている所を見ると、
蝦夷が馬子の嫡子であった(母親が正室だった)からでしょう。
蝦夷の母が物部氏であり、馬子が滅ぼした物部守屋の妹であったことは、知られるところです。
馬子の正嫡であった蝦夷は、馬子から大臣位を受け継ぎ、「天皇記」「国記」を受け継ぎました。

仮に、馬子が敏達天皇の3人の皇女をめとっていたとすれば、
これらの皇女は、滅ぼされた物部守屋の妹よりも、格段に上。
ことに、舒明天皇の母糠手姫皇女は3姉妹のうちもっとも年長で、
間違いなく馬子の正室であったはずです。
となれば、馬子は当然、皇女たちとの間に生まれた子息にそれ相応の
身分と位を与えねばならず、蝦夷への政権委譲が簡単に行い得たはずはありません。
外戚政策で栄えた蘇我氏が、皇女たちの生んだ娘達を天皇家へ一切いれていないのも、おかしな話です。
ことに、蘇我氏が滅びる時に蝦夷の手元にあった「天皇記」「国記」は、
馬子正嫡舒明天皇のあるはずで、庶兄が伝えているとはおかしな話です。

314:日本@名無史さん
07/04/28 20:23:50
313の続きです。
推古天皇の話に移ります。
推古天皇には竹田皇子、尾張皇子という皇子がありましたが早世し、
推古天皇は、以後の天皇を自らの息子以外から出さねばなりませんでした。
そのために、皇太子厩戸皇子と、押坂彦人大兄皇子にそれぞれ娘を嫁がせました。
いずれかに皇子が生まれれば、将来大王として君臨する日も来ると願ったのでしょう。
馬子は、推古天皇の父欽明天皇の31年に父稲目が没し、以来、
推古天皇の夫敏達、兄用明の代にも大臣であった人です。
当然、推古天皇よりも年上であったと思います。
その馬子が姪の推古天皇の皇女を娶り、山代王、笠縫王を生ませたというのですから、
その年齢差は相当なものです。
推古天皇は、押坂彦人大兄皇子をいったんは皇太子の座から追いましたが、
有力な皇位継承者であることは認識していました。
そのために自らの皇女を嫁がせたのです。
田村皇子にも推古天皇の皇女が嫁いでおり、その意味では推古天皇が田村皇子を
擁立しようとした理由は十分にあります。


315:日本@名無史さん
07/04/28 20:43:03
続きです。
推古天皇は母方の蘇我氏を優遇しましたが、父方の大王家も敬っていました。
田村皇子が馬子の男系孫であったならば、迷わず即位に反対したでしょう。
推古天皇の死により皇統が蘇我氏に移ってしまったのなら、
多くの2世王、3世王がこれに反対し、とても山背大兄皇子一族のみを滅ぼせばすむ話ではなかったはずです。

史料に一度も現れない女系相続、皇女との婚姻を推測するのは、あまりに無謀です。

『本朝皇胤紹運録』ですが、後小松天皇の命により洞院公賢らが編集した当時、
すでに世が室町次代で、何らかの文献によらねば飛鳥時代の事はかけません。
公賢がさまざまな文献に当たったであろうことは推測できますが、
見比べてみると、この時代に関しては。「日本書紀」によった部分が多いと思います。
紀記、上宮聖徳法王帝説等には触れるところがないのですが、なにか、室町時代に残っていた古文書で、
舒明天皇について『本朝皇胤紹運録』に引用されるべき史料をご存知なのでしょうか?
父母の年齢から舒明天皇の年齢を推測したというのならそれはそれでいいですが、
この時代のことを語るのに『本朝皇胤紹運録』『一代要記』を引用するのは適当ではありません。

316:広瀬
07/04/29 17:25:13
>>313->>315
早速のレスありがとうございます。
あまりに早いレスに驚きました。
連休中につき、あさって頃返答いたします。



317:日本@名無史さん
07/04/29 18:38:33
珍説だなあ。。。。
自分としては同じ珍説でも、蘇我家は天皇家の直接の祖先というのではなく、
天皇家とは別系統の王統だった、という見解を持っている。


318:日本@名無史さん
07/04/30 01:40:42
そうなの。血縁築いてよしんば大王を名乗り誰かと同一人物になったとしても
大勢に影響なし。
別系統でひっくり返す気概がウマコにあったとなれば興味も持てるのだけど。

319:日本@名無史さん
07/04/30 08:39:16
馬子と厩戸ってどっちも(ウマコ)と読めるよね。
なんでウマヤドなの?
聖徳太子の生誕説がキリスト教から流用したものなら
厩(ウマヤ)皇子でよいと思うがなー

320:日本@名無史さん
07/04/30 14:51:18
>>317
>天皇家とは別系統の王統だった、という見解を持っている。
どんな説か一度聞かせてくれ。


321:日本@名無史さん
07/04/30 16:57:24
>>320
詳しく説明するのは面倒くさいんで
「九州王朝説」の亜流みたいなものだ、と言えばピンと来てもらえるでしょう。

322:320
07/04/30 17:22:50
なるほど「九州王朝説」か

323:日本@名無史さん
07/05/01 09:57:14
GWの間に、なにやら怪しげなやり取りが進んでいたのだな。
しかも、広瀬流は、ついにチョット以前に流行った「双系主義」なんぞと言い出した。
最重要ポイントだが、そこを突っ込む前に、まず細かいところから片付けよう。

>>307 糠手姫皇女で敏達天皇の皇女

同じ敏達の子と日本書紀に書かれているのに、
  押坂彦人は捏造
  糠手姫皇女は真実
このように読み分ける根拠は、そうすれば自節に都合がよいという以外、何も示されていない。

あいかわらずの御都合主義の広瀬流。
トンデモ説の見本!!!

324:日本@名無史さん
07/05/01 09:58:00
>>307 3人ともなれば見過ごすわけにはいかない

まず、下劣にも、「3人」という数字が「理由はわからない」という、いい加減な数字だったのをトボケている?(>>32, >>69)
御都合のよろしい広瀬流!!!

そして、もっと本質的な矛盾もスルーしてしまうのが広瀬流。つまり、
広瀬流は、即位していない皇子(=押坂彦人)に3人も妹が結婚するのは、異常で説明がつかないと言っている。
その矛盾を解消するために、その3人は馬子と結婚したのが画された真実だと言いたいらしいが、、
臣下の馬子に天皇が3人も自分の娘を結婚させることのほうが、よほど異常で説明がつかないだろう。

矛盾を増幅していることが理解できない広瀬流。

325:日本@名無史さん
07/05/01 10:00:21
>>308 彦人大兄が用明天皇の皇太子であったというのは彦人大兄を敏達天皇の子としたことに伴う書記の欺瞞だと思います

広瀬流は、「書記の欺瞞」とする根拠が、自節に都合が悪い記述だからという以外、何も示すことができない。
それでいて、「(自説が)日本書記など多くの資料にどのような疑問や矛盾が発生するのか具体的に説明してもらいたい」(>>13)
などと吹くのだから、よほど論理思考ができないのであろう。

「自説に都合の悪い箇所は欺瞞あるいは捏造とする。故に自説には疑問や矛盾もない。」
こんなタワケタ論法が許されるなら何でもありとなる。
資料の断片的知識をひけらかし、衒学的ポースで自己陶酔する広瀬流。
トンデモ説の見本!!!

326:日本@名無史さん
07/05/01 10:03:11
>>308 もし彦人大兄が用明天皇の皇太子だったとするとなぜ天皇に即位しなかったかが問題になります

もう何をか言わんや、という感じである。
用明が病死しそうになったとき、中臣勝海連が押坂彦人を呪殺しようとするのはおかしいという、以前の主張と矛盾する。(>>14)
これって何度も繰り返し強弁していたことだが、ここではトボケる。
押坂彦人が有力な天皇候補であれば、穴穂部を天皇に推す守屋のため、中臣勝海連が押坂彦人を呪殺しようとしても不思議はないのだが、
用明が病死しそうになったとき、押坂彦人は殺す必要もないような存在、すなわち天皇候補として有力ではなかったと、以前は主張した。
今さら「なぜ天皇に即位しなかったかが問題」など、よく言えたものだ。

広瀬流は、行き当たりばったりの説である。
というより、御都合主義で、資料の枝葉末節をつまみ食いして、食い散らかしているだけであるから、すぐに自己矛盾が発生するのだ。

327:日本@名無史さん
07/05/01 10:06:08
>>309 蘇我馬子が糠手姫皇女の夫であったという説  (← 309は、広瀬流への反論 ?)

確かに広瀬流では、馬子=押坂彦人(別名)なので、「蘇我馬子が糠手姫皇女の夫」となる。
しかし、これまでの広瀬流の記述で、「蘇我馬子が糠手姫皇女の夫」とはっきり書いた箇所はない。
即位していない皇子に3人も妹が結婚するのは、異常で説明がつかないと言っているのである。
309を書かれた方は、広瀬流トンデモ説を、とても、とても、とても良く理解しているようである。

313は、広瀬流の「よく分からない」と本人自らうっかり吐露してしまったいい加減な前提を受け入れて議論しているし、
314で、推古の立場を言及するのは再反論及び議論を混乱して敵前逃亡するための伏線を用意してあげるようなものだし、
315で、ずっと後の時代の資料の価値・信憑性を論争するなど本来の専門のやることで、ここでは低レベルの言い放しになること必定だし、
広瀬流に「お付き合い」しすぎだよ。

広瀬流は、313~315に対して水掛け論とは言わんのか?
用語や文体も、広瀬流に良く似ていることで。

おい、仲間どうしでエールの交換か?
まさか自作自演・・・。

328:日本@名無史さん
07/05/01 12:13:57
>>307 飛鳥時代以前の皇統は双系主義、すなわち男系、女系どちらかで繋がっていることが皇位継承の条件だったのではないでしょうか

久しぶりに、自説の核心に近いことを言ったな。
こういうことを、明確にするためにも、系譜・系図をとっとと示せと言っているのだ。

広瀬流を整理しよう。

疑問:広瀬流では、馬子=押坂彦人であり、蝦夷と田村(=舒明)は兄弟であるが、
   兄の蝦夷ではなく弟の田村が即位したのは矛盾ではないか?

答え:飛鳥時代以前の皇統は双系主義であり、田村の母が糠手姫で天皇(敏達)の血を引いているから。

疑問に答える屁理屈が立ったように見えるが、以下のとおり、お得意の「矛盾の増幅」&「恥の上塗り」となってしまった。(続く)

329:日本@名無史さん
07/05/01 12:16:04
>>328 (続き)
「飛鳥時代以前の皇統は双系主義」

広瀬流は、こんな重要なことをなぜもっと早く言わなかったのか?
おそらく、先の矛盾を突きつけられて窮したあげく、田村の母が糠手姫であることに、ある日、天才広瀬が気付いたのであろう。
そして、「双系主義」なんぞと、今さら言い出した。
例によって、御都合主義である。

しかし、これによって広瀬流の説は大きく変節した。
男系、女系、いずれを正統な後継とするかは、とても重要である。
「天皇家の真の皇祖は蘇我馬子」というスレタイは、「双系主義」なんぞと言い出す以上、正しくは、
「天皇家の男系の皇祖は蘇我馬子」とすべきである。
いや、それと同程度に重要な双系主義も結論として明記すべきであって、
「天皇家はかつて双系主義であり、男系の皇祖は蘇我馬子」とすべきである。

330:日本@名無史さん
07/05/01 12:18:06
>>329 (続き)
広瀬流とは、馬子の箇所については、
a 馬子=押坂彦人
  馬子=皇祖
ではなく、「馬子の別名が押坂彦人であり、馬子は男系の皇祖である」、すなわち、
b 馬子=押坂彦人(別名)
  馬子=皇祖(男系)
というものである。

aと比べると、bはずいぶん後退している。
本当は、aのようなセンセーショナルな説で注目されたかったのであろうが、ボロ糞にやられたので、bに後退したというのが実態だろう。
ショボイ話だ。

しかも、矛盾を取り繕うために後退したつもりが、かえって矛盾が増幅されていることが悲しい。(というか、思考力なし)(続く)

331:日本@名無史さん
07/05/01 12:20:25
>>330 (続き)
「飛鳥時代以前の皇統は双系主義」の根拠は何か?
こんな重要なことを根拠なしで主張するなど許されることではない。
チョット以前に流行った『養老令』の「凡皇兄弟皇子、皆為親王。女帝子亦同」に言及することもできない無学ぶり。
(もっとも、学会の大勢は、これを双系主義の根拠とすることを否定しているらしいが。ここは大勢に迎合したのか?)

今のところ、「飛鳥時代以前の皇統は双系主義」の根拠は、そうでないと自説に不都合で、解消不能な自己矛盾が生じてしまうからである。

アホらしか。

矛盾の増幅!!!
矛盾の増幅!!!
矛盾の増幅!!!
矛盾の増幅!!!
矛盾の増幅!!!

本当に恥さらしです。(続く)

332:日本@名無史さん
07/05/01 12:23:40
>>331 (続き)
実は、「兄の蝦夷ではなく弟の田村が即位したのは矛盾ではないか?」は、ほとんど解消されていない。

この答えとして田村の母が天皇の皇女だからというものだが、

1 では、なぜ、蝦夷が即位し、蝦夷の母を天皇の皇女と捏造しなかったのか?
広瀬流は、馬子に押坂彦人大兄皇子と別名を付けて、父を敏達と捏造したという説なのであるから、
蝦夷の母を皇女と捏造することなど造作もないことであろう。

2 あるいは、なぜ、蝦夷(あるいは入鹿)が天皇の皇女を娶り、その子を即位させようとしなかったのか?
馬子が天皇の皇女を娶ることができたのであれば、蝦夷も同様のことができたであろう。
自分の異母弟が天皇となることを傍観し、自分の子が天皇となるように画策しないほど、蝦夷はノンキだったのか?

大王位を簒奪しようとしていたとされる入鹿についても、母を皇女と捏造したり、天皇の皇女を娶らなかったのは何故だ?

「兄の蝦夷ではなく弟の田村が即位したのは矛盾ではないか?」が解消されたとは、とても言えない。

「双系主義」なんぞというお馬鹿な矛盾の増幅をしてみたものの、そもそもの矛盾も解消できないという、
恥の上塗りをやらかしている。

333:広瀬満
07/05/01 19:56:33
>>313
 私は蘇我氏による王権の簒奪があったことを主張しているわけですから、簒奪された側の王朝の皇女が
馬子の妻より立場が上であったと言い切れるか疑問です。守屋はその妹で馬子の妻の謀で殺されたといわれ、
蝦夷はその母方の財力で勢威を張ったとされ、馬子の妻はかなりの実力者だったと思われますので、糠手姫皇女が
馬子の正室だったとは考えにくいでしょう。
 皇女の生んだ子が天皇に即位したわけですから皇女たちの生んだ娘が天皇に嫁ぐ必要もないでしょう。
 本来なら天皇家にあるはずの「天皇記」「国記」が蘇我氏の館にあったこと自体が
天皇家が蘇我氏だったことの傍証ではないでしょうか。
 蘇我氏の正嫡の蝦夷が政治の実権を握るとともに天皇家を支えていたと思います。



334:広瀬満
07/05/01 19:57:34
>>314
 権力者が若い女性を娶るというのはよくある話です。
 推古天皇が彦人大兄をいったんは皇太子の座から追放したというのは記録になくレス主の想像ですが
これを前提に議論を勧めるにはそのようなことがあったことの証拠なり、傍証がいくつか必要だと思います。
仮に追放というようなことがあったとしても一度廃太子になった人物が有力な皇位継承者として認識されていたかどうか・・・


335:広瀬満
07/05/01 19:58:47
>>315
蘇我氏の全盛期に推古天皇や2世王、3世王が田村皇子の即位に反対できるだけの立場にいたかどうか。
田村皇子の母は敏達天皇の娘ですし、314でおっしゃるように推古天皇の娘が田村皇子に嫁いでいたことも忘れてはならないでしょう。

「日本書紀」は天皇が自らの正当性を明らかにするために書いた歴史書ですから女系相続(王朝交代)があったとは
書けなかったのは当然で、そのことの推測が無謀なことだとは思いません。

 舒明天皇の没年齢を推定するのに『本朝皇胤紹運録』『一代要記』の引用は不適当というのは疑問です。
舒明天皇の没年齢を推定しようと思えば『本朝皇胤紹運録』『一代要記』を引用するしかありません。
たしかに後代史料ですがこの時代まで舒明天皇の没年齢を記した文献が残っていなかったとは言い切れません。
したがって史料批判が必要となりますが「日本書紀」の天智天皇の生年、母の没年等から考えて49歳というのは
ほぼ信頼できるのではないでしょうか。

336:日本@名無史さん
07/05/02 12:04:05
読めばすぐ分かるが、313~315は、完全に論理破綻をきたしている。
まず、333であるが、これは、すべての文がメタメタである。

>>333 私は蘇我氏による王権の簒奪があったことを主張しているわけですから、
   簒奪された側の王朝の皇女が馬子の妻より立場が上であったと言い切れるか疑問です。
自分の主張を前提にして他人の批判を「言い切れるか疑問です」と反論するのは、なんとも珍妙。
議論の前提条件は普遍的あるいは共通的なものでなければならず、そうでなければその前提条件そのものがまた議論の対象となる。
当たり前すぎることで、冒頭のような反論は中学生でもやらないような低レベルの反論だ。
前提条件と結果との区別がつかないらしい。
頭の中は混乱の極地なのであろう。

337:日本@名無史さん
07/05/02 12:07:15
>>333 守屋はその妹で馬子の妻の謀で殺されたといわれ、蝦夷はその母方の財力で勢威を張ったとされ、
   馬子の妻はかなりの実力者だったと思われますので、糠手姫皇女が馬子の正室だったとは考えにくいでしょう。

何を言っているのかとても分かりにくい悪文の典型である。
「守屋の妹」=「馬子の妻」=「蝦夷の母」=「馬子の正室」と読んで良いのかどうか不安になる。
「守屋の妹」=「馬子の妻」=「蝦夷の母」=「馬子の正室」は「かなりの実力者だった」が糠手姫皇女はそうでないらしいのだが、
そう主張する根拠が見当たらない。
糠手姫皇女の子が天皇になるのだから、それなりの実力者と考えないと、広瀬流そのものが破綻してしまう。

あるときは、天皇家は蘇我氏と比べてちっぽけな存在と言い、またあるときは、
天皇家を正当に継いだように歴史書を捏造しないといけないほど、天皇家は重要な存在と言う。

広瀬流のご都合主義です。何の一貫性も論理性もない。

338:日本@名無史さん
07/05/02 12:13:19
>>333 皇女の生んだ子が天皇に即位したわけですから皇女たちの生んだ娘が天皇に嫁ぐ必要もないでしょう。

意味不明。
何を言いたいのか理解できる方います?
313の反論にもなっていないし。

そもそも、「皇女たちの生んだ娘が天皇に嫁ぐ必要」性を論じても意味ない。
古代ではそういう例が多いのに、広瀬流ではそうならなくなってしまうのは疑問(というより矛盾の増幅)だろうということなのに。

頭、大丈夫か、心配してもしょうがないか。

339:日本@名無史さん
07/05/02 12:16:27
>>333 本来なら天皇家にあるはずの「天皇記」「国記」が蘇我氏の館にあったこと自体が
   天皇家が蘇我氏だったことの傍証ではないでしょうか

「天皇家=蘇我氏」というのが、また、あいまいなものの言い方で、どうにも困ってしまう。
広瀬流において、舒明以降は、馬子の子孫で、双系主義であるものの父系が蘇我系という主張のはず。
「天皇記」「国記」が蘇我氏の館にあったとき、例えば乙巳の変のとき、天皇は皇極だった。
広瀬流においても、「天皇家≠蘇我本宗家」である。 (今のところ。広瀬流はご都合主義なので、いつ主張が変わるか不安。)
「天皇家=蘇我氏」なんぞと聞いたら誤解する人多いだろうな。

で、「天皇家≠蘇我本宗家」である以上、「天皇記」「国記」が蘇我氏(正しくは、蘇我本宗家)の館にあったことについて、
何の疑問の解消にもなっていない。

広瀬流がいう「天皇家が蘇我氏だったことの傍証」であるはずもなく、論理的にトンチンカン。
というより、蘇我氏全体と蘇我本宗家をわざと混同させて自分の主張を通そうという、詐欺的文章。

340:日本@名無史さん
07/05/02 12:20:39
>>333 蘇我氏の正嫡の蝦夷が政治の実権を握るとともに天皇家を支えていたと思います。

「政治の実権」というのも、あいまいだな。
ここで問題にすべきは、内政や外交、軍事の実権ではなく、皇位継承における決定権や影響力がまず第1であるべきだろう。
このスレでは、スレタイのとおり皇祖は誰かが最重要課題であり、皇統の系譜が重要であるからだ。
ところが、皇位継承における決定権や影響力について、蝦夷がどれほどのものであったかということについて、広瀬流は触れようとしない。

肝心の論点が理解できていないのか?
そうかも知れない。(馬鹿だから)

そうでないかもしれない。(卑劣だから。)
ちなみに、舒明即位前紀には、「当是時蘇我蝦夷臣為大臣。独欲定嗣位。顧畏群臣不従・・・」とあって、この後、蝦夷は群臣を招いて宴会を開いたりするのだが、
誰を天皇にするか蝦夷一人では決めかね、群臣の顔色を伺っていた様子がありありと描かれている。
広瀬流でいうところの「蘇我氏による王権の簒奪が」行われるちょうどその時期のはずであるが、広瀬流はこの箇所を触れようとしない。
いつもは、記紀の知識をひけらかすのが自慢のくせにである。
読めば分かるが、蝦夷の力は王権を簒奪するほどのものとはとても読めないからであろう。卑劣な人だ。

「政治の実権」などの、あいまいな表現で妙な結論を導こうとする詐欺的文章の連打。

341:日本@名無史さん
07/05/02 14:38:29
このスレもトンデモ説のご多分に漏れず、
資料の恣意的な引用解釈+想像によってのみ立論されてる説だな。

342:日本@名無史さん
07/05/02 15:12:08
>>334 皇太子の座から追放

314のポイントは、第1に、古事記によると  (豊御食炊屋=推古)

豊御食炊屋-玄王─┐ ┌山代王
         ├─┤
    押坂彦人─┘ └笠縫王

となるので、押坂彦人=馬子だと、馬子は年下の姪の子供に2人も子供を生ませたことになり、世代的に疑問だと言っている。

第2に、推古は、厩戸皇子と押坂彦人(及びその子の田村)の両名を有力な後継者候補と考えていたということである。

314にある、「押坂彦人大兄皇子をいったんは皇太子の座から追いました」は、たいして重要ではなく、その箇所だけほじくり出して反論しても有効な反論ではない。
というより、本質から議論をそらそうという、卑怯技でしかない。

実際には、先の文は、「有力な皇位継承者であることは認識していました。」と続いており、334が反論どころか、悪意の言いがかりであることは明白である。

343:日本@名無史さん
07/05/02 15:14:35
>>334 推古天皇が彦人大兄をいったんは皇太子の座から追放したというのは記録になくレス主の想像ですが
   これを前提に議論を勧めるにはそのようなことがあったことの証拠なり、傍証がいくつか必要だと思います。

自分は、記録にないことをいくつも前提として議論を組み立てているくせに、ほかの人に対してはこのようなことをヌケヌケと言う。
本当に卑劣な人だ。

>>335 「日本書紀」は天皇が自らの正当性を明らかにするために書いた歴史書ですから女系相続(王朝交代)があったとは書けなかったのは当然で、
   そのことの推測が無謀なことだとは思いません。

334と335のこの箇所を読み比べると、いかに卑劣かよく分かろうというものだ。
自説の場合には、日本書紀に書けなかった、すなわち記録になくても「当然」のことなのだとよ。

論理的思考力以前の問題だ。

344:日本@名無史さん
07/05/02 15:19:16
>>335 蘇我氏の全盛期に推古天皇や2世王、3世王が田村皇子の即位に反対できるだけの立場にいたかどうか。

舒明(=田村)即位前紀を読めば、蝦夷に対して、一部の群臣が反対したり(同じ蘇我氏の摩理勢、許勢臣大麻呂、佐伯連東人、紀臣塩手が反対;蘇我倉麻呂は留保)、泊瀬王が抵抗したりしている(抗争中に急に病死するが、・・・。)。
蝦夷に逆らう王はいたのだ。

315は、もしも田村の父系が蘇我氏であれば、もっと多くの王たちが反対したろうといっている。
実際の舒明(=田村)即位時の記録から、もっと大きな反対運動が起こるだろうと推測するのは「当然」のことだ。

自説に不利だと記録にないことはダメだと言うが、実は、自説に不利だと記録にあることも無視する卑劣ぶり。

345:日本@名無史さん
07/05/02 15:23:56
>>335 314でおっしゃるように推古天皇の娘が田村皇子に嫁いでいたことも忘れてはならないでしょう

人の言うことをわざと捻じ曲げている。
推古の娘は、厩戸皇子と押坂彦人及びその子の田村に嫁いでいて、いずれも有力な後継者候補だと推古は考えていたというのが、314の主張だ。
田村だけが推古の娘を娶ったような書き方は悪質。
314は、そんなこと言ってもいないし、田村だけを有力候補と言っているわけではない。

346:日本@名無史さん
07/05/02 15:24:53
>>335 「日本書紀」は天皇が自らの正当性を明らかにするために書いた歴史書ですから女系相続(王朝交代)があったとは書けなかったのは当然で、
   そのことの推測が無謀なことだとは思いません。

無謀だぞ。無謀すぎる。
皇統の根本にかかわることを、何の根拠もなしに主張するなど阿呆すぎる。

女系相続があったことにしないと自説が崩壊してしまうのだろう。

ここに、広瀬流の核心部分である「双系主義」は、何の根拠もないことが宣言された !!!

347:日本@名無史さん
07/05/02 17:57:06
やれやれwww

348:広瀬満
07/05/07 19:10:17
HP:古代妄想に「天皇制の成立と古事記」を掲載した。天皇制の確立と古事記の関係について論じました。
かなり面白い内容になっていると思います。

広瀬満

URLリンク(www.kojikiden.com)

349:日本@名無史さん
07/05/08 02:37:06
無視かよ(w

350:広瀬満
07/05/16 17:51:30
HP:古代妄想に「高松塚、キトラ古墳の被葬者」を掲載した。
かなり刺激的で面白い内容になっていると思います。
高松塚古墳は蘇我蝦夷、キトラ古墳は蘇我入鹿の墓というのが私の説です。

広瀬満

URLリンク(www.kojikiden.com)


351:日本@名無史さん
07/05/21 18:19:41
UPしました!!

352:広瀬満
07/05/27 19:17:31
HPの古代妄想に「古事記偽書説と上代特殊仮名遣い」を掲載しました。
古事記偽書説で必ず問題となる「モ」の書き分けに関する論考です。

 広瀬満
 URLリンク(www.kojikiden.com)


353:日本@名無史さん
07/06/05 20:03:23
UP!

354:日本@名無史さん
07/06/06 12:48:43
>>185 石舞台古墳は蘇我蝦夷の墓だと考えています。

>>350 高松塚古墳は蘇我蝦夷、キトラ古墳は蘇我入鹿の墓というのが私の説です。

最初から論理が破綻している。
まともな人間に読んでもらおうなどと期待しないほうがよいぞ。

355:広瀬満
07/06/10 19:32:50
>>354
このレスの内容からもこのレス主が私の説にほとんど目を通していないことが明らかである。
目を通さずに批判だけは繰り返しているのだからあきれてものも言えない。
石舞台古墳は蘇我蝦夷が生前に作った自らの墓、高松塚古墳は天武天皇によって
築かれた蘇我蝦夷の真の墓というのが私の説である。

356:日本@名無史さん
07/06/11 10:38:53
>>355 あきれてものも言えない

だったら、ものを言わなきゃいいのに。
他人にケチ付けるときまで論理破綻している。(まあ当然か。)

357:日本@名無史さん
07/06/11 10:48:45
>>355

185の「石舞台古墳は蘇我蝦夷の墓だと考えています。」は、184の
「石舞台古墳は一体誰のお墓なのですか? まさか皇祖様の墓があんな状態で放置されませんよね! 」への回答である。
(スレタイのとおり「天皇家の真の皇祖は蘇我馬子」であれば、石舞台が放置されているのはおかしいだろうという指摘)
>>184-185

「石舞台古墳は蘇我蝦夷が生前に作った自らの墓」などといまさら言わずに、そのとき
  石舞台:蘇我蝦夷が作った蘇我蝦夷の墓
  高松塚:天武天皇が作った蘇我蝦夷の墓
と明確に言えばよい。
 後から得意のご都合主義で、自分の主張を少しずつこコッソリと変節させるのは卑怯だと、何度言ったら分かるのか。
 考えが変わることはあるが、それならそれで明確に言うべきだ。

358:日本@名無史さん
07/06/11 11:10:17
>>355

なお、184の石舞台は石室むき出しで放置された矛盾は、回答不能なまま。
つまり、185や355は、まっとうな回答になってない。
石舞台を作りかけで放置し、新たな場所にわざわざ規模の小さい高松塚を作ったのはなぜか?矛盾は増幅するばかりだ。
お得意の【矛盾の増幅】、そして論理破綻のままだ。

また、「私の説にほとんど目を通していない」というのが、自分のサイトを見ていないという意味ならひどい勘違いだ。
自分のサイトを見ずに自分を批判するななど、この場所でよくも言えたものだ。
そういうのは、自分のサイト内での掲示板やブログでの場合に限る。

専門家や学会の論争ではあるまいし、批判相手の著述を一通りチェックしろなど、偉そうに義務を課すべきではない。
ここでは、スレッド内で議論がある程度完結し、必要に応じ文献等客観的なソースを示すというのでなければ、議論にならないだろ。
何様のつもりだ、この場を私物化するな!!!

そういう常識がないのなら、自分のサイトから出てくるべきではない。

359:日本@名無史さん
07/06/11 17:51:05
広瀬って何一つ支持できるところがない上に説教たれるよねw

360:sage
07/06/11 20:10:47
>>358
正しすぎる

361:日本@名無史さん
07/06/13 13:44:41
そういって相手してやる人間がいるからこそ、
広瀬氏も2ちゃんねるから離れられないんだよ

362:日本@名無史さん
07/06/15 10:54:30
         ,. -‐'''''""¨¨¨ヽ
         (.___,,,... -ァァフ|     あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
          |i i|    }! }} //|
         |l、{   j} /,,ィ//|     名人3連覇で、17世名人まであと2期だったのに
        i|:!ヾ、_ノ/ u {:}//ヘ     17世を谷川に、18世を森内に奪われていた       
        |リ u' }  ,ノ _,!V,ハ |    そして当時10歳だった渡辺と19世をかけ戦うことになっていた
       /´fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人 
     /'   ヾ|宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ     な… 何を言ってるのか わからねーと思うが
    ,゙  / )ヽ iLレ  u' | | ヾlトハ〉      おれも何をされたのかわからなかった…
     |/_/  ハ !ニ⊇ '/:}  V:::::ヽ      頭がどうにかなりそうだった…
    // 二二二7'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ      
   /'´r ー---ァ‐゙T´ '"´ /::::/-‐  \   光速流だとか
   / //   广¨´  /'   /:::::/´ ̄`ヽ ⌒ヽ  鉄板流だとか
  ノ ' /  ノ:::::`ー-、___/::::://       ヽ  }  そんなチャチなもんじゃあ 断じてねぇ。
_/`丶 /:::::::::::::::::::::::::: ̄`ー-{:::...       イ もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ・・・

363:日本@名無史さん
07/06/26 21:36:44
↑↑??

364:○○日本の被暗殺部者とそのご遺族たちに○○
07/07/01 04:08:21
245
軽皇子
か文武 06-15?
?幸徳 10-10?
天皇。
毛アレ
スミス
珍しい
♪♪♪

365:○○日本の被暗殺部者とそのご遺族たちに○○
07/07/01 04:15:35
267!
太刀契?
大刀契?
本当は!

366:○○日本の被暗殺部者とそのご遺族たちに○○
07/07/01 04:21:34
243
247
248
!!!
「どうすれば日本はよくなる?」などに板りしてね親父。
因に、鎌足Ⅱがひきつけちゃって困り末世なんちゃって。

367:広瀬満
07/07/01 10:04:47
>>356
どこまでもトンチンカンな人である。
あきれてものが言えないからほとんど返答をしてこなかったということがまだわからないのだろうか。

>>356
古代史に関する私の意見を「大国主伝」としてまとめ、これに関する批評、意見をもとめたのがこのスレの趣旨である。
全く目を通す気がないならこのスレに参加するべきではないし、説が愚論というなら無視すればよいだけである。

議論を仕掛けるなら相手の著述に一通り目を通すのは常識である。
レス主にはこの常識が全く欠けているからレスの内容はピント外れで揚げ足取りのような内容にしかなっていない。
このスレを私物化しているのは罵詈雑言のようなレスを次々に書き込んでいるレス主の方である。
このレス主は一体どのような頭の構造をしているのであろうか。

広瀬満

368:八百長出版社100選・・・
07/07/01 10:33:16
200 :日本@名無史さん:2007/04/10(火) 16:06:52
 明治天皇は南朝系(日本人)の大室寅之助だが、その子が大正天皇でこの天皇はき
ちがいにされて、また北朝系(朝鮮人)の昭和天皇にすり替ったのである。
 日本に渡来した秦一族(フリーメーソン)
 秦の始皇帝は日本に自生する不老長寿の薬草を求めるために、徐福を派遣したと
あるが、本当は日本の優れた神書(天皇記など)を盗み出す事が目的であった。焚
書抗儒は日本の神書をあたかも中国の書物であるかのように書き直し、その神書を
焼却し、作業に関わった儒者を生き埋めにした事件である。四書五経、東洋医学は
日本文化の精華なのです。
 白鳳時代、朝鮮人(秦一族)の蘇我氏(フリーメーソン)によって日本は乗っ取
られ、日本の国体、神道破壊の計略にかかり、神代文字の古文献は改ざんされ、悪
魔の仏教に汚染された。
 蘇我氏(中大兄皇子は百済皇子豊璋)は政敵物部氏を滅ぼし、大化の改新によっ
て聖徳天皇(聖徳太子)を暗殺し(聖徳太子は蘇我氏の血筋ではない。高貴な天皇
家が朝鮮人を妻にしない)、蘇我氏は悪名が広がったので藤原氏と改名し、日本の
政治を牛耳った。麿と言う言葉は日本語と馴染みがなく、朝鮮王家の人が使した王
(自分)と言う意味である。
 藤原氏は藤の生命力をめでて、家紋とした。斎藤道三、木下藤吉郎・秀吉、細川
藤孝、徳川家康はフリーメーソンである。
 家康の正体は世良田元信で、松平元康を殺し元康に化けた。元康の嫡男、信康と
その妻築山殿は邪魔になり殺された。
 徳川家康は岡崎で産れたのだから、岡崎に霊廟(東照宮)を建てるのが筋である。
 寛永21年家光は上野国新田郡世良田庄の長楽寺隣に日光東照宮の奥殿(実は遺骨)
を移築して世良田東照宮を建てた。
 ここを中心にして、東北(表鬼門)に日光東照宮があり、南西(裏鬼門)に久能
山東照宮がある。と言うことは、世良田庄を鬼門の金神の祟りから護る為の呪術を
施した事になり、徳川家康は世良元信である事の証拠となる。

↑本当かあ?赤とんぼ青トンボ縁筆親父。
それはそれとし勉強になったが原減った♪


369:広瀬満
07/07/01 11:40:23
なにいってんの

370:広瀬満
07/07/01 11:43:49
367の二度目の>>356>>358の間違いです。

371:ヒロセマン
07/07/01 14:32:00
フヒヒwwww
サーセンwwwwwwwwww

372:八百長出版社100選・・・
07/07/01 18:16:37
ギャ~~~~~!!
きょう一二枠②④番
⑬銃か⑬重屋根も唐
からきたらしい噂の
317号線か37号
線かそばの談山神社
のどほっとけ骨塔中
噂の13重の塔一着


感謝のサインか鎌足
11ー17新嘗祭と
同じ日にか高なすっ
た西村さんの②④や
坂本の妻お龍五枠も
一着やったが半信半
疑のお方は阪神競馬
の出目をみやがれ!
だって言ってたよん
オジサン?因みに、
談山神社は昔は確か
法華経と理趣品と一
字をあわせたかはし
らんけとな、妙楽寺
といったんやでにょ
にん謹製だったんや
、否女人近世だった
んやで、だってさ!

373:広瀬満
07/07/01 20:00:37
>>358
石舞台は作りかけで放置されているとは私は言ったことはないし、そのような説も聞いたことがない。
どうやらレス主の説のようであるが珍説である。
このような虚偽を交えて自説を構成するのがこのレス主の常套手段である。


374:日本@名無史さん
07/07/01 20:39:45
最近、石舞台のそばで発見された遺跡はもがり屋の跡ではないかと言われてる。

375:八百長出版社100選・・・
07/07/02 09:43:46
イタっ・・・

376:ったく・・・
07/07/02 12:09:46
2007年07月02日
うまなで関連の
胡に日本を侵略し日本の庶民の王と自称自慢したらしい邪悪な池田工作八百長日本の恥不治テレビば取りあえず怨霊さげてから録画しろい!


Posted by eemmww33 at 12:06 │Comments(0) │TrackBack(0)


377:ったく・・・
07/07/02 12:15:35
492 :そうか・・・もしれん・・・なあ・・・:2007/07/02(月) 12:14:17 ID:goDylYsf0
八百長インサイダー
笑っていいとも犯罪



378:日本@名無史さん
07/07/02 15:33:57
>>373 このような虚偽を交えて自説を構成するのがこのレス主の常套手段である

広瀬氏のデタラメを指摘している記述はたくさんあるが、
そのレス主の「自説」など、どこに書き込まれているのだ?

379:日本@名無史さん
07/07/02 15:41:16
>>373

>>357のとおり、
  石舞台:蘇我蝦夷が作った蘇我蝦夷の墓
  高松塚:天武天皇が作った蘇我蝦夷の墓
であるなら、石舞台を完成させた(蘇我蝦夷を埋納した)のは誰か、はっきり書け。
どちらかの墓が拝み墓のようなものなのか、分骨のようなことがあったのか、改葬があったのか、はっきりさせろ。

 蘇我蝦夷が自分で自分を石舞台に葬ったとでも?  (ゾンビかよ!)
 蘇我蝦夷その1が石舞台に葬られ、蘇我蝦夷その2が高松塚に葬られたとでも? (分身の術かよ!)

こういった説明もせずに、「石舞台を作りかけで放置」と言われたぐらいで、ガタガタ騒ぐな!!!
もっと、身のある本質論をやろうぜ。

380:日本@名無史さん
07/07/02 15:50:24
>>367 議論を仕掛けるなら相手の著述に一通り目を通すのは常識である。

ここは、議論のために「相手の著述に一通り目を通す」ような義務を課す場ではない。
そういうのは、学術的な板や自分のサイトでやれっての。
所変わればルールも変わる。
郷に行っては郷に従え。

硬直したやり方を常識と勘違いしているだけ。
本当の常識がないのはあなただろ。

381:日本@名無史さん
07/07/02 16:05:21
系図の提示
双系主義の根拠

などなど、3~4か月越しで山のように積まれた宿題はどうした。
その他数限りなく指摘された矛盾点について、整理はできたのか?

結局、すべて回答不能で、相手を罵倒することしかできないのか?

回答にあたって大事な条件は、【矛盾の増幅】をしないこと!!!
分かっているよね!

382:広瀬満
07/07/02 17:27:36
>>379
この答えは私のHPをチェックすればすべて載っている。
私のHPに全く目を通さないからあなたはこのような間の抜けた質問をするのである。
それでいて身のある本質論をやろうというのだから聞いてあきれる。

>>380
そもそもここは「学問・文系」の学術的な板である。
あなたは何か勘違いをしているのではないか。
ここは私が設定した板(郷)である。
郷に行っては郷に従えというならあなたが従うべきだろう。
従えないというなら書き込まないでいただきたい。

広瀬満

383:日本@名無史さん
07/07/02 18:40:11
俺の考えは、蘇我馬子はオオキミの旦那。
入鹿を皇位につけようという動きがあって
皇統が蘇我氏に移ろうとしていたから、
大化の改新があったのではないかと。

384:日本@名無史さん
07/07/02 18:42:37
勝手に人のスペースでスレ立てといて何言ってるんだ?
まるで戦後のドサクサに紛れて土地を不法占有した朝鮮人みたいだな

385:広瀬満
07/07/02 19:08:34
人のスペース???

386:日本@名無史さん
07/07/02 19:24:17
>383
君も広瀬君と同じ考えのようだが、
馬子が皇女や天皇と結婚した事実はないよ。
残念ながら。

387:日本@名無史さん
07/07/02 19:40:57
結婚しなくても子供はできるものかと。

神功皇后と武内宿称のエピソードなんか、
それを暗示しているように見える。

エピソードに三韓って言葉を入れたのも
両者の関係を暗示しているように見える。

388:ったく・・・
07/07/02 20:08:21
512 :今やってる現代クローズアップ:2007/07/02(月) 19:56:07 ID:T/I7xHOpO
NHK現代クローズアップの長年毎週の八百長サインVTRをみたか2親父。745ドルのワンカットボイス!eemmww33に写真ある!


389:日本@名無史さん
07/07/02 20:21:17
???

390:日本@名無史さん
07/07/03 08:29:21
>387
しかしながら、蝦夷の母は物部守屋の妹であることが特定されている。
そのために入鹿は物部の支配する土地を伝領したらしい。
馬子の正室が物部氏であったことはわかるが、
君の説を補強するものは何もない。

391:日本@名無史さん
07/07/03 09:19:30
>>382 私のHPをチェックすればすべて載っている

だから、そういうことを今さら言うなら、
「この説に対する批評、意見を広く求めます。(>>1)」なんて偉そうに言うなっての。
自分のサイトに引っ込んでればいいだろう。

それから、言ってる内容そのものに食い違いや矛盾が多数あると指摘しているのだが、・・・。
つまり、HPに載っているかどうかではなくて、これまで言っている内容には相互に矛盾しているものがあると指摘しているのだが、・・・。

で、宿題の答えは?

392:日本@名無史さん
07/07/03 09:22:56
>>384 そもそもここは「学問・文系」の学術的な板である。
こらこら、言葉のスリカエは汚いぞ。
「学問」は小学生でもやるし素人も参加するが、「学術」は専門の者が行うし資格を問われる分野もある。
ここは学問・文系板であるので、素人でも参加できるよう、議論のために「相手の著述に一通り目を通す」ような義務を課すべきではない。

>>382 ここは私が設定した板(郷)である。
勝手に自分の郷にするな。
自分のルールでやりたいなら、自分のサイトでやれってのが、理解できんのか?

>>384 勝手に人のスペースでスレ立てといて何言ってるんだ?まるで戦後のドサクサに紛れて土地を不法占有した朝鮮人みたいだな
そのとおり。しかし、それが理解できない知能レベルらしい。(>>385)

393:実乃丸
07/07/03 09:23:52
>>387
結婚しなくても子供ができるのは古今東西ありふれた現象かと。
神功皇后は確か寡婦になる前に結婚していたような記憶が。

話題はずれますが、
応神天皇はさすが並外れて偉大な英雄です。
遠征中、産まれるなという皇后様のお言葉に従われ、
皇后様の御腹に留まられていたのですから。

武内宿称も立派です。
皇后にずっと付き従ったばかりでなく
御生れになった御子を
まるで吾が子であるかのように
抱き守っているのですから。
ヨソの子にあれだけの父性愛を発揮できる
なんてタダモノではありません。
後に武内宿称命と崇められるだけのことはあります。

つまり皇統なんてものはすでにころころ代わっているのでしょうし
建前さえ繕ってくれれば、私のような一小国民は十分満足です。
皇統無系なことを申しまして恐れ入りますです。

394:日本@名無史さん
07/07/03 09:37:23
【広瀬氏が背負う宿題の一例】
蘇我が半島系という根拠は、
a 蘇我満智(そがまち)が木満致(もくまんち)っぽいから、同一人物
b 木満致(もくまんち)の父の木羅斤資(もくらこんす)の木羅が朝鮮っぽい名だから、百済人
c ゆえに蘇我は百済系
というだけの3段論法(?)か。
○○っぽい、○○っぽい、というだけの、ただの駄洒落を根拠にした、ありふれたC級トンデモだよ。
(しかも、門脇の劣化版。これは門脇の数多いトンデモの中でもDQN度の高い珍説で、それを劣化させたしろもの)
(なお、日本書紀を先入観なく素直に読めば、木羅斤資は神功や応神の家来、木満致は応神の家来としか読めない。
 アンチ皇国史観という古臭い偏見のため、この二人は百済の将軍とされた。
 主に朝鮮半島で活躍したので、 倭人か半島人か大陸人か分からんが、百済人と特定する根拠は薄く、倭人である可能性のほうが高い。)

なら言うぞ。
満致がオマーンっぽいから、木満致は、オマーン国王の祖先!!!

395:日本@名無史さん
07/07/03 12:58:24
>>392
学問と学術か。
連続して書かれているので、キー入力しているときに気がついただろうに、そのままアゲてしまったのか・・。
バレなければシメシメと、スレ主は思ったのだろうな。
汚い。

396:広瀬満
07/07/03 16:07:44
>>394
なら言うぞ。
満致がオマーンっぽいから、木満致は、オマーン国王の祖先!!!

何とかのひとつおぼえじゃあるまいし。


397:384
07/07/03 18:23:15
>>392
はぁ?なんでお前がいうんだよ
自分が作ったスペースでもない2chで広瀬がたてたスレッドだろ
何顔真っ赤にして反論してんだよ
お門違い

398:384
07/07/03 18:24:22
あーごめん。
ただのアンカミスっぽいね
条件反射したオレも一回死んでくるわ

399:日本@名無史さん
07/07/03 18:26:33
m9(^Д^)プギャー

400:日本@名無史さん
07/07/04 01:17:39
>>390
蘇我の長男は、蝦夷じゃなくて善徳だから。
まあ、善徳も物部の子ということだけど。

ただ、中国の書によれば、
このころ日本には2人の王がいたそうだし、
オオオミはオオキミと同格という説もある。

善徳を隠蔽するだけの理由がそこにあるんでしょう。

401:日本@名無史さん
07/07/04 02:56:37
「王」(キミ)と「臣」(オミ)が同格って...なんじゃそりゃ?
そんなこと言ってる阿呆がいるのかね?

402:日本@名無史さん
07/07/04 09:46:27
>>400
蝦夷の母は物部氏だが、
善徳の母も物部氏って、何の史料にあるの?
むしろ、蝦夷は正室の子だったからこそ
弟であるにもかかわらず蘇我宗家を継げたわけで、
長男であるのに蘇我宗家を継げなかった善徳は、
庶子だったから=母親が正室物部氏ではなかったから
であるはずなんだが。

403:日本@名無史さん
07/07/04 13:22:36
>>396
>満致がオマーンっぽいから、木満致は、オマーン国王の祖先!!!
>何とかのひとつおぼえじゃあるまいし。
つまり、自分の説がそのレベルということだろ。
他人を罵倒するだけでなく、中身のある反論はできないの?
駄洒落以外で、蘇我満智=木満致 を説明しろよ。

満致がオマーンっぽいから、木満致は、オマーン国際女子大学の創設者!!!

404:広瀬満
07/07/04 14:31:45
367と同文

405:ったく・・・
07/07/04 15:14:45
ご存知、不謹慎親父。
多大まあ参上で~す。
駆けつけサンク親父。

うまいぜよ~
荒唐無稽な
393さん

でもねだが~
タライラマさま
思い出そう
肉の血キレても
実が霊(ち)は壱系

天地神仏
意図みえた
五色糸なら
有難や
八重
弥栄
ヤベ~も~行かなくっちゃ親父。



406:ったく・・・
07/07/04 15:24:02
残念無念ですがね~
ここにはもうカキコ
出来ませぬ

おたっしゃでねえ

因みに、「メンバーの既知ガイ自称3タイム親父。」。

鎌足の五重娘か五十鈴川よ弦の娘が鎌足Ⅱの娘に。
信長の○○が信長Ⅱの娘に。
龍馬のお姉さんが龍馬Ⅱの娘に。

以上明日の常識風鉄板予想親父。

それではご町内皆様、語機嫌陽?

407:日本@名無史さん
07/07/04 16:09:25
>>367を校正しました。

スレ主には・・常識が全く欠けているからレスの内容はピント外れで揚げ足取りのような内容にしかなっていない。
このスレを私物化しているのは罵詈雑言のようなレスを次々に書き込んでいるスレ主・・である。
このスレ主は一体どのような頭の構造をしているのであろうか。

408:日本@名無史さん
07/07/04 16:11:48
スレ主よ!
他人を罵倒するだけでなく、中身のある反論はできないのか?
駄洒落以外で、蘇我満智=木満致 を説明しろよ。

409:広瀬満
07/07/04 20:21:45
>>407
>>408
382と同文

410:日本@名無史さん
07/07/04 21:23:20
スレ主は完全敗北を認めました

411:日本@名無史さん
07/07/05 09:43:55
お薬とお酒はいっしょに飲んでは駄目よ

412:日本@名無史さん
07/07/05 09:49:34
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
●●●●●●●●●●●●●●●●不合格●●●●●●●●●●●●●●●●●
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
これを見た人は確実に【不合格】になります。どこかに3回コピペすれば回避できます。
これは本当です。やらないと一年無駄になります

413:日本@名無史さん
07/07/05 09:50:02
そういう簡単な話ではないぞ

414:日本@名無史さん
07/07/05 11:28:26
>>382 そもそもここは「学問・文系」の学術的な板である。
こらこら、言葉のスリカエは汚いぞ。
「学問」は小学生でもやるし素人も参加するが、「学術」は専門の者が行うし資格を問われる分野もある。
ここは学問・文系板であるので、素人でも参加できるよう、議論のために「相手の著述に一通り目を通す」ような義務を課すべきではない。

>>382 ここは私が設定した板(郷)である。
勝手に自分の郷にするな。
自分のルールでやりたいなら、自分のサイトでやれってのが、理解できんのか?

>>384 勝手に人のスペースでスレ立てといて何言ってるんだ?まるで戦後のドサクサに紛れて土地を不法占有した朝鮮人みたいだな
そのとおり。しかし、それが理解できない知能レベルらしい。(>>385)

415:日本@名無史さん
07/07/05 11:29:17
スレ主よ!
他人を罵倒するだけでなく、中身のある反論はできないのか?
駄洒落以外で、蘇我満智=木満致 を説明しろよ。

416:日本@名無史さん
07/07/05 12:26:26
>>382
> >>379
> この答えは私のHPをチェックすればすべて載っている。

それがウソでないなら、具体的に回答をここに書いたらどうなのだ。
HPの記載箇所へのリンク付きでな。
(ウソつき!)

417:広瀬満
07/07/05 17:40:30
>>416
そのぐらい自分で探したら。あまのじゃくじゃあるまいし。

アドレスも公開してある。

URLリンク(www.kojikiden.com)

広瀬満

418:日本@名無史さん
07/07/05 17:46:55
>>417
書いてないからそういうゴマカシになるのだろう。
少しでも良心があるのなら、まともに回答してみろよ。

>自分で探したら
私があなたに命令されるいわれはない。
本当に常識のないカスだな。

あなたは、「この説に対する批評、意見を広く求めます。(>>1)」という以上、
というよりそもそもスレを立てた以上、質問に誠実に答える責任がある。
本当に無責任なカスだな。

419:日本@名無史さん
07/07/05 17:56:10
とりあえず、>>379 の答えは?

a 石舞台に蝦夷は葬られたのかどうなのか?
b 葬られたとしたら、それは誰が行ったのか?
c 葬られたとしたら、何故、高松塚も蝦夷の墓なのか?
(どうせ行き当たりばったりで、何も考えていなくて答えに窮しそうだから、拝み墓or分骨or改葬と、ヒントまで親切に書いてあげたのに。)
d 石舞台はなぜ石室がむき出しなのか?

これの答えがHPのどこに書いてあるのだ。
記載箇所が特定できる形で答えてみろ。
ただし、ここのものを単発で答えるだけでは不十分で、aからdまで全体として矛盾のない回答でなければダメだぞ。

420:日本@名無史さん
07/07/05 18:02:47
>>419(続き)
早く示せ!!!

この件は、あなたは、>>382>>409>>417 と既に3度もレスしている。
よもや未確認ではあるまい。
HPの記載箇所はすぐに示せるだろう。

早くしろ、早く!
ウソじゃないなら、とっとと記載箇所を示せ!
できなきゃ、ウソ認定な。ウソツキ認定な。

421:日本@名無史さん
07/07/05 18:07:27
これで終わったと思うなよ。
未回答の宿題が山のようにあるのだからな。
次々いくから、誠実に答えるのだぞ。

>>419-420は? 早くしろ、早く!

422:日本@名無史さん
07/07/07 19:21:29
         /                 ヽ、_
        /   /                     ヽ
      /   / /|  l               \
     /   / |  | ゙、 l                ヽ,
    /   /  \ヽ, ヽ.ヽ.ヽ.ヽ_  ヽ           i
    /   |     ヽ; _ ヽ_ヽ._ヽ_ヽ  \ヾ、          |
    |   |             ` `ー-、ヽ丶       |
    !   |                 ` ̄`ー、     |
    |.   |                     `ヽ     |
.     i   |                       |    |
    | _ |                       |   /
    / _ヾ|  ̄ニニニニニ、ヽ     r'''',ニニニ二二  |  ´`j
    | i )|  ヽ. _`'゚'´_ _ノ i    ヽ._ _`'゚'´_ ,ノ  | 人, |
    i ヾ ( |  ,    ̄   ,'i         ̄  .  | !)/
    ヽヽ | '         ´ !  ;        ヽ | ノ /
     ゙、ヽ!            i             リ /!
       |ヽ-!      / /  丶 ヽ       /_/ |
      |  ヽ      ヽ-、   , -‐'      /´! |   ______
      ヽ| ヽ       `ー ‐'        / リ /   |
       ヽ|| ヽ    ー‐‐‐-‐‐‐一    / i i/  < 歴史は繰り返す
         ヽ.| ヽ     - - - -     / | j/    |______
         |  ヽ  ,           /  |´        
        _/   ヽ '          /   !_       
         / `ー、_  \ _____ /  _, -' ヽ   
      /     `ー 、 _ _ _ _,- ‐'´   ヽ 


423:日本@名無史さん
07/07/07 21:56:51
木満致のことだけども
田中本応神紀ではただの木満致
それ以降の写本はすべて大倭木満致
これって改ざん?
それとも田中本の誤写?

424:え?
07/07/08 03:31:10
確かに蘇我氏は大王家だろう

安閑帝-豊彦王(蘇我稲目)-馬子-蝦夷-入鹿



425:日本@名無史さん
07/07/08 07:21:46
>424
またまたとんでも説やろうが来たなw

426:広瀬満
07/07/08 18:37:07
田中本の誤写ではないでしょう。
改竄でしょう。

427:日本@名無史さん
07/07/09 02:15:32
この板で意見を求めといて自分のホームページに書いてあるってのはおかしいのではないでしょうか?
皆さん質問してるのだからここで、
『ここで』答えて下さい。よろしくお願いします。

428:広瀬満
07/07/11 19:34:12
>>427
418-421と同じレス主でしょ。
答えは同じ。

429:日本@名無史さん
07/07/13 19:21:47
孝元天皇の末裔・武内宿禰後胤の傍流である蘇我氏が権力を承諾できたのは
武内宿禰後胤の嫡流である葛城氏が謀反が原因で最大の要因だろう?
蘇我氏の領地と葛城氏の領地がもろダブル。

最近、外国で出版された天皇家・ヤマト王権の本に
蘇我氏は300年間、権勢を振るっていたと書いてあるから
おそらく、武内宿禰からカウントしたんだと思う。

武内宿禰の祖父・彦太忍信命の支配領域は
後の武内氏~葛城氏~蘇我氏と子孫に受け継がれている。


430:日本@名無史さん
07/07/15 16:14:49
万世一系って言うけど、継体天皇のときに王朝は変わったという説もあるよね。


431:日本@名無史さん
07/07/15 19:17:12
継体は、臣籍降下してオキナガ氏を名乗っていたっぽい感じはする。
今で例えるなら、旧皇族を引っ張ってきたようなものかと。
厳密な意味ではアウトかもしれないが、
源氏に降下した人も天皇になっているし、よくあるようなことかと。

他には持統の子は危ないかなと。藤原不比等の子じゃないかと。
想像の域を出ないが。

後は、明治維新だよね。南朝系に移ったのかどうか。

432:日本@名無史さん
07/07/15 22:44:03
もうさすがに日本史では釣られないんではないだろうか

433:日本@名無史さん
07/07/21 18:03:33
欽明天皇以前の皇統譜と説話はほとんど信用しないほうがいい。

434:日本@名無史さん
07/07/22 19:41:03


435:日本@名無史さん
07/07/23 00:22:56
◆◆◆ネオ騎馬民族説◆◆◆

【江上】騎馬民族説は今。。。vol.8【波夫】
スレリンク(history板)
URLリンク(p2.chbox.jp)スレリンク(history板)all
532-533 560-562 564

436:ネオ騎馬民族説
07/07/23 00:23:43
高句麗と対抗する扶余は、崇神が任那に拠を構え、北部九州に侵攻。
そのため、大和は、邪馬台国以来の半島経由大陸ルートを喪失し、中国への使者派遣は不可能に。
扶余系連合国は、任那の鉄資源の直接輸入が必要となった大和と交易するようになる。
扶余は応神時代に中国地方を回避して海上ルートで河内に侵攻して王朝を形成。
しかし騎馬戦術が通用しにくい内陸盆地の大和への侵攻は困難だった。
続いて大和と半島を繋ぐ交通の要衝である吉備も屈服させた。
勢力を増して、高句麗と大規模の交戦を企てる一方、扶余河内を警戒する大和とも対立。
半島情勢が緊迫する状況で、中国との連係を模索する外交を試みた結果が、
いわゆる倭の上表文である。
しかし思うように半島での苦戦を打開できず、高句麗に半島から駆逐されかねない情勢となった。
そのため扶余は外交革命と言うべき大和との連合を模索した。
その結果として生まれた扶倭連合王国の初代国王は扶余系大王・蘇我馬子だった。
そのお披露目も兼ねて、高句麗と対抗する中国へ使者が派遣されたが、
これが隋書倭国伝に記録されたところである。
当時の倭国王は女帝の推古天皇とされたが、記録には「多利思比孤」と言う名の男王である。
これは、本当の国王・蘇我馬子を指しているためである。
蘇我氏が自らを大王と称し、一族の邸宅を「上の宮門」「谷の宮門」と呼び、
「国記」「天皇記」を史書として残していたとされることからもそれは明らかである。
藤ノ木古墳などは蘇我稲目の墓である。以下、キトラ古墳、高松塚なども蘇我氏系であろう。
蘇我一族は、扶余系一族として、百済で普及してる外来仏教の普及にも努めたが、
こうした宗教文化上の対立もあり、倭人系豪族の激しい反発を招き、
倭人系・天智天皇がかつがれて、大化の改新という宮廷クーデターにより滅ぼされることとなった。
ここに、扶余王朝は、遂に倭人豪族によって簒奪される羽目となった。

437:436
07/07/23 00:24:19
今日の天皇家の直接の祖先は天武(及び天智系の血統の)天皇であり、
彼に都合よく歴史(記紀)が記載されることとなったことは改めて言うまでもない。
魏志倭人伝や隋書倭国伝など中国の歴史書、そして蘇我氏の国記・天皇記や、
天智天皇系の帝紀など、あらゆる歴史書を矛盾なくつなぎ合わせようと図った結果、
邪馬台国・卑弥呼は天照大神となり、
自らの系図を、そこから続く一系の系譜であると天武天皇は主張したのである。
一方、歴史を粉飾する際には、その中での蘇我氏の業績は無視するにはあまりに巨大であり、
そこで蘇我氏を悪人と描く一方、その優れた業績は別人格に分離した架空の人物・聖徳太子に
仮託し、聖徳太子という存在を合理化する目的で、推古天皇を仮の“女帝”だと偽装して、
「摂政」を捏造したわけである。。女帝が初めて“誕生”したのはそのような事情からである。
また国記・天皇記に記された、応神天皇など、河内王朝の存在は、
その巨大古墳が存することからも無視し去ることは困難で、
やむなく扶余河内王朝も強引に飲み込んだが、さすがに吉備の大古墳はほぼ無視するより他なかった。
こうした結果として、記紀には、高句麗王伝説などの扶余系神話に類似するエピソードや修辞など
が含まれることとなったが、これは扶余系蘇我氏の国記・天皇記の影響である。
扶余族の任那から九州、河内への東遷の歴史は、
時系列上の都合から、邪馬台国(高天原)と大和とをつなぐ神話時代の記録として
切り離され、神武神話になったものと思われる。
いわゆる神武以前にニギハヤヒという天孫が何故か既に存在していたが、
これは壬申の乱で大友皇子と天武天皇が対立したことを描いたものであり、
天武が勝利して飛鳥浄御原宮で即位するまでの経緯は、
神武がナガスネヒコを降し橿原宮で即位するまでに相当しており、
ニギハヤが天智、ナガスネヒコが大友皇子にあたると考えられる。
すなわち、神武の神話は、崇神から応神、天智から天武に至るまでの歴史を
神話風に叙述したものと見ることが出来よう。

438:436
07/07/23 00:24:50
元々、倭国には専制的な支配者は存在しなかったと思われる。魏志倭人伝でも、邪馬台国を盟主とする
ゆるやかな共同体連合があって、その祭司者として卑弥呼がいただけだ。
そこから同笵鏡とか配って各地の共同体の首長とが非・支配被支配の盟約関係を結んでいた。
倭国の領域は大和から九州、対馬を経て、朝鮮半島南端まで広がっていたと思われる。
もともと絶対王権の存在しなかったところに、大陸的な専制支配体制を体現した扶余が侵攻してきたわけだ。
中国のような長い歴史のある文明ですら、その王朝の出自はほとんどが北方民族なんだから、
日本とて例外ではなく、本来、農耕民族には、そうした王権を形成する文化的背景が無かったのだろう。
王権は馬にまたがってやってきたのである。その扶余王朝ですら一系のものではなく、それぞれ別個に
日本列島に進出してきたものではないだろうか。ちょうど朝鮮半島が高句麗・百済・新羅に分立してるような
イメージだ。たとえばイリ王朝とかタラシ王朝とかワケ王朝という区分があるけれど、
崇神(イリ王朝)と応神(ワケ王朝)とは、そもそも別個の王朝で、
崇神が九州を陥落させ、それとは別に応神が河内に侵攻、ずっとのちに継体が大和へ潜入を試みて阻止された。
この場合、おそらく血統の断絶が、新たな扶余の進出をもたらしたとも考えられる。
だから、継体が応神の五世孫だというのは事実だとは言えず、実際には百済王家から見繕って
日本海ルートででも連れてこられたものにすぎないだろう。
騎馬民族と言えど、当時の拙いレベルの海上輸送では、敵前上陸を果たすほどの戦闘能力はなく、
九州に侵攻する時には、一旦出雲を押さえて、そこから北部九州という具合に段階を踏んでるのが、
天孫降臨神話の出雲と筑紫の順になってて、次が河内になってるのも、中国地方の制圧がそれほど容易では
なかったため、交通の便がよく、かつ軍事的真空地帯だった河内が選択されたのだろう。
だから地形上の理由から、大和には簡単に攻め入ることは不可能だったと考えられる。

439:436
07/07/23 00:25:50
よって、騎馬王朝を作った時点でも、倭国王として中国に上表文を出してはいるが、
実際には一地方のおける王権でしかない。勝手に「倭国王」を名乗ってるだけで、
東には大和がれっきと存在している。いまだ倭国で広汎にその王位を容認されたわけでもない継体に対して、
日本生まれの百済王・武寧王がいち早く鏡を贈ってるが、これも扶余族内の馴れ合いみたいなものだ。
倭国全体で見るなら、大王なるものは、ちょうど日本の戦国時代をイメージしてみた場合に、
各地の大名に相当してるにすぎず、諸国が分立して存在してるわけだ。
そして継体の頃前後に、倭風に染めて、大和との本格的な国家連合を模索したものの、
当時の大和はある種の祭司集団としての合議体のような組織だったのだろう、
絶対的な王権は未だ存在せず(幹事役みたいなものはいただろうが)
その中の有力氏族の一つとして扶余も仲間入りするようになった。
その後、扶余百済との関係にもとづいての交易への便宜により、扶余族の蘇我氏が台頭し始めたと思われる。
だから蘇我氏が大王と称するようになったのは、必ずしも王権を奪取したのではなく、
もともとそこに存在しなかった絶対王権を、扶余族の文化体系の中から持ち込んで新たに創出したことによる。
そこに悲劇の源があった。もともと仲好しクラブだったものを、完璧な序列体制に再構築して、
その頂点に自分が立った時に、滅亡への導火線が敷かれたのである。そして仏教導入などの急進的な
改革が点火に至らせることになった。
これはちょうど戦国時代に天下統一を果たす間際まできた織田信長が本能寺の変で部下の明智光秀に事実上、
誅殺されたのに似ている。炎の中で自刃した最後は、入鹿が殺害され、蝦夷が火を放って自殺したのと瓜二つだ。
しかし扶余蘇我氏がもたらした変革は、倭国社会に不可逆的な文化的変質をもたらした。
その最たるものが王権であり、蘇我氏の権力体系を、その後独自に咀嚼して吸収した結果生まれたものが、
「天皇」という称号であって、それゆえ厳密な意味における日本の初代天皇は、記紀を編纂させた天武天皇だと
言える。「天」の文字がともについてる天智は、万世一系の血統を主張する上での便宜的な“初代”天皇だ。

440:436
07/07/23 00:32:28
こうした文脈で王権の歴史を再検証すると、神話上の天皇は別として、
崇神から倭の五王などは勝手大王であって、地方権力者にすぎない。
蘇我氏は自称国王ではあるが、惜しいところまで行ったものの天皇にはなれてない。出が悪かったからだ。
戦国時代でたとえるなら、いわゆる大王は大名に相当し、国王は関白、天皇が征夷大将軍にあたると言える。
崇神やら倭の五王は諸大名で、蘇我氏は織田信長及び秀吉、天智が明智光秀及び秀吉、大友皇子が
秀吉、天武が徳川家康で、大化の改新が本能寺の変、壬申の乱が関ヶ原の戦いだと言えよう。
もともと大化の改新はその信憑性が疑われていたが、にもかかわらずそこまで大仰に記されてる以上、
易姓革命に匹敵するほどの大事件だったと思われ、そのため単なるクーデター以上の意味を持っている。
それは扶余王朝とその専制支配体制の成立を阻止して倭人王朝を創出させた大革命だったわけである。
その後、万世一系の思想を普及させて、王権の永続性を保証しようと、歴史書の編纂に乗り出したが、
その際には全く別系統だった、崇神を始祖とするイリ王朝や応神の河内王朝などを全部つなぎあわせて
一系の王朝に仕立て上げたわけだ。
邪馬台国以来の大和には古来から大王は存在してなかったし、記録すらなかったはずだ。
よって、そこには扶余族の大王の系図をそのままあてはめたのだと思われる。だから仁徳天皇が
善政だったか悪政だったかはまるで見知らぬことだし、実際のとこどうでもいいのである。
蘇我氏の天皇記・国記をそのまま使っただけだろう。
よって、天智から前の「天皇」は、実際には日本国天皇ではないものを、
後から勝手に歴史編纂の都合により認定されたすぎないわけで、当然、崇神も応神も「天皇」ではない。
また天孫降臨、神武神話などを年代を遡上させて盛り込んだ際には、当然、記紀編纂者である
天武天皇自らの業績も含めるだろうから、壬申の乱が神武とニギハヤヒの戦いになったのである。
高天原は天津神の住む場所だが、ある時は邪馬台国だし、別の時は朝鮮半島だ。
具体的な実態ではなく、地理的にかけ離れた場所を媒介してつなぎ、
そこから大いなる人物が降臨してくるという、抽象的な概念として創作されたものだと言える。

441:日本@名無史さん
07/08/01 17:47:42
??

442:日本@名無史さん
07/08/02 00:35:23
押坂(おっさかと発音、忍坂同じ)
奈良県の地名、現在の桜井市を中心とする。
三輪山の南、御破裂山(とうの峰)に東に位置する狭い盆地で、大和から西に向かう街道沿い。
雄略の朝倉宮、舒明の忍坂中陵、崇峻の倉梯宮、同倉梯岡陵を含む。
日本で1番古い地名とされる。
ちなみに、牧野古墳の石室は奈良県下でもっとも大きなものの1つとされ、崇峻の天王山古墳、
石舞台古墳、竹田皇子の陵の可能性が有る植山古墳の西室などと同じ設計とされている。
なお、これに匹敵するものとして、聖徳太子の太子廟、市尾基山古墳、見瀬丸山古墳、都塚古墳などがあり、
やや小ぶりなものとしては、与楽鑵子塚古墳、真弓鑵子塚古墳、乾城古墳などがある。
要するに、飛びぬけて大きいものではない。
もう一つ、牧野古墳は円墳で、蘇我系とされる方墳ではない。牧野古墳を持って来て、馬子説は無理でしょう。


443:日本@名無史さん
07/08/02 00:42:03
追記
刑部、忍壁は、おっさかの民をさし、おそらく土地人民ごと財産として支配されたのではないかと思われる。
押坂彦人王の名は、その支配者であることから来たと思われるが、この地域に蘇我の影はない。


444:& ◆avD0n.opAw
07/08/02 00:45:17
百濟 近蘇我王の子 蘇我馬子太子 宗像

445:広瀬満
07/08/02 19:42:03
>>442
蘇我系の墓を方墳とするその根拠を教えてほしい。

446:ぜにとこ平治
07/08/02 20:56:19
つまり、蘇我善徳(ぜんとこ)=聖徳太子=蘇我入鹿
という事でファイナルオッケー?

蘇我馬子の息子は豊浦大臣で、名を入鹿という、と資料にもあるし。

447:日本@名無史さん
07/08/02 23:10:28
>445
白石太一郎らが言ってる。、崇峻、用明、推古、孝徳とこの間の天皇陵はみな方墳。
白石の著作には殆ど書いてある。ただ、おいら自身は、これらの古墳が、天皇陵だから方墳なのか、
蘇我系だから方墳なのかはまだ考える余地があると思っている。
舒明以後は、八角墳となる。
ただ、こないだ今城塚の現地説明会で、後円部の三段目は方墳ではないかと言う話を聞いた。
こしこれが本当なら、継体は蘇我系ではないので方墳は蘇我氏とは関係ないことになる。
はやく結論を出してほしい。


448:日本@名無史さん
07/08/03 01:24:36
後円部の三段目が方墳? 何だソレ?
そんな話、初めて聞いたぞ。 新聞には載らなかったのか? 

449:日本@名無史さん
07/08/03 11:51:24
テレビニュースでやってたはず。早く文献化してほしい。
それ聞いて、欽明天皇の墓だといわれる見瀬丸山古墳見てきた。
三段目は鉄条網で囲まれているけど、ラインが妙に直線的なのが気になった。
やっぱ、ちゃんと調査してみるべきだな。



450:日本@名無史さん
07/08/03 11:53:03
>>447
7世紀ころの蘇我系の有力者の墓 ⇒ 方墳 という説があるのであって、
すべての方墳 ⇒ 7世紀ころの蘇我系の墓 という説はないし、
すべての方墳 ⇒ 様々な時代の蘇我系の墓 という説もない。
必要条件と十分条件の違いをわきまえて欲しい。

ちなみに、方墳のサイズの全国ベスト10のうち、蘇我と関係ありそうなのは、春日向山古墳(5位、用明陵)と山田高塚古墳(6位、推古陵)ぐらい。
なお、竜角寺岩屋古墳(2位、千葉県)など関東の終末期の方墳について蘇我氏との関係を指摘する説もあるが、終末期で方形という以外に根拠は何もなく、方形(ほうけい)だから半島系(高句麗系)と主張する在日の方々と同程度のレベル。

451:日本@名無史さん
07/08/03 12:11:58
>>447-449
今城塚の後円部ではなく、前方部の上段が方形という説ではないのか?
前方後円墳で前方部の墳頂に方形壇があるのは珍しくない。

有名なのは、西殿塚(天理市。手白香皇女墓とされ、登れないが、測量図などから確認できる)
あるいは、青塚古墳(犬山市。方形壇が復元されている。昔は登れたが、今は登れない)
あるいは、心合寺山古墳(八尾市。方形壇が復元されており、登って観察できる。)

方形の上に円形の段が乗っかるのは、ないわけではないが、
a 上円下方墳:熊野神社古墳(府中市)など若干 (最近の昭和天皇陵もこれね!)
b 前方後方墳の上に前方後円墳が乗っかっている形:西山古墳(天理市)の1例だけ
円形の上に方形の段が乗っかるのは見たことがない。

ただし、円形の墳丘の頂上の主体部の周りを、埴輪や覆屋(?)の柱跡が四角く囲む例は多数あり。

452:日本@名無史さん
07/08/03 12:37:56
スレ主がいないところで、スレタイと関係ない話題だと、比較的まともになるな。

453:日本@名無史さん
07/08/03 14:23:56
>土地人民ごと財産として支配

そんな観念は領域型荘園が登場するまで無い

454:日本@名無史さん
07/08/03 16:24:58
馬子の墓とされる石舞台古墳は上円下方墳の可能性がある。

455:日本@名無史さん
07/08/03 21:40:48
>450
1、蘇我氏の話をしているときに、5世紀やら8世紀やらは端から話題にしないだろう。
(確かに、五世紀にも三塚古墳やらの方墳はあるけどね。200年も昔のことを言ってもね)
2、私は、白石太一郎が、方墳は蘇我氏に近い者の墓と言っている、と書いた。
3、白石太一郎が、方墳は蘇我関係者のものと言っていることは彼の著作にいっぱい出ている。
(手っ取り早くは、文春新書「古墳と大和政権」P187を読むこと)
4、私自身は、それに対して多少疑義を持っていると書いた。
なぜなら、蘇我氏との濃密な関係下にあった聖徳太子の太子廟(崇福寺)は円墳である。
この墓が本当に太子廟であるかどうかは難しいが、年代などに大きな疑問は出ていないようである。
信用できないと言われれば、推古陵や用明陵もみな怪しい。
日本語をよく読んでくれ。


456:日本@名無史さん
07/08/03 21:53:35
>450
もう一つ。
方墳が高句麗の影響を受けたかどうかは、別の問題だが、折角なので多少私見を。
高句麗の将軍塚は三段構造の石造りの墓で長寿王の墓とされている(らしい、写真しか知らない)。
日本で最も保存状態のよい方墳は、平群の西宮古墳だと言われている。この古墳は、中世の城郭の下敷きとなり、殆どそのまま保存された。
それを見ると、かなり緻密な石組みに覆われ、石の塚のように見える。将軍塚と類似性も、思わず、ん?と思うほどだ。
推古紀に、高句麗僧慧慈が倭に来て顧問のような職にあった。
飛鳥寺は三堂一塔構造で、この類型は、高句麗の清崖里廃寺に見られ、高句麗の影響が以前から言われている。
と色々考えてみると、方墳が高句麗の影響を受けて出来た可能性はありうると思う。
在日の妄言だと言わずに検討してみるべきだろう。


457:日本@名無史さん
07/08/03 22:00:56
>451
確かに後円部だと聞いたと思うが。
文献化して貰っていないからなあ。
そういえば、今城塚の第10次発掘報告書の後円部の最上段は妙な形に書いてある。
誰か、、詳しいこと知ってる中の人、いない?

458:日本@名無史さん
07/08/04 01:13:46
後円部の最上段は崩落してるんじゃなかった?
二段目のてっぺんから石室の基礎部分が出てきたので、
伝統的な三段築造と推定されたのではなかったかと。

459:日本@名無史さん
07/08/05 01:59:06
>>456
高句麗系の積み石塚は結構あるみたいだよ。
群馬の長瀞西遺跡には、
出土物からも見ても明らかに高句麗系の積み石塚があるけど、
他の円墳などに比べ、端っこに追いやられてる感じだね。
で、積み石塚ではない普通の方墳が高句麗系かと言えば、
そうは言えないんじゃないかな。

460:日本@名無史さん
07/08/05 15:26:53
>446
特に突っ込む気はないのだが、
蘇我馬子は嶋大臣
蝦夷は豊浦大臣
入鹿は林臣鞍造
のはず。


461:日本@名無史さん
07/08/05 15:33:56
>458
崩落した3段目の基礎部を調査した結果と聞いたんだが。
現地に行って、言質を取りたいんだが、暇がない。
高槻市の教育委員会の方、いませんか?

462:日本@名無史さん
07/08/05 16:18:22
>454
石舞台は、上円下方墳と言う人もいる。現地の立て看にもそう書いてある。
でも、地理的時代的近縁に上円下方墳という形式は存在しない。
舒明天皇陵とされる忍阪段塚古墳は、現在は斜面に水平な基段を造ってその上に八角墳を造ったとされている。
だが、かってはその形態から、上円下方墳と間違われた時期があった。石舞台が上円下方墳と呼ばれるのはそのせい。
第一、とっくになくなっている上部の形を断定することは無理。
石舞台は、そのすぐ南の都塚古墳とほとんど同じなので、ペアだと言う説がある。
河村邦彦さんにいわせると、書紀に言う、双の墓(蝦夷入鹿の墓)ではないかと。

463:日本@名無史さん
07/08/05 18:55:19
>>460
先代旧事本紀では馬子の子が「豊浦大臣で名を入鹿という」と記されている

464:日本@名無史さん
07/08/05 19:18:37
蘇我善徳入鹿 法隆寺の初代管長だっけ?

465:日本@名無史さん
07/08/05 22:27:05
スレ主がいないと、話が進むな。
鬼の居ぬ間に何とやらだ。
どうせ、元はろくでもないスレだ。少々突飛な事でもいいから書こうぜ。

466:日本@名無史さん
07/08/06 01:27:06
しかし「天皇家の真の皇祖」という言葉じたいがわからんですよ

467:日本@名無史さん
07/08/06 11:39:40
なるほど、蘇我が滅びて天皇があとを継いだというのなら、蘇我は天皇家の祖先じゃない。
表題自体が間違っているわけですか。

468:広瀬満
07/08/06 18:14:09
蘇我が滅びて天皇があとを継いだのではない。
蘇我氏が天皇家になったのである。

広瀬満

URLリンク(www.kojikiden.com)

469:日本@名無史さん
07/08/06 22:36:47
また出てきやがった。


470:日本@名無史さん
07/08/08 10:52:27
>>455 5世紀やら8世紀やら
カメレスですみませんが、何を言っているのか分かりません。 >>450で挙げた例の中にそういう古墳があるのでしょうか?
ちなみに、竜角寺岩屋古墳も7世紀です。

>>450の書き出しは「7世紀ころの蘇我系の有力者の墓」となっていて、、それに続く記述を読んでいただければ、
「7世紀以外の時代のことはあまり取り上げてもしょうがないでしょ」という趣旨であることは読み取れると思います。

そもそも、>>447で今城塚や継体のことに言及していますが、今城塚も継体も6世紀前半のことですよ。
三塚古墳? 土師ノ里の近くで修羅が出たやつのことですか? 何でそのような古墳をここで言い出すのでしょうか?

年代観がメチャクチャなのではないでしょうか?

471:日本@名無史さん
07/08/08 11:59:15
>>456 方墳が高句麗の影響を受けて出来た

将軍塚:長寿王(好太王の子)の墓? 花崗岩を7層に積み上げ、高さは13m
平群の西宮古墳を例に挙げているが、石積ではなく、石は表面だけの葺石で、3世紀以来の日本の伝統によるもの。
将軍塚は、日本の方墳とずいぶん違うぞ。似ているのは、平面形が四角いというだけ。

「影響を受けた」と言う根拠がいい加減過ぎる。
四角という形など珍しくないので、影響の根拠にならない。(アフリカにもアメリカにも有名な四角い墓があるしな。)
高句麗王墓から日本の7世紀の方墳に至る系譜をたどれないようでは、根拠のある話にならない。

472:日本@名無史さん
07/08/08 12:06:59
>>456 方墳が高句麗の影響を受けて出来た

次に、「影響」という言葉が、そもそもいい加減だ。
高句麗の王墓を作ったのと同じ人間あるいは集団が日本の方墳を作ったのか?
慧慈という坊さんが墓作り職人も兼ねていたのか?
あるいは、慧慈という坊さんが墓作り職人(日本の土師氏のような)を引き連れて来たのか?
ノウハウ(構造や工法などの知識)が伝わっただけなのか?
慧慈という坊さんが墓作りの知識を持っていたのか?
慧慈という坊さんが墓作りの設計書やマニュアル本でも持参したのか?

古代史の分野で、「影響」という言葉は、大陸人や半島人のうち日本を貶めようという卑しい性根の連中が巧みに使う言葉なので、注意しないと騙されるよ。

473:日本@名無史さん
07/08/08 18:57:50
>470
こっちも7世紀以外の方墳については端から取り上げてないと言ってる。
崇峻、用明、推古、孝徳の時代と限定しているはずだ。妙にからむなよ。
厳密には用明推古の陵が造られたとされる6世紀後半から舒明忍坂中陵の八角墳が造られたと思われる
7世紀後半まで。
>472
じゃあ君は、この国で最初の寺院である飛鳥寺が造られたとき、
半島の集団がやってきて作ったのか、
坊主が墓造り職人も兼ねていたのか、
ノウハウが伝わっただけなのか、
墓造りの知識だけが伝わったのか、
設計書やマニュアルが伝わったのか、
断定できるのかい。今の知識では無理だろう。
私は別にサヨクでも、朝鮮史観論者でもない。あまり過剰に反応するなよ。

474:日本@名無史さん
07/08/13 09:58:20
>>473
それでは、>>447の今城塚と継体や、>>455の三塚は、脇へ置いといて、中身のある話をしましょう。

方墳と蘇我系を関係付ける場合は、
6世紀末から7世紀の(今日の)京都府、大阪府、奈良県あたりの大きめの方墳 ⇒ 蘇我系の有力者の墓
という主張になります。
小さな方墳には陪塚も多く、蘇我系だけと関係付けることは、もともと無理です。
大きな方墳でも、時期や地域が異なるものを蘇我系と関係付けようとすると、まだまだ根拠が不足しています。
逆に蘇我系の有力者であっても、聖徳太子の磯長墓(叡福寺北古墳)のように円墳もある。(ただし、この比定は異論もあり。)

すなわち、方墳と蘇我系を関係付けるのは、もともとかなり限定的な話であり、あまりあてにならないと思ったほうが良いと思います。

475:日本@名無史さん
07/08/13 10:01:41
>>473
次に古墳や寺院への半島の「影響」についてです。
何でもかんでも半島の「影響」を排除したいと、過剰に反応しているわけではありません。

初期の寺院は東漢や秦や司馬などの渡来系集団が建築を行ったというのは、異論がないと思います。
特に飛鳥寺(法興寺)については、日本書紀の崇峻元年に、寺工や鑪盤博士や瓦博士や画工の名前まで記載されていて、渡来系集団が建築を行ったという根拠は明確です。
(ただし、数十年も経ないうちに、渡来系ではない工人(今日風に言えば宮大工)も大量に養成・出現したと思います。
 少なくとも、鞍作鳥(司馬鞍首止利)のように、渡来系といっても日本で生まれ育ち、大王家や有力豪族に忠誠を尽くす世代がすぐに主流になったと思います。)

一方、古墳については、例えば、草壁の墓という説がある束明神古墳の切石積の石室、あるいは高松塚古墳やキトラ古墳の壁画など、大陸や半島の影響があったということに異論はありません。
しかし、これは結論ではなく、検討の出発点です。

476:日本@名無史さん
07/08/13 10:04:27
>>473
古墳あるいは天皇や有力者の墓は、土師氏が中心になって作り続けていたと考えます。
埴輪伝説など古くから、古墳の造営には土師氏が深く関わっていたようですし、奈良時代になっても、
続日本紀の天平六年夏四月には、地震による王の墓の被害調査等のため、諸王真人に土師宿祢を従えさせて派遣したとあります。
古墳の造営の全体の仕切りは土師氏が行い、その作業員の一部に大陸や半島から来た人がいたか、あるいはそのノウハウを学んだ人がいたということです。
壁画などは、(半島というよりは)大陸の影響があるものの、結局のところ、直接描いたのは日本人ではないかという見方も強くなっているようです。
(このあたりは、美術史などの専門家の世界で、素人がとやかくいえる領域ではない。)

「影響があった」というときは、
⇒ 影響の内容は? 影響の範囲は? 影響が及んだ経緯や方法は? これらを明らかにしないといけません。

「影響があった」と言うとき、自説に都合のよい例を挙げるだけで、影響の内容等について具体的なことを語ろうとしない人がいたら、何か悪意の魂胆があると疑うべきで、要注意です。

477:日本@名無史さん
07/09/14 11:09:44
UP!

478:日本@名無史さん
07/09/21 16:20:30


479:日本@名無史さん
07/09/26 19:06:58
古墳時代末期の方墳は蘇我氏の有力者の墓というのがなかば通説のようになっているがたいして根拠のある話ではないようである。

480:日本@名無史さん
07/09/28 16:19:43
日本書紀神代下と神武天皇によると天皇家の皇祖は高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)とありますが
馬子となんか関係あるんでしょうか?

481:日本@名無史さん
07/09/29 10:37:28
神代の系図をそのまま信じれば、
タカムスヒはアマテラスの息子ホミミの嫁トヨの父親だよね。

蘇我氏自身や、蘇我氏の息が掛かった皇族って、
皆トヨって付く愛称を持っているよね。
豊浦大臣とか豊御食炊屋姫(推古天皇)とか。

なんか関係あるのかも。

482:日本@名無史さん
07/09/29 10:47:52
天皇って、どこの馬の骨かと思っていたが、蘇我「馬」子の末裔(骨)か

483:日本@名無史さん
07/09/29 11:18:03
豊桜彦

484:広瀬満
07/10/03 18:36:06
>>482

舒明天皇以降の天皇はすべて蘇我馬子(=スサノオ)の末裔である。
したがって蘇我馬子が皇祖である。
津島神社を崇拝した嵯峨天皇が
「素尊(スサノオ)は則ち皇国の本主なり,故に日本の総社と崇め給いしなり」
と言っているのはそのためである。
嵯峨天皇は蘇我馬子が天皇家の起点であるという認識を持っていたのである。

広瀬満

URLリンク(www.kojikiden.com)


485:日本@名無史さん
07/10/04 07:55:17
確かに一時期、蘇我氏に乗っ取られていたくさい。

記紀に、武内宿禰に皇統乗っ取られたくさい記述があるのは
それを反映しているんだと思う。

で、大化の改新で取り戻したんだと思っているんだけど・・・
よく分からんけどね。

486:日本@名無史さん
07/10/04 09:46:32
天智天武は日向から近江に流れついた隼人の俳優の末裔だったんじゃないの?

487:日本@名無史さん
07/10/04 18:50:20
.

488:日本@名無史さん
07/10/10 20:00:55
UP!

489:日本@名無史さん
07/10/17 20:51:00
反日本親朝鮮の記事捏造アサヒる新聞は日本から出て行け。

490:日本@名無史さん
07/11/07 16:43:11
逃げちゃダ
      メ
      だ

       広
       瀬


491:日本@名無史さん
07/11/25 20:06:20
相変わらず蘇我さんは悪役っすね………

492:日本@名無史さん
07/11/25 20:11:06
馬子は権力を維持しようとした
ただの守旧派。
偉大な改革はできますまい。

493:日本@名無史さん
07/11/25 20:15:34
というより馬子が改革をする必要性がない。
むしろ今の権力を維持するため改革は避けたい。

494:日本@名無史さん
07/11/25 20:22:06
法隆寺釈迦三尊像は北魏様式。

馬子の百済系とは違いますね

495:日本@名無史さん
07/11/25 20:43:10
>聖徳太子=蘇我入鹿
このネタもう秋田。

496:日本@名無史さん
08/01/07 16:57:54

飽きた、飽きないは感情であって学問ではない。

497:日本@名無史さん
08/01/08 00:54:55
散々論破されてるのに未だに主張し続けることが原因で「飽きた」んでしょ

498:広瀬満
08/01/09 15:09:48
>>497
天智天皇が蘇我馬子の孫であるという私の説が論破されたとは全く思っていない。
ただ愚問や揚げ足取りのような質問には返答は控えさせていただいている。
散々論破されたというならどのように論破されたのか説明してほしい。

広瀬満

URLリンク(www.kojikiden.com)


499:日本@名無史さん
08/01/09 18:08:22
.


500:日本@名無史さん
08/01/09 20:24:34
都合が悪いことには理由をつけて答えないのは正解
広瀬のスタンスは間違ってないよ

501:日本@名無史さん
08/01/09 23:06:08
>>498
思うか思わないかは個人の勝手だよwww
正当な質問を愚問揚げ足取りって逃げ続けておいてよくいうなとは思うけどwww

502:広瀬満
08/01/10 00:50:11
私の説が論破されたというならどこでどのように論破されたのかきちんと指摘してほしい。
私があげた様々な傍証に対して反論はでているが天智天皇が蘇我馬子の孫であるという私の説が
論破されたといえるような反論があったとは全く思わない。

広瀬満
URLリンク(www.kojikiden.com)



503:日本@名無史さん
08/01/10 02:24:39
【専門】ADD/ADHD専門スレッド part38【総合】
スレリンク(utu板)

504:日本@名無史さん
08/01/10 20:39:11
↑??

505:日本@名無史さん
08/01/11 02:55:07
常に下を向いて生きてろ

506:日本@名無史さん
08/01/11 20:57:02
↓??

507:古代
08/01/12 01:13:12
蘇我入鹿が実は天皇になっていたという説ならあるけど、天皇のような宮殿建てたり、墓(凌)を作ったり天皇のように振舞っていた。
ようにではなくて天皇だったと見る方が自然。という説。
上宮法王帝説にそれらしき記述があるけど、正史としては認められていない。
上古代では王朝交代があったとみる学者も多いし、天皇大権は天武の時に確立したので可能性は皆無ではない。
そもそも大化の改新のあたりは謎がいっぱい。

508:siraki
08/01/12 01:40:56
すぐれた実力だね正解に近い...
少し補えば...
URLリンク(bbs.enjoykorea.jp)

509:siraki
08/01/12 01:49:55
今の 家係が天皇になったことは百済滅亡以後..
木満致は 中王係 山背 阿華知
健 中 三

510:siraki
08/01/12 03:40:20
天穂日 任那宿彌 家都美 速玉 とても絶妙だ文字のアートだ
文字細工だと言うか...纎細に輝く 金飾りみたいだ...

511:siraki
08/01/12 06:26:08
速日の 麻古 速日の 溫羅日 速日の 木梨 速日の 夫沙美
速日의 麻那須米 速日の 物佐味
誰が百済 近肖古王の子供達の名前を憶えるか?
偉い話を憶える 者 これからはないね.久米の勇士たちを誰が憶えるか..

スレリンク(history板)l50

512:日本@名無史さん
08/01/12 07:09:19
新たな基地外が…

513:日本@名無史さん
08/01/12 17:28:50
>>507
舒明、皇極は無視?
蘇我蝦夷、入鹿の邸があったとされる甘樫丘は発掘が進み、
焼け跡も見つかり、ここに遺跡があったことは間違いがない。
(現時点では倉庫のような跡のみで大宮殿はみつかっていない)
一方、入鹿が殺害された皇極天皇の飛鳥板蓋宮もまた、場所は確定されている。

問題は山面の不便なところに天皇が宮殿など建てるかということだ。
蘇我氏は天皇を補佐する大臣として、天皇を飛鳥に居住させて以来、
蘇我氏の本拠地でもある飛鳥を守るために、常に外敵から天皇を守る立場にあった。

蝦夷、入鹿が見晴らしの良い甘樫丘に邸を構えたのもそのため。
入鹿が天皇なら、官僚たちの参内に不便な丘陵地に邸は構えない。
一方、皇極天皇が住んだ飛鳥板蓋宮は平地にあり、
官僚も皇族も集いやすく、宮殿としてふさわしかった。
蝦夷、入鹿は飛鳥板蓋宮を見下ろせる場所で、天皇とその宮殿を守っていたのだ。

514:日本@名無史さん
08/01/12 17:37:09
                                                 
 古代の半島東南部に、志羅紀(シラキ)という倭人国が存在した。天日矛の祖国・シラキの国号の意味が、
ついに明らかになった。
 シラキとは、知城(知らす城)の意味である。つまり、「首都」という意味の言葉である。
シラキとは金城(現在の慶州)の古名なのである。金城とその周辺地方をシラキと呼んでいた。
 なんと、1世紀頃まで、つまり漢朝の時代まで、シラキは半島南部の全域を支配していたらしい。
紀元前1世紀の半島にあった漢朝の地方領、真番郡・臨屯郡の南方に位置した韓(カラ)という国。
 実は、この韓(カラ)こそが、神武天皇の皇兄=稲飯命によって建てられた志羅紀(シラキ)なのである。
 日本海側から東シナ海側に至るまで、4世紀以降からミマナ・クタラと呼ばれるようになる地域まで、
シラキ領土だったのだ。
 大和朝廷が半島南部を支配するために置いてた官庁・任那日本府は、3世紀頃までは金城(シラキの都)に
置かれていたのである。

 興味深いのは、漢朝が半島に四郡を置いて支配していた紀元前1世紀の時代においても、
漢朝は韓(カラ=シラキ)を漢領土に組み込むことなく、その独立を認めていたことである。
 この事実は、紀元前1世紀の時代に、すでに倭人と半島漢人の間には友好的関係が確立されていたことを
暗示している。






次ページ
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch