07/04/25 16:43:37
押坂彦人皇子って、用明2年4月条で「太子」と表現され、
用明天皇の皇太子であったことがわかる。
が、実際には、その後用明天皇の弟祟俊天皇が擁立され(馬子が暗殺)、
その後敏達天皇の大后で用明天皇の妹推古天皇が即位。
推古天皇は押坂彦人皇子の継母に当たり、押坂彦人皇子とは合い入れない人物。
推古天皇のもとで政治手腕を発揮した馬子と同一人物であるはずもない。
押坂彦人皇子の没年が日本書紀に書かれてないのが議論の一因かもしれないが、
用明天皇が没すると同時に若死にしたか失脚したと見るのが妥当。
敏達天皇の死後、天皇の後継者決定権を一手に握っていた炊屋姫(推古天皇)と
合い入れなかったのが原因か。