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続き
●彦人大兄と馬子が同一人物であることの立証
1、推古天皇には5人の娘がありそのうちの二人(桜井弓張皇女、小墾田皇女)が彦人大兄に嫁いでいるが蘇我馬子には一人も嫁いでいない。
時の権力者は王族と深い姻戚関係を結ぶことが普通である。
2、蘇我馬子と物部守屋の戦いの3ヶ月前、中臣勝海連は守屋を助けるため彦人大兄と竹田皇子の像を作り呪うが、なぜ彦人大兄の像があって馬子の像がないのか。
前後の状況からして物部守屋の最大の政敵は馬子である。馬子の像がないのは彦人大兄と馬子が同一人物だからではないか。
3、その後、中臣勝海連は守屋を裏切り彦人大兄側に付こうとし、その宮に行くが出たところを彦人大兄の舎人の迹見赤檮に斬殺された。
「聖徳太子伝歴」はこの事件のことを中臣勝海連は馬子の命を受けた迹見赤檮に殺されたと記している。
4、蘇我馬子と物部守屋の戦い以降、彦人大兄についての消息が全く不明である。
彦人大兄の舎人の迹見赤檮が馬子と守屋の戦いにおいて馬子の配下として行動している。しかし戦いに彦人大兄の名は見えない。
5、彦人大兄の墓(成相墓)が広陵町にある牧野古墳である可能性はかなり高いとされている。
なぜなら成相墓があったとされる大和国広瀬郡(現在の河合町や広陵町)には牧野古墳以外、飛鳥時代の墓はほとんどないからである。
牧野古墳の石室は明日香村の石舞台古墳とほぼ匹敵する大きさである。
蘇我馬子と物部守屋の戦い以降の蘇我氏の全盛期になぜこのような巨大な墓が即位したわけでもない彦人大兄のために造られたのか。
一般的に墓の規模は被葬者の生前の実力を表している。牧野古墳は飛鳥時代最大の実力者馬子の墓と考えられる。
6、牧野古墳の発掘調査では石室から桃の核が見つかっている。発掘の状況から見て埋葬時に石棺の上に置かれていたものらしい。
桃の実がなるのは初夏である。馬子が死んだのは旧暦の5月20日、その月の内に葬られているのでこれはほぼ符合する。