「天皇家の真の皇祖は蘇我馬子」論at HISTORY
「天皇家の真の皇祖は蘇我馬子」論 - 暇つぶし2ch205:広瀬満
07/04/10 20:41:28
押坂彦人大兄皇子にまつわる疑惑
 
 このスレッドでは天智天皇の祖父の押坂彦人大兄皇子(彦人大兄)が蘇我馬子の別名、
すなわち彦人大兄と馬子が同一人物であることを論証しているが初めてこのスレッドを見た方もおられると思うので
ここでは改めて押坂彦人大兄皇子にまつわる数々の疑惑を列挙しておきたい。

 また彦人大兄と馬子が同一人物ということは天皇家は推古天皇と舒明天皇の間で皇統が切り替わっていたことになる。
このことは「日本書紀」等の記述からも伺えるので合わせて紹介しておきたい。

        
●彦人大兄が敏達天皇の皇子であることの疑惑

1、彦人大兄は敏達天皇と皇后の第一子で太子とされていたのに敏達天皇や用明天皇の崩御後、なぜ即位しなかったのか。

2、彦人大兄の后は糠手姫皇女、大俣王、桜井弓張皇女、小墾田皇女の4人であるがこの内、糠手姫皇女、桜井弓張皇女、小墾田皇女は敏達天皇の娘である。
従って彦人大兄が自分の妹を3人も后にしているのは何とも異常である。この時代、自分の妹を娶った例はいくつかあるがそれは皇后、正后の一人に限られている。
3人も后にした例はなくその理由も説明がつかない。

3、皇統譜上、彦人大兄は極めて重要な人物でありながら没年についての記載がない。一方天智天皇の祖母の薨去についての記載は存在する。

4、大化2年(646)3月の詔に「皇祖大兄」とあり、それに「彦人大兄をいう」の註が付けられている。
彦人大兄は「皇祖大兄」とも呼ばれていた。父が天皇なのになぜ彼は皇祖と呼ばれていたのか。

5、『延喜式』には彦人大兄の墓についての記載があるがその墓域の広さは東西15町、南北20町と尋常ではない大きさである。
これは『延喜式』では最大の大きさである。父の敏達天皇が東西3町、南北3町、天皇としては最も大きい天智天皇でも東西14町、南北14町にすぎない。
即位したわけでもないのになぜこのように大きいのか。


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