「天皇家の真の皇祖は蘇我馬子」論at HISTORY
「天皇家の真の皇祖は蘇我馬子」論 - 暇つぶし2ch200:日本@名無史さん
07/04/10 16:06:52
 明治天皇は南朝系(日本人)の大室寅之助だが、その子が大正天皇でこの天皇はき
ちがいにされて、また北朝系(朝鮮人)の昭和天皇にすり替ったのである。
 日本に渡来した秦一族(フリーメーソン)
 秦の始皇帝は日本に自生する不老長寿の薬草を求めるために、徐福を派遣したと
あるが、本当は日本の優れた神書(天皇記など)を盗み出す事が目的であった。焚
書抗儒は日本の神書をあたかも中国の書物であるかのように書き直し、その神書を
焼却し、作業に関わった儒者を生き埋めにした事件である。四書五経、東洋医学は
日本文化の精華なのです。
 白鳳時代、朝鮮人(秦一族)の蘇我氏(フリーメーソン)によって日本は乗っ取
られ、日本の国体、神道破壊の計略にかかり、神代文字の古文献は改ざんされ、悪
魔の仏教に汚染された。
 蘇我氏(中大兄皇子は百済皇子豊璋)は政敵物部氏を滅ぼし、大化の改新によっ
て聖徳天皇(聖徳太子)を暗殺し(聖徳太子は蘇我氏の血筋ではない。高貴な天皇
家が朝鮮人を妻にしない)、蘇我氏は悪名が広がったので藤原氏と改名し、日本の
政治を牛耳った。麿と言う言葉は日本語と馴染みがなく、朝鮮王家の人が使した王
(自分)と言う意味である。
 藤原氏は藤の生命力をめでて、家紋とした。斎藤道三、木下藤吉郎・秀吉、細川
藤孝、徳川家康はフリーメーソンである。
 家康の正体は世良田元信で、松平元康を殺し元康に化けた。元康の嫡男、信康と
その妻築山殿は邪魔になり殺された。
 徳川家康は岡崎で産れたのだから、岡崎に霊廟(東照宮)を建てるのが筋である。
 寛永21年家光は上野国新田郡世良田庄の長楽寺隣に日光東照宮の奥殿(実は遺骨)
を移築して世良田東照宮を建てた。
 ここを中心にして、東北(表鬼門)に日光東照宮があり、南西(裏鬼門)に久能
山東照宮がある。と言うことは、世良田庄を鬼門の金神の祟りから護る為の呪術を
施した事になり、徳川家康は世良元信である事の証拠となる。


201:日本@名無史さん
07/04/10 16:14:56
明治維新にまつわる陰謀をあばく
 1853年米国ペリー提督は日本を占領するために来航し、国富を略奪する
ための日米修好通商条約を締結させた。この不平等な条約によって、日本の金
貨を同量の銀貨と交換出来る様になり、米国はその金貨を外国で大量の銀貨に
換え、それをまた日本の金貨と交換して限りない利益を得たのです。幕府は金
の流失を防ぐため、金の含有量を少なくした金貨を鋳造したために、金貨の価
値が減り物価が高騰して、庶民を苦しめた。欧米諸国は日本を侵略するために、
幕府と革命軍に軍備を貸して、互いに戦わせ弱ってから支配すると言う漁夫の
利を得る作戦を企てた。これはフリーメーソンの陰謀である。革命軍を指導し
たのが米国人フルベッキで、武器を調達したのが英国商人グラバーである。
 坂本竜馬はこの陰謀を悟って、大政奉還によって同士討ちを防いだのです。
これによって、フリーメーソンの恨みを買い暗殺された。
 ここに「倒幕リーダーの歴史的結集」と記された写真がある。フルベッキを中
心にして、倒幕の英雄が写っているが、坂本竜馬などの著名人の顔が周知のも
のと違うのは、フリーメーソンが陰謀を隠すための捏造の手段である。中央で
刀を抱いているのは、後に明治天皇に摩り替った大室寅之祐で、左端に立って
いるのは後に竜馬に化けた勝海舟で、頬骨が尖った特徴的な顔の人は横井小南
で、調査するとこの写真は本物と認めざるを得ない。幕府のお尋ね者で偽名を
使って逃げている者が、自家の家紋の紋付の着物を着る訳がない。フリーメー
ソンと結託した土佐藩が竜馬を暗殺後、海舟が竜馬に化けて写った写真が巷に
広まったのです。
 坂本竜馬は明智光秀の一族明智秀満の子孫で、家紋は違い桁に桔梗である。
日本霊異記は言う。長屋親王の骨が土佐に流れ着いて祟りをなして農民が死ん
だとある。光秀は長屋親王の子孫であり、こうした因縁によって、秀満が土佐
に移り住むことになったのである。
 竜馬が滑稽な手紙を書いて乙女姉を笑わせたり、国家を論ずる時に、男女の
卑俗な機微を喩え話の猥談にして、三条実美卿を大笑いさせた等の話は、戯曲
師が話を面白くする為に装飾したもので、誠実な竜馬が冗談など言わない。




202:日本@名無史さん
07/04/10 16:46:02
作った人間の頭の程度が判る物語であり
ここはその見本市ですか?

203:日本@名無史さん
07/04/10 18:22:41
(天平六年)夏四月
戊戌。地大震。壤天下百姓廬舍。壓死者多。山崩川壅。地往往坼裂不可勝數。
癸夘。遣使畿内七道諸國。檢看被地震神社。
戊申。詔曰。今月七日地震殊常。恐動山陵。宜遣諸王眞人。副土師宿祢一人。檢看諱所八處及有功王之墓。
又詔曰。地震之災恐由政事有闕。凡厥庶寮勉理職事。自今以後。若不改勵。隨其状迹。必將貶黜焉。

3行目は、凡そ次のような意味となろう。
詔して曰く。「今月7日の地震は普通ではなかった。恐らく山陵も動いて(壊れて)いるであろう。諸王又は眞人を派遣して、土師宿祢を一人従わせて、天皇陵8箇所と功のあった王の墓を調査させる。」

204:日本@名無史さん
07/04/10 18:27:55
>>203 (続き)
スレの説では、天皇陵8箇所が、聖武から遡って天皇陵8代分とすると、重祚や合葬もあるので、元正~舒明となるので、舒明天皇以降が新王朝だった。

しかし、歴史書やその写本を改竄するほどに、このスレにとって最も重要な、皇祖(=馬子=押坂彦人)の山陵は調査しないで放置となる。
これは、重大矛盾で論理破綻で説崩壊!

そこで、「功のあった王」の一人が押坂彦人(=皇祖)と考えるのはどうか?
一見つじつまは合うように思えたが、やはりダメだ。
かつて「皇祖大兄」と呼んでいたのに(>>14)、しかも歴史書やその写本を改竄しほうだいのはずなのに(>>165)、
ただの「王」に格下げした記述とするのは珍妙で重大矛盾で論理破綻で説崩壊!

そのうえ、広瀬流は、「全く書かれてもいないことを自分の主張の根拠にしてどうする」(>>166)とケナスので、
a 「功のあった王」が押坂彦人であるとは書かれていない。
b そもそも天皇陵8箇所も元正~舒明とは書かれていない。
c しかも、調査しただけで、修陵したとは書かれていない。壊れたまま、放置!! 
  調査に派遣された者たちは、「見てるだけ~~~」

アホらしか。

205:広瀬満
07/04/10 20:41:28
押坂彦人大兄皇子にまつわる疑惑
 
 このスレッドでは天智天皇の祖父の押坂彦人大兄皇子(彦人大兄)が蘇我馬子の別名、
すなわち彦人大兄と馬子が同一人物であることを論証しているが初めてこのスレッドを見た方もおられると思うので
ここでは改めて押坂彦人大兄皇子にまつわる数々の疑惑を列挙しておきたい。

 また彦人大兄と馬子が同一人物ということは天皇家は推古天皇と舒明天皇の間で皇統が切り替わっていたことになる。
このことは「日本書紀」等の記述からも伺えるので合わせて紹介しておきたい。

        
●彦人大兄が敏達天皇の皇子であることの疑惑

1、彦人大兄は敏達天皇と皇后の第一子で太子とされていたのに敏達天皇や用明天皇の崩御後、なぜ即位しなかったのか。

2、彦人大兄の后は糠手姫皇女、大俣王、桜井弓張皇女、小墾田皇女の4人であるがこの内、糠手姫皇女、桜井弓張皇女、小墾田皇女は敏達天皇の娘である。
従って彦人大兄が自分の妹を3人も后にしているのは何とも異常である。この時代、自分の妹を娶った例はいくつかあるがそれは皇后、正后の一人に限られている。
3人も后にした例はなくその理由も説明がつかない。

3、皇統譜上、彦人大兄は極めて重要な人物でありながら没年についての記載がない。一方天智天皇の祖母の薨去についての記載は存在する。

4、大化2年(646)3月の詔に「皇祖大兄」とあり、それに「彦人大兄をいう」の註が付けられている。
彦人大兄は「皇祖大兄」とも呼ばれていた。父が天皇なのになぜ彼は皇祖と呼ばれていたのか。

5、『延喜式』には彦人大兄の墓についての記載があるがその墓域の広さは東西15町、南北20町と尋常ではない大きさである。
これは『延喜式』では最大の大きさである。父の敏達天皇が東西3町、南北3町、天皇としては最も大きい天智天皇でも東西14町、南北14町にすぎない。
即位したわけでもないのになぜこのように大きいのか。

206:広瀬満
07/04/10 20:42:29
続き

●彦人大兄と馬子が同一人物であることの立証

1、推古天皇には5人の娘がありそのうちの二人(桜井弓張皇女、小墾田皇女)が彦人大兄に嫁いでいるが蘇我馬子には一人も嫁いでいない。
時の権力者は王族と深い姻戚関係を結ぶことが普通である。

2、蘇我馬子と物部守屋の戦いの3ヶ月前、中臣勝海連は守屋を助けるため彦人大兄と竹田皇子の像を作り呪うが、なぜ彦人大兄の像があって馬子の像がないのか。
前後の状況からして物部守屋の最大の政敵は馬子である。馬子の像がないのは彦人大兄と馬子が同一人物だからではないか。

3、その後、中臣勝海連は守屋を裏切り彦人大兄側に付こうとし、その宮に行くが出たところを彦人大兄の舎人の迹見赤檮に斬殺された。
「聖徳太子伝歴」はこの事件のことを中臣勝海連は馬子の命を受けた迹見赤檮に殺されたと記している。

4、蘇我馬子と物部守屋の戦い以降、彦人大兄についての消息が全く不明である。
彦人大兄の舎人の迹見赤檮が馬子と守屋の戦いにおいて馬子の配下として行動している。しかし戦いに彦人大兄の名は見えない。

5、彦人大兄の墓(成相墓)が広陵町にある牧野古墳である可能性はかなり高いとされている。
なぜなら成相墓があったとされる大和国広瀬郡(現在の河合町や広陵町)には牧野古墳以外、飛鳥時代の墓はほとんどないからである。
牧野古墳の石室は明日香村の石舞台古墳とほぼ匹敵する大きさである。
蘇我馬子と物部守屋の戦い以降の蘇我氏の全盛期になぜこのような巨大な墓が即位したわけでもない彦人大兄のために造られたのか。
一般的に墓の規模は被葬者の生前の実力を表している。牧野古墳は飛鳥時代最大の実力者馬子の墓と考えられる。

6、牧野古墳の発掘調査では石室から桃の核が見つかっている。発掘の状況から見て埋葬時に石棺の上に置かれていたものらしい。
桃の実がなるのは初夏である。馬子が死んだのは旧暦の5月20日、その月の内に葬られているのでこれはほぼ符合する。


207:広瀬満
07/04/10 20:44:12
続き

●推古天皇と舒明天皇の間で皇統が切り替わっていたことの立証

1、推古天皇の崩御後、天皇に即位した田村皇子(舒明天皇)は日本書紀によれば蘇我氏とは血の繋がりはない。
山背大兄王といった蘇我系の皇子をさしおいてなぜ蘇我蝦夷は彼を天皇に即位させたのか。
田村皇子が馬子の子だったとすればこのような疑問は生じない。

2、蘇我馬子は崇峻5年(592)、崇峻天皇を弑逆(この場合は臣下が天皇を殺すこと)した。
これは記録に残る唯一の例である。天皇家の側からすれば大変な不祥事で当然弾劾されるべきと思うが「日本書紀」は馬子を非難していない。
しかも馬子のことを武略備わり、政務にも優れた人物と賞賛さえしている。

3、乙巳の変の直後の8月8日、天皇はいわゆる仏教統制の詔を出している。この中で蘇我稲目、蘇我馬子の仏教における功績が称えられている。
しかし仏教の大功労者であった聖徳太子については何も語られてはいない。蘇我の宗本家を滅ぼした直後にこのような詔が出されるのはたいへん奇怪である。
功績が称えられているのは天皇が稲目や馬子の子孫だからではないだろうか。

4、天智10年(671)、天智天皇は病に倒れる。その直後、天皇は珍宝を飛鳥寺に奉納している。
病に倒れた直後と言うタイミングから見て、病気の平癒を祈願したものと思われる。
飛鳥寺は蘇我馬子によって創建された蘇我氏の氏寺である。父や母にゆかりの百済寺や川原寺ではなく、なぜよりによって飛鳥寺なのか。
天智天皇が馬子の孫だったと考えれば彼のこのような行動はよく理解できる。

5、天智天皇の崩御の直前、大友皇子は内裏の仏像の前で重臣たちに忠誠を誓わせている。
その顔ぶれは左大臣蘇我赤兄臣、右大臣中臣金連、蘇我果安臣、巨勢人臣、紀大人臣の5人である。
鎌足の従兄弟といわれる右大臣中臣金連を除けば他の4人は蘇我氏か、あるいは蘇我の同族である。
なぜこのような蘇我氏に偏った人事が行われたのか。その理由がわからない。天智天皇が蘇我の一族だとすればわかりやすい。

6、比定がほぼ正しいとすれば天皇陵は形状の不明な孝徳天皇を除けば舒明天皇以降、墳丘の形がそれまでに方形から8角形に変化する。
これは推古天皇と舒明天皇の間に画期、すなわち王朝の交代が有ったことを示すのでは。

208:広瀬満
07/04/10 20:46:27
続き

7、上に関して、天平6年(734)4月17日聖武天皇は大きな地震のあとで山稜の被害の調査をさせている。
そのとき調査を命じられた天皇陵の数は8カ所である。
天皇陵は数多いのになぜ8カ所でしかないのか。身近な天皇陵とするとその天皇陵は

元正天皇陵(奈保山西陵)
元明天皇陵(奈保山東陵)
文武天皇陵(檜隈安古岡上陵)
天武・持統合葬陵(檜隈大陵)
天智天皇陵(山科陵)
斉明天皇陵(越智崗上陵)
孝徳天皇陵(大阪磯長陵)
舒明天皇陵(押坂内陵)

以上で8カ所である。舒明天皇までで推古天皇まで届いていないのは舒明天皇以降が新王朝だったからではないか。


209:広瀬満
07/04/10 20:47:34
続き

●最後に

 私が押坂彦人大兄皇子に対して抱く疑惑は以上の通りである。
よく考えて頂きたいのはこれらの疑惑は押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の子ではなく、蘇我馬子と同一人物、
すなわち皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていたと考えればすべて氷解すると言うことである。

 もしこれ以外に気づいたことがあればぜひ広瀬満までお教え願いたい。

 ともあれ、現天皇はこの押坂彦人大兄皇子の直系の子孫である。
この皇統譜の上において重要な人物にこのような出自にまつわる疑惑が数多く存在することは大きな問題である。
天智天皇と天武天皇が実の兄弟であるかどうかどころの問題ではない。日本の歴史学はこの問題を無視することは許されないと思うのである。

広瀬満

URLリンク(www.kojikiden.com)


210:日本@名無史さん
07/04/11 00:29:26
すでに破綻してるのに何も答えないまま全く同じ電波流すってなんなの

211:日本@名無史さん
07/04/11 03:52:27
もうここの>>1は相手しないで紀年法スレに来てください

212:日本@名無史さん
07/04/11 10:29:34
>>205 彦人大兄が敏達天皇の皇子であることの疑惑

1 >>14 の矛盾2と同じ。
  まず、>>125 に答えるべき。
  それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。

2 >>14 の矛盾3と同じ。
  まず、>>126 に答えるべき。
  それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。

3 >>14 の矛盾4と同じ。
  まず、>>127 に答えるべき。
  それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。

213:日本@名無史さん
07/04/11 10:32:11
>>205 彦人大兄が敏達天皇の皇子であることの疑惑

4 >>14 の矛盾8とほぼ同じ。
  まず、>>131 に答えるべき。
  それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。

  『「彦人大兄をいう」の註が付けられている。』が付加されている。(修正点を明記せず、姑息にこっそりと微調整)
  本文についてはあちこち捏造だなんだと言うくせに、自分が批判を浴びると注を持ち出すとは、ご都合主義ですね。
  それほど、卑怯技を使いたいなら、>>131の「また、皇祖大兄=押坂彦人と明記されているわけでもない。」の1行は撤回します。
  しかし、かえって、>>131の反論の他の行は鉄板であることを自ら認めるようなものですね。
  ご自分の説を論証するうえで、たいして補強になっていないところが悲しいですね。

5 >>15 の矛盾9と同じ。
  まず、>>132 に答えるべき。
  それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。

214:日本@名無史さん
07/04/11 12:02:17
>>206 彦人大兄と馬子が同一人物であることの立証

1 >>14 の矛盾5と同じ。
  まず、>>128 に答えるべき。
  それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。

2 >>14 の矛盾6と同じ。
  まず、>>129 に答えるべき。
  それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
  
  「中臣勝海連と物部守屋の二人が最も敵対視していたのは馬子だったはず」(>>14)が
  「前後の状況からして物部守屋の最大の政敵は馬子である」(>>206)と代わっているが、大意は変わらない。
  しかし、多少表現を変えたところで、そんなこと日本書紀に書いてない。
  つまり、日本書紀では、「群臣たちがおとしめようとしている(群臣圖卿)」とあり、複数の群臣が守屋に敵対しているのであって、馬子一人が敵対しているとは書かれてない。
  しかも、日本書紀では、馬子と守屋は、用明の後継者選びで対立しているのであって、まだ軍事的に対峙しているとは書かれていない。
  「全く書かれてもいないことを自分の主張の根拠にしてどうする」(>>166)が広瀬流だろ。(自爆というかブーメランというか、・・・トホホ)

215:日本@名無史さん
07/04/11 12:05:26
>>206 彦人大兄と馬子が同一人物であることの立証

3 迹見赤檮については、まず、>>191 にきちんと答えるのが誠実な態度というものであろう。
  さらに、>>142 に答えないのは、当初の主張は論破されたと認めるわけですね。

  で、しかたなく「聖徳太子伝歴」を持ち出したと。 迹見赤檮が中臣勝海連を殺したのも馬子の命令によるものだと。
  守屋やその仲間の舎人でもない限り、誰の舎人であろうと、この時期の馬子の指揮・命令に従うことは必ずしも珍しくないということが、まだ理解できないようですね。
  馬子が、竹田皇子と押坂彦人皇子を呪殺しようとした犯罪者を捕えて殺すように諸王や群臣に命じることが不思議ですか?

  いつまでも理解できないようでは、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。

4 前半は、>>14 の矛盾7と同じ。
  まず、>>130 に答えるべき。
  それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。

  特にこの件については、内容もひどいが、表現について「こうした不正確な書き方は、悪質な印象操作である」と指摘したはず。
  それでも表現を改めようとしないのは、かなり悪質ですね。

  後半は、迹見赤檮について。
  これは、まず、>>191 にきちんと答えるのが誠実な態度というものであろう。
  さらに、>>142 に答えないのは、当初の主張は論破されたと認めるわけですね。

  悪質な印象操作を繰り返すようでは、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。

216:日本@名無史さん
07/04/11 12:07:00
>>206 彦人大兄と馬子が同一人物であることの立証

5 >>15 の矛盾10とほぼ同じ。
  まず、>>133 に答えるべき。
  それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。

  また、「一般的に墓の規模は被葬者の生前の実力を表している。」が追加されているが、これについては
  まず、、>>70の疑問9への反論>>88~89 さらに >>109 を経て、>>112~113に答えるべき。
  それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。

  さらに、「牧野古墳は飛鳥時代最大の実力者馬子の墓と考えられる。」が追加されているが、
  馬子が、自分が仕える敏達、用明、崇峻、推古より実力者であるとは、きちんとした根拠なしに言えることではない。
  しかも、>>109を見ると、広瀬流では、ある時期に最大の古墳はその時代の「大王の墓ではないと疑う人もいない」のだろう。
  何故、4人の大王を無視する。
  (♪ブ~メラン、ブ~メラン、ブ~メラン、・・・)

217:日本@名無史さん
07/04/11 12:10:57
>>206 彦人大兄と馬子が同一人物であることの立証

6 これは、新規。
  牧野古墳の石室に桃の実があったことから埋葬の時期的に馬子の墓だと主張したいらしい。
  しかし、肝心な「埋葬時に石棺の上に置かれていたものらしい」という根拠を示すべきだ。
  私の知る限りでは、
    a 桃の実は奥壁の前から発見された
    b 石棺は家型で蓋は屋根のような形をしている
  bから、石棺の上に桃を置くというのは、アクロバチックな空想のように思える。
  何か、私の知らない根拠があるのであろうか。
  根拠がなければ、盗掘時に墓泥棒のオヤツとして持ち込まれたなど、桃の説明はどのようにでもなりそう。
    桃を置いた時期:埋葬の時 (埋葬と「同時代」は却下)
    桃を置いた場所:石棺の上 (多少緩めて、石棺の上以外の埋葬時に目立つ場所でも可)
  この2点の根拠を示せないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。

218:日本@名無史さん
07/04/11 13:23:36
207 推古天皇と舒明天皇の間で皇統が切り替わっていたことの立証

1 >>15 の矛盾11の前半分と同じ。
  まず、>>134 に答えるべき。
  それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。

  特に、「田村皇子が馬子の子だったとすればこのような疑問は生じない」は、
  >>33 の11の「舒明天皇が蘇我蝦夷の弟だったとなればこのような疑問は全く生じない」の改良版か?
  これについては、>>70の疑問11への反論で完全論破されたものな。
  再掲しよう。
  > もうトホホの阿呆ぶりだな。
  > 舒明と蝦夷が兄弟という説が成り立つなら、「兄である蝦夷が天皇にならなかったのはなぜか」というもっと大きな疑問が生じるだろう。
  > 何の疑問の解消にもなっていないどころか、疑問を増幅している。

  こそこそと目立たぬように自説を微調整するような卑怯で姑息なまねはせず、どこを修正したのかをもっと明確に示すべき。
  公明正大にやってほしい。
  そうでないと、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。

219:日本@名無史さん
07/04/11 13:26:07
207 推古天皇と舒明天皇の間で皇統が切り替わっていたことの立証

2 >>147 の根拠1と同じ。
  まず、>>155 さらに >>165の1を経て、>>180の1に答えるべき。
  それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。

220:日本@名無史さん
07/04/11 13:28:58
207 推古天皇と舒明天皇の間で皇統が切り替わっていたことの立証

3 >>147 の根拠2とほぼ同じ。
  まず、>>156 さらに >>165の2を経て、>>180の2に答えるべき。
  それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。

  なお、>>165について。
  自分は40数年もさかのぼった因果関係を主張するくせに、同じような論法を他人が用いると「トンチンカン」とか「ちゃんと読んでいないか、あるいは読んでいても理解できていないかどちらかであろう」と罵倒する。
  なんとも、卑劣な人だ。
  ここでの本質は、「日本書紀で馬子を称えるのはおかしくないことが言えれば反論になる」(>>180)であるのに。
  論理的思考力を疑う。
  だもんで、
  「乙巳の変の後に、蘇我赤兄臣や蘇我果安など、馬子の孫が重臣となる。」を
  「乙巳の変の後に、蘇我倉山田石川麻呂や蘇我赤兄臣や蘇我果安など、馬子の孫が重臣となる。」
  に訂正する。(卑劣漢を相手にするのは疲れる。)

  ついでに。
  新たに聖徳太子の名を出したのは、元々の主張の阿呆さがヤバイと思ったからか?
  論証上、何の補強にもなっていないのが、悲しいが、・・・。

221:日本@名無史さん
07/04/11 13:31:30
207 推古天皇と舒明天皇の間で皇統が切り替わっていたことの立証

4 >>147 の根拠3とほぼ同じ。
  まず、>>157 さらに >>165の3を経て、>>180の3に答えるべき。
  それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。

  なお、新たに、「父や母にゆかりの百済寺や川原寺」とあるが、百済寺(=百済大寺)はよいとして、舒明や皇極と川原寺との間には、日本書記上「ゆかり」といえるほどの関係があるのか?
  (川原寺=川原宮跡地説は、日本書記に書いてないので却下だよ。)
  根拠を示してほしい。
  それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。

5 >>148 の根拠4と同じ。
  まず、>>158 さらに >>166の4を経て、>>181の4に答えるべき。
  それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。

  ところで、巨勢や紀が蘇我と同族とはどういうこと?
  まさか、武内宿禰の子孫などと言わないよね。
  それを言ったら、平群や葛城なども含め、古代豪族の多くが同族になってしまう。
  「蘇我氏に偏った人事」が悪質な印象操作ということになってしまう。

222:日本@名無史さん
07/04/11 13:34:15
207 推古天皇と舒明天皇の間で皇統が切り替わっていたことの立証

6 >>148 の根拠5と同じ。
  まず、>>159さらに >>166の5を経て、>>181の5に答えるべき。
  それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。

  特に、この根拠は最低最悪である。
  墳形が変わるつど、王朝が変わる? 馬鹿丸出し。

  古代では、前方後円、方、円、八角、上円下方などと天皇陵の形は変わるが、そのつど王朝交代か?
  (円形は、雄略が比定されている高鷲丸山の後円部が有名)
  何よりも八角墳ではなくなったとき、王朝は変わったのか?

  近代でも、墳墓が円形の孝明天皇から上円下方形の明治天皇に変わったとき、王朝が変わったのか?
  ああそうですか。アホクサ。

  どうにも、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。

223:日本@名無史さん
07/04/11 14:01:51
207 推古天皇と舒明天皇の間で皇統が切り替わっていたことの立証

7 >>148 の根拠6と同じ。
  まず、>>160さらに >>166の6を経て、>>181の6に答えるべき。
  さらに、>>196~198 及び >>203~204 に答えるべき。
  それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。

  特に、>>203~204 については、
  「レス主は「続日本紀」をちゃんと読んでいたのかどうか疑問である」(>>166)と罵倒しておきながら、無視するのは卑劣である。
  日本書紀は、当時の人たちにとって当たり前のことはいちいち書かない。(書くこともあれば書かないこともある。)
  調査した山陵が壊れていれば修陵するのが当たり前と思うが、広瀬流はそういう常識を許さない。
  調査に王又は眞人と土師氏(陵墓建設の専門集団)が派遣されながら、壊れた山陵を「見てるだけ~~~」とは珍妙であろう。
  私は枝葉末節・重箱の隅を突付くような読み方は苦手だが、それを欠点とは思わない。
  むしろ、行間を読み取る能力、総合的に判断する能力のほうが、「ちゃんと読む」ことにつながると思っている。

  ここで、さらに重要なことは、
  何ゆえ、スレタイの「皇祖」様の山陵は、調査もしないのだ? あるいは、
  何ゆえ、スレタイの「皇祖」様をただの「王」と格下げして表記するのだ?

  これに答えられないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。

224:日本@名無史さん
07/04/11 14:39:04
ほかにも何件か、すっとぼけようとしているものがあるが、卑劣だね。

「押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物だ」(>>7)
  これについては、まず、>>119~121に答えるべき。
  それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。

  さらに、
  馬子=押坂彦人 の身分は何なのか(>>91)
  こんな本質的な問いにも答えていない。まず、きちんと答えるべき。
  それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。

225:日本@名無史さん
07/04/11 14:41:53
「押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物だとすると、日本書記など多くの資料にどのような疑問や矛盾が発生するのか具体的に説明してもらいたい」(>>13)
  これについては、とりあえず敏達記だけをまず取り上げてみた。(>>35, 54)
  これも答えていない。まず、きちんと答えるべき。
  それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。

  特にこの件では、「説明してもらいたい」と人に偉そうに要望しておきながら、自分が不利とみるや放置とは、無責任すぎる。

「中大兄皇子は蘇我の一族だった」(>>22)
  これについては、まず、>>51に答えるべき。
  それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。

「「日本書紀」は皇統が切り替わっていたと正直に書くわけにはいかないので天皇家の出自が蘇我氏であることを隠蔽」(>>103)
  これについては、まず、>>114に答えるべき。
  それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。

226:日本@名無史さん
07/04/11 14:46:57
自説で想定する系図を早く見せないのは無責任です。
話題を変えて、議論から逃げ回ってぐずぐずしてるから、どんどん系図の条件が多くなっています。

あなたには、
 馬子=押坂彦人 (別名)、かつ、
 馬子=蘇我蝦夷と舒明天皇と厩戸皇子の親、かつ、
 馬子=スサノヲ (正体)、かつ、
 蘇我氏は木満致の子孫で百済系、かつ、
 蘇我氏は葛城系、かつ、
 天皇及び主要な皇子、姫、臣下を記載、かつ、
 日本書紀等に照らして「疑問も矛盾もない」
という系図を見せる責任があります。  (>>53>>118も参照)

皇統の系譜が替わったという説なのですから、系譜・系図はとても重要です。
というより核心です。
どれだけ複雑になろうと、日本書紀等の記述と照らし合わせることが可能なレベルの詳細さが求められるのは、当然のことです。

無責任な気持ちでいるのなら、このスレッドを閉じて欲しい。

227:日本@名無史さん
07/04/11 14:50:52
「この説に対する批評、意見を広く求めます」(>>1)
「今は押坂彦人大兄皇子の疑惑について徹底的に議論したい。」(>>25)

話題を勝手に変更しようとしたり、同じ内容を繰り返すだけだったり。

議論を逃げ回るばかりで、嘘っぱちではないか!!!

228:広瀬満
07/04/11 17:30:27
>>163
>>164

いつもながらの歯ごたえのある返答をありがとうございます。

1、守屋の妹で馬子の妻の謀で守屋は殺されたと「日本書紀」は記している。
物部氏、蘇我氏、大王家の関係がどのようなものであったかは重要だが謎に包まれている。
神話、古代朝鮮史、神社祭祀などあらゆる角度から考えてみたい。返答にはなっていないかもしれないが・・

2、たしかに稲目・馬子は仏教における功労者なので詔が彼らの功績にふれていたとしてもおかしくはない。
しかし乙巳の変のわずか2ヶ月後ということを考えれば稲目・馬子の功績ばかりが強調されていることに違和感を感じる。
仏教に功績があったのは稲目・馬子だけではない。推古天皇や聖徳太子も大きな功績があった。
なぜか彼らの功績にはまったくふれられていない。

3、珍宝の奉納が病気の平癒を祈願したものなら国家行事と言うより個人的な色彩が濃い。寺の選定はその寺の起源が問題になる。
父母にゆかりのある百済寺や川原寺の方がふさわしいのでは。馬子と天智天皇の強い絆を感じる。

続く

229:広瀬満
07/04/11 17:32:14
続き

4、平安時代の天皇は藤原氏と濃い血の繋がりがあったのだから重臣が藤原氏で固められていたのは当然である。
天智天皇は蘇我氏と血の繋がりが無いはずなのに重臣が蘇我氏とその一族で固められていることが問題。
蘇我・中臣・巨勢・紀の各氏だけが重要氏族だったわけではない。大伴、阿部など蘇我系以外の大豪族は多い。

5、墳形の変化は6と関連する傍証であって、これだけで王朝交代の明確な証拠とするつもりはない。
墓制の変化は、政治的・文化的時代背景から見極める必要があろうと言うのには同意できる。

6、定期的に実施され費用も手間もかかる山稜の祭祀と地震災害の被害調査とは本質が異なる。
天皇陵とともに皇族の墓も調査されているのに調査が実施された天皇陵が8カ所だけで他は調査も実施されなかったというのは問題である。
8カ所の天皇陵と他の天皇陵は区別して扱われていたのではないか。区別されていたのは王朝が異なるからだろう。
皇族の墓は数の記載がなく、天皇陵のみ数が記載されているのは「続日本紀」の編纂者のある種の意図(暗示)を感じる。

7、これまでの分も含めあなたとのやりとりを私のHPに掲載したいので承認してほしい。

広瀬満

URLリンク(www.kojikiden.com)

230:衣笠宮
07/04/11 22:59:30
229 :広瀬満 :2007/04/11(水) 17:32:14
続き

4、平安時代の天皇は藤原氏と濃い血の繋がりがあったのだから重臣が藤原氏で固められていたのは当然である。
天智天皇は蘇我氏と血の繋がりが無いはずなのに重臣が蘇我氏とその一族で固められていることが問題。
蘇我・中臣・巨勢・紀の各氏だけが重要氏族だったわけではない。大伴、阿部など蘇我系以外の大豪族は多い。

天智天皇は蘇我氏と血の繋がりが無いと言っているのは勉強不足の学者や作家のみ
欽明天皇&蘇我堅塩媛-桜井皇子-吉備姫王&茅渟王-皇極天皇&舒明天皇-天智天皇

231:改竄される前の古事記に書いてあること
07/04/12 01:43:02
まず、応神天皇の次に宇治天皇が即位しますが、久米派内で跡目相続をめぐって内乱が起こります。
これで、久米派自体が弱体化し、大和の王、仁徳天皇が久米派を破って即位しました。
これに異論をとなえた播磨が討伐を受けます。
鴨、明石が戦い、伊和は静観したので、伊和一ノ宮は保護されます。
明石のご神木の楠が切られて、船にされたようですね。
切られて後もその船は鳥之磐楠船神として崇敬を集めました。

仁徳天皇は播磨討伐をなされたようですが、それを応神天皇がなされたよう、大幅に歴史の書き換えがありました。
大変大規模な書き換えがあったので、かなり作業が煩雑になったようです。
ここで政権が大和系の政権になります。
これで、隼人は余計反乱を起すようになり、播磨系の吉備も非協力的になっていきます。
この系統は雄略天皇まで続き、ここで何かあって、その後、播磨系の天皇に代わります。
しかし、数代後に跡継ぎが絶えて、結局、久米系の継体天皇が跡を継ぐことになります。
その父上様がヒコウシ命ですね。久米系の方でした。

その後、しばらく久米系が続きますが、白村江戦で日本が敗北し、
その期に乗じて、大和系の天智天皇が政権をとり、唐に対して、逆賊を討ったので、政権を認めてほしいと使者を送ります。
これを唐が認め、日本は領土を失うことを免れたようです。
これを快く思わない群臣が天武天皇を担いで反乱を起し、久米系がまた政権を取り戻した、という状況らしいです。

大山寺の僧、大蔵院の僧、許波多神社の神主、吉田神道の神主から色々お話を伺い、参考にしました。

232:日本@名無史さん
07/04/12 05:37:43
      /\
    /   \  
   //⌒ヽ \ 
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 \(    ) /  \
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          /⌒ヽ⌒ヽ\
         (  ^/) )) ヽ
         /   /  / ^ω)/⌒ヽ
        (    イ   (   ,つ,^ω^)  ここまでスクロールしたお
       /ヽ  )) ヽ  )ヽ )と  , イ
       (_/(_/(_/(_/ノ(_/⊂ノ> )J
   / ̄Y ̄`|/ ̄^Y ̄ヽ/ ̄ ̄Y `´ ̄\

233:日本@名無史さん
07/04/12 06:09:41
昨日NHK教育で蘇我馬子の石室古墳の内部まで映像を映し、
内部構造から韓国中国の影響があると解説。
ほんとかな?

234:広瀬満
07/04/12 08:00:46
>>230
天智天皇の祖母が吉備姫王が稲目の娘の孫といわれていることは認識していた。

「繋がりが無いはず」としたのは誤りである。
ただ繋がりが女系である上、稲目まで5世代も前の話である。したがって「繋がりがほとんど無いはず」と訂正する。

ただ吉備姫王が桜井皇子の娘という記述は「記紀」にはない。
15世紀に編纂された「本朝皇胤紹運録」の記事である。

指摘には感謝する。

広瀬満

235:日本@名無史さん
07/04/12 10:45:08
自説で想定する系図を早く見せないのは無責任です。
話題を変えて、議論から逃げ回ってぐずぐずしてるから、どんどん系図の条件が多くなっています。

あなたには、
 馬子=押坂彦人 (別名)、かつ、
 馬子=蘇我蝦夷と舒明天皇と厩戸皇子の親、かつ、
 馬子=スサノヲ (正体)、かつ、
 蘇我氏は木満致の子孫で百済系、かつ、
 蘇我氏は葛城系、かつ、
 天皇及び主要な皇子、姫、臣下を記載、かつ、
 日本書紀等に照らして「疑問も矛盾もない」
という系図を見せる責任があります。  (>>53>>118も参照)

皇統の系譜が替わったという説なのですから、系譜・系図はとても重要です。
というより核心です。
どれだけ複雑になろうと、日本書紀等の記述と照らし合わせることが可能なレベルの詳細さが求められるのは、当然のことです。

無責任な気持ちでいるのなら、このスレッドを閉じて欲しい。

236:日本@名無史さん
07/04/12 10:45:43
「この説に対する批評、意見を広く求めます」(>>1)
「今は押坂彦人大兄皇子の疑惑について徹底的に議論したい。」(>>25)

話題を勝手に変更しようとしたり、同じ内容を繰り返すだけだったり。

議論を逃げ回るばかりで、嘘っぱちではないか!!!

237:日本@名無史さん
07/04/12 10:46:25
>>7 「日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。」

この指摘は、次のとおり明らかに完璧に100%間違っています。
  蘇我馬子が大臣になったのは572年(敏達元年)
  自分で迹見檮(=迹見首赤檮?)と押坂彦人のことに触れ、それを重視しているが、それは587年(用明2年)

このことは、何度も指摘されています。
これについても何も説明しようとしないのは、自説の欠陥を認めるているということですか?

238:日本@名無史さん
07/04/12 10:49:19
>>212 ~ >>227
答えられないのは、論理破綻を認めるのですね。

239:日本@名無史さん
07/04/12 10:50:40
>>212 ~ >>227
答えられず、話題をそらそうとするのは、自分が卑劣な人間であることを認めるのですね。

240:日本@名無史さん
07/04/12 15:35:49
珍妙なやり取り。

  163 :日本@名無史さん :2007/04/05(木) 22:17:31

  164 :日本@名無史さん :2007/04/05(木) 22:20:00

  228 :広瀬満 :2007/04/11(水) 17:30:27
  >>163
  >>164
  いつもながらの歯ごたえのある返答をありがとうございます。

163と164は、HNもないのに、何故「いつもながら」なのだ?

自作自演?

241:日本@名無史さん
07/04/12 15:55:12
>>29
>>徹底的な議論が必要と感じている。
>>その結果によっては影響力の大きいシビアな議論となるがここでは堂々とやる!!

不利な議論からは逃げ回るばかりで、議論がまるで徹底していないよ。
不利な議論からは逃げ回るばかりで、ちっとも堂々としていないよ。

242:日本@名無史さん
07/04/13 00:00:30
ⅰ 議論の内容はすべて論破された
ⅱ 議論の論理的方法も否定された
ⅲ 議論に臨む態度も卑劣と非難された

3点セットでダメダメやね。

243:日本@名無史さん
07/04/13 09:23:31
 広瀬君の洞察力は鋭いものがあるが惜しいかな矛盾点が幾つかある。
 押坂彦人大兄皇子は皇位継承の第1候補者で、なぜ天皇に成れなかった
のか。彼が馬子ならどんな名前の天皇になったのか。蘇我氏は先祖に高麗
と言う者がいる様に朝鮮人である。蘇我氏が日本固有の天皇になる事は不
可能。なぜ彦人皇太子が蘇我馬子と言う名前を名乗らねばならないのか。
 聖徳太子の正体は用明天皇の第1皇子の押坂彦人大兄皇子である。
すると、聖徳太子は皇位継承の第1候補者で、天皇に即位していたはずで
す。推古天皇(女帝)の治世下の摂政になっていたというのは嘘になりま
す。
 根拠
「日本書紀」によると、用明2年(587)4月物部派の中臣勝海が彦人
皇太子(押坂彦人大兄皇子)と竹田皇子の像を作って、呪い殺そうとした
が、それが、難しいことを知り、彦人皇太子に帰順した。水派宮の彦人皇
太子の家臣亦見赤壽(トミノイチヒ)は、中臣勝海が退出するところを刀
を抜いて殺害したとある。
覚什著の「太子伝記」によると、物部守屋が用明天皇と聖徳太子を呪詛し
たことが書かれ、勝照3年(587)7月、聖徳太子率いる4将軍の中に
亦見赤壽(トミノイチヒ)(「伝暦」では太子の舎人となっている)がい
て、この人物が物部守屋を弓矢で射殺している。
この二つの事件は587年に起きた物部・蘇我氏による神仏戦争の中での
出来事であることは一目瞭然で、同時期に亦見赤壽(トミノイチヒ)は彦
人皇太子と聖徳太子の両方の家臣になっている。こんなおかしな事はあり
えません。彦人皇太子と聖徳太子は同一人物であると断定できます。
なぜ、聖徳天皇の業績が残らなかったのか。聖徳天皇を暗殺した事実を隠
蔽するためなのです。645年、天皇になっていた聖徳天皇(聖徳太子)
は、三韓の使者の挨拶を受けていた時に、中大兄皇子(百済王の子豊章)
と中臣鎌足(新羅の武王)によって殺害され、日本は朝鮮人に乗っ取られ
てしまったのです。
大化の改新では聖徳天皇を蘇我入鹿にすり替えられてしまいました。
中大兄皇子は祖国復興のために、日本軍を白村江の戦いに派兵して、大量
の犠牲者を作りました。


244:日本@名無史さん
07/04/13 10:01:33
京都の太秦にある広隆寺には聖徳太子の等身大の木像が安置されており、歴
代の天皇が大嘗祭で身に着けた衣装をこの木像に着せることになっている。と
言うことは今の天皇家が聖徳太子を殺害し、皇位を奪ったため、聖徳太子の祟
りを恐れて慰めるための行事だと分かります。
 日本書紀に隠されていた暗号
 なぜ、男性天皇であった伝統が聖徳太子の時代から女性天皇に変ったのか。
このことに疑問を感じないのは不思議である。日本書紀は矛盾点が多く改ざん
されている可能性があるため、内容が難解で改ざんしにくい先代旧事本紀大成
経を調べてみると、推古天皇治世の中に突然、欽明天皇の事績が出てくる。こ
れにも改ざんの魔の手が伸びていた。何か手がかりがないかと見ていると、見
出しが目に入った。帝皇本紀上巻上に継体天皇の事績が書かれている。その後
を推定すると、上巻下が安閑天皇、中巻上が宣化天皇、中巻下が欽明天皇、下
巻上が敏達天皇、下巻下が崇俊天皇となる。次が聖皇本紀上巻上となっている。
聖徳太子の聖の字と一致するから、聖徳天皇に推定する。上巻下は高市天皇、
下巻上は天武天皇、下巻下は長屋天皇となる。このように推定した根拠を示す。
 日本書紀によると、欽明天皇と石姫皇后の間に2男1女が生まれ、皇太子は
箭田珠勝大兄皇子と言い、二男は渟中倉太珠敷尊と言う。ここでおかしいのは、
二男の名前が本名でなく、諱(死後の尊称)であり、珠の一字からこれは箭田珠
勝大兄皇子の諱である。すると用明天皇の存在が消えてしまうのである。
 敏達天皇と広姫皇后の皇太子押坂彦人大兄皇子の又の名を麻呂古皇子と言い、
用明天皇と広子の長男も麻呂古皇子と言う。同じ名前なら入れ替えても同じで
あると言う事は入れ替わったと言う暗号である。押坂彦人大兄皇子は麻呂古皇
子(朝鮮人)に入れ替わったのである。彼は皇太子なのに天皇になれず、いつ亡
くなったのか分からない。まるで聖徳太子とそっくりである。聖徳太子の正体
は押坂彦人大兄皇子で、皇位継承第1候補者で天皇になっていた。このことを
隠すための嘘の女帝が推古天皇である。用明天皇は聖徳太子の血筋を朝鮮人に
卑しめて、天皇になれなかったとするための虚構である。高貴な天皇家が朝鮮
人を妻とする筈がない。


245:日本@名無史さん
07/04/13 10:06:40
 朝鮮人が聖徳太子を暗殺したことが証明された
 日本書紀によると645年に大化の改新の政変が起こり、蘇我入鹿は中大兄
皇子と中臣鎌足らに暗殺された。それを目撃した古人大兄皇子は走って帰り、
「韓人、鞍作臣(蘇我入鹿)を殺しつ、吾が心痛し。」と言った。朝鮮人が蘇我入
鹿を殺した。胸が張り裂けそうだと言った。史学会の学者は現場に朝鮮人がい
ないので、朝鮮の政治がらみで殺したと歪曲した解釈にした。騙されている先
入観でものを考えるから、判断を誤るのである。朝鮮人は中大兄皇子(百済王
豊璋)と中臣鎌足(新羅武王)らである。
 大阪府にある野中寺の弥勒半跏思惟像には次のように書かれている。天智5
年(666)栢寺の智識ら、中宮天皇の大御身労き座しし時に詣り、誓願して弥
勒の御像を奉る。栢寺の縁者が中宮天皇の病気平癒を祈願して弥勒像を贈った。
中宮とは皇后と言う意味ではなく、宮に中(あ)たると言う意味で天皇を指す。
上宮が聖徳太子であるから、中宮は聖徳太子の子・高市皇太子、下宮はその孫
・長屋親王となる。高市天皇は毒殺された。二人は天武天皇の血筋ではない。
 天智7年(668)に中大兄皇子は天智天皇になる。23年間皇太子のままで
いたのはおかしい。成れない事情があったのです。高市天皇が亡くなって成れ
た。この時の斉明天皇は嘘。中大兄皇子が生まれた年は625年で、大海人皇
子は621年である。天武天皇の方が兄である。中大兄皇子の周りは胡散臭い。
 文武元年(697)に軽皇子は文武天皇になる。高市皇子が亡くなるのを待っ
ていたように。この高市皇子は嘘で長屋親王である。この時の持統天皇は嘘。
女帝は聖徳天皇らを隠すための隠れ蓑の役割である。聖徳太子の暗殺を隠すた
めに645年を挟んで太子の事跡を前年にずらし、長屋親王が太子の孫である
ことを隠すために彼の事跡を後年にずらしているのです。

246:日本@名無史さん
07/04/13 10:11:13
 長屋親王は天皇になっていた
 天皇は中国語読みではてんのうだが、日本語読みではあめのすめらきと読む。
天孫降臨説から天を前につけているが、皇の一字で天の下を治める尊と言う意
味である。また、王は1国を治める君主である。皇子は天皇の嫡流の子で親王
はその孫である。王子は嫡流外の子を指す。
 昭和63年から長屋親王邸の木簡の発掘調査が行われた。邸宅は5.7ha
の広さで、不比等邸に匹敵する。
 宅地東辺に掘られた溝から大量の木簡が発見された。
 長屋親王宮大贄鮑十編
 これは長屋親王に献上された干しアワビに付けられた荷札で、大贄とは天皇
の食物を表す。長屋親王は皇太子になる前に、天皇の代理を務めていた?献上
する者が親王と尊称し、大贄と書いた。
 吉備内親王大命以符 婢筥入女進出
 吉備内親王の命令で端女の筥入女を呼び出す。大命とは天皇の命令を表す。
これは長屋天皇の死後、その室である吉備内親王が天皇の代理を務めていた?
 長屋親王御命符
 長屋親王の命令書に御命が使われており、これも天皇の命令を表す。
 長屋皇宮俵一石舂人夫
 長屋天皇の宮で人夫が米一石搗く。
 後皇子 後皇子命宮
 後天皇の子 後天皇の子の宮殿
 芳野幸行用貫簣
 天皇の芳野御幸(外遊)用荷物
 長屋親王邸の木簡が千年以上の間保存出来た理由は、粘土によって密閉され
て、空気と水から遮断されていたからです。溝に廃棄後すぐに、粘土で埋めら
れたと考えられる。すると、この木簡を後世に残そうとした意図が読み取れる。
 以上のことから推論すると、長屋親王が前皇(聖徳天皇)の孫で後皇(高市天
皇)の死後、長屋親王が天皇の代理を務めたのは祖父、父が相次いで殺された
からである。後に天皇になったが藤原氏の陰謀によって毒殺された。その室吉
備内親王が天皇の代理を務めていたが、長屋天皇一族すべてが殺された。その
事実を後世に残そうとして、家臣が木簡を土に埋めて隠したのである。

247:日本@名無史さん
07/04/13 10:15:20
 聖徳太子の謎
 蘇我馬子の専横によって、蘇我稲目の娘の子が用明天皇になり、次に崇俊天
皇になった。崇俊天皇が暗殺されて、蘇我氏の血筋の男子が絶えた状態になっ
た。当然聖徳太子が天皇になれば良いのに、用明天皇の妹が推古天皇になった。
なぜ、太子は天皇になれなかったのか。摂政を務めるなら天皇になれば良い。
 この後押坂彦人大兄皇子の子が舒明天皇になり、其皇后が皇極天皇になった。
皇極天皇在位中に蘇我入鹿が専横の罪で中大兄皇子に暗殺された。彦人皇太子
は蘇我氏の血筋ではない。なぜ、天皇の血筋が本筋に戻ったのか。どうして、
本筋に戻った事が蘇我入鹿の専横となるのか。皇極天皇は後に斉明天皇になる。
この辺りの皇位継承はおかし過ぎて話しにならない。時の彦人皇太子がいつ亡
くなったのか分からないのもおかしい。
 聖徳太子は仏教を普及させた事になっているが、神道の奥義書、先代旧事本
紀大成経を撰述している。この中に予言書の未然本紀がある。神仏論争時代に
この両立は難しい。
 太子の正妃は莵道貝蛸皇女であるが、太子が病となり、妃の膳大郎女が看病
して二人が同時に亡くなった。太子の死亡年が621年と翌年の2説ある。太子
を妻でなく妾が看病し、二人が同時に死亡し、その年が2説ある。こんな話は
不自然であり、2説あるのは捏造の疑いがある。
 「上宮聖徳法王帝説」に、聖徳太子と山背大兄王が親子でないと言う人がいる
ようだが、それは良くない事だとある。そのように言論統制するのは本当の事
が広まると困るからである。書記は太子の子が山背大兄王だと言っていない。
 729年に長屋王が死亡し、737年藤原不比等の4子が疫病で死亡した翌年から
藤原氏が法隆寺の食封を再開し、夢殿を建立した。これらの行為は長屋王の怨
霊封じであり、長屋王が太子の孫だと分かると、法隆寺が太子一族の怨霊封じ
の祈祷をした事が分かる。
 隋書に、600年倭王あり、姓は阿毎、字は多利思比孤(天足彦)で天下を支える
男(天皇)となる。この時は推古天皇で男の天皇は聖徳太子以外は考えられない。

248:日本@名無史さん
07/04/13 10:44:55
 法隆寺の謎
 聖徳太子は607年に法隆寺を父用明天皇の為に薬師如来像を本尊として建てた。
 しかし、623年に太子の菩提を願って遺族が造った釈迦如来像と鎌倉時代の阿
弥陀如来像が同じ金堂に三具並んでおり、中央の釈迦如来像が本尊だと分かる。
薬師如来像は釈迦如来像に比べて鋳造技術が進歩した物であり、前者の方が後
作となり、製造年が逆転する。法隆寺の本尊が2具あるのはおかしい。
 書記に670年に法隆寺が焼失したとある。しかし、「法隆寺縁起幵記資財帳」
には再建されたと言う記載が無く、建物の尺度が大化の改新以前の高麗尺で後
の唐尺でないから、再建説は成り立たない。様式も雲形斗栱など飛鳥時代の物
である。西院伽藍内を掘ったが焼土は無かった。
 すると、若草伽藍説が出てきたが、再建するなら同じ場所に建てる筈で、法
隆寺の南に面する向きと若草伽藍では、ずれている。区画の時代が違うのだ。
 609年に造られた飛鳥寺の丈六如来像の大衣は、右肩から前を覆って後ろへ
回して左腕前膊にかけているから襟が2重である。しかし、法隆寺の釈迦如来
像は襟が1重で最後は左肩の背面に垂れている。作者は両方とも止利で、前作
が正しく着用し後の物が着用法が分からないのは理解に苦しむ。釈迦如来像は
溶銅が拙く鋳造し直した跡がある。
 このように文化が衰退したのは侵略されたからであり、大化の改新を境とし
て飛鳥から天平へと移り、唐様式になったのも侵略が原因である。
 書記が670年に法隆寺が焼失したと記した目的は、唐文化によって再建した
事にしないと飛鳥文化の技術の高さを否定出来ないからだ。
 やはり、聖徳天皇は大化の改新時に暗殺されて、それを隠蔽する為に622年
に病死したと言う嘘を後世に残す為に釈迦如来像が造られ、薬師如来像は聖徳
太子の様な聖者が仏教を勧めたと言う方便で仏教を普及しようとした。其像が
あった寺が太子の崇りで焼失したから法隆寺に移したのである。
 天皇家はフリーメーソンだった
 狛犬を研究して分かった事だが、神社の前に護りの神獣として据えてある狛
犬の起源は古代イスラエルまでさかのぼる。向かって右の狛犬は獅子であり、
左のものは狛犬で本当の姿は一角獣の麒麟である。皇室に伝わる紋章にも同じ
物がある。

249:日本@名無史さん
07/04/13 12:45:48
新しい電波がw

250:日本@名無史さん
07/04/13 13:39:02
舒明は義慈元年に王の名代として倭国に派遣された男だよ
天智は舒明の弟塞城、古事記でいうと中津王だ

251:日本@名無史さん
07/04/13 14:38:50
古墳について一言。
これまでのやり取りを見ると、広瀬氏は古墳についてほぼ無知のようである。

>>92 では、「史料を当たりますので3日ほど時間をください。」というのだが、調べる古墳は
  造山古墳(岡山県)と上石津ミサンザイ古墳(伝履中陵、堺市)という、全国有数の巨大古墳
  春日向山古墳(伝用明陵)と山田高塚古墳(伝推古陵)という、馬子の時代の天皇陵
これらを知らなかった、あるいは3日もかけて資料を調べないと回答できないとは、ちょっと情けない。

また >>109 では、「伝推古陵より伝用明陵の方が少し大きい」というのであるが、これは >>89 で指摘された墳丘の大きさについてのことであろう。
>>15>>33 で、兆域の大きさを基準にして自説を主張していながら、なぜかここでは兆域を無視する。
  用明 磯長原陵 東西二町南北三町
  推古 磯長山田陵 東西二町南北二町
実は、兆域は用明のほうが1.5倍広い。
やはりというか、古墳について無知か、あるいは自説に不利なところは黙殺しているようである。

ここは、学会ではないので、十分な知識なしで説を主張することもあろう。
しかし、古墳についてほぼ無知であるにもかかわらず、古墳を根拠にした説を、何度も批判されながら、何度も繰り返し主張するというのはいかがなものか。
特に、馬子の時代の天皇陵もよく知らずに、馬子の墓を論ずるとは、ひどすぎる。

252:衣笠宮
07/04/14 02:51:29
>>244:聖徳太子の正体 は押坂彦人大兄皇子で、
皇位継承第1候補者で天皇になっていた。

この説を採用すれば聖徳太子(天皇)の皇子は
茅渟王、舒明天皇、山背大兄王、長谷王その他大勢
弟は竹田、葛城、難波、田目、来目その他大勢となるね。
麻呂子皇子(王)って何人いたと思っているの?
そこらじゅうにいたんだよ。こんなことを理由に
同一人物視するなんて..

>>245:聖徳太子の子高市皇太子
>>246:長屋親王は天皇になっていた

こりゃ大変だ。これらが本当だとしたら、何のために
今の系図を採用したの?それによって誰か得した?
私的には、ひとりよがりな想像の産物でしかないね。



253:日本@名無史さん
07/04/14 02:58:02
9条は改憲してはならない。日本の為にならない。
日本人ではない朝鮮総連や民団でさえ、日本を心配して改憲への反対運動を行ってくれている。
私は日本人だが、「改憲すべき」などという者は、日本人として彼らに恥ずかしいと思います。

Q.中国から身を守る為、戦争に対する抑止力が必要では?
A.前提から間違っています。そもそも、中国は日本に派兵しようと思えばいつでもできました。
  なぜなら、日本には9条があるため、空母や長距離ミサイル等「他国を攻撃する手段」がない。
  つまり日本に戦争を仕掛けても、命令をだした幹部の命や本国の資産は9条により絶対に安全なのです。
  にも関わらず、中国は、今まで攻めずにいてくれたのです。

Q.日米安保も絶対ではないのでは?
A.いえ、絶対です。
  知り合いの韓国人の評論家もそう言っていますし、私も同じ考えです。
  そして日米安保が絶対なら、日本を攻める国はなく、改憲の必要はありません。
  しかも9条があれば、米国を守る為に戦う必要がなく、一方的に守ってもらえるのです。

Q.9条が本当に平和憲法なら、世界中で(日本以外に)1国も持とうとしないのはなぜか
A.これは、日本以外のすべての国が誤っているとも言えます。
  「敵国に攻撃が届く国は攻められづらい」というのは、誤った負の考え方です。
  (もっとも韓国や中国の軍に関しては、日本の右傾化阻止の為でもあるので例外ですが)
  さらに日本の場合、隣国が韓国・中国・ロシアと、GDP上位の信頼できる国ばかりです。

【韓国】韓国の市民団体「憲法9条はアジアの安定剤」と強調
スレリンク(dqnplus板)l50
投票法可決、平和主義に対する改憲勢力の攻勢が新たな段階に…アジア各国に不安
スレリンク(newsplus板)l50

254:広瀬満
07/04/14 17:07:26
>>243

亦見赤壽が「伝暦」では太子の舎人となっているのは知っています。
日本@名無史さんは彦人大兄と聖徳太子は同一人物であると主張されていますが
私は彦人大兄(蘇我馬子)と聖徳太子は親子であると考えています。
親子なら亦見赤壽が両方の舎人だったとしても不思議ではないでしょう。
なかなか面白そうなので読ませて頂いています。

広瀬満

URLリンク(www.kojikiden.com)

255:日本@名無史さん
07/04/14 19:04:20
このスレに憲法9条は関係ないけど

256:日本@名無史さん
07/04/14 19:46:18
蘇我氏が百済から仏教を持ち込んだんじゃまいか?
朝廷で重く用いられた理由が他に思いつかない。

257:広瀬満
07/04/16 10:32:47
HPに古代妄想:「天皇の先祖は木満致」の証明をUPしました。
このスレにも掲載する予定です。

広瀬満

URLリンク(www.kojikiden.com)

258:日本@名無史さん
07/04/16 12:36:21
>>257
この説の核心部分にかかわる、
 馬子=押坂彦人の身分は何か?臣下?皇子?
 兄の蝦夷を差し置いて弟の田村皇子が天皇となったのは何故か?
これが、まっとうに「何の疑問も疑惑も矛盾もない」かたちで説明できない限り、
トンデモ論としてもC級です。
(自己矛盾だらけの箇所なので、説明不可能であろうが、・・・。
 さらにその先に山のように矛盾がある説なのだが、・・・。)

もう少しまともな、つまり多少はなるほどと思えるトンデモ論が世の中にはゴマンとあります。
いい加減、恥ずかしくないの?

259:日本@名無史さん
07/04/16 13:16:35
>>254
亦見赤壽がなにか?
まず、次のことに答えるべきでしょう。恥知らずですね。

>>7 日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる

この指摘は、次のとおり明らかに完璧に100%間違っています。
  蘇我馬子が大臣になったのは572年(敏達元年)
  自分で迹見檮(=迹見首赤檮?)と押坂彦人のことに触れ、それを重視しているが、それは587年(用明2年)

このことは、何度も指摘されています。
これについても何も説明しようとしないのは、自説の欠陥を認めているということですか?

260:日本@名無史さん
07/04/16 13:34:38
>>257
やはり、というか、見に行った私が愚かというべきか、とても人に見せるようなレベルではなかった。
状況証拠どころか、コジツケとも言えないような憶測が少しあるだけ。
  木満致=蘇我氏の祖先 and 馬子=押坂彦人 ⇒ 木満致=天皇家の祖先
ということらしいが、木満致=蘇我氏の祖先 という説は珍しくもなく、広瀬流は、その中でも説得力が最低の部類だろう。

なにしろ、広瀬流の脳内では、必要条件と十分条件の区別がつかないのだ。
必要条件と十分条件の区別もつかずに論理的な推論をするので、まるでトンチンカンになる。
こういうのが、後々、googleとかの検索にかかると、ほんと邪魔なんだよな・・・。

261:日本@名無史さん
07/04/16 13:37:18
>>242

ⅰ 議論の内容はすべて論破された
ⅱ 議論の論理的方法も否定された
ⅲ 議論に臨む態度も卑劣と非難された

3点セットでダメダメやね。

262:日本@名無史さん
07/04/16 22:57:27
はじめの勢いはどこへやらwww

263:日本@名無史さん
07/04/17 02:25:05
高校から理系で、一年のときは公民だけ。2年から世界史だけ。

だからよくわからない。

264:日本@名無史さん
07/04/17 07:58:01
>>263
雑誌ムーに掲載されるようなトンデモ論者のスレなので
純粋なお子さんはご遠慮ください

265:広瀬満
07/04/20 17:26:56
「天皇の先祖は木満致」の証明


 蘇我氏の先祖については諸説あるが門脇禎二氏の唱える5世紀に渡来した百済の貴族で任那を支配していた木満致と考える説が有力である。
また私は天皇家の祖は蘇我馬子と考えているので、もしそうだとすると天皇家の祖先は百済の貴族で任那を支配していた木満致ということになる。
そのことは「日本書紀」等の文献からも伺うことができるので論じてみたい。

1、内宮家
 推古朝において任那は内宮家と呼ばれていた。宮家とは屯倉のことで朝廷の直轄地のことをいう。
この宮家の特に「内」が冠されているのは任那が天皇家の元々の領地であったことを表している。

2、任那の調
 調とは領地から徴収する税金のことである。562年に任那は新羅に併合されている。
その後、大和朝廷は新羅に対して調を要求した。
同様に任那の一部を占領した百済に対しても調を要求している。そして両国はその要求に応えている。
つまり形式的にではあるが両国は任那が天皇家の領地であることを認めていたのである。
認めていたのは天皇家の祖先が任那を支配していた木満致だったからと考えれば理解できる。

続く

266:広瀬満
07/04/20 17:27:57
続き

3、白村江
 663年、倭国は660年に唐、新羅によって滅ぼされた百済の復興のために大軍を派遣した。
このときは都を九州の朝倉に遷したほどであったから国を挙げての大軍派遣であった。
しかし超大国唐を敵に回すという大きなリスクを冒してまでも、既に滅びてしまった百済の復興にこだわったのはなぜか。
天皇家の先祖が百済の貴族でもあった木満致と考えればこの大軍派遣は理解できる。
おそらく木満致は百済王家の一族だったのだろう。

4、日本国
 記録の上に置いて「日本」の名称が最初に登場するのは任那日本府である。
その実体は諸説あるが、そのころの我が国の国名は「日本」国ではなく「倭」国だったから、
「日本」というのは朝鮮南部に存在した小国の名かあるいは地名だったのではないか。
おそらく木満致はその地を中心に任那を支配していたのでは。
その木満致が倭国に渡来し、蘇我氏となり、天皇家になった。
その後、天皇家は先祖の地にちなみ「倭国」を「日本国」に改めたのではないだろうか。
そう考えれば「旧唐書」にある「日本国は倭国の別種なり・・・・・日本は旧小国、倭国の地を併せた」との記載と符合する。

5、20度
 聖徳太子によって立てられた法隆寺(今の浅草伽藍跡)がその中心軸が真北から西に約20度振って立てられていることはよく知られている。
同様に渡来系氏族の鞍作氏の氏寺の坂田寺、明日香にある馬子の邸宅跡も20から30度振って立てられている。
このような角度が付けられているのは朝鮮を意識していたためでは。天皇家の祖先が朝鮮からの渡来人だったからではないか。

続く

267:広瀬満
07/04/20 17:31:53
続き

6、大佐平
 673年天武天皇は百済人の沙宅昭明に大佐平の位を賜わったと「日本書紀」に記されている。
「大佐平」とは百済王が臣下に授ける最高の位である。
天皇家が百済王家と何の関係もなければこのような位を授けるというような事はできないし、
仮にしても何の意味もない。位を賜わったのは天皇家が百済王を形式的ではあるが継承していたからと考えられる。
継承していたのは天皇家の先祖が百済出身の木氏だからと考えられる。

7、大刀契
 平安時代、天皇家では三種の神器以外に「大刀契」と呼ばれる宝器を皇位継承において伝授されていた。
「大刀契」の実体はよくわからないが百済伝来の宝器と考えられている。天皇家は百済王位を継承していたのでは

8、木満致と大倭木満致
 「日本書紀」の元本は存在しない。今に伝わるのはすべて後世の写本であるが、木満致は「大倭木満致」と記載されている。
しかしもっとも古い写本の田中本(平安時代初期成立)には「木満致」と記載されている。おそらく元本には「大倭」はなく、
平安時代以降に書き加えられたものと見られる。「大倭」は天皇の和風諡号に見られるように大変な尊称である。
木満致が単なる渡来人ならこのような書き加えが行われる理由はない。木満致が天皇の祖先であるという認識があったのでは。

続く


268:広瀬満
07/04/20 17:33:18
続き

番外、木と馬
 日本の多くの神社では木や馬を「御神木」、「御神馬」として大変神聖視している。
これは天皇家の祖が蘇我馬子、さらにその祖先が木満致だからである。

まとめ、
 その他、平安時代に盛んに行われていた韓神祭など天皇家と百済の結びつきを示す事象は数多い。
また天皇家の祖先が朝鮮渡来であることは神話からも伺うことができるので後にこのことも述べてみたい。
また何度も繰り返すようであるが押坂彦人大兄皇子に関する疑惑(>>205->>209)の解明は極めて重要であることを指摘しておきたい。

広瀬満

URLリンク(www.kojikiden.com)


269:日本@名無史さん
07/04/20 20:51:18
もう議論する気はないんだなwww

270:歴史凡人
07/04/21 01:07:31
天皇家が朝鮮からの起源である説はかなり有力だと信じてる。
朝鮮から渡来し南九州だったと思うが、久那国(たぶん・・)を建国し、さらに弱体化していた邪馬台国を滅ぼしたのち、邪馬台国を基礎とし、その国の名にちなんで大和政権として君臨。
明治天皇は帰国思想からか、朝鮮併合を強く望んでいたこともあるらしい。
明治以前の女官の半数は朝鮮人。



271:日本@名無史さん
07/04/21 01:09:46
別に天皇家に限らず、この島国に住んでる連中は、みんな大陸から
渡ってきたんだよ。さらに遡れば、アフリカからやってきたんだよ。
今頃何言ってんの。

272:歴史凡人
07/04/21 01:20:41
自分なりの素人の勘だが、古代日本にあった国々のほとんどが朝鮮系であることは事実。
秦王国や久那とか・・

なぜ、朝鮮系の国々が日本にやってきたか??
下級貴族達と王族達の亡命がほとんどじゃないか?
最初の朝鮮系の国々は、地理的に朝鮮から近い九州にほとんどできた。
邪馬台国は北九州が起源だとすると、弱体化した邪馬台国を天皇家元流の国が滅ぼしてから暫くは、邪馬台国としての性格を保持しつつ、機内に遷都してから周りの国々を従えていったのか。


273:日本@名無史さん
07/04/21 01:25:17
アフリカとかホザイテルてるぜよ!!

274:日本@名無史さん
07/04/21 02:01:44
>>270
半島からハヤト領域にとぶな、ボンクラ。

275:日本@名無史さん
07/04/21 08:47:11
>>270

> 明治天皇は帰国思想からか、朝鮮併合を強く望んでいたこともあるらしい。
> 明治以前の女官の半数は朝鮮人。

ソースあったらよろしく


276:広瀬満
07/04/21 09:14:11
>>270

>明治天皇は帰国思想からか、朝鮮併合を強く望んでいたこともあるらしい。
そういうこともあるかもしれませんね。

277:日本@名無史さん
07/04/21 10:15:46
なんだ?
結局、朝鮮スレになったんかここ?



278:広瀬満
07/04/21 18:59:48
まとめ
 要するに「日本国」という国は5世紀の終わり頃、朝鮮半島から「倭国」に渡来してきた「日本人」によって造られた国である。

279:広瀬満
07/04/23 18:36:50
>>265から>>268について
1から7までは状況証拠、番外は半分冗談
問題は8である。
なぜ木満致に「大倭」がついたのか。しかも平安時代になって。
これが最も重要である。

広瀬満

280:日本@名無史さん
07/04/23 20:13:52
日本府が先にあって日本か それは面白いな

でもそれ、渡来とは言わないだろ。 半島の南はもともと倭人の領地なんだから。
木満致に後世 「大倭」がついたのならますます、そういうこと。
半島経由でも、大倭帝国出身ですよ。 と念を押したい子孫がいたんだろ。

渡来という言葉は外国から来た場合を指すでしょ。 半島を納めるのがいやで本国に帰ってきて姉を困らせた
スサノウが天皇の祖先なら別になにもおかしくない。




281:日本@名無史さん
07/04/24 08:42:33
>>270
韓(カラ)が本当に半島のことなのか
南九州に姶良郡(あいらぐん)という地名があるだろう
これも古代は(から)と呼ばれていた可能性はあるのではないか?
韓国岳もあるし・・逆に本来カラとは南九州のことを指していたのでは?



282:日本@名無史さん
07/04/24 15:23:42
木羅斤資

神功皇后摂政四九年
木羅斤資と沙沙奴跪に命じて新羅を討ち破った

神功皇后摂政六二年
木羅斤資に命じて加羅の社稷を復活させた

応神天皇二五年百済記逸文
木満致なる者は、木羅斤資が新羅を討った時に、その国の婦を娶って生せたものである。
その父の功によって任那を任された。百済へ来て、日本との間を往来した。

283:日本@名無史さん
07/04/24 15:26:05
木滿致

応神天皇二五年
百済直支王が薨じ、子の久爾辛が王に立ったが、王は年が幼かったので、大倭木満致が国政を執った。
王の母と相婬し、無礼な行いが多く、天皇はそれを聞いてこれを召した。

百済記逸文
木満致なる者は、木羅斤資が新羅を討った時に、その国の婦を娶って生せたものである。
その父の功によって任那を任された。百済へ来て、日本との間を往来した。
制を承り百済の国政を執った。
権勢盛んであったが、天皇はその暴を聞き、これを召した。

284:日本@名無史さん
07/04/24 15:30:57
直支王(ときおう)

応神天皇八年
(百済の)王子直支を天朝に遣した

応神天皇十六年
百済の阿花王が薨じ、天皇は直支王を召されて、「汝は国に返って位を嗣ぎなさい」と謂われた。

応神天皇二五年
百済の直支王が薨じた。

285:日本@名無史さん
07/04/24 15:34:14
>>282~284 から、
木羅斤資は神功や応神の家来、木満致は応神の家来としか読めないが、アンチ皇国史観という古臭い偏見のため、百済の将軍とされた。
時には、「木羅」という名が朝鮮っぽいから百済人などと言う学者もいる。
偏見やコジツケを捨てれば、木羅斤資も木滿致も倭人としか読めない。
彼らの数代前が何民族かは知りようがないが、少なくとも彼らは天皇に忠誠を誓っていた。
木満致など、新羅との混血で、あまり行いの良い家来ではないようだが、天皇の命令で、任那を支配し、百済の政治を補佐していた。
木満致=朝鮮人と考えるアホが昔からいたのであろう。わざわざ「大倭木満致」と、倭人であることを強調する必要があったようだ。
いつの世も、トンデモ説を吹聴する馬鹿がいて、周囲のまじめに勉強したい人々に迷惑をかけていたという証かもしれない。

直支王も、王子のときは倭の人質であり、応神天皇の命により百済王となる。

この時期、百済は倭の属国状態と考るのが、合理的な理性のある人間の解釈である。
(ほかにも、百済が倭の属国状態となった時期がある。)
これ以外の解釈は、古臭い偏見やこじつけによるもので、「木満致は、百済人で、蘇我の祖先」という説など、根底からお笑いである。

286:日本@名無史さん
07/04/24 15:37:52
木満致は、百済人で、蘇我の祖先。
その理由は、
a 木満致の父の「木羅」という名が朝鮮っぽいから。
b 木満致の満致が蘇我満智のマンチっぽいから。

アホらしか。なら行くぞ。

満致がオマーンっぽいから、木満致は、オマーン国王の祖先!!!

287:広瀬満
07/04/24 17:44:43
>>282>>286
先週の火曜日からレスがなくなったので入院でもしたのかと思っていたら、
しっかり調べてたんだ。えらい!えらい!

しか~し
>木満致=朝鮮人と考えるアホが昔からいたのであろう。
木満致は新羅との混血で素行のよくない人物と記してあるのに木満致=朝鮮人だとどうして都合が悪いのか。

>わざわざ「大倭木満致」と、倭人であることを強調する必要があったようだ。
素行不良の人物を倭人と強調するのに頭に天皇の諡号と同じ「大倭」と付ける必要がなぜあったのか。
後に宿禰とでも付ければよいではないか。そもそも付ける必要もないのでは。

広瀬満

URLリンク(www.kojikiden.com)


288:日本@名無史さん
07/04/24 18:33:51
素人ですまんが大倭って邪馬台国の話で出てくるよね?
まったく関係なし?

289:日本@名無史さん
07/04/25 10:50:52
>>287 しっかり調べてたんだ。えらい!えらい!

スレ主のくせに、まじめに議論する気がないのか?
それとも、品性が根っから下劣で、人を見下した物言いしかできないのか?

例えば、>>92
用明や推古や履中の陵墓及び全国第4位の古墳のサイズを調べるのに、な~~んと3日もかかっていたことは、おとぼけか?
(そもそも、用明や推古の陵墓のサイズも知らずに、同時代の墓のサイズについて自説を吹かしていたことは、おとぼけか?)

そして、>>251
兆域を基準に自説を展開しながら、用明や推古の陵墓の兆域を調べもしなかった(あるいは、とぼけた?)ことを指摘され、
恥の上塗りをしたことは、おとぼけか?

つくづく、恥知らずで卑劣な人間ですな。

290:日本@名無史さん
07/04/25 10:56:23
>>287
広瀬流は、
  木満致=朝鮮人 (したがって、木満致=倭人だと都合が悪い。というより、説が完全崩壊する。)
  後世、「大倭」と付けて、木満致を倭人とみせかけた
だったはず。

木満致=朝鮮人だ都合が悪い理由 ⇒ >>282>>286 をよく読め。
  応神の家来であること、
  天皇の命令で任那を支配していたこと
  百済記逸文でも、日本の領域(任那含む)から「百済へ来た」としか読めないこと
  応神の命令で百済の国政を執ったこと
  応神の命令で日本へ送還されたこと
程度のことは、読み取ってくれないと疲れてしまう。

291:日本@名無史さん
07/04/25 10:59:57
>>290 (続き)

で、むしろ、
日本書紀には素行のよくない天皇や皇子すら何人も記述されているというのに、木満致=倭人だとどうして都合が悪いのか?

木満致を倭人とみせかけるのに、頭に天皇の諡号と同じ「大倭」と付ける必要がなぜあったのか

自分で批判していることが、自分自身に降りかかっているんですけど、・・・。
相変わらずの、ブーメラン&自爆がお好きなようで。

で、広瀬流も、
  木満致は、蘇我の祖先の理由は、
  木満致の満致が蘇我満智のマンチっぽいから。
しか根拠がないのだな。

292:日本@名無史さん
07/04/25 11:40:57
>>288 スレ主が、記紀等をつまみ食いしたような知識しかなく、また、まじめな議論をする気もないようなので、横から失礼します。

『魏志倭人伝』 「有市交易有無使大倭監之」(市場があり、交易の有無は、大倭にそれを監督させた)
この大倭と、大倭木満致の「大倭」との関係は不明です。

広瀬流は、懿徳、孝安、孝霊、孝元など天皇の和風諡号で「大倭」が使われてれているので、大倭木満致は天皇の祖先という説。
むちゃなコジツケで、例えば、この時代、
  大和国を「大倭國」と表記
  大倭氏という豪族がいた
ことも知らんらしい。

大倭⇒天皇 という発想は、単細胞。

「大倭木満致は天皇の祖先」が真実なら、日本書紀でそうことをハッキリと書かなかった理由は見当たらない。
日本書紀編纂社は真実を隠蔽したが、目立たぬように「大倭」と書いておいて、後世に暗示を残した、それを天才広瀬が発見した、
というトンデモに良く見られる、お馬鹿な御都合論法。

293:日本@名無史さん
07/04/25 11:43:52
木満致は、百済人で、蘇我の祖先。
その理由は、
a 木満致の父の「木羅」という名が朝鮮っぽいから。
b 木満致の満致が蘇我満智のマンチっぽいから。

アホらしか。なら行くぞ。

満致がオマーンっぽいから、木満致は、オマーン国王の祖先!!!

294:日本@名無史さん
07/04/25 12:10:00
満致がオマーンっぽいから、木満致は、オマーン国王の祖先!!!

八幡平(ハチマンタイ、岩手県)が「ヤマンタイ」っぽいから、八幡平は邪馬台国!!!
(鯨説だったけ?)

295:日本@名無史さん
07/04/25 16:43:37
押坂彦人皇子って、用明2年4月条で「太子」と表現され、
用明天皇の皇太子であったことがわかる。
が、実際には、その後用明天皇の弟祟俊天皇が擁立され(馬子が暗殺)、
その後敏達天皇の大后で用明天皇の妹推古天皇が即位。
推古天皇は押坂彦人皇子の継母に当たり、押坂彦人皇子とは合い入れない人物。
推古天皇のもとで政治手腕を発揮した馬子と同一人物であるはずもない。
押坂彦人皇子の没年が日本書紀に書かれてないのが議論の一因かもしれないが、
用明天皇が没すると同時に若死にしたか失脚したと見るのが妥当。
敏達天皇の死後、天皇の後継者決定権を一手に握っていた炊屋姫(推古天皇)と
合い入れなかったのが原因か。

296:日本@名無史さん
07/04/25 17:36:39
>>293
そうか不明なのか。
同じだから役職名なのかなとかちょっと思ったんだ。
日本書紀は詳しく読んだことないから・・・。

レスありがとな。

297:広瀬満
07/04/25 19:18:05
>>295
どうも誤解があるようです。
敏達天皇の子の押坂彦人大兄皇子が馬子と同一人物であると私が主張していると思われているようですが、
そうではなく押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の子ではなく蘇我稲目の子の馬子と同一人物(あるいは別名)であると私は主張しています。

広瀬満

298:日本@名無史さん
07/04/25 19:38:42
半島人→b  ×
b→C     ×
c→d     ×
d→天皇   ×

したがって 半島人→天皇
広瀬氏おしい 後四つ◎なら証明できたのに!
 

299:日本@名無史さん
07/04/25 20:32:20
>>297
蘇我馬子が天智、天武の祖父である押坂彦人大兄皇子であるならば、
蘇我蝦夷は舒明天皇の兄。
推古天皇の死去によって王朝が交代したとするならば、
舒明天皇の兄である蘇我蝦夷が即位すればよかったはず。
なぜ即位しなかったのですか?
蝦夷が蘇我氏を外戚としない田村皇子(舒明)を擁立したわけも、
田村皇子が妹婿であった(田村皇子の妻は馬子の娘法提朗女)ことからわかります。
かつて、蝦夷の父馬子は、祟岐天皇を娘婿として即位させましたからね。
押坂彦人大兄皇子が異母妹をめとっているのも普通ですね。
敏達天皇とその大后推古天皇は異母兄妹ですし、
厩戸皇子の両親、用明天皇とその大后穴穂部間人皇女も異母兄妹。
天皇にならなかった皇族でも、山背大兄皇子は異母妹春日大娘を妻にしている。
敏達天皇に広姫と炊屋姫(推古)、二人の大后がいることについても、
日本書紀に広姫が没したので、炊屋姫をめとるように群臣が求めたという記述があり、
二人が同時に大后であった事実はなく、なんら問題はない。
押坂彦人大兄皇子が用明天皇の皇太子であったことはどう考えます?


300:日本@名無史さん
07/04/26 01:25:28
木満致の父はキラ・ヤマト

301:日本@名無史さん
07/04/26 11:09:07
>>297 どうも誤解があるようです。

こいつは、まるで誤解した人間が悪いかのようなものの言い方をする汚いやつである。

1 こいつは、はっきりと断言している!
>>7 天智天皇の祖父は押坂彦人大兄皇子であるが、この人物は蘇我馬子と同一人物であるというのが私の説である。
この段階で、押坂彦人は敏達の子ではないと、きちんと書かなければ誤解するのは当然である。
7の表現が自説の正確な表現ではないというなら、まず、それをきちんと訂正すべきだろうに、そんな誠意はないらしい。

2 系譜・系図を示せ!
自説に基づくきちんとした系譜・系図を示せば、誤解をかなり避けられる。
ところが、こいつはそれを絶対にしようとしない。
>>34, 37, 57, 65, 72, 83, 94, 111, 140, 143, 152, 183, 184, 187, 226, 235
これほど繰り返し要求されていることを無視し続けながら、「誤解」で済まそうとする恥知らずである。

3 下劣なビッグマウス!
これまでの書き込みを見れば分かるとおり、こいつは、さんざん議論を逃げ回りながら、
この説に対する批評、意見を広く求めます。(>>1) とか
徹底的な議論を望みます(>>11) などと、吹かしている。

こいつは、大げさなものの言い方で、嘘を吐き続ける、卑劣な嘘吐き人間である。

302:日本@名無史さん
07/04/26 11:12:14
>>235 (再掲)
自説で想定する系図を早く見せないのは無責任です。
話題を変えて、議論から逃げ回ってぐずぐずしてるから、どんどん系図の条件が多くなっています。

あなたには、
 馬子=押坂彦人 (別名)、かつ、
 馬子=蘇我蝦夷と舒明天皇と厩戸皇子の親、かつ、
 馬子=スサノヲ (正体)、かつ、
 蘇我氏は木満致の子孫で百済系、かつ、
 蘇我氏は葛城系、かつ、
 天皇及び主要な皇子、姫、臣下を記載、かつ、
 日本書紀等に照らして「疑問も矛盾もない」
という系図を見せる責任があります。  (>>53>>118も参照)

皇統の系譜が替わったという説なのですから、系譜・系図はとても重要です。
というより核心です。
どれだけ複雑になろうと、日本書紀等の記述と照らし合わせることが可能なレベルの詳細さが求められるのは、当然のことです。

無責任な気持ちでいるのなら、このスレッドを閉じて欲しい。

303:日本@名無史さん
07/04/26 11:55:51
>>287
こいつは、人を見下すようなことをいうくせに、自分の言葉に責任を持とうとしない。

「大倭木満致」の「大倭」について
>>267 木満致が天皇の祖先であるという認識があったのでは
なんぞと、吹かしているが、以前に、

>>79 木満致になぜ「大倭」が付いたかはいろいろ想像をかき立てられる面白い問題だと思います。
   私は朝廷内部にレジスタンスがいたと考えています。
と、吹かしたことをスットボケようとする。
この段階で、267のようなことを考えていたのであればそう書くべきであるし、後から思いついたならきちんと訂正すべき。

>>288の魏志倭人伝と関連付けた質問にも答えようとしない。魏志倭人伝の「大倭」を知らないのであろう。
行き当たりばったりに記紀のつまみ食いをし、それをみっともなく自慢しようとしているだけだということは明白である。

なんとも卑劣なやつだ。

304:日本@名無史さん
07/04/26 11:58:21
こいつのダメぶりを、少しだけ整理 (あまりにひどすぎるので、全体像を整理することは困難!)

a 押坂彦人=馬子 (同一人物)⇒ 破綻
   このスレの至る所で反論され、それに答えることができず。
   相手を見下してからかうような負け惜しみしか言えない状況。

b 押坂彦人=馬子 (別名)  ⇒ 破綻
   おそらくaのようなセンセーショナルな表現により、2chの世界で大ウケすることを狙ったのであろう。
   しかし、ぼろ糞にコケたので、bのように表現を変えた。(>>40あたりから)
   しかし、自説の表現の訂正をきちんと言うこともなく、「誤解があるようだ」なんぞと他人を暗黙に馬鹿にする卑劣っぷり。
   もちろん、これも破綻し、まったく反論できず。(>>119>>121)

305:日本@名無史さん
07/04/26 12:01:27
>>304 (続き)

c 古墳についての珍説 ⇒ 破綻
   これもこのスレの至る所で論破されまくり。
   特に、>>251などで、大恥決定。

d 木満致は、百済人で、蘇我の祖先 ⇒ 破綻
   この結論は、トンデモの世界でありきたりの説なので、これぐらいはもう少し説得力のある説明ができそうなものなのだが、
   こいつの場合は、まったくダメダメで、軽く論破!
   記紀の知識をひけらかすつもりが、枝葉末節をつまみ食いするような知識しかないことが暴露され、
   原文を示した反論などには、まったく無力。
   特に、自説で気付かなった記述を指摘されると、完全黙秘という卑劣ぶり。

306:日本@名無史さん
07/04/26 15:44:26
ⅰ 議論の内容はすべて論破された
ⅱ 議論の論理的方法も否定された
ⅲ 議論に臨む態度も卑劣と非難された

3点セットでダメダメやね。

307:広瀬満
07/04/26 19:09:59
>>299
早速のレスありがとうございます。

>>舒明天皇の兄である蘇我蝦夷が即位すればよかったはず。
なぜ即位しなかったのですか?
舒明天皇の母は糠手姫皇女で敏達天皇の皇女ですから天皇(大王)と血は繋がっています。
一方蝦夷の母は物部守屋の妹ですから天皇と血の繋がりがありません。このことが重要だと思います。
飛鳥時代以前の皇統は双系主義、すなわち男系、女系どちらかで繋がっていることが皇位継承の条件だったのではないでしょうか。

>>押坂彦人大兄皇子が異母妹をめとっているのも普通ですね。
この時代1人というのはよくあります。しかし3人ともなれば見過ごすわけにはいかないと思います。

>>二人が同時に大后であった事実はなく、なんら問題はない。
重大な問題とは思いませんが、注目すべきことだとは思います。

308:広瀬満
07/04/26 19:11:10
続き

>>押坂彦人大兄皇子が用明天皇の皇太子であったことはどう考えます?
 彦人大兄が用明天皇の皇太子であったというのは彦人大兄を敏達天皇の子としたことに伴う書記の欺瞞だと思います。
後代史料ですが『本朝皇胤紹運録』や『一代要記』では、舒明天皇は49歳で崩御したとされています。
そうだとすると舒明天皇の生誕は推古元年(593)となり、彦人大兄はそのころまで生存していたことになります。
 もし彦人大兄が用明天皇の皇太子だったとするとなぜ天皇に即位しなかったかが問題になりますし、
皇太子といえば天皇に次ぐ地位なのになぜ没年についての記載すらないのかが問題になると思います。

広瀬満

URLリンク(www.kojikiden.com)

309:日本@名無史さん
07/04/26 19:51:04
>舒明天皇の母糠手姫皇女の件
舒明天皇は押坂彦人大兄皇子と糠手姫皇女の間に生まれていますが、
蘇我馬子が糠手姫皇女の夫であったという説は不自然です。
なぜなら皇女が臣下に嫁いだ例が日本書紀には一件も見えないからです。
皇族同士の異母兄妹間の結婚はよく例のあることですが、
馬子が前人未踏、史料上一度も確認されない皇女3人との結婚が事実だったとはとても考えられない。
敏達の母は息長広姫で、蘇我氏とは血縁関係も全くなく、馬子に皇女を下賜する理由もありません。
それも、3人までも。
欽明天皇と石姫皇女の間に生まれた敏達天皇であってみれば、やはり娘は皇族に嫁がせたでしょう。

>>押坂彦人大兄皇子が用明天皇の皇太子の件
たとえ押坂彦人大兄皇子が用明天皇の皇太子であったとしても、
継母推古天皇との確執失脚、廃太子に追い込まれていれば、没年が残らなくても不思議はありません。
皇太子として没年が残っているのは厩戸皇子くらいで、
ほかの皇子は攻め滅ぼされただの、事件性がない限り、ほとんど記載がありませんからね。
『本朝皇胤紹運録』は室町時代、『一代要記』は鎌倉時代に編纂されたもので、一次史料とは言い難いと思います。

310:広瀬満
07/04/27 18:41:16
明日返答をいたします。

311:広瀬満
07/04/28 18:12:21
>>309
順序が逆になりますが舒明天皇の年齢についいて
『本朝皇胤紹運録』はたしかに室町時代時代の史料ですが、後小松上皇の命で編纂されたもので皇室関係の
資料としてはかなり信頼度の高い史料とされています。
 また天智天皇の生年が推古34年(593)、また舒明天皇の母が天皇の崩御から23年後(664)に
死去しているところから見て舒明天皇の49歳というのはまず信頼できると見てよいのではないでしょうか。
もし彦人大兄の死去が丁未の役の直後だとすると天智天皇の生誕は舒明天皇が40歳以上ということになりますし、
同母妹の存在も考えるとそれよりさらに高年齢で子をもうけたことになりそれでは年齢的に遅すぎると思います。

 たしかに「日本書紀」に皇女が臣下に嫁いだ例は一件も見えません。しかし婚姻関係の不明な皇女も多く、
この時代に皇女は臣下には嫁がなかったとは言えないと思います。おそらく臣下に嫁いだ皇女の婚姻関係のことまで
「日本書紀」には記されなかったのではないでしょうか。
 皇后でもなかった姉を欽明天皇の陵に合葬したり、崇峻天皇を弑逆しながら何ら処罰されず、
傍若無人とも言えるような馬子を並の臣下と同列に扱うことはできないと考えます。
 前天皇の皇女を複数娶り、生まれた子を皇位に付けようと考えていたとしてもおかしくないと私は思います。
 彦人大兄が敏達天皇の皇女を娶ったのはおそらく敏達天皇の死後、丁未の役の後でしょう。

続く

312:広瀬満
07/04/28 18:12:54
続き
 いうまでもなく「日本書紀」は彦人大兄直系の子孫の手によって編纂されたものです。彼らからすれば傍系になってしまった
厩戸皇子についてはあれほど饒舌に語る「日本書紀」が、直系でしかも丁未の役の直前、事件の渦中にあったと思われる
彦人大兄についてはなぜあれほどまでにかたくなに口を閉ざしているのか、疑問は持たざるをえないのではないでしょうか。
 また仮に推古天皇との確執で失脚、廃太子に追い込まれていたとすれば、なぜ推古天皇の後継者として田村皇子が
即位できたのか難しい問題が浮上することになります。
 
広瀬満

URLリンク(www.kojikiden.com)

313:日本@名無史さん
07/04/28 20:11:43
>>311-312
蘇我蝦夷には、雄正(雄富)という兄がいたことが知られています。
しかし、雄正の子蘇我倉山田石川麻呂や蘇我赤兄が正嫡とならず、
弟蝦夷からその子入鹿に大臣の位が譲られている所を見ると、
蝦夷が馬子の嫡子であった(母親が正室だった)からでしょう。
蝦夷の母が物部氏であり、馬子が滅ぼした物部守屋の妹であったことは、知られるところです。
馬子の正嫡であった蝦夷は、馬子から大臣位を受け継ぎ、「天皇記」「国記」を受け継ぎました。

仮に、馬子が敏達天皇の3人の皇女をめとっていたとすれば、
これらの皇女は、滅ぼされた物部守屋の妹よりも、格段に上。
ことに、舒明天皇の母糠手姫皇女は3姉妹のうちもっとも年長で、
間違いなく馬子の正室であったはずです。
となれば、馬子は当然、皇女たちとの間に生まれた子息にそれ相応の
身分と位を与えねばならず、蝦夷への政権委譲が簡単に行い得たはずはありません。
外戚政策で栄えた蘇我氏が、皇女たちの生んだ娘達を天皇家へ一切いれていないのも、おかしな話です。
ことに、蘇我氏が滅びる時に蝦夷の手元にあった「天皇記」「国記」は、
馬子正嫡舒明天皇のあるはずで、庶兄が伝えているとはおかしな話です。

314:日本@名無史さん
07/04/28 20:23:50
313の続きです。
推古天皇の話に移ります。
推古天皇には竹田皇子、尾張皇子という皇子がありましたが早世し、
推古天皇は、以後の天皇を自らの息子以外から出さねばなりませんでした。
そのために、皇太子厩戸皇子と、押坂彦人大兄皇子にそれぞれ娘を嫁がせました。
いずれかに皇子が生まれれば、将来大王として君臨する日も来ると願ったのでしょう。
馬子は、推古天皇の父欽明天皇の31年に父稲目が没し、以来、
推古天皇の夫敏達、兄用明の代にも大臣であった人です。
当然、推古天皇よりも年上であったと思います。
その馬子が姪の推古天皇の皇女を娶り、山代王、笠縫王を生ませたというのですから、
その年齢差は相当なものです。
推古天皇は、押坂彦人大兄皇子をいったんは皇太子の座から追いましたが、
有力な皇位継承者であることは認識していました。
そのために自らの皇女を嫁がせたのです。
田村皇子にも推古天皇の皇女が嫁いでおり、その意味では推古天皇が田村皇子を
擁立しようとした理由は十分にあります。


315:日本@名無史さん
07/04/28 20:43:03
続きです。
推古天皇は母方の蘇我氏を優遇しましたが、父方の大王家も敬っていました。
田村皇子が馬子の男系孫であったならば、迷わず即位に反対したでしょう。
推古天皇の死により皇統が蘇我氏に移ってしまったのなら、
多くの2世王、3世王がこれに反対し、とても山背大兄皇子一族のみを滅ぼせばすむ話ではなかったはずです。

史料に一度も現れない女系相続、皇女との婚姻を推測するのは、あまりに無謀です。

『本朝皇胤紹運録』ですが、後小松天皇の命により洞院公賢らが編集した当時、
すでに世が室町次代で、何らかの文献によらねば飛鳥時代の事はかけません。
公賢がさまざまな文献に当たったであろうことは推測できますが、
見比べてみると、この時代に関しては。「日本書紀」によった部分が多いと思います。
紀記、上宮聖徳法王帝説等には触れるところがないのですが、なにか、室町時代に残っていた古文書で、
舒明天皇について『本朝皇胤紹運録』に引用されるべき史料をご存知なのでしょうか?
父母の年齢から舒明天皇の年齢を推測したというのならそれはそれでいいですが、
この時代のことを語るのに『本朝皇胤紹運録』『一代要記』を引用するのは適当ではありません。

316:広瀬
07/04/29 17:25:13
>>313->>315
早速のレスありがとうございます。
あまりに早いレスに驚きました。
連休中につき、あさって頃返答いたします。



317:日本@名無史さん
07/04/29 18:38:33
珍説だなあ。。。。
自分としては同じ珍説でも、蘇我家は天皇家の直接の祖先というのではなく、
天皇家とは別系統の王統だった、という見解を持っている。


318:日本@名無史さん
07/04/30 01:40:42
そうなの。血縁築いてよしんば大王を名乗り誰かと同一人物になったとしても
大勢に影響なし。
別系統でひっくり返す気概がウマコにあったとなれば興味も持てるのだけど。

319:日本@名無史さん
07/04/30 08:39:16
馬子と厩戸ってどっちも(ウマコ)と読めるよね。
なんでウマヤドなの?
聖徳太子の生誕説がキリスト教から流用したものなら
厩(ウマヤ)皇子でよいと思うがなー

320:日本@名無史さん
07/04/30 14:51:18
>>317
>天皇家とは別系統の王統だった、という見解を持っている。
どんな説か一度聞かせてくれ。


321:日本@名無史さん
07/04/30 16:57:24
>>320
詳しく説明するのは面倒くさいんで
「九州王朝説」の亜流みたいなものだ、と言えばピンと来てもらえるでしょう。

322:320
07/04/30 17:22:50
なるほど「九州王朝説」か

323:日本@名無史さん
07/05/01 09:57:14
GWの間に、なにやら怪しげなやり取りが進んでいたのだな。
しかも、広瀬流は、ついにチョット以前に流行った「双系主義」なんぞと言い出した。
最重要ポイントだが、そこを突っ込む前に、まず細かいところから片付けよう。

>>307 糠手姫皇女で敏達天皇の皇女

同じ敏達の子と日本書紀に書かれているのに、
  押坂彦人は捏造
  糠手姫皇女は真実
このように読み分ける根拠は、そうすれば自節に都合がよいという以外、何も示されていない。

あいかわらずの御都合主義の広瀬流。
トンデモ説の見本!!!

324:日本@名無史さん
07/05/01 09:58:00
>>307 3人ともなれば見過ごすわけにはいかない

まず、下劣にも、「3人」という数字が「理由はわからない」という、いい加減な数字だったのをトボケている?(>>32, >>69)
御都合のよろしい広瀬流!!!

そして、もっと本質的な矛盾もスルーしてしまうのが広瀬流。つまり、
広瀬流は、即位していない皇子(=押坂彦人)に3人も妹が結婚するのは、異常で説明がつかないと言っている。
その矛盾を解消するために、その3人は馬子と結婚したのが画された真実だと言いたいらしいが、、
臣下の馬子に天皇が3人も自分の娘を結婚させることのほうが、よほど異常で説明がつかないだろう。

矛盾を増幅していることが理解できない広瀬流。

325:日本@名無史さん
07/05/01 10:00:21
>>308 彦人大兄が用明天皇の皇太子であったというのは彦人大兄を敏達天皇の子としたことに伴う書記の欺瞞だと思います

広瀬流は、「書記の欺瞞」とする根拠が、自節に都合が悪い記述だからという以外、何も示すことができない。
それでいて、「(自説が)日本書記など多くの資料にどのような疑問や矛盾が発生するのか具体的に説明してもらいたい」(>>13)
などと吹くのだから、よほど論理思考ができないのであろう。

「自説に都合の悪い箇所は欺瞞あるいは捏造とする。故に自説には疑問や矛盾もない。」
こんなタワケタ論法が許されるなら何でもありとなる。
資料の断片的知識をひけらかし、衒学的ポースで自己陶酔する広瀬流。
トンデモ説の見本!!!

326:日本@名無史さん
07/05/01 10:03:11
>>308 もし彦人大兄が用明天皇の皇太子だったとするとなぜ天皇に即位しなかったかが問題になります

もう何をか言わんや、という感じである。
用明が病死しそうになったとき、中臣勝海連が押坂彦人を呪殺しようとするのはおかしいという、以前の主張と矛盾する。(>>14)
これって何度も繰り返し強弁していたことだが、ここではトボケる。
押坂彦人が有力な天皇候補であれば、穴穂部を天皇に推す守屋のため、中臣勝海連が押坂彦人を呪殺しようとしても不思議はないのだが、
用明が病死しそうになったとき、押坂彦人は殺す必要もないような存在、すなわち天皇候補として有力ではなかったと、以前は主張した。
今さら「なぜ天皇に即位しなかったかが問題」など、よく言えたものだ。

広瀬流は、行き当たりばったりの説である。
というより、御都合主義で、資料の枝葉末節をつまみ食いして、食い散らかしているだけであるから、すぐに自己矛盾が発生するのだ。

327:日本@名無史さん
07/05/01 10:06:08
>>309 蘇我馬子が糠手姫皇女の夫であったという説  (← 309は、広瀬流への反論 ?)

確かに広瀬流では、馬子=押坂彦人(別名)なので、「蘇我馬子が糠手姫皇女の夫」となる。
しかし、これまでの広瀬流の記述で、「蘇我馬子が糠手姫皇女の夫」とはっきり書いた箇所はない。
即位していない皇子に3人も妹が結婚するのは、異常で説明がつかないと言っているのである。
309を書かれた方は、広瀬流トンデモ説を、とても、とても、とても良く理解しているようである。

313は、広瀬流の「よく分からない」と本人自らうっかり吐露してしまったいい加減な前提を受け入れて議論しているし、
314で、推古の立場を言及するのは再反論及び議論を混乱して敵前逃亡するための伏線を用意してあげるようなものだし、
315で、ずっと後の時代の資料の価値・信憑性を論争するなど本来の専門のやることで、ここでは低レベルの言い放しになること必定だし、
広瀬流に「お付き合い」しすぎだよ。

広瀬流は、313~315に対して水掛け論とは言わんのか?
用語や文体も、広瀬流に良く似ていることで。

おい、仲間どうしでエールの交換か?
まさか自作自演・・・。


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