07/04/10 14:03:15
>>166 地震後に陵戸などから被害の報告があったというようなことは書かれていない。・・・全く書かれてもいないことを自分の主張の根拠にしてどうする。
日本書紀や続日本紀等は当時の人々にとって当たり前のことはいちいち書くとは限らない。(書くこともあれば書かないこともある。)
例えば、
法隆寺について、天智9年の消失の記述はあるが、再建の記述がないという例は、とても有名。
当時の人々にとって消失した法隆寺を再建することは当たり前すぎることだったのだろう。
例2
推古十六年に小野妹子が裴世清を伴って筑紫に帰ってきたとき、その迎えに難波吉士雄成が派遣される。
小野妹子と裴世清が筑紫へ来たことを、大和の人々はどうやって迅速に知ったのであろうか?
おそらく、筑紫から大和へ誰かが報告に行ったのであろう。
日本書紀では、当たり前すぎて、そのことを書いていないのだ。
しかし、日本書紀に書いていないから、
「報告はなかった」
と断定し、それを根拠に
小野妹子はテレパイシーを使えたとか、小野妹子と厩戸皇子(=聖徳太子)は心が通じ合っていたなどの説を主張したら、阿呆だろ。
続日本紀では、太宰府から報告があったといった記述は稀に見かけるが、役人の報告をすべて載せているわけではない。
ましてや陵戸のように位の低い役人からの報告など、記載がなくても不思議はない。