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続き
9,『延喜式』には彦人皇子の墓についての記載があるがその墓域の広さは東西15町、南北20町と尋常ではない大きさである。これは『延喜式』では最大の大きさである。
敏達天皇が東西3町、南北3町、天智天皇でも東西14町、南北14町にすぎない。即位したわけでもないのになぜこのように大きいのか。
10,彦人皇子の墓(成相墓)が広陵町にある牧野古墳である可能性はかなり高いとされている。なぜなら成相墓があったとされる大和国広瀬郡(現在の河合町や広陵町)には牧野古墳以外、飛鳥時代の墓はほとんどないからである。
牧野古墳の石室は明日香村の石舞台古墳とほぼ匹敵する大きさである。蘇我馬子と物部守屋の戦い以降の蘇我氏の全盛期になぜこのような巨大な墓が即位したわけでもない彦人皇子のために造られたのか。
牧野古墳についての情報:URLリンク(www.kojikiden.com)
11,推古天皇の崩御後、天皇に即位した舒明天皇は日本書紀によれば蘇我氏とは血の繋がりはない。山背大兄王といった蘇我系の皇子をさしおいてなぜ蘇我蝦夷は彼を天皇に即位させたのか。
舒明天皇の次も蘇我氏とは血の繋がりのない宝女王(皇極天皇)である。蘇我氏の全盛期になぜ非蘇我系の皇子が次々と天皇に即位したのか説明ができない。
彦人皇子が蘇我馬子と同一人物という私の説を疑う人はこれらのことについてきちんと説明してほしい。彦人皇子は敏達天皇の皇子ではなく、蘇我馬子と同一人物であればこれらの謎は簡単に説明できるはずである。
天智天皇の祖父の彦人皇子が蘇我馬子と同一人物ということは天智天皇は蘇我馬子の孫ということになる。天皇家は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた。すなわち天皇家は万世一系ではないというのが私の考えである。
天智天皇が蘇我馬子の孫であることは私のHPの「大国主伝」において、上記以外にも様々な角度から検証しているのでぜひ参照してほしい。
広瀬満
URLリンク(www.kojikiden.com)