07/03/17 02:28:52
過去スレ
Part1 URLリンク(academy.2ch.net)
Part2 URLリンク(academy2.2ch.net)
Part3 スレリンク(history板)
Part4 スレリンク(history板)
Part5 スレリンク(history板)
Part6 スレリンク(history板)
Part7 スレリンク(history板)
Part8 スレリンク(history板)
Part9 スレリンク(history板)
Part10 スレリンク(history板)
Part11 スレリンク(history板)
Part12 スレリンク(history板)
Part13 スレリンク(history板)
Part14 スレリンク(history板)
Part15 スレリンク(history板)
Part16 スレリンク(history板)
Part17 スレリンク(history板)
Part18 スレリンク(history板)l50
3:日本@名無史さん
07/03/17 08:59:31
東京都長官と東京都知事と東京府知事と東京市長の違いを教えて。
4:日本@名無史さん
07/03/17 11:02:33
日本史板の質問スレがどうして一本化されないのか教えてください
5:日本@名無史さん
07/03/17 12:55:29
にほん史版だからです。
6:日本@名無史さん
07/03/17 15:06:05
ざぶとん1枚
7:日本@名無史さん
07/03/19 04:02:20
なんでも質問スレッドで答えを貰えなかった質問をこっちでもしていいですか?
だめだったら諦めます……。
8:日本@名無史さん
07/03/19 06:49:09
>>3
つ URLリンク(ja.wikipedia.org)
補足:現在の23区の領域(実際はそれよりちょっと狭い):東京市
都下:東京府
→戦時中に合併して東京都発足
9:日本@名無史さん
07/03/19 10:09:42
後の付く天皇、後醍醐とか後一条・後嵯峨等、それ以前に後の付かない天皇が居る分は良
いんですが、後奈良とか後柏原とか後西とかの奈良・柏原・西ってなんですか?
あと後冷泉とか後陽成みたいに縁起の悪いのは何を思って付けたんですか?
10:日本@名無史さん
07/03/19 10:58:20
>>9
奈良は平城天皇、柏原は桓武天皇のこと。
奈良も縁起悪いな。
11:日本@名無史さん
07/03/19 11:07:19
桓武と平城ですか、どうもありがとうございます。
しかし醍醐・村上・一条・嵯峨あたりはまあ一応名君的な評価が有りますが、
さすがに安徳とか崇徳とかまでは使わなかったけど、
どうも縁起とか評判とかあまり気にしてないみたいですね。
12:日本@名無史さん
07/03/19 11:37:26
徳川3代目前後あたりの時代での言葉使いについて質問なんですが
美男美女を指す言葉はどういうものが使われていたんでしょうか?
あの人はイケメンだ、とかあの人美人だ、という時です
美しいとか美丈夫だとか佳人だとかはわかるんですが…
他にバリエーションがあればもっと知りたいです
「美形だ」という言葉があったんですが、少し違和感感じたけど
江戸時代にも使われていました?
13:日本@名無史さん
07/03/19 20:35:39
ウンコ人大林君の部屋
URLリンク(www1.ocn.ne.jp)
うんこ脳の垂れ流しHPだよW
ウンコ人の部屋にもし行けなければ
別のウインドウにアドレス貼り付ければ行けるよ
どっかで見たようなウンコ臭いHPだよ
明らかに大林君とブラ国と同じ人のようだけど・・・
14:日本@名無史さん
07/03/19 21:49:34
よく考えてみたら何で別称なんでしょうね?
後桓武や後平城では何かまずかったんでしょうか?画数が悪い?
あと後深草・後小松・後水尾も誰かの別称ですか?
それと余談ですが、自分で選んだらしい後醍醐、実子の後一条・後伏見・後桜町・後桃園、
外孫として外祖父に対する思いが有ったらしい後三条、こういった例はともかく、
後の付く天皇ってあまり後付かない天皇と縁がない場合も多いですね。
後冷泉・後朱雀・後光明・後二条・後陽成とか先祖でさえないし。
先祖では有っても特に事績が似ているわけでもないことが多いし、
一体どんな基準で選んでいるんでしょうね。
15:日本@名無史さん
07/03/19 23:17:10
>>14
深草→仁明、小松→光孝、水尾→清和
そもそも歴代天皇の呼称をかっちりと一対一対応で決めたのは
明治に入ってからだろ。
あと、それぞれどうしてその呼称になったのかの理由はとりあえず
Wikipediaでも読め。
16:日本@名無史さん
07/03/20 07:34:51
>>11>>14
安徳や崇徳は諡号なので後加号にはしない。
後加号は追号にのみ行うものという解釈が既にあったもよう。
まあ諡号というのはその天皇の事績に基づいて贈られるものだから当然ではある。
後奈良や後柏原は時代背景を考えると分かるよ。
当時は即位の礼はおろか、葬儀も行えなかった時代だからね。
追号も多分に適当(というのは言いすぎかもしれないが)にならざるをえなかった模様。
ちなみに後加号は名君になぞらえるかどうかというのはあまり関係ない。
後醍醐天皇のように遺諡(生前から追号を自分で決めておくこと)を残したケースは
別として、平安朝の後加号は単純に西洋の~二世に近いつけ方。
鎌倉時代の後深草などは意味あっての遺諡のようだ。説明すると長くなるのでそれは割愛。
また後陽成→後水尾は親子の確執から派生した後加号。
17:日本@名無史さん
07/03/20 07:38:38
後加号についてまとめると…
・基準などはない。
・遺諡によるもの、追号によるものなど決定者もばらばら。
・時代背景によって天皇の位置付けも異なる。
・ゆえに時代によって諡号・追号の概念や感覚も異なる。
したがって全体を通して考えるのではなく、個々の事例をみていく方がよい。
何か具体的に知りたい事例ある?
18:日本@名無史さん
07/03/20 12:35:54
霜月騒動に出てくる、内管領の平頼綱って何者なんですか?
清盛一家の末裔か何かなんですか?
にしても、名字+名前が一般化してた鎌倉後期に氏+名前なんて珍しいですね。
19:日本@名無史さん
07/03/20 14:49:47
ウィキにその辺の事情が詳しく載ってるよ
20:14
07/03/20 19:17:13
>>15-17
どうもいろいろとご丁寧な解説ありがとうございます。
疑問がはれてすっきりしました。
21:日本@名無史さん
07/03/20 21:07:37
ウンコ人大林賢栄君の部屋
URLリンク(www1.ocn.ne.jp)
うんこ脳の垂れ流しHPだよW
ウンコ人の部屋にもし行けなければ
別のウインドウにアドレス貼り付ければ行けるよ
どっかで見たようなウンコ臭いHPだよ
明らかに大林君とプラ国と同じ人のようだけど・・・
22:日本@名無史さん
07/03/20 22:04:53
もうって言うか、過去にも勝てた時はないような気がするけど。
23:日本@名無史さん
07/03/20 22:09:57
あれっ大誤爆。失礼しました。
24:7
07/03/21 01:49:10
自己解決したのでやっぱいいです
25:日本@名無史さん
07/03/22 12:42:12
1万石の大名に仕える側用人は、大体どのぐらいの禄高を貰っていたのでしょうか?
ヨロシクお願いいたします。
26:日本@名無史さん
07/03/22 21:47:30
織田信長は足利将軍を追放した後、どのような大義名分というか政治的正統性をもって領国を統治したのでしょうか。
一般的な戦国大名なら自分の領国を支配するのに守護代や守護職を幕府に申請したりしたでしょう。
本来朝廷が持つべき支配権を武士達が持っていられるのは、幕府があってこそのはずです。
それなのに武士達の朝廷に対する窓口ともいうべき幕府をつぶしてしまって、果たして諸国民を統治していられるのでしょうか?
27:日本@名無史さん
07/03/22 22:34:37
> 一般的な戦国大名なら自分の領国を支配するのに守護代や守護職を幕府に申請したりしたでしょう。
朝廷が任命する国司とごっちゃになってない?
28:日本@名無史さん
07/03/22 22:52:38
>27
たとえば駿河守護職を認めてもらおうとした小鹿範満あたりですね。まだ戦国時代とはいえませんが。
国司については織田、今川による三河守の猟官運動など幾つかの事例は知っていますが、質問の焦点がブレる恐れがあるので敢えて書きませんでした。
ここは天正前後の織田信長政権について絞ってお願いします。
29:日本@名無史さん
07/03/22 23:01:48
>それなのに武士達の朝廷に対する窓口ともいうべき幕府をつぶしてしまって、果たして諸国民を統治していられるのでしょうか?
朝廷への任官に関してでなく、守護職などに関してならば幕府が朝廷の窓口ではないと思いますけど。
当時の領国支配に守護職が必須だとも思えません。
(無いに越したことはないと思いますが)
例えば守護出身の戦国大名である武田家が少なくとも一部は支配していた信濃や駿河、上野の守護職を要求したりしてないと思います。
30:日本@名無史さん
07/03/22 23:05:34
先土器時代と旧石器時代って同じ時代ですか?
31:日本@名無史さん
07/03/22 23:20:59
>26
>織田信長は足利将軍を追放した後、どのような大義名分というか政治的正統性をもって領国を統治したのでしょうか。
不明
>一般的な戦国大名なら自分の領国を支配するのに守護代や守護職を幕府に申請したりしたでしょう。
競合勢力との力の差が無ければ有用ではあるが地域勢力が存続するのに不可欠な要素では無い
>本来朝廷が持つべき支配権を武士達が持っていられるのは、幕府があってこそのはずです。
?
>それなのに武士達の朝廷に対する窓口ともいうべき幕府をつぶしてしまって、
>果たして諸国民を統治していられるのでしょうか?
諸国民はそんな事を考えてはいない
自己の権能が及ぶと考える範囲を他者から容喙されなければ誰にも異論はない
32:日本@名無史さん
07/03/23 16:57:26
>>25
面白い質問だと思って、ぐぐってみたが的確なのが見つからない。
↓これなど、泣けるような話。参勤交替の陣立などどうしたんだろうなと思った。
URLリンク(www015.upp.so-net.ne.jp)
33:日本@名無史さん
07/03/24 14:04:45
秀吉の官職(?)についてなのですが、筑前守なんてものは本当に朝廷から叙任されたものだったのでしょうか?
家康さんの三河守になるための必死だなな工作を知ってから疑問に思っています。
34:日本@名無史さん
07/03/24 14:54:56
【質問】
むかしの人ってエライ人の名前とかどれくらい認識してたんですか。
江戸時代の町民は今の将軍が何代目で誰々だとか知ってたんですか。
要するに「今は五代目で綱吉さまだ」って知ってたもんですか。
35:名無し募集中。。。
07/03/25 03:00:13
水戸藩の大日本史は今読んでも日本史の勉強になりますかね?
書いてることが一々豊富な史料に基づいているところが感心させられます
36:日本@名無史さん
07/03/25 04:20:26
>>11
「後」を付けることができるのは追号だけ。
「安徳」や「崇徳」は追号じゃなくて諡号だから、「後」を付けることは
できない。
なお「桓武」「仁明」「光孝」も諡号であるが、これについては後世に
「桓武」「仁明」「光孝」のそれぞれ異称である「柏原」「深草」「小松」に
それぞれ「後」を付けた追号が登場した。
また「平城」「淳和」「清和」については、これ自体も追号であるが、さらに
それぞれの異称である「奈良」「西院」「水尾」に「後」を付けた追号が
出現した(後西院=後西)。
因みに「後鳥羽」には当初「顕徳」という諡号が贈られたが、のちにこれを
やめて「後鳥羽」の追号に改めている。
さらに「後花園」の崩御の際には、当初「後文徳」という追号が贈られるという
話が出たが、「文徳」は追号ではなく諡号であるという指摘がなされたため、
「後花園」に改められたという話もある。
37:日本@名無史さん
07/03/25 04:38:28
>>16
後加号には、「三条」と「後三条」のように明らかに後者が前者の継承を
意識しているようなものも多いな。
「後醍醐」「後村上」の場合も、彼らが理想としていた「醍醐」「村上」に
敢えてしたという感じだよね。
38:日本@名無史さん
07/03/25 04:49:30
>>16
>また後陽成→後水尾は親子の確執から派生した後加号。
「清和(水尾)→陽成」の親子関係が、「後陽成→後水尾」というふうに
後加号では逆になっているわけね。
反対に、後加号の親子関係がもとの追号の親子関係と対応しているのは、
「嵯峨→仁明(深草)」と「後嵯峨→後深草」、
「宇多→醍醐→村上」と「後宇多→後醍醐→後村上」、
「桓武(柏原)→平城(奈良)」と「後柏原→後奈良」、
の3例かな?
39:日本@名無史さん
07/03/25 04:57:20
>>26
むしろ足利将軍家を立てなくても、朝廷を直接推戴すればそれで十分に自らの
正統性は担保できると判断したからこそ、義昭を追放したのではないかと。
もっとも義昭を追放してもなお足利将軍家を担いで正統性を維持し続けようと
するなら、14代義栄の実家である阿波公方系を連れてくる選択肢も
あったはずではあるが、これをしなかったことからしても、信長は朝廷さえ
自分が掌握していれば問題ないと踏んでいたのだと思うよ。
40:日本@名無史さん
07/03/25 05:02:53
>>28
当時の幕府は結局小鹿範満を駿河守護とは認めなかった。
義忠が死ぬと早々に龍王丸(のちの氏親)に対して家督相続を認める旨の
御教書が出されている。
もっともこれには、氏親の伯父である伊勢盛時(北条早雲)の幕府内での工作も
あっただろうし、実際には幕府の意向と関係なく小鹿範満は現地で守護として
振る舞っていたような形跡もあるけどね。
41:日本@名無史さん
07/03/25 14:40:34
>>34
江戸の庶民とか天領の住民は知ってたんじゃないかな。
でも名前をいちいち綱吉様とかは呼ばず
総じて公方様とか今公方とかだったんじゃないかと思うが。
根拠ゼロですまんね
42:日本@名無史さん
07/03/25 17:21:08
戦国時代で大名と家臣が条約を結ぶ時に、紙に円を書きそれにそって氏名を連ね、
誰が上の者かわからなくする条約ってなんですか?
43:日本@名無史さん
07/03/25 22:02:09
>>42
国人一揆の時の唐傘連判状を言ってるのかな?
44:日本@名無史さん
07/03/25 22:18:51
東大寺にあったといわれる100M越えの木製の塔や出雲の空中大社とか
本当の話なんですか?建築学的に無理じゃないですか?
45:日本@名無史さん
07/03/26 08:13:17
>>38
そう。後水尾は父帝をひどく恨んでいたから
悪帝と言われる陽成を後加号としただけでなく
親子関係をひっくり返すために自らは後水尾と遺諡したと言われるね。
後嵯峨→後深草はまさに嵯峨から仁明への継承になぞらえて
持明院統の正当性を主張するための追号と考えられている。
一方、大覚寺統の亀山は嵯峨天皇ゆかりの地である嵯峨亀山の地を
根拠とする追号とすることでこちらもその正当性を表現した。
>>37
そもそも後加号は村上朝で生まれたわけだが、
兄弟相続が多かった村上朝において一統としての皇位継承を強調、
正当化するために後加号を用いたと考えるから自ずとそう見える。
後醍醐天皇の遺諡は有名でしょ。宋代の君主専制を目指した後醍醐にとって
延喜・天暦の治の醍醐・村上は当然目指すべき皇祖であったわけだから。
46:日本@名無史さん
07/03/26 10:11:22
水戸徳川家は、幕府の旗本以上に名門の血筋の人間を召抱えていますが
これはどういう風潮から来たものですか?朱子学的な問題ですか?
天狗党の武田伊賀守とかが有名ですよね。
47:日本@名無しさん
07/03/26 10:59:57
>>46
・17世紀初め、主なし武家の多くは再仕官か帰農かの選択を迫られていたこと
・関東では特にそうだが、名門武家が多かったこと
・水戸藩は元々が新設の為、子飼いの臣が少なかったこと
・水戸藩は格式が優先されていたこと
…などが理由と思われる。
48:日本@名無史さん
07/03/26 14:57:23
>>43
唐傘連判状でしたか。ありがとうございます(´▽`)
49:日本@名無史さん
07/03/28 09:35:44
昔、学校の日本史で、「漢委奴国王」の金印は「かんのわのなこくおう」
と読み、倭が委になってるのは技術不足などの諸説があるって
習ったんですけど、本当は「かんのいわこくおう」で漢が統治を委ねる奴国王って読むのが
正しいと思うんですけど、ちがうんですか?
50:日本@名無史さん
07/03/28 12:18:18
>>49
ハンコを作る場合、分かるなら偏を略す場合がある。
51:日本@名無史さん
07/03/28 12:31:41
さすがに漢は略せないのかw
52:日本@名無史さん
07/03/28 19:03:43
>本当は「かんのいわこくおう」で漢が統治を委ねる奴国王って読むのが正しいと思うんですけど、ちがうんですか?
何で正しいと思ったのか根拠を聞かせて欲しいところですが。
中国の王朝が、外国に送った印章は他にもあるので、それらと比較して「かんのわのなこくおう」と読むという説が有力になっていると思ったんですが。
「かんのいとこくおう」(漢の伊土国王)と読むとかいう説もあるけど
53:日本@名無史さん
07/03/29 01:40:33
>>49
同形式、すなわち<(王朝名)+委+(国名)+国王>の印が他にもあるようならその可能性もあるでしょう。
54:日本@名無しさん
07/03/29 17:22:48
>>49
そもそもハンコというのは、捺した人が誰か、誰が捺したかを示すアイテムです。
だから刻されるのは、必ずその人の名か肩書き、あるいはその人を示す記号です。
そうでないと意味がないのです。
ですから「委の奴国」ではなく「委奴国」と読むのはアリですが(初めはこの説だったらしい)
「漢、(汝を)奴国王に委ぬ」という文ともとれる形式で刻され使用されることはほぼ考えられない。
委任の一文ではないのだから。現実、中華の公印においてそのような形式のものは
後にも先にもないでしょう。
また、中華王朝が外国を「委〇国」と記した国も、私は寡聞にして知りません。
55:日本@名無史さん
07/03/29 18:02:29
明治時代、南朝正統になると後南朝はどういう扱い方したの?
南朝の公家の子孫とかが騒ぎ起こした事あったよね?
56:日本@名無史さん
07/03/31 14:05:41
熊沢天皇
57:日本@名無史さん
07/03/31 14:10:44
>>54
「天下布武」という印は?
58:日本@名無史さん
07/03/31 15:22:33
>>57
>>54が言っている>あるいはその人を示す記号 じゃないの?
信長が自分の政治姿勢を表すスローガンを古典から選んだわけだから。
59:日本@名無史さん
07/03/31 17:22:59
>>44
出雲大社については、高層建築だった時代の柱が出土した記憶があるけど。
ただ、御指摘のように、こんなもん当時の技術で堅固に作れるはずもないので、
古来、何回も倒壊したという記録があったはず。
60:日本@名無史さん
07/03/31 17:30:15
>>55
南北朝合一のときに神器が北朝に移り、これをもって以後は北朝が正統なんだ、
という整理をしたんでしょ。だから、後南朝及びその子孫を名乗る人たちには
実質上も名目上も正統性はなく、騒いでも当然のように無視された、と。
61:日本@名無史さん
07/03/31 23:16:01
●『隋書』倭国伝中の「倭国の王は暗い内は自分が仕事をし、明ければ、弟にそれを委ねている」は何を表現しているのか忘れました。
「天皇は神(日)の子であり、その位は代々血統で引き継がれる」というつもりで小野妹子は言ったのでしたっけ?
●外国人に「聖徳太子は日本で初めて法律によって国を治めました」と説明したところ、「それ以前は、人々はどうやって日本を治めていたのですか?」と質問されました。なんと答えれば適切でしょうか?
それと↑のようなことも含めて聖徳太子について英語で紹介されているページはありませんか?
いろいろ検索してみましたが、Wikipediaもさほど詳しくはなかったのです。
62:日本@名無史さん
07/03/31 23:35:43
>>61
>●外国人に「聖徳太子は日本で初めて法律によって国を治めました」と説明したところ、「それ以前は、人々はどうやって日本を治めていたのですか?」と質問されました。なんと答えれば適切でしょうか?
十七条の憲法は、心構えを説いたようなものなので社是とか校訓みたいなイメージで捉えればよく、規則・法律ではないと思います。
体系化された法律が制定されたのは大宝律令で、それ以前は慣習法だったり、体系化されずに個別に法律を作り適用していた とかでいいのでは。
63:日本@名無史さん
07/04/01 15:31:42
>>52
この時期の中国漢字音で、「いと」の音訳として「委奴」を当てることは
あり得ないというのは言語学の世界では常識。
64:日本@名無史さん
07/04/01 17:06:30
>>16
>後奈良や後柏原は時代背景を考えると分かるよ。
>当時は即位の礼はおろか、葬儀も行えなかった時代だからね。
>追号も多分に適当(というのは言いすぎかもしれないが)にならざるをえなかった模様。
政治的に混乱している時代だからこそ、平安建都の初心に還って平安時代の
最初の天皇である桓武や平城の名前を使ったんじゃない?
むしろその前の後花園や後土御門の名前のほうが微妙。
65:日本@名無史さん
07/04/01 17:59:01
増鏡を読みたいが色んな出版社から色々出てるからどれがいいかわからん
原文と現代訳がついてて出来れば解説もほしいがどこの増鏡を買えばいいでしょうか?
よろしくおねがいします
66:日本@名無史さん
07/04/01 20:20:15
率直な質問です。郷士と地侍って何が違う?
67:日本@名無史さん
07/04/01 21:06:21
地侍=中世史における用語
郷士=近世史における用語
68:日本@名無史さん
07/04/01 22:17:31
地侍
:中世後期、郷村に勢力をもった侍・武士。幕府や守護の家臣ではなく
国人以下の階層。用水の管理や加地子の集積などで郷村の実質的支配者と
なり、下剋上の風潮の中で、郷民の一揆の主役となった。戦国大名の下で
下級家臣となったが、兵農分離により近世社会では郷士などとして存続した。
69:日本@名無史さん
07/04/02 00:31:40
>>64
元々後花園は「後文徳」の予定を「文徳は諡号だから後加号出来ない」と知って慌てて決めた筈。
70:日本@名無史さん
07/04/02 01:48:10
神社は中に入るのに無料なところが多いのに寺は有料が多いのは何故なんですか?
71:日本@名無史さん
07/04/02 02:14:44
系図ヲタです。いろいろ系図の本をみていますが、近代以降、生母の記入がないのがほとんどです。
けれどWikipediaとかをみると『生母は家女房の〇〇氏』と書いてあるのが、かなりあります。
一体どうやって調べているのでしょうか?
お薦めの本とかあったら教えて下さい。お願いしますm(__)m
72:日本@名無史さん
07/04/02 02:49:10
>>44
転載で申し訳ありませんが、
出雲大社の現在の高さは24m、
社伝による古代の高さが16丈(48m)です。(現在の東大寺の屋根ぐらいに社がくる高さ)
当初はこのような高層建築は現実的にありえないとされてきました。
構造は、出雲大社の平面図を書いた「金輪御造営差図」によれば、
3本の木を金輪(鉄の輪)で1つに束ねた太さ1丈(3m)にもなる柱が9本
使われていたそうです。
工学博士・福山敏男と建設会社・大林組プロジェクトチームによる検証では
当時の技術でも建設可能であると答えが出ましたが、記録では
平安時代の中期から鎌倉時代のはじめまでの200年間で、6度ないし7度倒れたとの事です。
その後の平成11年9月からの発掘調査で、3本をたばねて1本とした巨大な柱の根本部分が見つかりました。
1本の木の直径が約1.3mで、3本をたばね1本とした直径は約3mで
まさに『金輪御造営差図』の通りでした。
さらにその後の調査で、心御柱(しんのみはしら)(岩根御柱とも呼ばれる中心の柱)と
もう1本の側柱(がわばしら)が出土しました。どちらも3本の柱材をたばねて、1本の巨大な柱としています。
73:日本@名無史さん
07/04/02 03:45:52
>>69
「後文徳」の話は>>36で既出。
せめて最新50レスくらいは読んでから書きなよ。
それに貴方のレスは「後花園の追号が微妙」といってる>>64に対する答えにも
なってないだろう。たぶん。
74:日本@名無史さん
07/04/02 07:00:42
>>64
いやそれは無理があると思うんだよ。
少なくとも平安に立ち返るという発想であれば後奈良はないだろう。
奈良帝は文字通り平安朝へのアンチテーゼとしての位置付けであるし、
その後の天皇も嵯峨帝を皇統の根拠としているところを見ても。
後花園や後土御門の方が微妙、というのは何が微妙ということなのかな。
75:日本@名無史さん
07/04/02 10:31:16
>>69=>>74?
76:74
07/04/02 13:52:06
ちがうよ。なんでそうなるんだ。
77:日本@名無史さん
07/04/02 14:50:09
>>74
「後奈良」の追号は、「後柏原」のあとを受けて、元の追号の親子関係を
後加号でも踏襲したからだろう。
「嵯峨」の後加号は既に使われていたから、それ以外で桓武の皇子に当たる
天皇ということになると、平城か淳和になるわけだが、完全に断絶して子孫の
いない淳和よりは、嵯峨と同腹で子孫もいる平城のほうがいいというような
判断だったと思う。
78:日本@名無史さん
07/04/02 15:10:57
子孫もいる平城、とは言っても臣籍に下ってるし。
まあこのへんの追号に関しては資料がないので全て憶測の域を出ないのだが、
多分そこまで深い意味があったわけでなく、先帝が後柏原だったから単純に
後奈良としたのかと推測してるのだが。葬儀やらなんやらでさえどうにもならない
時代だし、追号もその程度だったんじゃないかと。
79:日本@名無史さん
07/04/02 15:13:01
近世の石高制について質問。
石高の少ない村って、本当に貧しかったのでしょうか。
だって、石高って課税価値でしょう。
だったら、石高が低かったら、それだけ年貢に取られる分が少なくって済むってことでしょう。
漁村なんかの場合、実際の所得は漁獲高で変わるのだから、
石高が低い漁村って、大漁になれば、年貢にも取られず、丸もうけってことにならないの?
80:日本@名無史さん
07/04/02 15:46:13
>>78
本当にちゃんと史料読んだ?
81:日本@名無史さん
07/04/03 05:23:02
安土城の天守閣は建築学的に建設が不可能って本で読んだんですけど
本当なんでしょうか?一階から三階に吹き抜けがある建物は当時は作れないと。
それだと、鉄鋼船とかはもっと不可能では?
82:日本@名無史さん
07/04/03 07:34:59
修学旅行等で奈良の東大寺に行ったことはありますか?
全長15メートル(四階建相当)の大仏が 寺の中にすっぽり収まっています。
寺の吹き抜けは最低でも20メートルはあり
8世紀の時点で48メートル、
現存においても世界最大の木造建築を建設する事ができました。
83:日本@名無史さん
07/04/03 08:15:04
八尾の浅吉 ってなんと読むのか教えてください。
84:日本@名無史さん
07/04/03 09:16:46
… 07/04/02(月)23:16:01 IP:58.0.96.* No.616855
吉宗の時代のアラブ馬を輸入する時の発注書が面白かったね。
絵付きで、額に縦線の馬に「×」(笑)。
この模様はかっこ悪かったらしい。
額に白丸の馬に「○」。そういう柄が当時のファッションだったのか。
この馬の子孫は明治天皇の乗馬にまでなったらしい。
こんなレスがあったが、詳細きぼん
85:日本@名無史さん
07/04/03 10:45:18
史料編纂所閲覧再開らしい。
スレリンク(history板)l50
86:日本@名無史さん
07/04/03 15:33:09
>それだと、鉄鋼船とかはもっと不可能では?
安土城の復元案が実現不能だと、なんで鐵甲船(信長が九鬼嘉隆に作らせたやつだよね)が不可能なんだ?
鉄甲船は当時一般的だった安宅船に鉄板貼り付けて防火性向上させたやつだろ?
大型で重くて、機動性悪いので使い勝手が悪くて(信長も本願寺包囲のためにしか使用させていない)
一般化しなかっただけで構造上特別な点は何もないと思うが。
安土の復元案はいくつかあるけど、吹き抜け構造のやつが構造的に不可能って話は
上部構造の重量を、復元案にある柱だけじゃ、支えきれないという計算から出たんだと思うけど。
87:日本@名無史さん
07/04/04 14:46:26
どっちが重複スレ?
スレリンク(history板)l50
88:日本@名無史さん
07/04/05 14:27:46
国民の歴史
新しい歴史教科書を作るかいって真面目な本ですか?
とんでも学説の本?
89:日本@名無史さん
07/04/05 14:57:03
>>79
「石高の少ない村」と書いている事から根本的な勘違いをされているようです。
課税は村に対してではなく戸別です。
検地によって戸別の課税額を決めますから農民に余裕は出ません。
各農民がどれだけ納税できるかを判断し必死に働き出した成果の内、
死なない程度を残し全て徴収する事が徴税です。
また各大名家も幕府から締め付けられていましたから、
家臣の禄を削減しなければならないほど財政は厳しくなっていました。
90:日本@名無史さん
07/04/05 17:05:40
>>88
冗談で活動しているわけではなく、会員の方は真面目に活動しています。
それと内容が正しいかどうかは別問題。
数学と違って、事実がから導き出される内容(その原因とか影響とか)が人によって違うことがあるので。
だから、内容については、賛成の人も反対の人もいます。
91:日本@名無史さん
07/04/06 03:22:00
なぜ源姓ばかり与えたんですか?
92:日本@名無史さん
07/04/06 03:28:59
>>91
質問が唐突過ぎて意味わからん
93:日本@名無史さん
07/04/06 03:38:20
【浅野史郎】民主党、東京都知事選候補者選びにおける茶番劇について
スレリンク(news2板)l50
東京都の人は、ぜひ読んでみてください。
現在、朝鮮総連や民団その他の反日団体が、総がかりで浅野を応援しています。
浅野が知事になれば、たぶん東京は終了します。
94:日本@名無史さん
07/04/06 11:31:48
国民の歴史
新しい歴史教科書を作るかい
真面目かどうかではなくどの程度信ぴょう性があるのか知りたいです
トンでもなのかそれなりに信用できるのか
95:日本@名無しさん
07/04/06 12:36:48
>>94
市販されているので、買うなり図書館で読むなりしてはどうですか?
96:日本@名無史さん
07/04/06 14:38:56
最近テレビで歴史が実は違ってた!
とかいうのを見るけど、何であんなに地震満々に語ってるの?
97:日本@名無史さん
07/04/06 15:00:30
大一大万大吉の意味を教えてください
98:チャンネル桜が今日から無料放送に!!
07/04/06 19:15:40
日本文化チャンネル桜は、平成十九年三月三十一日をもってスカイパーフェクTV!Ch.767における
24時間放送を休止し、同Ch.241「ハッピー241」の夜の時間帯で放送を続けることになりました。
※「ハッピー241」での放送時間(4月1日?)は、以下のとおりです。スカイパーフェクTV!
の受信環境があれば、どなたでも無料でご覧になれます。
【月?金】18:30?21:30/23:00?24:00
【土・日】21:00?24:00
URLリンク(www.ch-sakura.jp)
99:日本@名無史さん
07/04/06 19:23:07
戦後60年、現在にいたるまで、日本に「(内)親王」「女王」はいても
「王」はいないのに、皇室典範から「王」が削除されないのは何故?
事実上、空文化している無意味な規定だと思うんですが。
100:日本@名無史さん
07/04/06 20:03:00
現皇太子が天皇として在位中に、
悠仁親王が男子を儲けたら、
「王」の規定を復活させねばならなくなり、
面倒くさいから。
101:日本@名無史さん
07/04/06 21:11:30
吉原では遊女が身篭ると死産させると聞きましたが、
一方では、遊女に子供を生ませ、その子供を遊郭の労働力にするという説もあるようなんですが、
実際のところ、どちらの説が有力なんでしょうか?
どちらも正しい場合、死産させる子と生むことの出来る子とでは、なにかしらの区分があったのでしょうか?
102:日本@名無史さん
07/04/07 00:00:43
>>99
たまたまこれまで王が出てきてないってだけで、
現行皇室典範における「王」が出てくる可能性が1%でも考えられる以上、
削除することはできんだろ。
三笠宮家、高円宮家は女王しかいないけど、この中の1人が男だった場合を考えてみろ。
さらに、もしも削除してしまったあと、王となるべき男子が産まれたら
そいつの称号はどうするんだ。
103:日本@名無史さん
07/04/07 05:00:35
ソフトバンクにいます。
104:日本@名無史さん
07/04/07 13:16:35
>もしも削除してしまったあと、王となるべき男子が産まれたら
現状から判断するに、それは絶対にありえないな。
105:日本@名無史さん
07/04/07 14:00:02
「絶対に」って何故???
>>100のケースが十分あり得るだろうに
106:日本@名無史さん
07/04/07 14:06:12
ユージンは次の天皇だから、その男子は親王になる。
107:日本@名無史さん
07/04/07 14:15:11
それは秋篠宮が即位した時点での話だろ。
今の皇太子が天皇の時ユージンに王子が生まれたら、
その子は「王」だぞ。
108:日本@名無史さん
07/04/07 15:06:26
廃太子
109:日本@名無しさん
07/04/07 15:36:17
>>107
ところで、もし秋篠宮が即位したら、悠仁親王の男子は親王に宣下されるの?
110:日本@名無史さん
07/04/07 16:07:29
宣下ではなく、皇室典範の規定により、身分が王から親王に変わる。
111:日本@名無史さん
07/04/07 18:44:05
可能性の議論だけで言うと、例えばヒゲの殿下が離婚して若い女と
再婚し、その女との間に男子が産まれても王になるよ。
条文を1本削除するのだって、手続上は
有識者会議なんかを開催して議論の上削除について合意を得る→
改正案を宮内庁が作成して内閣が国会に提出→衆参両院で審議して
法案成立→公布→施行
と、それだけで軽く1年近くの時間とコストがかかるのに、誰が
好きこのんで必要性もないのに皇室典範を改正するのか、と。
112:日本@名無史さん
07/04/07 21:20:40
将来また「王」が現れるかも知れないのに削除なんてするかよ。
113:日本@名無史さん
07/04/08 15:34:03
江戸時代は、藩という言葉が一般的じゃなかったって言うけど、
それじゃあ、なんて称していたの?
たとえば、江戸時代は松代藩の藩主真田某は、公称上なんて書くの?
ねえねえ。
114:日本@名無史さん
07/04/08 15:34:09
昨日テレビで菅原道真は勉強できなくて落第寸前だったと言ってたんですが、
そんな資料があったんですか?
115:日本@名無史さん
07/04/08 16:11:40
>>113
松代守真田なんたらじゃねえの?
116:日本@名無史さん
07/04/08 16:19:21
「示巳る」これの読み方教えて下さいm(_ _)m
117:日本@名無史さん
07/04/08 16:29:32
>>113
~家
118:日本@名無史さん
07/04/08 17:06:26
>>113
官位でしょうね。
例えば「○○播磨守」とか「××上野介」とか。
公文書にはさらに「松(松平)薩摩守」とか、
「源○○」と書名していたのもあったっけ。
忘れちった。
詳しい人フォローよろしく。
119:日本@名無史さん
07/04/08 17:06:38
公家の家号なら「~家」でよいが、武家の苗字の場合は普通は「~氏」と書く。
120:日本@名無史さん
07/04/08 17:15:22
>>118
官位を叩き売りして生活していた天皇や公家は下衆であると京の人々や武家に見られていた。
京の町を通りがかれば官位が拾える程度の価値。下層の者達でさえ官位を名乗るほど。
私の書き込みで不十分でしたら御自分で調べられると良いと思います。
121:日本@名無史さん
07/04/08 23:19:31
>>120
私も詳しいとは言えないので認識不足なら申し訳ないが、
江戸時代朝廷の官位と武家の官位は別物(官位録に載せず、公家の定員にも影響しない)とされて、
朝廷の官位を武家が買うと言うこともなくなったのでは?
122:日本@名無史さん
07/04/09 01:47:45
120はただ朝廷の権威を貶めたいだけの賤民だから
123:日本@名無史さん
07/04/09 02:53:05
120は某コテっぽいが?
124:日本@名無史さん
07/04/09 03:24:18
武家官位は定員外という考え方は、既に南北朝・室町の頃から出始めているが、
それを完全に制度化したのは近世になってから。
『公卿補任』からも元和7年以降は、武家の記載が消える。
125:日本@名無史さん
07/04/09 16:17:00
武家の官位っていうのは、そもそも鎌倉時代以来、武家政権のトップである
将軍を通して申請するものであって、一武家クラスが直接朝廷に申請することは
原則ないはずだが。
126:日本@名無史さん
07/04/09 18:11:59
台所まかない用人ってどういう仕事?
127:日本@名無史さん
07/04/10 00:22:14
乞う、御協力
スレリンク(history板:215番)
128:日本@名無史さん
07/04/10 00:56:49
よく名前の一部を部下にあげるのあるけど、見返りの相場ってのはどのくらいなんですか?
たとえば足利将軍の場合。
129:日本@名無史さん
07/04/10 01:19:15
「義」の字か下の字かで異なる。
130:日本@名無史さん
07/04/10 03:13:23
てか徳川将軍が「家」の字を与えるケースってどのくらいあるの?
江戸初期の最上家親と島津家久くらいしか思い浮かばないのだが。
131:日本@名無史さん
07/04/10 18:49:07
>>130
ほぼ皆無と言っていい。「家」の字を与えたのは家康のみで、
それ以降一字授与がシステム的に確立してからは、必ず将軍の下の名前を
上につける。
132:日本@名無史さん
07/04/11 01:16:52
室町幕府みたいに将軍の上の字を与えるか下の字を与えるかで大名の格付けを
しようという発想はなかったの?
133:日本@名無史さん
07/04/11 01:23:08
ない。家を名乗れるのは徳川宗家だけ。他との隔絶をはかるため。
他にもいたんじゃ隔絶の度合いが弱まる。
134:日本@名無史さん
07/04/11 02:46:24
綱吉、吉宗、慶喜のようにそのままというケースもあるけど、
傍系の人が将軍職につくと、「家」を含む名前に改名する場合があるよね。
綱豊→家宣、慶福→家茂
これは、「家」の字は原則として将軍が用いるもの、という意識の
現れのように思われる。
室町幕府の場合、足利氏以外の清和源氏系の名門氏族も
「義」の字を使いまくっているから、
「義」を将軍家独占とするわけにもいかなかったのだろうと思う。
(例:佐竹、里見、畠山、斯波、一色、吉良)
135:日本@名無しさん
07/04/11 03:47:29
>>133-134
尾張家は「義」、紀伊家は「頼」が一応の通字。
水戸家は結構バラバラだが一応「頼」ってところ。
「家」は徳川本家だけの通字でしょうね。
136:日本@名無史さん
07/04/11 11:35:26
江戸時代にハングライダーみたいなの作ってテスト飛行してたら
役人に捕まった町人がいたって本当ですか?
137:日本@名無史さん
07/04/11 22:28:27
>>136
本当です。
138:日本@名無史さん
07/04/11 22:42:34
今日読んだ新聞に陳瞬臣が
「倭寇は略奪行為を働き、人身売買をしていた。島津家も倭寇に働きかけて人身売買に加担していた」
というようなことが書いていましたが、これは事実なのでしょうか?
139:日本@名無史さん
07/04/11 22:48:31
>>136
浮田幸吉
140:日本@名無史さん
07/04/11 23:58:02
後醍醐天皇は何故、吉野の地を南朝に選んだんですか?
141:日本@名無史さん
07/04/12 00:43:21
壬申の乱
142:日本@名無史さん
07/04/12 00:56:22
>>134
江戸幕府で傍流から将軍になった人については、前将軍の死後に後継者に
決まった人は名前はそのままで、前将軍の生前に後継者に決まっていた人は
「家○」という名前に改名するのが基本だと思う。
だから綱吉・吉宗・慶喜は改名せずに将軍に就任したが、家宣・家斉・家茂は
将軍の後継者に決まった時点で「家○」の名前になっている。
また室町期の大名に見られる「義○」の名前については代々の通字のように
見える家でも一応原則は将軍からの偏諱であったはず。
そのため「義○」という名前は比較的見られても、「○義」という名前は
まずいない。
もっとも偏諱を貰った場合に、貰った字を必ず上に付けるようにということが
徹底されるのは、義満時代の後半くらいからなので、初期の頃はその限りではない。
143:日本@名無史さん
07/04/12 01:05:55
元祖 汚ギャルの平安姫君に萌えるスレって無いですか?
無ければ作るので、テンプレ考えて!
144:日本@名無史さん
07/04/12 01:16:44
「胤」の文字は千葉氏の流れなの?
145:日本@名無史さん
07/04/12 08:25:14
>>144
相馬とかも「胤」を使う。
146:日本@名無しさん
07/04/12 11:10:01
>>145
一応千葉氏系だし。
147:日本@名無史さん
07/04/12 23:10:27
>>142
その通りだと思います。しかし、家光→家綱とか、家重→家治は、現将軍から頂くという考えもありますが、綱吉→家宣、吉宗→家重とかだと、そういう事にはなりませんね。
(慶喜→家達も?)「家」という字の継承の際は、やはり家康を意識しているような気がしますが何か論拠のようなものをご存じでしょうか?
幕府の始祖(開祖)という意味なら、足利家は尊氏でしょうが、将軍家が代々引き継いでいるのは「義」ですし。
148:日本@名無史さん
07/04/13 00:23:33
家康の「家」は今川から独立して「元」を捨てて改めた記念すべき字だし、松平姓から徳川姓に改姓したのが家康だから徳川氏の太祖でもある。
一方、足利尊氏は足利氏の太祖ってわけじゃないし(太祖は義康)、元々の諱は高氏で、北条高時から貰ったものだし、「尊」は後醍醐天皇から貰ったもので、将軍家の通字として不適切だと思われたんじゃないかな。
だから、徳川氏も豊臣の大名として続いてたら、秀忠みたいに偏諱を貰って「家」が通字として定着しなかったかもね。
まぁ、憶測だけど。
149:日本@名無史さん
07/04/13 01:13:31
徳川家康の「家」って、八幡太郎義家の「家」から取ったというのは本当ですか?
150:日本@名無史さん
07/04/13 02:01:39
>>148
足利の場合、鎌倉期の通字は「氏」、室町期に「義」になるけど、
「義」は清和源氏の嫡流、というイメージがあるので北条氏に
遠慮して鎌倉期は避けていたのでは。。。
まったくの憶測ですが。
あるいは、逆に鎌倉期にそのような配慮はなかったけど、
鎌倉幕府を滅ぼしてから足利が「武家の棟梁」というイメージを
自ら作り出すために、源氏のイメージのある「義」を使ったのかも
しれません。
151:日本@名無しさん
07/04/13 02:17:58
>>150
そうなると新田義貞の「義」は?という話になってくると思うが…
まあ関東側に「氏」を与え、京都側に「義」を与えたというところも
考えると、少なくとも別の家にしたという意図があったのだろうから、
それはいえることなのかもしれないな。
152:日本@名無史さん
07/04/13 09:06:08
日本の歴史書で最も古い歴史書はなんで西暦何年に成立したものですか?
153:日本@名無史さん
07/04/13 09:08:35
仁徳天皇陵は西暦何年に作られたのでしょうか?
154:日本@名無史さん
07/04/13 09:13:56
清和源氏においては「義」と並んで「頼」も多いですが。
「義」という文字が尊ばれたのは、鎌倉後期くらいから日本にも入ってきた宋学(朱子学)の影響もあるでしょうかね。
儒教はある意味、宗教改革期で、日本にもそれが波及していましたし、後醍醐天皇なんかも朱子学の影響を受けています。
こういうのは、一種の流行り廃りもあると思います。
不思議と、戦国時代に多いのが「信」ですね。なかなか人を信じられない時代ですが。
この頃だと、室町幕府はマイナスイメージが強くなっていったので、清和源氏の象徴「義」も廃れたのでしょうか。
(大内義興、今川義元、武田義信・・・それ以降は・・・)
徳川家康の「家」は斬新ですね。「家」自体は当時は珍しくなかったでしょうが、これを家光以降継承していく発想は新しい流れだったと思います。
155:日本@名無史さん
07/04/13 11:00:01
>>152
古事記(712年)
日本書紀(720年)
が現存最古になる。両方合わせて記紀と呼ばれることも多い。
推古天皇の時に聖徳太子と蘇我馬子が天皇記・国記・臣連伴造国造百八十部并公民等本記を編纂したが、大化の改新で蘇我宗家が滅んだ際、そのほとんどが焼失したとされてる。
156:日本@名無史さん
07/04/13 11:18:07
>>153
だいたい5世紀(西暦400年代)の始めから中ごろだと推定されている。
天皇陵の発掘許可が下りればもっと正確な年代が特定できるかもしれないけどね。
157:日本@名無史さん
07/04/13 15:05:56
>>154
>(大内義興、今川義元、武田義信・・・それ以降は・・・)
彼らの名前は将軍から一字貰ったからだから、はやり廃りとは関係ないです。
将軍の権威・実力が下落しているので、これらの家ではそれまで家格上もらえなかった「義」の字がもらえた。
今川氏「輝」の次が「義」元、武田「晴」信の次が「義」信、
158:日本@名無史さん
07/04/13 15:57:20
「荘園公領制」についてちゃんと知りたいのですが、何を読めばいいですか。
教えてください。
159:日本@名無史さん
07/04/13 19:03:30
武田晴信の当主時代に一字を拝領した人は「信○」と名乗ったのでしょうか?
「信」は武田一族の通字なので、一門以外ではあまりいないと思われるのですが。
また、勝頼の時代には「頼○」と名乗る家臣はほとんどいなかったようですが、
一字拝領は行われなかったのでしょうか?
160:日本@名無史さん
07/04/13 19:18:47
勝頼は、諏訪勝頼だから、武田とは別枠
161:日本@名無史さん
07/04/13 20:09:12
なぜ「頼勝」ではなく「勝頼」になったんだろう。
162:日本@名無史さん
07/04/13 21:46:09
>武田晴信の当主時代に一字を拝領した人は「信○」と名乗ったのでしょうか?
拝領したと推定できる人物はいないのでは。
武田一族以外だと小山田信茂とか真田信綱がいますが、小山田氏は通字が信みたいだし、
真田氏もその可能性があると思う。(信綱の息子も、甥(昌幸)の息子・孫も信がつく)
代わりに晴信・勝頼時代の武田家臣に多いのが「昌」字ですが、これが晴信から与えられたとはっきり示す史料はなかったような。
あと、勝頼の「頼」は諏訪氏の通字で、勝頼が諏訪氏の血統でその後継者であることを示すために付けられた名前と思うので
普通は「頼」字ではなく「勝」字を与えるでしょう。
163:日本@名無史さん
07/04/14 01:10:51
仁徳天皇陵を掘り返すと始皇帝陵みたいな兵馬俑がでてきたりするんでしょうか?
164:日本@名無史さん
07/04/14 01:16:24
埴輪ならいっぱい出てくるだろうね。
165:日本@名無史さん
07/04/15 16:57:06
>>148
6代将軍義教が「義宣」から「義教」に改名する際に、「尊国」という名が
候補に挙がったことがある。
>>150-151
新田義貞の家系も義貞以前は3代続けて「○氏」という名前。
しかし義貞のところで突然「義○」という名前に戻った。
また足利尊氏には、高義という早世した兄がいる。
よって足利流・新田流ともに、鎌倉末期に通字が「氏」から「義」に変わったと
いう可能性が推測される。
なお高氏(尊氏)の場合は、本来次男だったから元の通字である「氏」が
使われたという可能性が高い。
>>154
室町・戦国期に守護クラスで「義」を使っている名前は、原則として全て
足利将軍家からの偏諱(てか既出)。
武田義信あたりを最後として、「義」を使う名前が少なくなるのは、
室町幕府自体がなくなってしまったからじゃないの?
もっとも、前代からの由緒を強調するためか、それ以降も「義」の字を通字の
ようにして使い続ける例もあるが(吉良とか佐竹とか)。
あと山名なんかは不思議なことに江戸中期くらいになってから通字をわざわざ
「豊」から「義」に変えているw
166:日本@名無史さん
07/04/15 17:24:28
>>149>>154
徳川家康の「家」は、それ以前から足利流や新田流など、源義家を直接的な
祖先とする諸家では比較的よく使われる字ではあった。
それまでの鎌倉幕府・室町幕府の将軍の通字である「頼」や「義」を避けたと
すれば、「家」を使うことは徳川氏が義家に繋がる清和源氏を自認する限りに
おいては、極めて自然な発想。
そして徳川氏の本家が「家」を名乗る代わりに、前代の将軍家の通字であった
「頼」「義」を御三家の通字にした。
>>157
戦国期の足利将軍家からの偏諱の場合は、その際に支払う謝礼の額によって、
「義」の字になるか下の字になるかが決まっていた(但し幕府内での家格も
ある程度影響する)。
だから幕府や将軍家の権威の低下などとはあまり関係ない(そもそもこの件に
関して権威が著しく低下していたのなら、大名たちは将軍から偏諱を貰うこと
自体に価値を見いださなくなるはず)。
なお今川氏輝が将軍義輝の偏諱ということはあり得ない。
氏輝が死んだ段階でも、まだ将軍は義晴だし、義輝に関しては「菊幢丸」という
幼名を名乗っている元服前の子供。
さらにこの時代には、貰った偏諱を名前の下の字に使うことは普通あり得ない。
今川氏に関しては、氏親の父の義忠が8代将軍義政から偏諱を貰っており、
既に「義」の字を貰った先例がある。
今川氏は、永享の乱のときの範忠(義忠の父)の功績が影響して、「義」の字を
貰える家格を手に入れたと考えられる。
167:日本@名無史さん
07/04/15 17:37:19
中世の中国との貿易についてお尋ねします。
日宋貿易で日本が宋から輸入した代表的品目は銅銭と「絹織物」であるのに対して、
日明貿易では銅銭と「生糸」ですが、なぜ宋の時代は生糸を輸入しなかったんでしょうか?
168:日本@名無史さん
07/04/15 17:47:34
>>162
甲斐武田氏は、当主が「信○」の場合は、家格の高い者には「信」、
それほどでもない者には「○」(下の字)を与えるという形になっていたと
考えられる。
しかし当主が「晴信」になると、それまで下の字を与えていた者たちに「信」を
与えるわけにもいかず、やむを得ず「昌」の字を偏諱に准ずるような位置付けで
与えたのだと思う。
「昌」は晴信の曾祖父である信昌の「昌」が念頭に置かれていると考えられる。
晴信の場合、当主になったときの経緯から考えて父信虎の「虎」は使えないし、
当主であった期間も短く病弱だったとされる祖父信縄の「縄」も不適当と
考えたとすれば、甲斐武田氏中興の英主とされる信昌の「昌」を使うことは
妥当なところだろう。
もちろん、元々「信」を貰う家格であった者には「信」を与えるから、家中で
別格的な真田や小山田、さらに嫡流に近い一族なんかは「信」なのだろう。
真田に関しては、もともと偏諱であったものが、のちに通字化した可能性も
あり得る。
169:日本@名無史さん
07/04/15 18:07:37
>>167
絹織物の日本における発達が近世以降だから。
ちなみに絹糸も中国産の方が勝っていたが江戸期の管理貿易体制で
国費の流出を防ぐために国産化が奨励され、各藩の殖産事業と合致して
日本の絹織物業の基盤を築いた。
170:日本@名無史さん
07/04/15 19:42:17
日元貿易(建長寺船とか天竜寺船)のときは、もう生糸は輸入されてましたか?
171:日本@名無史さん
07/04/15 20:23:14
>.168
>当主が「信○」の場合は、家格の高い者には「信」、
親族衆の木曽氏でも「昌」なのに小山田氏や真田氏が「信」貰えるほど家格が高いの?
武田氏の支流以外での具体的な例を教えてください。
>真田に関しては、もともと偏諱であったものが、のちに通字化した可能性
このような例(偏諱を家の通字にした)ってあるの?真田氏でなくてもいいけど。
貰った一字を勝手に、息子や孫につけるってことですよね。
武田の場合滅亡しているからいいとして、主家が存続してたらまずいことにならないですか?
172:日本@名無史さん
07/04/15 21:07:09
徳川の譜代大名に「康」とか「忠」を通字にしてる家が多いけど、
あれも家康や秀忠の偏諱を家の通字にしたの?
173:日本@名無史さん
07/04/15 21:12:59
中津藩主奥平家の通字「昌」って、信玄からもらった字が通字化したの?
174:日本@名無史さん
07/04/15 21:40:46
>>173
Wikipediaの奥平氏のところをみると、15世紀後半ころの当主に貞昌ってのがいます。
これから来ているのではないかな。
家康の娘と信長の「信」を貰った信昌より前の一族だと「貞」字がついている人物が多い。
信昌以降だと「昌」。
175:日本@名無史さん
07/04/15 21:40:55
戦国時代中期以降、ほとんどの地方では多くの地域を平定する大名が出現するか、そうでなくても有力家の下で連合のように一勢力としてまとまっていきましたが、
東北地方はいつまでも小勢力が小競り合いを繰り広げてなかなか有力大名が出現せず、地域統合へ進んでいかなかった、進んだとしてもその時期が遅れたように思えるのですが、
この原因としてはどういったことが考えられるでしょうか?
176:日本@名無しさん
07/04/15 21:49:05
>>175
・一年の三分の一以上は雪に閉ざされる
・その時期農民兵は当然動かせない。雪が解けたら農作業。暇じゃない
・だから大規模な交通や貿易も発達しなかった
というところでは。
177:日本@名無史さん
07/04/15 21:54:57
>>175
冬季(農閑期)に戦闘を行えないので、なかなか長期間城攻めできない、敵を攻めてもなかなか決着がつかないからって説明を聞いたことがある。
北陸や山陰は戦国大名化しているじゃないかと思ったけど。
面積だけみると、戦国大名といっていいレベルを支配していたりするけどね。東北の大名。南部とか。
178:日本@名無史さん
07/04/15 22:27:55
>>171
小山田や真田は最後まで半独立って感じの状態でしょ。
真田に至っては武田の滅亡にも巻き込まれていないし。
木曽は武田からの偏諱の人物いたっけ?
鎌倉や南北朝の頃ならいざ知らず、この時期には貰った偏諱は必ず上につけると
いう慣習ができているわけだけど。
179:日本@名無史さん
07/04/15 22:28:35
>>175
親戚関係が入り組んでいてにらみあいになっていたと聞いた
180:日本@名無史さん
07/04/15 22:33:17
>>172
というか「忠」の字は家康以前の松平氏の通字。
親忠-長忠(長親)-信忠-清忠(清康)-広忠-家康
だから元々代々「忠」の字を貰っていた譜代の家の場合には、徳川将軍家が
「忠」を使わなくなったのちも、それが家の通字のようになって残ったという
可能性はあるね。
譜代の大名に徳川将軍家から偏諱を与えなくなった代わりに、「康」や「忠」を
彼らが通字として使うことを容認していたのかも。
181:日本@名無史さん
07/04/15 22:37:54
>>177
東北地方でも太平洋側の積雪は大したことない。
それに南東北の大名は、元々他の地域の一国守護と同等レベルくらいの
支配地(面積と生産力の両面で)を持っている者も多い。
北東北の場合は、支配している土地は広くても人口密度や生産力はスカスカ。
182:日本@名無史さん
07/04/16 01:39:15
>>170
基本的に日本での絹織物が古代の一時期を除けば国産化できたのが15世紀以降。
あるいは日明貿易も初期は絹織物も輸入品目としては大きかったかもしれない。
183:日本@名無史さん
07/04/16 03:26:06
>>157は今川氏輝の「輝」が足利義輝からの偏諱だと思っていたわけか。
久々に究極のバカを見た。w
184:日本@名無史さん
07/04/16 04:13:40
>>175
>>181でも触れられているとおり、積雪を問題にすると、
北陸、山陰の有力大名の存在、東北の太平洋岸の有力大名の不在を
説明できない。
やはり、経済力の差と考えるのが妥当なんじゃないの。
寒冷地のため農業の生産性は低く、中央から遠いから商業もさほど発達しない。
こういう状況で大軍団を抱えたり大きい軍事行動を起こすだけの
経済力のある勢力が出てこなかったから、
いつまでたっても群雄割拠だった、と。
185:日本@名無史さん
07/04/16 05:47:44
東北の大名の中では明らかに最有力である伊達氏が、本拠地をわざわざ
陸奥国伊達郡から出羽国置賜郡に移していることから考えても、積雪量自体は
大した問題ではないってことだろう。
東北以外で考えても、北近江や越前なんかは積雪が多くても生産性はかなり高い。
186:日本@名無史さん
07/04/16 10:20:56
>鎌倉や南北朝の頃ならいざ知らず、この時期には貰った偏諱は必ず上につけると
>いう慣習ができているわけだけど。
吉良頼康(おお、画像つながりで武田につながった)
年齢は調べてないけど、氏綱の婿だから氏康とほぼ同年代なのでは?
他に思い当たらなかったので特別な例かもしれない。
北条家中で家格が高いどころか、吉良>北条でしょうから。
逆に吉良頼康に一字貰って氏康なのか?
187:日本@名無史さん
07/04/16 14:01:49
貰った偏諱は必ず上につけるというのを徹底させたのは足利義満。
義満はある時期からこれを徹底させるようになった。
なお鎌倉公方の足利氏満に関しても、京都側では勝手に満氏に改名したことに
させられた。
てゆうかちゃんと史料読んでこの時代を研究している人なら、このくらいは
常識的に知っているだろ。
188:143
07/04/16 15:43:41
>>143 おながい!!
189:日本@名無しさん
07/04/16 18:12:20
>>188
萌えるスレなど存ぜぬ。この辺りにでも跳躍されたし。
ここだけ平安時代に時空移動しているスレ 弐景
スレリンク(history板)
平安時代の貴族の実態
スレリンク(history板)
190:日本@名無史さん
07/04/16 21:29:29
あと、足利義氏の場合は兄貴が先に「藤」の一字を貰ったからというだけ。
191:日本@名無史さん
07/04/16 22:25:20
名前が漢字二文字というのは何故なんですか?
東アジアの伝統?
192:日本@名無しさん
07/04/16 22:52:24
>>191
一応、そう。
正確に言うと、五胡十六国/六朝時代後半からの中国の伝統。
それ以前は諸葛亮孔明みたいな、諱一文字、字ニ文字の形式。
それが諱ニ文字になって時代が下り、日本に導入されたという次第。
193:日本@名無史さん
07/04/17 01:15:14
>>192
字の意味で考えて良字2文字という名前の付け方が普及するのは平安初期から。
最初は漢文漢籍ヲタだった嵯峨天皇が、自分の子供たちを名付ける際に、
皇族籍に残す者は漢字2文字、臣下に落とす者は漢字1文字とした。
ただその際に、音読みでは味気ないので漢字の字ごとに人名訓が考案された。
その後、貴族社会では漢字2文字の名前のほうが一般的となったため、結局
漢字1文字は嵯峨源氏だけになった。
194:日本@名無史さん
07/04/17 01:47:23
>>191
東アジア圏の伝統ではあるが、通字を親子間で使うのは日本独特。
台湾とか今もそうなんだけど、基本は兄弟間・従兄弟間で字を揃え、
親子間では不孝に当たるので同じ字は使わない。
(例:趙匡胤、趙匡義兄弟)
日本も平安中期までは兄弟間の通字が用いられていたが、
(例:嵯峨天皇の皇籍に残った皇子の通字は「良」、清和源氏の初期の
系図見ても、経基の子は「満」、満仲の子は「頼」が通字)
のちに代々通字を継承していく方式に変化していった。
195:日本@名無史さん
07/04/17 03:05:44
>>194
平安後期以降の公家の場合は、兄弟間の通字と親子間の通字との中間形態と
いうべき通字の使われ方をするケースがよくある。
つまり家の通字が2種類あり、1代おきに交互に用いるケース。
摂関家における「実」と「通」、閑院流における「実」と「公」、
日野流における「光」と「資」など。
摂関家においては早くに崩れたけど、家によっては近世までこの状態を
保っていることもある。
196:日本@名無史さん
07/04/17 03:22:18
松平・徳川家が<康><忠>を交互に使っていたけど、武家では珍しいのかな。
また毛利家は嫡男が<○元>それ以外が<元○>だったが、将軍家と御三家がこれと似た関係
197:日本@名無史さん
07/04/17 05:15:17
徳川って意外に公家だったりしてw
198:日本@名無史さん
07/04/17 09:25:00
徳川の葵紋は京の賀茂神社の神紋だし、公家社会と関係あるかも
199:日本@名無史さん
07/04/17 09:39:21
>>196
家康以前の松平氏は、ほぼ代々「忠」だろ。
親忠-長忠(長親)-信忠-清忠(清康)-広忠-家康
毛利氏の場合、嫡子は誰かから偏諱を受けることが多いから、通字の「元」が
下になる。
熙元・・・山名時熙からの偏諱
豊元・・・山名持豊からの偏諱
弘元・・・大内政弘からの偏諱
興元・・・大内義興からの偏諱
隆元・・・大内義隆からの偏諱
輝元・・・足利義輝からの偏諱
200:日本@名無史さん
07/04/17 09:41:57
あと通字を上にするか下にするかでいえば、菅原氏高辻流の公家の家は、
通字の長を上につける人物と下につける人物が1代おきに交互に出てくる。
これも>>195のパターンのバリエーションの一つだろう。
201:日本@名無史さん
07/04/17 12:34:56
>>199
信忠-清康-広忠-家康-秀忠
<忠><康>の交互といえるでしょ。
あなたが言っているのも正しいけど。
専門じゃないので辞書とネットでから推測した程度だけど清忠・長忠はほとんど使用していないのでは?
202:日本@名無史さん
07/04/17 14:04:05
むしろ一次史料からは「長忠」「清忠」が正しい名前であることを推測させるようなものしか出てこなく、「長親」「清康」の名前は殆ど後世の文献にしか現れない。
「清康」の名前については、この名前で出されている発給文書が一通あるが、偽文書の可能性を排除できないようなものという。
そのため、家康の「康」がどこから来たのかを説明するためのこじつけとして後世になって「清忠」が「清康」に書き換えられた可能性も濃厚らしい。
俺も戦国期の松平氏は専門外なので、この辺りが専門の人が喋っているのを飲み会の席で小耳に挟んだ程度だが。
203:日本@名無史さん
07/04/17 15:32:08
てか実は「長忠」「清忠」だって話は、2chの松平関連スレでも常識として扱われてなかった?
204:日本@名無史さん
07/04/18 00:05:49
>>201
辞書というのは『国史大辞典』クラスのもので調べたのですか?
205:日本@名無史さん
07/04/18 09:12:57
まあ素人歴史ヲタは専門家には常識レベルのことでも分かってないこと多い。
興味のベクトルに学問的観点がなくて100%マニア的な観点だからしゃーないが。
206:日本@名無史さん
07/04/18 19:14:38
初心者質問スレで何言ってんだ。
世間の人間や歴史板に出入りしてるヤツがみんなプロのわけねーだろ。
自称のプロの傲慢さが鼻につく。自称プロなんてヲタのなれの果てで実質失業者じゃんw
207:日本@名無史さん
07/04/18 19:31:12
>>205
スレタイを声を出して百回読んで見ような。
【初心者】スレッド立てる前に質問をPart19【歓迎】
208:日本@名無史さん
07/04/18 20:56:56
>>205
日常で誰にも相手にされない憂さ晴らしを初心者相手にネットでか。
哀れだな。近所の幼稚園児に知識ひけらかしとけ。
209:日本@名無史さん
07/04/18 23:49:49
>>205は>>202>>203>>204への忠告のつもりなんですが。
210:日本@名無史さん
07/04/19 00:40:55
中世から近世にかけて、神社ってどんな役割を果たしてどう運用されていたんでしょうか?
仏閣は歴史にも登場するし、民話や物語にも数多く登場しますが、
神社はとにかく影が薄いです。
廃仏毀釈以前の神社ってどんな感じだったのでしょう?
211:日本@名無史さん
07/04/19 01:20:36
大半が神宮寺だろう。
212:日本@名無史さん
07/04/19 02:41:37
教師に、明治以前の大阪を表記するときは、「大坂」と書くように指導されました。
納得できません。
地名の表記法が、現代と近世で変わっている場所は、他にもたくさんあるでしょう。
いちいち、歴史地名辞典で確認して、その時代の表記法に合わせるなんてことしていないのに、
なぜ、近世の大阪だけ、近世の表記法を用いなくてなはならないのでしょうか。
213:210
07/04/19 06:30:52
>>211
なるほど。
ということは、今の神社のように神職がいたのではなく、
坊さんがいたのですね。
214:日本@名無史さん
07/04/19 09:15:48
>>212
納得できない?
それはあなtがバカだからです。
215:日本@名無史さん
07/04/19 18:30:38
>>212
他にもあるって事例を具体的に示せよ。
216:日本@名無史さん
07/04/19 19:18:38
参勤交代の折、島津や細川は舟で行ったそうですが江戸まで舟?
217:日本@名無史さん
07/04/19 19:26:24
>>216
兵庫までです。
218:日本@名無史さん
07/04/19 19:42:12
>>212
日本中のあらゆる地名に精通しろとまでは要求してないだろう。
大坂とかメジャーなところを押えておけばよい
論文とかなら、なるべく当時の表記に近づけるべき
219:日本@名無史さん
07/04/19 20:03:09
>>17何故?
220:日本@名無史さん
07/04/20 00:44:27
江戸時代に栄えた、もしくは人口の多かった国ベスト4を教えて頂けないでしょうか?
221:日本@名無史さん
07/04/20 03:14:56
>>213
「神職」兼「僧職」なんじゃね?
222:日本@名無史さん
07/04/20 05:52:45
例えば今は立派な春日大社も、昔は膨大な興福寺の領域内にある
ちっぽけなものだった。
廃仏毀釈でそれは全く逆転した。明治前後で社寺の景観は一変した
と言っていい。現在の様子からはなかなか近世以前を想像しにくい。
223:210
07/04/20 06:52:39
>>221
そうなんですか。今だと神職は袴を着ているから、
袈裟を着ていては神職のイメージはなかなかわかないですね。
>>222
成程。
神仏習合とは言っても、仏教中心だったんですね。
皇族が仏教に帰依したのだから当然かもしれませんが。
224:日本@名無史さん
07/04/20 11:28:56
>>212
ではあなたは、徳川家康は東京に幕府を開いたと?
225:日本@名無史さん
07/04/20 21:04:18
江戸時代に散らばった寺を一ヶ所に集めて寺町造った、尼崎の例もあるよ。
226:婆 ◆HKZsYRUkck
07/04/20 22:22:41
>>224
その喩えはなんか違う気がする。
おおさかは今も昔もおおさかじゃん。いや、昔はあふさかかも知れんけど。
227:日本@名無史さん
07/04/20 23:48:01
高校の「日本史B」と「世界史B」の問題集をAmazon.co.jpで探している
のですが、次の二つの条件を満たすオススメの本がありましたら教えてください。
ア. 参考書みたいに要点がまとまっていてわかりやすい
イ. なるべく問題が多い
よろしくお願いします。
228:日本@名無史さん
07/04/21 00:19:58
まあ大坂のように歴史上重要な都市で
かつ公式的な表記変更の時期と理由が明確な地名くらいは
時代によって使い分けるくらいなんの障害でもないがね。
小中学生に歴史を教えてるんならまだしも。
明治維新によって大坂も江戸もその位置付けが大きく変容したわけだから
江戸を事例に出すにもさほど無理もない気がするけどね。
229:日本@名無史さん
07/04/21 08:38:03
富山藩の足軽の息子安田善次郎は、幕末に江戸に出て商家に丁稚奉公したんだが、
江戸時代に武士の息子が商家に奉公するってありえたの?
230:日本@名無史さん
07/04/21 10:51:46
富山藩の慣習が分からないんだが、足軽だったらね。
幕末でなくても、絵描きもの書きに武士の出身は多かったんじゃね。
反対に、勝海舟の何代か前は、なんとか検校とかではなかったか。
231:日本@名無史さん
07/04/21 11:07:56
しかし、明治以降ならともかく、江戸時代に武士の子が商家に丁稚奉公するのは、
ものすごく勇気がいるというか、抵抗があったんじゃないかな。
232:日本@名無史さん
07/04/21 11:53:45
>>228
逆の事例を言うなら室町幕府かな。
当初は六波羅にあり、義満の頃室町に移転しているが、「足利尊氏は室町幕府を開いた」という表現は受け入れられている。
鎌倉幕府も所在地は移転しているが、鎌倉幕府とひっくるめて言っているが、それなら足利幕府は「京(都)幕府」だろうか。
江戸時代以前は、政治の中心地が時代名だが、おかしなのは「安土桃山時代」。
安土はともかく、桃山はねぇ。
「安土大坂時代」が正しいようだが、これも「大坂」「大阪」の表記が紛らわしいのが災いしているような気もするが。
233:日本@名無史さん
07/04/21 13:10:58
秀吉が大坂城にいた期間って、そんなに長くないだろ。
天下人になってからは聚楽第だし、隠居後は伏見城や名護屋城だし。
秀次に関白と聚楽第を譲ってからは伏見城で最高権力者として君臨してたから、
桃山時代というのは不正確だが間違いというわけではない。
234:日本@名無史さん
07/04/21 16:09:08
>>232
幕府や時代名と地名との比較する理由が分からないんだが。
幕府名や時代名は後世の研究家が便宜上そういう名称をつけたわけであって
その時代の呼称ではないだろうに。
地名の話題はそういうことじゃないでしょ。
235:日本@名無史さん
07/04/21 16:47:22
>>233
そう考えると、大坂城って壮大な浪費だったのかも
236:日本@名無史さん
07/04/21 16:56:20
漢字の表記は当初「大坂」が一般的であったが、
大坂の「坂」の字を分解すると「土に返る」と読めてしまい縁起が悪いということから、
江戸時代のころから「大阪」とも書くようになり、
明治時代には大阪の字が定着する。
URLリンク(wikipedia.org)
237:日本@名無史さん
07/04/21 17:37:28
なぜ秀吉は関白職を引退したあと、大坂城を居城にしなかったのでしょう。
わざわざ伏見城を(二度も)作らなくても、大坂城という立派な城があったのに。
238:日本@名無史さん
07/04/21 17:44:12
日本と言う名称の由来は隋の皇帝に送った国書の「日出ずる処の天子」だそうですが、
誰の記した文章で誰が送った国書なんですか?
また日本と言う名称の由来が隋の皇帝に送った国書の「日出ずる処の天子」と言うのは正しいのでしょうか?
239:日本@名無史さん
07/04/21 17:48:08
何で教科書には、日本の初代首都は645年難波宮(大阪市)
になってるのですか?
それ以前は首都とは呼ばないのですか?
240:日本@名無史さん
07/04/21 19:49:10
>>237
聚楽第は秀次に与え、
淀城は淀君のに与え、
大坂城は秀頼に与えたので、
自分の居城がなかったので、わざわざ作ったんでは?
241:日本@名無史さん
07/04/21 20:04:50
大阪人は、大坂城を太閤はんの城と思ってるけど、
実際には秀吉の数ある持ち城のひとつにすぎないんだよね。
関白時代は聚楽第、太閤になってからは伏見城が本拠地だし、
大坂にいた時代なんて実際はほんの一時期。
秀吉死後の秀頼の居城ではあっても、豊臣政権の本拠地とはいえない。
242:婆 ◆HKZsYRUkck
07/04/21 20:11:10
>>236
だよなだよな。
そもそも別の名前を付けた例とか、「位置づけが大きく変容したから妥当な例」とか、
わけのわからんこと言っちゃいかん。
>>239
その教科書を書いた人は、645年を「日本」という国の始まりだと
思っているのであって、首都の始まりだと思ってるわけじゃないと思う。
国がなきゃ首都もないと。
243:日本@名無史さん
07/04/21 21:10:07
歴史資料として神社や仏閣に納められた起請文や願文─たとえば足利尊氏が「現世の権力は直義に与え、自分はただ出家遁世して来世の平安を願いたく云々」と書いたやつ─がありますが、これらはどのような経緯で世にでてきたのでしょうか。
もし寺社が自主的に学会やら研究者に提出したのなら、それは(いかに歴史上重要な資料であるとはいえ)故人が神仏への信仰心ゆえに、言い換えればその寺社を信頼して納めた文書を他者へ公開することであり、著しい背教行為ではないのでしょうか。
244:日本@名無史さん
07/04/21 21:18:54
近代史板とちょっとかぶっているかもしれませんがお願いします!
「秀吉が家康を始め大名や家臣たちに官位を与えたとき」及び「明治政府の創立期、黒田や山縣といった薩長の武士達が兵部大輔といった官職を貰ったとき」
それまで官位を持っていなかった人間達に大量に官位が与えられたわけですが、以前にそれらの官位を持っていた公家達は(その官位の定員から追い出されて)大量にリストラされたのでしょうか?
もちろん名ばかりの官位ではあったでしょうが、そういった家格を表す「箔」を奪われて心穏やかでいられたのでしょうか?
245:日本@名無しさん
07/04/21 21:30:18
>>244
その通りだったから大変だったのだ。
だから江戸時代は武家と公家のポスト定員を別枠にした。
246:武陽陰士
07/04/21 21:53:27
>>243
そうですね。
あなたのような方がたくさんおられれれば、
夥しい数の古墳の破壊、遺跡の破壊もなかったことでしょ。
世の中では高松塚古墳のカビで大騒ぎですが、貴重な古墳及び遺跡が
開発のため何十何百以上と破壊されている(いた)ことには、心を
痛めません。
昔の人々の信仰を蔑ろにしてますね。
247:日本@名無史さん
07/04/21 22:05:09
>>243
数百年前の起請文や願文が発見されるのは、
一概には言えないが幾つか思いつくのをあげると、
1.仏像などを解体修理するときに発見される胎内文書。
2.経塚などの埋経遺物のように発掘されたもの。
3.例えば天井裏なんかに俵で詰めてあるのをばらしたら、出てきた。
→金沢文庫の称名寺聖教類なんかはこれだよね。
4.寺院などが相伝してきたもの。
背信行為はちょっと考えすぎなんでは。
現代では一応学術調査とはいえ、
仏像などは修理してもとにもどすんですから。
あと足りない分とかフォローよろしくお願いします。
248:247
07/04/21 22:08:08
>>246
ああ、それはそうだねぇ。
考古専攻だった旧友もそう言ってたよ、
ジレンマだって。
249:日本@名無史さん
07/04/21 22:27:16
まあ歴史学だって、うがった見方をすれば「現在の視点から過去を裁く」というおこがましい点があるしね。
でも他の分野でも「経済発展か自然保護か」「ユダヤ人の幸福かパレスチナ人の幸福か」といった白黒つけがたい命題はあるのだから、適当に折り合っていくのが和を以って貴しと為す日本人の知恵ってもんだよ。
突き詰めすぎると石田三成みたくなっちゃうぜ。
250:日本@名無史さん
07/04/21 22:39:19
>>226
「大阪」も「大坂」も旧かな表記では「おほさか」ですがw
251:日本@名無史さん
07/04/21 22:40:21
因みに「逢坂」なら「あふさか」だけどね。
252:日本@名無史さん
07/04/21 22:41:53
dat落ちしたスレ、どうやって読むんですか?
253:日本@名無史さん
07/04/21 22:44:21
「おほさか」と「あふさか」を間違へるやうな奴は、たぶん以下の2つの文の
意味の違ひは分からないだらう。
・キャウはいい天気だ。
・ケフはいい天気だ。
問題:この2つの文のカタカナを漢字に直し、それぞれ意味の通る文にしなさい。
254:婆 ◆HKZsYRUkck
07/04/21 23:00:08
>>250
あぅぅ、すまん。[oo]と[ou]なのね。
知るも知らぬも知らんかったあふさかの関。 orz
255:日本@名無史さん
07/04/22 00:05:47
昔の人ってどんな喋り方をしてたのでしょう?
和歌みたいな言葉のまま?
それについてのスレはありますか?
256:日本@名無史さん
07/04/22 01:19:18
どっかにあったかもしれないけど、現代語はどのくらい前まで通じるか?
とかいうのあった。
257:日本@名無史さん
07/04/22 02:22:26
>>254
その程度の知識しかないんだから
自分の知らないトピックにいちいち絡んで来なくていいんだよ
258:日本@名無史さん
07/04/22 02:35:54
>>255-256
言語学板には腐るほどあるが、日本語の発音の変遷について手っ取り早く知りたければ、
橋本進吉「古代国語の音韻について」を読むのが一番分かりやすい。
仮名遣いと口語発音との間にどうして差が生じていったのかが分かりやすく解説されている。
259:日本@名無史さん
07/04/22 02:36:50
>>253は、キャウ=京、ケフ=今日だね。
260:日本@名無史さん
07/04/22 02:37:38
>>254
>あぅぅ、すまん。[oo]と[ou]なのね。
俺には、この貴方のレスが何をいわんとしているのか分からない。
261:日本@名無史さん
07/04/22 02:48:33
>>255
「昔」の度合いによるが、奈良時代ならほぼ表記通りです。
やたらにパピプペポやファフィフフェフォが多くて、
我々現代人が聞くと何か間抜けで笑えます。
262:日本@名無史さん
07/04/22 03:10:42
>>261
いわゆる歴史的仮名遣い通りの発音なのは、平安中期頃。
奈良時代の場合は、さらにア行とヤ行の「エ」の区別とかが出てくるし、
上代特殊仮名遣いの問題(古代日本語が8母音言語だったこと)が出てくる。
263:261
07/04/22 03:41:11
だから表記通りって言ってんじゃん。
甲乙ちゃんと表記分けてんじゃん。
264:日本@名無史さん
07/04/22 04:05:42
>>263
そうかすれはすまなかった。平に謝るよ。
でも貴方のレスが上代特殊仮名遣いの甲乙を前提にして言っているとは、
このスレの流れからは分からなかった。
まあ俺は文脈を読むのが苦手な大馬鹿者なんで許してくれ。
265:日本@名無史さん
07/04/22 05:05:12
>>261
>やたらにパピプペポやファフィフフェフォが多くて
現在でもそういう言語空間がありますな。
例えばコミケとか…
266:日本@名無史さん
07/04/22 11:13:03
信長は足利義昭を追放した後、どんな大義名分で政権を朝廷及び幕下の諸大名に対し認めさせたのでしょうか?
たとえば細川政元が管領という幕府内の職を利用したように、幕府か朝廷の官職(右大臣とか?)を利用したのでしょうか。
なんというか、ただの田舎大名が簒奪をして非合法政権を打ち立てた、というイメージがあるのですが。
267:日本@名無史さん
07/04/22 14:18:33
>>266
朝廷を手中に収めたことだろうな。
朝廷が織田政権を公認し、信長の官途を公卿身分まで上昇させた一方、信長に
敵対する勢力への叙位・任官を停止したことは大きい。
268:日本@名無史さん
07/04/22 14:30:59
なんで山川の日本史の教科書は
他の会社のとは別格に扱われるの?
269:日本@名無しさん
07/04/22 14:42:04
>>266
ヘンなツッコミと思われるかもしれんが、簒奪するとは
不当な手段で合法政権のトップに座ることであって、
「簒奪して非合法政権を立てる」という文は明らかに
矛盾しているぞ。小説の読み過ぎだ。
270:日本@名無史さん
07/04/22 15:33:24
矛盾ではなく「カブっている」ということでしょうね。
ナンバー番号みたいなw
簒奪して合法政権を立てる・・・なら矛盾です。
271:日本@名無史さん
07/04/22 16:06:22
西暦620年に成立した天皇記より
古い書物は歴史書でなくてもいいから日本には存在しないのでしょうか?
272:日本@名無史さん
07/04/22 16:38:47
1547年武田軍が上杉憲政靡下の軍と戦った場所に関連して「笛吹峠」という知名が
出てくるのですが、これは今のどこか分かりませんか。
井上靖の風林火山では、板垣信方の出陣に際して、山本勘助が笛吹峠を越えるよう
と念押ししているんで、諏訪から中山道沿いに地図を見たのですが、見つかりませ
ん。創作かと思ったんですが、ぐぐると小田井の戦い関連で地名は出て来る。
273:日本@名無史さん
07/04/22 17:24:13
新田義貞の鎌倉侵攻ルートにも笛吹峠というのがあったな。
274:272
07/04/22 17:41:56
>>273
それは埼玉県の槻川(嵐山町辺)の峠でしょう。
岩手遠野にもある。山口県にもあるという。
碓氷峠を駆け上って(西進して)来る敵を討つのに、埼玉はないでしょうね。
275:日本@名無史さん
07/04/22 17:45:27
>>258
質問した方とは別人ですが、ぐぐった所 電子文庫されて公開されているし
興味深い話なので読んでみます。ありがとう!
276:日本@名無しさん
07/04/22 18:48:21
小田井城
URLリンク(www7a.biglobe.ne.jp)
このアサヒ紙工長野工場のすぐ裏だそうだ
URLリンク(www.geocoding.jp)
埼玉県笛吹峠はここ
URLリンク(www.geocoding.jp)
北佐久の志賀城を包囲攻撃
URLリンク(www.c-road.jp)
埼玉県のは関係ないんじゃない?
277:日本@名無史さん
07/04/22 18:59:17
日本の初代首都は何年のどこですか?
278:日本@名無史さん
07/04/22 21:46:12
紀元前660年の橿原。
279:274=272
07/04/22 22:38:45
>>276
アサヒ紙工長野工場の裏に「笛吹峠」があるってことですね。
感謝。
志賀城と碓氷峠の間に割り込めってことだったのですねえ。
280:日本@名無史さん
07/04/23 00:17:23
この板の人ってIMEと辞書ってどういう組み合わせで使ってるの?
ATOK+山川の歴史用語変換辞書が主流なのかな?
281:日本@名無史さん
07/04/23 00:51:45
後醍醐天皇が居なくて、北条高時が利口だったら鎌倉幕府はもう少し長く続いたでしょうか?
それとも、時代の流れで、やはりすぐに滅亡してしまったでしょうか。
282:日本@名無史さん
07/04/23 03:31:47
>>277
BC667から一百七十九萬二千四百七十餘歳前の高千穂
283:日本@名無史さん
07/04/23 17:46:05
日本の賭博の歴史について知りたいのですが、
おすすめの本とか教えてくれませんか?
284:日本@名無史さん
07/04/24 09:38:19
>>281
北条高時が優れた政治家の「資質」を持っていたとしても、あの状況(得宗被官による体制)に対してなす術はなかったと思われます。
また、実をいうと、劣っていた政治家ということも確定できません。
勝者によって評価された結果ですから。
そして、同様に後醍醐天皇は優れた天皇とも言えないですが、「天皇」だから倒すための存在になれたと思います。
ちょっと面倒な考え方になります。
鎌倉時代末期という時点では、「幕府(後の呼称ではあるが、征夷大将軍を頂点とするそのような武家政権)」というものは滅亡したことがなかったのです。
これは、天皇が現在でも滅びていないというのとも関わってきますが、日本人は、中国のような「易姓革命」や西洋のような「市民革命」によって政権を打倒するという発想がありません。
それは「正統性」というものを転換するという発想がないからだと考えられます。ですから日本では天皇を打倒してまったく違う政権を作ろうという発想は原則的に生まれません。
幕府も基本的には「滅ぼす対象」として考えられることはなかったでしょう。ですから、将軍が機能しなければ執権が、それも機能しなくなれば得宗被官が、という具合に、組織上層を形骸化してなんとか実質的に運用してきた訳です。
そういった運営が限界点に来たときでも、「上を倒す」発想がない日本人には、原則「なす術がない」のです。
しかし、ここで「天皇」という、幕府を超える権威のある人間が現れ、「倒せ」と言ったらどうでしょうか。
そこで初めて多くの人々の「倒す」というコンセンサスが形成されると考えられます。
ちなみに。蛇足ですが。
江戸幕府を倒すという契機も「尊皇(尊王)」が関わっています。この発想がなければ、どんなに行き詰っても、江戸幕府は倒れなかったでしょう。
ですから、室町幕府がどんなに無力になってもなかなか滅亡しなかったのです。天皇も無力、幕府も無力。いつまで経っても同じ状況で、日本は戦国という四分五裂状態になってしまいました。
ここに織田信長の苦心があったと思います。実力で倒したとしても、「正統性」を認めてもらえないのです。
何とかして正統性を確保しなければなりません。
かくして、・・・信長は「神」と称せざるを得なくなったと考えられます。
285:日本@名無しさん
07/04/24 12:56:59
>>284
つまり、彼らより上の権威…すなわち後醍醐天皇がいなかったら、そして後醍醐天皇が
幕府打倒を唱えなければ、あのとき鎌倉幕府は倒される動きすらなかったろう。
高時の有能無能にかかわらず、ということだな。
考えてみれば平家のときもそうだし、あるいは現在においても…国鉄や公社の
民営化という難事業などは、更に上の権威あるものによって行われているっけ。
こうして考えると、日本は至極真っ当な世界だなとつくづく思う。
室町幕府だけれど、元々あの北朝は幕府が支持推戴した朝。
幕末で言う公武合体の世界だったわけだから、朝廷のサイドから潰せという話など
あろうはずもなかったろうね。
286:日本@名無史さん
07/04/24 13:45:51
大和朝廷の中心地は畿内なのに出雲大社が山陰にあるのは何故ですか
天皇は神道の総領だからお膝元に作るのが当然だと思ったけど、この発想自体が思い込みなのでしょうか
287:日本@名無史さん
07/04/24 16:21:20
>>285
的を射た見方だね。
人がものを言うとき「天地神明に誓って」とか、生活共同体の同意を神前で行う
とか、いくさの旗揚げをお宮で行うとか、なんか人を超える(と皆が思う)もの
を引き合いに出したがる、民族性なのかな。
もしそうなら、これはどこから来たんだろう。
288:日本@名無しさん
07/04/24 18:04:36
>>287
そういうことは、人類普遍の感性。
「神の御心の」とか「天命」とか、色々言い方はあるけれどね。
ただ、それを人に求められたか、あるいは、求められなくなったかが分かれ道になるんじゃないかな。
つまり人間の理性あるいは強い理性を人間に求めれらるか、求められないかだ。
だから権威ある人に触れない。しかし権力も持っていれば厄介なことにもなるので
換骨奪胎し権力を奪っておくと。
これは「近代」以前、つまり市民革命以前の「近世」の考え方だな。
一応信長の時代から明治維新までが「近代」ということになっているけれど、
こういう話をするたびに、日本は「近世」の感覚が未だに生きているんじゃないかとさえ思えるよ。
289:日本@名無しさん
07/04/24 18:06:13
×一応信長の時代から明治維新までが「近代」ということになっているけれど、
〇一応信長の時代から明治維新までが「近世」ということになっているけれど、
290:日本@名無史さん
07/04/24 19:02:09
文部省検定済教科書では、信長の時代から天保改革期(1840年代)までが「近世」で、
ペリー来航後の幕末は「近代」になってるぞ。
中国史でもアヘン戦争以降が「近代」だから、ペリー来航以降が日本の近代というのが妥当だな。
291:日本@名無史さん
07/04/24 19:22:15
近世~近代の区別は政治制度がどうこうじゃなくて
単に技術的な物で分けられているって事ですか?
292:日本@名無史さん
07/04/24 20:28:25
1840~50年代が東アジアにおける近代のはじまりというのは、
列強の軍事的経済的進出により欧米中心の世界に包摂されたという点に
着目しているんだろう。
293:日本@名無史さん
07/04/24 22:41:45
>>290
天保期を近代の冒頭に置く教科書もあると聞くが。
294:日本@名無史さん
07/04/24 22:44:42
あと信長って一般的には中世の範疇だろう。
太閤検地をもって中世と近世を区切るのが一般的。
東大史料編纂所の『大日本史料』でも、第10編は中世で、第11編からが近世という扱いになっている。
295:287
07/04/24 22:49:42
>>288
近世と近代の境は、(人と人との)「契約」概念を優先させたということで
いいのかな。
296:日本@名無史さん
07/04/25 00:38:06
人と人との「契約」概念っていったら、中世の封建制を思い浮かべないか?
297:日本@名無史さん
07/04/25 00:55:27
身分から契約へ
もう、腐るほど言い古された言い回し
298:日本@名無史さん
07/04/25 01:23:36
>>293
俺が高校の時使っていた教科書はペリーの黒船来航から近代となっていたよ。
299:日本@名無史さん
07/04/25 01:25:33
>>294
一般的ではない。信長か秀吉か、はたまた戦国からか、については
議論がある。
ともかく昔みたいに家康からでないことは一致している。
300:日本@名無史さん
07/04/25 01:39:34
戦国を近世と考える研究者なんて皆無では?
「中近世移行期」という枠組みで考える人は多いが。
301:日本@名無史さん
07/04/25 01:43:48
自治体史なんかの分け方だと、畿内周辺では1882年あたりを中世と近世の境界に
する傾向が多いな。
一方、四国では1585年、九州では1587年、関東・東北では1590年で区分される
ことが多い。
これは、太閤検地によって最終的に中世的な荘園制が解体されたという考えに
基づいて、その地域が豊臣政権の支配下に入った段階で区切るから、このように
なるのだろう。
302:860
07/04/25 01:50:19
応仁の乱以前を学ぶ必要はない
303:日本@名無史さん
07/04/25 02:15:51
おっとロングパス
304:日本@名無史さん
07/04/25 03:19:38
教科書の場合、南蛮人の来航以降を便宜的に近世として扱ってる。
305:日本@名無史さん
07/04/25 05:00:08
逆に古文書学的な立場からは17世紀は中世の延長だという人もいるよね。
306:295
07/04/25 09:04:38
>>296
いや、社会契約論とかあったと思ったんで。廻りまわって法治主義とか。
国にも、nation と state(人工国家) があって、アメリカは state とか。
>>297
そうだっけ。忘れているなあ。
307:名無し募集中。。。
07/04/25 13:54:43
内藤虎次郎がいるな
308:日本@名無史さん
07/04/25 15:06:03
室町・戦国・江戸時代にポルドガル・スペイン人が遠くからはるばる、
日本に来ましたよね?
彼らはヨーロッパから日本にまで行く為の航海術や舟を作れたようですが、
当時の日本はポルトガルやスペインに行く為の舟は作れなかったのでしょうか?
309:日本@名無史さん
07/04/25 19:05:00
最近の山川の教科書には、秀吉を「尾張の地侍の出身」と書いてあったが、
これはちょっと勇み足じゃないのかな。
いままでどおり、農民と言ってた方が穏当だと思うが。
310:日本@名無史さん
07/04/25 22:50:06
>308
その種の船を建造することは幕府によって禁じられていた
311:日本@名無史さん
07/04/25 23:01:49
>>308
スペイン人の指導の下ではあるが、支倉常長が欧州へ行った船は仙台で造った
んじゃないか。
312:日本@名無史さん
07/04/25 23:46:01
戸籍=国籍と考えてもよいのでしょうか?
313:日本@名無史さん
07/04/25 23:52:44
ちょっと蒸し返すようで悪いけど、>>284の考え方はある意味筋が通っているとは思うが、もうひとつ、重要な要素があるのでは。
それは「外国」の存在。
日本っていう国にずっと住んでいると、なかなか外国を意識する機会がなかった。
だからまとまっていても、実質バラバラでも、実はそんなに気にしていないのでは。
つまり「国家」というものを余り意識しない民族なのかもしれないんだ。だから「体制」、特にまとまっているかどうかを余りテーマにしない。
鎌倉幕府、室町幕府から天下統一、江戸幕府・・・と見ていると、その存亡に関わっているのは、いずれも「外国」。
蒙古(元)、南蛮人の渡来、そしてペリーに代表される外国船の来航。
そこで、我々の民族は「日本」という国を改めて意識し、問題意識を持つきっかけになったのではと思えるのだが。
外国の干渉を受けないと、日本は常に変わろうとはしないのだと思える。
戦後日本も同じ。また、現在もまた然りではないだろうか。
314:日本@名無史さん
07/04/26 00:26:45
284の考え方は(最後の神云云さえなければ)面白いと思う
一方、313は失礼ながら通俗的なビジネス書にありがちな論だね
鎌倉武士にとって幕府は服従すべき行政府ではなく、信頼すべき司法府であり
司法機関としての信用価値が低下したから滅んだ。というのは最早古典的解釈なのだろうかorz
315:日本@名無史さん
07/04/26 01:10:09
元寇の恩賞が不十分だった時よく言われたとされているのが
「何の為の鎌倉殿ぞ」
だそうだ。
そういう意味なら、>>314の考えには一理ある。
ただ、それなら何で滅ぼすんだ、という考えに戻ってしまう。
政権を倒すという中に、司法機関を滅ぼすという発想はないと思われ。
早期の頃は、有能な行政機関&司法機関だったが、服従すべき専制機関になってしまったから滅ぼそうとしたのではないか。
流れで考える者が現れると「通俗的」と決めつけるのは、如何に現代の史学の傾向が微視的になってしまったかの証左だろう。
316:日本@名無史さん
07/04/26 07:07:43
>>309
実父が名字つきで足軽として戦場に出る村長レベルだったという話はよく聞くが、
木下姓はねねの実家の名字だったともいうし、どうなんだろう?
317:日本@名無史さん
07/04/26 08:00:11
>>316
出自については、そう言っているとかそういうことになっているとかはあるが、
本当のところはよく分からない例は一杯ある。
徳川も織田も突き詰めれば分からないんじゃないか。
近代になって、力(腕っ節というだけでなく)がある人が活躍するようになった
んだから、がんぱった人はそれぞれに立派ってことでいいと(オレは)思う。
しかしこの前の選挙を見て思うには、人の上に立つ人は人々の、いいお手本に
なって欲しいと思うが、そういう要素が希薄な感じがして残念。
先々どうなるかは分からないが、東国原知事はひとつのモデルを提示しているね。
スレ脱線ゴメン。
318:日本@名無しさん
07/04/26 08:25:40
>>309 >>316
確かに下士と農民は差のなかった時代だから百姓といってもいいのかもしれないが、
あれはどちらかといえば平民ウケするための脚色であり、マルクス主義史観の時代、
さらに強固にされてしまった認識なだけのように思えてならないよ。まさに「穏当」な言い方。
いろいろな脚色もあるようだけれど、ティーンのころ信長に仕え、既に清正や正則を
部下に従え、注目され、スルスルと清洲城の奉行に出世しているのは事実なのだから、
全くハシにも棒にもかからない貧民のわけはない。いくら実力社会でも、初めの初めは
相応の身分でなければ領主信長の近侍にはなれないし、上司の注目を浴びることも
できないよ。
実父も継父も、小名主、小庄屋くらいの、一つの荘に発言力のある身分であったろう
と考えるのが妥当かと。何の記録も残らなかったのは、秀吉兄弟以外の後継者はなく、
秀吉自身がかなぐり捨てた家門だったからに過ぎないのでは。
319:日本@名無史さん
07/04/26 19:01:25
足軽というと、江戸時代の下級武士のイメージが強いんだが、
戦国時代なら村長レベルの上層農民じゃないとなれなかったの?
ホントの貧農では足軽にもなれなかったのか。
320:日本@名無史さん
07/04/26 23:48:06
だれでも取り入れば足軽程度はなれる
321:日本@名無史さん
07/04/26 23:56:03
有る程度の教養があって眉目秀麗なら小姓になれたのかな?
322:日本@名無史さん
07/04/26 23:56:59
>>319
雑兵と足軽。
今でいえば臨時雇いと非正規雇用の違いくらいしかない。
組織統制として上下関係があるという訳ではなく、兼業か専業か。
323:日本@名無史さん
07/04/27 01:05:00
>>308
wikipediaですが帆の項目で朱印船には縦帆があったとか。
中国のジャンク船もあれ縦帆(三角帆?)なんですね。
324:日本@名無史さん
07/04/27 07:21:47
治安維持法は私有財産制を否定することを禁止しているけど、って事は国家社会主義
みたいなのもダメなの?
325:日本@名無史さん
07/04/27 07:39:52
ナチスドイツだって私有財産制度は否定してないだろ。
326:日本@名無史さん
07/04/27 08:37:10
北一輝の著書には余剰生産高は全部国に献納すべしってあったような…
327:日本@名無史さん
07/04/27 09:07:03
>>324
上に上がっている北一輝のような右翼系の過激思想も当然
取り締まり対象です。
226事件のとき、警察が反乱首謀者や北など右翼系大物たちの
電話を盗聴していたのは有名な話ですね。
北は「社会主義者」として特高のブラックリストに載ってました。
328:日本@名無史さん
07/04/27 09:34:49
>>308
航海術の問題があったと思います。
スペインやポルトガルがある時期から日本近海にまで来れるようになったのはそれが水準に達したから。
船の問題ももちろんあるのですが、それだけでは来れないし、また逆も不可。
329:日本@名無史さん
07/04/27 14:00:10
何かと悪名高いが実は正義のヒーローだったのでは?>特高
ソ連みたいな体制の日本なんか嫌だ。
330:日本@名無史さん
07/04/28 05:11:08
右翼の場合は、軍や政財界に強力なコネのある活動家が多かったから、
左翼に対する弾圧と比べると、特高も及び腰だったという事実はありますが。
331:日本@名無史さん
07/04/28 05:39:29
特高が取り締まりすぎて共産党が弱体化。それによる存在価値(予算が減る)が低下することを恐れて今度は
右翼に取り締まり対象が移ったとも。
332:日本@名無史さん
07/04/28 05:48:36
確かに東條時代は中野正剛とか弾圧されてるからな。
333:日本@名無史さん
07/04/28 07:25:47
加賀国内に加賀藩領だけでなく、幕領があった理由がわからない。
同様に筑前国内に幕領や対馬・中津領があったのも。
334:日本@名無史さん
07/04/28 08:31:15
国内に他領があったら国主でも国持ちでもないじゃん。
335:日本@名無史さん
07/04/28 09:22:33
その理屈ならモナコ公国があるフランスは統一国家じゃないし
バチカンがあるイタリアも統一国家じゃないな。あと、ジブラルタルのスペインもか。
336:日本@名無史さん
07/04/28 11:21:27
今は教えられてないらしい「任那日本府」って、存在しなかったのが証明とかされたの?
結構戦前日本を糾弾して憲法九条を礼賛するような学者の書いた本でも、当たり前のように
書かれてたんだけど。
日本の学者が認めたって事だろ?
神の手レベルの捏造とかあったのかな。
337:日本@名無史さん
07/04/28 12:53:43
>>333
対馬の宗氏が、筑前(九州本土)に領地を持っているのは、
戦国時代に大内氏に追われた少弐氏を支援して勝った際に、恩賞で貰った土地の支配をずっと続けてたからじゃないかな。
(宗氏と少弐氏はその後仲違いして、結局は筑前は大内氏が奪還する)
対馬では米が足りないので九州の飛び地は宗氏にとってかなり重要だったと言われている。