08/04/17 02:20:19
>>601
さすがに、中国人やチョン並の捏造力だな。
一)親分(慶喜)が降伏したとしても、傘下のテロリスト(新選組は体制側の無法テロ集団)一味は、
討つ必要があるだろう。また、新政府への恭順と藩主の出頭を求められたのに、
徳川の家名存続を見届けてからとか言って従っていない。
まあ、家老の西郷などが反対していたのに、京都守護職を引き受けた時点で、
尊王攘夷派の恨みを受けるのはあらかじめ分かっていたこと。今更、泣き言を言うとは、さすがに会津人。
二)実際の官命では会津軍、新政府軍双方の戦死者に対する一切の処置を禁止する内容となっており
(戦死者からの金品剥ぎ取りを防ぐため)、会津側の戦死者のみを埋葬禁止にしたものではない。
戦後の会津統治をゆだねられ、遺体埋葬にも当たった会津民政局には薩長の人間は入ってなく、
彼らが遺体の埋葬に消極的だったのは会津庶民の長年に渡る藩政への遺恨のためで、
会津軍による周辺の街の焼き払い、領内における身分差別等があった。
三)猪苗代か斗南(下北)かどちらかを提示されて、自身の判断で北の下北に行った。
重臣一同の協議で決めたわけだが、斗南にこだわったのは山川大蔵。
その理由は会津藩士は領民に恨まれ、農民一揆が恐かったのと、
京都守護職時代に莫大な借金を作り、その上に会津戦争の戦費調達のため60万両以上の贋金を流通させ、
猪苗代では借金取りに悩まされる恐れがあった。