【シルクロード】日本人と謎の秦氏?2【ダビデ】 at HISTORY
【シルクロード】日本人と謎の秦氏?2【ダビデ】 - 暇つぶし2ch300:日本@名無史さん
07/02/08 20:25:43
高麗神社は関東に移住させられた理由はなんでやろ

301:桃太郎
07/02/09 06:09:27
月光仮面は、相変わらず凄まじいな
ひさしぶりに読んだら、目がくらくらして、酔った。

誰かまとめサイトを!
酔い止めを

302:日本@名無史さん
07/02/09 08:44:10
新羅系の羽田氏がいちばんつよい時代が最初みたいですね、その後に
百済系がはいってきて日本の在来の氏族と共同で開発していったかも

303:月光仮面
07/02/09 10:04:59
【夏王朝】歴史の証明【伝説】
スレリンク(whis板)menu311
古代、中国西方には羌と呼ばれる民族があり、こうした文化をリレーしていたが、その
子孫が歴史時代に秦の子孫を名乗るものになったのが多いようだ。ハタ氏のなかにも
こうしたものの子孫はいるんじゃなかろうか。


304:日本@名無史さん
07/02/09 10:24:31
羽田は権威ずけのために名乗っただけで、本名はちがうかも

305:日本@名無史さん
07/02/09 10:27:42
そんなこというのはてんさいてきなばかかも

306:月光仮面
07/02/09 10:29:36
ハタ氏の場合、秦というよりも、タケシ(チクシ・ツクシとか言う意味ではなかろうか)ウチ
王朝時代の渡来人の一つであり、その語源は機織りなどのハタにあるようだ。ところが
ハタとは聖なる呪具、タラシ、等と関係し、単に繊維・縫製技術者ではなく、神主・伎楽・
芸術・防衛等の分野でも活躍したようである。ところで、伊勢神宮のヘロデ、ダビデ紋、
大避神社のヨセフの井戸、洗礼のプール、記紀に残る多くの聖書からの引用は秦氏が
ユダヤ人ではないかと思わせる。ユダヤ人はYAP+E、縄文人がYAP+Dとされる。チベット
雲南にもYAP+Dが多い。ところが顔を見比べたら直ぐにわかることだがユダヤ人は
白人、つーか、白人とアラブの中間程度。秦氏とか、雲南・チベットはどう見てもモンゴ
ロイドで関係はないと見るのが当然だ。

307:月光仮面
07/02/09 10:43:21
ユダヤ文化がらみの問題は秦氏にあるのではなく、秦氏が仕えた功満王、融通王
といった王族にあるのだ。ロシア・アルタイ・トゥーヴァ共和国をヒュペルボレオイ
(極北人)の聖地とし、ギリシャのアポロを一年教育したクマンジン(白鳥)族は
タケシウチ王朝の立役者であり、ヒクソスの王であった。アポロン、エジプトには
旧太陽数は合い宗教を打破し、政権を獲得することを教える、エジプト、ギリシャ、
殷には青銅二輪戦車・馬をもたらす。スサノオとはこうした勢力の中心であり、
馬韓・百済に前線基地を置いていたようである。日本においてもホアカアリ、アカルヒメ
等の旧勢力の上にアマテラスという唯一太陽神で国家統一を図ったのだ。

308:月光仮面
07/02/09 10:59:08
エジプトと羊飼い、これにはユダヤだけでなくウラル地方のもいたらしいが
相当羊飼いはイジメを受け、釣り馬鹿の西田は社長に釣りで取り入るように
ユダヤのヨセフは夢占いで取り入り、ウラルのアミンベクはギャンブルで勝つ。
ヨセフのお棺 URLリンク(www.freemaninstitute.com)
こうした釣り馬鹿話が旧約聖書にはいっているようだ。羊飼いはは「アメ」、「アミ」
等と呼ばれインドにおける不可触選民のようなものだったらしいが、大王であった
ヒクソスはウラルに引退した後も、周辺の羊飼いをこう呼んでいたのであろう。そうして
そうしたノマドを糾合し中国北辺経由朝鮮半島南端に達したものと考えられるのだ。

309:月光仮面
07/02/09 11:06:35
>>307 ちょっと乱れてるようだ。
古い太陽教を打破する、唯一神の太陽教、アマテラスとか、アテンの神とかを導入し、
政権を掌握する。・・・日本ではアマテラスに足元を見られ出雲に追放されてみたり、
アマテラスもエジプト同様うまく働かなかったようである。太陽に税金を取られたのでは
当時のニートもどえらいことであったのであろう。しかし税収確保、税制改革こそ国家
存続の条件であることは永遠の真理だ。

310:月光仮面
07/02/09 11:16:06
>>307
アルタイ・ヒュペルボレオイ(極北人)はアポロにオロチを退治し、自分で新神殿
を開けと教育している。スサノオなんかは出雲と大和で二回もオロチ退治を行っている。
ギリシャに水田があるわけはないが乾燥地のことなので日本同様水脈確保は
利権確保につながったのだろう。

311:月光仮面
07/02/09 11:33:14
URLリンク(www.touregypt.net)
これはエジプトの太陽崇拝遺跡、注目すべき点としては全体的に石段を持つ日本の
神社社殿配置に酷似していること、及び、日本の神社の祖形と思われるモンゴリア高原
ケレクスルと基本的に同じであることだ。
URLリンク(www.touregypt.net)
ヒクソスがヒュペルボレオイ(極北人)であったこと、それが馬韓経由日本に入ったことに
間違いはないと思う。又ピラミッドの起源を示唆するのがオベリスクの先端部分で
琥珀金で塗られ朝日に輝くのだという。カイラス山の朝日といってもいいのではないかな。


312:月光仮面
07/02/09 11:43:40
>>310
ヒクソスへ移行期、アルタイ・オークニェフ文化ステラ(石碑)には天に登る
二輪車の絵がある。ギリシャ留学生アポロン君の黒板代わりであったのか。
が、後の高車丁霊の高車、かぐや姫の牛車のような感じも多少あるんだが。

313:月光仮面
07/02/09 15:48:24
>>307
エジプト人が、ユダヤ人を憎み、いじめ、劣等民族の烙印を押した。これはユダヤ人の
選民思想が原因であったのかもしれない。いずれにせよ、時のヒクソス王にとっては、
「アメは愛い奴じゃ、頭が切れるのう。エジプト人は河馬か、馬鹿じゃのー。」なんて
言っていたんだろう。このヒクソス王がウラル・アルタイに帰国して周辺の東洋の羊飼い、
羌に対しても同様の態度で接し、自分を王とする集団を形成したのだろうが、満州に
入った頃は羌よりも、鹿飼いツングースの夫与等を引き込んだこともありえよう。高句麗
では諸加といって家畜別にサブグループとか、管理職を決めている。日本の加賀、甲賀、
伊賀などというのも鹿加、狗加、猪加であったのかもしれない。


314:日本@名無史さん
07/02/09 16:17:23
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
URLリンク(www.hibari.ed.jp)

315:月光仮面
07/02/09 18:25:09
殷の湯王は太陽神の末裔ということなのでアルタイ語を話す白人であったのかも
知れないが、生贄に羌を殺すのが殷の習性なので、上記のユダヤ人への態度とは
少々違ったかも。卑弥呼政権は魏に生口を送っているが、羌はなかなか美男美女
だそうなので、卑弥呼の銅鏡見返り輸出の生口も相当のイケメンであったのかも
しれない。殷の崩壊にはこうした生贄役の羌族の不満もあったことだろう。

316:日本@名無史さん
07/02/09 18:37:55
クジラ尺の名前は渡来人が来た時に四天王寺を造ったかもしれない金剛組の
こましゃくと同じで、

317:月光仮面
07/02/10 12:15:18
ロシアの学者は殷をカラスク並行と考えている。
カラコルスカヤ (多色絵画・鳥・太陽人/動物像)BC2100-1900
オークニェフスカヤ (人面動物石柱・石板墓・円形石囲い) BC1900-1500
アンドローノフスカヤ(幾何学模様土器)BC1500-1100
カラスク(箱式石棺墓)BC1100-800
私は、夏と殷初頭にアンドローノフスカヤ文化が到達、戦闘二輪馬車、小麦
青銅器、彩陶などの文化が伝えられ、その後にエジプト・コーカサスの箱舟信仰の
影響を受けた箱式石棺墓が殷に伝えられ、殷はこの頃に崩壊し、箱式石棺墓
はモンゴリア、満州、半島経由九州沿岸に到達するのではないかと見ている。
アンドローノフスカヤと類似のスルーブナヤはスキタイ・キンメリアになってバルカン
半島をアドリア海・エーゲ海・トロイ方面、もう一派はアナウ近辺から近東経由パレス
チナ、エジプトに、もう一つはヴェーディック・アーリア族としてインダス峡谷に、
もう一つは河西回路を二里頭へと進むのであろう。そうして初期青銅器原料をウラル、
アルタイに依存したことで殷の王族にアルタイ系乃至は印欧系が入ったことが考えら
れるが、銅緑山等長江下流の鉱山開発と自国の窯業の発展と共に輸入依存はなくなり、
殷の体制は崩壊するのではないか。

318:月光仮面
07/02/10 12:22:44
>>311
日本では次第に見られなくなってゆくが、福井県南部にあるこの日野宮神社
URLリンク(www.mitene.or.jp)
この石垣が四角であることに上記のエジプト神殿との共通点を見出す。
日本ではこうした遺跡の保全は一切民間の浄財で行われるが、限りなく重要な
世界遺産だと思う。

319:月光仮面
07/02/10 12:30:14
日本史が世界史の一部であり、日本の国民も、朝廷も一丸となって全ての世界で
失われたこの歴史を保存したことを世界に発信し、世界の人がそうした日本を理解
してくれることこそ、私の望むところなのだ。そしてこれが子々孫々に伝えられたとす
れば、これまで歴史を残してくれた日本の先人も必ず喜んでくれることであろう。

320:月光仮面
07/02/11 08:04:59
【シルクロード】日本人と謎の秦氏?2【ダビデ】 ・・・繰り返すが、このスレタイは世界
史観を根底から覆す衝撃の事実を簡潔に述べたのだ。ヒクソスはユダヤ、クルド・・・
バシコルトスタン、トゥーバ、商(殷)、纒向(邪馬台国)に通じる。色即是空でいうなら
色とはヒクソス王国、殷、邪馬台国といった結晶化した状態のこと、空とはさまえよる
ユダヤ人、ジプシー、犬戎、西戎、北狄、倭人のような流動化した、分離電子の状態
ではあるがその本質は一つ、商、それは三輪そうめん、金屋子神、神農、スクナヒコナ
という商なのである。それはベニスの商人であり、結晶してはクシャン王朝を築き、
中間状態としてはハザール王国を現出した。

321:月光仮面
07/02/11 08:24:14
史観の顛倒はコペルニクスの天動説さながらに、ピラミッド、聖書、コーランの世界の
呪縛を打ち破る。そして宗教がいかに史実をバイアスしたかを知らされる。全ては
砂に化した中央ユーラシアにあり、その無から欧州、中近東、インド、中国の文明が
生まれた。そしてそれはいまこの日本で復元される。
「殷の戦争は呪力と呪力の戦いだった。戦いには「媚」と呼ばれる巫女を伴った。巫女た
ちは軍鼓を打ち鳴らし敵に向かって呪詛を唱え攻撃した。甲骨文字には鬼方と呼ばれ
る強大な異民族を攻撃したときの様子が記されており、動員兵力数万人のうち投入さ
れた「媚」は3千人に達した書かれている。敵の「媚」を捕らえることは最大級の功績で
「蔑暦」と呼ばれたと記されている。「媚」は呪力を封じるために真っ先に殺された。また
異民族の地を進軍するときは道を整備し、土地かけられた呪詛や悪霊を祓うために異
民族の生首をかかげた。祓除を終えたところを「道」と呼んだ。甲骨文字は祭祀の過程
において発生したもので天意を記すために作られたものである。ごく一部の限られた
階層のものだけが読める神聖文字で一般の生活とは無関係だった。 「媚」に含まれる
眉の文字は顔料で眼の回りをくまどりし呪術的な化粧を施した象形であり、後世に転じ
て「媚びる」となった。「蔑暦」の「蔑」は「媚」を戈(ほこ)にかけて殺す形で「蔑む」などの
語源となった。 「道」に首の文字が含まれているのは祓うために首をかかげたことに
よる。」 URLリンク(lonelynight.blog66.fc2.com)
多数の女官を擁する卑弥呼、名草の姫を八つ裂きにし、数々の女性シャーマンを
誅殺する神武は商の価値観(パラダイム)を持つ聖王であり、神武は簡狄に頼るが
ごとく鴨、ヤタガラスにたよる。簡狄の地には蚩尤があるが、兵主神として箸墓を
守る。後の世の毘沙門天もアルタイ、新疆ウイグルの神であろう。

322:日本@名無史さん
07/02/11 08:31:01
クジラ尺というのはなんでクジラというかみなさん知ってますわね、
ヒントは焼き肉です

323:月光仮面
07/02/11 08:35:42
記紀には新約、旧約、拝火教等のパラレルが多いというが、これは実は
顛倒夢想であり、旧約、新約、拝火教こそ、記紀の原典というべき思想から
派生したものというのが正鵠を得ている。アメノヒボコがアメンベクであり、
その分身が旧約創世記のヨセフである。アミンベクが黄金を得る井戸こそ
大避神社のいどである。つまり、アメノヒボコの井戸であり、これが秦氏の
神なのである。

324:月光仮面
07/02/11 12:03:06
英国女王が中国大使に・・・先日差し上げた犬は元気ですか?中国大使・・・ハハー、
とても結構なお味でございました。・・・これは有名なジョークであるが、極東北部
では犬を食べる。10年ほど前に米国大学考古学チームはロシア・ウラル・サマーラ
川アーリア人遺跡のウグロ・フィン族シャーマン(もっとも危険な人種らしい)キャンプ
の脇の井戸から毛の付いた犬の骨を発掘した。これに関し米国学会では北欧オーディン
神が年末に12匹の犬を連れて吼えまわる、ローマには犬僧というのがいて犬皮の紐で
町に注連縄を張ることに関係があるのではという声があったという。ところが地元の
バシキール・クルド族は犬トーテムをもっており、どうやらエジプトに侵入したヒクソス
とか、パレスチナのユダヤ人の元になった種族のようだ。これが犬戎となり、山東半島
と遼東半島の高句麗の起源となたのではないかと考える。例の井戸の骨は生贄を
毛皮、骨ごと叩き潰し、生で共食する習慣のようだ。エジプトではシリウスが犬と関係
あり、ナイルの氾濫予想になるというがこれはヒクソスであるバシコルト族が教えたらしく、
この辺の功績が創世記のヨセフの手柄となっているのではなかろうか。話は長くなった
が、>>318 の日野宮神社にも大きな犬の伝承があり、キクリヒメ(高句麗)逃さん神社
にも近い。天孫卑弥呼とは仲が悪いが、付かず離れずする狗奴国というのはどうも
この辺ではないかと思う次第である。高句麗にはエジプト・熊野・浅草酉の市を結ぶ
ヒントがある。これだ↓
URLリンク(en.wikipedia.org)

325:月光仮面
07/02/11 12:09:18
月山神社というのが乱れてしまった。ついでだが、クングール、カンガール
というのはトルコ語で川、町という地名らしい。高句麗というのは川のほとりの
町という普通名詞に過ぎないのかもしれない。

326:月光仮面
07/02/11 13:04:57
>>320
商というのは、雄略のような尾根縦走による探鉱、穴師とか、赤城の百足のような
資源開発、そして、奥州藤原三代、徳川の甲州、佐渡のような金鉱開発のようなスパンの
活動であり、現代で言えば豪州鉄鉱山のような山を当てるとそれを資源として交易をし、
国家を運営するということであり、例えば無錫旅情のような観光地となるともはや殷は
商というフェーズに移行する、蝶が変態するようなユーラシア-北アフリカに存在した
人の群れの流れなのである。ちなみに、俵藤太は松江に上陸、近江を経て赤城、奥州
へと向かうようである。


327:月光仮面
07/02/11 14:13:25
>>324
太陽を追う龍、その前脚が馬脚を現しそうな思想、それはエジプト・ウラル・アルタイの
アポロンとも接点のある馬の思想、それは馬韓を生んだものであり、蘇我馬子を生んだ
騎馬民族思想が、別途中国に到達した龍の思想に切り替えられる心理状態を表して
いるような気がする。古代人は心憎い。

328:日本@名無史さん
07/02/11 15:48:05
相変わらず、月光仮面のものを読んでると、とても眠くなる。小出しに語っても良いが、せめてもう少しだけ、文章力を鍛えてほしい。

329:日本@名無史さん
07/02/12 03:16:06
俺も月光仮面の言ってる事がわかりにくいよ、
でも、月光仮面は嫌いじゃないけどな

330:月光仮面
07/02/12 10:14:53
シルクロードはエジプト、バルカンと極東を結ぶ最も南よりの陸路であるが、
銅資源はこれよりやや北よりにあった。10年ほど前に米国大学調査団の
行った調査にある地図 URLリンク(users.hartwick.edu)
にSamaraという川があるが、この辺からも銅が取れる。この地図の2本の破線に
囲われた部分がステップという草原地帯で、これから未だはるか東方にアルタイ
がある。ここも重要な銅の産地だ。


331:月光仮面
07/02/12 11:09:47
これはSrubnaya(木槨墳)文化拡散の地図↓
URLリンク(users.hartwick.edu)
北部の森林地帯と南部の草原(ステップ)地帯の境界線が右上に延びている。
その先にアルタイがある。アルタイに達する同時期の同様文化にアンドローノフスカヤ
文化がある。銅の産地を中心として発達する文化と馬、戦闘二輪車、後のスキタイ
文化が関係してくる。これが殷商、そして、千年の時間差で大和盆地に流入する。
最近進んでいるSintasgta-Arkaim遺跡の研究で大和盆地開発同様、宗教に基づく
地形の利用、蘇我氏の甘樫岡のようなもの、が特徴的であることが判明した。
参考までであるが、イランの考古学者はアーリア族は北方黄色人種に圧迫され
イランへの南下を開始したという。Sintasgta-Arkaim遺跡に近いバシコルスタンでは
トルコ系バシキール語とイラン系クルド語が共存している。バシキール人というのは
恐ろしい鬼のような顔をした人だそうである。

332:日本@名無史さん
07/02/12 11:16:50
>>255
アマテラスと同じ、三貴神の一人、月読神は?

333:月光仮面
07/02/12 11:21:11
スペルが難しいなー。正しくは→Sintashta-Arkaim複合遺跡というらしい。

334:月光仮面
07/02/12 12:31:16
>>332
月読神とは秦氏が半島から壱岐経由、秦王国香春に持ち込み、南九州に入り
隼人となり、それが東遷し、吉備のあたりで卑弥呼に先行する男王となり、河内、
大和、紀伊、伊勢を攻略するも諸国乱れ終には卑弥呼共立となる、この男王
神武を支えた集団ではないかと思う。その神紋は左に月、右に星でトルコ族の
先祖であろう。
URLリンク(www.hayato.com)
URLリンク(www5f.biglobe.ne.jp)
URLリンク(www.genbu.net)
URLリンク(www.genbu.net)
URLリンク(www5.ocn.ne.jp)
URLリンク(www5.ocn.ne.jp)
URLリンク(www5f.biglobe.ne.jp)
そして、月読神とは天神であり、アマテラスとは形式上はシンメトリーを成すものの、
別個の宗教を持つものであった。集団的にはアマテラスが天皇集団、月読神はそれに
従属するものであったと考える。


335:月光仮面
07/02/12 12:41:53
天皇の渡来といえば、これは横綱のようなものであって、モンゴルの朝青龍も
何とか部屋に入ってふんどし担ぎからのし上がらなければ急になれるものではない。
天皇は北陸・近畿・中国の政治的均衡、女王共立の厳しいシステムの中から、難産の
末に生まれたもので、もはや日本独自のものとしか言いようはないのではなかろうか。

336:月光仮面
07/02/12 13:25:25
「14年春2月:
弓月君が百済からやってきて、
「私は我が国の百二十県の民を率いて来たのだが
新羅に阻止され今加羅の国に留まっています」
と進上した。
そこで天皇は、葛城襲津彦を遣わしたが
3年経っても帰京せず
今度は16年8月:
平群木菟宿禰 と 的戸田宿禰 の二人を加羅に遣わし
兵を進めて新羅の国境に陣を敷いた。
これに恐れ慄いた新羅の王は速やかに罪に服した。
これだけの大集団で渡来したのだが、、
一帯この場所がどこなのか
大半は朝廷の近隣に控え多種多様な文明の利器を
伝授した事は容易に推察される。
京都の「太秦」近辺にはその伝承が多々散見されることを
念頭に入れ精査していきたい。
秦氏については次のような説が現在では一般的だが。
海外(中国や朝鮮)への格付・権威付の呼称として
「秦の末裔」を名乗った。
実際は、加羅の民であったそうだ。
この加羅は6世紀には新羅に変る」
URLリンク(www.hayato.com)
加羅みたいな小国にこんな大勢の人間がもとからいるわけはない。
百済にいたと見るのが当然。それにしたも、倭国への渡来を当然のことと
考えているようであり、これは神功時代に百済と倭国間領民往来に関する
約束が成立していたのであろうか。

337:日本@名無史さん
07/02/12 14:47:59
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
URLリンク(www.hibari.ed.jp)

338:月光仮面
07/02/12 15:00:10
>>335
たとえば、ギリシャの場合、アポロンがヒュペルボレオイ(極北人)から持ち帰ったのは
馬、白鳥伝説、八咫烏、二輪車、オロチ退治などであるが、日本に入ってくるのは
オロチ退治、白鳥(素鵞)、馬はスサノオ、神武は八咫烏、又、アポロの時代、地方には
なかった銅鏡などであるが、ばらばらに入ってきている。つまり、このことからも、三韓
から日本に征服王朝のようなものは来ておらず、ばらばらな集団が入ってきたことは
わかる。しかし国家として体をなすにはこれらを統合する必要があるが、日本では
3種の神器という独特のやり方を創造したのであろう。

339:月光仮面
07/02/13 10:56:07
秦氏はユダヤ人というのは極めてホールインワンに近いショットだった。しかし、もっと
すごい発想は韓国人は英国人の祖先という発想↓
URLリンク(members.at.infoseek.co.jp)
この2つとも天才と気違いは紙一重に似ているが、2CHで論議するには格好のテーマ。
これに私の提唱するミッシング・リンクは中央ユーラシア草原に埋まっているという説を
適用すると、全てが、多少の齟齬を除き、有効になってくる。大相撲黒海君の故郷に近い
ソチの支石墓群と、遼寧省、韓国、九州の支石墓が結びつく。競馬で本命を中心に
各種の二番手を想定して流す時の二番手のみをとって選ぶと確率的にとんでもない
めちゃくちゃになるが、これをタテメというらしい。これは絶対にあたらない。私の言う
のはブラックボックスの本命を想定し、それを中心に流すという論理なんだ。前置きが
長くなったが、エジプトのピラミッド建設に参加した多くの地方の住民が帰国して、
同じような概念で始めたのがドルメン、巨石文化ではないかというのが私の仮説だ。


340:月光仮面
07/02/13 11:04:14
で、殷商と遼寧ドルメンを考えて見ると西方から極東に到達したのは南回り、北回り
と、2つのルートがあり、ヒクソスの王族のような2輪車型のものが殷商に、石工・農業・
戦闘要員的なものが遼寧にという結果となったのではないかと思う。そして日本には
そうしたものが朝鮮半島でミックスして到達する。

341:月光仮面
07/02/13 11:23:25
弥生時代は稲作というが、稲作は極めて不合理、不経済な食料生産、量産システム
であり、日本のような亜寒帯気候ではそば、大麦が有利。稲作は王権、政治体制が
出来上がってからとか、広域流通とか、保存などにはある程度有効ではある。従って
渡来人が新たに生活を営んだ地方にはうどん、そば文化があるはずである。三輪そうめん
とか、稲庭うどん、麦きり等には裏の歴史があるようである。

342:月光仮面
07/02/13 11:39:15
ブリャート共和国の仏教・考古学の大御所の卓見では蒙古高原を南北に縦断する
境界があり、その西部はエウロペイド、太陽、円形指向、東部はモンゴロイド、天地、
方形指向だそうである。今言う西方からの2本の道はどうやらこの辺で分岐している。
カラスク・オルドス・殷商への道、カラスク・遼寧への道、これは東胡ではないかと
言われている。この東胡は高句麗、出雲、若狭湾・三河方面、そして日向、瀬戸内は
公孫方面からの流れで、そこに秦氏が位置づけられるのではないか。

343:日本@名無史さん
07/02/13 12:15:11
大阪の地が古代は新羅津と百済津で埋め尽くされてたけども
これは漢字が使える渡来人が付けた名前なので倭人の出るまくはなかった。

344:月光仮面
07/02/13 14:35:52
モルダビア、トリポリエ・ククテニの高床式千木付き八幡造りの神殿モデルの焼き物
について、不思議な思いがしていたが、ちょうど、アポロンがヒュペルボレオイ(極北人)
から帰国する道筋、というか、東方草原のインドイラン族がバルカン、北中欧に侵入する
道筋にあるので、神殿の起源はアルタイの森林地帯と見るのが良いのかもしれない。

345:月光仮面
07/02/13 16:32:51
アポロンはこの↓レンガ色の部分の一番右端、そこにはスサノオも、いたはずだが、
そこから、左の方に黒海北岸経由ギリシャに入った。
URLリンク(en.wikipedia.org)
アンドローノフ文化と総称されるこの文化の中心がピンク色のシンタシュタ-アルカイム
文化であり、東方のグリーンの部分がアルタイ・アファナシエヴスカヤ文化であり、後に
カラスク文化となり、オルドス地方を経由して殷商、遼寧地方を経由して日本に向かう。↓
URLリンク(en.wikipedia.org)
シンタシュタ-アルカイムがユーラシアのへそといってもいいのではなかろうか。

346:日本@名無史さん
07/02/13 19:24:27
秦氏は権威付けのためにつけた名前で本名はちがう名前だった

347:日本@名無史さん
07/02/13 20:35:57
秦河勝の顔見てみたい。太秦の広隆寺にある木像は見たことあるけどね。濃い顔だったんだろうか?

348:日本@名無史さん
07/02/13 21:16:16
秦氏所属の部民のかつ部は仕事はなにをやっていたのかな

349:月光仮面
07/02/15 07:35:40
>>346 >>347
「秦は伝説によれば殷の紂王に仕えた奸臣悪来の末裔とされる。しかしこの始祖伝説は
おそらくは秦が中国に入った後に作られたものと思われる。秦の本当の出自は後に
穆公が西戎の覇となることから考えて、西戎そのものではないかと考えられる。」
URLリンク(ja.wikipedia.org)
楯築遺跡ご神体石・・・この顔は大避神社雅楽面と似ている。
URLリンク(www11.ocn.ne.jp)
推定される盾築における秦王国の部民
参考資料「吉備における郡別部民分布表」
URLリンク(www.infonet.co.jp)
しかし、ここに勝部はなくそれが出てくるのは↓
URLリンク(www.pref.shiga.jp)
URLリンク(nttbj.itp.ne.jp)
蘇我氏滅亡による物部、特に、神武に滅ぼされたウマシマジ、ホアカリそして、物部の
布津神、三輪の繞道祭が復活している。シンタシュタ-アルカイム遺跡では住居を
意図的に焼き払い、式年遷宮のごとく元の形を再建築した遺跡が謎とされている。
そしてそこは拝火教の発祥の地でもある。勿論、ユダヤ、仏教ヴェーダなど一切の
宗教の発生地でもある。
葛飾、勝浦、葛城、葛野等は何らかの平原、川などの東部である。勝には朝日、
輝き等の意味があったのではないかと思う。勝部は拝火祭祀集団ではないかと
考える次第。

350:月光仮面
07/02/15 07:54:25
ついでに言えば、上記の春秋期の秦氏は西戎、アーリア系、であり、犬をトーテム
とする犬戎集団をその下部構造として持っていたものだと思われる。これは既述の
シンタシュタ-アルカイム文化圏のサマーラ峡谷遺跡で、良い土地はアーリア(西戎)、
悪い土地は多分タタールの祖であろう犬戎(井戸に残る犬の毛付骨)が発見されている
ことからこうしたことが考えられる。日本に狼、狛犬、巨大犬とか、地名の残るところは、
山陰から福井県、岐阜県、愛知県から関東にかけてが多い。秦氏とは異なる分布の
ようだ。狗奴国とか、関が原をはさむ合戦が多いことと関係があるのかも。

351:月光仮面
07/02/15 08:10:11
世界中に残る天狼星伝説 URLリンク(socyo.high.hokudai.ac.jp)
徳川時代のお犬様、現在も続く水天宮の腹帯、沖縄のシーサにも残る狛犬と、
犬の信仰もアヴェスタ・ヴェーダといったレベルよりも奥深い広がりがあるようだ。

352:月光仮面
07/02/15 08:22:47
秦氏は確かに渡来人ではあるが、かりにその後産のようなものが百済の故地に残って
いるにせよ、本体は日本以外にはいない、れっきとした日本人集団であり、そこから
神武が出ても決しておかしくはない。むしろ自然なんだが、西都原の伝説ではオオヤマ
ズミが鬼をだまして古墳を作らせたと言うこともあり、原住民を天皇に擁いたことも
ありえる。しかし、参考資料「吉備における郡別部民分布表」
URLリンク(www.infonet.co.jp)
こんなに部民が勢ぞろいをしている場所に天皇がいなかったわけはない。


353:月光仮面
07/02/15 14:01:30
秦氏は、多分、商の中枢部にいたものが、箕子朝鮮として朝鮮を支配、その後、
衛氏朝鮮に追われ、三韓の支配層となり、多分、倭面土国王帥升の訪漢を契機に
筑豊、周防、安芸、そして吉備に至り、そこから大和、紀伊を攻撃するのであろう。
殷の女性シャーマン制度、奴隷制度の片鱗を留めるのは神武と卑弥呼であり、この辺
間では有力であったものの、卑弥呼の没後は、近畿以東の旧出雲勢力がぶり返して
くる。しかし、神功・応神移行、近畿・九州方面が強くなる。といった東西バランス型
になるが、出雲と共に秦氏も全国に拡大して行ったのであろう。いずれにせよ、秦氏は
単なる機織りではなく日本文化の基礎を築くのに最も大きな力となったものであろう。

354:日本@名無史さん
07/02/15 17:15:52
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
URLリンク(www.hibari.ed.jp)

355:日本@名無史さん
07/02/15 18:36:49
>348 カツ丼を造っていたわけどもなく、

356:月光仮面
07/02/18 12:39:31
ちょっと、暴投してしまった↓
スレリンク(history板:330番)

357:日本@名無史さん
07/02/18 22:53:20
URLリンク(www.youtube.com)

358:月光仮面
07/02/19 12:38:12
「これほどの量の大型建物を出土した弥生集落の例はほとんどなく、当時、この遺跡が
近隣に比べて、大規模な勢力を有していたことが見て取れます。」「楼閣や方形区画を
中心として、これら7基の大型建物跡が円周上に配されているという点が指摘できるの
です。」
URLリンク(f1.aaa.livedoor.jp)
URLリンク(pit.zero-city.com)
URLリンク(www.sakai.zaq.ne.jp)
URLリンク(www.hyogo-c.ed.jp)
「客家(ハッカ、北京語 : Kejia /客家語 : Hakka)は、中国の南部に住む漢民族のエス
ニック集団である。唐から元のころに華北から移住してきた人々の子孫であると伝承
されている。福建省の山間部では、外部からの襲撃を防ぐために、「土楼」(円形のもの
は円楼、正方形など四角形のものは方楼)と呼ばれる独特の集合住宅を築いて、一族
がまとまって居住している。また、広東省や香港では「圍」と呼ばれる、城壁のような壁
の中に村を築く方法も取られていた。」
URLリンク(ja.wikipedia.org)
Sintashta-Arkaim Archeological Complex
URLリンク(www.oru.ru)
URLリンク(www.4ygeca.com)
URLリンク(www.bashedu.ru)
URLリンク(www.bashedu.ru)
これは近江に入った新羅からの渡来人天日槍(Sintashta-Arkaim Archeological
Complex地方ではイスラエルのヨセフ同様ヒクソスのアミンベクの話があるが
天日槍はこれであり、ハッカ、秦氏、ユダヤ人は機能的にヒクソス・殷の神主)であり、
秦兵馬俑を含む全てを通し一角獣、とんがり帽子、烏帽子の戦闘帽、死者、亡霊の
葬送装束が特徴的であり、ターリム盆地小河墓遺跡でも同様。ターリム盆地小河墓
遺跡の御棺は堅魚木(ハッチビーム状)・前後の棟持柱を有し、伊勢神宮の祖形である。
波多神社の角凝命もなんらかの関係があるのではなかろうか。

359:月光仮面
07/02/19 12:44:26
垂仁が天日槍に対して、出石と淡路のどちらに国を提供しましょうかとの申し出に
対し、天日槍は自分で決めるから良いとして近江に入っている。つまり、多分近江の
オキナガ等と事前に打ち合わせ済みの行動であったようである。多分天日槍軍団は
多分に工兵師団のようなもので、箸墓建設に参加したものだろう。

360:月光仮面
07/02/20 08:56:38
>>349
伊勢遺跡近辺には勝部の地名があり、勝部は拝火集団と推定。一方伊勢遺跡には
キャラバンサライ・拝火教祭祀の特徴がある。逆に、キャラバンサライが伊勢遺跡、
客家の圍、アルカイム遺跡から派生するものと考えるべきかもしれない。2世紀末頃
には、伊勢遺跡において銅鐸から鏡への転換、改鋳、卑弥呼共立があったと想定され
る。また、伊勢神宮的社の式年遷宮のスタートも考えられる。新太陽崇拝祭祀の樹立
による建国というヒクソス・商の戦略の実現が合ったのではないかとも考えられる。
また、国譲り儀式があったとすれば、オオクニヌシへのヨット、勝鬨橋、マリナー等の
天孫側のコミットメントはこの地で行われたと考えると天の安川は野洲川となる。
烏丸半島、和邇川という地名はその後の大和朝廷と和邇氏の関係の起源を語る
ようでもある。対岸の和邇川方面は丹後半島の籠神社・元伊勢から琵琶湖経由
大和に入る、魏使も通ったことであろう、要路に当たる。ヒコイマスというのが今津との
関連でなんとなく絡んでくくるのである。

361:月光仮面
07/02/20 09:57:51
死人、幽霊の三角額当て、これをやってると、小河墓ミイラのように3800年後に生き返り、
赤頭巾ちゃん、おばあちゃんのように狼に食べられても出てこられる。だからKKKは
スキタイ、兵馬俑、日本の烏帽子のようなとんがり帽子をしている。これらの全ては
シンタシュタ-アルカイム複合遺跡にその起源がある。洋画の「怒りの葡萄」、「駅馬車」
は民族がなぜ移動するかを見事に描いている。ユーラシアのうねりは確かに日本列島に
到達している。波多神社角凝命とは落語家の頭のてっぺんに毛を立てた人がいるが
あんなものかナーと思ったりする。秦氏問題は奥が深い。

362:月光仮面
07/02/20 10:16:32
人が生き返るには、血の滴る牛の生皮で覆った伊勢神宮の棟持柱2本、堅魚木付の
棺に入るのだが、これを真似たのがターリム盆地の北方にいたスサノオの先祖。
馬の首付生皮を霊屋の脇の柱に掲げた。唐津湾沿岸平原での女王葬儀に出席
したスサノオはこういうこともやらかして、八百万の神々の仕置きを受けたようだ。
ターリム盆地の方がスサノオよりはるかに正確な儀式をしている。ただ頭付の毛皮は
獅子舞、龍踊り、蛇踊り、鹿踊り等になって残っている。

363:月光仮面
07/02/20 10:23:31
>>360
卑弥呼は、こうした動乱の山城、近江、大和、摂津、吉備では生まれ得ない。
孝霊が狩をした淡路、モモソヒメの神社が残る讃岐、それらを結ぶ阿讃播の
播磨南方の黒田こそ、卑弥呼、モモソヒメの生まれたところではないかと思う。
そしてこの地名が黒田の庵というように移動しながら大和南部に移ったと考えたい。
垂仁が天日槍に淡路とか出石を提供すると言えるのは、その辺の王族出身であった
からであろう。

364:日本@名無史さん
07/02/21 07:55:13
↑疲れる…。

365:日本@名無史さん
07/02/21 09:38:56
新羅系がほとんどなので出雲にいた邪馬台国女王卑弥呼は気候が温暖な大和に移住しました。

366:日本@名無史さん
07/02/21 10:12:28
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
URLリンク(www.hibari.ed.jp)

367:月光仮面
07/02/21 12:41:17
>>363
神武記にシイネツヒコ、大和宿禰が神武艦隊航行のために明石海峡防衛線
を開くし、神功もこの敵対水域航行には非常な苦労をしていることからもわかるが、
阿讃播とは明石海峡-鳴門海峡を結ぶ近畿の防衛線であり、この地方の石積墳は
西都原他の模倣。ホケノヤマ、萩原1号、綾部出土の楽浪出土とドウハンの画文帯
同向式神獣鏡は楽浪と友好関係にあった出雲辺りから奪ったもので、阿讃播、
それから出たと見られる卑弥呼、孝霊等は土着人であり、秦氏のような渡来人では
なかったと見るべきであろう。日本の元首ナンバーワンは当時の日本人武人の出だ
ったと考えられる。

368:日本@名無史さん
07/02/21 18:01:01
>>362
えひめ県には牛の頭、胴体を模した牛鬼と言う祭りがありますよ。

369:月光仮面
07/02/21 18:06:05
>>368
阿讃の大滝山の首なし馬伝承といい、四国にもなんかありますね。

370:日本@名無史さん
07/02/21 19:38:21
出雲にいた邪馬台国女王卑弥呼は四国によってから大和にはいりました。

371:日本@名無史さん
07/02/22 01:31:15
>>367
>この地方の石積墳は西都原他の模倣。

ソースあったら教えてほすい

372:月光仮面
07/02/22 07:45:03
西都原の模倣とは言い過ぎであった。阿讃播は中小の前方後円、中円双方等を
含む石積墳が多いが、これは各地の中小在地首長が西都原、吉備等の先進文化を
模倣して始めたもので、やや遅れて東海の中小首長が前方後円墳、前方後方墳を
始めるのと似ているのではないかといいたかった。しかし、↓
URLリンク(www.geocities.co.jp)
URLリンク(www.geocities.co.jp)
阿讃播に共通する古墳文化があり、積石技術がある程度統一されていることは、例えば
捕虜とか、難民とかが吸収されて在地の首長に働かされたということも考えられる。

373:日本@名無史さん
07/02/22 20:43:16
あぁ、言いすぎだったのか
でもレスありがとん

374:月光仮面
07/02/23 08:50:33
>>367
>ホケノヤマ、萩原1号、綾部出土の楽浪出土とドウハンの画文帯
>同向式神獣鏡は楽浪と友好関係にあった出雲辺りから奪ったもので、
↑これもいいすぎだな。こういうことらしい↓
URLリンク(members3.jcom.home.ne.jp)

375:日本@名無史さん
07/02/23 09:29:09
100枚の鏡は有力氏族に5枚ずつ分けてプレゼントされましたので
京都のあや部からもでて当たり前ですよね。

376:月光仮面
07/02/23 11:18:59
画文帯同向式神獣鏡だけから何らかの特定地域は出せないでしょうね。古墳の形式
とかも加味する必要がある。しかし、孝霊、キビツヒコ、卑弥呼等の関係する時代と
すれば、倭国大乱(1)のHP↓
URLリンク(www.geocities.jp)
に描かれているよなことが背景にあるのかも。

377:日本@名無史さん
07/02/23 12:14:02
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
URLリンク(www.hibari.ed.jp)

378:月光仮面
07/02/23 12:54:33
韓国情報↓
[原文]後漢書曰 : 倭在朝鮮東南大海中′依山島(為)居′凡百余国
[翻訳文]後漢書に至るのを 倭が 朝鮮 東南 大海 中にあるのに 山と島に頼って 住居
を する. 凡そ 百余国だ.上の記録を見れば 楽浪海 中にあった 倭 人らが大挙 日本
列島で 渡って暮しているということを分かる.
URLリンク(bbs.enjoykorea.jp)
倭国乱直前には鮮卑檀石槐の射程距離にあったものが、倭人伝では日本に
来ているので、倭国乱時代に日本に入り、天孫の配下に入り、その玄界灘、播磨征圧に
協力したものとも考えられる。この民族は春秋時代にはモンゴル方面にいたと山海経に
残っており、それより先に朝鮮半島に入った燕系の箕子系統とは違うものだろう。

379:月光仮面
07/02/23 13:46:16
ただ、委奴国
URLリンク(www5.ocn.ne.jp)
も倭人国であるとすれば、金印出土地の志賀海神社に奉納された膨大な
鹿の角とナマハゲで有名な男鹿半島、ナマハゲ類似風俗の鹿児島、沖縄方面
への伝来(匈奴・フン的)なものも倭人ということになり、倭国乱時代の倭人が
海浜漁労生活者であるということでは倭人の内容が非常に広くなる。古墳前期
には裏日本の四隅突出墳丘墓と表日本の積石墓という二手に分かれる文化圏が
あるのも複雑である。倭人というのも韓人同様多民族集団ということであろうか。
スサノオは騎馬民族、鮮卑等と同様の系統で倭人らしいところがない。オオクニヌシも
アルタイ色が強い。

380:日本@名無史さん
07/02/23 16:07:14
藤原氏最高!

381:日本@名無史さん
07/02/23 21:50:22
小柄な倭人の女はは人気があるが、新羅系の大柄な女は味がわるいのできらわれる

382:日本@名無史さん
07/02/24 09:27:46
そうだよねパチンコ屋でも男よりも手の大きい大柄な女もいててあれは怖いよね

383:月光仮面
07/02/25 09:02:27
山海経の倭、楽浪海中の倭人、鮮卑檀石槐に拉致された倭人、魏志倭人伝
の倭人が同一であるとしたら、渤海湾北西から日本の沿岸部に倭人がいたこと
になる。一方委奴国が倭奴国であるとすれば、ウェーノムという日本人蔑視の
朝鮮語と同じ字となる。ところが委奴国の頃までに、既に、前漢の武帝の頃、男鹿
半島には鬼が来て、石段作りをしている。鬼についての伝承は東北から日向を初め
とする九州に広がる。鬼とウェーノムの意味は似ている。これは匈奴などのように
攻撃性、体力が強く、赤鬼、青鬼というように皮膚の色も違う異民族、ただ、天狗の
面はナマハゲ、トシドンなどのように異民族が持ち込んだお面であった可能性がある。
他方、東北、九州には河童の伝承が多い。これは高句麗神話に出てくる河伯と似た
言葉であり、先住の専業農民とは異なり、河川沿いに住み分かれざるを得なかった
後進渡来人で、これが一番最初の倭人かもしれない。委奴というのは後の匈奴と
同じタタール・トルコ系統ではなかっただろうか。そして倭人伝に出てくる倭人は
かなりの部分弥生化された縄文人を含む、弥生人であったのではなかろうか。

384:日本@名無史さん
07/02/25 09:19:34
天狗とか酒天童子とか猿田彦とか鬼とか
明らかに西洋人
伝説だとか架空の存在だとかいうのは大間違い

385:月光仮面
07/02/25 11:01:47
イケメン面ではゴジラ面に勝てない↓
蘭陵王 (らんりょうおう)URLリンク(www2.kenyon.edu)
しかし、BC1800年頃の小河墓白人老女ミイラの辟邪仮面も鼻は尖り、歯をむいている。
東北の鹿島様というのは陽根を水平にできるだけ長く突出させたわら人形で、賽神。

386:月光仮面
07/02/25 11:06:01
蘭陵王↓
URLリンク(www.kyoto-ap.ne.jp)
上のは間違って維摩経が出てしまった。

387:月光仮面
07/02/25 11:48:04
参照→謎多き存在、物部氏について語るスレ
スレリンク(history板)menu337
出羽一ノ宮大物忌神社大御幣祭<陵王(りょうおう)>
URLリンク(senshohamada.hp.infoseek.co.jp)
これと、南北朝斉国蘭陵王を比較する時、この遊佐の地には、殷の青銅刀子
があることを考慮すると、どうも殷を逃れ燕経由朝鮮に入る箕子の方が古形
を保っていた、つまり、垢抜けした本国の伎楽面より、出羽一ノ宮大物忌神社
の方が古く、上記でも述べた鹿島様などとなり、東北一体に拡散したのでは
ないかと考えるのである。



388:月光仮面
07/02/25 11:54:18
勿論、エジプト・殷を建設、世界の宗教を編み出した秦族が、その本拠地の大避神社
の門外不出の伎楽面を出羽に持ち出すという筋もあるが、現在の大避神社の伎楽面
の取り扱い方が昔からのものであるならば、それはありそうになく、出羽のものは極めて
古い西周初期のものであり、こうした文化が伝わるということは民族移動もあったと考え
ざるを得ない。

389:月光仮面
07/02/25 12:27:31
>>387
山海経の地理誌では、蓋國在鉅燕南倭北 倭屬燕(蓋國は沿海州、咸鏡北道にまた
がって地名が残るので吉林省・沿海州、すると鉅燕というのは黒龍江省、アムール、
チタ、イルクーツク州、蒙古、アルタイであり、倭は内蒙古となる) 朝鮮在列陽東 
海北山南 列陽屬燕(朝鮮は遼の東方、海北山南、これは咸鏡北道か、燕に属す) 
列姑射在海河州中(列姑射は海河州、これすなわち、黒竜江河口浅瀬の彼方、
つまり、樺太) 射姑國在海中 屬列姑射 西南 山環之 大蟹在海中(射姑國は
樺太西南、大きな蟹、すなわち、タラバ蟹の取れる北海道積丹半島、山環之とは
積丹半島に包囲される洞爺・長万部あたりか)陵魚人面 手足 魚身 在海中  
大居海中 (そしてこれはとど、オットセイ等か) 明組邑居海中 (これは津軽
あたりかな)蓬山在海中(これが鳥海山・出羽一ノ宮大物忌神社か) 大人之市在海中
 (これが壱岐・原の辻あたりか)こういうことも考えられる。
URLリンク(www001.upp.so-net.ne.jp)

390:日本@名無史さん
07/02/25 13:07:54
慶州博物館の
URLリンク(inoues.net)
真ん中にある新羅の装飾宝剣に注目。
三つ巴紋がある。
秦氏が創建した八幡神社も同じ三つ巴紋。
これと同形の宝剣がカザフスタンでも見つかってるらしい。
秦氏の弓月国があったカザフだ。


391:月光仮面
07/02/25 13:12:05
上記の燕とか、斉が歴史に登場するよりも早くから出羽には殷文化が到達し、
陵王の伎楽が伝来されていたとすれば、陵王伝説は斉のものではなく燕以前
の遡ることが考えられるし、伎楽の起源も同様である。はっきりしているのは
山海経にいう燕の北方にあった倭と出羽とは地理的に離れていることである。
もっとも、遼河→松花江→黒竜江→間宮海峡→礼文島→大島→鳥海山→壱岐
→黄河河口→洛陽といったコースがあれば話は別だが。

392:日本@名無史さん
07/02/25 13:42:53
近江の愛知川周辺地域 依智秦氏

393:月光仮面
07/02/25 15:45:02
>>390
馬韓月支国< URLリンク(ja.wikipedia.org)
この辺だね。

394:日本@名無史さん
07/02/26 09:15:59
近江に入った新羅からの渡来人の天日槍は秦氏

395:月光仮面
07/02/26 09:48:09
出石袴狭遺跡出土墨書土器に秦部、平安前期年号等があり、天日槍が秦氏ではないか
といわれているようだ。

396:月光仮面
07/02/26 16:12:52
月支の漢籍初出はBC645年管仲の管子で、月氏とは、中国北西部にあり、甘粛山中の
禺氏Yuzhiから中国に玉を供給する禺氏Yuzhi又は牛氏Niuzhiのこととされている
ようだ。商の婦好墓地からは新疆ホータンの玉が750個も出土。月氏は、BC1500年頃
から中国農耕地帯支配者と玉貿易を行っていた。
URLリンク(en.wikipedia.org)
この牛氏Niuzhiとは、秦氏の広隆寺牛祭りとか、ヒンズー教とかと関係するのかもしれ
ない。更に、ターリム盆地のミイラは玉のブレスレットをしており、銅のブローチの縫い
取り、牛頭にドーマン・セーマンのごとき卦のようなものが赤白黒で描かれていた。
他方、後漢書六夷伝韓伝では「土室を作るが、その形は冢(墳墓)のようであり、開き戸
が上にある(シンタシュタ-アルカイム同様)」、「ただ瓔珠(玉に似た石)のみを重んじ、
衣に縫いつけて飾りとし、首に掛けたり耳に垂らしたりする(小河墓同様)」、「子が生ま
れるとその頭を平らにしようとし、皆これを石で押さえつける。(バクトリア-トカラ人
同様)」、「その人々の体は皆大柄で、美しい髪を持ち、衣服は清潔である。刑律は峻厳
である。その国は倭に近く、故に入れ墨をしている者が非常に多い。初め、朝鮮王準が
衛満に破れると、その残りの部下数千人を率いて逃走して海に入り、馬韓を攻めて
これを破り、自立して韓王となった。準の子孫が滅んで絶えると、馬韓の人間がまた
自立して辰王となった。」・・・等とある。
こうしたことから、秦氏、弓月とは、こうした西方の月氏要素を含んでいたと考えられる。

397:日本@名無史さん
07/02/26 17:13:04
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
URLリンク(www.hibari.ed.jp)

398:プラム ◆TOfHBAKZgM
07/02/26 17:49:37
>>225

>名前:日本@名無史さん :2007/02/26(月) 17:17:12
あっちの225です。
従郡至倭にしても、
「基点って何?なぜ従来は今が基点で従郡至倭だと郡が基点になるの?」
ってところが説明が無い。

→どのレベルに合わせて説明したらよいか解らない  
中には『魏志倭人伝』って何?的レベルのヤシもいるだろうし、私の説明だけで
理解でき、間違いを指摘できるヤシもいる。
決してムズイ事でもなく、主観も入っていないはず。全て辞書からそれていない内容なので
そちこちで見かける想像で組み立てた理論よりは、かなりまともと自負している。


>  >>224
二つのレベルで肝心なことを書かないね。
一つ目は、普通のレスでのこと。
>>223で書いてることを>>204で最初から書いておけば、
サガミハラハラさんの誤解もなかったろうに。
文章の書き方の癖なのかな。

→あれはサガミさんに宛てたレス  彼にはあれで十分すぎるレスなの
一から十まで説明しなければ解らないほどの馬鹿ではないよ
それに、彼に至っても私からの反論だけで「ピ~ん」とくるんだよ
付き合いもかれこれ二年以上になるからね



399:月光仮面
07/02/26 17:53:43
天日槍の遺跡とされる製鉄遺跡が5世紀のものが多く、天日槍は5世紀ではないかと
いう説もあるんだが、秦氏が天日槍を先祖として5世紀に製鉄遺跡を作ったということも
ありえるのではないかと思う。天日槍の子孫のタジマモリも徐福伝説等を信じて全国に
ばら撒き、秦氏がこれの上塗りをしたということもあるのでは。記紀を曲解するのは
用心が必要と思うのだが。

400:日本@名無史さん
07/02/26 17:56:36
秦氏は天日槍をご先祖なんかにしてないじゃないだろアフォ

401:月光仮面
07/02/26 18:37:46
>秦人(騎馬遊牧北方系)は、西域~中国西北部の土木・水利技術 集団?
>秦造系氏族は始皇帝15世弓月王が率いる古代最大の大規模移民団?
エジプトのピラミッド内部に神殿を入れたのも、夏・殷を建国したのも、インダス・
ガンジスにヒンズー、仏教を入れたのも秦氏ではないかと大鉈を振り上げているのに
天日槍は無関係なんていわれるとがっくり来るぜ(www


402:日本@名無史さん
07/02/26 18:58:31
天日槍と秦氏は名前が違うので別人だ、が近江がなぜか気になる

403:月光仮面
07/02/26 19:06:55
神と人、名前が違って当然だよな。近江が気になるのはよくわかる。日本最大、最後の
銅鐸生産地であり、信楽焼きでも有名な窯業の盛んな土地柄。そして、丹後の宮津と
直結している。東西南北の要の地でもある。

404:月光仮面
07/02/26 19:19:43
神様が渡来するわけがなく、実際のところは、秦氏の先祖のような存在が、豊前/吉備
あたりで既に秦王国的なものを築いていたのが飛び出したのだと思う。いくらボーダー
レス時代とはいえ玄界灘、瀬戸内海は飢えた海賊で充満していただろう。

405:プラム ◆TOfHBAKZgM
07/02/26 20:12:47
>>389の投稿者です

スレを間違えて投稿してしまい申し訳ありませんでした。

406:日本@名無史さん
07/02/27 04:33:02
>390
秦氏の弓月国があったカザフだ。

う~ん、三つ巴か
賀茂神社

出雲や伊勢のの三柱信仰とも関係がありますか?




407:日本@名無史さん
07/02/27 05:07:29
>396
秦氏、弓月とは、こうした西方の月氏要素を含んでいたと考えられる。

すばらしい

408:日本@名無史さん
07/02/27 05:17:18
4世紀のメイフラワー号と天皇誕生ファンタジー
***********************************
吉備と大和の連合による「天皇の誕生・大和朝廷時代の幕開け」とは、
こんな感じでは?

●熊襲討伐遠征の途上、三輪の仲哀王がなくなり、河内のホムタワケ
(後の応神天皇)は急遽、吉備王と葛城王に同盟の使いを出し、神功皇
后は、大和三輪に戻る軍団を吉備で応神天皇=吉備王同盟の保護下にい
れる。将軍武内宿禰の仲介で、新王朝は平和裏に「現代に続く大和朝廷
連合体制」を創設し、三輪王朝の血縁の忍熊王は宇治で破れ、近江で琵
琶湖に身を沈める。
 
 吉備王は、新王朝の始祖応神に兄媛を与え、代々有力な外戚として
瀬戸内の軍事権を大和に供与するかわりに、従来どおり加那諸国、
金官加羅(後の任那日本府)の安全保障を大和連合に保障させ、北九州
勢力と新羅、百済をけん制しる。


409:日本@名無史さん
07/02/27 05:19:24
 初代応神天皇は葛城襲津彦を遠征させ、百済から始皇帝15世を自称する
弓月王らテクノクラート系の秦氏移民団をまねき、殖産や古墳の巨大化
などの土木、漢字普及をさせる。
公共事業=前方後円墳造営を通じて、吉備と秦氏が後のテラ創設につな
がる「宗教祭司の制度化=天皇制度国家」へ向け、地方政権の豪族の
土俗祭事吸収・祭祀統合をはかっていくこととなる。

卑弥呼論争でも有名な、大和初期の首都マキムク遺跡には、
出雲=吉備が後の埴輪のプロトタイプとなる吉備式特殊器機を中心に
列島の有力墳墓の祭祀様式を、徐々に編集し制度化されていく検証が
なされている。

410:日本@名無史さん
07/02/27 05:21:53
世界史的にも異常ともいえる巨大陵墓文化のノウハウは、中国地方の
出雲=吉備古墳形式と始皇帝陵墓にみる大陸北方遊牧系説もある、土木
好きな秦氏の先端技術が合体したものかもしれない。

 ちなみに遺跡、日本書紀などを吟味すると、遅くとも380年代には吉備
(当時の呼称はハダ・秦・葉田)に入植している。神武伝説は、地元で
は吉備王朝の傭兵扱いなので、あまり人気はない。
それでも神武が8年滞在したといわれる高島宮の大和への出立の日時が、
2月11日なので、朝廷は吉備で建国を祝い、東征に旅立ったという声
(九州東征説ならぬ、吉備東征説)もある。つまり、天皇家万世一系の
始祖のことは、彼らより古い歴史と伝承をもつとみられる日向、出雲、
吉備、三輪の末裔にも、正直よくわからないのだ。

411:日本@名無史さん
07/02/27 07:22:29
URLリンク(kobunken.web.infoseek.co.jp)
日本最古の須恵器が京都・宇治で発見されたが、
秦氏が絡んでるのは間違いないのではないだろうか?
日本で焼かれた物ではなく窯は半島にあるらしい。
韓国の須恵器は4世紀後半なんで、
韓国に根付くやいなや、すぐ日本に来た文化という事になる。

412:日本@名無史さん
07/02/27 07:28:25
朝しか書けないんで連カキすまん。
大阪泉北ニュータウン近辺は昔、陶邑と呼ばれ、
日本の一大窯業地だったが、
やはり周辺に八田荘など秦氏ゆかりの居住地がある。


413:月光仮面
07/02/27 07:44:50
朝、歩いていると、缶ビールを勧めてくれる人がいたが、先立たれた。しかし、今は
朝から焼き鳥や、飲み屋を開いている店が多い。ところで、陶邑というとかの有名な
スエツミミ、また、摂津の名前も陶津ではないでしょうかね。ここにも秦がいるか。

414:月光仮面
07/02/27 08:07:54
>>409 >>410
政策、プロジェクトを立案し実行する能力というものは、弥生社会のように自然体で
出来上がった社会には生まれない。戦後の日本では、重厚長大部門からエンジニア
リング集団がスピンオフする。こうしたものがソフトハウスのようなものに発展する。
殷の箕子が滅び行く政権に見切りをつけるスピンオフすることが極めて示唆的だ。
そして、このスピンオフするものこそその昔、殷、ヒクソス等の古代王国を建設したもの
であったのではないかという感じがしますね。

415:日本@名無史さん
07/02/27 09:47:33
記紀を書いた時が百済系が新羅系を追い払った後ならば、当然自己に都合がいいようにつじつまをあわせるよね

416:日本@名無史さん
07/02/27 10:40:48
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
URLリンク(www.hibari.ed.jp)

417:月光仮面
07/02/27 11:51:58
>>404 >>414
記紀では天日矛に先立って思兼命が登場するが、常世思兼命とも呼ばれ、
「高皇産靈尊兒思兼神妹萬幡豐秋津師姫栲幡千々姫命」であるが、栲と
いうのは豊後風土記「栲の皮を取りて木綿(ユウ)を造る」とあるが通り、
豊後の名産、そして思兼命が日鏡、日矛の設計製作土地は秦王国、豊前、
更に、天照大神のイメージで造った日鏡とは、唐津前原平原遺跡出土の
国産内行花文鏡とするのが妥当。思兼命が伊勢神宮に祭られるのは、その政治、
経済、芸術、宗教、建設、建築分野における設計者、システムエンジニアとしての
才能のため。広島県との県境に近い岡山県にはこんなものがあるようだ。↓
URLリンク(www.city.ibara.okayama.jp)
URLリンク(www.city.ibara.okayama.jp)
由布院に妹がいて、豊前香春にいます思兼命こそ秦王国の出身で、これを
伊勢神宮に祭る古代日本人はことの真価を知る国民だった。と思うのである。

418:日本@名無史さん
07/02/27 12:36:41
全部先に秦氏が治めていた土地しかなかったので後からきた渡来系は
少しだけ譲ってもらい住んだ。

419:日本@名無史さん
07/02/27 13:14:17
神道の「熨斗口(のしくち)」ってメノラーなのか
URLリンク(www3.tokai.or.jp)
URLリンク(www3.tokai.or.jp)
もしくはハヌッキーヤー。

天狗の団扇とかもおそらく。
大雄山最乗寺の天狗の団扇
URLリンク(park3.wakwak.com)
URLリンク(www.diana.dti.ne.jp)

420:月光仮面
07/02/27 19:55:23
>>419
榊、クリスマスツリー、メノラー、ハヌカーに共通のものを感じます。

421:バルタン星人
07/02/27 21:17:31
四国ですらアイヌの国だったので渡来人が攻め上った時は容易に関東まで行けたし
地名も全部渡来人が付け放題でした。かろうじてアイヌの付けた地名だけがチョビットだけあります。

422:唐松山
07/02/27 21:49:18
思兼命...これを伊勢神宮に祭る
思兼命の入植地は、長野県伊那地方阿智であり。
伊勢の神が一時期 思兼の元へ非難していた関係で神宮に祭られたのではないでしょうか
思兼命の息子は、手力男で 長野辺りを本地とするが、普段伊勢か其方の方面に住んでいた。
と想われます
神武以前は、私には、解りませんが


423:日本@名無史さん
07/02/27 23:04:57
>410 続き
 吉備(ハダ)では紀元8年の前漢クーデター政権の「王蒙の貸せん」
(当時の国際通貨)も国内で唯一大量に発掘されている。2世紀以前の
最大のタテツキ遺跡(天文系)からは、大量の祭祀用の水銀(朱)痕も
見つかっている。つまり、神武や応神天皇が歴史に登場する以前から、
当地には華人らとの交易や大陸からの入植都市が存在している。なぜか
日本史はこの事実に触れたがらない。

「神の国」といってもたかだか始祖は4世紀の地方政権。当時の大陸は、
漢人すら南朝に退けられ、首都中原では、チベット、鮮卑、匈奴系の
ペルシャ・トルコ系遊牧人種のインテリがイエス伝承や仏教、儒教を
融合させたり、高度な解釈学、書道などというオタク学徒までが花開
いていた時代なのだ。

424:日本@名無史さん
07/02/27 23:07:55
大陸で、吟遊詩人が竹林に遊ぶ、すでに中世的な清風の時代。日本列島
にようやく帽子をかぶったツーピース服装の馬に乗り、文字を操る移民
団が登場する。住居にオンドル(暖房装置)を持ち、ポシェットから
鉱石探しの地図をとりだすことができたこの一群こそが、1600年前の
メイフラワー号、弓月王に率いられた秦氏なのである。

秦氏は後世、自らが建設する「千年の王都・平安京」の地、京都山城に
も移住し、後に初代大蔵卿となる秦大津父や聖徳太子の顧問として有名
な秦河勝など代々の太秦(族長)が憲法17条、12階制度を補佐実施し、
一挙に天皇近侍として朝廷領地と公権力の拡充を図る。
 
「天皇制度=律令・公地公民」普及では、抵抗する在地豪族の隷属民を
、軍事威圧ではなく、機織、須恵器、竈、文字などの先端文化のインキ
ュベーション普及による「儲け話」で解放しる姿は、なにか現在のグロ
ーバルスタンダード手法を彷彿とさせる。市場的な投資、教育の意義を
知っていた、シルクロードの殖産ビジネス集団ならではのことだろう。

425:日本@名無史さん
07/02/27 23:12:29
 軍事ではなくピースフルな商売により土俗豪族から解放された「天皇の公民」
をテラや神社に束ね、律令殖産国家経済を模索することから「日本人」という
「和の民族」が誕生したとしたら、どうだろう。
 
 ローマ化される以前の12使徒時代の思想を残す「原始ユダヤ・キリスト教
徒説」(佐伯博士他)のある古代最大の渡来氏一族は、正倉院、宮内庁雅楽に
残るペルシャ・トルコ中東繋留文化の保護者でもある。(能の始祖、世阿弥や
宮内庁の東儀家、「君が代」制作の林家は、秦河勝末裔といわれる)

 男系論で万世一系を人類的遺産として保護することに、無論反対ではない。
しかし、戦前のような曖昧で稚拙な天皇論では、「グーグル化していく世界」
に、抵抗すらできないで天皇の住む場所は消失していくだけだろう。

426:日本@名無史さん
07/02/27 23:15:54
 日本民族にあまねく流れる雄大な縄文や渡来民族の血流。
我々のシンボルである天皇とは?

謎の4世紀。メイフラワー号の彼らと応神天皇軍団のつながりこそが、
日本建国のファンタジーであり、200年後に煬帝をうならせた「日出づ
る国の天子」の秦河勝と聖徳太子コンビによる、日本独立宣言への序章
なのだ。

 戦後60年、敗戦により米中の属国といわれても仕方のない立場である
日本。民族の危機を見つめるためにも、我々自身が、今こそ先祖たちが
歩んできた遠大なユーラシアの風を思い出すべきだろう。

(とりあえず 終了)

427:日本@名無史さん
07/02/28 01:05:51
>>423-426
素晴らしい、ほぼ同感!

428:月光仮面
07/02/28 09:24:52
>>423
吉備で「王莽の貸泉」が発見されることは、楯築遺跡と妻木挽田の東方の青谷上寺地URLリンク(www.nnn.co.jp)との関係に重大なヒントを与える。
青谷上寺地では、銅鏃を受けた戦死者が埋葬されているが、銅鏃を使用しえるのは
河内方面の東奈良生産地か、九州の須玖方面とかの青銅器を支配する権力者である
可能性が強い。二世紀末の楯築墳丘墓は、日月に祭壇を設けるタタール風中円双方墳
であり、墳丘の上部にはモンゴリア匈奴文化のメンヒルが巡らされている、当時としては
前代未聞の巨大遺跡。「大量の祭祀用の水銀(朱)痕」が出土しており、URLリンク(kamnavi.jp) これに類するのは、福岡県三雲遺跡で中国産の
辰砂の原石が出土。この大量の辰砂の物語る期間、この地方にあった王権は、箸墓を
卑弥呼の墓とすれば、その前に時代にあったが倭国乱に滅びた、倭人伝では倭国
最初の男王とされるものだろう。これについては孝霊の山陰征伐、吉備津彦の吉備
征伐
URLリンク(www.geocities.jp)
が参考になる。いずれにせよ、貸泉のヒントは青谷上寺地と吉備の深いつながり、というか、同一性を物語るのではないかと考える次第。


429:月光仮面
07/02/28 10:33:47
貸泉は、漢周辺国においては後漢光武帝の頃までは流通していたと考えられるので、
伯耆、吉備の豪族は金印を授与された委奴国であるとか、その周辺で辰砂を埋納され
た三雲遺跡との関連を考えざるを得ない。しかし、日月に祭壇を設けるタタール風中円
双方墳であり、墳丘の上部にはモンゴリア匈奴文化のメンヒルが巡らされている事実
は、王権を支えたのが、鮮卑とか、曹操に討伐された烏丸敗残兵で、これが後に秦氏
に同行し、山城、近江に入るのではないかと思う。

430:日本@名無史さん
07/02/28 10:46:33
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
URLリンク(www.hibari.ed.jp)

431:月光仮面
07/02/28 11:29:21
>>423
>2世紀以前の最大のタテツキ遺跡(天文系)からは、大量の祭祀用の水銀(朱)痕も見
>つかっている。つまり、神武や応神天皇が歴史に登場する以前から、当地には華人ら
>との交易や大陸からの入植都市が存在している。なぜか日本史はこの事実に触れた
>がらない。
それは、天孫が渡来人秦氏系統とすることになり、藤原氏独裁体制の史観にも反する
からだ。限定された王権といえども九州には秦王国があった。その頂点にあったのは
三雲遺跡に代表され、仲哀に始めて八咫鏡、白銅鏡を渡したウルサン出身の伊都県主
家であり、豊の国、八井の国を支配し、「八意心」(八幡、太陽神崇拝宗教)を持つ思兼命
による倭国建国史を否定するもの。多分、歴史はこの藤原史観の通り動いたであろう。
しかし、秦王国の存在を抹消するのは姑息である。たとえその末裔が新羅であったに
せよ、事実は事実だ。アングロサクソンはブリタニア人にあらずというのでは大英帝国は
成り立たないのだ。


432:月光仮面
07/02/28 11:43:15
秦氏を下支えした熊鰐、岡県主の祖というのがあり、これが隠岐(オオクニヌシノワニ
ザメ)、近江、大和の和邇で、これは烏丸の漢字読みウアン、ウアニから来ている。
これがモンゴリア高原のメンヒルを伝えた「岩立たすスクナヒコナ(高句麗の天神と同じ)」
の民であろう。ということは倭人伝の魏使張政などは岡港から対馬海流に乗り琵琶湖を
南下して大和に入ったので、乗船港フミについては船団編成、気候待ち時間の余裕が
あったのか戸数の計算が綿密である。


433:月光仮面
07/02/28 11:59:16
平原の女王崩御後のことであろう。
時有高皇産靈之息思兼神云者。有思慮之智。乃思而白曰。宜圖造彼神之象而奉
招祷也。故即以石凝姥爲冶工。採天香山之金。以作曰矛。又全剥眞名鹿之皮。
以作天羽(鞴)。用此奉造之神。是即紀伊國所坐日前神也。
宜圖造彼神之象・・・これは後に三種の神器となる平原大型内行花文鏡を思兼命
が鋳造したのではなく、オリジナルから踏み返して、レプリカを作成、紀伊国の豪族
に与え、彼はこれを大和で行われる卑弥呼の大喪儀礼に使用し、崇神はこのレプリカを
宮殿に祭っていたということであろう。つまり王権のタブレットは伊都国に残っていたのだ。
そしてそれを手にするのが仲哀の御宇なのである。


434:バルタン星人
07/02/28 12:02:18
新羅系が早くから国土を整備開発していたが、後輩の百済系の氏族が運のいいことに派遣先の東北で金を発見して
一躍中央政権に着いて、新羅系を蹴散らしていき蹴散らし切れない秦氏も差別の対象にしたりして
百済系の者一色の社会を実現させた上で記紀を書いたのなら

435:月光仮面
07/02/28 12:51:55
>>422
思兼命は大工の神様となっており、伊勢神宮に祭られるのも、伊那地方阿智も
木工との関係もあろうかと思いますが、秩父では後の和同開珎ニつながる神社
に祀られています。ここで、阿知使主というのは呉(高句麗・楽浪)の出自のようですが
アルタイにはアチ族とか、地名がありますので、東胡経由高句麗に入った部族で、
同様にアルタイパジリク文化経由西方から入ってくるスキタイサカ族(坂上氏)と密接
に関連した東漢氏の一員でしょう。

436:日本@名無史さん
07/02/28 14:56:34
前方後円墳とは円墳と方墳それぞれを象徴とする2つの別々の
巨大勢力が1つに融合したことを示している形式なのではないか

437:月光仮面
07/02/28 15:29:04
円墳は伽耶地方、西都原等にあり、木造建築で表現すると八幡造り。拝殿、つまり、
前方後方墳にあるお供え物を祀ったり、お賽銭を上げたりする設備を特別に作るこ
とはしない形式。多分秦氏は基本的にこの方式。これに対して出雲大社のような
複雑な連結構造は、東海地方、大和などに多い前方後方墳であり、地の恵みを
天神に捧げる設備が祭壇、後方墳付いている。これは基本的に丸と四角、西と東、
太陽と天地、天孫と地祇の対立と考えられる。楯築遺跡は中円双方墳であるから
折衷案、妥協案で南北朝鮮が連合して高麗連邦を作るといった構想であったので
あろうが、それが月読命失脚ということで、アマテラス独裁となって箸墓が建設される。
しかし、更に妥協として方墳を付け、或いは、中円双方墳の一つの方墳を落とした形と
なったのが、前方後円墳の始まり。であるから、四隅突出、前方後方墳の方形にこだわ
る出雲、東海と円墳にこだわる九州の妥協の産物といえる。

438:月光仮面
07/03/01 08:05:48
楯築の天孫地祇連合構想を打破、三上山の銅鐸金神、香具土に母なる大地の
産道に火傷を負わす罪を着せ生まれながらに切り殺す呪詛と共に、銅鐸圏から
の地上から銅鐸の気配すら抹消し、鏡神社と式年遷宮する伊勢遺跡を開始し、
近畿から筑前に至る庄内式土器経済圏を樹立するということが、電撃的に行われた。
この影響は東海の廻間土器も受けており、纒向では布留式土器も始まる。こういう
動きを行った主体は垂仁のところで登場する天日矛しか考えられない。これはその
企画性からしても、又、重要なことは、その後に発足する卑弥呼政権が鏡配布という統治
構想を展開することからも、秦氏的発想が読み取れ、彼らのの遠い祖先と考えるのが
当然。

439:日本@名無史さん
07/03/01 15:19:07
>426
ユーラシアの風か、いいね
このさい、もう先祖にならい独立しよう!


>月光仮面
いいよ、いいよ~。

>天日矛しか考えられない。
長年の疑問が氷解していくよ。

440:月光仮面
07/03/01 15:30:59
電撃的革命とか、天日矛の個人プレーというのではなく、天照大神は最初、天雅彦
の命を摂津に送り込み、天孫による銅鐸圏の支配を目指すが、天雅彦が天孫を裏切る
腹であることが思兼命の謀略で露見、暗殺され、經津主神、武甕槌神が銅鐸圏東方の
関東勢と合従連衡を組み、反天孫の首魁大国主命との非常に厳しい交渉を行い、
「又汝應住天日隅宮者。今當供造。即以千尋栲繩。結爲百八十紐。其造宮之制者。
柱則高太。板則廣厚。又將田供佃。
又爲汝往來遊海之具。高橋、
浮橋、及天鳥船
亦將供造。又於天安河亦造打橋。
又供造百八十縫之白楯。又當主汝祭祀者天穗日命是也。」
つまり、出雲大社を初めとする各種インフラ整備を約束して、出雲神賀詞
URLリンク(www.remus.dti.ne.jp)
の合意に至ったようだ。わが国の建国が流血なしに激しい交渉の上に成立
したことは世界史上に類を見ない、極めて文明的な手法であったといわなくては
ならない。そして全体として息詰まるようなドラマチックな展開であったことは
記紀が雄弁に語っている。世界にこれくらい劇的で、美的な建国があろうか。


441:月光仮面
07/03/01 15:35:12
>>439
天日矛とは主として鏡鋳造、古墳建設等の特殊技術部隊であり、秦族は天孫参謀
本部として九州を離れていなかったと見るんですがね。

442:日本@名無史さん
07/03/01 17:06:00
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
URLリンク(www.hibari.ed.jp)

443:月光仮面
07/03/02 10:42:21
>>419 >>420
19世紀英国発明家ジェームス・ナスミスの「ピラミッド太陽光線起源説及び鏃型楔形
文字起源説によると、雲間をこぼれる太陽光の開いたものがピラミッド、狭いものがオベ
リスク
URLリンク(www.bibliomania.com)
私は、このピラミッド型をユーラシア森林地帯の人々が蝦夷松、樅の木の樹形に見たも
のが、西方ではクリスマスツリー、日本では神籬、賢木、榊
となり、これが呪具となり、一つには、神道の「熨斗口(のしくち)」
URLリンク(www3.tokai.or.jp)
URLリンク(www3.tokai.or.jp)
《地蔵十王経》は偽経であるが、天地を揺るがす轟音と共に、エニセイ川を下る氷塊の
山はアルタイでは現在も続いている。翁(けんえおう)という鬼形の姥と翁がいて,姥は
亡者の衣服を奪い取り,それを翁が受け取って衣領樹に掛ける。亡者の生前の罪の
軽重によって枝の垂れ方が異なるという。この話がと、ナマハゲが欧州と奥州、鹿児島
に残る。この衣領樹がクリスマスツリー、神籬、賢木となるのではないかと思う。

444:バルタン星人
07/03/02 10:50:58
騎馬民族系の渡来人が来るまでは全国がアイヌの国でアイヌ人だらけでしたが
渡来人が来てからは下僕になったり追放されて死んでしまったので毛深い人は
北と南にいてます

445:月光仮面
07/03/02 10:59:03
天狗の団扇とかもおそらく。大雄山最乗寺の天狗の団扇→葉団扇
URLリンク(park3.wakwak.com)
URLリンク(www.diana.dti.ne.jp)
獅子との闘いの劇中での使用からして、起源は西アジアであろうが、八手は太陽の
象徴、加えてその色が真紅であることにの太陽を表現するものとして留意する必要が
ある。
前のスレに帰るが、高皇産霊神、高木神が太陽神であることもこのピラミッド型をユー
ラシア森林地帯の人々が蝦夷松、樅の木の樹形に見た結果であると考える。なお、
ジェームス・ナスミスはシリアにおける樅の木、蝦夷松ノ木の松かさが王者に対する
司祭者からの受福の贈り物であり、司祭者がそれほど神聖であるという意味を表す
としている。シリアの樅の松かさについては↓参照。
URLリンク(www.zyworld.com)

446:月光仮面
07/03/02 11:34:30
メノラーなのか もしくはハヌッキーヤー。
ジェームス・ナスミスは、英国儀典教会、欧州大陸教会におけるランプ、キャンドル
重視、特に、ローマカトリック教会では聖像の前にピラミッドスタンドを設けることに固執
したとしているが、同氏はパリルーブル博物館で見た古代エジプト民俗太陽崇拝信仰
場面の壁画拓本↓を参照、
URLリンク(www.bibliomania.com)
1)エジプト風習で表現されている太陽から伸びるビーム(高良玉垂、オキナガタラシ
の帯、御幣参照)
2)眼前に手を差し出すのは太陽光をさえぎる所作(太陽畏怖の表現)(縄文遮光土器
参照)
を太陽崇拝として留意している。季節的に大要再生の冬至に近いことを考えるとなる
ほどと思う。メノラー/ハヌッキーヤーは実に上記の蝦夷松、樅の木の樹形と光明信仰
を繋ぐものである。

447:月光仮面
07/03/02 12:06:09
>>428
秦王国との関係は不明なんだが、貸泉時代に高句麗から香春(迦葉原(カソヴォル))、
URLリンク(enkan.fc2web.com)
これは八上の川原とか、飛鳥の橿原、摂津の柏原などと同じ意味であろうが、に東夫餘
族が移動、その中にはエニセイのケタ(鹿飼い)も交じり。気多大社ができる。これが
基地としたのは豊前
URLリンク(keiko65.sakura.ne.jp)
これは途中英彦山、佐渡方面で鹿とか、陽根儀式を残した後、北上男鹿半島に入った
のであろうが、その後岩手でクロマンタを築き、後代には塩釜経由、鹿島、香取、春日に
入る。
URLリンク(www.city.buzen.fukuoka.jp)
URLリンク(www.oganavi.com)
倭国乱時代に青谷上寺地から吉備にかけて大きな勢力となったものの支配層がこれで
あり、墳丘墓・古墳参加したのは当時曹操に追われた烏丸が多かったのかなと感じる。
千客万来であり、四隅突出・箱式石棺墓等はどっちに付くのか不明。


448:月光仮面
07/03/02 12:16:24
>>446
古代エジプト民俗太陽崇拝信仰
場面の壁画拓本↓を参照、
URLリンク(www.bibliomania.com)
ここに出てくるエジプト人が角凝命といったイメージであることと、
男鹿半島に黒鬼が入ること、沖縄でもアカマンタ・クロマンタといって、赤鬼が白人
であるのは、ジプシー系かなとも思われる黒鬼が入っているのに留意の用がある。
ちなみに、高句麗には瑠璃明王というのがいるが、中近東ではジプシーのことを
瑠璃と呼ぶらしい。

449:月光仮面
07/03/02 12:23:50
古代の夜は手を伸ばせば星に届く時代であり、人々は山岳、塔、高木、高層建築で、
日月星の世界にッ近づけると考え山岳宗教が起こるとジェームス・ナスミスは考える
ようだ。さすれば豊前の石段は後の英彦山の起源であり、男鹿のものは出羽三山の
起源ともいえよう。少なくともクロマンタの起源ではありえよう。

450:月光仮面
07/03/02 15:11:25
>>423-426
秦氏とは埴輪にはない弥勒菩薩であるとか、古墳にはない法隆寺、東大寺、等の
神社仏閣、伎楽、絵画、仏像、律令、宗教と言った、それまでにはなかったものを
と考え方を日本に持ち込んだ。記紀においては、このことに対するフォーカスが抜け
て、ピンボケになっているので、日本には世界に示せる歴史もなければ、子供に教えら
れる歴史もなく、国民は実に莫大な有形無形の損失を続けてきたし、このままではもは
や国を滅ぼしかねない。政府も教育の重要さには気付いてきているが、何が問題なのか
いまいちはっきりしない。この秦氏に対するバイアスの是正はそうした極めて重要な
教育問題、文化問題の一つである。若い史家がこの重要な使命に覚醒し、絶大な活動
をすることに期待し、この2CHで陰ながらの支えになる必要があり、この点で
>>423-426 の投稿に大いに期待する。

451:月光仮面
07/03/02 16:53:21
>>443 若干、樹種名に間違いがあった。
アッシリアのはきっと椴松松ぼっくり↓
URLリンク(homepage2.nifty.com)
これに対して、衣領樹、クリスマスツリーが蝦夷松↓だろう。
URLリンク(upload.wikimedia.org)


452:月光仮面
07/03/02 20:21:47
>>445
>高皇産霊神、高木神が太陽神であることもこのピラミッド型をユー
>ラシア森林地帯の人々が蝦夷松、樅の木の樹形に見た結果であると考える。
細かいことを言うと椴松、樅の木となる。が、これは天皇家、秦氏は、ピラミッド型、
高句麗の将軍塚型、東胡、鮮卑型ではなく、スキタイ型であることとも関連する。
つまり、これは伽耶、西都原等に見られる円墳の起源と考えられる。これはウラルで
発生し、バルカン半島をギリシャに侵入したものであり、エジプトにあったピラミッド
とは異なる。いずれにせよ、天皇、天孫も、出雲の地祇も、クロマンタも渡来人であり、
縄文人ではない。東北の遮光土偶は天皇家の先祖だと主張するのもこじつけくさい。


453:日本@名無史さん
07/03/03 08:07:21
俺は日本の古墳時代中期の馬具などは、
時期的にも5世紀前後だし、
また半島の伽耶にいたという理由からも、
秦氏が日本にもたらしたと思ってるのだが、
この十字紋の杏葉
URLリンク(www.ops.dti.ne.jp)

島津家にみられるように秦氏の家紋は十字だね。
やはり景教か?

454:日本@名無史さん
07/03/03 08:36:23
>>419
URLリンク(www.e-spc.co.jp)

丸に立ち束ね熨斗

「熨斗は延長・発展に通じ、縁起が良いものと考えられており、
語源は、火熨斗で日で布をのす事で、
熨は日を当てる事、斗はその柄つきのひしゃくを意味します。」
らしい。

メノラーかもなぁ…


455:バルタン星人
07/03/03 09:30:50
王族は王族同士で婚姻したので新羅から王妃をいれたら、高麗から王妃をいれたら
百済から王妃をいれたら同時に文化も人もはいるしだから古代は最初から国際国家と国際人だった。
ので

456:月光仮面
07/03/03 11:23:11
太陽崇拝が伽耶から日本に渡る経緯であるが、
URLリンク(members3.jcom.home.ne.jp)
倭人は先ず月読命(月精延烏郎)を招聘し、その後に天照大神(日精細烏女)を招聘す
ると言うことで、政策に変化があるが、これは安曇海人族の政策に対して、豊・日向
方面、或いは、大和方面から異議が申し立てられた結果であろう。
URLリンク(www.ss.iij4u.or.jp)
URLリンク(inoues.net)
月読命(月精延烏郎)は多分鬼のウラとして吉備で粛清され、秦氏渡来の
時代に壱岐で拾い上げられ、京都に祭られるのであろうか。いずれにせよ太陽崇拝は
スキタイの日本進出ではなく、日本の政治勢力が国内統一のため新羅阿達羅王の
意向にかまわず、強引に伊都国に導入したもので、これはこの当時に始まっていた
大和・河内方面の政治力が沖ノ島、壱岐、対馬、勅島に広がったことを示しもので、
その証左が平原遺跡が方形周溝墓、舟形木棺等の近畿系リチュアルによることで
わかる。天皇が渡来人というのは坂上氏のような渡来人との姻戚関係を通じてはい
えるが、太陽宗教の起源はあくまでも倭人が採用したものであり、スキタイが侵入
したものではないことは三国遺事が国際的文書として立証している。

457:日本@名無史さん
07/03/03 11:37:37
延烏郎/細烏女なんてAD150年前後でしょ

近過ぎるわ

何もわかってないな

458:月光仮面
07/03/03 11:39:18
しかし、楯築の中円双方墳は、日精月精連立を前提として建設されており、ウラは
楯築竣工後に粛清されるのであろう。これに先立ち孝霊がヒンターランドの隠岐、
妻木挽田、青谷上寺地、出雲を徹底的に殲滅し、その後にキビツヒコがウラを惨殺
する。後の世のキリシタンバテレン虐殺のように日本人は邪宗門に対する苛酷な
対抗措置を講じたようである。現在のイラク・レバノン情勢を思う時、日本人の歴史的
宗教に対する安全保障感覚の鋭敏さには感心する。

459:月光仮面
07/03/03 11:43:03
>>457
アクセル全開で走っているから、なんかあったら詳しく頼む。

460:月光仮面
07/03/03 11:57:10
余談ではあるが、島をも動かすような倭人海人族の動員力には、沿岸部に兵站
補給基地の設置がなくては不可能。そうすると帥升が楽々と洛陽に入れたり、
鮮卑檀石槐が倭人を捕虜にするのは、日本海渤海湾沿岸に倭人の補給基地が
黄河を遡り洛陽に至るまで整備されていたか、或いは、海人族集団安全保障条約
のようなものがあったのかナーと思うんだがね。

461:月光仮面
07/03/03 12:22:54
三国遺事【日本帝記を按ずるに、前後に新羅の人を王と爲すこと無し。これすなわち
邊邑の小王にして真の王に非ざるなり】・・・これほど雄弁に外国文書によって日本
建国が全くの外因によるものではなく、内因によって成立したことを物語るものはなく、
三国遺事は倭人伝と同様に国際的に日本建国を証する文書としては極めて重要
である。日本は庄内土器経済において、布留式土器発祥地を中心として、縄文・弥生人
の子孫によって建国されたのである。

462:月光仮面
07/03/03 12:41:18
上記の日月神を伽耶から日本に招聘するプロジェクトを完工したのが
小伽耶吹上津命(ウガヤフキアゲズ)であり、任那日本総督といった役職
であり、神武が岡の港から消息不明になるのは勅島方面に援軍要請に
出向いたのではないかとも、或いは、伊都国政府に三種の神器のうちの
フツノミタマだけでも貰えまいかと請願に行って失敗したのではないかと思われる。
失敗談は掲載しなかったのでなかろうか。

463:征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE
07/03/03 13:54:29
三国遺事での延烏郎と細烏女の話の新羅阿達羅王の四年がAD157年

日本書紀で一世三十年で計算すると垂仁天皇の実年代がAD270-300前後

記紀ではアメノヒボコの系譜に違いがあるが
タジマノマモリがアメノヒボコの四世孫と云うのは共通しているから

垂仁とタジマノマモリを同期として逆算すると、垂仁の四世代前はAD150-180年
(更にはここで同期とすると、後の神功の世代でも系譜上の整合が取れる)


次に垂仁の四世代前は孝霊天皇と同期…と言いたい所だが、記紀の欠史八代で系譜を改変していて
記紀以外の系図や紀年の復元計算上孝霊と孝元が同世代の筈だから

垂仁の四世代前は孝安天皇
孝安天皇の代の想定年代のAD150-180年にアメノヒボコが来た事に当初はなって居た筈だ


つまり三国遺事の延烏郎・細烏女伝承と、記紀等のアメノヒボコ等の新羅から渡来伝承は本来同期で、
想定年代上の天照大神・月読命はそれ以前である筈だから、ここが単純なイコールとは言えない


次に、孝霊天皇は設計上凡そAD180-の天皇だから、吉備の鬼退治伝承が
霊帝(168-188)光和年間(178-184)の倭国大乱で、鬼が一部の伝承通りに渡来系の支配勢力だったとして、
其れをキビツヒコが倒したとしても年代上の問題は全くない。

そして孝霊伝承関連の情報からすれば、倭迹迹日百襲姫命は後に大和に送り返されるようだ
この一連の孝霊伝承が倭国大乱その物だとすれば、大乱終結後に共立されるとすれば
倭迹迹日百襲姫命しか伝承上の候補が居ない。しかも年代上の問題を全てクリアしている。

そして日本書紀では彼女は、崇神十年AD247年に死んだように設計している筈だ

464:日本@名無史さん
07/03/03 14:19:21
 騎馬民族征服論者がおかしいのは、
彼らは、古事記や日本書紀に登場する神武天皇や崇神天皇、応神天皇などが馬に乗って
行動する記述が記紀に無いことについて、沈黙していることだ。





465:日本@名無史さん
07/03/03 17:30:17
古墳から出る馬型埴輪とか馬具だとか
神社の絵馬だとか流鏑馬だとかを見れば
大きな影響はあっただろうということは分かる
しかも天皇稜から馬具とか出ればそれはかつて
天皇が使ってたものだということもわかる
それが征服と聞かれれば、同化が正しいと答えたい

466:月光仮面
07/03/03 18:55:57
>>463
大筋で合ってるようですね。基本的に日本書紀には銅鐸という制限が付いているので
非常に心強い。

467:月光仮面
07/03/03 19:52:40
天孫を円形、地祇を方形とすると、モモソヒメは出雲系大物主の司祭に就任し、
その儀式が暗闇で行われることを批判し、天孫思想に照らして宗教改革を
思い立った矢先に突然死、しかも、神罰による突然死を受けている。そして
その死は大和平野を人のリレーが埋めるほどの革命的追悼を受けている。
これには極めて出雲側による謀殺の疑いが強い。神武の嫡子謀殺に続く
二度目の出雲側の逆襲である。モモソヒメは謀殺を受けた後、死体に身の毛も
よだつ騎馬民族系の陵辱を受けたのかもしれない。全ては暗闇の中の完全犯罪
であったであろう。

468:月光仮面
07/03/03 19:58:16
しかし、古代のことであり、これが出雲側の犯罪と見せかけた天孫側の謀略である事も
否定できない。ちなみに、この時代に勝者となるのはオオタタネコ、河内の人間である。

469:月光仮面
07/03/03 20:37:50
魏の使節団は卑弥呼の謁見も得られなかったのに、卑弥呼は鬼道をよくし、
人を惑わすなんて、誰から吹き込まれたのか詳しい情報を知っている。
確かに内行花文鏡の幾何学模様時代は終わり、道教的な神獣鏡時代に
入ろうとしていた。しかし、老女卑弥呼にそんなに神獣鏡にこだわる必要が
あったであろうか。彼女は古きよき内行花文鏡、一歩譲っても画文帯神獣鏡
の時代に思いがあり、オオタタネコ等の新陣営による本物の神獣鏡、鬼道
の到来には抵抗があった。そうした人間であったように思えてならないのである。

470:征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE
07/03/03 21:16:41
先代旧事本紀を見れば、神武と崇神までは計七世代程度までしか許されない
即ち、垂仁の七世代前が神武天皇と云う事になる。つまり上位十世十代の現存の記紀の天皇の系譜は改変されていると見て間違いない。

この想定年代を逆算すれば神武の年代は凡そAD60-90になる。

但しこれは先代旧事本紀がフツノミタマの剣を皇軍に授けた熊野の高倉下命を
饒速日尊(≒火明命)の一世孫である天香語山命とイコールとする記述依存する。

しかし勘注系図では、神武と同期の尾張/海部氏を天孫火明命三世孫と同期としており
もしその通りなら、この年代は二世代分の60年繰り下がって神武はAD120-150でなければならない。

ここでは詳細は省くが、勘注系図は系図の同期関係にズレが発生しており、
この二世代分のズレは合理的に解釈する事が可能なので、「現時点」では単純な同期ズレとして処理出来る問題で在るが、常に留意すべき箇所でもある。

もう一つ。石上神宮の禁足地から鉄剣が発掘されたが、
これをフツノミタマの剣と比定する考えが在るが、
もしそうならこれがAD60年頃までには作刀されて居なければならないが
現在の考古学的見地からはそれでは問題があるようだ


次に別の観点から。神武元年は崇神十年から書紀の3年を実年代の1年として逆算すればピッタリAD57年になる。倭奴国遣使年だ。

この年代は三国史記の新羅4代目の脱解や、新撰姓氏録の皇別氏族の新良貴氏の記述とも一致する。
更には、先代旧事本紀や勘注系図の記述から
崇神天皇の七世代前、つまり想定年代AD30-60の天孫火明命が貰った筈の
海部氏伝世鏡の一枚、息津鏡(後漢鏡)の鑑定上の年代とも整合する。

先代旧事本紀、勘注系図、海部氏伝世鏡、新撰姓氏録、三国史記の全てが
神武元年がAD57年である事を許容している

今日の現存日本書紀以前の、そもそも設計上の神代と人代の切り替わりは一世紀と考えてほぼ間違いないだろう
当然フツノミタマの剣の伝承も、史実から派生した伝承とするならば、やはりこの年代でなければならない

471:月光仮面
07/03/03 22:46:50
神武の紀伊・大和遠征があり、天香具山の土で土器を作る、これが弥生式土器時代が
終わり、吉備、河内、大和で庄内式土器時代の始まるAD200年の頃と見たい。記紀の
神々はは銅鐸消滅後、倭国乱の終わり頃に生まれるのであろう。それは、近畿で銅鏡
の始まる頃で庄内土器時代とほぼ並行するのではないであろうか。神話とか神々は
それを支える神官、神社、氏子、農民、商人のコミュニティーの発生が基になるが、神話の
統一、整合性が生まれるのは、例えば、環濠集落といった障壁がなくなる時代であろう。

472:征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE
07/03/03 22:59:01
AD200年頃じゃ孝霊/孝元ってトコですよ

473:日本@名無史さん
07/03/03 23:34:43
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
URLリンク(www.hibari.ed.jp)

474:月光仮面
07/03/04 08:36:54
>>472
神武は一日にして成らずですよね。
ただ、近畿の庄内式土器統一時代は「東遷」ではなく、むしろ文化の西進。
しかし、北部九州、出雲、吉備には近畿に先行する弥生遺跡がある。更に、伽耶方面
には王朝の歴史があり、丹波人が新羅の王となったと言う伝承もある。要するに、
記紀が銅鐸以前の伝承記録を抹消している。だから、神社伝承、風土記、中韓の史書、
巨石遺跡類に頼らざるを得ない。神武を三国遺事の時代と、親子関係くらいで、つなげる
気がします。

475:月光仮面
07/03/04 08:57:48
近畿に銅鏡配布統治方式を導入したものは誰であったか。国産方製鏡はなぜ
内行花文鏡ではなく、三角縁神獣鏡にしたのか。思兼命がそのレプリカを造り、
最終的には崇神の手に渡ったようであるレガリアとしての神鏡はどういう経路を
経たのか。西都原に渡来した円墳文化のもつ太陽崇拝思想は何時ごろ畿内に入る
のか。これらは非常に大きなグレーゾーンです。記紀でいう神功応神時代が
太陽崇拝思想の九州から近畿への伝達のような気がします。

476:日本@名無史さん
07/03/04 08:59:12
ママ~

477:月光仮面
07/03/04 09:38:53
>>472
当時の年齢、年代感覚というのは、入社したての人間が、あいつは古そうだ、若そうだ
と言ってる程度のことでしょうが、孝霊孝元なんていうの名卑弥呼より入社年次で
やや上と言った感覚でしょうか。ホケノヤマ、黒塚なんていうのがどうもくさい。卑弥呼
ファミリーと言ったものがあったのか。鏡のプロはなんと言っても豊前、香春方面の
渡来人、秦氏の先駆者的なもので、これが吉備に到達していて、倭国乱の際に
オオヤマトの豪族について大和に入った。天日矛集団というか。どうもこんな感じが
します。

478:月光仮面
07/03/04 09:52:43
卑弥呼なんですが、どうも崇神、オオタタネコといった新入りで要領のいい人間に
大物主の神妻等と言う夜のお勤めの閑職、窓際族に追いやられ、終には神罰で
殺される。つまり、彼女はもともとは政治宗教の両分野での共立倭国王で、纒向
にいたものが末年は地元の三輪祭祀をやらされる羽目になったということで、これは
共立に参加した諸国に対する大いなる裏切りではなかったかと思われます。
倭人伝の伝えることと、記紀の伝えることにはおおきな開きがある。

479:バルタン星人
07/03/04 10:09:37
摂津の大田氏が紀伊から移住したのは東征に追い払われたからでしょうか、摂津からまた岡山あたりに移住したらしいけども

480:月光仮面
07/03/04 10:41:44
オオタタネコはオオ・タタ・ネコとも読めるんでねー。こうなるとタタの神と関係が
あるのかもしれないし。どうなんでしょう。

481:唐松山
07/03/04 11:35:50
月光仮面さんへ
おおきな開きがある=設定まちがい
という事では?


482:月光仮面
07/03/04 11:36:13
>>478
大物主神を奉る磯城集団は、古来から姉弟の司祭システムを持つ集団であり、これに
隣接して纒向に卑弥呼をトップとする集団を置くことは、ワシントン特別区連邦政府、
各州政府という政治理念を消化できなかった邪馬台国にとっては大きな矛盾であり、
天孫はこれを極めて憂慮していた。
「是時歸順之首渠者。大物主神及事代主神。」「時高皇産靈尊勅大物主神。汝若以國
神爲妻。吾猶謂汝有疏心。故今以吾女三穗津姫配汝爲妻。」
天孫は、大物主の神妻には特別に「三穗津姫配汝爲妻」とすることとした。ところが、
この重要な建国、共立宣言に背いたのが卑弥呼、百襲姫の神妻就任であった。
卑弥呼はこれに抗議、逆立てされた剣に腰から載せられ虐殺された。イザナギ特捜
検事団が墓を暴いて真相究明に乗り出したとき、死体は既に腐乱し、白骨化しかけて
いた。こういうことであろう。

483:月光仮面
07/03/04 11:40:51
>>481
根底から間違えることもあります。その節は根底から是正してください。

484:日本@名無史さん
07/03/04 11:51:50
スクープキタ━━(゚∀゚)━━!!!!
Mr.オクレがユダヤ人に!
昨年末、吉本興業のMr.オクレがユダヤ教に改宗していた事実が明らかに!
ソース:民俗板スレリンク(koumei板)l50

485:唐松山
07/03/04 11:57:31
それで 大物主の初子 たたねこ(多分まだ幼児)の逆鱗にふれ
虐殺された と


486:月光仮面
07/03/04 12:13:05
>>482
この三輪大物主集団王朝に対しては全国的な反対運動が起きるのは当然のことで、
特に九州の天孫司令部、参謀本部はゲリラ戦に出たであろうし、東海でも陰湿な抵抗は
続いたものと考えられる。時代は救世主を待ち望んだ。そこに登場したのが近江出身の
オキナガタラシヒメであったのであろう。なんと、三韓をも巻き込んだ新王朝を作り上げ
たのである。神功皇后とは卑弥呼の生まれ変わりであったのだ。

487:月光仮面
07/03/04 13:48:44
>>482
天孫の起源は一大率の機能に残るが、葛城志摩宿禰、武内宿禰と言った伊都国志摩
地区、「伊都国は筑前国怡土郡で、糸島半島は志摩郡ですから、魏志倭人伝時代にも
異なる行政地域、志摩国だったと思われます。」
URLリンク(boat.zero.ad.jp)
に駐在した倭国最精鋭部隊で、これが伊都国政府に同調して邪馬台国に対峙する
ことになったのであろう。関東軍の独走というか、鎌倉幕府的なものが成立したのでは
なかろうか。これが葛城、河内、近江の豪族と組みオオヤマト旧政権の打倒に向かうの
が神功の時代であろう。

488:月光仮面
07/03/04 13:52:47
ただ浦の島子(浦島太郎)、奴国のシマコなどというのは例えば伽耶勅島総督といった
ような重要な島の行政官と言った意味であろう。


次ページ
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch