08/09/06 00:12:52
>>835
( ;´・ω・`)アワワ ウィキの編集者がおいでなすった。この調子じゃそのうち高良大明神も降りてきて「な
ぬがザリガニの横滑りじゃい!思想性を持った知識人にしか分からないような説明じゃ駄目だ(`皿´)」と
憤慨するのですね><オソロシヤオソロシヤ
ほいで、この「あおりやへ」を調べてみた (^o^)ノ
第二尚氏になって聞得大君という神女の最高職が置かれるまでは、おありやへが最上級の神女であったと
考えられる。今帰仁村のあおりやへは今にも伝わっている・・・・・・・・ふむふむ
伊平屋・伊是名に目を向けると、確か伊平屋では喜界島に向かって祈願する行事があったはず。
墓参りやウタキ参りするとき満潮でそこにたどり着けない場合はその方向に向かって拝む「お通し」に似
ているような・・・しかし与論・沖永良部・徳之島・奄美大島を通り過ぎて何ゆえ喜界島?
喜界島といえば、城久遺跡群であったり、尚徳王の喜界出兵であったり、平氏打倒を企てた俊寛が流され
た島とされたりと賑やかな島! そう!北山は喜界に何かしらの中心性を見出していたのではありませぬ
か。その中心性こそが・・・・・・源為朝の幻想を中心とするヤマト勢力なのですm9(`・ω・´)シ
それらの勢力は琉球にたどりついたのではなく、薩摩潟の小島のどっかに来たのです!!(・∀・)ガハハハ
・・・・・・・・って当時の信仰の背景から上手く繋げたところでw
為朝来琉説ってなんだわけ!?を説明させていただきます(>Д<)ゝ”