08/02/20 13:32:55
会津戦争とは
松平容保の政策不備のよって起こった戦争である。
鳥羽伏見で会津藩も撤退したが、それは徳川慶喜の撤退に伴っただけで
会津藩は徹底抗戦の姿勢を崩してはいなかった。
外国から大量に武器を購入し、藩に戻ってから薩長土肥と戦争をするために
着々と準備を進めていた一方で、薩長土肥に恭順するという態度も示していた。
つまり、恭順は真っ赤な嘘で実際は戦争をするつもりだったのである。
これが官軍側にバレ、共謀した東北の諸藩も巻き込み戦争になってしまった。
この時、会津藩の領民は畳を持たされ、防壁として借り出されたのは史実では有名な話。
会津藩は事の他弱く、戦火もさほどあがらず最後は空砲で脅かす程度でよかったとの事。
戦後は会津藩の領民の一揆に武家が襲われるなどの悪政だった事を示す逸話もたくさんある。
また、会津藩士・会津人の多くは長州藩士によって比護され
会津藩の土地の復興は薩摩藩士が務めた。しかし現在では、仙台人やハルビン人の作家連中によって
このような史実や美談は全てかき消され、福島には怨念だけが残っている。