07/01/10 12:55:23
明治新政府は会津戦争における戦死者を「賊徒」として埋葬を許さず、この為に長期間に渡って放置された
遺体は風雨にさらされ、鳥獣に食い散らかされる悲惨な状況だったと言う。見かねた近所の村人が遺体を
埋葬しようとした為に処罰を受けた事も在ったと言う。
実際には疫病の元になるという理由からようやく処理が許されたのだ。また、長州・薩摩藩兵による
会津若松城下での略奪や強姦・虐殺も激しく(特に、長州人は気性が荒いことで当時から有名であった)、
会津藩兵の死体から性器を切り取って口に含ませ放置したり、
薩摩藩兵が食人行為を行ったという記録まである。その凄惨さは、(彼らの味方である)新政府軍側の
土佐藩兵や従軍僧侶が日記に批判的に書き記すほどであった。
この後も会津藩が下北半島にある斗南藩へ減封、移住を命じられるなど冷酷な弾圧は続いた。
これらの非人道的行為に対する民衆の恨みは後世まで引き継がれ、
さらに、山県有朋を筆頭に、長州閥が明治期を通じて会津出身者を『朝敵風情が』と見下し、
学問や官僚の世界に進んだ会津藩出身者の登用について、
徹底的な妨害工作を行った。また、福島県の県庁が、交通の要所たる郡山におかれず、福島盆地におかれたのも、
会津から極力距離を置くためだったともいわれる。
他に、東北地域に視野を広げれば、戦前の官立高等教育機関の設置にもその影響が見られる。
こうしたこともあって、未だに会津の人々には山口県人、鹿児島県人に対するわだかまりの念があるという。
現に西南戦争では、多くの旧会津藩士が新政府軍に参加した。薩摩への敵愾心がぬきんでて強かったために
他地域出身者より使いやすかったのだという。
実際、田原坂の戦いに投入された部隊は会津出身者からの志願者がおおかったという話しもあり、
抜刀隊は実は会津兵と解するむきもある。
また、会津出身の軍人柴五郎は西郷隆盛、大久保利通ら薩摩の中心人物の非業の死に対して
「当然の帰結であり断じて喜べり」と語ったことからも、会津の薩摩・長州への怒りが伺える。