06/12/16 21:46:05
そもそも喧嘩両成敗は喧嘩じゃないと適用されないし。
成文法の規定(今川仮名目録、元親百ヶ条他)を実際に読んでみたまえ。
「攻撃されても手向かうな、ちゃんと成敗してやるから。応戦したら喧嘩扱いで両方とも成敗しちゃうよ」
としか解釈のしようがないから。
118:日本@名無史さん
06/12/16 22:06:08
【喧嘩】(けんか)
当事者間の意思疎通に齟齬があるなどの理由によって争いになること。
武家社会においては、双方に言い分があるので、喧嘩両成敗が常道とされた。
但し、忠臣蔵においては全く意味が異なり、訳の分からないことを口走る基地外に
何がなんだか分からないうちに、一方的に斬りつけられ、被害者となることを指す。
119:再就職運動
06/12/16 22:11:50
内蔵助が主家再興運動に熱心であった理由は、
藩取潰しと共に失業してしまった藩士を食わせる為だった。
元禄時代には、武士社会は固定してしまっていて、
実に厳しい就職難の時代だったから、
主家再興でもしない限り失業武士は食う事ができなかった。
しかし、主家再興の望みが無くなったので、
再就職運動に失敗した浪士を集め、討入を決行したのである。
120:就職させてやる
06/12/16 22:14:56
「再仕官させてやる」とでも始めから甘言をもって釣られていたのか、
やがては死に場所になるそれぞれの屋敷へ、さながらまるで仕官しに行
くように勇んで行っている。到着してみて罪人扱いなのに大高源吾らは
(一杯喰った。柳沢にはめられた)と、はっとした。
覚悟をし、取りまいた儘でずっと監視し、弓鉄砲で囲んで見張りしている
のへ、「われらは死を承知の者、逃亡など致さぬ」と抗議している。
しかし、二十代の者は夢が捨てられず吉報が来るだろうとふざけ廻っていた。
121:日本@名無史さん
06/12/16 22:15:21
明治時代にロシア皇太子を斬りつけた基地外は死刑にならずに済んだな
でも仮にその基地外を死刑にして基地外関係者が皇太子にトドメを刺しに行っても
美談どころか日本人が世界中から野蛮人扱いされるだけだけどな
122:就職活動を有利に進めようという思惑
06/12/16 22:24:53
赤穂国元の藩士たちから成る後者は、仇討ちをすることで自身
の武士としての在り様を社会に示すことを意図しており、
その後の他家への就職活動を有利に進めようという思惑まで働い
ていたと憶測することもできる。
同じ仇討ち派であっても、立場により、温度差があったことは
否定できないのである。
123:公務員心得
06/12/16 22:26:29
彼らは戦闘員と言うより、当時、既に地方公務員だったのである。
いきなり、職業軍人として実戦に赴くかどうか選択を迫られても、
戦闘員としての自覚、資質がない限り、一元的な武士道観を押し付
けられるのは不本意だったに違いない。
武士道とは、本来、個々の武士の生きる規範となるべき道徳律で
あって、主君だけに対する忠義であったり、主君に絶対服従を強
要する滅私奉公的な思想であったりするものではない。
『葉隠』おける「武士道とは死ぬこととみつけたり」という文句は、
一旦死んだ気になれば、何物をも恐れることなく、仕事に励むこ
とができることを示唆しているのである。武士道と言うより、
むしろ、「公務員心得」とでも言った方が、当っているかもしれない。
124:日本@名無史さん
06/12/16 22:33:34
とりあえず忠義というものが美徳にされてたんだから
例え馬鹿殿のためとはいえ、仇討ちに走ったことは
当時にしてみれば評価されるのは当然じゃないのかな?
現代にしてみれば理解されない価値観であって
そんなものを放送し続けるテレビ局がおかしいぞ?って問題だろ
125:葉隠
06/12/16 22:35:18
「葉隠」などは、赤穂浪士について、「あだ討ちするなら、
1年も時間をかけて準備などせずに、さっさと行うべきであった。
高齢である吉良殿が、病死でもしたらどうするのか?彼らは、
忠義者ではない。ただの卑怯者である」とさんざん非難しており
ます
126:日本@名無史さん
06/12/16 22:39:40
>>103
切り付けられた側が悪いと言うのはよく解らない理論だな。
まるでいじめられた側が悪いとでも言ういじめ肯定理論にもつながる所がある。
どうあれ切りつけた側が罰を受けるのは当然。
殺傷事件を引き起こし、殺人未遂まで起こしたんだからな。
吉良に何のお咎めがないのも当然。
吉良は何もしてない単なる被害者なんだから。
吉良が浅野に対して刃物できりつけて、
浅野が吉良に対して逆襲したと言うのなら、
互いにきりつけあっているのだからお互い様と言う理論も成り立つ。
その時こそ、喧嘩両成敗と主張してもいいだろう。
だが吉良は一方的に傷つけられただけ。
吉良が浅野を傷つけてこそお互い様は成り立つが、それはない。
127:浅野内匠頭は統合失調(精神分裂症)
06/12/16 22:43:28
浅野内匠頭が吉良上野介を刃傷に及んだ事件だが今から10年程前
に東北大学の心療内科の先生方と話した際に、浅野内匠頭の幼少の
頃からの行動がおかしいとの文献と刃傷について話題になった。
まず、吉良が烏帽子から斬られたとのことであるが、あの被り物は
鉄で編んでおり、斬りつけても大怪我を追わせられない。
もし殺そうと思えば刺したはずである。また江戸での奇行が多いこ
とから、松の廊下で「幻聴」が聞こえて刃傷に及んだとの結論で話
をしたことがある。最近、精神医学者も精神医学から見た忠臣蔵で
も「統合失調(精神分裂症)」との意見を寄せている。
ただ、分からないのが、そういう城主をなぜ命をかけて仇を討った
かが疑問として残るが・・・・?
128:日本@名無史さん
06/12/16 22:48:13
だから、あれは就職運動のためのデモンストレーションですよ。
129:統合失調症(精神分裂病)の理解
06/12/16 22:48:45
病名の変更について
平成14年8月に開催された日本精神神経学会総会で
「精神分裂病」の病名は正式に「統合失調症」に変更されました。
これを契機に、この病気に対する誤解や差別が是正され、
日本の精神医療がよりよいものになり、よりよい社会になるよう
に関係者ならびに一般市民は努力していかなければなりません。
130:統合失調症(精神分裂病)の理解
06/12/16 22:50:29
1)統合失調症(精神分裂病)の特徴:
(1)世界的に代表的な精神病であり、一生のうちで、
100人に一人(発病危険率1%)はこの病気を体験するといわれ
ています。日本では精神病院に入院している患者さんの約60%は
統合失調症です。
(2)この病気は、通常、思春期ないし壮年期早期に始まります。
発病に男女差はないが、男性の方が早く(約5年)発病する傾向
があります。
131:現代精神医学から見た浅野乱心説
06/12/16 22:51:54
事件後、浅野内匠頭は極めて冷静な態度である。
幕府の取り調べにもキチンと答えている。落ち着いた態度で食事も摂り、
酒やタバコも欲しいと言っている。こんなに落ち着き払った人間が、
乱心なわけがない!
しかし、井沢氏の前掲書の中で現代の精神科医が浅野の様子を「診断」
した意見が紹介されています。
この、落ち着き払った所こそ、「乱心」の何よりの証拠だ、というのです。
殿中で刀を抜けば、その身は切腹・お家は断絶が当たり前。まともな神経
の人間なら、顔色が青ざめ、食事も咽を通らなくなる。しかも取り調べへ
の態度こそ冷静なものの、陳述は筋が通っていない。
自分は「遺恨があって吉良殿に刃傷に及んだ」と言っていながら、
「吉良のどこが強欲・悪辣で職務放棄だから、世のために斬ったのだ」
とは説明していません。
さらに「遺言」もおかしなもの。妻や弟もいるのに、用人:片岡源吾右
衛門に宛てて、「こんなことになって、さぞ不審に思うだろうねえ」と
いう内容。
「家を潰したのは忍びない」とか「吉良の強欲は腹に据えかねた」など
という釈明が一切ありません。どうも、「自分がしでかしたことの重大
性が分かっていない」らしい。
このあたりが、現代精神医学から見た浅野乱心説の論拠となっています。
132:忠誠心:5%
06/12/16 22:54:45
忠誠心:5%
面子:25%
討ち入りで忠誠の志士として名を売っておけば再就職 (仕官)
すんなりできるだろうという計算:70%
ぐらいだったんじゃないでしょうか?
133:餓死する浪人
06/12/16 22:55:55
忠臣蔵のころは江戸幕府が揺らぎだしていた時代で
仕官 (就職) できずに食い詰めて餓死する浪人が大勢いたそうです。
食い詰めるくらいならいっそ一か八か、と思っても不思議ではないはず。
134:日本@名無史さん
06/12/16 23:00:34
>>132
>>133
いやそれはないだろう
武士の無礼打ちや、果たし合いだとか
そういうのも厳しい決まりがあって
仇討ちでも奉行所に願い出て、許可が出なきゃ違法になる時代だよ
そんな甘い考えで出来るはずがない
135:失業保険などもなく
06/12/16 23:07:34
播州浅野家には300人近い家臣がいたが、
それらが一斉に失業することになるのだ。
失業保険などもなく、再就職も容易でない時代である。
浪人となった家臣たちは、その日から困窮してしまう。
136:再就職運動に失敗した浪士を集め
06/12/16 23:09:20
内蔵助が主家再興運動に熱心であった理由は、
藩取潰しと共に失業してしまった藩士を食わせる為だった。
元禄時代には、武士社会は固定してしまっていて、
実に厳しい就職難の時代だったから、
主家再興でもしない限り失業武士は食う事ができなかった。
しかし、主家再興の望みが無くなったので、
再就職運動に失敗した浪士を集め、討入を決行したのである。
137:日本@名無史さん
06/12/16 23:09:41
>>134
無礼打ち、果し合い、仇討ちは、特に仇討ちは自分の家の家禄を守るため、
武士の面子のためにするものです。
しかるに、赤穂の連中は既にその面子(家禄)をなくした、いわば後は野垂れ
死ぬだけの浪人ですよ。一か八かの博打ぐらいしかやることはありません。
138:細木数子
06/12/16 23:10:22
じゃ吉良上野介さん。ズバリ言うわよ!
アータね、名前変えないと毎年、毎年殺されちゃうわよ。
いやでしょ。一度しか言わないわよ!
良い名前考えてあるんだからさぁ。ドッコイさぁ。
『鈴木宗男』か『出川哲郎』どっちかお選びよ。
139:日本@名無史さん
06/12/16 23:11:37
>>137
だからそうじゃないと思うよ
むしろどうせ食えなくなって死ぬなら、そのきっかけを作った吉良を道連れに・・・
みたいなもんでしょ
決してそんなこれで名を上げて他に仕官なんてのは当時の感覚でもないだろう
140:日本@名無史さん
06/12/16 23:13:45
>>139
単なる無理心中というご理解ですね。
それなら分からなくもありません。
141:日本@名無史さん
06/12/16 23:18:18
>>140
この忠臣蔵に人気者、堀部安兵衛は確かに高田馬場の決闘で名を上げて養子入りしたり
出世の道を歩んだし、あなたの武名で名を上げて仕官という考え方が当時あったのは確かに理解できるよ
だけど忠臣蔵は明らかに幕府の許可もない非合法なものだし
堀部安兵衛のエピソードから考えても、この堀部安兵衛という人物がとても義理堅いのが伺える
だから個人的にはやっぱり純粋な忠義だと思うなぁ忠臣蔵は
142:日本@名無史さん
06/12/16 23:26:16
ああ、堀部安兵衛ね、彼なら確かに再就職の声も掛かったかもしれんな。
でも他の者はどこにも行き場のない人間ばかりでしょう?
143:日本@名無史さん
06/12/16 23:47:11
>>142
原惣右衛門、大高源五を堀部安兵衛が説得して
急進派にしてる
むしろ大石がお家再興を願っていたが
それが駄目になって堀部に同調したと見るのがいいだろう
だからまぁ多くの人間は逆恨みかもしれんが
元から仇討ちを主張してた堀部安兵衛は完全な忠義からだし
表向きは忠義なんじゃないのかね
144:日本@名無史さん
06/12/17 00:19:46
>>126
>>103は『吉良が悪い』なんて書いてないぞ
145:日本@名無史さん
06/12/17 00:25:48
まあ、その辺がこの事件の複雑怪奇なところですね。
忠義が決まった形に示せるものでないだけに、忠義を弾除けに
内心では一か八かの博打をやったとしても、他人には分からない。
去った者たちが本当に不忠者であったかも分からない。
吉良を道連れに無理心中したのを忠義といえば言えなくもないし、
わたしのように就職運動の大博打と見る人間もいる。
難しいところです。
146:日本@名無史さん
06/12/17 00:33:01
忠義だとしても法律違反には違いない。
しかも、浮き世の鬼を退治するならまだ分かるけど、
浪士自身、内匠頭がなんで斬りつけたか分かってないんじゃねえ・・・
147:日本@名無史さん
06/12/17 00:54:42
真実がわからなければ、自分たちの主君の肩を持つだろうな
148:日本@名無史さん
06/12/17 01:09:35
吉良は現代においては完全に『敵役』な訳だが、自領では人気があるらしいよね。何でも自領を良く治めていたとか…
でも実際自領に下ったのは生涯で一度だけなんでしょう?
それと吉良の響応役イジメは何も浅野相手に限った話じゃないらしいじゃない。吉良が刃傷事件に遭ったと聞いた時の東山天皇の様子なんかから察するに、吉良にも何かがあるような気がしてならないな。
149:日本@名無史さん
06/12/17 08:02:16
討ち入りの口上書を見ても
赤穂浪士は刃傷の原因について言及していない。
知らなかったというより
初めから関心がなかったものと思われる。
150:東山天皇
06/12/17 09:14:55
東山天皇や関白近衛基熈は、刃傷事件で切腹させられた浅野長矩に同情的
だったんだって。
傍観した柳原、高野ら勅使となった武家伝奏どもを叱責したほど。
なんせ上野介は後水尾~霊元時代に、幕府の威光を嵩に虎の威を借る狐そのもの。
対して、紀伊家との繋がりで上野介とも所縁の伏見宮や前関白一条兼輝は
複雑な心境だったろうね。
151:吉良が運動して十歳の新帝を立て
06/12/17 09:17:31
吉良が運動して十歳の新帝を立て、仙洞御所に竹矢来を張るには費用が勿体
ないからと、見せしめに今の京御苑に鳥小屋のようなのを建て、
廃帝を幽閉してのけた。が、皇国史観では真相は発表出来ず隠された儘、
今もそのままなのである。
「徳川家に野心を抱くごとき振舞いあるにおいては、何様であっても、
かくの如しなり」と意気揚々と戻ってきた吉良を柳沢は招き労い、
砂田重秀の発案を当人の口から聞かせた。
152:いろいろな説
06/12/17 09:19:49
浅野が吉良に斬りつけたのも、
後光明・後西・霊元天皇間の皇位継承問題に吉良が介入したことを
以前から怒っていたからという説や、いや、それはカビの生えた話で、
ホントは、東山天皇の後をめぐる朝廷内の対立に吉良が介入したから
という説やらいろいろ。
153:牡丹の花のごときもので義士である
06/12/17 09:21:59
父後西帝を御苑北隅の茅屋へ幽閉した吉良上野介を、
親王様は怨仇のごとく恨んでおられた故、赤穂浪士に対してまだ誰も
批判がましいことを言うのは遠慮していた時、
「牡丹の花のごときもので義士である」と賛辞を送っている。
154:親王様の勘違い
06/12/17 09:23:54
吉良が毎年京へ行っていたのは、小判改鋳を言いつけた堺のえびす町の中村
内蔵介が、横領した小判で祇園の一力茶屋を借り切ってのだだら遊び(豪遊)
や、金蒔絵の盃を作らせ配ったり、小唄を流行させれば、女房は女房で、
嵐山で今で言うファツションショー(衣装比べ・何時の世も泡銭を持てば
馬鹿は何処にもいる)を始めだしての乱痴気騒ぎの監視のためである。
が、親王様は父後西様を見張るための上洛と勘違いして憎んでおられたの
だろう。
155:吉良上野介を有名にし、恐れられた原因
06/12/17 09:41:32
「徳川家へ反抗なされば何様でもかくなるのである。見せしめとなさるが
よい」と若き日の吉良が思いきった前代未聞の暴挙をやってのけたので、
さすが豪気の後水尾帝もついに世をはかなんで延宝八年御崩御となる。
これが当時、吉良上野介を有名にし、恐れられた原因なのである。
その後吉良は「仏教興隆、神徒禁圧の大詔を出して頂くようにせい」と元
禄十四年に命じられると、(高家のため、江戸町奉行にも老中にも出世さ
せてもらえずのため)もう嫌気のさしていた吉良は、上洛したもののなす
処なく、京から戻って登城し、謝罪し、隠居願いを出した。
しかし柳沢は(御政道の裏向きを余りにも知悉している爺めをどうして野
放し出来ようか)と、最後の奉公納めとして、勅使饗応役を命じた。
そして言葉巧みに浅野内匠頭をたきつけて、吉良を憤らせ抜刀させようと
した。というのも、江戸時代というのは武士は矢鱈と刀を抜いてはいけな
いという定法があつたからである。
156:水戸光圀
06/12/17 09:47:10
「京所代小笠原や京奉行松前が、将軍家側用心柳沢吉保の送り込んで
きた吉良上野介と密談し、何かを策しているのが怪しい」と光圀は、
彼らの謀みが何かを探るため、貞享二年二月に後西さまが窮死された
後も京へは何度もいった。
そして、「京こそ体制である」との後西さまの意志を世に広めんと、
湊川に楠木正成の石碑もたてた。
もちろん光圀の行動は、柳生俊方によって次々と江戸へ報告され続
けて行った。
柳沢吉保は、「あの方がいては吾らの企てが駄目になる」と将軍家
の命令として隠居閉門処分にした。
そして一歩も常陸太田より他出させぬよう跡目の綱条に言いつけ
竹矢来で囲ませた。番人をつけさせた。
何故かといえば金をカネとみない銀貨幣制の京で、吉良上野介が柳
生に言われた通りに、従来の大判小判を強制的に通用禁止し集め蓄積
していたから、その秘密を匿し通すためであったらしい。
157:朕深ク 嘉焉賞ス
06/12/17 09:52:08
明治元年(1868)、京都を発った明治天皇の一行が東京城と改名
されたばかりの江戸城に入城するために東海道を進んでいました。
11月5日、品川・高輪泉岳寺前に差し掛かったところでその行列
が止められました。そして寺に明治天皇の勅書と金一封が届けられ
ました。その勅書は元禄15年(1702)12月14日に討ち入
りを行なった大石内蔵助良雄(よしたか)以下46名の赤穂義士を
表彰したものでした。勅書には「汝良雄等 固ク主従ノ義ヲ執リ
仇ヲ復シテ法ニ死ス 百世ノ下 人ヲシテ感奮起セシム
朕深ク 嘉焉賞ス」とありました。
158:上野助は「憎んでも憎みきれない人物」
06/12/17 09:56:58
赤穂義士の討ち入り事件というのは朝廷にとって無関心ではいられ
ない事件でした。と言いますのは吉良上野介義央は当時の江戸幕府
の朝廷工作の中心人物で、幕府の度重なる干渉に朝廷の不満は高ま
っていましたから、朝廷からすれば上野助は「憎んでも憎みきれな
い人物」であったことがあります。また浅野家はもともと天皇家に
対する尊敬の念が強く、万治4年(1661)に焼失した明正院御
所の再建に内匠頭の祖父が力を尽くしたこともあり、江戸城での刃
傷事件については朝廷では浅野に同情的な声が多かったのです。
159:「珍事々々」と日記に書いています
06/12/17 09:58:24
当時の東山天皇にもっとも近く、また朝廷の実力者であった関白
近衛基熈(もとひろ)は、3月19日にこの刃傷事件の知らせを聞き、
「珍事々々」と日記に書いています。何かふざけているというか、
愉快でたまらないと言った調子です。
翌日、この知らせを天皇に報告に行くと、この時点では上野介は生
きているのか死んでいるのか分からなかったのですが、天皇は「御喜
悦の旨仰せ下しおわんぬ」(「基熈公記」)とのことでした。
160:政治的意図
06/12/17 09:59:36
このように赤穂浪士の討ち入り事件についてはもともと朝廷は同情
的であったわけですが、その約160年後に明治天皇が江戸に入っ
て真っ先に赤穂義士の表彰を行なうというのは、江戸の庶民に人気
のある赤穂義士の主人に対する命をかけた義と忠誠を称えることで、
新たな為政者である天皇への忠誠を江戸の庶民に呼びかけようとい
う政治的意図があったということなのでしょう。
161:GHQと「忠臣蔵」
06/12/17 10:06:04
太平洋戦争敗戦のあと、GHQ(連合軍総司令部)は歌舞伎の上演
を厳しく規制し、とくに敵討ち関連演目の上演を禁止しました。
この規制は徐々に解かれましたが、最後まで残った大物が「仮名手
本忠臣蔵」でした。GHQがどれほどまでに「忠臣蔵」の思想を気
にしたのか、今の我々にはちょっと想像ができません。
敵討ちと言ったってたかがお芝居・娯楽じゃないのと思ってしまい
ます。しかし、明治以降敗戦までの「忠臣蔵」が背負わされてきた
「忠臣報国」の思想の重さを考える時、GHQにとってはいくら心
配しても足りなかったということは理解できましょう。
162:日本@名無史さん
06/12/17 10:47:48
本能寺にしろ真珠湾にしろ、「謀ればかなう」と考える人多すぎ。
陰謀史観てやつ?・・・忠臣蔵にもあったんだ・・・これはこれで勉強に・・・
163:日本@名無史さん
06/12/17 18:34:12
侍の本質というのは、カブキ者、カブレ者、今でいうところの不良だからな
赤穂の田舎不良が、江戸で大不良をやってのけた だから侍や町人が快哉した
164:日本@名無史さん
06/12/17 19:08:38
殿中の喧嘩は是非を論ぜず、先太刀打つ者非分なる事なり
165:日本@名無史さん
06/12/18 12:01:06
>>150-161
つまり吉良は朝廷や幕府にとっては厄介な人物で、浅野は実は尊皇家で吉良を消す為に利用されたって訳かい。
166:会津
06/12/18 12:41:33
>>115
するとドラマなんかで
多門伝八郎が
罪を軽減して改易を免れるようにと配慮から
乱心という長矩の供述を誘導しようとするのは
フィクションとしても意味がない。?
167:会津
06/12/18 12:57:58
>>161
戦前に関して
海音寺潮五郎が
---------------------------
戦前は
”忠臣蔵は直接の主君への忠義を謳い、
将軍や天皇への忠義をかんがえてない
小義の話だからケシカラン”
と軍部や官憲から圧迫を受けていた。
------------------------------
と述懐している。ほんとうなのかな。
海音寺のいうことが本当なら
昭和初期の戦前戦中も忠臣蔵は国家推奨ではなかったことになる。
ちなみ海音寺の”赤穂義士”が最初に世にでたのは
まさに戦中の昭和19年
168:日本@名無史さん
06/12/18 19:37:35
つーか勝海舟が言うように
当時は言論統制があったから
政府への不満だとか皮肉を風刺した劇や話が流行ってて
忠臣蔵も同じようなネタで当時盛り上がったってことだろ
表向きは忠義を表した話だからお上からおとがめ無し
実質は上司に部下が痛めつけられてその手下が復讐という話
169:日本@名無史さん
06/12/18 19:47:47
>>161
902 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2000/11/18(土) 04:35
オーストラリアでの本当の話
当時日独伊の捕虜がいたそうな、
ドイツ人は集団で穴を掘り収容所から脱走しようと試みたそうな。
イタリア人は全くのうてんきで、終いには収容所の門も鍵を必要なくなる程で、
近所の女の子と出来てしまう奴もおったそうな。
それをみた彼らは、ドイツ人は戦う為に生きていると、またイタリー人は
楽しむ為に生きていると理解できた。
しかし日本人は、気が付くと集団で自殺してしもうた。
彼らからは全くの理解不可能な連中だった。
943 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/08/27 18:44 ID:???
引用元が明記出来ないと、本来はまずかろうが・・・わりと知られた話なので一応。
ある時、米軍が、捕虜とした日本兵達に特別教育を始めた。
どんな工作をされるかと思ったら、それは何故かダーウィンの進化論の講義だった。
そんなもん学校の理科の授業でガキのころ習ってんのに、米軍の意図とはいったい?
と皆不思議がった。
そして講義が終了した後、教官役の米兵はこう述べたのであった。
「どうです、これで現人神などというものが存在しないことが、あなた達にも理解できた
でしょう?」
945 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/08/27 18:59 ID:???
>>943
あきれ顔で「そんなこと当たり前だろ。」と答えて絶句させた、
ってオチのあるバージョンもあった気がする。
170:日本@名無史さん
06/12/18 20:46:02
>>169
そのUSAで
進化論を学校で教えるな。
という輩が今日無視できない勢力になっており
現政権の支持基盤ってのは
何の歴史の皮肉だろう。
171:元禄十四年三月十四日
06/12/18 20:53:58
元禄十四年三月十四日。京よりの勅使接待最期の日だった。
観能が始まる直前に、浅野は呼ばれた。
大老詰めの御側用人部屋へと御坊主に案内され、
何事ならんと敷居で平伏していると、「其の方を見込んでの頼みじゃ」
と柳沢吉保に言われた。「はあッ......」浅野はただ畏まった。
「本日を逸する訳にはゆかぬ。手段は選ばぬ。
其の方は抜刀しても咎めはせぬから、
吉良上野介めに乱心させ鯉口を切らせるようせい。
よいか一切他言は無用ぞ」との藪から棒の命令。
何故にか聞き返そうとした時には、もう柳沢吉保は立ち上がって
背を向けていた。だから浅野は、介添えの家来に告げる暇もなく
松の廊下で吉良を見つけて、「待て....」と扇子で突いたが睨み
返され「これではならじ」と、相手を挑発するために脇差の先で
額を突いたり肩へ軽く斬りつけて挑んでみたのである。
しかし賢い吉良は、その手に乗ってこなかった。騒ぎを知らされ、
さては失敗とみてとった柳沢は観能の席から腹心の大目付仙石を呼び、
即座に浅野の口封じを命令した。検分役を仙石が付けて出したのは、
即刻始末させた浅野の首を持ち帰らせるだけのものだった。
本当の刃傷ならば、身辺整理をして覚悟してきているから、
一突きにグサリと刺すのが普通である。
172:首と胴が別れてしまう
06/12/18 20:54:41
やにわに体当たりみたいにして相手を仕止めるのが、武士たる者の心得
である。千代田城刃傷は前後四回記録されているが、皆相手を仆し自分
も大番組の者に滅多斬りにされて即死。浅野のごとく背後から組み付か
れても未だもがき暴れて、未練たらしく、「武士の情けじゃ、そこ離せ」
などと憐れっぽいことを言ったような例は全然ない。
もう一息で、堪りかねて吉良が刀の柄に手をかける、と見て取っていたか
ら叫んだとしか考えられぬ。つまり、何の理由や説明も無しに上からの命
令で、浅野は吉良へ仕掛けさせられたが未遂で失敗。
柳沢は情け容赦なく約束を破って直ぐ監禁。二時間後に呼び出され、
首と胴が別れてしまう。
173:口封じに始末
06/12/18 20:55:21
前代未聞のことだが江戸城内まで網冠せの唐丸駕籠が入れられ、
それまで坊主部屋に一人で監禁されていた浅野を乗せ、施錠したままで
田村邸へ直行。「折角白半紙で張った場所まで至急にと、
用意していたのに不用だった」との田村家の記録は、切腹どころか駕籠
の錠を開けられ、顔を出したところを、バッサリ背後から打ち首にされ
たものらしい。早く口封じに始末するために、さっさと済ませたのである。
174:皇運招胤録
06/12/18 20:56:51
事の起こりは、箱根から東は金本位制で一両が四分、一分が四朱。
が、西は九州まで貨幣は銀本位制で何匁となっていた。
つまり江戸では金はカネだが、三島から先ではそうではなかったせいである。
人皇第百十一代後西帝の生母が仙台伊達綱宗の生母と実の姉妹と判明。
伝奏姉小路を使者に出したのは、王政復古の叛乱予備ではあるまいかと、
柳生よりの探索報告で、足利の血統で京では顔の利く吉良が上洛して諸
事処理した。そして、「帝不徳にして地震あり諸民苦しみ、よって退位
を求めた為なり」と『皇運招胤録』ではしている
175:論功行賞
06/12/18 20:57:22
論功行賞として京所司代小笠原備後守は加増されて老中職。
京町奉行松前伊豆守も江戸南町奉行、そして砂田重秀は勘定奉行
にと皆出世。『角川日本史辞典』の江戸期役職表を見ても一目で
判るような大栄転をした。しかし吉良だけは高家という特殊な家
柄ゆえか現ナマの小判の分け前は貰ったが、ただそれだけて゜
止まった。大目付への役替えも空手形となった。
176:喧嘩両成敗で自滅させる
06/12/18 21:42:38
「わしはおりる。隠居して米沢へ行く」と言い出したのである。
今で言えば合法的であっても偽金作りの一味である。
これを元禄の怪物柳沢が放っておく訳はない。
「江戸を避けて上方での鋳造が、うっかり吉良の口から漏れ、
天下に広まっては御政道の為にならぬ。自滅させ処分する良き方法は?」
と眉をひそめると、今は老中の小笠原が、当たりに注意してから、
誰もが納得する方法として、「吉良殿は御長男が上杉十五万石の当主、
娘御は御三家紀伊様へ縁づかれておられる。よって誰か田舎大名をそそ
のかして、喧嘩両成敗で自滅させるしかござりますまい」と進言した。
177:にっこり大きくうなずきあった
06/12/18 21:43:10
「今になって自分だけ抜けると言い出しても、表向きには圧力は掛けられま
せぬ。此方の手は汚さずに誰かに大義名分のつく....尤もらしい始末のやり
方はござりませぬか」と砂田も賛成した。そして江戸南町奉行松前の方へ顔
を向けると即座に、「ならば恰好なのが居りまする。本所材木座火番の節、
何時も自分が陣頭指揮をとるのが評判で、今は神田橋御門火消しの大役を拝
しておりまする浅野内匠頭でござる」
「町奉行松前伊豆守の申すは可。火事好きとは喧嘩早い者とも世人は見ま
しょう。来る三月の勅使接待役につけ、吉良殿を後見にすればよろしゅう
ございましょう」と小笠原も賛成し、
「我らが居合わさぬ好機を見計らい吉良殿を挑発するよう、大老の口から
申付けなされば、たかが三万五千石の小大名め感激し、仰せの通りにすぐ
さま勇み立って実行に移りましょう」と答えた。一同もにっこり大きくう
なずきあった。
178:吉良さんの墓に小便
06/12/18 21:54:36
今日日,赤穂が善,吉良が悪と未だ信じている人がおおいというのは,日本人の
民度の低さと思われかねない。
吉良に何らかの落ち度があったということは,少なくとも史料からは全く立証で
きないのに(浅野側の落ち度は枚挙にいとまなし),ここまで悪者扱いされたの
では吉良さんは浮かばれない。毎年この時期になると,吉良さんの墓に小便をす
る奴までいると聴いたことがある。
179:吉良は無罪、浅野は殺人未遂で実刑判決
06/12/18 21:57:34
実際今裁判をやれば、吉良は無罪、浅野は殺人未遂で実刑判決が下
るだろう。にもかかわらずその吉良を集団で殺した赤穂浪士を未
だに手放しで礼賛する日本人には、テロリズムを非難する資格は
ない
180:日本@名無史さん
06/12/18 23:05:47
日本人が礼賛してるのはあくまでフィクションの浪士だろ。フィクション吉良は確かに悪役だし。
まー、ワイルド7みたいなもんだ。
181:日本@名無史さん
06/12/18 23:44:20
>>166
>するとドラマなんかで
>多門伝八郎が
>罪を軽減して改易を免れるようにと配慮から
>乱心という長矩の供述を誘導しようとするのは
>フィクションとしても意味がない。?
フィクションとしても意味がないというか
フィクションとしてしか意味がない。
ただ前に井沢元彦の小説読んでいたら
乱心と認められたら連座刑が軽くなるみたいな話があった。
赤穂藩は潰れても親類縁者がとばっちりくらうことはなかったはずだと。
例えば>>116 の板倉修理の場合でも確かに親類は数日程度の謹慎で許されている。
正直これは盲点だった。
182:日本@名無史さん
06/12/19 02:45:26
>>180
そうね。
そもそも『(仮名手本)忠臣蔵』てのは『元禄赤穂事件』を元として大衆受けするように創られた物語だもんね。
183:吉良上野介は無実、冤罪
06/12/19 21:16:54
元禄15(1702)年12月14日、赤穂浪士四十七士が本所松坂町吉良邸に討
ち入った日、として知られています。実際は14日深夜から15日未明だね。
太陽暦では1703年1月31日にあたるらしい。両国駅からちょっと行った先に
「吉良邸跡」っていうのを見つけることができます。
さて歴史上のこの「赤穂事件」の真相については様々な説が言われています。
が、まーくが一番信用できると思ったのが、歴史作家:井沢元彦.氏の説。
『忠臣蔵 元禄十五年の反逆』という小説中のストーリーで現代人が
忠臣蔵の謎を解いています。F[04.05.17]参照。ポイントを紹介しましょう。
1 江戸時代のような伝統・閉鎖社会では礼儀作法は簡単に変わらない
2 間違った作法を教えれば、浅野だけでなく吉良の責任問題(切腹)に
よって吉良が意地悪をしようがない
3 塩の製法技術に決定的な違いなどない
4 渡した賄賂が少なかった、という確認もできない。指導謝礼は裏金ではなく、浅野家の帳簿に残るはずの公金。
5 大石も「吉良が強欲に賄賂を求めた」という非難をしていない
よって吉良が不満を覚えたとする根拠がない
6 浅野内匠頭の「伯父or叔父」が先年乱心して全く同様な刃傷事件を起こしている
7 内匠頭自身も以前から神経症に悩まされている
点から、
→ 浅野内匠頭が乱心・錯乱して、全く恨みもない無関係な吉良上野介に斬りつけた。
取り押さえられた後、「俺は恨みがあってやったんだ」と口走ったが、
最近の同種の犯罪と同じで、吉良は全くの巻き添え被害者。
それどころか、加害者扱いされてる点では日本史上、最大の冤罪事件、
と言えるのでは。
184:吉良上野介
06/12/19 21:28:08
今年も、忠臣蔵の季節が近づいてきましたね?
おれは、毎年赤穂浪士の事件のあった日が近づくたびに、憂鬱ないやな気分になるのである。
日本人は、おおむね常識的で、大局的な判断を間違えない国民だと思うが、この件に関しては、なぜか正義と悪の観念がまるっきり正反対である。
それも、その価値顛倒を、かれこれ200年も続けている。壮大な勘違いだ。
今日は、なぜおれがこのように考えるのかを書こう。
吉良氏は、足利将軍家の血をひく名門中の名門で、世が世なら、将軍になれたかもしれない家柄で、上野介はその末裔である
185:吉良上野介
06/12/19 21:30:13
三河国の領地でも、長年にわたって善政を敷いており、地元の人には今でも名君として慕われているそうだ。
江戸幕府では、前代の名門が任じられる高家の筆頭として、有職故実に関する豊富な知識を買われて、主に儀式面の担当をまかされていた。
一方、浅野内匠頭は、広島の浅野家の分家であるが、本家自体が戦国からの成り上がりであるし、家柄から言ったら吉良家とは到底比べものにすらならず、石高も低く、大名ランキングは全国300諸侯のうち、下から2番目であったそうである。
江戸幕府の評価も、暗愚、愚鈍と最低であり、精神的に問題があったという説もあるくらいだ。
要するに、バカ殿だね。
その日は、朝廷の勅使を江戸城にお迎えするという、きわめて大切な儀式を行う日であった。
これが、江戸幕府にとって、どれほど重要であったかは、歴史をあまりご存知でない方でも、容易に想像がつくだろう。
186:井上ひさし氏が語る忠臣蔵中の悪役
06/12/19 21:37:10
井上ひさし氏は、米沢市の隣町の出身である。
米沢と吉良は血縁で深く繋がっていることから、
井上氏は幼時より忠臣蔵に関心を持たざるを得なかったという。
吉良上野介義央(よしひさ)の妻富子は米沢藩30万石上杉定勝
の4女で時の藩主綱勝は兄であった。
綱勝には跡継ぎが出来なかったので、義央と富子の間に生まれた
子供(綱勝の甥)綱憲を養子に迎え家系をつないだ。
綱憲を上杉家に出したため跡継ぎがいなくなった吉良家では、
綱憲の2男(義央の孫)義周(よしちか)を養子にして家系をつ
ないだ。
このように吉良家と上杉家は一体化していたので、吉良義央が
悪役化されると共に上杉家も肩身の狭いものになる。
井上ひさし氏は忠臣蔵の映画がかからない所として、吉良町と米
沢市をあげ、さらに忠臣蔵という物語の世界で悪役視されている
所(家)を、「一に吉良、二に上杉、三、四、が無くて五に田村」
と述べる。
187:井上ひさし氏が語る忠臣蔵中の悪役
06/12/19 21:37:43
五に田村と言われているのは、一関藩主田村右京太夫建顕の江戸屋敷
で浅野内匠頭が切腹したことに関わる。当時建顕は奏者番という役目
で殿中に務めており、下命により内匠頭を江戸屋敷に預かり沙汰を待
っていた。即日、切腹、お家断絶という命が下り、法にしたがって内
匠頭は田村屋敷で切腹したにすぎない。ところが、赤穂浪士ではなく
義士と言わねばならぬといった立場の人の中には、「大名を庭先で切
腹させたのはけしからん、それは田村の落ち度だ」と言うような人が
いるのである。忠臣蔵という物語を愛好するのは結構だが、たとえ五
番目位の軽いものであったとしても、理不尽な悪役視されたのではか
なわない。
188:日本@名無史さん
06/12/19 23:43:52
忠臣蔵はほとんど嘘でっせ。
189:日本@名無史さん
06/12/20 01:19:15
切腹は無罪なんだよね
斬首との違いはそこにある
綺麗な腸を見せることで無実を証明するのが切腹
死を以て無罪を得るわけだから座敷で行う
浅野は基本的に死刑
大名だから切腹の形は採らせたが
庭で腹を切るというのは切腹であって切腹でない
有罪だから御家は断絶になってしまう
義士は切腹
腹を切って無罪を勝ち取ったため各自の家は続く
大石も三男が家の再興を許されたし
190:日本@名無史さん
06/12/20 01:34:23
無罪じゃないだろ。無罪なのに死刑って冤罪じゃん。
自分で不始末の責任を取ったからこれ以上は不問にする。って事なんじゃないの。
中国にも「刑は士大夫に上らず」ってあるじゃん。
191:日本@名無史さん
06/12/20 03:53:16
>>185
吉良が三河の領地で善政を敷いた?
吉良って三河の領地に何回下ったの?
192:日本@名無史さん
06/12/20 07:29:46
>>189
浅野も大石も名目は切腹だったけど事実上の打ち首
手を脇差しに差し出した瞬間に介錯された
193:切腹どころか
06/12/20 08:21:15
前代未聞のことだが江戸城内まで網冠せの唐丸駕籠が入れられ、
それまで坊主部屋に一人で監禁されていた浅野を乗せ、施錠したままで
田村邸へ直行。「折角白半紙で張った場所まで至急にと、
用意していたのに不用だった」との田村家の記録は、切腹どころか駕籠
の錠を開けられ、顔を出したところを、バッサリ背後から打ち首にされ
たものらしい。早く口封じに始末するために、さっさと済ませたのである。
194:田村建顕
06/12/20 08:26:01
田村建顕は、外様なのに綱吉に気に入られ、奥詰・奏者番にのし上がった男。
当時の本家伊達綱村は柳沢の上屋敷が消失した時、突出した見舞い品を届け、
吉保の歓心を買おうとした。
伊達宗春も院使饗応役を無事勤めあげている。
伊達一門は優等生だったわけで、それだけすりより、ごますりに長けたところが、
顰蹙を買い、悪意の宣伝がされてるんじゃないか。
城中での取調べ中ならともかく、切腹の場に及んで浅野が何を叫ぼうが意味がない。
田村も庄田も綱吉や吉保の傀儡なんだから。
195:「これは上意だ」(=将軍の命令)
06/12/20 08:27:21
庄田は幕府からの上使として目付の大久保権左衛門、多門伝八郎らと
ともに田村邸を訪れ、将軍の意向を告げて浅野切腹の沙汰を宣告した。
しかし庄田の運命が狂い出すのはこのあたりからである。
大名・旗本の切腹は座敷が慣例でそれ以下の小者が庭先とされていた。
そのため田村家でも座敷で準備に取りかかったが、
庄田は「切腹の座は庭先に用意するように」と命じた。
これには副使として庄田に従っていた大久保や多門も反対し、
「浅野殿は殿中で大罪を犯したとはいえ、れっきとした5万石の
大名です。庭先の切腹など有り得ません」と強く詰め寄った。
しかし庄田は静かに「これは上意だ」とかえした。
「上意」(=将軍の命令)
196:浅野切腹否定説
06/12/20 08:27:54
ここまで幕府が略式に、しかも急いで切腹を行なったために
「浅野切腹否定説」まで飛び出る始末。
これは田村邸に到着した浅野はその場で何者かによって暗殺された
というのである。そのため切腹したという既成事実を作るために切
腹を急いだという説。こうした説が出るまでに刃傷事件発生から切
腹までの時間は短かった。もちろん庄田は幕府、ことに老中や三奉
行たちの意向を忠実に果たしたまでのことであった。
こうして5万石の大名浅野内匠頭は田村邸の庭先で切腹した。
197:庄田に責任転嫁
06/12/20 08:29:48
翌15日に浅野家本家の芸州広島藩浅野家から田村家に対して
「何故庭先で切腹させたのか」と厳しく抗議され、各方面から
も幕府の処置に対して抗議の声が寄せられるに至った。
こうなっては幕府としても黙っていることは出来なくなり、
あの処置は大目付の庄田下総守の手落ちであったということにして、
事件から4ヶ月後に幕府は庄田に対して「指図上意に叶わざる
故・・・」という理由で大目付を辞めさせられた。
今でもよくある事例だが、幕府は大きな組織の誤りの責任を実際
の当事者に被せて逃れてしまったのである。
198:日本@名無史さん
06/12/20 08:41:56
>>185
善政って
税金安くするとか
黄金堤のような工事を地元負担少ないでままやるとか
そういうこと。
その原資は上杉にたかったわけで、上杉から見ればえらい迷惑な爺
199:忠臣蔵新聞
06/12/20 08:48:28
老中の秋元喬朝さんと若年寄の加藤明英さんの前で、大目付の庄田安利さんが「滞りなく
内匠頭さんの切腹を見届けました」と報告しました。
目付の多門さんらが口をそろえて、内匠頭さんの切腹の場所について私たちは絶対に納得
できなかので、その様に申し出た。庄田さんは『さっき絵図面によって承知している』という。そ
のうえ言い争いになるので一通り意見をいって切腹も終わったが、ことのほか粗略の扱いにつ
き、一通り申し上げたが、夜も更け先刻より柳沢さんも退出せず待っているので、将軍に申し
上げるにはあまりにも遅くなるので明日登城して申し上げなさいということになった。
200:日本@名無史さん
06/12/20 11:36:46
200
201:日本@名無史さん
06/12/20 11:46:18
>>198
なるほど。それは自領に1回しか下ってなくても出来るの?
202:日本@名無史さん
06/12/20 12:51:41
>>201
江戸にいても指示や命令はだせるんだから行く必要ないんじゃないの。
203:哀れなるは吉良じいさん
06/12/20 21:19:08
気の利かない上に癇癪持ちの浅野の乱心で斬られて
今度はそれを根に持った赤穂の家臣らに嬲り殺されて
しかも後世では完璧に悪人に仕立て上げられて
哀れなるは吉良じいさん
204:吉良上野介義央公が地元では如何に名君であったか
06/12/20 21:20:01
吉良上野介義央公が
地元では如何に名君であったか。川崎出身の父はここ愛知は吉良町華蔵寺を訪れた際そう感じた
と言う。悪役は吉良公で赤穂浪士等が英雄とされる価値観が正反対になったと。ここには義央公
を含む吉良家の名代がまつられている。公の功績は例えば黄金堤(こがねつづみ)。吉良を流れる
矢作古川が度々氾濫を起こすため堤防を造り上げた。その他の活躍は数知れず。斯様な名君が何
故に仇扱いされて討たれる運命となったのか。父曰く偏に浅野内匠頭が愚将であったと。如何に
吉良公に恨みがあろうとて殿中で刀剣を振り回すようなみっともないことを行って家や家臣を路
頭に迷わせた愚か者の仇討ちをしてやる必要が何処にある。地元の文士尾崎氏は如何に赤穂の四
十七浪士の行いが不条理であったかを嘆く。
205:尾﨑士郎
06/12/20 21:20:59
小説『人生劇場』で名高い尾﨑士郎は明治31年(1898)
吉良町横須賀に生まれました。大正末期から昭和にかけて文壇
で活躍した尾﨑士郎は、吉良公や仁吉の生き方に深く傾倒し郷
土の風土と人情に深い郷愁を示したといわれています。
現在、尾﨑士郎の生誕地には生誕地の碑が、福泉寺には墓と文
学碑があります。
206:藩札
06/12/20 21:46:19
何故、一方的に吉良上野介が悪役に仕立てられ、討入をしかけた浪士た
ちは義士と仰がれるまで人気が高まったのだろうか……。その理由の一
つに、内蔵助が武士同士の義理は欠いても、商売上の信用を守ったとい
うのがある。当時、大名各藩では藩札という一種の兌換券を発行してい
た。これは、藩の財政の都合から現金にかえて発行したもので、いわば
現金又は現米の預かり証のようなものであるが、元禄時代には既に大名
は窮乏していた為、いったん発行した藩札をなかなか換金しようとせず、
踏み倒す事さえ稀でなかった。だから、藩札の信用は極めて低かったの
である。
207:藩札
06/12/20 21:47:10
赤穂藩は窮乏していたわけではないが、当時商取引の支払いが
年2回の節季制度だったから、その端境期には現金が不足するの
でそれを補う為に発行していた。ところが、元禄14年に浅野内
匠頭が殿中で刃傷事件を起こした。これを聞いて大石内蔵助が
まず何をしたかというと、藩札の回収を命じたのである。一般
に藩札は領内だけに流通していたが、当時赤穂藩札は信用厚く
塩流通圏一円に出回っていた。特に大坂・京都等の商人は藩と
の連携を深める為にたくさん持っていた。それを全て回収した
のである。内蔵助は浅野家再興の為には商人や領民の信用が何
より大事だと考え、徹底的に藩札の回収を行った。そのため換
金されずに残った藩札は、現在わずか2枚しか発見されていない。
208:藩札
06/12/20 21:47:49
他藩の藩札は、例えば明治維新等の際に、藩が無くなったのをい
いことに何万枚も紙くず同然で残されたりした。また、藩が倒れ
なくても、財政危機に陥ると幕府の了解を得て藩札を無効にし、
たまりにたまった債務を一掃したりした。だから、赤穂藩が残し
た藩札2枚というのは極めて珍しい例なのだ。同藩取潰しの為、
幕府から旗本榊原采女(うねめ)が出向いて赤穂城を受け取った時は、
藩札を回収した後だったので、現金はわずか70両しか残ってなかった。
幕府は赤穂藩の現金回収に失敗してがっかりだったが、商人や民
衆は赤穂藩の誠意に対する感謝の念を決して忘れなかった。
209:藩札
06/12/20 21:49:02
大坂で「仮名手本忠臣蔵」の芝居をやると必ず大入りになった
といわれている。大坂商人が感謝の気持ちから、席を買い切っ
て空席を満たしたからなのである。赤穂浪士の人気の秘密は、
民衆の信頼を裏切らなかった"残った藩札わずか2枚"の為だっ
たのである。
210:日本@名無史さん
06/12/20 22:50:15
吉良邸討ち入りの首謀者は浅野内匠頭未亡人・瑤泉院だった・・・。
URLリンク(www.tv-tokyo.co.jp)
211:日本@名無史さん
06/12/21 15:12:53
>205
義央公
仁吉
尾崎士郎
が吉良の三大有名人です。
212:武器対等の原則
06/12/21 20:33:55
喧嘩両成敗の原則に反しているという反論もあるかもしれないが、刃物をもっていきなり
切りかかる行為は喧嘩ではない。喧嘩というのは、互いの武器が均衡していることが
必要である(武器対等の原則)。したがって、喧嘩両成敗という理屈も成り立たない。
213:江戸城を襲い、華々しく散るべきだった
06/12/21 20:40:10
裁定をしたのは幕府であり、浅野内匠頭に切腹を命じ、命を奪ったものは幕府である。
この裁きが不公平で不満というなら恨むべきは不公平な裁きをした幕府である。
ところがあろうことか、赤穂浪士は吉良を殺害したのである。赤穂浪士は裁定が不満だと
言うなら江戸城を襲い、華々しく散るべきだったのである。
214:喧嘩両成敗
06/12/21 20:42:41
武家法制史的に「喧嘩両成敗」の概念を確立させたのは、貞和二年発布の室町幕府法
追加法十五条並びに二十六条である。鎌倉時代にも原形となる概念は存在したが、これは
執行力を伴わないものであるからここでは考慮しない。
この法令では、攻撃者側は道理にかかわらず有罪(所領没収・流罪)、被攻撃者側は
対処のしようによって無罪から攻撃者側と同等の処罰までケースバイケースで処理すると
規定されている。
以後、室町幕府はたびたび追加で法令を発布してことこまかく規定を定めていくが、基本の
大原則は変わっていない。すなわち、
「攻撃者は理由にかかわらず、公権力が責任をもって処罰する。
被攻撃者も、自衛の範囲を逸脱して応戦した場合は喧嘩と見做して処罰する」
というものである。
室町幕府の権威が失墜するに伴い、幕府法もまた有名無実のものとなるが、「喧嘩両成敗」の
思想は公権力の主体が幕府から諸大名家に移る形で存続する。
「将又あひて取かくるといふとも、令堪忍、剰被疵にをいてハ、事ハ非儀たりといふとも、當座
をんひんのはたらき、理運たるへき也、兼又與力の輩、そのしはにをいて疵をかうふり、又は
死するとも、不可及沙汰のよし」(今川仮名目録)
「若一方手出於仕者、雖為如何様理、其者可行罪科事」(元親百か条)
他の武家法制文献の規定も大同小異だから省く。要するに
「先に攻撃をしかけた側(加害者)が理由を問わず制裁を受けるという前提のもとで
攻撃を受けた側(被害者)の応戦を制限する。」
これが現実に存在した「喧嘩両成敗」の趣旨に他ならない。
留意すべき点は、この攻撃があくまで実力行使を伴ったものと規定されていることである。決して
「揉め事はどちらも等しく処罰する」などという安直なものではないのである。
そして、こうした「喧嘩両成敗」の思想は江戸時代に至るも何ら変わらない。そのことは
江戸時代に起こった武家の刃傷事件の判例を確認すれば明らかである。
215:「喧嘩両成敗」 には該当しない
06/12/21 21:23:24
殿中における刃傷事件というものは、過去にも例がありました。
そのいずれもが、刃傷を受けた側には不問としていました。
なぜならば、いずれの場合においても刃傷を受けた側は、即死または無抵抗で
一方的な刃傷であったからでした。
浅野内匠頭の場合においても、吉良上野介は無抵抗でした。
つまり綱吉の裁決は決して片びいきなものではなく、赤穂藩士の主張した
「喧嘩両成敗」 には該当しないものとなります。
216:喧嘩両成敗法
06/12/21 21:25:41
喧嘩両成敗法は、戦国時代など非常時における内部秩序維持の
必要に迫られての窮余の策です。
幕藩体制が安定し、法の支配がより徹底されていた元禄時代には、
すでにその存在理由はなくなっていたはずです。
にもかかわらず、 幕府が喧嘩両成敗らしき方式をもって双方を
処断したのは、幕藩秩序が封建社会を基礎としている以上、
情誼的な君臣関係をないがしろにできなかったからにほかなりません
217:日本@名無史さん
06/12/21 21:40:55
>武家法制史的に「喧嘩両成敗」の概念を確立させたのは、貞和二年発布の室町幕府法
>追加法十五条並びに二十六条である。
これはいわゆる故戦防戦法のことだね。
故戦防戦法は土地争いの裁定ルールで
故戦側と防戦側の区別を前提にして
原則的に故戦側の罪を防戦側よりも重くした。
このルールを争いごと全般に拡大したのが喧嘩両成敗と解釈しておけばだいたい間違いない。
218:日本@名無史さん
06/12/22 12:50:30
赤穂は歴史を偽造する。
219:日本@名無史さん
06/12/22 21:25:56
>>214
どこかで読んだ覚えがあると思ったら
>>6 のスレからのコピペか。
スレリンク(kin板:591-680番)
ここのあたりの流れすげえww
220:『喧嘩両成敗の誕生』清水克行著
06/12/22 21:50:21
日本人なら当り前のように使う「喧嘩両成敗」という言葉。
ケンカをした両者に対して、その正否を論ぜず同等の処罰を与える
―というこの法は、考えてみればずいぶん乱暴な法ではないでしょうか
実は「喧嘩両成敗」という仕組みは日本以外ではほとんど例が見られないといいます。
では、この独特な観念はいったいどこから生まれてきたのでしょうか。
著者は、中世の日本人が、我々が考えている以上に荒っぽく、
損害を受けた際には復讐に訴えるのを正当と考えていたこと、
自らの利権を守るためには、自力で戦うしかないと考えていたこと、
それが当時の社会の紛争を激化させてしまう大きな要因となっていたことに着目します。
そこで、戦国武将が秩序を回復するための緊急避難的措置として、
「喧嘩両成敗」の法律をつくりあげていくという過程が細かに記されます。
221:『喧嘩両成敗の誕生』清水克行著
06/12/22 21:54:14
喧嘩両成敗と裁判というのは、本質的に相矛盾するもの。
喧嘩両成敗は戦時ないし準戦時の特別立法であって、
平時の法令ではなかった。戦国大名にしても、織田・豊臣
政権にしても、また江戸幕府においても、最終的な目標は
喧嘩両成敗なんかではなく、公正な裁判の実現にあった。
これによって自らの支配権を公的なものに高めることを目
ざした。なぜなら、喧嘩両成敗は、権力主体からすると弱
さの表現でしかなかった。むしろ、喧嘩両成敗法を積極的
に普及させ、天下の大法(一般的な法習慣)にまで高めて
いったのは、公権力の側ではなく、一般の武士や庶民たちだった。
この本を読むと、いかに日本人が昔からケンカ(争闘)
を好きだったか、いくつもの実例が紹介されていて、驚く
ほどです。こんな事実を知らずに、日本人は昔から平和を
好んでいた民族だなんて言わないようにしましょう。
日清・日露戦争そして第二次世界大戦を起こしたのは、
私たちの祖先の日本人だったのは歴史的な事実なのです。
これは自虐史観なんていうものではありません。
222:日本@名無史さん
06/12/23 00:50:41
>>219
そこの
スレリンク(kin板:619番)
>ただ最初に言う事は、
>火病る、火つき、燃料投下、煽り、
>俺の最も嫌いな言葉が多過ぎる
>何を考えているのか
>2chの連中は不愉快な奴らだ
↑
自分でいっておいて
しっかり火病りまくってるのが笑いどころだな
223:日本@名無史さん
06/12/23 11:36:35
仮に吉良が浅野をいびったとしても、あの時代に指南料を払うのは当然の礼儀で、
藩主が気の利かないキティでも、江戸藩邸詰めの重役たちがしっかりしていて、
ちゃんと礼儀に適ったことをしていれば防げた事件です。
主君が主君なら家臣も家臣。100%浅野側が悪い。
224:日本@名無史さん
06/12/23 11:55:49
赤穂塩は有名だが、吉良にも塩田があった。
塩戦争じゃなかったのか? つう説はどうなったの?
225:日本@名無史さん
06/12/23 12:52:01
あの当時の吉良に塩田はあったの?
往々あることだけど、後の時代の地域イメージが投影されてない?
226:日本@名無史さん
06/12/23 13:56:18
【赤穂浪士は悪役】吉良側に立った忠臣蔵を作ろう!
スレリンク(kin板)
817 名前:名乗る程の者ではござらん 投稿日:2006/12/11(月) 11:57:08 ID:ShHGIZQQ
スレ違いだけど、仁義無き戦いのメンバーで作って欲しかった。
吉良:金子信夫
大石:菅原文太
以下略
821 名前:名乗る程の者ではござらん 投稿日:2006/12/11(月) 21:40:23 ID:???
>>817 金子って吉良役なかったかな~?
吉良>なんじゃあ、おどれらは。
大石>首もらいますけん、ちぃ~と
辛抱してつかあさいや・・・
227:日本@名無史さん
06/12/23 15:27:33
>225
饗庭塩は江戸時代どころか
寛正年代ぐらいからあった。
228:吉良塩と赤穂塩
06/12/23 19:36:07
吉良家は鎌倉時代以来、三河国(現愛知県)吉良庄を領した足利氏一族と
いう名家である。吉良は矢作(やはぎ)・古川の三角州にある土地で、
後には米作の安定した農地になるが、当時は川の氾濫から米の収穫だけ
では生活にならなかった。そこで、海岸に塩田を作り、塩釜法による
製塩を行い、塩の販売で収入を図った。それまで江戸では、千葉県の
行徳(ぎょうとく)で焼いた塩が使われていたが、吉良塩の方がはるか
に品質が良いので盛んにもてはやされた。この吉良塩に対抗したのが
赤穂塩だった。
229:吉良塩と赤穂塩
06/12/23 19:37:02
浅野家は元々、芸州(現広島県)浅野家の支藩で、常陸国(現茨城県)
笠間を領していたのだが、幕府の命令で赤穂に国替えさせられる事
になった。筑波山の盆地である笠間から、瀬戸内海沿岸の赤穂へい
きなり行っても、藩の経営の仕方がわからない。そこで、吉良家に
教えを乞うて、塩釜法を学んだのである。内匠頭や上野介の先代の
時のことだ。この塩釜製塩法を赤穂で成功させたのが家老である大
石内蔵助の先代で、良雄の代になってようやく塩の生産量が上がった。
塩の販売は、ふつう藩内の商人に任せるのが例だが、赤穂藩は家老
自ら先頭に立って積極的商法を展開した。堺・大坂・京都に赤穂藩
の販売出張所を設け、大石内蔵助は販売担当重役になって巡回する
のである。こうして上方での販売は成功を収めた。やがて、生産量
がどんどん上がるのに対して販売が頭打ちになってきて、塩がだぶ
ついてきた。
230:吉良塩と赤穂塩
06/12/23 19:37:52
そこで、値崩れを防ぎ、生産量を落とさない為に、内蔵助は江戸
に販路を広げる事にした。菱垣廻船で塩を江戸に運び、塩問屋に
町売りをさせたが結果が思わしくない。三河の吉良塩が市場を独
占していたからなのだ。だが、内蔵助は一計を案じて将軍綱吉に
赤穂塩を焼塩にして献上した。将軍が朝に歯を磨くのに使っても
らったのだ。将軍御用達となると宣伝効果は抜群だった。
上方に対してコンプレックスの多かった江戸っ子にとって、
将軍のお膝元が唯一の自慢の種だから、将軍御用の塩ならと赤穂
塩の売行きがぐんと上り、かわりに吉良塩がおもわしくなくなっ
たのである。その結果、赤穂藩は財政豊かになったが吉良家は経
営危機に陥った。しかも、吉良家にとっては、塩釜製塩法を教え
たばかりに、恩を仇で返されたわけで当然面白くない。
ここに、浅野家と吉良家の確執が始まり、赤穂塩販売に対する吉
良家の妨害から江戸刃傷沙汰となり、忠臣蔵がはじまったのである。
231:日本@名無史さん
06/12/23 20:02:42
>>223内匠頭長矩は、饗応役は2回目だし前回とやる事同じだから指導料を払わなかったんだろうな。
>>230恩義ある吉良家には、売り上げのなかからリベートを払ってもよいのにな。
232:歯磨用焼塩
06/12/23 21:27:52
昔からの塩も工夫され、商品として売られていた焼塩である。
塩を壷に入れて焼いたもので、そのまま使うものと売りやすくするため
焼塩を型に入れ固めたものが売り出されていた。徳川家康が江戸に入
府したときに、江戸庶民の為に塩田(千葉県行徳)を拡張して供給させたが、
徳川家の使用する塩は三河吉良(静岡県吉良市)吉良上野介義央の所領
から献上する饗庭塩が使われ、江戸の一流の町人や有名料理屋などもこ
の塩を使っていたという。さて、正保2年(1645年)浅野長友は常陸
笠間で五万五千石を領していたが嫡子長短のとき藩州赤穂に転封になっ
た山国の大名が海に面した領地に行くに際して、藩の経営をどうしたらよ
いか苦慮した結果、三河吉良の庄に家来を送り吉良家の精塩法を習い赤穂
の塩田の開発に努力した結果、赤穂の塩は品質、味、共に良いと評判を得て、
大阪、京都、堺など名声を博して食用以外に歯磨用焼塩をつくり売り出した。
当時将軍は毎朝七時に寝所を出る。そして御手水の間で畳の上に「毬子」
を敷いた上に座って顔と歯は自分で洗った。歯は奥詰口中医<「赤穂の塩」
と「吉良の塩」は歯磨剤の分野で商売仇となる。>の調合した歯磨粉、
焼塩、細紛した松脂の三種類を小皿にのせたものを、その時の気分で好
きなものを選んで房楊枝につけて磨いた。その後、髪を結い袴をつけ
仏間を拝し朝食をとった。
233:歯磨用焼塩
06/12/23 21:29:09
この将軍が使う焼塩として赤穂の塩が五代将軍綱吉に献上されるに及ん
で江戸でも有名なブランドとなった。赤穂の塩がお上御用達となると、
困ったのは、行徳と吉良の塩である。行徳の塩はまだ江戸庶民用だから
問題はないが吉良の塩は焼塩として歯磨用に使われていたので、赤穂の
焼塩、塩の進出は商売仇の出現を意味した。このような状況下で元禄十
四年浅野長短に二度目の勅使接待役が廻ってきた。この接待役の指導に
あたるのが吉良義央であった。両家に経済上の対立があるとき、吉良の
浅野に対する感情は徒ならぬものがあり何か触発するものがあると不慮
の事態を引き起こすことは、至極当然である。元禄十四年三月十四日
巳の刻(午前十時半)殿中、松の廊下で浅野長短が吉良義央に刃傷に
及んだ。後日、元禄十五年十二月十四日赤穂浪士の吉良邸討入りがあっ
た。その中に加わっていた堀部安兵衛、大高源五らが歯磨粉や歯磨用焼
塩を商った有名な芝の兼康祐見の看板を書いたり大高源五の弟である口
中医の小野玄人の金看板を書いたのも何か因縁があったのかも知れない。
参考文献 東京歯科大学名誉教授 長谷川正康著
234:塩の価値
06/12/23 21:42:26
中国では紀元前7世紀に政府は塩の生産を規制し、各人の購買量の
下限を定めた。このことから塩の流通が紙幣の創出に結びつき、
紙幣で一定量の塩と交換できるようにして、紙幣の価値を塩で保証
した。他の国々でも物々交換の仲介品として塩が使われた。
13世紀にマルコ・ポーロは偉大な汗(カン)の時代に使われていた塩
の印章について書いており、山の中では塩のコインは大きな値打ち
を持って通用し、その地方では近年までそのお金が使われていたと
いう。エチオピアでも一部の所では1900年代の始めまで「アモウリス」
と呼ばれる塩の小さなタブレットが使われていたと言う。
古代ローマでは兵士の給料に塩が支給(サラリウム・アルジェ
ンタム)されており、サラリー(給与)と言う言葉は由来している。
兵士はその塩で他の商品を得たことから、塩が貨幣的役割を果たした。
塩はあらゆる商品の価値を測る尺度であった。「彼は彼の塩ほどの
値打ちもない」とは奴隷を買うときの言葉で、その昔、人間の価値
を塩で判断したことがあった。20世紀でも花嫁をもらうのに塩をい
くら出す、と言うことが残っていた。
235:「塩梅」という言葉
06/12/23 21:45:34
塩は、全ての味のベースとして重要な物資であり、調味の加減を表す
「塩梅」という言葉からもわかるように、古来、基本的な調味料は塩
と梅酢であった。江戸時代にはいって、様々な調味料が普及したため、
塩は直接の調味料としてより、漬物、味噌、醤油の原料として大量に
生産・消費されるようになった。広山堯道氏の試算によると、江戸時
代末期における全国の塩生産量470万石のうち、醤油醸造用約33万4000石、
味噌用49万4000石、漬物用125万石となっている。
236:salt 「塩」を使う慣用句
06/12/23 21:48:28
I'm afraid we may have few politicians worth their salt.
残念ながら給料に見合う働きをしている政治家は少ないようです。
Do you think this textbook is worth its salt?
このテキストそれなりの価値があると思いますか。
給料(salary) の語源がラテン語の塩(sal) から派生した
salarium であるというのは比較的知られています。
この慣用句も salt を salary に置きかえれば意味は明白になるでしょう。
237:土俵に塩
06/12/23 21:52:38
なぜお相撲さんは取り組の前に塩を撒くのでしょう。
相撲は昔、豊作を祈る祭りとして始まったもので、その土俵は
神聖な場所とされ、取り組みの前に清めるしきたりがありました。
その土俵を清めるのに昔から神聖なものとされてきた塩が使われ
ていたのです。また、塩の滅菌作用により、お相撲さんが転んで
怪我をした時も、傷口からばい菌が入るのを防ぐ役目もしています。
相撲に塩はかかせないものとなっています。
238:清め塩
06/12/23 21:55:19
京都府宮津市が全戸配布する広報誌などで
「葬式での清め塩は故人の尊厳を冒涜(ぼうとく)することにならないでしょうか」
などと廃止を呼びかけたところ、
市民から「行政が口出しすべきことなのか」と苦情が出ている。
「清め塩をすることは死者をけがれた存在とみなしている」というのが市側の言い分だが、
宗教とかかわる葬式への“介入”に「政教分離に触れるのでは」と指摘する専門家も。
塩論争はさらに波紋を呼びそうだ。
同市教委は平成16年、市民の意識調査で「葬式には清め塩を出す」とした人が56・6%に上ったことが「意外に多かった」(市教委)として、“啓発が必要”と判断。
昨年6月から市広報誌(毎月約8600部発行)に「人権の小窓」というコーナーを設け、
「今まで親しんできた人を、亡くなった途端に、けがれた存在とみなすのは
人間の尊厳を冒涜することにならないでしょうか」と否定的な見解を示した。
さらに、市内の僧侶や葬儀関係者に意見を聴いたうえで、ほぼ同じ内容のチラシを作り、
昨年秋に全戸配布。
火葬申告に市役所を訪れた市民に慣習を廃止するようアドバイスも始めた。
申告の際に配られる専用チラシでは「清め塩の風習をなくしましょう」と、
廃止を呼びかけている。
市民から市役所に抗議の電話も。
同市内の男性は「日本人に受け継がれてきた風習で、市役所が口出しすることではないと思う」と批判している。
同市教委は、「市民に因習にとらわれない生活を勧めたい。
廃止を強制しているのではなく、あくまで再考のきっかけとなれば」と説明している。
239:日本@名無史さん
06/12/24 06:32:48
長崎喧嘩騒動を映画化して欲しい。
240:日本@名無史さん
06/12/24 11:57:00
>>223
当時の江戸詰め重臣は殿恋人と言う以外能がなかったからな。
大石内蔵助がいれば内々にまとめていたろうに・・・
241:日本@名無史さん
06/12/24 13:20:20
>>223
元禄11年、同じく勅使饗応役となった亀井隠岐守茲親も義央から激しい
イジメを受けて、耐えかねて刃傷に及びそうになったのを家老の多胡真蔭
が察して茶菓子の中に金一箱を入れて吉良本邸へ持参して無礼を謝ったら、
翌日から義央の態度が急に優しくなったという話もあるからな。江戸の浅野
の家臣が気が利けば大事にならずにすんだな。
242:日本@名無史さん
06/12/24 13:40:32
というか、授業料を払わなければ吉良先生も怒るよ
243:日本@名無史さん
06/12/24 15:23:40
>>241
その話は
仮名手本忠臣蔵の加古川本蔵のエピソードの丸パクリだし。
244:日本@名無史さん
06/12/24 18:29:17
>>243
吉良義央
URLリンク(ja.wikipedia.org)
> ちなみにこの時の話がモデルとなって歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』の
> 桃井若狭之助(亀井?親)と加古川本蔵(多胡真蔭)が誕生したようだ。
亀井茲親
URLリンク(ja.wikipedia.org)
> 『仮名手本忠臣蔵』に登場する桃井若狭助と加古川本蔵は茲親と多胡
> をモデルにしたものである。
『仮名手本忠臣蔵』がパクリ。
245:唯の見張りだけの者までを、一蓮托生に死罪
06/12/24 19:12:56
細川邸での処刑で、実際に吉良邸へ抜刀し不法侵入したのは、
表門からの奥田孫太夫、矢田五郎右衛門、片岡源吾、富森助右衛門
の四名である。
裏門からは赤埴源蔵で合計五名のみなのである。
他の十二名は武闘派ではなく、ただ戸外にあって上野介を討ち取る
までは邸内に一歩も入っていないで、塀の周りに立っていたきりな
のである。
だから、いくら大公儀の権勢をもってとはいえ、柳沢吉保が実際に
人を殺した者達と唯の見張りだけの者までを、一蓮托生に死罪にす
るのは酷いというのが、当時の同情が集まった処だろう。
246:日本@名無史さん
06/12/24 19:32:11
>>244
1748年の『仮名手本忠臣蔵』以前から亀井のエピソードが明らかに存在していた(文献などで確認できる)なら
『仮名手本忠臣蔵』が元ネタにしたことで間違いない。
しかし
最初に桃井と加古川の元ネタが亀井だといいだしたのは
ずっと後の時代の蜀山人(戯作者)。
『仮名手本忠臣蔵』がパクリというなら
1748年以前から亀井のエピソードが存在していた証拠を説明できるよね?
wikipediaはソース書いてないけど。
だいたい
元禄11年の勅使饗応役は亀井にとって三度目。
247:日本@名無史さん
06/12/24 19:47:12
亀井の話の出典は津和野藩の公式記録には出てきません。
「多胡主水伝」と「半日閑話」に出てきます。
「多胡主水伝」著者江木鰐水・文化7年(1810)生
「半日閑話」著者大田南畝・寛延2年(1749)生
「仮名手本忠臣蔵」作者竹田出雲・並木千柳・三好松洛・寛延元年(1748)初上演
248:津和野小学校 Home Page
06/12/24 19:56:57
昔、津和野の殿様の亀井茲親が、偉い人にある仕事を言われました。
その仕事のやりかたを吉良上野介に教えてもらおうとしましたが、
その吉良上野介はその仕事のやりかたをちゃんと教えてくれなかった
ので亀井茲親は、おこりました。それを聞いた家来が、けんかをしては、
たいへんだと思い、下に小判をぎっしりしきつめた源氏巻をおくって
仲直りした、という説があります。
249:日本@名無史さん
06/12/24 20:06:59
蜀山人が源氏巻の販促のために作った話だろ?
平賀源内の土用のうなぎみたいなもん。
250:日本@名無史さん
06/12/24 20:41:55
内匠頭阿呆杉。 以上。
251:日本@名無史さん
06/12/24 21:10:22
>>250
その阿呆杉のおかげで飯が食える人もいる。
252:日本@名無史さん
06/12/24 22:11:27
>>249
蜀山人嘘つかない
253:日本@名無史さん
06/12/25 10:47:56
決行を思いとどまり
未遂とすらいえない状態の
亀井茲親のエピソードが
(ニュースになりそうもないできごと)
世に知られるわけがなく
戯作者も知りようがないな。
あれが仮名手本のモデルというより
仮名手本成立後の創作された可能性高い。
254:日本@名無史さん
06/12/25 11:01:01
慶応大のある国文学者が言ってたけど
忠臣蔵関係の回顧談や逸話伝やそれらしい文献とかも
創作箇所とか捏造ものが非常に多いので
取り扱いには注意を要する・・・と。
255:日本@名無史さん
06/12/25 11:48:12
>>247
仮名手本の定本成立前に先行する作品がいくつかある。
それらの諸作品のなかに桃井ー加古川主従に相当するエピソードが
おりこまれているかどうか検討しないと。。。
256:244
06/12/25 12:54:56
>>246
> 1748年以前から亀井のエピソードが存在していた証拠を説明できるよね?
知らねーよ。
wikipediaが『仮名手本忠臣蔵』がこの話をモデルにしたと書いているのでそう書いたまでだ。
wikipediaが間違っているならお前が書き換えろよ。
直るの楽しみにしてるぞw
257:日本@名無史さん
06/12/25 15:48:02
>>256はなんで日本史板にいるのかな?
にほんしにきょうみのあるしょうがくせいなんですか?
258:日本@名無史さん
06/12/25 18:48:20
wikipediaの受け売りかよ!
m9(^Д^)プギャー
シッタカブリツッコマレテギャクギレミットモネー
259:日本@名無史さん
06/12/25 19:51:51
>>256
君も歴史好きならもっと探求心を持とうよ!
wikiの鵜呑みより、古今の色んな本を読んで
いろんな説を知り、自分でも考えていくという姿勢をもとうね!
>>255
寛延元年に大坂竹本座で初演される『仮名手本忠臣蔵』までに、
先行して制作されたであろう演芸演目を数えてみたけど、
元禄十六年の『曙曽我夜討』を嚆矢として23本ほど。
(増訂赤穂義士事典)を参考にしたので、
ほかの資料本や識者によって色々と説もあるかと思いますが
20本前後はあると思ってよいのでは。
260:沢山の忠臣が集まった倉庫
06/12/25 20:52:09
沢山の忠臣が集まった倉庫みたいなものと、忠臣蔵の名前を付ける
261:不忠臣蔵
06/12/25 20:59:25
不忠臣蔵 井上 ひさし・著
元禄15年12月15日払暁、華々しき赤穂浪士の討入りに行けなかった、
行かなかった不忠不義の士19人の理由と言い訳。
忠臣蔵の先入観を塗りかえる第20回吉川英治文学賞受賞作
262:日本@名無史さん
06/12/25 21:23:18
>>255
仮名手本忠臣蔵よりも前の芝居や講談に
桃井-加古川のエピソードがあったとしたら
よけいに作り話じゃんてことになるんだが。
ちゃんとした文献(日記とか)に亀井-多胡の実名で出てくれないと。
263:でっちあげの与太話が多い
06/12/25 21:24:12
「赤穂浪士の話には、どうもでっちあげの与太話が多い。
作家は荒唐無稽な事を綴る反面、これが真実だというのも努力し
骨を折って見つけておかねばならぬ」と書いたのは太田南畝である。
さらに南畝は「まやかし物の筆頭は<芝泉岳寺中口上書>とか
<泉岳寺覚書>と題され、『浅吉一乱記』や『江赤見聞記』の中に
入れられてあるものだが、呆れ果てて何もいえもせぬ」とその
「半日閑話」の著作でずばり名指しで出鱈目ぶりを指摘している。
曲亭馬琴も、やはり偽書とはっきり決めつけていた<河田藤助物語>
のごときは、(無子無妻だった筈の武林唯七の妻と称して、討入りの
手引きをしたと女忠臣蔵では書かれてある女が、実は堀部安兵衛の
娘であったと、住まっていた長国寺には今も由来書が伝わり、
その子孫がいて、門前で花売りをして人々に本当にされている)と、
はっきり書いている。さて、江戸時代にどうしてこうした好い加減
な講談種には都合のいい俗書ばかりが次々と生まれたのかといえば、
訳がある。
264:日本@名無史さん
06/12/25 22:18:33
>>263
だから、254も読めや。
265:日本@名無史さん
06/12/26 13:01:41
製塩法を教えてもらった恩を仇で返すわ。電柱で後ろから斬りつけるわz。
浅野は人間のクズやな。
266:日本@名無史さん
06/12/26 17:06:41
浅野大学がいい歳して部屋ずみに居たから変に大石達が御家再興に一縷の希望を見出だした。
大学をとっとと養子に出しとけばよかったんや。
そうすれば無駄な努力をしないですんだ。
267:日本@名無史さん
06/12/26 21:26:17
深夜に老人を襲って殺す卑怯者集団
268:赤穂鬼畜
06/12/26 22:06:58
吉良側の生存者の証言があって,
襲撃のとき「ほくりほくり」という音が聞こえたそうだ.
その日, 家来たちは支度や片づけで疲れきり
酒も入って泥のように寝ていた.
実際は切り合いとかなくて, 赤穂鬼畜は寝てる吉良家臣の首を
機械的に落としてった.
中には16の少年もいて, ふとんに隠れ
ガクガク(((( ;゚Д゚))))ブルブル してるところを見つけて
面白半分, めった刺しで殺したそうだ.
269:テロ集団
06/12/26 22:07:52
反幕府テロ集団が哀れな老人を虐殺して、
生首を掲げて江戸中を練り歩き、
庶民を恐怖のどん底に陥れ、江戸を混乱状態にした。
270:なんで殺されなきゃならんのだ
06/12/26 22:08:50
上野介
「ワシがなんで殺されなきゃならんのだ。ワシがなにをしたというのじゃ?
乱心した内匠頭に斬りつけられ傷を負った上にそちたち(赤穂藩)からはなんの
詫びもないどころか、大挙してワシの舘を寝込みに襲い、大事な家臣たちは
次々に理不尽にも斬られこうしてワシはそちたちに刃をむけられておる。
のう大石とやら、説明してくれい。なにゆえに・・・」
内蔵助
「問答無用!」・・・グサッ!
上野介
「む、無念じゃ・・・」
271:吉良さん
06/12/26 22:09:37
吉良さん。
○斬られ損
○言われ損
○殺され損
272:十五歳と十七歳の茶坊主までもが殺されています
06/12/26 22:10:59
正確には14日ではなく15日にはいった寅の刻(午前4時)ごろ、
完全武装の浪士たちが吉良邸内に押し入り、熟睡していた吉良家の者
たちを虐殺。浪士方には重傷者はおらず、吉良方では十七名の死者。
非戦闘員である十五歳と十七歳の茶坊主までもが殺されています。
この事件を「義挙」と呼ぶ人々の神経が、私には理解できません。
(杉浦日向子氏が1994年の「季刊歴史ピープル」の座談会で仰
っている「社長の殺人未遂を社員が遂行」に全面的に賛成!)
273:忠臣蔵も難しい時代になってきました
06/12/26 22:36:21
赤穂浪士に対してもっとマイナスなのは、彼らが「テロリスト集団」
だという認識が少しずつ広まってきていることです。
9.11テロ事件以来、世の中の空気は大きく変わり、テロこそ最も憎む
べき犯罪になりました。これまで単なる痛快勧善懲悪物語だった忠臣蔵も、
よくよく歴史を振り返って考えると、暗愚の殿様を持った故に浪人にな
った連中が、「名君」の誉れが高い吉良上野介を逆恨みして惨殺した
テロ事件にしか過ぎないと思えてくるわけです。ま、あえて極論を言っ
ていますけど。
もしくは「仇討ち」という発想が、アメリカのアフガン空爆を想起さ
せるのかも知れません。やられたら倍にしてやり返す、という子供じみ
た発想。恨みと暴力の連鎖は決して平和をもたらさないと考えると、
赤穂浪士たちの大義も、アメリカの大義同様に胡散臭く思えてしまいます。
正義の味方も立場を変えれば悪魔の化身。鉄人28号で横山光輝が訴え
たこのテーゼは、アメリカとアルカイダにも、赤穂浪士と吉良にも当て
はまります。忠臣蔵も難しい時代になってきました。
274:杉浦日向子さんの漫画
06/12/26 22:43:05
杉浦日向子さんの漫画を読むと、忠臣蔵がまぎれもないテロであ
ることが書いてあります。義士たちも、仇討ちのそぶりも見せず
にずっと潜伏している「スリーパー」でした。(誤解のないよう
附け加えると、杉浦さん自身は討ち入りを善しとしているわけで
はありません。)一般 の日本人は、テロリズムという近代的な解
釈を加えることなく、読者として、また観客として、これらの殺人
あるいは殺人未遂の物語を愛してきたと言えるでしょう。
四十七士が切ったのはたまたま吉良家に仕えていた人たちで、
寝込みを襲われ何もわからないうちに斬られた者も多かったようです。
しかし忠臣蔵の観客にとっては君の悪事は臣の悪事でもあることが
大前提となります。
275:自爆テロのテロリスト
06/12/26 22:46:06
要するに「確信犯」として切腹もすんなりと受け入れた、
という赤穂浪士の態度は、自爆テロのテロリストそのものですよね。
やっぱり。で、それが「美談」とされる、ってのは、考え方として、
現代では「危険」って言われる可能性が高い。
「義」が「法」に勝るもの、とされると、国家という枠組みにひび
が入るからね。だからこそ、逆の意味で閉塞した現代には「光明」
と受け取られることもあるんだな。
276:日本@名無史さん
06/12/26 22:46:38
大体、吉良が浅野の奥さんに横恋慕したのも、畳の張り替えをさせたのも、
鮒じゃ鮒じゃ鮒侍じゃと言ったのも、頭→背中と言う順で切り付けたのも、
大石が放蕩の擬態をしたのも、浪士どもが町人に扮して吉良邸の図面を手に入れたのも、
打ち入りで殺りあったのも、陣太鼓打ったのも、炭小屋で吉良が見つかったのも、
引き上げるときに町人が喝采したのも、浅野が名君なのも、
浅野が奥さんと仲が良いのも全てお芝居!
仮名手本忠臣蔵で高師直や塩治判官や大星由良助とその仲間達がしでかしたこと。
そのフィクションに実在の人物を当てはめてさも事実のように仕立てるのはおかしい。
277:「忠臣蔵」ではなく、「テロリスト蔵」
06/12/26 22:52:00
忠臣蔵といえば、大石内蔵助が様々な苦労を乗り越えて亡き主君
(浅野)の仇・吉良を討つ美しい美談(重複表現で、誤り)……ち
ょっと待ってくれ。
じいさんをよってたかってなぶり殺しにするところの、
どこがカッコイイのだ。潔く決闘するとかならまだしも、
やり方も汚い。「討ち入り」と言えば聞こえはいいが、
深夜に大勢で押し入り、罪もない吉良とその家来を虐殺─つまり、
ただのテロ事件である。人数はたしかに吉良邸にいる人間のほう
が多いが、浪士たちは武装が整っている上に、相手の寝込みを襲
うのである。これは私が考えた言葉だが、「卑劣なテロ」と言う
しかない。だから、「忠臣蔵」ではなく、「テロリスト蔵」なの
である。
278:日本@名無史さん
06/12/26 23:13:52
>277
忠義とテロって相容れない反対語じゃないから
忠臣蔵かつテロリスト蔵でいいんじゃないの?
279:日本@名無史さん
06/12/26 23:22:36
>>278
忠臣というには泉岳寺で切腹せす出頭している所に若干の打算が感じられるか、
忠義とテロは共存できる。
むしろ忠誠心や信仰心の強い人間ほどテロを実行する。
280:日本@名無史さん
06/12/26 23:31:55
>>232
>三河吉良の庄に家来を送り吉良家の精塩法を習い赤穂
これ書いた人って歯医者で
塩屋でもなければ歴史家でもない。
信用できる?
281:日本@名無史さん
06/12/26 23:44:57
>>280
参考にする程度だな。
史書とは違うからアレだが、お芝居よりも信頼できるよ。
282:日本@名無史さん
06/12/27 01:52:40
日本のテロリストは赤穂がふるさと。
283:武士の実態
06/12/27 18:09:13
武士の為体(ていたらく)を嘆く、憂国の士によって
「武士道とは何か」と、再検討されたことは、必然的な成り行き
であった。
そして驚く事は、「忠臣蔵」のモデルになった討ち入りした
四十七士も、こうした転職組の武士達であり、大部分は親の代、
もしくは本人の代になって、浅野家へ仕官した家臣で、祖父の
代からの家臣は数える程しかいなかった。
では、浅野家・家臣四十七士は何故、徒党を組み、討ち入り
に参加したのか。
それは彼等が親の代、あるいは本人の代になってからの転職組
であり、それ以前は浪人であった。彼等は浪人生活の苦しさを
熟知している。
したがって浅野家断絶後、転職したり、町人に身を窶したりし
た武士も、相当に居たかも知れないが、再び浪人して苦しい生活
に戻るよりは、徒党を組んで、ひと暴れし、世間をアッと言わせ
る方を選択したと言えなくもない。
しかし武士は「二君に仕えず」と言うけれども、これはあくま
で建前の事であり、本音は「飢えは恥じより苦しい」というのが、
当時の武士階級の偽わざる実情であった。
そしてこうした伝統は、明治以降も続くのである。
284:武士の実態
06/12/27 18:09:58
江戸時代において、二百有余藩が理不尽な理由で取り潰されている。
しかし忠臣を全うし、武士道を実践したのは、赤穂藩ただ一藩であり、
その一藩も、家臣三百人も居ながら、三百人中、主君の為に討ち入った
のは僅かに四十七人で、これは日本の武士階級の総数からすると、
余りにも少ない数字である。
お家が取り潰され、お城明け渡しともなると、一度は
「籠城(ろうじょう)し、城を枕に討ち死にせん」と豪語する武士は、
必ず何人かがいる。時には、「家臣一同切腹して、その武士の生き態
(ざま)を天下に知らしめん」と、息巻く武士もいる。
しかしこうした事は、一例もなく、二五十年間の中で、
赤穂浪士四十七士ただ一例だけが、討ち入りをして、主君の恨みを晴
らすという事に止まったのである。
結局のところ、日本において、理不尽な横暴に対し、勇ましい掛け
声はかけるが、いつの間にか、一人去り、二人去るというのが実情であり、
最後は全員が浪人になったり、町人に身を窶(やつ)すというのが偽わ
ざる武士の実態であったようだ。
285:武士の実態
06/12/27 18:10:55
江戸時代は、一見封建主義に見えながらも、実はそうではなかった。
士分でありながらも、出世欲は旺盛で、商人同様に金勘定に聰(さと)く、
意外に主君や主家を平気で変え、条件の良い就職先や、他藩に転職
するという転職組も多かったのである。
事実、賄賂政治と批判?され、天明飢饉などにより、失敗に終った
といわれる田沼意次(おきづぐ)・意知(おきとも)の時代は、
貿易振興・蝦夷地開発・新田開発など幕政の積極的打開を意図したが
それは成就することがなかった。
田沼時代(明和4~天明6の20年間)の当来は、意次が小姓を経
て側用人となり、遠江(とおとうみ)相良(さがら)の城主に取り立
てられ、老中にまで登り詰める出世競争を考えて見ても、幕政の実権
を握った意次が、どの程度の武士であったか、容易に想像がつこう。
286:武士の実態
06/12/27 18:11:49
徳川時代の大名家は拝領する領地なども、ヨーロッパの中世貴族
に比べて非常に狹く、また自立性に乏しく、思考性に欠け、
家臣は少なく、武力も貧弱であった。特に弱少の外様大名は、
こうしたことを後々までに強いられた。そして外様大名に対する
圧力は、徳川幕府と言う幕藩体制が「中央集権的封建制」と言う
独特な政治形態を作り上げていたからである。
また弱少の外様大名でなくても、かつての加藤家(肥後国を領有)、
福島家(安芸・備後五十万石を領有)、最上家(山形五十七万石を
領有)まどの五十万石級の大大名であっても、徳川幕府に逆らえず、
易々と取り潰されたと言う歴史を持っている。彼等、大大名家は大坂
「冬の陣」や「夏の陣」の抵抗すらせず、まんまと幕府に取り潰され
ている。
287:武士の実態
06/12/27 18:13:27
後の世の1897年には、徳川幕府は周知のように薩長二藩を母体
とする西南雄藩の反乱と、一部の浪人の暴動で、幕府は意図も簡単
に崩壊する。「尚武の国」と言い、「武士道の国」と言う武士階級
層が、この当時、一体どれほど、徳川将軍家に忠誠をつくし、
命を投げ出した忠義の旗本・御家人がどれほどいただろうか。
それでも、佐幕の為に会津藩や桑名藩は、徳川幕府の為に人力
をつくし、戊辰戦争を勇敢に戦ったのである。しかしこの二藩は
徳川家遠縁の、今日で言う子会社的な存在であった。
更には、新撰組や京都見廻組は寄せ集めのガードマン的なものに
過ぎず、徳川家とは全く関係ない外部団体であった。
288:二君に仕える
06/12/27 21:12:19
日本は「尚武の国」、「武士道の国」と言うが、忠義や忠誠と言う
観点だけに限定して以上を論ずるならば、日本人は本来忠誠心の強
い民族とは言えないのである。
日本人の中にはその国民気質に、二君に仕える要因が多分にある。
それは歴史を見れば明らかである。
289:変わり身の早さは唖然とする
06/12/27 21:13:01
徳川250年間を通じて、中央集権的体制を敷いた中央政府が、
二万五千人もの正規軍を持ちながら、下級武士や農民からなる官軍
の母体を形成した奇兵隊(幕末に長州藩で組織された非正規軍)に、
数年で呆気無く敗れているのである。
そして驚く事は、東北で戊辰戦争が展開されている頃、旧幕臣の、
眼先に聡い旗本・御家人達は、就職先を明治新政府に求めて殺到して
いるのだから、その変わり身の早さは唖然とするばかりである。
290:江戸無血開城
06/12/27 21:13:46
徳川幕府が崩壊した時、果たしてどれほどの幕臣旗本・御家人が、
西南雄藩の組織する官軍に抵抗しただろうか。
勝海舟などは、自ら徳川幕府が滅びるように、江戸城の城門を開け、
官軍を進んで誘い入れたではないか。
一言で、「江戸無血開城」というが、幕臣側から見れば、要するに
体裁の良い裏切りであった。そして幕臣・旗本・御家人の中で、
官軍に抵抗した集団は、新撰組くらいなものであった。
旗本・御家人によって組織された上野の山の「彰義隊」など、
たったの半日で組織抵抗を辞めている。
後の幕臣連中は、むしろ抵抗するより、積極的に滅ぼす側に廻って、
官軍の侵入を容易にし、時代の移り変わりに敏感に立ち回って、
ちゃっかり便乗して、明治新政府に就職の場を求めたのではなかっ
たか。
291:武士とやらにフェアプレーを常とする公平さはない
06/12/27 21:16:17
忠臣蔵とか新撰組の事を調べていると、
とてもじゃないが武士とやらにフェアプレーを常とする公平さはないよな。
是は宮本武蔵にも言えるが。
忠臣蔵のあだ討ち方って言わば西洋的決闘のような、
自らも死ぬ危険性を冒してスポーツのように自らと相手が公平な状態で
正々堂々戦うような方法ではないよな。
相手の寝静まった所を徒党を組んで虐殺する。
是は新撰組でも言えるが、酔っ払った所を切り殺したり
相手の寝ている所を切り殺したり卑怯なやり方が多すぎ。
るろうに剣心を見ていると、やたらと武士や侍が美化されていると言える。
武蔵も小次郎との決闘の際にはわざと遅刻したり
無礼・ルール違反のような戦い方を常としている。
生麦事件の際には外国人を切り殺しておきながら
犯人の引渡しには応じないわ、とてもじゃないが反省しているとすら思えん。
292:『忠臣蔵』は美しいか
06/12/27 21:17:58
かれらは本当に「忠臣」だったのだろうか。
「葉隠」流の武士道から云えば、家臣たちは藩主の弟を立て
て藩の再興を願い出るなど、もっての外のことである。
忠誠は前藩主に対してのみ捧げられるべきであろう。
藩再興の道が閉ざされた時、かれらは復讐の挙に出た。
しかも切腹せず、幕府の判断を待った。なお藩再興に賭けて
いたのではなかったか。
大仏次郎は「赤穂浪士」を書いた。そこには旧家臣たちは、
忠臣ではなく浪士ではなかったか、という問題提起がある。
293:赤穂浪士の処分
06/12/27 21:28:23
幕府は赤穂浪士の処分を検討した。
政治家だけではなく、知識人(儒学者)の意見も聞いた。
室鳩巣・林信篤・伊藤東涯・浅見絅斎(あさみけいさい)らは赤穂浪士の行動を絶賛した。
「赤穂浪士は主君の敵を見事に討ち果たした。これこそ義の神髄である。なにとぞ寛大なお裁きを」
が、荻生徂徠・太宰春台・佐藤直方(さとうなおかた)らは断固反論した。
「赤穂浪士は幕府の処分に対して見事に反抗してくれた。これこそ愚の骨頂である。なにとぞ厳格なお裁きを」
294:復讐物語
06/12/27 21:32:31
「忠臣蔵」、「モンテ・クリスト伯」などの復讐物語は根強い人気をもっているのは何故か
暴力の当事者意識に迫ってみれば、「報復は報復を呼ぶ」
などと軽々と口にしてもスローガン、空語になってしまう。
この宿題はあまりに重い。
やられたらやり返すという人間的な情念
295:吉良君は従四位上・少将
06/12/27 21:40:07
吉良君は江戸城勤務の公務員でした。仕事の内容は,お城の中で
行われる各種行事の礼儀作法を指導,その責任者のようなことを
していたのです。年俸(給料)はあれこれ手当を含めて6,000
石弱の旗本クラス。こんな程度の年俸だったのですが,
従四位上・少将という高い位をもらっていた。
それで浅野内匠頭(たくみのかみ)君はどうかと言うと,
年俸が50,000石だから,吉良君なんてまったく目じゃない。
当時は年俸が身分の上下のおおよその判断材料だったからね。
ところが,位はというと従五位下という,吉良君よりもずっと
下の位だったのですね。滋賀県の彦根出身のあの大老にまでな
った井伊直弼君だって25万石でしたが,従四位下。
やはり吉良君の方が地位が上なのです。
296:日本@名無史さん
06/12/27 21:40:10
>>37
ワンサイドゲームの理由は、寒さと寝起きで身体が満足に動かなかった事、
完全な奇襲となった事による精神的ショック、浪士が完全武装していた事の三点だな。
仮に吉良側が手ぐすね引いて待っていた場合、
その情報を得た浪士たちは邸内に斬り込む以外の方法を考えるんじゃないんだろうか。
隠居の身とは言え外出はせざるを得ないだろうし、その際の護衛は浪士より多い事は無い。
桜田門外で水戸浪士が大老の井伊を斬ったように、外出中を襲うのが順当じゃないかな。
297:事件のニュースです
06/12/27 21:42:00
事件のニュースです。
12月14日から15日の未明にかけて、東京は隅田川沿いの民家を
複数の男が侵入し、抵抗した同家の住人を多数殺傷するという事
件が発生しました。実行犯らは警備当局に出頭、「我らの指導者
の死をもたらせた者への報復である」と主張しており、彼らは政
治的な意図のもとに同家の主人の暗殺を図ったものと思われます。
…もし元禄15年に報道番組があればこういう風に報じたんだろう。
298:日本@名無史さん
06/12/27 21:45:35
もちろん、暴力団の抗争事件として処理されます。
299:劇場型テロの嚆矢
06/12/27 21:51:28
日本における劇場型テロの嚆矢だ・・・というのは置いといてマジレス。
「過去の戦訓」
帯と併せて鎖を使って装束を結えていたが、ある赤穂藩士が不審者と
立ち会った際に帯を切られてしまい動きが阻害された事例から、
考え出した対策らしい。
戦力の遂次投入の回避といい、機密コントロールといい、お手本だね。
メディアコントロールも完璧だ。
ビンラディンが忠臣蔵を愛読していてもおかしくないかも
300:日本@名無史さん
06/12/27 22:27:58
>289、290
その手の変わり身をいうなら
昭和のA新聞なんか凄いぞ。
軍部や政府が青ざめるような鬼畜米英討つべし戦意扇動キャンペーン。
それが1945年8月を境に”平和マンセー。日本軍国主義は絶対悪でした”
301:日本@名無史さん
06/12/27 23:57:46
>>283ー296
長文乙
「武士道と云は、死ぬ事と見付けたり」と言われても泰平の世の中ではやってらんなかったんだろう。
幕末の志士は初期はともかく中期は狂気テロリストだし、
新選組は特別治安組織お抱えの対テロ実行部隊。
その活動の綺麗汚いは自己完結していて、
姦臣汚吏(仲間内で定義する)を殺す行為に意義を見出だしていた。
新選組はテロリストを捕縛ないし殺すことが仕事であり、綺麗汚いは関係無かった。
302:テロリズムには断固反対
06/12/28 21:57:13
どうも私は「忠臣蔵」が苦手です。どんなに脚色したって、
所詮は大の男が47人も集まって、お年寄り一人をリンチにかけ
るお話でしょう?どこが面白いんですか?バカ殿の家臣になって
しまった不運に同情はするけど、テロリズムには断固反対。
303:映画 赤穂城断絶
06/12/28 21:59:57
私見では一番悪い奴は浅野内匠頭だ。こいつにもうちょいと思慮
分別というものがあったら、あんな悲劇にはならなかった。
この作品では西郷輝彦が演じ、「刃先三寸の差で、吉良を殺せな
かったのが、唯一の無念」などと、確信犯的なことを悔しそうに言う。
西郷の芝居は迫力あるけど、これって無茶苦茶なテロリズムの正当化。
吉良上野介(金子信雄)はいかにも憎憎しげな悪役だけど、
それはタリバンを悪役にして無実の人々を殺しまくったアメリカ
の情報操作と同一レベルだ。
「吉良を討とう」と大石内蔵助(萬屋錦之介)が言うと、赤穂城
に集まった家臣達が、いっせいに身を乗り出す。ピタッとあまり
に同時なので、なんかファシズムを感じて、私は引いてしまった。
ついでに言うと、殿様の時世の歌を聞いて、家臣たちがこれまた
一斉に泣き出すのにも、辟易したな。でも、この映画はこういう
「ピタッ」とか「一斉」ということに、非常に力を入れた絵作り
をしている。ひれ伏したり、おじぎしたり、顔を上げたり、
という複数の人々の仕草が、まるでシンクロナイズド・スイミン
グか北朝鮮のマスゲームみたいだ。ある意味とても美しいけど、
ちょっとファッショが入っている。脳みそ持ってるんなら、もっ
と自分の頭で考えろよ、といらだたしかった。
304:時代背景
06/12/28 22:18:06
時代背景
1680(延宝8)年、徳川綱吉(父は徳川家光。35歳)は5代将軍となった。
1657(明暦3)年、明暦の大火が発生し、江戸城を再建したことにより、幕府財政はひっ迫していたところに、綱吉は、母桂昌院の願いで、護国寺を建立、
湯島に聖堂を建立するために、膨大な予算を注入したのだった。これを請け負った豪商が、元禄繚乱に花を開かせたのである。
1685(貞享2)年、生類憐みの令が出され、人の命より、蚊の命が重視される時代に、庶民の不満が高揚していたのである。
1695(元禄8)年、勘定吟味役の荻原重秀は、貨幣改鋳によって500万両を得た結果、猛烈なインフレがおこり、庶民の不満の高揚に、更に拍車をかけたのだった。
この6年後に刃傷事件が起きた
305:日本@名無史さん
06/12/29 09:43:44
>>301
新撰組ってそもそもの成り立ちが現代で言えば警察が弱体化したら
仕方なく暴走族を警察の嘱託に雇ったって感じだから、
そりゃあきれいとか汚いって概念自体ないよな。
赤穂浪士は無理心中組(多分大石あたり)や、商腹組だから
きれいもとか汚いとかそんなこと言っている余裕なんてない。
306:日本@名無史さん
06/12/29 09:49:51
本当に裁定に不満があったのなら幕府に対するテロを仕掛けるはずで、
そうしなかったのは名をあげて子孫の栄達を図ろうっていう計算高い商腹的発想でしょう。
なかには自分自身が栄達できると思っていた甘ちゃんも混じっていただろうし。
あとは将来に絶望して吉良を自殺の道連れにしようとしたやつとか。
それも徒党を組まなきゃ何もできないへたれ集団。
とにかく不純で汚い連中の集まり。
その人間にの弱さに焦点をあてるならともかく、褒め称えるなんて馬鹿じゃないの。
307:日本@名無史さん
06/12/29 12:11:16
討ち入りに参加した人間を分けると
御家再興派の自暴自棄・・・大石ら代々仕えていた国元組
名を上げようとする就活組・・・堀部など新規お抱えの江戸組
浅野の恋人組・・・片岡など江戸の側近組
その他
堀部の君父の讐は自己PR以外何物でもない。
308:日本@名無史さん
06/12/30 07:44:41
討ち入りに参加した者に、譜代の家臣が少なく、新参者が多かったことについては、
譜代の家臣の立場からの「我々は先祖以来累代に亘ってお家にお仕えしてきたのに
殿は身勝手にもお家を潰すような愚かな真似をなされた。これ以上は付き合えん」という
理屈があり、その理屈が武家社会においては割と通用する一方、新参者に対しては、
「浪々の身からお引き上げくだされた殿に、身命を賭してお仕えするのは当然」という
ある種プレッシャーのようなものが掛かったのではないだろうか。
309:日本@名無史さん
06/12/30 09:59:39
江戸詰めの者で身分の高いものは参加していないから、「気がおかしくなってる」
って実感があったのだろうな。
切腹には疑念をもっただろうが、「吉良を恨むのは筋違い」って明確に判断できた。
吉良家は上杉家を介して紀州徳川家と縁戚関係にあったから、裁定の早さが吉良
への逆恨みを助長してしまった悲劇だ
本国へは風聞と下級武士の偏った報告しか行ってないから、(上役同士の文書の
やり取りでは、乱心について知らされていたと思うが、江戸家老の責任問題も絡ん
で公にはならないだろう)不公平で火急過ぎる裁定への不満は募る。
浅野家再興を前提にしていたから、幕府を攻撃対象に出来ない一面もあり、吉良に
嫌な役が回ってしまった。
大石自身は、吉良を討つことの理不尽を理解したうえで、「幕府の理不尽な裁定が
新たな悲劇を作った」形にしたのだろう。
世間が仇討ちを期待する方向にあったから、それを実行したほうが浅野家旧臣の
行く末にも良いとの考えもあったかと思う。
310:日本@名無史さん
06/12/30 16:36:57
浅野内匠頭は名君であり夫として瑤泉院を深く愛した人
大石内蔵助は赤穂を支えた筆頭家老で内匠頭の無念を晴らした忠臣
吉良上野介は江戸期を代表する賄賂野郎!浅野内匠頭を貶めようとした悪党!
名君の誉れ高い浅野内匠頭の我慢の限界を超すほど陰険に苛め抜いたんだから殺されて当然!
英雄視すべき名君や忠臣を狂人やテロリスト呼ばわりして何が楽しいんだか。
311:日本@名無史さん
06/12/30 22:04:16
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| X_入__ノ ミ そんな餌で俺様が釣られクマ―
、 (_/ ノ /⌒l
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\___)___)(´;;⌒ (´⌒;; ズザザザ
312:日本@名無史さん
06/12/31 01:38:19
>>310は赤穂の土産物屋の生活を懸けた反撃です。
313:日本@名無史さん
06/12/31 05:02:46
江戸時代の「仇討ち」を誤解してるから、浪士=義士という発想になるんだろう。
前にも出たが、吉良上野介が浅野内匠頭を殺した訳じゃない。
これだけでも、討ち入りは「仇討ち」に相当しない。
また敵の方にも「返り討ち」の権利がある。ちゃんと名乗って基本的にはタイマン(助太刀にも許可がいる)。
だから、徒党を組んで不意打ちは「仇討ち」に相当しない。
討ち入り後、改易された「吉良家」の方が哀れだ。今度は「両成敗」って事で処分されてしまったからな。
でも、あの場合どう考えても戦うしかないだろう。
トチクルった殿様と逆恨み浪士、吉良家もトンデモな連中と係わったもんだ。
314:日本@名無史さん
06/12/31 13:47:01
日本最初の劇場型犯罪
315:日本@名無史さん
06/12/31 13:51:22
>>312
案外泉岳寺周辺の土産物屋かもw
あそこの視界を遮るほどの線香の煙は害基地的だ
アレが切れやすい殿様と就活のためのテロ集団と認知されれば誰も行かないだろう。
>>313
吉良の現当主(孫)が逃げたとも果敢に立ち向かったとも言われているな。
どっちにしろ改易は可哀相だ。
316:日本@名無史さん
06/12/31 15:10:28
これこれ浅野は名君ですよ。
切腹の際も取り乱したり
未練がましく赤穂藩の行く末を案じたりすることなく
何もなかったように湯漬けを食べておかわりし
煙草と酒を要求したのです。
赤穂の領民も殿様の遺徳を大いに惜しんで
もちをつき赤飯を炊いたのです。
317:日本@名無史さん
06/12/31 15:32:05
浅野は姦国
318:赤穂浪士を食い物にした
06/12/31 19:50:23
赤穂浪士を食い物にしたのは何も広岳院の坊主だけではない。
泉岳寺でも文化五年三月には大阪の天王寺まで出張して、
入場料を取って赤穂浪士遺品展の御開帳をやり、
文政二年になると亀田鵬斉なる儒者が、
自分が書いた碑文の石刷りというのを何百枚も売りまくってぼ
ろ儲けをしたという。
石刷りでさえ好事家には値良く売れるものならばと、
泉岳寺でも当時の和尚が、(義士の遺品)として見せていた物を一品残らず、
求められる儘に売り払ってしまって、
それで今日の寺門を建立したのだという。
319:浅野内匠頭
06/12/31 20:23:19
赤穂浅野家に栄光あれ! 吉良に死を!
320:100本以上の映画
06/12/31 21:22:52
映画は、明治時代(1868~1912)の頃から現在にいたるまで、
100本以上の映画が作られています。かつて映画界には「企画に
困ったら忠臣蔵」という言い方があったといいます。
忠臣蔵映画は、作れば必ずヒットすると言われるほど国民的な
人気があります。「自らの命を賭して主君の名誉を守った」英
雄たちのストーリーが、日本人の好みにぴったり合ったことは
もちろん、登場人物が多彩で、映画として見せ場が作りやすい
ことも一因だったようです。各映画会社は、忠臣蔵映画をたく
さんの人気俳優を投入できるオールスター作品として位置づけ
て制作し、日本の国民はなじみの深い物語を、豪華な顔ぶれの
映画として楽しんできました。
321:朝日新聞 12月14日
06/12/31 21:33:17
朝日新聞 12月14日
「義士を褒める 感覚わからぬ」翻訳業 一色 テリー 横浜市中区 75歳
年末になると、多くの日本人は「忠臣蔵」を思い起こして、四十七士をほめたたえる。
私は幼時、父が商社勤めだったので米国で暮らし、戦後も日本の大学を卒業後、
米国の大学に学んだ。現在も仕事柄、外国人との付き合いが多く、彼らと話す中で、
少年期はいい話と思った忠臣蔵に疑問を持つようになった。
武士として耐え難いイメージがあったとはいえ、勅使饗応役という名誉ある公務より、
私憤を晴らすことを優先した浅野内匠頭。この無責任さに激怒した将軍が、
内匠頭を切腹させた気持ちはよく分かる。
無抵抗な老人を追い回して傷つけた内匠頭は、武士の風上にも置けない卑怯者。
一方、場内での抜刀を禁ずるルールを死守して抵抗を控えた吉良上野介は、武士の鑑といえる。
赤穂藩の「喧嘩両成敗」の要求は、お門違いと言わなくてはならない。数年前に見た映画に、
赤穂上の明け渡しの当否を決める大広間で下級藩士が
「短気なお殿様のせいで藩が取り潰され、多くの家臣と家族が路頭に迷うことになった」と
愚痴るシーンがあり、このせりふに胸がつぶれる思いがした。
大石内蔵助らの行動も、徒党を組んでの大量殺人。義士などと誉めそやす日本人一般の感覚は、
外国人には理解できない。敵討ちという「美挙」ではなく、逆恨みの「愚挙」だからだ。
322:赤穂浪士四十七士一覧表
06/12/31 21:44:02
氏名 諱 藩職 禄高 生年 享年 部隊 お預け先 家族
大石内蔵助 良雄 家老 1500石 1659年 45 表門 細川家
大石主税 良金 部屋住み 1688年 16 裏門 松平家 父は大石内蔵助
吉田忠左衛門 兼亮 加東郡代・足軽頭 200石役料50石 1641年 63 裏門 細川家
吉田沢右衛門 兼定 中小姓近習 13両3人扶持 1675年 29 表門 毛利家 父は吉田忠左衛門
原 惣右衛門 元辰 足軽頭・鉄砲頭 300石 1648年 56 表門 細川家
片岡源五右衛門 高房 側用人・小姓頭 350石 1667年 37 表門 細川家
間瀬久太夫 正明 目付 200石 1641年 63 表門 細川家
間瀬孫九郎 正辰 部屋住み 1681年 23 裏門 水野家 父は間瀬久太夫
小野寺十内 秀和 京都留守居役 150石役料70石 1643年 61 裏門 細川家
小野寺幸右衛門 秀富 部屋住み 1676年 28 表門 毛利家 養父は小野寺十内
間 喜兵衛 光延 馬廻・勝手方吟味役 100石 1635年 69 裏門 細川家
間 十次郎 光興 部屋住み 1678年 26 表門 水野家 父は間 喜兵衛
間 新六 光風 部屋住み 1680年 24 裏門 毛利家 父は間 喜兵衛
堀部弥兵衛 金丸 元江戸留守居役 300石隠居料20石 1627年 77 表門 細川家
堀部安兵衛 武傭 馬廻・江戸留守居役 200石 1670年 34 裏門 松平家 養父は堀部弥兵衛
礒貝十郎左衛門 正久 物頭・側用人 150石 1679年 25 裏門 細川家
近松勘六 行重 馬廻 250石 1670年 34 表門 細川家 弟は奥田貞右衛門
冨森助右衛門 正因 馬廻・使番・江戸詰 200石 1670年 34 表門 細川家
潮田又之丞 高教 郡奉行・国絵図奉行 200石 1669年 35 裏門 細川家
早水藤左衛門 満堯 馬廻 150石 1664年 40 表門 細川家
323:赤穂浪士四十七士一覧表
06/12/31 21:45:32
奥田孫太夫 重盛 武具奉行・江戸詰 150石 1647年 57 表門 細川家
奥田貞右衛門 行高 加東郡勘定方 9石3人扶持 1678年 26 裏門 水野家 義父は奥田孫太夫
矢田五郎右衛門 助武 馬廻・江戸詰 150石 1675年 29 表門 細川家
菅谷半之丞 政利 馬廻・郡代 100石 1660年 44 裏門 松平家
大石瀬左衛門 信清 馬廻 150石 1677年 27 裏門 細川家
赤埴源蔵 重賢 馬廻・江戸詰 200石 1669年 35 裏門 細川家
千馬三郎兵衛 光忠 馬廻・宗門改 100石→30石に 1653年 51 裏門 松平家
中村勘助 正辰 馬廻・祐筆頭 100石 1656年 48 裏門 松平家
木村岡右衛門 貞行 馬廻・絵図奉行 150石 1658年 46 裏門 松平家
不破数右衛門 正種 元馬廻・浜辺奉行 元100石 1670年 34 裏門 松平家
岡野金右衛門 包秀 部屋住み 1680年 24 表門 松平家 伯父は小野寺十内
岡島八十右衛門 常樹 札座勘定奉行 20石5人扶持 1666年 38 表門 毛利家 兄は原 惣右衛門
武林唯七 隆重 馬廻・中小姓近習 15両3人扶持 1672年 32 表門 毛利家
貝賀弥左衛門 友信 中小姓近習・蔵奉行 2石10両3人扶持 1650年 54 表門 松平家 兄は吉田忠左衛門
大高源五 忠雄 金奉行・膳番元方・
腰物方 20石5人扶持 1672年 32 表門 松平家 弟は小野寺幸右衛門
倉橋伝助 武幸 扶持奉行・中小姓・
江戸詰 20石5人扶持 1670年 34 裏門 毛利家