08/03/19 10:51:36
対佐竹戦では太田・梶原・真壁・多賀谷ら対北条戦用の佐竹一軍ではなく奥州方面佐竹二軍に大苦戦w
もともと最上は伊達に従属してた弱大名で義守は伊達の傀儡。
小さい山形居館3万石→小田原参陣のとき義光は直前に没した父・義守の葬儀のため政宗より遅参したのに24万石安堵
関が原後→最上五十七万石
政宗ショック涙目w
蒲生秀行
宇都宮12万石→関が原戦後に会津へ帰還して60万石
政宗ショック涙目w
下総結城家の関ヶ原は何もやってないのに10万石→75万石に政宗ショック涙目w
葦名家は世継ぎが3代続けて早世し求心力がなくなっており内部では伊達出身の正室を中心とした伊達派・佐竹派に分裂して抗争中し弱体化してた。
伊達は1万以上の兵力差で圧勝が予想されたが実際に戦い始めたら
摺上原では芦名の先方たる富田隆実軍に押されまくられた片倉・原田・猪苗代の伊達隊は敗走し早くも陣形が崩壊し始めた。
この好機を逃さず若干14歳の芦名義広と旗本700騎が突撃。
なぜ当主自ら突撃したのかと言えば芦名軍はすでに戦う前から瓦解してて富田美作も佐瀬河内らも両翼は戦わず傍観。
それでも富田隆美は政宗本陣に切り込む活躍を見せて義広も突撃を敢行。
この時に風向きが変わらなければ政宗は討ち死にし芦名勝利確実だった。
政宗生涯のうち唯一の勝利となったこの戦いも風向きの変化によって芦名軍兵の目に砂ぼこりが入って目が開けられなかったから辛勝しただけ。
よって東北最弱が伊達と決定。